2015年11月30日月曜日

待降節第1主日

教会暦では新しい年、そして待降節を迎えました。
教会ではこの日、降誕祭を迎えるための準備としてクリスマスツリー、馬小屋、アドベントクランツなどを設置しました。
今日のミサは元主任司祭の久保寺神父様が司式されました。神父様がこの教会で司式されるのは、北広島教会に移動されてから約2年半ぶりになります。
また、今日からミサの所作などの一部が変更になりました。





久保寺神父様のお説教をご紹介します。

『  待降節が始まり、今日がその第一主日です。待降節という神の到来、神が来られる。そのことを旧約聖書から神が来られる、ということは聖書の教えの大きな目的。聖書に書き記されている、伝えられているのは神の到来、そのことを知らせるものでした。
 神の到来、そのことには第一の到来と第二の到来、すなわち神が近づいてこられることには「ふたつ」があると言われています。
 第一の到来というのは、ご承知のようにすでに起こりました、救い主が世に来られる、神が人となって世に来られた、これが第一の到来です。この第一の到来を人々は降誕祭として、キリスト降誕の出来事として、聖書は喜びをもって書き表しました。救い主が来られ、ご誕生になってから人々に教えられたこと、そのことを新約聖書に書き記しました。
 そして新約聖書の終わりのところ、それは今、お聴きいただいたところ(ルカ福音書21章)ですが、そこに第二の到来についてのお話があります。その第二の到来を恐るべきものとして書き記され、その終わりのところには「人の子の前にしっかりと立って迎えることが出来るように、目を覚まし、祈りなさい。」と、そういう言葉で結ばれています。今日のこの福音は、第二の到来、それは今、私たちはいろいろな弱さや困難がありますが、それを乗り越え克服し、それらから解放されて、救い主をまことに迎えることになる。その第一の到来から第二の到来へ向かう間を、私たちは時を過ごしていますが、今日の第二の朗読(使徒パウロのテサロニケの教会への手紙)でお聴きのように、神がともに来てくださる、神とともに私たちは第二の到来に向かう日々を過ごしています。

 私たちは12月8日から「いつくしみの特別聖年」が始まります。神がともに歩んでくださる、その神が私たちとその時を過ごし、私たちを支えてくださることをこの一年をとおしてしっかりと思いおこそう、しっかりと神のいつくしみを心に留めましょう。そして、神が私たちとともに歩みますから、いつくしみを人々に伝えなさい、その喜びを人々と分かち合うことが出来るように、「いつくしみの特別聖年の大勅書」で語られました。
 私たちはともに歩み、分かち合い、喜び合いますが、時には戒め、自分のわがままを押し通して人を困らせたり、迷惑をかけたりすること、そういうことが無いわけでもありませんが、それらを私たちは悔い改めによって、回心によって、より良いものを見いだしていくすすめがキリストの教えのうちにはあるわけです。
 私たちは、日々キリストの教えを学びながら、聖書を紐解いて神の声に耳を傾け、待降節、救い主が降誕されたことの次第を、聖書を開いたり、その物語を思い起こしましょう。そして、神が私たちに近づいてくださること、ともに歩んでくださること、そのことを思いながら、私たち一人ひとりが互いにキリストの友とし、生きる友として、お互い手を取り合い、支え合い、戒め合い、またへりくだり、忍耐をしめすことが出来るよう歩み続けることが出来るよう、待降節の初めにあたり、神の恵みをお祈りしてまいりましょう。』

