2014年9月28日日曜日

9月28日(日) 札幌地区使徒職大会

札幌地区使徒職大会が、光星学園体育館で行われました。



「信仰者として、障がい者とともに歩むために」というテーマでカ障連事務局長の田中実氏と勝谷司教様の講演がありました。
田中さんの講演では、障がいと向き合いながら歩んできた社会生活や信仰生活の中での、悲しみ、苦しみ、恐れなどを赤裸々に語られるお姿に、十字架を背負って生きるものの力強さを感じ、そして勇気をいただいたような気がします。
「今の現代社会において、何かしらの「生きづらさ」を感じているものは誰しも、十字架を背負いながら、ともに主の食卓に招かれているのです。」 という場崎神父様のお説教のお話を深く心に刻んでおきたいと感じました。

今回の使徒職大会では、手話通訳、そして札幌市社会福祉協議会の要約筆記通訳サークル「ふきのとう」の皆さまに多大なるご協力をいただきました。まことに有難うございました。



2014年9月21日日曜日

年間第25主日 「ぶどう園の労働者」

後藤神父様は、札幌教区司祭の黙想会が函館で行われているためご不在でした。
そのため今日の主日ミサは、フランシスコ会のルカ神父様が司式くださいました。
ルカ神父様は、お説教の中でとても分かりやすい例え話を用いて、「良い行い」についてお話されました。



ルカ神父様のお説教をご紹介します。

『今日のみ言葉は、神の慈しみ、愛、憐れみを語っています。
今日のみ言葉全体を正しく理解するために、第1朗読であるイザヤの預言(イザヤ55・6-9)を振り返ってみます。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」

今日の福音朗読(マタイ20・1-16 「ぶどう園の労働者」)の内容には、多くの人が納得がいかないと感じるのではないかと思います。
神の思いは人間の思いと違うということを象徴したお話になっています。
「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55・9)
神の道や思いはあまりにも高いから、わたしたちには良く理解できない、納得できないということになるのです。
わたしたちは、勘違いしているのではないでしょうか?
たくさんの良い事をした人は、当然たくさんの恵みを受けることができる、と。
それはある意味正しいことなのかもしれません。
しかし、神は人間の心の思いを見抜くのです。
誰のためにやったのか?何を基準にその良い事をしたのか?下心があったのではないか?
分かりやすいように、ある作り話をお話します。

ある人がいました。その人は、社会的にも認められ、金持ちで、寄付をしたり、困った人がいれば人助けをしたり、周りからも立派な人、尊敬される人と思われているような人でした。
その人がある夜、夢を見たのです。
それは、天国へ入ったという夢でした。
天国へ入ってまず目にしたのは、事務所のような場所で、忙しく働いているたくさんの守護の天使たちの姿でした。
その人は、近くにいた天使に尋ねました。
「いったい何をしているのですか?」
天使は答えました。
「人間たちがやっていることを記録しファイルを作っているのです。」
地上からは、次々と人間たちがやった良い行いについてFAXが届いてきます。
それを天使たちがせっせと、一人一人のファイルに綴じて整理していました。
そこで、その人はまた天使に尋ねました。
「わたしのファイルを見せてもらえませんか?」
「いいですよ」天使は答え、その人のファイルを持ってきました。
その人はそれを見てびっくりしました。なんと1行しか書かれていなかったのです。
「えっ!これだけですか? わたしはこれまで、たくさんの良い事をしてきたのですよ!」と怒って天使に訴えました。
天使は落ち着いた口調で応えました。
「地上と天国では、少しやり方が違うのです。ここでは、神様の純粋な愛のために、そして隣人のための純粋な思いと、愛を持って行われたことだけが記録されるのです。」
そして続けました「あなたが、このような純粋な心で、愛を持って行ったことは、この1行だけなのです。」
彼はそれを聞いて、とてもがっかりしました。
そしてまた天使に尋ねました。「わたしの妻のファイルを見せてもらえませんか?」
「いいですよ」と天使が彼の奥さんのファイルを持ってきて、それを見ようとしたところで目が覚めた、というお話でした。

今のお話は作り話ですが、私たちがこの先々勘違いしないように、天国へ行くときにがっかりしないように、下心ではなく、広い心で、純粋な愛を持った行いを心がけるようにというお話です。

今日の福音に出てきた”最後に来た人たち”に対して、裁くような心をもってしまうのが、人間の正義です。そして主人=神様に向かって不平を言ってしまうというのも人間です。
朝から働いていた人たちは、本当に真面目に働いていたのでしょうか?
最後に1時間しか働けなかった人たちは、その賃金で家族を養えるだけの”ふさわしい賃金”を手にすることができました。つまり、家族を支えるだけのお金がいただける、これが神様の正義・寛大さなのです。

今日の集会祈願の中のお祈りの言葉をもう一度聞きましょう。
「きょう一つに集まって神に心を向けるわたしたちが、すべてにまさる神の愛を悟ることができますように。」
神様にならって、憐れみ深い人になる恵みを願いましょう。』

御ミサの後、聖堂では、10月5日(日)に行われる国際デー ミサのための聖歌練習が行われました。



【お知らせ】
来週(9月28日)の主日ミサは、使徒職大会のためお休みです。



2014年9月15日月曜日

十字架称賛の祝日

今日は十字架称賛の祝日です。私たちの信仰はいつも十字架を崇め大切にしているでしょうか?

