2014年12月28日日曜日

聖家族

クリスマスをお祝いしてから数日がたちました。
主の御降誕を迎えた希望の喜びの光は、今もまだ私たちを照らし続けていますか?
今年も残り僅かとなりました。希望のうちに新しい年を迎えられるよう祈りましょう。



後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『数日前、私たちは降誕祭をお祝いしました。救い主誕生の希望の光は、今もまだ私たちを照らし続けているでしょうか?普段に戻ってしまったとしたらそれは残念なことです。今日の「聖家族の祝日」は1921年に制定された比較的新しい祝日であり、イエス、ヨセフ、マリアの3人の聖家族を、現代における家庭の模範としてお祝いする日としています。
私たちも、父、母としての役割を、聖家族を模範として学んでいます。
教皇フランシスコも、一般謁見演説の中で「家庭」についてお話されています。また今年のシノドス(世界代表司教会議)では「家庭」がテーマとして取り上げられています。
神様が救い主を遣わされたのは、貧しいけれど信仰深く生きているヨセフとマリアの家族でした。このことを私たちはもう一度思い起こしてみる必要があります。
イエスがお生まれになってからの成長については、聖書の中ではあまり語られてはいません。私たちは聖家族の日常生活を想像し、家事をこなし愛情を注いでイエスを育てるマリアの姿、大工として息子と妻を守り続け、息子であるイエスにも自分の仕事を教えるヨセフの姿をとおして、愛と互いに助け合う事の大切さについて学ぶことができます。
今日の福音にもあるように、聖家族は幼子のために旅を重ねます。人生を旅する私たちも聖家族の姿をとおして、自分の家庭や信仰を顧み、新しい年に向けて希望ある信仰の旅を続けることができるように祈りましょう。』

今年のブログはこれで最後となります。
一年間ありがとうございました。
また来年もカトリック北一条教会の話題をお届けしたいと思います。
どうか良いお年をお迎えください。

2014年12月25日木曜日

主の降誕 夜半ミサ

主の御降誕おめでとうございます!

大雪に見舞われた一日でしたが、午後7時からのクリスマスミサには、信者の方、信者でない方もたくさん教会に訪れて、共にクリスマスをお祝いしました。

馬小屋には、幼子イエス様の御像が飾られました。



今日のクリスマスミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。



侍者も先日デビューした子供たちが勢ぞろいしました。



勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。


『クリスマスは私たち日本人にとっても特別なシーズンです。
ほとんどの日本人はクリスマスに喜びを分かち合います。
しかし、クリスマスの商業主義を批判する信者も少なくありません。かつて私もそうでした。けれど、これは宣教という視点からは大きなアドバンテージになることです。
日本中これほど多くの人々が、キリスト教に好意を持っているということなのですから。このチャンスに、私たちキリスト者は、本当のクリスマスの意味を知ってもらうために教会の外に出向いていくことが必要です。
私が司教に就任してから1年以上が経過しましたが、司教の職務の他に、日本カトリック正義と平和協議会の担当司教になっています。そのため、この一年の間に様々な国や地域の方々との出会いがありました。かつて日本では、キリスト教の宣教は難しいものと思っていましたが、イスラム世界などの厳しさと比較すると、日本ほど宗教に寛容な国はないと気付かされます。
教会が正義と平和を語るとき、それは特別な政治スタンスを取るということではなく、苦しむ人々の代弁者となるということがキリスト者の使命になります。
大切なことは、人々の苦しみに関心を持ち続ける意思と共同体的意識です。
今日の福音(ルカ2・1-14)では、ヨセフとマリアを断った宿屋の主人は、悪意からではなく”知らなかった”という理由からでした。それは私たち自身の姿とも重なります。人と人との関係は、外に出て出会い知り合うことから始まります。
新しい年は、外に出向き、多くの人たちと知り合い、分かち合える年となるよう祈りましょう。』

御ミサの後、祭壇前で聖歌隊、ボーイスカウト、教会学校の皆さんが勢揃いして、聖歌が披露されました。


その後、場所をカテドラルホールに移し、ささやかなお祝い会が行われました。



2014年12月21日日曜日

待降節第4主日

待降節最後の主日、待降節第4主日を迎えアドベントクランツのローソクにも全て火が点りました。


いよいよクリスマスが近づいてきました。
主の降誕を迎えるまでのこの4日間に、私たちも自らの信仰を見つめ直し、最後の準備をしていきましょう。

今日の御ミサの侍者は、子供たち、冬休みで帰省された神学生の佐藤さん、佐久間さんも加わり、総勢10名という大所帯になりました。




後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『アドベントクランツの4本のローソク全てに灯が点り、いよいよクリスマスが近づいてきました。私たちは4日後に主の降誕を喜びのうちに迎えます。
世間ではこの時期、クリスマスの喧騒に溢れていますが、聖書の世界では静かにクリスマスを迎えようとしています。
イエスの誕生は、マタイと、ルカ福音書で書かれています。
ルカ福音書ではマリア中心に語られ、一方、マタイ福音書ではヨセフの立場から描写されています。主の使いが現れたとき2人は、自分達はふさわしい者ではないと、とまどい、ためらいます。しかし、主の使いは彼らの不安を取り去ります。
今日のルカ福音書での「わたしは主のはしためです」というマリアの言葉は、神への信頼なくしては出てこない言葉です。マリアは神様から恵みをいただいた特別な存在だと思うかもしれませんが、私たちも神様から多くの恵みをいただいているのです。
私たちは主の降誕を迎えるために、どれくらい準備が出来ているでしょうか?
主の降誕までの4日間、マリアをとおして私たちの信仰を見つめ直し、最後の準備として神への信頼を深めていきましょう。』

