2016年10月30日日曜日

年間第31主日 ザアカイに向けられたキリストの愛

この日は勝谷司教様の司式によるミサでした。


ザアカイに向けられたイエス様の無償の愛をとおして、罪とは、回心とは何かということを考えてみましょう。

勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

『先日、高校時代の同窓会があり出席したのですが、思い出の女性と再会することになりました。実は、その女性に大失恋したことがきっかけで教会に行くことになったのです(会衆・司教様 笑い)。
私の高校生活は、勉強も振るわず、失恋もあり、自暴自棄になり、私にとっては価値観が崩壊していた時期でした。
その時に、教会に行き、そこで同年代の高校生達と出会うことによって、また再び自分自身を再構築できたのです。
私の通っていた高校はその地域では一番の進学校であったのですが、私も含め周囲は模擬試験の成績等で自分の位置や価値を測るというような雰囲気でした。しかし、教会に集まっていた高校生達は、そのような価値観とは全く無縁であり、私は彼らとの分かち合いの中で劇的に転換することになりました。
その分かち合いでは、恰好の良い自分ではなく、成績も最低で、失恋し、友達からも無視されてという自分の姿を話す雰囲気になってしまったのです。そしてそのような自分を話したことで初めて受け入れられたと感じたました。私の話を聞いて涙を流してくれた人もいました。自分の人生の中でそのような人に出会った経験はなかったのです。
そして、その時から、自分の価値はどこにあるのか、優れているからということではなく、こんな情けない自分でも、愛されている、受け入れられている、と感じたときにはじめて、自分には価値があるんだと感じた体験でした。それが、その後の私の人生の方向を決定付けてくれたと思います。
そのような意味では、成績とか、大学のレベルとか、会社の大きさとか、社会的地位とか、そういうもので自分の価値を測ろうとしている人は、逆に言うならば、自己価値の意識が非常に低い人たちと言えるのかもしれません。ありのままの自分でいいのだと意識している人は強いと思います。
今日の福音に出てくるザアカイという人は、まさに支配者であるローマに納める税金を徴収し私腹を肥やしていると、同胞から軽蔑され蔑まれる人でした。
そんな中で、お金の力で人々を見返してやろうと考えていたはずですが、そのような境遇を決して満足していたわけではないはずです。このザアカイが回心していった理由は何処にあるのでしょう。まさに、そんな自分であっても無償で愛されているということをキリストに出会うことで体験したこと、キリストに出会うことによって、神のいつくしみを直感し、その時にはじめて自分の罪深さを知ることができたわけです。
ここで私たちが、間違ってはならないのは、「私たちが価値があるのは愛されていること、でも愛されるためには、善き人でなければならない、正しい人間でなければならない」と、考えてしまうことです。でもそうではありません。このザアカイの話からは、ザアカイは回心しようとしてイエス様に近づいたわけではありません。ザアカイが桑の木に登ってイエス様を見ようとしたのは単なる好奇心にすぎませんでした。でもそのようなザアカイに対して、イエス様の方から「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言ったのです。このイエス様の行動は、人々にとってとても考えられないことでした。ザアカイの家でイエス様とどのようなやり取りがあったのかということはもはや解説不要であり、イエス様の方から客になって、ザアカイの家に泊まったということ自体が、ザアカイに対してイエス様がありのままのザアカイを受け入れ、ザアカイの家ではイエス様はいつくしみに満ちた愛の眼差しで、あなたも神の目から見て大切な人間なんだと感じさせるような話をしたに違いありません。そしてザアカイは回心していきます。
私たちはどうしても、神の御前に出る際は、清い自分でなければならないという気持ちが強くなってしまいます。それはそれで間違いではありませんが、その気持ちが強すぎると、そう出来ない自分は神から拒否される、排除されるのではないか、という強迫観念を持ってしまいかねません。むしろ私たちは弱く罪深さを持っているが故に、イエス様の溢れるばかりの愛に身を委ねることによって癒され回心するということに意味があるわけです。
ただ、私たちには愛されているという実感がどうしても沸かないということがあります。それは、自分が愛されているということに気付いていないだけということが多々あります。私たちは愛されているということに気付いた時にはじめて、良い意味で自分の行いの罪深さに気付くわけです。自分に向けられた愛に対して出来る影が罪として認識されることなのです。逆に言うならば、罪を意識するということは、自分にどれだけの愛が向けられているかということに気付き、その愛に立ち返っていく、それに応えていく決心をすること、これが本来のゆるしの秘跡の意味です。ゆるしの秘跡は過去の罪を赦すというだけの意味ではありません。未来に向かって自分に向けられている愛に応えていくことでもあります。』

