2017年8月15日火曜日

聖母の被昇天 (終戦記念日)

午前10時から「聖母被昇天」の祭日を記念するミサが行われました。


引き続き、終戦記念日にあたり12時に鐘楼の鐘が鳴らされ、戦争犠牲者と平和のためにお祈りを捧げました。

この日の後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『今日の「聖母被昇天」の祭日にあたって改めて、マリアの存在と崇敬の意味を教会がどのように教えているのか振り返ってみたいと思います。
マリアは教会の数多くいる聖人の中でも特別な存在です。それは、神の母、すなわちキリストの母であり、贖い主の母として認められ、教会の母として讃えられているからです。
多くの人は「聖母被昇天」を迎えて、神様よりもマリア様に心を向けて祈っているように思うこともあるのですが、まず、神様があっての被昇天であることをしっかりと理解して祈ることは大事なことです。
アヴェマリアの祈りで「神の母、聖マリア、わたしたち罪人のために、いまも臨終の時も祈り給え」とあるように、マリア様の役割については、キリストの結びつきから切り離すことはできない救いのみ業につながっています。』

2017年8月14日月曜日

年間第19主日

この日の福音では、「パンの奇跡」のすぐ後の出来事として、自然界の嵐が語られています。

夏休みで帰省中の蓑島神学生が聖体奉仕をされました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『毎年の事ですが、8月に入って高校球児の熱い夏が始まっています。野球ファン、特に高校野球のファンにとっては、たまらない高校球児の姿ではないかと思います。汗にまみれ白球を追う球児の姿に、私も青春そのものを 見て感動したりしています。テレビ画面に釘付けになっておられる方もいるかもしれませんが。
 今日の朝6時には、陸上の世界選手権の100メートルリレーで、日本のアスリート、若者たちが銅メダルを獲得したニュースが流れてきました。テレビ画面では観衆の大きな嵐がどよめくように聞こえてきますが、金メダルが確実と見られていたジャマイカのウサイン・ボルトという選手が足の故障で棄権しメダルを逃した。そのせいもあって日本がメダルにくらいついたと言えるかもしれませんが、日本の陸上界の若い人たちの力が、どんどん世界のレベルにまで達していることは、今年の陸上界をテレビで観ていても私自身感じるところでした。

 テレビの画面では熱烈なファンの嵐が呼び起こされていますが、今日の聖書では自然界の嵐が語られています。先週は「主の変容」の祝日の日曜日でした。この「主の変容」は移動日になりますので、必ずしも日曜日にあたるとは限りませんが、今年はたまたま日曜日に重なって「主の変容」を先週祝いました。そのために、普通であれば先週の日曜日には、5000人の人にパンを分け与える「パンの奇跡の話」が語られるところでしたが、その話は消えてしまって、「主の変容」のみ言葉を私たちは聴いたわけです。ですから今日の聖書の話は、通常「パンの奇跡」の後に語られるお話しが今日のみ言葉になっています。ですから、今日のみことばの最初は、一言そのことが分かるようなかたちで触れられています。「人々がパンを食べて満服した後」というみことばが語られているわけです。パンの奇跡の内容は弟子たちの想いと、イエスの思い違っている、そういう内容で展開していました。弟子たちは群衆を解散させてほしい、もう夕食の時間でもあるし、大勢の人に食事を与えることは難しい。だから解散させてくださいとイエスに申し出たのですが、イエスはそうではなくて、パンをかき集めて奇跡を行い、5000の人に満腹させるために食べさせたという話しになりました。