2014年12月15日月曜日

待降節第3主日

待降節第3主日を迎えました。待降節も半ばを過ぎ、いよいよ降誕祭が近付いて来ました。今日の朗読は、喜びに溢れています。
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙を引用します。
『いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。』

今日の御ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式によりおこなわれました。


勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。


『近年、カトリック教国である南米やフィリピンで、プロテスタント信徒の数が増えており、教皇様も危機感を募らせています。この原因としては、教会が宣教することなしにミサ・秘跡が行われている、ということが挙げられます。旧約の時代、バビロン捕囚の原因となったのは、ユダヤ人たちが偽りの平和の中で安寧をむさぼっていたことにあります。神殿があるということだけで神が守ってくれていると安心していたのです。ユダヤ人はバビロニアに同化してしまうという危機に直面しますが、聖書を持つことになり、やがて故郷への帰還を果たします。
神の国の民というのは、教会共同体に属する人だけではなく、全世界の民のことを指しています。クリスマスが近付き、巷では”キリストのいないクリスマス”に酔いしれています。私たちキリスト者は、本当に価値あるものを大切にし宣教を心がけていかなければなりません。』

御ミサの後、聖堂で勝谷司教様の講演が行われました。
司教に就任してからの、めまぐるしい1年間の想いをお話されました。また、教皇様の訪韓時のご様子などについてもお話をいただきました。


ご多忙の折、大変有難うございました。

2014年12月7日日曜日

待降節第2主日

待降節第2主日を迎え、アドベントクランツのローソク2本に火が点されました。

今日の御言葉は、マルコ福音書の冒頭部です。
イザヤ預言書に記されたとおり、救い主が訪れる準備として、主の道を整えその道筋をまっすぐにするために洗礼者ヨハネが遣わされます。

 先週は2件のご葬儀がありました。ヨゼフ西村五男さんは1922年生まれの古くからの信者さんで、常に教会を、特に聖歌隊を物心ともに支えて下さっていました、ヨゼフ荒木関孝神父様は1923年のお生まれで、1978年から10年間北一条教会主任司祭として私たちを直接ご指導下さり、教区においては一粒会の基礎を築かれました。待降節に入り私たちは罪を振り返り、ゆるしの秘跡を受け、降誕祭の準備を続けていますが、こうして自分を見つめる事が出来るのは、多く神父様方、先達のお陰であり感謝の気持ちでいっぱいです。
 また、今日は子どもたちの待者デビューがありました。今年初聖体を受けた子、初聖体の準備をしている子、小さな子どもたちが大人の待者に加わって奉仕をして下さいました。新しい息吹です、荒木関神父様、西村先輩の蒔いた種が小さな芽を出しました。
悔い改め、昇る朝日を待つように、穏やかな気持ちで主のご降誕を待ち望みたいと思います。

神父様のお説教の概要です。
『救いの時が近づくことによってイザヤの預言が引用され、ヨハネは悔い改めの洗礼を述べ伝え、救いの訪れの準備を人々に呼びかけます。救いの訪れを待ち望んでいた地上に、聖者ヨハネの出番が巡っり来て「道を整えよ」と叫ばれます。整えるとは悔い改め、回心すること、旧約の終わりを告げる意味があります。これは私たちの待降節の精神で、典礼の色は、救いの訪れを、悔い改め回心して待つ季節を表す紫に変わります。
待降節では私たちの信仰を振り返る機会を与えられています。神の不在を語る人が増えた現代社会、私たちの生活も色々な意味で多様化し、異なった価値観にさらされ、社会の中には至る所に荒れ野があります。私たちの信仰は主の道に繋がっていますか?私たちが歩んでいる道はまっすぐになっていますか?もし、まがっていたらどの様に直すことが出来ますか?
人間関係を直して、でこぼこ道は平らにしなくてはなりません。内にあっても、外にあっても平和な生活を目指す信仰者として、悔い改め、回心して、私たちの汚れた心を清めることで神のみ心に生きる事が出来ます。
私たちは洗礼によって過去の罪が赦され新しい命を与えられて歩んでいます。その命、道を、しっかり見つめながら主のご降誕を迎えましょう。
また、今日は宣教地司祭育成の日です。12月3日はフランシス・コザベリオの祝日でした。日本の教会はザベリオを始めとする、多くの外国人宣教師、修道会によって土台を作られています。今日の献金は、宣教地に派遣される司祭の養成のために集められ、日本の司教団を通してローマに送られ、そして全世界から集まった献金と合わせて宣教地に分配されます。日本は未だ布教国、宣教地とされているので、ローマから司教養成の献金が分配されますが、他の宣教地と比較し豊かな国になっている日本は献金を断っても良いのかもしれません。皆さんは今日の献金の目的、日本の宣教の歴史、日本の現況、を理解して祈りを込めて献金をして下さい。』



今日の主日ミサでは、3人の子供たちが侍者としてデビューしました。
ちあきちゃん、かれんちゃん、麻理香ちゃんの3人です。
3人とも緊張気味でしたが、りっぱに侍者のお仕事をつとめました。

奉納


献金


これからもよろしくお願いします!