2016年10月23日日曜日

年間第30主日 - 記念黙想会 -

献堂100周年の記念行事として、10月22日(土)から23日の2日間、当教会聖堂にて、
フランシスコ会の南雲正晴神父様を講師にお招きして記念黙想会行われました。



南雲神父様は、1981年から5年間、ローマ教皇庁で典礼学を学ばれ、日本カトリック典礼委員会委員を務められています。

講話は3部構成で行われました。

第1部 「ミサにおける沈黙の意味」
ミサ中の沈黙には、「専念、専有、思索、敬神」という四つの意味がある。式次第の場面、場面で、沈黙の持つ意味を理解して臨むことは非常に大切なことです。

第2部 「ミサへの行動的参加」
私たちが与っている今のミサ典礼の形式になるまでの歴史的な背景と経緯。第二バチカン公会議で承認された典礼憲章で明確に示された「典礼の刷新」についてのお話がありました。

第3部 「なぜ、主日に集うのか」
旧約の時代から続いている神に感謝し賛美する「過越し祭」、「安息日」と、イエス様の「最後の晩餐」と十字架の死と復活との関連について解説されました。
ミサは御父への感謝を捧げるもの。主日のミサに与る最大の目的は、聖体をいただくこと。聖体はイエス様の「最後の晩餐」を記念し、祭壇上で割かれたパンは十字架上の栄光を象徴するもの。割かれたパンをいただいた私たちは、キリストによって一つになる。

ミサ典礼の儀式・所作の一つ一つにはそれぞれ重要な意味があって、大切に守らなければならない、ということについて、時折ユーモアも交えながら解説くださいました。

毎週ミサに与り、お祈りや所作が半ば習慣化してしまっている私たちにとって、典礼の儀式に込められている一つ一つの深い意味について顧みる大変よい機会となりました。

南雲神父様、大変有難うございました。


この日の主日ミサは、南雲神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。
南雲神父様のお説教をご紹介します。


『(南雲神父様が白い手袋をはきミサをしていることから、前段にご自身の肌の疾患についてお話がありました。)
9:10
 ミサ前にも触れましたが、年間もそろそろ終わりが近づいています。11月に入ると「死者の月」として過ごします。教会の1年のカレンダーはもう流れの瀬戸際、終わりにきています。
  そういう時にたとえば、今、ごいっしょに耳を傾け聴いた聖書のメッセージは、祈るということの大切さです。今日の最初のシラ書の中でも「私の祈る心からほとばしり出る叫びは、神よあなたに向かって宛てられています。声が枯れるまであなたに向かって叫び続けます。」 シラ書はそういう内容のことです。
 (お手元の聖書と典礼はお持ちになって帰り、一週間 何回でも目を通して見てください。日によって昨日理解したことと違う何かが見える。これが聖書の言葉の凄いことですね。)

 第2朗読は、多分お気づきになったと思いますが、自分の宣教活動を陰ながらに、あるいはともに同行して支えてくれたテモテ、信頼のおける兄弟に書簡を宛てたものです。完璧に今までと違うのは、パウロはそれこそ泣きごとを言うかのように、自分は今まで多くの兄弟からも見放され、敵視され牢にまで入れられ、それだけでなく船の災害で遭難したり、何回もひどい体験をします。でも、彼はだからといって、主がご自分に与えた使命をしっかりと見定めている、目線をそらさない、だからいつもそこに向かっていく。彼が向かっているところはどこかと言うと、書簡にあります。「私は走るべき道を競争者のように、主から与えられたその道をまっしぐらに進んで走っている。もう私にトップの栄冠を受ける時が近づいている。その冠は主ご自身が準備されているものだ。」と、何をとまどうことなくはっきりと断言しています。それは何のことをいっているか。ローマでの殉教、首をはねられた。ペトロがそうであるように、彼もローマで殉教の恵みを受けました。このことを言っています。日本の教会にも26聖人殉教者をはじめ数え切れないほどの殉教者がいます。彼らはみんなそういう思いで走り尽くした。その結果、殉教という栄冠を、つまり主ご自身から善しとされたわけです。