  今日の「パンの奇跡」の後に続くみ言葉を私自身いろいろ受けとめ考えます。私自身は今日のみ言葉で、イエスのひとつひとつの行動、行為、言葉にいくつかの注目するポイントが出てきます。一つは強いて舟に弟子たちを乗せて群衆と引き離していること。何故イエスは強いて弟子たちを群衆と引き離したのか。また、イエスと弟子たちもいっしょに離れた場所に動き始めることがとても気になる箇所です。もう一つは、イエスは一人山に登って長い間、夕方まで祈りを捧げます。イエスは弟子たちから離れて一人祈ったこと、何故一人で祈ったのか、どんな祈りを捧げたのか、そんなこともとても気になる内容です。さらに、舟に乗っている弟子たちのところに湖の上を歩いて行かれた。それは不思議なことですが、水の上を歩いたイエスの姿もまた、とても気になる特別な出来事として考えます。そして、最後のひとつは、それを見たペトロがイエスの呼びかけに従って水の上を歩こうとした。だけれども、最初は歩いていたはずなのに、突然嵐の風に感じいって気付いた。そのことに心が向かったら沈みかけた。 自分の不信仰のために溺れかけたという内容が繋がっていきます。そういうイエスと弟子たちの行動のひとつひとに特別な意味があるのだろうと、黙想になってしまいます。
  今日の第一朗読では自然の山が舞台となって、激しい地震や風が起こったことを語っています。自然の嵐、出来事。今日の湖の嵐に繋がるような話しが、すでに第一朗読で語られていた共通点も見えてきます。私たちが生きるこの自然界には、常に私たちが予想もできないことが起きてきます。そして今日の福音では湖の上で恐ろしいの嵐の物語です。人生の嵐も考えられます。私たちはそういった人生の嵐の前では、どんなふうに、どのように自分の信仰を見つめているでしょうか。自分の信仰を生きているのでしょうか。そういうことも今日の聖書のお話を通して考えることが出来るようです。

  イエスは一人で祈るために敢えて弟子たちと離れて祈ります。敢えて弟子たちと離れた内容が語られています。私は、「敢えて」という内容がますます気になるかというか、どうしてそのようにしたのだろうかと気になります。そしていろいろなことを考えます。一人で祈られたイエスの祈りはどんな内容だったのか、どんな祈りだったのか。弟子たちから距離をおかれたということは、そこにどんな意味が隠されているのだろうか。これまでずっと共にいたイエスと弟子たちであるのに、このときは離れた。そういう時間を過ごしている、その内容がとても気になります。
 そして、弟子たちの信仰、不信仰という話しが続きますが、「パンの奇跡」のときにおいても、また湖の上を歩かれた主の姿を見ても、後においては弟子たちは信仰告白を常にしていきます。これまでもイエスの奇跡を目の前にして、弟子たちはその驚くべき出来事の前で神の力、イエスの力を思い知って信仰告白を何度もしてきました。先週の「主の変容」の場面においても、ペトロガ信仰告白したことを私たちは思いおこすことができると思います。そんな弟子たちの姿、そしてそんな弟子たちの信仰をイエスは常に見つめていた。その危なげな、迷ってしまいそうな信仰を常に受け入れながらも、弟子たちを強め励まし、神の国、神の力を教え続けていた。  イエスが一人祈るその姿は、もしかすると近づいてくる、エルサレムに向かう、十字架に繋がるご自分の道の使命を祈っていたかもしれない。この時期、遠からずイエスはエルサレムに向かい、受難と十字架の道に辿り着こうとしています。そういうことを想像することができるなら、その前表としていずれ自分は弟子たちと離れざるを得ない。そういう心境もあって、このとき一人山に登って弟子たちと離れて祈られたのでしょう。そして弟子たちはイエスと離れている中においても、共にいるイエスを感じなければならないなずであったのに、  共にいるイエスを忘れて常に不安な状況になってしまう、まだまだ信仰のおぼつかない弟子たちの姿があらわになるような気がします。 

  私たちが信頼する神に心を向けるとき、神の慈しみが見えてきています。感じられます。イエスの言葉にも慰めを見いだし力を頂くことができます。でもそれは神に信頼し、イエスに信頼し心を向けて祈っているとき、そのときは本当に神の慈しみの中に感謝の気持ちが見出せます。不安もそうしたときにはほとんど感じないで  神への信頼から力を頂いているのだと思います。
  パウロが話しています。「だれがキリストの愛から私たちを離れさせることが出来ようか。」(ローマ8:35)神との信頼がはっきりと掴めているときにはまさにパウロの心境に繋がっていきます。回心したパウロの信仰もそういうふうにして、かつてとは全く違った形で自分の信仰を精一杯、命をかけるくらい生きようとしていきます。
 今日の第二朗読でもパウロの言葉がこのようにありました。キリストは万物の上におられ永遠にほめ讃えられる神。まさに信頼がゆるがない信仰を持つパウロの言葉がこうした言葉になってきます。
  一人山に登りただ一人祈られた、聖書はそう伝えてきます。イエスのいない舟に乗った弟子たちは、陸から少しづつ離れて行く中で風を感じ、波が段々と強くなっていくうちに、舟が揺れはじはじめたときに不安を感じています。波と戦っている舟は言うまでもなく私たちの教会を指すかもしれません。そして私たち一人ひとりのこの世での人生、そうしたひとときを表しているのかもしれません。舟の進行が妨げていると、波は悪のシンボルのようにも感じます。誘惑のようにも感じます。またそれは私たちが直面する困難であり不安を誘うものとしての嵐につながっていくような気もします。教会に対する信仰と信頼を揺るがすことは、今の私たちの社会にも教会にも、けっしてないわけでもありません。私たちの教会の中にも時には、困難を見いだすこともあります。そしてそれを作ってしまうこともないわけではありません。
  そういう中で私たちが直面してくる困難、不安、嵐。揺れる心でもしキリストを見たとしても、もしかすると弟子たちのように幽霊としてか目には写らないのかもしれません。不安や動揺や心を騒がせるような状態では神さえも見いだせない、見つけられない。突然のようにもし地震が起きたり嵐が起これば、神の世界を見失って慌てふためくのが私たちではないでしょうか。この頃は時々、日本でもよく地震が起こっています。北海道でも何度かありました。震度1であればそれほど動揺することはないかもしれませんが、テレビのニュースで震度3などと報道されると、治まってからでも心が落ち着かなかったりします。動揺するのは弟子たちだけでなくて、私たちも同じようなことがいえる。奇跡の前で感動もし、力強い信仰告白も何度もしてきた弟子たち。それは私たちの信仰の体験の中で、神の慈しみに何度も感動して、信仰告白をして、祈りを捧げてきたのと同じかもしれません。