御ミサのあと聖堂で、日本カトリック司教協議会から発効された「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」について、後藤神父様の講話がありました。
ミサに与かる態度や心構え、聖体を授かるときの所作について、30分ほどお話がありました。


2014年12月4日木曜日

ヨゼフ 荒木関 孝 神父様が帰天されました

札幌教区司祭 ヨゼフ 荒木関 孝 神父様は、11月30日(日)午後8時30分に、入院加療中の岩見沢市立総合病院で帰天されました。享年90歳でした。神父様の永遠の安息のためにお祈りしましょう。


12月3日(水)午後6時からカトリック北一条教会聖堂で通夜の儀が行われ、多くの参列者が訪れました。谷内神父様からは、生前の荒木関神父様の心温まるエピソードがご紹介されました。

葬儀等の日程
通夜                12月3日(水) 午後6時00分
葬儀ミサ       12月4日(木) 午前10時00分
場所                カトリック北一条教会 聖堂
喪主                勝谷 太治 司教様




2014年12月2日火曜日

教会学校クリスマス会のご案内

教会学校のクリスマス会を12月21日(日)13:30から、カテドラルホールで行います。
どなたでも参加できます。一緒にイエス様の誕生をお祝いしましょう!



2014年11月30日日曜日

待降節第1主日

今日から典礼暦では新しい1年がスタートします。
待降節を迎え、クリスマスまでの4週間に悔い改め回心し、幼子を迎える準備をします。

アドベントクランツの4本のローソクのうち1本に火が点されました。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


『新しい年を迎えるにあたり、大きく変わる出来事についてお話します。
日本カトリック司教協議会では、この度「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」を発効しました。この指針は、ミサの中で聖体を受けるときの方法や動作を通して、聖体拝領の意義や聖体に対する信仰と尊厳がしるしとして示されることを明らかにするとともに、信者が不安や混乱なく聖体を拝領することができるようにすることを目的としています。概要は「かてどらるの鐘」でもご紹介していますが、聖体を授与するときのことばが、「キリストの御からだ」に統一されます。拝領の所作についても具体的に示されています。来週の主日ミサの後、30分ほど勉強会をしたいと考えています。
もう一つは、教皇様は2015年を「奉献生活の年」とすることを発表しました。期間は今日(2014年11月30日)から2016年2月2日までとなります。この1年は、奉献生活における希望を新たにし、福音の預言的あかしを奉献生活により深く浸透させるために費やされます。
さて、今日は待降節第一主日で、アドベントクランツのローソクにも1本火が点されました。今日からクリスマスまでの4週間は、私たちにとってどのような意味があるのか考えてみましょう。待降節の期間、私たちは神様がマリア様をとおしてお遣わしになる救い主である幼子を迎える準備をします。悔い改め、回心し、心の準備をします。今日の第一朗読(イザヤ63・19b)にある「どうか天を裂いて降ってください。」は主の降誕と結びついており、救い主への期待と希望へと繋がっています。
私たちは、ただ待つのではなく、期待して希望して待つことが大切です。』

御ミサの後、聖堂には馬小屋、玄関前にはクリスマスツリーを、そしてリースが飾り付けられました。



玄関の上に飾られているリースを作ってくださった西村さんが本日帰天されました。
主の御許で安らかに憩われますようお祈りいたします。


2014年11月23日日曜日

11月23日(日) 王であるキリスト(祭日)