明日の敬老の日を祝い、御ミサの中で後藤神父様から祝福がありました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『十字架称賛の祝日の由来について、少しお話したいと思います。
その由来はエルサレムから始まります。
西方教会、特にヨーロッパでは、十字架の前に跪いて接吻する崇敬が一般的でした。
現代の教会の典礼では、今日の第2朗読のフィリピの教会への手紙の中でも話されているように、キリストが架かったとする十字架を崇め、讃え、それを祝う日となりました。
そして今日では、西方の教会においても、東方の教会においても、祝日として大切にされています。
この背景には、歴史的な出来事があります。伝承ではこんな話も伝えられています。西暦326年、当時のローマ皇帝であったコンスタンティヌス帝の母である聖ヘレナは、キリストが十字架につけられた丘として崇められてきた場所で、イエスの本物の十字架を発見したという伝承が残されています。そして、その場所に教会が建てられることになりました。聖ヘレナは皇帝の母でもあったので、荘厳な教会を建てることもそう難しいことではなかったと想像できます。十字架は教会の中央に置かれました。その教会は、私たちも訪れることもできる聖墳墓教会です。
教会が建てられて、9月13日に献堂式が行われました。そして、その翌日である14日に十字架が奉献され、その時から毎年その日が十字架称賛の日として祝われてきたということが伝えられています。
信仰の歴史をみると過去の人間の戦争において、この聖なる十字架を巡って、いろいろな出来事が起こっています。ペルシャ戦争では略奪品としてこの聖十字架が持ち出されました。熱心なキリスト教信者は、その十字架を奪い返さんがためにまた戦いをしていきます。聖なる十字架が取り戻されると信徒は大きな喜びで、なお熱心に十字架を称賛することになります。そのような歴史をみていくと、自分達の手元にあると、時間が経って習慣的になってしまうと、熱心な信仰もまた見失ってしまうという状況が起こっていきます。
私たち一人一人の信仰も、同じようなものではないでしょうか。

十字架は、私たちにとっても信仰の象徴でもありますが、古来は罪人を処刑する残虐な道具に過ぎず、呪いの象徴でもありました。ところが、キリストの十字架の死から始まったこのキリスト教世界が拡がるにつれて、こうした考えとは逆なものになっていきました。十字架は信仰の象徴となり、神聖化され、人類に救いをもたらす、祝福の印ともなりました。今日のみ言葉の随所に、救いと言う言葉が多く使われています。十字架は神の御一人子によって、私たちの救いのため、かけがえのないものとして、今のキリスト教世界ではシンボルとして欠かせないものとなっています。キリスト教が公認された4世紀以降は、この十字架の発見もあって、勝利の印というイメージもさらに強くなりました。
死というものは私たちの人生において、マイナスのイメージですが、その死はキリストの復活によって、死からの勝利という意味合いも考えられるようになったからです。
そして、十字架は、教会の装飾に多く取り入れられるようになり、教会の建築も十字架の形をイメージして建てられるようになり、またキリスト教国においては、国旗や紋章などにも使われるようになっていきました。
今日では、十字架は私たち教会にとって、信仰において欠かす事のできない、私たちに救いをもたらすシンボルそのものとなっています。
十字架を前に、私たちは、「主よ、私はあなたを愛しています。私を憐れんでください」と祈りを捧げたり、感謝の心で十字架を見つめたりします。
しかし、私たちの信仰は、いつも十字架を崇め大切にしているのでしょうか?
様々な価値観、私たちの心を乱す様々なものが溢れる今の時代、他のものに心を奪われ、信仰の集中力を見失い、十字架が心の隅に追いやられるということもあるのではないでしょうか?
でも、時に、悲劇的な災害や出来事を見たり、喜びや感動を感じると、また再び、私たちは主よ主よと十字架を見つめながら祈ります。
賛美をしたり、十字架を心の隅に追いやったりと、行ったり来たりする信仰が、私たちの信仰になってしまっているのかもしれません。
私たちの信仰において、いつでもどんな時でも、最善を尽くして、十字架を仰ぎ見て賛美を捧げる事のできる信仰に成長していきたいと思います。
そして私自身、今日もまた、自分の十字架を背負う覚悟は出来ているか、そんなことを囁かれているような思いをしています。
「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」イエスの言葉はいつも心に響いているのではないでしょうか。