 私たちの信仰、困難や嵐に立ち向かわなければならない私たちの信仰の中で、私たちは神を見失うことのない状態で信仰を生きているでしょうか。神に信頼をよせているでしょうか。そんなことも今日のみ言葉で考えさせられます。信仰は希望や平和を私たちに与える機会にもなっていますが、私たちの信仰はただ頂く恵みを生きるというものではないはずです。信仰は人生の嵐や不安の中で、迷い苦しみながらも成長するものであることに、気付いていきたいと思います。ただ恵みを頂く信仰ではなくて、迷ったとき、苦しみにあったとき、神が一瞬見えなくなったとき、そうした試練をとおして、私たちの信仰を成長させなければならないものだと思います。私たちの日常におこる動揺から神から目を離すことなく、そしてペトロのように水に沈んでいくような信仰ではなく、もっともっと神に心を向ける努力をしていかなければと、今日そういうみ言葉を聴かされているような気がします。
 旅する教会でもある私たちの信仰。そして人生を考えるとき、予測出来ない嵐のような人生の途中で吹かれる風があります。危険な波も寄せてくることがあります。そうしたことを予測したり、戦うことは常に私たちの心の中に覚悟として持っていなければ。その嵐に勝ったときには、すぐにも神から目をそらす信仰になってしまうような気がします。どんなときも強い信頼を持って神に心を向ける信仰を私たちは願っていかなければならないと思います。今日もまた、そのことを私たちの祈りとして、教会の祈りとして捧げながら、主のご聖体に近づきたいと思います。』

2017年8月6日日曜日

主の変容

72年前のこの日、広島に原爆が投下された8時15分に教会の鐘楼で「平和の鐘」が鳴らされました。犠牲者への追悼と平和のために祈りましょう。

ミサの中で二人の子供たちの初聖体がありました。この日のために夏休み返上で準備をしてきました。おめでとうございます!


ちょっと緊張気味かな・・・


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『夏も真っ盛りという8月を迎えています。九州の豪雨災害、世界中で起こるテロ、つい先日の北朝鮮のミサイル発射など、私たちの毎日を不安にさせる出来事が続いています。また、国を代表する政府も混乱する中、8月6日の今日、広島は原爆投下から72年目を迎える夏になりました。
新聞の記事で見ましたが、今年新たに5,530人の亡くなった人の名前が追加され刻まれているそうです。今もきっとこの時間、式典が続いていることだと思いますが、名前もわからないままの人を含めると30万8,725名の方々の死没者名簿が今年も納められて式典が進められているようです。想像を超えた死者の数です。私たちは毎年今日の日を迎えて、今日だけは少なくともそのことに心を寄せて、平和の願いを祈りに込めてミサに与る方も多いかと思います。
昨日はこの北一条教会において平和講演がありましたが、日本の教会では平和旬間として15日の平和祈願ミサまで、平和を考える期間が設けられています。平和的に利用するという名目で使われている核、原子力の事故がいまだに収まらないというのは誰でも知っていることです。私たちも歯がゆい思いをしていますが、今日は犠牲者に祈りを捧げながら平和のためにも祈っていきたいと思います。

