2015年2月22日日曜日

四旬節第1主日

四旬節に入り最初の主日を迎え、私たち共同体にとって大変喜ばしい、新たに洗礼を希望される方の洗礼志願式が行われました。




後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『四旬節に入り最初の主日を迎え、私たち共同体にとって大変喜ばしい、新たに洗礼を希望される方が入ってきてくださいました。昨日は教区においても、大きな喜びの儀式がこの教会で行われました。札幌教区の4人の神学生の一人、蓑島神学生が助祭司祭候補者に認定され新しいスタートを切っています。今日の侍者の奉仕をしてくださっている佐久間神学生は、3月7日に朗読奉仕者としての選任式を、また今日はみえていませんが佐藤神学生は助祭叙階式を迎えようとしています。神学生のために私たちは祈りで支えていかなければと思っています。
先週の灰の水曜日から四旬節を迎えました。一緒に四旬節の精神を思い起こしたいと思います。灰は皆さまもご存知のとおりですが、今皆さんは灰にどのようなイメージをお持ちでしょうか?灰は旧約聖書の中で何度も登場してきます。罪の清めのために動物を捧げなければならなかった旧約時代、捧げられた生贄は焼却し、煙を天にまで上げるという儀式がありました。焼き尽くされた生贄は灰にまでなり、その灰は価値の無いものの代名詞となりました。人間はその灰を見て無念さを感じます。灰はそのようにして、罪のつながりから、むなしい価値の無い土に帰ってしまうもの、というイメージが作られていきました。同時にその思いは、謙虚さ、悔恨の情を表すしるしともなっていきました。犠牲によって罪が贖われるという長い宗教の伝統習慣によって、人々は罪をおかす度に、犠牲を捧げて罪を悔い改めるという新しい出発をしていました。
罪が贖われることは、信仰者にとって何よりも大切なことです。清い心を取り戻し、再出発をするためには、そのことが繰り返し信仰の歴史の中で聖書をとおして見つめることができます。そうした精神は、現代の四旬節の精神に受け継がれてきています。四旬節の意義と重要な精神は、イエスの道を思い起こしながら主イエスと共に歩むことが大切です。そして、共に歩み神に立ち返ることを目的とするならば、罪深い私たちは悔い改めをもって、新しい出発をしていかなければなりません。主の過ぎ越しを祝いながら、私たちをその過ぎ越しの命に与からせるその目的のために、この四旬節の精神は今私たちにとって求められていることでもあります。』

2015年2月21日土曜日

司祭・助祭候補者認定式

神学生のボナヴェントゥラ簑島克哉さん(帯広教会)の司祭・助祭候補者認定式ミサが、2月21日(土)11時から、カトリック北一条教会聖堂で勝谷太治司教様と11名の司祭の司式により執り行われました。


勝谷司教様はお説教の中で、
「一歩づつ神の国の実現に向けて努力を続けていきましょう、そして皆さんの祈りによって蓑島さんの歩みを支えていってください。」というお話をされました。

認定式にのぞむ蓑島神学生




無事認定式を終え花束を受け取られた蓑島さんからは、今日の日を迎えた喜びと感謝の言葉がありました。


蓑島さんは、この4月から神学科1年生として福岡キャンパスに学びの場を移られます。

3月7日(土)は、佐藤神学生の助祭叙階式と佐久間神学生の朗読奉仕者選任式が函館宮前町教会で行われます。北一条教会からも35名がツアーでミサに与かる予定です。

灰の水曜日

午後6時半から「灰の式」が行われました。
平日に夜にもかかわらず、多くの方が悔い改めの心を胸に聖堂に集まりました。
ミサを司式された後藤神父様と新海神父様から「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と額に灰を受けました。