2015年11月29日日曜日

11月28日(土) 故 荒木関孝神父 1年命日祭ミサ

11:00から、 故 荒木関孝神父様の 1年命日祭ミサが勝谷司教の司式で行われました。
100名を超える方々がミサに与り、荒木関神父様を偲びました。



2015年11月22日日曜日

王であるキリスト

道北地方はかなりの積雪があったようですが、札幌はまだご覧のとおりです。
聖堂前の欅の葉は落ちきっていません。厳しい冬はこれからです。


典礼暦の1年は今日の「王であるキリスト」の週で終わり、来週の待降節から新しい1年が始まります。
ミサの後、いつくしみの特別聖年を控え、Sr.渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」を視聴しました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『「王であるキリスト」の祭日を迎えました。
この日曜日は、教会の典礼暦では最後の日曜日にあたります。来週の日曜日からは待降節という新しい一年に入ろうとしています。一年を振り返る時期が来たと言えるかもしれませんが、私自身も教会の典礼暦の一年を考えながら、この教会に赴任して1年半が過ぎたことを思い起こしたりもしています。この間に教会の周りの様相も大きく変わりました。幼稚園が新しくなり、古い園舎が昨年の秋に取り壊されました。さらに教会の敷地の隣には大きなマンションが建設されたりもしました。また、来年以降は司教館敷地の再開発が具体化されそうで、聖堂の前にある大きな欅の木はこれからどうなってしまうのかと、そんなことも考えてしまいます。
先日、教会の近くにお住いという未信者の方から電話があり、週一回、教会のお母さん方がお掃除の奉仕をしているのを見ていて、自分も奉仕させていただきたいという申し出をいただき大変うれしい思いをしました。この思いをぜひ皆さんと分かち合いたいと思いました。
さて、「王であるキリスト」の祭日を迎えて、イエスがローマ総督の前でご自分が王であることを宣言する箇所が読まれました。この聖書の箇所は受難の朗読の時も読まれていたことを皆さんは思い出すかと思います。
イエス・キリストという名前の意味について皆さんと一緒に学びたいと思います。イエス・キリストを姓名のように考えている方もおられるかもしれませんがそうではありません。イエスの時代には姓というものは無かったようです。聖書にも書かれているように「ナザレのイエス」とか「ヨゼフの子、イエス」という呼び方が当時の社会では一般的でした。
では、「キリスト」とは一体どのような意味を持っていたのでしょうか。キリストという言葉はギリシャ語で、ヘブライ語ではメシアと言います。どちらも教会の用語として現在は、救い主、救世主という訳され方をしています。しかし、元々は救世主という意味ではなかったと言われています。その語源を辿っていくと、”油を塗られたもの”という意味を持っています。聖書の中ではよく、王様になる人を「油を塗られて王になった」という表現が出てきます。「キリスト」は”油を塗られたもの”という意味を持ち、旧約の中では王様に与えられる称号として特別な呼び方として使われました。
今日祝う「王であるキリスト」の名称も、そうした由来から典礼上表現されていると考えられます。受難の朗読で読まれる十字架に磔にされたイエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王イエスである」という意味の言葉が十字架の上に書かれました。今でも十字架には、「I.N.R.I」という四つの頭文字が見ることができます。
教会では、キリストの三つの職務として、預言者、祭司、王職があると教えられています。ヨハネの福音の中では特に王としてのイエスがよく描かれているといわれます。
私たちは今日、「王であるキリスト」の祭日を迎えて、この一年の主日を終わろうとしていますが、私たちにとって王であるキリストは、どのような意味を持っているでしょうか?私たち一人一人が考えていってもいいと思います。王とキリストは、皆さんのイメージの中で重なるでしょうか?聖書の世界では「王であるキリスト」というのは、とても大きな意味合いを持っています。
私は一週間前にパリで起こったテロ事件を思い起こしながら、いろいろなことを黙想する時間を持っています。ヨーロッパの人々は、国というよりも民族という意識の方が強い人が多いように思います。よく政治の世界では、国益のために外交交渉を進めるという表現が使われます。今回のテロ事件の背景にある民族の考え方というものも、人間としては皆同じなのかなと考えます。自分たちの民族の利益のために、自分たちの国家や民族の勢力や権威、平和のために、という主張がどこの国にでもあるということがはっきりと見えてきます。そのような背景から民族の争いという観点で今回の事件を考えていくと、いつどこで何があってもおかしくはないという世界が今うごめいているということを感じます。この日本という国についても同じことが言えるのではないかと感じます。
難民に示された愛の手は偽りだったのでしょうか?そのようなことも昨日のニュースをみながら考えてしまいます。先進国であり経済的にも豊かなヨーロッパの国々は、難民に同情して受け入れなければならないという姿勢の国は少なくありません。しかし、いったん今回のようなテロ事件に遭遇した際に、自分たちの国に混乱を引き起こさないために、難民の受け入れを止めようとする動きが報道されています。
突然、悲惨な状況に巻き込まれてしまうと、そこにあった愛も変化してしまう、それが私たちの現実かもしれません。愛が突然、拒絶の行為に変わってしまうというのであれば、愛は一体何だったのだろうか、示された愛の手は一体どこから来ていたものだったのか、そんなことも考えてしまいます。
「王であるキリスト」、この世界を超えて、人間の救いのために、ただその真実のために、働かれる王でなければ、私たちの愛の世界、平和な世界はすぐにでも混乱に陥ってしまう気がします。誰もが死後の世界は苦しみのない平和な世界である神の国に入っていくことを願っています。神の国こそ差別のない平和な世界であってほしいという願いから、天国も神の国も私たちが想像している世界なんだと思います。変わることのない愛でなければ、その愛に包まれていなければ神の国ではないと思います。地上の上に神の国を作っていかなければならないという使命を生きている私たちにとって、変わらない愛は一体どこから来るのでしょうか。
11月も間もなく終わりますが、私たちは今改めて神の国を思い、そこにある世界を大切にしなければならないですし、またこの地上の世界にも神の国を作っていかなければならない使命をもっているのだと思います。
「いつくしみの特別聖年」がまもなく始まろうとしています。私たちの信仰を見つめ、この地上の王ではなく、全ての人の救いを願う「王であるキリスト」を見つめて、新しい一年に向かなければならないと思います。今日「王であるキリスト」の祭日を迎えて皆さんにも問いかけたいと思います。
私たちの愛は、神の愛に近づく、そのような愛を生きているのかどうか、このミサの中で祈り、新しい一年を迎えたいと思います。』