  祈り続ける。正しい祈りですね。今日の福音のイエスのたとえの中に、ファリサイ派的なものが良いとか、そんなことを思っている人は誰もいないと思います、でも、気づかないうちに私たちは自分があの人のようでなくて良かった。うっかり思ったり思いがちです。テレビでニュースとかご覧になるとき、いろんな事故、災害が報道されます。そのとき、自分の家は助かって何も害を受けなかった、助かった救われたと思う人が必ずいますよね。だって、ニュースの発表がそうです。日本人が亡くなったという報告は大使舘にも入っていません。日本人は大丈夫でしたと。あー良かったと思うでしょう。変です。 同じひとつの境遇の中に両親を通して与えられた尊い命。ある者は亡くなり、ある者はそのまま。現実を続けることは一度壊れてしまった日常では大変なのですが、でも生き延びることができた、そういうことはだれでも体験します。そういう時に皆さんはどういう風に現実をとらえるか。今も鳥取を中心に余震が頻繁に起こっている。夜もゆっくり休めない大変な思いです。
  先日のNHKニュースで、こうした自然災害を受け、無事に助かった子ども達が学校に行きます。多くの子ども達がこれまで習慣のなかった車やバスでの送迎です。そのために歩く歩数が少なくなった。だから肥満児がたくさん増えているそうです。食べるものも特別な環境の中で配給される食事をとりますので、やはりインスタントものが多いでしょう。お母さんが作るような健康のバランスを考えたものは難しい。だから子ども達も、一見元気に遊んでいるように見えるけれども、運動が不足がちになり日に日に肥満化していくと、大きな問題として報道していました。小さい子ども達もさいなまれていると知った時、ショックでした。皆さんもそういう意味で心を痛めていると思います。忘れてはなりませんね。

 今日登場するイエスに善しとされなかった彼も祈るために礼拝場にきた。祈るために主のみ前に立って祈ったわけです。ところが、その祈りを主がご覧になってこれは祈りではない。もう一人のものは、言葉がもう出ないくらい、身をかがめて胸をうちながら、目を上げることも出来ず、涙ながらに「主よ罪深い私を慈しんでください。お赦しください。」と。日本人がこうやって胸を打つというのは威張ること。女はしません。ファリサイ派の人は自分の胸を打ちながら「あいつのようではない。こうやっています。」と言っている場面。かたや、聖なるものを仰ぎ見ることもできない自分を「私のようなものをお赦しください。憐れんでください。」と胸を打って。

  どちらが主の御心に適うかは明らかです。このことを今週は改めてテーマにして、私の祈りはどうなっているだろうか、検索してみることが必要です。人に聞くまでもなく、自分自身に尋ねてみる。そういう1週間にしたいと思います。』


2016年10月16日日曜日

年間第29主日

今日のみ言葉は、やもめのたとえ話を通して、絶えず祈るということを教えてくれます。
今週の土曜日は黙想会が行われます。多くの方のご参加をお待ちしています。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『10月「ロザリオの月」も半月が過ぎています。
祈りをしている中でふと考えることがあります。私は心から神に感謝をしているのだろうか。そんな祈りができるのだろうか。そんなことを考えることがあります。「ロザリオ」の月を迎えている中で、きっとこの10月、神様のもとにはたくさんのお祈りが届いているのだと思います。一方的な願いや祈りで終わるのではなく、静かに心からの感謝の祈りを捧げられたらと、考えたりもします。
心から叫ばれた神に感謝のことばが思い出されます。それは今から6年前にチリで起こった鉱山の落盤事故で、33名が地下700メートルに取り残され69日後に全員が無事救出されたという出来事です。テレビの画像には、次々と地上へと救出される鉱夫の姿が映し出されていましたが、私が特に注目した場面は、深く暗い地下から地上に再び足を踏みしめて喜びを抑えることが出来ずに声をあげている人々の前で、跪いてじっと静かに祈る人の姿でした。きっとその人は、心の中で「神に感謝!」と叫んでいたのではないかと想像します。「神に感謝」と私自身も普段の生活の中で言っていますが、本当に心から「神に感謝」といえる祈りが出来たらいいなと思います。
今週届いたカトリック新聞の一面は、教皇様の記事で埋め尽くされていました。そのひとつは、イタリアで起きた地震の被災地を訪れた教皇様の記事でした。静かに祈り、慰めのことばを被災者にかけられている教皇様の姿が浮かんできます。そして記事の中でも触れられていました、教皇様は「ただひたすら、みなさんに心を合わせていることを伝えるために来ました」とそんな言い方をされたそうです。そして「それ以上の何ものでもありません。私は祈ります。皆さんのために祈ります」と話されたそうです。本当はすぐ被災者のために駆けつけたかったけれども、自分が来ることで却って混乱させてしまうことを恐れたとおっしゃられたそうです。最後に、「同じ歩くなら、一緒のほうがいいのです。一人ではどこにも行けません。皆さん前進しましょう」と勇気づけ、互いに助け合いましょうと励まされたそうです。
記事を読みながら、そして教皇様の姿を思い浮かべながら、教皇様のいつくしみと愛がいかに心から溢れてくるものなのかと感じます。
私たちは、ミサの中で必ず「教皇フランシスコ」と名前をあげて祈っています。ですが名前を口にするだけではなく、心から感謝の祈りとして教皇様に届けられるようでありたいと思いました。私たちが、どんな心で、どんな意向で祈りをするかということも大切なことだと思います。