教会の典礼暦では今日が年間最後の主日になります。今日の福音(マタイ25・31-46)は私たちに愛の奉仕の大切さを教えてくれます。

来週からは、新しい一年、待降節が始まります。
降誕祭を迎えるために、今日の福音と神父様のお説教をヒントに、心から出た愛の奉仕について黙想しましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『皆さんが季節の変わり目を感じるのはどういう時でしょうか?
春ですと進級や就職など、そして、今この時期ですとクリスマス商戦でしょうか。
教会も新しい季節を迎えようとしています。
典礼暦では、今日の「王であるキリスト」の祭日が年間の最終主日になります。
そして、今日のみ言葉(マタイ25・31-46)は、終末を迎えるときのキリスト者としての私たちへ、愛の奉仕がいかに大切なことなのかというメッセージが込められています。
当時のパレスチナでは、羊や山羊がいたる所で飼われており大変身近な存在だったようです。羊と山羊は日中は一緒に放牧されていたようですが、夜になると分けられました。今日のみ言葉では、このことをたとえに使っています。
人々は神の前に集められたとき、右と左に分けられました。なぜ分けられたのか?それは、その人が行った愛の奉仕によるものです。キリストは王であることを宣言し、裁きの座に着き最後の審判を下します。
私は聖書を読むとき、その中に自分を置いてみることがあります。私は山羊だろうか、羊だろうかと、そんなことを考えると怖くもなります。しかし、王であるキリストの前で、自分自身の行いについて黙想し振り返ることによって気付かされることがあります。これはとても大切なことです。
キリストは言われます「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。神様に祝福された人、それは純粋な心で無意識のうちに”小さい者”に手を差し伸べる人々のことです。反対に呪われた者とは、「もし目の前にイエス様が現れたなら跪いて捧げものをするのに、それが貧しい人や汚い身なりの人であったら、気付かない振りをして通り過ぎてしまう」そのような人たちのことでしょう。
私たちも祝福された人になるように変わらなければ、裁きの日にどのようになってしまうのでしょうか?
主の降誕が近づく中で、私たちの身近にもいる貧しい人、小さな人々、悲しみを心の中に抱えている人々と共に、本当の平和を歩むことが出来るように、共に祈り、そして新しい一年に向かっていきたいと思います。』


前田さん、今朝も寒い中、有難うございます!
いつも主日ミサの前には、教会の駐車場の整理をしてくださっており、一人一人の信者さんに声をかけてくれます。


御ミサの後、カテドラルホールで「DVDを観る会」が行われました。
今年の8月29日に放送されたNHK BS1スペシャル「憎しみとゆるし~マニラ市街戦 その後~」
昭和28年、当時のキリノ大統領は恩赦を決意し、BC級戦犯全員の日本への帰国を認めました。
大統領の家族をはじめ、多くの人々が日本軍の手によって犠牲になったのにも関わらず。
「憎しみを忘れなさい。憎しみにとらわれてしまうと、子供にも憎しみが受け継がれてしまうから」
戦争の悲惨さ、平和の尊さ、人間の尊厳とは、キリスト者としての生きかたとは?
多くを語りかけてくれる内容でした。
見逃した方は、宣教養成部 石井さんからDVDをお借りすることができます。


2014年11月16日日曜日

年間第33主日 -タラントンのたとえ-

札幌では数日前から寒気が入り込み例年よりも一足早い積雪となりました。
教会の裏庭も雪で覆われました。
教会暦では来週で一年の典礼が終わり、再来週から待降節を迎えます。


今日の福音(マタイ25・14-30)は「タラントンのたとえ」です。私たちは神様から授かった賜物を活かしているでしょうか?
今日から聖書週間が始まります。聖書に少しでも親しむようにしましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『本題に入る前に、聖書週間のお話をします。
今日から聖書週間が始まります。
聖書は私たちにとって、とても大切なものですが、自分の家の聖書はどうなってますか?埃をかぶってはいませんか?
私たちは聖書を大事に思ってますが、頻繁に手に取ることは難しいことです。そのような現実から、聖書に少しでも親しむようにということで、聖書週間が設けられています。
聖書がいくつの書物から成っているかご存知ですか?
一般的には、旧約聖書が39、新約聖書が27で、併せて66になります。
カトリック教会では旧約聖書に7つ加えて、全部で73という数になります。
どうか、この聖書週間をきっかけに、聖書に少しでも親しんで、新しい年を迎えて欲しいと思います。

教会の暦では来週で1年が終わり、つぎの週の待降節から新しい年が始まります。
待降節が近づくと今日の福音のように終末を思い起こさせる話が多くなっていきます。
今日の福音(マタイ25・14-30)は「タラントンのたとえ」です。
タラントンはギリシアの貨幣単位であり、約20年分の賃金に相当する高額な価値になります。英語読みではタレント、つまり才能や技量を意味します。
主人からタラントンという高額な財産を預けられた僕というのは、神様から授けられた賜物(能力、才能)を持つ私たち一人一人のことを指し示しています。そして神様の恵みは何と大きいものなのかということが例えられています。
私たちは、神様が授けてくださった賜物を、喜んで預かり良いことに使っているでしょうか?福音の中で1タラントン預かった僕のように、せっかくの賜物をしまい込んでいないでしょうか?罪を犯すことを恐れて何もしないでいることは、罪を避けることはできても神様からは、「怠け者」と言われるかもしれません。
神様から授かった賜物を眠らせたままにするのではなく、それを活かし、神様と一緒に喜びを共にし、幸いな人を呼ばれるようにしましょう。』

聖園幼稚園の旧園舎が取り壊されました。やはり寂しいですね。





2014年11月9日日曜日

11月9日(日) ラテラン教会の献堂(祝日)