2015年11月8日日曜日

年間第32主日

今日のみ言葉(マルコ12・38-44)では、律法学者の偽善的で利己的な態度を厳しく戒め、神殿に来ていたさまざまな人々の中にある欺瞞と真実を指摘するイエスの姿が語れました。

今日は秋の大掃除の日でした。御ミサの後、聖堂の床磨きとカテドラルホールの煤払いを行いました。皆さんお疲れ様でした。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


 ユダヤ教の指導者の教えとしてこんな話しがあります。
「ある貧しい女性が一握りの小麦粉を捧げにやって来ました。ユダヤ教の祭司はそれ
を見て『こんな少ない捧げ物とは何ということだ。こんな少ない量で何が出来るとい
うのだ。』と、この女性をさげすんだといいます。しかし、その時、神の言葉が響い
てきて『この女性をさげすんではならない。彼女は自分の命を捧げたのだ。』そし
て、その言葉でユダヤ教の指導者は夢から目が覚めたという。」そういうお話が伝え
られているといいます。この話しは一人の女性をさげすんだユダヤ教の指導者として
どんな心でいなければならないかという、そういうことを伝えるお話だそうです。
 今日は、第一朗読の旧約聖書(列王記上)の中で、またイエスの話しの中でも、神
に絶大的な信頼をもって生きる信仰熱心な話しが告げられています。

 前半と後半で福音は大きな違いがあります。ひとつは律法学者の偽善的な話し、後
半はやもめの献金の話しになっています。当時の社会、そこには律法学者がいまし
た。社会的に宗教界の中で指導者として権威をもっている律法学者。律法学者の中に
は地位ばかりではなく、富にも恵まれた人がいたかもしれません。彼らもまた金持ち
と同じように神殿にやって来ます。その姿をイエスは遠くからじっと見ていたようで
す。当時の神殿には、女性たち、やもめたちが集まる庭、そして男たちの庭という、
イスラエル人の庭があり、さらに祭司たちの庭が神殿の中にあったようです。男と女
の違いで、女の人は特定の場所まで入っていけず、その庭は女性の入れる場所で、そ
こに献金箱が用意されていたようで、貧しい人々、そしてやもめもまた神殿の庭に
入って、祈り、献金を捧げていたようです。今日のお話はその生き方、行動を比較す
ることにより、どのような生き方が神に用意されるのか、教えられているようです。