後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の天気は穏やかで、灰の儀式にも来られやすかったのではと思います。
灰の儀式は、四旬節の精神が特に表されています。集会祈願でもお祈りしたように悔い改めの精神を大切に、謙遜な心を取り戻し四旬節を迎えたいと思います。
40数年前の頃を思い出すと、信徒の会話などをみても、灰の水曜日の迎え方が今とは違っていたことを感じます。
今の時代、私たちは「灰の水曜日」にどんな犠牲を払おうとしているのでしょうか?
私も一信徒であったころ、「灰の水曜日」に犠牲と善行の誓いを立てるのですが、大体は三日もたてば、志が崩れてしまったものです。当時の神父様からは、「誓いは、むやみにたてるものではない、と聖書にも書いてある」と言われた記憶があります。
そんな弱い私たちですが、神様はその決心を大事にしてくださっています。
古来から、灰はちりと関係付けられ、人間の罪と儚さを表すものでした。
私たちの罪は、どこから来るのでしょう?
人は誰もが無垢な裸の状態でこの世に生を受けます。しかし、やがて成長するにつれ、自尊心が芽生え、富を追求し、傲慢さや虚栄心を身につけていきます。
ちりから生まれ、ちりに帰ることを忘れると、過ちに陥ることになります。
救いのためにイエスを遣わした慈しみの父である神が新たな恵みで私たちを満たし、神に立ち帰り悔い改めの道を歩み続けることができるよう祈りましょう。』

2015年2月15日日曜日

年間第6主日

今日の第6主日で年間の季節は前半が終わることになります。
今週の「灰の水曜日」から、四旬節に入ります。

今日の福音(マルコ1・40-45)では、重い皮膚病の人を清められたイエス様の姿をとおして、苦しむ人々に手を差し延べるイエス様の優しさと深い憐れみにふれることができます。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日で年間の季節の前半が終わることになります。
この6週間を少し振り返ってみたいと思います。
今年は、マルコ福音書が読まれるB年になります。
途中、ヨハネ福音書が朗読されましたが、その後からは4週間続けてマルコ福音書の第1章が読まれてきました。
これまで朗読されたマルコ福音書を少し振り返ってみます。
最初、ヨハネから洗礼を受けるイエスの場面が語れました。それは「主の洗礼」の祝日のときでした。洗礼を受けたイエスはすぐ霊に導かれて、荒野に入りました。その荒野では悪魔から誘惑を受けました。荒野で悪魔の誘惑を退けたイエスは、「神の国は近い。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、神の福音をのべ伝えるためにガリラヤに行かれたと聖書は伝えます。そして、ガリラヤ湖畔に赴いて弟子たちと出会います。その後カファルナウムという当時としては比較的大きな街の会堂に入って、そこで初めて公に教えることになりました。その会堂には悪霊に憑かれた人がいて、イエスはその人を癒すことになりました。イエスの教えに耳を傾けた人も、また病気を癒すイエスの業を見た人も非常に驚き、その評判はたちまち拡がっていきます。会堂を出て、イエスはペトロの姑が熱を出して寝ているということを聞き、ペトロの家に向かいました。ペトロの姑もイエスによって癒しを受けます。姑をはじめ多くの人の病気を癒されるイエスの姿がマルコ福音書の第1章で次から次へと語られていきます。また、朝早く起きて祈る姿を弟子たちに示したイエスでした。
病気というのは、生きるものの宿命でもあり、本人はもとよりその家族も苦しみます。今日、聖書に出てくる病気は、重い皮膚病という言葉で表されていますが、ハンセン病、らい病のことだったといわれています。この病気に罹った人たちは街や村から追い出される、また家族からも切り離される、そういう状況が当時はありました。日本でも同じようなことがありました。聖書の中ではその病気に罹った人たちは、街に入るためには、大きな声で、「自分は汚れている、近寄らないでください」叫び、人々を遠ざけなければなりませんでした。街の人々はその病気の人を見ると、戸を閉めたり、通り過ぎるまで待つということが起こっていました。病気の人にとって、人々から社会からも見捨てられ、切り離されたことになりました。さらに家族からも切り離されてしまうという現実もあったのです。今日の福音に出てくる人も孤独と絶望の中で生きています。そして最後の頼みとしてイエスの元にやってきます。愛の体験を失っている人、苦しむ人に手を差し延べるイエスの姿、イエスのその心は、誰にとっても救いがそこにありました。イエスがいつも病人に手を伸べ触れるという姿を黙想するとき、まさに、イエスの優しさ、救いというものを感じることができます。イエスの福音宣教はこのようにして、神の愛を知らせること、そして一人一人の中に、その愛を実感させることでした。奇跡というのは、救い主としてのしるしであり、神の業を示す何ものでもありません。
イエスの深く憐れむ心を、もう一度心に留めて、私たちの人との交わり、病人や苦しんでいる人たちに接する心を大切にしたいと思います。』