今日の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。

共同祈願では、ラテラン教会の献堂の日にちなんで、2年後に控えた当教会の献堂100周年に向けた祈りが捧げられました。





勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。
『今日は、神殿とはいったい何であるのかということを考えてみたいと思います。福音朗読(ヨハネ2・13-22)で、イエス様はエルサレムの神殿から、いけにえとして捧げられる動物を売る商人たち、両替商を追い出しました。祈りの場とはどういうものなのかをはっきり示すための行為だと思いますが、旧約時代の神殿そのものを大切なものと考えたうえでのことではなかったようです。そもそも神殿とは、ヨハネ福音書の最初の方にあるように「人となったみ言葉は私たちの内に住まわれる」という意味を持ち「神がともにいてくださる」という象徴だったわけです。
「神がここにおられる」というのが神殿であるならば、神ご自身が人となって人間の中に住まわれる、つまりイエス様ご自身が神殿そのものであるという意味なのです。
このことは旧約時代の神殿の終わりを告げるものでもあったわけです。
第2朗読でもパウロが「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と語っています。
では、この建物としての教会は何を意味するものなのでしょうか?
神を信じる人々の集いを意味するものなのです。』

勝谷司教様は月1回程度、この司教座聖堂で主日ミサを司式される予定となっています。
次回の予定は、12月14日(日)です。

御ミサの後、恒例行事の「秋の大掃除」を行いました。
大掃除の後、D地区の皆さんがご用意いただいたあったかーい豚汁をいただきました。
皆さま大変お疲れ様でした。

2014年11月3日月曜日

「死者の日」

3年前の東日本大震災、被災地の各所に聖職者が近付けない遺体安置所がありました。
カトリック、プロテスタント、そして仏教、新興宗教の聖職者も近付けなかったのは、政教分離の問題が生じたからでした。死に対する思いは個人差こそあれ、民族、宗教、男女等による違いは無い筈です。
死者の日の今日、北一条教会ではこれまでの慣習を打ち破り、教会の信徒だけではなく、宗派、宗教、時間を超え、全ての逝去者への追悼をしました。死者の日のミサに与り、祈りを通じて、私たちが生かされていること、キリスト者共同体の結びつきを更に展延した一体感を覚醒した1日でした。



<後藤神父様のお説教の概要です>
ロザリオの月が終わり、死者の日になりました。毎年、死者の月になると40数年前の神学校時代の事を思い出します。神学校行事で府中墓地に墓参をした時、はっきりとした記憶ではありませんが、ある墓碑に「やあ、また来てくれましたね、~、あなたもいつの日かこうなるのですよ」とありました。墓参に行って「また来てくれましたね」と語りかけられる事が初めての体験だったので、大変衝撃的でした。そしてその墓碑との出会いによって、死ぬと言うこと、今生きているということ、そして私たちの信仰のことを深く考えるようになりました。情報化時代の現代、生きている人間同士のコミュニケーションが無くなってきていますが、死者の日の今日は、亡くなった人とのコミュニケーションについて考えてみたいと思います。
皆さんの中には、祖父母が亡くなられている方、若しくはご両親が亡くなられている方も居られると思いますが、私たちは、そうした先祖との繋がりの中で命を与えられています。私たちは、亡くなった人との様々な出会い、様々な繋がりを持って満たされているのです。
先日、札幌市内の合同墓参がありましたが、合同墓参はカトリック墓地に眠る身内、知人のためだけにではなく、全ての死者のために祈り、追悼をする精神を大切にして行われています。家族も無く、誰からも思い出される事のない、誰からも顧みられることのない魂が、亡くなられた方がいる事にも思いを寄せ、暖かい心からのお祈りをして欲しいと思います。世界中の教会が同じ思いで、同じ意向でミサを奉げます、教会の伝統の中で、全ての死者のために、今日一日を掛けて思いを巡らし祈ると言う事は大変素晴らしいことです。
父なる神は、はかり知れない慈しみと自由でもって、キリストを通して全ての人を救済しようとして居られます。私たちの先祖、両親もまた、聖人の列に加えられて天国で共に私たちを見守り祈りを奉げて下さっています。今日はその様な思いを強くし、私たちと死者との繋がりを考えながら祈りを奉げたいと思います。
「わたしのもっとも小さな兄弟のひとりにしたことは、私自身にしたことである」
「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を捨てるものはそれを受ける」
とイエスは語られています。
私たちの信仰、私たちの信仰の生き方も、そうしたキリストに向かって絶対なる信頼を持って生きている時、私たちの愛は惜しみなく実践されます。
時が来れば誰にでも死は確実に訪れます。死を免れたいと願っても人間の力では抵抗する事はできません。私たちはキリストに全信頼を置いて、悲しみの向こうに希望がある事を見据えて歩き続けるのです。
死者の日に、あらためて身近で亡くなられた人々を思い浮かべると同時に、全ての死者にも心を寄せて祈って欲しいと思います。私たちを天の国から見守って下さる諸聖人たち、そして先祖や全ての死者のために、わたしたちの暖かい真心の祈りを奉げる日でありたいと思います。