 これまでも見てきたように、聖書では律法学者やファリサイ派の人に対するイエス
の態度には厳しい態度がいくつも描かれていました。「モーセの座に対する律法学者
やファリサイ派の人の言うことにはすべて守りなさい。しかし、彼らの行いは見習っ
てはいけない。彼らは言うだけで実行しないからである。」こういう聖書の話しもあ
ります。さらに「律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者は不幸だ。」
こういう表現もイエスの言葉として描かれます。非常に厳しい言葉がイエスから話さ
れていた。

 そして、今日の福音もまた同じようです。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長
い衣をまとって歩きまわること、広場で挨拶されること、会堂の上席、宴会の上座に
つくことを好んでいる。そして、やもめの家を食いものにし、みせかせの長い祈りを
見せものにする。このような者たちは人一倍、それだけ厳しい裁きを受けることにな
る。」実にイエスの厳しい言葉が、こうして表現されているわけです。イエスの時
代、神殿に仕える宗教者、指導的立場にある人々に見られる権威についての非難がイ
エスから語られます。そこに生きている宗教者、律法学者たち、その心はどんなもの
であったのか、みせかけは素晴らしいけれど、外見は素晴らしいけれど、その心の内
はどうなっていたか。虚栄心や貪欲な姿をイエスは指摘しています。だれからも挨拶
される、先生と呼ばれる宗教者、律法学者。権威を見せびらかす律法学者。
 それに対して今日、私たちが注目しているのはやもめの姿です。神殿の賽銭箱にわ
ずか2レプトンを入れる貧しいやもめがいた。当時の最も小さい単位であったレプト
ン。今の私たちの時代では百円足らずのお金だそうです。でも、百円、二百円は財布
の中にあるすべてでもあった。財布の中にあった百、二百円は一日の生活を支えるお
金でもあった。でも、そのすべてを賽銭箱に投げ入れた。そのやもめの姿をイエスは
じっと見ておられました。どちらが、律法学者や金持ちたち、金持ちたちは本来、貪
欲な人が多いと言われますが、それでも金持ちも献金をしていたという話しが今日の
聖書にもありますが、それなりに金持ちは大金を賽銭箱に投げ入れたかもしれませ
ん。でも、このやもめのわずか2レプトンは目に留まるものはなかったはず。それで
も神は、イエスは私たちに神に対する真実の命がどちらが燃えていて、その献金を捧
げているだろうか、私たちに問いかけていると思います。

 金持ちの捧げる献金は大きかったかもしれません。誰もが目に留まるようなお金
だったかもしれません。でも、誰の目にも触れないような、僅かなお金を捧げたやも
めの姿の方が、神の前に真実であったと語られているのが今日のみ言葉です。イエス
はこのかくれた小さなできごとに対して、弟子達に注目をさせます。律法学者に気を
つけなさいと言いながら、同じように貧しいやもめを見ていた弟子達に「あの貧しい
やもめは、賽銭箱に入れた人たちの中で、誰よりもたくさん入れた。」こういう表現
をイエスはしています。
  私たちはイエスが話される真意が理解出来ると思います。富や地位に執着する律法
学者の生き方、さらには見せかけの長く祈る。よりいっそう自分を外見的に立派に見
せるため、衣を長くしたり、そういう律法学者は時にはやもめの家からも、援助を要
求したという話しが随分残っているとのことです。自分の立場、地位を利用して利得
をむさぶる律法学者。昔も今も、世の中は変わらないのかなと感じます。今の時代も
あるときにはそうした事件が明らかにされます。十分に生活を潤う、経済的に物を
持っていたとしてもさらに不正を働いて、自分の富を大きくしようとする。貧しい
人、苦しい人々には眼中にないというように事件はさらされていきます。やもめの献
金はすべてを見ておられたイエスにとって最も目立つ献金であったはず。それは生活
費にあたるすべてを、わずかであっても心からの献金として捧げたその姿を、イエス
は褒めています。福音のように私たちもまた、弱く貧しいものの一人であるかもしれ
ません。特別自慢出来るような力や富も能力も持っているわけではありません。で
も、心からの奉献をすることによって、神に良しとされる生き方を出来るという生き
方を、やもめの姿をとおして私たちにも教えられます。

