2015年9月27日日曜日

年間第26主日 世界難民移住移動者の日

今年の国際デーは教区主催の国際ミサを取りやめ、各小教区単位でのミサとなりました。北一条教会では勝谷司教様の司式により英語ミサとの合同ミサを行いました。


写真左から、後藤神父様、勝谷司教様、ハン神父様

準備に時間がなかったため、外国人信徒の参加者は少ないものとなってしまいました。
また例年、北一条教会で行われていた催しも今年は見送られることになり、とても寂しい国際デーとなりました。

札幌市内で唯一、英語ミサが行われている北一条教会はここ数年、教会行事等をとおして同じ共同体に所属する信徒同士として繋がりを深め合っていこうという姿勢で取り組みを行ってきています。
今年は仕切り直しの年となりましたが、ぜひ来年につなげていけるような一年となりますようお祈りしたいと思います。

今日のミサでの勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。

『昨日、韓国からの修道者とともに原発被災地を訪れてきました。
そこで感じたことは、津波被害と原発被害では被災者に対する保障内容が異なることによって、被災者同士、被災者を受けている地域の中で、不満の種が生まれているということでした。このような住民同士の分断を生むような政策に対しては非常に疑問を感じました。
なぜ最初にこの話題を出したのかというのは、私たちが気の毒な人たちを受け入れる、助けるという時に気を付けなければならない心の姿勢についてお話ししようと思ったからです。
私たちは”神の憐み”というものを受け入れるということに対しては、すんなりと腑に落ちるのですが、それが”神の愛”を受け入れるということになると相当な困難を感じます。
それは、自分たちは”かわいそうな”立場の人に対しては、助けてあげたいという思いで手を差し伸べますが、いったんこれが自分たちと同じ”立場”に立つと、とたんに排斥しようとする。これは自分たちよりも下にいる立場は憐れむという姿勢ですが、神の愛はそうではありません。神の憐みというのは、泥に埋まっている人に対して、自分が汚れないところから救いの”ロープ”を投げかけるのではなく、自分も泥に埋まりながら救いの手を差し伸べる、というのがイエス様をとおして示された神の愛です。
これは、憐みと愛の違いについて、一般的に私たちが受け入れている感覚とは異なるということを示しているのだと思います。憐れむべき人たちがいったん自分たちと同じところに上がってきて自己主張するとき、それでも一緒に受け入れて共に生きていく、その人たちの痛みを自分の痛みとして抱え、その人たちの過去に思いを馳せ、そして未来を共に築いていく、これが愛の姿勢であるわけです。
以前、日本にもベトナム難民がボートピープルとして大勢押し寄せてきたときに、同じようなことがありました。彼らに対し仮の定住施設を作るというときの住民説明会では、難民を受け入れるということに対して誰も文句は言わなかったのですが、自分たちの地域の共同体の中に彼らが住むということに関しては拒否反応を示したのです。
今世界中で注目されているシリア難民に対しても、ヨーロッパ諸国ではかなりの人数の受け入れが決まりましたが、日本ではごく僅かな対応しか示されませんでした。
今後の流動的な国際情勢の中で、私たち日本人は国や国境の在り方について根本的に見直さなければならない時代に入ってきているのではないかと思います。
私たちが国際的な意味で苦しんでいる人たち、迫害されている人たちに対し、どのように支援し受け入れることができるのか、これは私たちにとっての切実な問題として考えていかなければならない問題だと思います。』

2015年9月21日月曜日

年間第25主日 敬老の日を迎えられる方々に感謝を込めて

日に日に陽が短くなり、秋の訪れを感じるようになってきました。
先週、旭岳では初雪が確認されたとのことです。
21日の「敬老の日」を明日に控えたこの日の主日ミサでは、神父様のお説教の後、敬老者のためのお祈りが行われました。