さて、明日は敬老の日となっています。
長寿を祝い、先輩の信徒の人々のために、祈りを捧げる日でもあります。
皆さんはご存知でしたでしょうか?この教会の名簿で75歳以上の信徒の数は、143名にのぼります。その中には、元気に教会に来られている方、またご病気で教会に来たくても来られない方も少なくないと思います。
75歳を超えた方々を考えますと、きっとその信徒の方々が、守護の天使に護られたこの教会の礎を作ってくださった方々ではないでしょうか。
私たちがこの教会に来て、主の祭壇を囲んで祈ることが出来るのは、そうした年代を生きた信徒の先輩の皆さんによって、この教会が建てられて、私たちに引き継がれたことによるものです。
今日は、十字架称賛の心を取り戻すと共に、私たちを支え祈り続けておられる大先輩の信徒の方々のためにも、感謝を捧げ祈りたいと思います。』

2014年9月7日日曜日

年間第23主日 - 洗礼式 -

 金曜日にサッカー日本代表の国際試合が札幌で行われ、札幌ドームは超満員の観客で溢れました。試合結果はさておき、サッカーの面白みはチームプレーです。フィールドでは、100メートル近く離れた仲間の動きを見てポジションを変え、アイコンタクトで一瞬のうちに体制を整え、互いを信頼し其々の役割を臨機応変に、そして全ての選手がアコモデイティブに結びつきます。これはフィールド上だけではなく、ベンチにいる控え選手、ホペイロ(用具係)も、誰一人として不要な動きをする事はありません。
 私たちの北一条教会共同体も同じです。共同体最大のイベントの一つ、先週のかてどらる祭(バザー)では見事に統制が取れ、櫻谷実行委員長の下で全員が自身の役割を誠実に担っていました。当日参加できた人は100人足らずですが、遠く本州から材料を送って下さった人、前日までの準備にだけ参加できた人、終了後の後片付けだけに参加された人、聖堂で感謝の祈りを奉げる人たち、今日の福音にあるように、皆が「心をひとつにして」有機的に結びつきます。北一条教会共同体は旅する神の民として、今日も大切な主日に贖いの神秘を記念して祈りを奉げ、後藤神父様も今日のお説教の中で「共同体の一人ひとりが共に主に結ばれて歩む事が出来るように祈りましょう」とお話しして下さいました。
 今日はミサの中で、幼児洗礼がありました。 まい つばき イザベラ  さんです。ご両親は、独立峰として高さ世界一を誇るキリマンジャロ山のあるタンザニアのご出身です。新しい若い仲間が増えたことに感謝します。



開祭のあいさつで、後藤神父様からご家族の紹介がありました。


神父様から祝福


神父様からプレゼント


後藤神父様と代母さんに囲まれて


おめでとうございました!

今日の後藤神父様のお説教の一部を紹介します。
『今日は幼時の洗礼式があります、北一条教会では幼時の洗礼式が続いているので大変うれしいことです。
 今日のみ言葉を皆さんはどの様に受け止めましたか?罪と言うと、私たちは自分の罪の事を考えますが、今日のみ言葉は兄弟の罪について話しています。今日からの1週間の中で、隣人の罪、周囲の人の罪とは何かを黙想して下さい。
 皆さんは、主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるし下さい。わたしたちも人をゆるします」について、どこまで心にとめて祈っていますか? オウム返しの様に心を伴わずに繰り返していませんか?一つひとつの言葉を大切にし、心をこめて祈ることで神の前で謙遜になれるのです。それが、神の民である共同体としてのキリスト者の生き方です。一人の兄弟も失うことなく共同体を作り上げることです。私たちの愛は自分の為だけではなく、神の愛に深く連なってその愛を受け入れることが大切です。
 イエスと共に過ごす弟子たちに欠けていたこと、それは自分を低くすることです。弟子たちは、以前は家族を養い、厳しい労働に生きていました。決して若くはなく、自分の考え、生き方が確立している年令です。弟子たちにとって、神の国の話を聞き、愛について学ぶなか、謙遜し、自分を低くして神の愛に生きることは容易いことではありませんでした。イエスは、自分を低くすることが大切であるということを、神の愛の教えを通して語られました。自分を低くすること、謙遜な心を持つことは、私たちの信仰生活の中でも大切な要素です。
 神に頼ることなく、自分の力で生きようとする、信仰があると言いながら愛に欠ける言葉、心ない考えで罪を犯す私たち、隣人もまた罪をおかすという関係の中で、私たちは今日と言う日を生きています。キリスト者共同体は心を向けて赦すことが大切です。共同体の中から一人も欠けることが無い様に神の国に招かれる、それがイエス・キリストの使命です。キリストの救いは一人ひとりの救いであり、共同体の救いです。
 共同体と救いの関係は今日のみ言葉の後半「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれる」にあります。共同体には離れて行く兄弟、帰って来る兄弟がいますが、一人ひとりを温かく見守り、ゆるし、向かい入れる寛大な心で祈り続けることが大切です。人間的な弱さで、共同体から離れて行く兄弟がいると言う現実を見つめながら、私たちの愛を育んでいくとこが求められています。隣人を愛のうちにとどめ、隣人を助けることに力をたくす、そして一人ひとりが自分の罪だけでなく、罪を犯した兄弟にも心を配り、共に主に結ばれて歩むことが出来るように祈りたいと思います。キリストの名によって、私たちの信仰に生かされ、私たちの愛と忠実さを表すことが出来るように。』