  私たちもそういう生き方が出来るように、努力しなければならないでしょう。イエ
スが厳しく言わざるをえなかった律法学者たちは、神よりも自分の地位や名誉に心ひ
かれる部分があって虚栄心、貪欲な心に執着する偽りの権威をひけらかしている。外
見から見れば完全であると見えたとしてもその心は真実ではなかった、ということに
なります。神の前に私たちはどうなっていくでしょうか。富や名誉から離れられない
彼らを批判しているとすれば、私たち自身はその批判を受けることがないといえるで
しょうか。どれだけ捧げるのだろうか、どのようなことをするのだろうか、人に対し
ても私たちはそういう目で見ているような気がします。外側の出来事に心惹かれてい
るけれども、心の内側を見るということは、私たちには難しいことかもしれません。
でも、そのことに私たちは心を向けていかなければならないことを、私たちは教えら
れています。

  やもめが示された心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛されるその行為
を、生き方の中にこそ、私たちは現していかなければならない。その時に輝く素晴ら
しい宝がそこに備えられていくことになるのではないでしょうか。やもめの行為から
私たちもまた、学びとらなければならない多くのものを見つめることができます。神
に信頼するその心を祈り、そして捧げること。教会から家路につくとき、ミサが終
わって教会から出て行くとき、教会で祈ったその祈りを生きることこそ大事である。
祈りと一歩外に出た自分の生き方が遊離しない、祈ったことがその生き方、行動に繋
がっていけるように。今日、私たちはみ言葉をとおして教えられています。私たちの
心は今、どこにあるでしょうか。私たちの願いや祈りは今、神の目から見て
どうだと思いますか。このミサで願いや祈りを誰もが捧げます。その思いは神様にど
のように受け留められるでしょうか。
  聖テレジアが祈り、話しています。「恐れることはありません。貧しければ貧しい
ほどイエスはあなたを愛されるでしょう。」今日も私たちに対してイエスの問いかけ
が聞こえてきます。私たちの思いは今どんな思い、どんな心で神様に向かおうとして
いるでしょうか。

2015年11月3日火曜日

11月2日(月) 死者の日


諸聖人の祭日の翌日、11月2日 18時30分から「死者の日」のミサが行われ、平日の月曜日にもかかわらず多くの方々が共に祈りを捧げました。
亡くなられた共同体の兄弟姉妹、恩人、友人、知人・・・・、それぞれの信徒の思いが込められた650名の故人の名前が記載された名簿が奉納され、諸聖人や殉教者のとりなしによって、罪が清められ天上の教会に招かれることを祈りました。



後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


今聞いたみ言葉(ヨハネ6・37-40)、そこにはイエスの御心がありました。
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
皆が、永遠の命を得ることがイエスの御心です。小さな人に対してもイエスに対すると同じように接した、そのような人が神の右に招かれたという聖書のみ言葉があります。
天上の教会に入れるかどうかは、今の世での人の生き方。そのようなことを私たちは考えざるをえません。神の目には全て見えているということを心に留めておかなければなりません。
教会は、この世の教会、煉獄、天上の教会、この三つが一つであり、諸聖人や死者も私たちと共にあります。
昨年から教会では、亡くなられた身近な人たちの名前を書いた名簿を奉納することにしており、今回も650名もの名前が書かれていました。死者に思いを馳せ、眠りについた愛する人々が、諸聖人や殉教者のとりなしによって、罪が清められ天上の教会に招かれることを祈りましょう。
死は誰にでも訪れるものです。その時が来れば死を受け入れるしかありません。今は送る側の人でも、やがて送られる人となります。永遠の命ということからすると故人たちは私たちよりもほんの少しその時期が早かっただけ。しかし、死というものは悲しみで心が揺れるものです。
私たちは信仰を見つめ、死の向こうに永遠の命があること信じ、祈り続けなければなりません。

2015年11月1日日曜日

11月1日 諸聖人

ロザリオの月も終わり、11月を迎えました。
今日の「諸聖人の祭日」は、8世紀にケルト人の国で始まったとされ、全ての聖人と殉教者を記念する日です。諸聖人の取りなしを信じ、神の子と呼ばれるものにふさわしくなれるよう祈りましょう。