さて、福音朗読では「天の国」のたとえが毎日曜日ずっと続いていましたが、今日のみことばが伝える内容はガラッと変わって、「変容」のお話になっています。「主の変容」の祝日を迎えています。主の変容の話は、4つの福音書のうち共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書でその出来事が語られています。この3つの福音書に共通することは、変容の出来事の前にペトロの「信仰告白」が記述されており、これには非常に大きな意味があるのではないかということを聖書学者たちは気付いています。変容の前に、弟子の一人ペトロが「信仰告白」をしている、その後で主の変容が起こっている。ペトロの信仰告白と何か繋がりがあるのではないか、ということが解釈上考えらえます。
変容の出来事の少し前には、洗者ヨハネがヘロデ王によって殺されています。そしてそのことを含めて、イエスの噂はどんどん広がっていっているようで、色々な人が噂をしています。聖書では、イエスのことを「洗者ヨハネではないか?」「予言者エリヤではないか?」といった、そういう噂もあったということです。イエスはそのような噂を弟子たちから報告され、イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」この質問に逸早く応えたのがペトロです。「あなたはメシア、あなたは生ける神の子です。」と真っ先に応えたのです。その後に、今日の変容の出来事が起こったということのようです。

イエスは、ご自身の栄光の姿を弟子たちに見せた後に、やがて訪れる受難と死を打ち明け、さらに三日目に復活するということも弟子たちに話します。この出来事、そしてイエスが弟子たちに自分の将来について話した後、聖書の流れはこれまでとは大きく変わっていく内容になっています。エルサレムへと向かう受難の道へと進んでいきます。
主の変容の姿を間近に見て、弟子たちは驚き、同時に終末の素晴らしい姿をイエスから感じ取ります。特別に選ばれた三人の弟子たちは、ユダヤの思想を回顧したことでしょう。出エジプト記で、モーセが山で神と出会い、山から下りてきた時、白く輝いており、神から十戒を授かったという過去の言伝えを改めて思い出していたのではないでしょうか。今日の第一朗読においても、人の子が現れて、その変容の姿を記しています。モーセもそのような出来事に遭いました。予言者もそのような変容の出来事を語っていました。ですから、弟子たちは過去に聞いてきた出来事とイエスの変容を重ね合わせていたのだと思います。

私たちの思いから遥かに超える栄光の出来事です。私たちから考えると現実離れしたものというようになってしまうかもしれません。でも、この弟子たちが体験したことは、現実から遠く離れたところにある輝きではなくて、現実を輝かしめていることが神の栄光であるというように、考えることはできないでしょうか。

イエスの十字架と復活の出来事は決して離れたものではなくて、切り離すことはできない結びつきを持っています。イエスはこのことを変容の直前に弟子たちに話していました。聖書には「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。・・・・人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来る・・・・」とあります。
日常的な現実を超えた体験をした弟子たちでしたが、イエスを信じた弟子たちにとって決してそれは驚くべき体験ではありません。限界を超えたかのような体験ではありましたが、信仰を支える力としていった弟子たちではなかったでしょうか。私たちに、この変容の出来事はどのように映っているでしょうか、そして捉えることができるでしょうか。
私たちの信仰の支えとなるような出来事として捉えることができるならば、それは素晴らしい幸いなことになると思います。
弟子たちにとって、この幻のような体験に意味があり、みことばがありました。今日のそのみことばを私たちも聞きました。
「これは愛するわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」みことばが天から聞こえてきたとあります。弟子たちにとっては、その天からの声もイエスの洗礼の時に聞いた声と同じみことばであるということを心に留めたのではないでしょうか。

時代と場所を超えて私たちにも迫り語ってくる神のことば。弟子たちにとってこれから苦難が迫ってくるのですが、この栄光の出来事は、現実に力と勇気、さらに希望を与える出来事でありました。私たちの信仰においてもこの出来事が、慰めや希望に繋がっているものでありたいと思います。
今日の変容の出来事を黙想しながら、私たちにとっても希望や励まし勇気となる、そうした理解のもとで受入れられるよう祈りたいと思います。

今日このミサで、初聖体を受ける二人の子供がいます。子供たちは夏休みを返上するように集中的に準備を進めてきました。昨日は「赦しの秘跡」の勉強をして心をきれいにしています。そのきれいな心の中にイエス様が訪れようとしています。お二人の初聖体に神様の祝福を皆さんと共に祈りたいと思います。』