今日のみ言葉は、絶えず祈るということを教えるイエスの姿を見つめています。そのことを教えるたとえ話は、一人の貧しく弱い立場にあるやもめが、人を人とも思わないという厳しい裁判官に執拗に取りなしを願うというものです。
か弱いやもめがしつこく、嫌われるほど願うというのですが、そのために裁判官は放っておくことができないと考え、彼女の願いを聞き入れたということのようです。
ましてや、私たちが愛し信頼する神は、私たちの願いを聞いてくださらないはずはない、こうイエスはたとえを通して私たちに話されたのです。ですから私たちは神様に向って願いを捧げなさい、祈りをしなさい、必要なことがあれば求めなさい、こうイエスは話されたようです。
私たちは生活の中で、喜びや感動があります。それが当たり前のことのように過ぎ去っていきます。時には神への感謝の心が薄れてしまって、祈りの心も祈っているはずなのに神様に届いているのか届いていないのか、そんなことも考えずにただ祈っていることもあるような気がします。私たちの信仰、祈りが口先ばかりになってしまっては申し訳ない気がします。もしそうであるとすれば、私たちの心におごりがあるのかもしれません。

日々祈りを捧げる私たちですが、主の祭壇を囲む私たちの信仰、祈りをもう一度よく見つめながら、神に向う心をさらに大切にしていきましょう。
聖堂献堂から100年の記念を終えた私たち、今新しい教会共同体として歩みを続けていかなければならないと思います。
今週の土曜日には、献堂100周年の行事として黙想会が行われます。そのテーマは、「なぜわたしたちは主日に集まるのか」です。土曜日ですけれど、一人でも多くの方が参加して新しい一歩を踏み出したいものです。
若い人たちの信仰について、子供たちの信仰について悩み苦しむご両親もたくさんおられると思いますが、私たち一人一人が信仰の喜びを実感し、「神に感謝」と心からの祈りで、模範を示すことができますように。ロザリオの月ですので、マリア様をとおして、そうした意向を捧げることも大切かと思います。』