御ミサの後、典礼部では、昨年の「枝の主日」でお配りした棕櫚の枝を回収して燃やし灰にしました。この灰は今週の水曜日に行われる「灰の式」で使われます。



2015年2月8日日曜日

年間第5主日

札幌では先週の木曜日から「雪まつり」が行われていますが、午前中のうちから季節はずれの雨が降ってきて、せっかくの雪像も溶けてしまうのでないかと心配になります。

今週の11日(水)は、「第23回 世界病者の日」です。教皇フランシスコはヨブ記「わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった」(ヨブ記29・15)をテーマにメッセージを送られています。↓
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/sick/15sick.htm

今日の主日ミサは、後藤神父様と新海神父様の共同司式により行われました。



後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の福音朗読では、イエスがペトロとアンデレの兄弟の家に行き、弟子たちの前で病気の母をいやし、さらにイエスの行った奇跡を知り集まってきた病気の人々をいやした出来事が描かれています。恐らく、弟子たちはそれまで、イエスのことをまだ「神の子」、「救い主」とは十分には理解できていなかったことでしょう。この奇跡を間近で目にした彼らの心は一体どのようなものだったのか?神の業として彼らの心に深く刻まれたことでしょう。当時の人々の考えは、「病気」は罪の結果であり罰であるというものでした。イエスから病気をいやされた人々は、神様から罪を赦されたと感じたのではないでしょうか?
イエスの行ったこの業は、イエス自身が神の子であり、救い主であるということを証することにつながっていきます。同時に、人々が集まったペトロの家は、ある意味では教会という姿を表すものであるかもしれません。
イエスは疲労困憊し、ペトロの家で一晩過ごしますが、まだ夜が明けきらないうちに、人気のない寂しいところで一人祈っていたと聖書は伝えています。そのイエスの姿は、祈りによって父なる神と交わり、祈りによって活動の力を得ていたということが私たちに示されます。その姿は、病気の人、貧しい人に寄り添ったマザーテレサを思い起こさせます。
祈りによって全てを考え、祈りによって全てを始める、これは私たちの信仰生活の中においても大切にされなければならないことです。
イエスの姿に習いながら、私たちの信仰も強め成長させていかなければならないと思います。
今週の2月11日は「世界病者の日」です。教皇フランシスコはヨブ記「わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった」(ヨブ記29・15)をテーマにメッセージを送られています。その中の祈りをご紹介します。
「知恵の座であるマリアよ、病気で苦しむすべての人々と彼らを介護する人々のために、わたしたちの母として執り成してください。苦しんでいる隣人に奉仕することを通して、また苦しみの体験そのものを通して、わたしたちが真の心の知恵を受け入れ、育むことができますように。」
私たち自身も病者に寄り添うことができるように、手を差しのべる心を豊にしていくことができるように祈りましょう。』

御ミサの後、教会敷地の「雪割り」を行いました。
季節はずれの雨の中、皆さん大変お疲れ様でした。
作業の後、B地区の皆さんが用意していただいた豚汁をおいしくいただきました。
有難うございました!おいしかったです。




2015年2月1日日曜日

年間第4主日

今日のマルコの福音(マルコ1・21-28)では、カファルナウムの会堂でのイエスの福音宣教の始まりが語られます。イエスの出会う人々へのひたむきな愛の姿をとおして、私たちの信仰を見つめ直しましょう。