2014年10月26日日曜日

年間第30主日 障がいと共に歩む札幌大会・プレ大会

10月26日(日)藤女子大学で、日本カトリック障害者連絡協議会(カ障連)・札幌大会を来年に控え、プレ大会が開催されました。
150名が参加し、「主の食卓に招かれたものは幸い」をテーマに、講演、分科会、ミサが行われました。北一条教会からは15名の参加がありました。



大会実行委員長の高橋氏、カ障連会長の宮永氏からご挨拶の後、
札幌大会担当司祭 場崎神父様の講演「主の食卓に招かれたものは幸い」がありました。


場崎神父様は次のようなお話をされました。

『私たちは何かにつけ、美しい言葉を口にはするけれど、心の奥底には醜いものもあることを一番良く知っているのではないでしょうか?
過去の歴史を振り返ってみても、人間の欲望やエゴによる所業には枚挙にいとまがありません。
私たちの教会の現実を省みてください、教会の中心が「健康な人」になってませんか?本当に苦しんでいる人たちが入りづらくなってはいないでしょうか?イエスは誰を招くために来たのか、それは病人や罪人たちであったはずです。
人間とは弱くて脆い存在です。厳しい社会の現実の中で、社会から弾かれ切り捨てられようとも神様は決して見捨てることはありません。
ヨハネ福音書9章で、イエスは生まれつきの盲人の男を前にして、因果応報を口にした弟子たちに言った言葉があります。「神の業がこの人に現れるためである」。この聖書のみ言葉を私たちは本当に正しく理解しているでしょうか?病気や障がい者に対して上から目線で、このイエスの言葉を押し付けたり諭してしまっていないでしょうか?大事なことは、その人が自分でみ言葉を消化し、咀嚼していくことなのです。
善いサマリア人のたとえにあるように、私たちに求められているのは、上から目線からの同情ではなく、その人の立場にまで下りて、痛みを共にし、相手の苦しみを自分の苦しみとすることです。』

午後からは、分科会が行われ17グループに分かれ、テーマに沿って分かち合いが行われました。



各分科会で話し合われた内容は、御ミサの中で共同祈願として捧げられました。


来年の本大会に向けて、また、その後の教会共同体に向けて、「手と手を携えてあなたと生きる」という実践の輪が広がっていくことを願います。



2014年10月19日日曜日

年間第29主日

今日は雲一つない快晴でした。
日中の気温はこの時期としては珍しく20℃近くまで上がり、
ぽかぽか陽気とまではいきませんが、過ごしやすい一日でした。

今日のミサはベネディクトハウス館長の新海神父様が、後藤神父様と共に司式されました。


新海神父様のお説教の概要です。
『私は、いつもお説教の際は、テーマを決めてお話しするようにしています。
今日のテーマは、”油注がれたものキリスト”です。油を注がれるとは”神によって特別な使命を授けられること”を意味しますが、旧約の時代では、王や預言者がその対象となっていました。
それでは、イエス様は、いつ、どこで、誰に、油を注がれたのでしょうか?
新約聖書では一箇所だけ、イエスが油を注がれる場面が出てきます。
それは、ヨハネ12章に記されているベタニアでマリアがイエス様の足に高価な香油を塗った出来事です。これによってイエス様は”油を注がれたもの”になったものと思っています。
先週、北26条教会で「おやじの会」が行われました。参加者の平均年齢は70歳代とのことで、これまで教会を支え発展に寄与されきた方々です。
これからの教会を考えるとき、私たちが省みなければならないのは、自分達の子供や孫に”信仰”をきちんと伝えているだろうかということだと思います。
勝谷司教様が中心となって札幌教区の将来像が描かれていますが、今日のみ言葉「神のものは神に返しなさい」ということを心にしっかりと刻みたいと思います。』


主日ミサが終わった午後、秋晴れのもと、午後2時から白石墓地で札幌地区の合同墓参が行われました。
札幌地区の司祭、修道者、信徒など300名程が集まり、後藤神父様の司式により天に召された方々のためにお祈りを捧げました。
今回は、北一条教会が合同墓参の担当教会でした。

写真は事前の会場準備を終えてほっと一息という場面です。








2014年10月12日日曜日

年間第28主日 -婚宴のたとえ-

今日の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。
勝谷司教様はこの10月で、司教叙階1周年を迎えます。おめでとうございます。