後藤神父様のお説教をご紹介します。


『明日は敬老の日です、敬老の日というと私は秋の季節の訪れを感じます。
今日はミサの中で敬老の日のお祈りを捧げることになっています。先日、福祉部の方からこの教会の75歳以上の方々の名簿を渡されましたが、対象の方の人数は昨年と変わらず143名ということでした。その中で90歳を超えられている方は15名おられました。私たちにとっては教会を築いていただいた方々といえます。この聖堂が建てられてから100年という歴史を私たちは歩んでいますが、この教会を作り上げてきた方々が、明日の敬老の日を迎える方々ではないかと思います。そのことを考えると大変感慨深く、心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。このミサの中で感謝と共に、今後なお一層、神の祝福を受けて、祈りをもって私たちを導いて下さる高齢の方々に祈りを捧げていきたいと思います。
先週からこの敬老日を迎えるにあたって新聞でも多くの記事が出されていましたが、北海道には100歳以上の方々が2,830名おられるという記事がありました。教会の名簿上では100歳以上の方は見つからなかったので、この教会の高齢者の方々は新聞報道からみると、まだまだ若い方々のように感じます。どうぞ神様の祝福のもとに、益々元気で私たちのために頑張っていただきたいなと思います。特に祈りにおいて、私たちの教会をいつも見守り支えていただきたいと願っています。
誰にとっても生きるということは年を重ねていくということです。ですから老いるということは若い人にも関係してくることです。老いるという言葉は、どうしてもマイナスのイメージとして捉えがちですが、神の恵みを日々いただいている、そして長寿を迎えているということであれば、心から感謝の気持ちが深くなってくるのではないでしょうか。そして一層元気で生きられるように、また家族や子供達のために、いつまでも祈りを捧げることができるようにと誰もが願うのではないでしょうか。
今日は特に、教会を支え、私たち一人一人のために労苦を惜しんで教会のために働かれた方々の上に、敬いの心を持って、皆さんと一緒に感謝のミサとしたいと思っています。

先週は教会のバザーがありました。フィリップ神父様がお説教をしてくださりましたが、先週のみ言葉がどんな内容だったか思い起こすことができるでしょうか?
先週のみ言葉の中で、イエスは受難の予告をして、弟子として生きる道を諭されていました。それは自分の十字架を背負うというものでした。
今日のみ言葉は二度目の受難の予告をされている場面から始まります。そして”従う”ということを具体的に示しているのが今日のみ言葉です。
”従う”それはとても大切なことですが、簡単に生きらることではありません。弟子達はイエスから受難の予告をされ大変戸惑いました。そして自分中心の考えが心の中を占めてしまいました。人間は誰でも、褒められたい、評価されたいという気持ちを持っています。さらに人間の本性として、様々な欲求が心の底でうごめいています。それは自尊心であったり、利己心、独立心であったりと様々な欲望があります。これらの欲望は時に、間違った考えを引き起こす危険性を持っています。弟子達もそのような欲望に駆られ、自分中心に考えてしまったようです。イエスが十字架の道を説き、弟子として仕えるためにどのように生きるかを教えていたにも係らず、「誰が一番偉いのか?」と、そんなことを議論したと聖書は記しています。私たちもそうだと思います。聖書をとおして教えられていること、信仰をとおして何を大切にしていかなければならないかは、誰でも口では語ることができます。しかし、口で簡単に言えることであっても、実際に実行しそれを生きるということが難しいということも私たちは知っています。ですから平和を願いながら、戦争も辞さない未来に向かうことも許されることになってしまいます。そのような法案が通過して、現実の厳しさが私たちには十字架ともなっていくように、私は考えてしまいます。
苦しみ、困難、危険さえ背負って、イエスもまた十字架の道を歩まれた方です。
一方で、私たちはどんな十字架を背負っているのだろうか?私たちは自分の十字架さえ肩から引き離して、投げ出そうとしていることはないだろうか?そんなことも考えてしまいます。
イエスが弟子達に願ったことは、仕えられる側ではなく、仕える側になること、人を救うため、平和を築くため、ということであったと思います。「平和があるように」と復活のイエスは弟子達の前に現れています。私たちが本当に心から願う平和のために行動できるように、生きることができるように、自分の十字架をしっかりと担うように、という覚悟を求められているような気がします。』

2015年9月13日日曜日

年間第24主日 チャリティバザー「かてどらる祭」

今日の主日は英語ミサとの合同ミサでした。
御ミサの後、チャリティバザー「かてどらる祭」が行われ、あいにくの雨でしたがたくさんの人たちで賑わいました。

御ミサは、後藤神父様とフィリップ神父様の共同司式により行われました。


フィリップ神父様のお説教の概要をご紹介します。
『「あなたがたは私を何者だと言っているか?」とイエスは弟子達の告白をお尋ねになりました。
告白の例えとして、恋人にプロポーズするとき、その相手の答えは分かりません。
これは難しい質問です。