ジャーナリスト後藤健二さん殺害のニュースが流れました。
私たちは、後藤さんの開放と、彼の地で起きている様々な争いの解決を祈ってきました。
人類の歴史は争いの歴史と言われます。人類は過去に様々な地で争いを繰り返し、多くの生命と財産を消失してきました。それによって文明を発達させてきたことも事実ですが、、、教皇フランシスコによる世界平和の日のメッセージを読んでから、僅か1ヶ月の出来事です。あらためて世界平和について祈ります。
今日の集会祈願
「人々を回心へと導かれる神よ、御子キリストは悪を退け、限りない救いの力を示して下さいました。きょう一つに集まって神をたたえるすべての人に、聖霊の力強い息吹を注いで下さい。」


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『年間第2主日の今日、みことばを聞いて、イエスのどの様な姿を思い浮かべましたか?
今日のみことばには、イエスが弟子たちと一緒に宣教の旅に出掛けた時の様子が描かれています。ガリラヤ湖の北西、当時では比較的繁栄した街、カファルナウムでイエスは会堂に入り、神について語り、教え始めました。旅に出て始めて公の場で人に語られたと思います。それまで、長老たちは律法の伝承を守ることを中心に語っていましたが、イエスの教えは神からのメッセージとして人々に権威ある教えとして感じさせました。
イエスの噂を聞いて病気で苦しむ人々が大勢押し掛けて来ました。今日のみことばでも、精神が錯乱する病気に苦しむ人が登場し「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫ぶ様が記されています。病気の人のそうした発言が自分たちに向けられ弟子たちは驚いたでしょう。周囲の人たちは気づきませんでしたが、イエスが神の聖者であること、特別な存在であることを病気の人たちが宣言した訳です。イエスの存在は、病気の人たちの叫びにより、そこにいたすべての人に意識されました。不思議な出来事です、病気の人は癒されました。
イエスが語り始めると、人々はその教えに圧倒されます。ナザレの生活から一転し、洗礼を受け、聖霊をいただき、荒れ野で祈りをささげた時、イエスは変わりました。イエスの言葉に心を揺さぶられ、汚れた霊につかれた人々はその病から解放され、苦しみから癒されます、そこにイエスの権威が溢れています。慈愛に満ちた熱心な語らいが心を捉えます。
イエスの福音宣教の姿がみえます。
イエスの権威ある態度、力強い宣教の姿に対し、私たちはどうでしょうか?
時に私たちは、宣教にたじろぎ、自信をなくし、どうして良いかわからなくなり叫んでしまいます。大切なことを伝える一言にも力を失っている私たちがあります。
私たちは、家庭の中で父親の権威が亡くなったという話をします。子どもは叱ってくれる親に愛情を感じるはずですが、何でもゆるしたり、優しさだけでは、子どもは本当の親の愛情は理解できず、物足りなさを感じ、親の存在さえ見失ってしまいます。親は、昔も今も変わりなく愛情を持って接していると思いますが、親としての愛情に自信をなくす人が大勢います。子供と触れ合う実感を得られなくなった生活をしていませんか。私たちは触れ合う実感を持って接しているのでしょうか?父親だけでなく、社会に目を向ければ学校の先生も、政治家も、そして教会もと言えるかもしれません。信頼や、愛が薄れてしまっている現実があることに気がつかないのかもしれません。伝えるべき内容、中身がいったいどんなものか、イエスの宣教をする姿、イエスが語られた権威ある姿から、私たちは自分自身を見つめて行かなければなりません。そして、人と人との触れ合い、心と心が繋がる時、大きな影響をもたらすのではないかと思います。出会いを通して触れ合う人と人との関係に温もりがあり、安心や希望がおき、信頼にも深くつながって行く時、私たちの人間関係、そして親子の関係が深い愛情で繋がって行く気がします。語る言葉に誤魔化しや偽り、弁解があってはなりません、もしそちらが優先して行けば、相手にとっては空しいことばかりを感じる事になってしまいます。今日、私たちが聞いたイエスのみことば、イエスの姿から信じる人への直向きさをもう一度黙想したいと考えます。みことばをもう一度黙想しながら、イエスに目を向け、祈り、新しい一週間に歩みを進めて行きましょう。』


ミサが終わった後、侍者の子供たちが練習をしました。神父様の福音朗読随行の練習です。
順調に成長してます。温かく見守ってください。