2016年10月10日月曜日

年間第28主日

真の信仰の喜び。それは、苦しい時、死の陰の谷を渡るとき、どんなときも恐れることなく、神がともにいると確信できる信仰を生きること。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『昨日は、献堂100周年を記念するミサ、そしてミサの中で15人の方が堅信の秘跡を受けられました。祈りの内に盛況に行われました。この日を前に長い期間をかけて研創され留意されてきた役員の方々、そしてご協力を賜った皆さんに心から感謝いたします。そして、ご苦労様でした、お疲れ様でしたとお声をかけたいと思っています。17名の司教様はじめ司祭団もいっじょに喜びをともにしてくださいました。司祭団も感謝と賛美の祈りをミサの中で捧げてくださいました。
 考えてみますと教区司祭の皆さんはこの教会で叙階の恵みをいただいて司祭の道を歩み始めている人たちです。ですから、私たち司祭の一人ひとりは、この教会と切っても切れないご縁を持っています。「カテドラル」という教会でもあるため、司祭はみんなこの教会を大切に考えてくださいます。そのこと自体もありがたいことだと思います。地主司教様も祝賀会の中でいろいろと挨拶をしていましたが、(私も以前聞いた記憶があるのですが)司教様もこの教会で洗礼を受け、その後、円山教会に移動移されたんだとおっしゃっていました。ですから、司教様もこの教会は自分の小さい頃の思い出に繋がる教会だと、そんなお話しをされていました。  本当に昨日の100周年の記念ミサは皆さんとともに捧げる事が出来た。そのことを改めて感謝したいと思います。そういうことを考えながら今朝、思いおこしていましたが、この教会で何人の方々が洗礼の恵みをいただいたんだろうか、この教会で誕生したんだろうかと考えていました。また、何人の方々がこの教会から天の国へ召されたんだろうか、そんなことも考えていました。いずれにせよ、私たちこの教会に属する信者は皆、誕生とそして天国への旅路をこの教会でともにしているのだと思います。そういうことも含めて私たちはさらに若い世代に繋ぐということで、さらに深く考えていかなければと思います。  
昨日、運営委員長の挨拶にもありましたが、 新しい世紀に向かって若い世代に私たちが何を伝えようとしているのか、繋ごうとしているの。そういうことを考えながら一人ひとり行動する教会共同体となることが課題である。櫻谷運営委員長もそう挨拶されていました。
  でも、100周年記念はまだ終わっていません。引き続き22日(~23日)の黙想会も控えています。私たちのミサ、祝賀会は昨日終わりましたが、今度は私たちの心の準備として、
さらに新しく歩み出すことが出来るように、黙想会で信仰の実りをまた祈りたいと思います。多国籍の信徒も集う教会として、意見も交えながらより良い新しい教会に生まれ変わることを希望し、神への信頼持ち歩み出したいと願います。

 では、今日のみ言葉にも心を留めいっしょに考えていきたいと思います。まず最初に、今日の福音の背景を少し考えてみます。第一朗読と福音は非常に似たようなお話が語られました。旧約の時代にはイスラエルの国は南北に分かれたことがありました。四つに分かれたこともありましたが、北王国、南王国と表現された時代もあります。北王国はユダの国として、首都であったサマリアという町がそこにあります。サマリアはわたしたちが良く聞く地名、町の名前です。善きサマリア人という話しもその町で起こった出来事として聖書で伝えられます。ユダの北王国の首都であったそのサマリアの町は攻撃を受け陥落し滅亡し、アッシリアの属国、植民地となったことがありました。そうしたことによって、サマリアはもともとは旧約のイスラエルの民の信仰を受け継いでいた人々でしたが、陥落、滅亡することによって、また属国になったことで異民族が流れ込んで、伝統あるエルサレムの信仰と距離をおいた新しい神殿も建てられることになりました。新しい神殿で北王国の人々はかつて同じ信仰をもっていましたが、どんどんと変わっていきます。ユダヤ人との亀裂はそういう意味でもますます大きくなりました。やがてサマリアの人々は異邦人という表現で呼ばれるようになって、伝統を生きるユダヤ人からは宗教的にも敵対心を持つ関係になってしまいました。そうした歴史と社会的な背景から、当時の物語をみていくともっと理解が深められるような期がします。