私も皆さんにお聞きしたいことがあります。
「教会は何だと思いますか?」
ある人はチャリティだと言います。
教会はそもそもチャリティを大切にしています。
教会は最初から、学校、病院、大学などボランティア活動をしています。
また、ある人は個人的に祈る場所だと言います。
これは個々人で感じることです。

教会は神様のいつくしみに出会う場所です。
イエス様からの教えは、言葉だけではむなしいです。
お説教の後、私たちは使徒信条を唱えます。
口だけではなくて、行いも伴いますように。
私たちの信仰が、人生の中で実現できるように。
ペトロにならって信仰を唱えましょう。
ペトロとともに、イエス様にならって永遠の命の道を学びましょう。』

聖体拝領では、聖園こどもの家の120名の園児たちが神父様の祝福を受けました。

ごらんのように祭壇の前は子供達でいっぱいになりました。


御ミサの後、教会の敷地内でチャリティバザーが開催!

英語ミサの皆さん、聖園こどもの家のこどもたちと父兄の皆さん、

あいにくの雨でしたが、たくさんの皆さんで賑わいました。

収益金は全て慈善団体に寄付されます。

神に感謝!






(ピンボケでごめんなさい)


2015年9月6日日曜日

年間第23主日 札幌地区使徒職大会

9月6日(日)午前9時30分から、会場は昨年と同じく札幌光星学園体育館で札幌地区使徒職大会が行われました。教区100周年を迎えた今年のテーマは「新しい100年への宣教を考える」。勝谷司教様からのメッセージにもあるように私たち信徒一人一人が「共同体」「宣教」「召命」について考えていく1年となります。



札幌地区長の後藤神父様の開会挨拶では、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」という聖書のみ言葉にもあるように、これから新しい宣教に向かって歩みを進めていきましょうという呼びかけと、今回の大会運営に携わった方々への感謝の言葉がありました。

後藤神父様の開会挨拶


勝谷司教様の講演



続く講演会では、大会テーマを演題に勝谷司教様からご自身の年頭司牧書簡で述べられている「出向いていく教会」について、現状の教区が抱えている課題と今後の方向性、そして教皇フランシスコのメッセージを交えながらお話がありました。
「札幌教区はかつて外国の援助もあって次々と小教区教会や諸施設が建てられ司祭が派遣されました。しかし現在では、信徒の高齢化、司祭の不在など様々な課題が顕在化してきており、教会はかつての福音宣教の拠点から、建物・共同体の維持管理に重点を置いた司牧へと軸足が移ってきています。今の教会運営の中心を担っている団塊の世代の信徒がこれからさらに高齢化に向かうことを考えると、教会の将来はどうなってしまうのか、これは今私たちに突きつけられている切実な問題です。
向かうべき方向性は、建物に頼らない「教会」をつくる、そして信徒による福音宣教、これは宣教する教会共同体を目指すということです。これらについて他に選択肢がないのであるならば、それは「神の意思」であり、現状は「時のしるし」なのです。
教皇様は私たちに向けたメッセージの中で、“洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです”“新しい福音宣教は洗礼を受けた一人ひとりが主人公なのです”とお話されています。私たち一人ひとりには神様から与えられた能力・賜物が備わっています。これは共同体という交わりの中で初めて実りあるものになります。必要なことは知識ではなく、共感する心と出向いていく意思です(エマオの弟子の教訓)。
具体的な解決策は今はありませんが、先細りしていく現実をただ傍観するのではなく、「五つのパンと二匹の魚」の話にあるように、今あるものを主に委ね大きな実りへと繋げていくことが今私たちに求められています。」
 北一条教会も来年の10月に献堂100周年を迎えますが、テーマとして掲げている「次の世代に繋げる」に内包している諸問題についても、この日の司教様のお話と根底は同じところにあります。私たち信徒一人ひとりが、“与えられる存在”、“司祭のヘルパー”としてではなく、これからの共同体を担う神様から与えられた様々なタレントを備えた主役として、成長していくことができるよう祈りましょう。

ミサ①


ミサ②


ボーイスカウトの皆さん、いつも有難うございます!