司教様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の福音の箇所(マタイ22・1-14)にある王の婚宴の席とは、言うまでもなく私たちのこの教会を意味しています。
そこには、善人も悪人も皆招かれていました。つまり教会のメンバーとなる人は、決して倫理的に正しい生き方をしている人だけが招かれているのではなく、むしろ弱さ、罪深さで苦しんでいる人たちこそが招かれているというメッセージを感じます。
招かれた客の中にいた婚礼の礼服を着ていないものが放り出されたとありますが、「礼服」とは、王の招きに対してふさわしく応えようとしていないことを表しています。
では、ふさわしく応えるとはどういうことなのか?
ここは解釈が大変難しいところですが、従来の教会では恐らく、招かれたにもかかわらず教会の教える倫理的に従い正しい生き方をしないものは教会から排除される、つまり従来の掟で人を裁くというのが教会の姿勢であるように思います。
しかし、今の教皇フランシスコは、何とかそのような教会の姿勢を脱却させようとして、頻繁にメッセージを送っています。教会の掟によって人を裁くのではなく、むしろその人の持つ痛み悲しみに共感して、私たちはそれに寄り添うようにしなければならないと。
現在、司教会議で議論されている具体的な例としては、離婚して再婚した人の聖体拝領をどうするか、日本では合法ではありませんが同性婚の問題、シングルマザーなどが挙げられます。これらの人たちは教会の掟によって排除され切り捨てられている人たちです。
教皇フランシスコの考え方からするなら、「礼服」を着ないでここにいる人とは誰なのか?、それは「互いに愛し合いなさい」というキリストの招きに対して、愛を身に着けていない人と言い換えることができます。愛とは、赦しと慈しみに満ちた交わりの中に身を置くことを意味しています。
共同体の中での異なる考えや、皆と同じように振舞えない人たち、様々な事情を抱えた人たち、そのような人たちの痛みに寄り添うことが共同体に求められています。』

2014年10月5日日曜日

国際デー(札幌教区)

 今日は国際ミサ、国際バザーが行われました。国際ミサは、9時ミサ(日本語)と12時半ミサ(英語)をジョイントさせたもので、8月31日に続いて今年2回目です。8月31日のミサは北一条教会独自の取組みでしたが、今日の国際ミサは札幌教区の取組です。そして、勿論司教ミサです。例年は9月第4週に開催されていますが、今年は教区司祭黙想会、札幌地区使徒職大会等、種々教区行事の関係で1週間遅れでの開催でした。
 勝谷司教、北一条教会主任司祭の後藤神父、うぇるかむはうす担当の祐川神父が入堂され、栄光の賛歌「GLORY TO GOD」で雄渾な雰囲気に包まれミサが進みました。第1朗読はタガログ語、答唱は日本語、第2朗読は英語、福音は英語と日本語、説教は日本語で、そして共同祈願は8人の母国語で行われました。説教では、旧態依然としている北一条教会への期待を込められたお話もいただきました。勿論、聖堂が様々な国籍を持つ信徒と、北一条教会を始めとする市内の各教会の人たちで埋め尽くされたことは言うまでもありません。
 先週の「世界難民移住移動者の日」に向けて発信されていました、教皇フランシスコのメッセージ
『教会は、あらゆる人々を受け入れ、彼らに福音を告げ知らせる神の民になるよう求められています。すべての人は神の子です。移住者と難民は、問題をもたらす存在ではなく、歓迎され、尊重され、愛されるべき兄弟姉妹であることを認識し、他の人々にも認識してもらう必要があります。彼らは、より開かれた福音的なキリスト教共同体を築くのを助けるために、神の摂理がわたしたちに与えた機会なのです。移住は、新しい福音宣教への可能性を生み出し、過越の神秘のうちに前もって示されている新しい人間をはぐくむ場を広げます。新しい人間にとっては、どんな異国も母国となり、どの母国も異国となるのです。(要約)』
を読み返してみて、
昨日のバザー準備から後片付けまでに参加し、16世紀以来、外国の人たちが日本の教会に齎して下さったものの大きさを振返り、北一条教会が日本人の教会ではなく、この地で社会生活を営む全てのクリスチャンの教会であること、日本人、外国人を問わず様々な環境下で苦しむ人々の拠り所となる教会であることを再確認し、「不易流行」と「ニーバーの祈り」が思い出された一日でした。





勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『今日の福音はイスラエルの指導者たちに向けられたものです。
神のブドウ園を任された彼らは、委ねられた使命を果たそうとせず、神から管理を任されたブドウ園を我が物にしてしまおうとします。当時のイスラエルの指導者、長老、祭司たちへの厳しい批判が込められています。今日の福音を現代的に解釈、解説をしますと、神のブドウ園は言うまでもなく全人類、この地球上に住む全ての人のことです。と同時に、私たちが生活するこの社会に対する責任が問われています。では、祭司よ長老という民の指導者たちとは誰でしょうか?司祭、修道士、あるいは政治家でしょうか?ここで言われる彼らは、ブドウ園の収穫を得るために神から管理を託された者たちです。福音書には似たようなたとえ話で、タラントンのたとえ話があります。このたとえ話では、与えられたタレントとは一般的に個人に与えられた才能、環境の意味で解釈されています。
今日のたとえ話では、タレントのたとえ話と組み立ては同じですが、私たち個々人がそれにどう答えられたかが焦点になっています。神から多くの賜を受け、それを用いて世界に奉仕するように言われているのは、一部の個々人や指導者ではなく、神からその使命を受けている全ての信者です。そう考えると、今日の福音は、全てのキリスト者共同体に向けられたものです。
キリスト者共同体がイエスに問われています。即ちこの札幌の地にある私たちのブドウ園は、効果的に福音を伝えているでしょうか?札幌教区は、外国から宣教者が大勢来て、創設され、外国の経済的支援で教会を建てたのが宣教の始まりです。その結果として、日本の信徒たちは常に与えられることが習慣となり、不幸にして、司祭に頼って、司祭に従うメンタリティーが定着してしまいました。そして、宣教師たちが札幌を離れ、経済的支援が無くなった今、そのメンタリティーはそのまま残っています。そのために札幌の信者たちは外に出て行こうとしません。聖職者について言えば、その減少と高齢化のため、彼らは小教区の現状維持で大変忙しくなっています。札幌の小教区の特性は宣教型ではなく現状維持の司牧型になり、福音宣教の力強さが無くなっています。
先だって、ローマで行われた新司教研修会において、アフリカ、インド、東南アジアはとても若い教会だと感じました。特にお隣の韓国は、60歳を過ぎると主任司祭を引退させられ、名誉職が与えられて仕事をします。札幌教区では60代は若手で、若いシスターもいませんが、シスターは若く溌剌とし、歩くスピードも違います。危機感を感じて帰ってきました。
教皇様は、使徒的勧告『福音の喜び』の中で「現状維持に滞ることなく、全ての共同体が司牧的且つ宣教的な改心の道を進むために必要な手段を用いることを期待しています。必要とされるのは常に単なる管理ではありません。地上の全ての地域で『絶えず宣教地区』であることを目指しましょう。」と訴えられ、そして、出向いて行く教会=『The Church which goes forth』、ということを強調されています。私は、札幌教区のキリスト者共同体は「神の国のレストラン」、「旅する教会」「配達する教会」をイメージしていたものだったので共感を覚えて読みました。私は、私たちの教会が必要とされているのは、レストランにいる人への奉仕ではなく、レストラン、教会から外に出て福音を届けること、その使命が信徒に委ねられていことを言い続けて来ました。このイメージの大切なことは、一人ひとりが孤独に努力するのではなく、共同体として働くと言う事です。私たちは福音宣教への新しい挑戦を必要としています。
教皇様は使徒的勧告『福音の喜び』の中で更に以下のように続けられています。「宣教を中心とした司牧では、‘何時もこうして来た’という安易な司牧基準を棄てなければなりません。皆さん、是非自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すという、この課題に対して大胆且つ創造的であって下さい。目標を掲げても達成のための適切な手段を共同体が行わなければ、単なる夢に終わってしまうでしょう。この勧告の方針を、惜しみなく、勇気を持って、恐れたり、禁止事項を設けたりせずに適用するよう皆さんに勧めます。」
現実的に札幌の教会で何を大胆に変えるよう求められているのでしょうか?一つのヒントが、今日の国際デーです。札幌の共同体は、教皇様が言う‘何時もこうして来た’にしがみついているように見えます。日本の教会運営は、メンバーのみが加入出来てサービスを受けられる、会費を支払って教会の正会員になれる、サロンに似ています。しかしそれは全くの間違いです。どこの国籍の人でも、長期滞在中の旅行者でも小教区民と見做されます。彼らはキリスト者共同体のメンバーとしての権利と義務を有するのです。それなのに、外国から来ている人、小教区に転入登録をしていない人は何時までも小教区のお客様です。小教区において日本語と英語のミサが行われていることに誰も意見を表しません。旅行者のためのミサは必要かも知れませんが、長期滞在している外国人はこの教会の小教区民です。そして、外国からきている彼らこそ日本の伝統を打ち破るセンスを持っています。
他の教区では、新潟の新庄教会や仙台の大船渡教会の例があります。新庄教会は信徒の9割がフィリピンの信者ですし、大船渡教会は震災に遭い、自分たちの教会に沢山のベトナム人や、フィリピンの人たちが居ることを発見し、その後に外国人が教会メンバーとしてその運営に参加し、世に生き返ったかのような活気に満ち、異なる文化、新しい考え方で小教区に影響を与えています。道東の幾つかの小教区では主日のミサが国際ミサになっています。私が訪問した小教区の雰囲気は、活気に満ち、彼らは典礼の中で其々の役割を持っています。チャレンジすること、変えて行くことに憶病にならないでください。失敗をしてもそこから学んでいけば良いのです。
福音の喜びの中の教皇様の言葉で説教を終わりたい。
「出向いて行きましょう。私は出て行ったことで事故に遭って、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んでいる教会より好きです。中心になろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られて閉じ込んだまま死んでしまう教会を私は望みません。外には大勢の飢えた人がいます。そして、イエスは絶えず教えられるのです。あなたが言って食べ物を与えないさい。」』



 ミサの後は、「うぇるかむはうす」が中心となって準備を行ってきた教会中庭での国際バザーです。以前の国際フェスティバルと比較しますと規模は小さくなっていますが、様々な国籍を持つ外国人、市内各教会信徒、カトリック関係諸団体の方々、近隣地域の方々等大勢の参加を得て、今まで以上に盛り上がり、そして参加者の顔もわかるとても素晴らしいバザーでした。





毎年行われている「国際デー」も、いろいろ課題があるようです。司教様の言われていたように、外国人と日本人の垣根が取り払われ、共により良い共同体を築いていけるようにお祈りします。