明日、2日は「死者の日」で18時30分からミサが行われます。
亡くなられた先祖、友人、知人のためにお祈りしましょう。

さて、典礼の最後の月の始まり、諸聖人の祭日に200人を超える兄弟姉妹と共に食卓を囲み、冬が近づく晩秋の一日に、諸聖人のとりなしを願い、贖いの実り、霊的収穫への感謝を祝う事が出来ました。
また、ミサの福音朗読では、10月18日の勉強会で後藤神父様からご指導頂いた、額、口、胸に十字架のしるし、を半数位の方が早速に実行されていました。「信徒が宣教司牧の中心となる事を考えるように」との勝谷司教様のメッセージを受け、櫻谷委員長は教会内での具体的な取組み、伝え方について大変悩んで居られますが、多くの方が典礼の変更を積極的に受け入れる姿勢をご覧になり、少し安堵されているのではないかと拝察しました

後藤神父様のお説教をご紹介します。


ロザリオの月が終わり諸聖人の祭日を迎えています。今日は日曜日で年間の主日ですが、祭日を優先する決まりがありますので諸聖人の祭日を祝います。
カトリックの辞典では、諸聖人の祭日は8世紀にケルト人の国で始まったと説明があります。天候に恵まれない土地で生きる人々は、冬の初めに教会が天の栄光を指し、死の彼方の命への希望に生きるようにとの励ましを求めていました。寒く、日が短くなる中で希望が薄れて行く地方では人々に明るい希望が必要で、死の彼方の命への繋がりが明るく希望に満ちたものになる様にと諸聖人への崇敬が色濃くなっていったという、歴史背景を垣間見る事が出来ます。
生きているものはこの地上で生活をし、眠りについたものは神のもとに召されます。神の国はどんな国かよく解りませんが、私たちこの世に生きるものは、眠りについたものとキリストの体に一つに繋がっています。キリスト者は死んだものにも、生きているものにもキリストを通して命を与えられていますが、永遠の命を得るために、家族や友人、知人の救済のためには、聖人たちの天の教会のとりなしが必要でした。聖人たちはまっすぐに神のもとに行ったに違い無いのですが、私たちは償いを果たさなければ聖人たちの所へも行けません、かつては煉獄と言う言葉でそういう世界を表されていました。
諸聖人との連帯は、死者にとっても、生きている私たちにとっても希望をもたらすものです。一つの考え方として、諸聖人は聖徳に溢れ、あり余る恵みを頂き、私たち罪びとはその溢れる恵みを諸聖人から頂きながら償いにより神の国に入れてもらう、との思いがあり、その思いで諸聖人にとりつぎの祈りをするようになりました。
教会の使徒信条の中では、聖なる普遍の教会についての宣言の後に聖徒の交わりと言う言葉が出て来ます。教会とは全ての聖徒たちの集まりであって、すべての信者はただ一つの体を形づくります。そして最も重要なのが、その体の中心にキリストがいると言うことです。
カトリック教会のカテキズムでは
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのである
一人ひとりはキリストの体の一部分でもあるからである
と説明されています。
私たちは生きている自分を中心に頑張っていますが、私たち一人ひとり、教会共同体、既に召された人々もキリストの一つの教会です。そして、その教会に所属する神の民は、死んだものも生きているものも神につながっています。
愛は自分の利益を求めない、私たちは生きているものと死者とを問わず、全ての人と連帯関係にあり、聖人との交わりを土台としています。それが天上の教会と地上の教会との交わりを意味しているからです。教会には、地上の教会、天上の教会、神のもとに旅だったものの教会、があります。3つの教会が其々交わりを持って一つの教会になります。聖人たちは、旅する教会、償いを果たせないでいる者の教会が一日も早く天上の教会に入る様にとりつぎをして下さっています。私たち地上に生きる教会も聖人たちに向かってとりなしを祈ります。
今日のみ言葉では、神の国に入る人について告げています。諸聖人祭日を迎え、神の子と呼ばれるに相応しい道に近づいていくことができる様に諸聖人にとりつぎを願いたいと思います。そして、もう一つの教会にいる死者の一人ひとりが、一日も早く聖人のいるところに迎え入れられるように祈りを奉げて行かなければならないと思います。