 不治の病に罹り町の中から追い出され、 社会からも隔離された人々が重い病気を抱えていながらもイエスの姿を見ようとして近づいてきます。でもイエスの前に立つことはできませんでした。禁じられていました。重い病気の人は町の人と接することは禁じられていました。そのことを考えるとイエスと出会ったり、イエスとすれ違う人は多いのかも知れませんが、一般的にはそれは路上のほんの一瞬の出来事で終わってしまうのが普通なのかもしれません。でも今日の聖書を見る限り、主よ憐れんでくださいとイエスに対する  深い信頼を持って出会う人であるならば、たった一度の出会いであったとしても 、イエスの力や業を体験することになりました。
 自分は汚れている。弱い者である。罪深い者である。そして、貧しいだけでなくて自分はだめな人間です。そのように自分を見つめているのであれば、イエスとすれ違うだけで本当の出会いはなかなか出来ないのかもしれません。私たちはどんな気持ちでイエスと出会おうとしているのでしょうか。誰からも相手にされない、社会からも隔離された重い病気を抱えた孤独な病人、それぞれの病気の苦しみを背負いながら心から救いを願いました。憐れんでください、イエスの傍に行くことは出来なくても、心はもうすでにイエスの傍に立っています。そうした出会いを求めたところに癒しの力に触れる習慣がおこります。
 まさに奇跡がおこりました。聖書の話しはそれで終わっていません。病気を癒された人々は10人いましたけれども、一人は神をほめ讃え、賛美しながらイエスに感謝するために戻って来たというのです。10人の病気の人の中には、当然ユダヤ人もいたかと思います。はっきりと詳細には描かれていませんが、戻って来た一人はユダヤ人にとっては敵対する人、異邦人であるサマリア人であった、そういうふうに強調して物語は展開しています。ユダヤ人はイエスをもともと信頼する人ではなく、自分たちの信仰から遠く離れた人々、そうした人々の一人がイエスに感謝するために戻ってきました。イエスは信仰を持つ者、持たない者にかかわらず分け隔て無く、その人たちに接し癒しを与えられる方でした。本来ならば癒されたユダヤ人もまた、サマリア人も感謝して良いはずでした。でも感謝の一言を言おうとして戻って来たのは一人であった。他の人はどんな気持ちになっていたのだろうか、そんなことを考えさせる物語。

 私たちはどうでしょうか。たくさんの恵みを頂いている私たちです。 感謝の気持ちをどれだけ持っているのか、 感謝の気持ちをどれだけ神様に捧げているのでしょうか。私たちにとって大事なことは何でしょうか。病気を癒されることが大事なことでしょうか。病気は癒されたとえ治ったとしても永遠に生きるいのちをいただいたわけではないはずです。病気を癒されたとしても、やがてまた歳を重ねて死に向かうというのが私たちなのです。大事なことは病気が癒されることだけではないはず。神様から何かしてもらうだけではないはず。イエスがいつもともにいてくださるということを、もっともっと深く知ること、確信すること。大切なのはそのようなことと思います。私たちの信仰はそういう点で、御利益宗教とは違うということが言えると思います。心の中に多くの何か抱え込んでいる私たち。時には直面する悩み、時には人の為の心配事。また、言葉に出来ない自分の貧しさに苦しんでいる、そういうときもあるでしょう。そういう人もいるでしょう。苦しい時、死の陰の谷を渡るとき、どんなときも恐れることなく、神がともにいると確信できる信仰を生きることこそ、私たちの真の喜びとなるのではないでしょうか。私たちの真の信仰の喜び。私たちは今どこに心を向けているのでしょうか。向けようとしているでしょうか。
 献堂100年を祝った私たちです。そして次に世代に繋げる信仰として、新たな出発を昨日祈りました。今日もまた感謝のうちにその祈りを捧げます。私たち一人ひとりの神への深い信頼で、確信がよりいっそうもたらされ、新しい教会共同体としてともに歩み出すことが出来るように今日もまた祈り、また明日の一歩につなげたいと思います。』

2016年10月8日土曜日

カトリック北一条教会 献堂100周年記念ミサ

 今日、私たちの祈りの場であるカトリック北一条教会は献堂100周年を迎えることが出来ました
。改めて、この聖堂を今に残してくださった修道会ならびに外国人宣教師をはじめ、歴代司祭そして諸先輩信徒の方々へ感謝を捧げます。

 また、午前10時からの記念ミサには、札幌市内はもとより各地からもたくさんの方々が祝福に訪れて下さり、ともにお祈りを捧げていただけたことに感謝いたします。ありがとうございました。


記念ミサは、勝谷太治司教様と司祭団による共同司式により行われました。
ミサの中では15名の方々の堅信式も行われました。






後藤神父様から、堅信された15名の信徒の方々へ記念品が贈られました


引き続き行われた記念式典では、
後藤義信神父様、櫻谷政雄運営委員長、パトリシアン・アンドレス英語ミサG会長よりの挨拶と、
第10代主任司祭を務められた久野勉神父様より祝辞をいただきました。

後藤神父様のご挨拶


櫻谷さんのご挨拶


パトリックさんからのご挨拶


久野神父様からのご挨拶


久野神父様の祝辞では、就任当時の教会聖堂の様子についてお話がありました。


記念式典の後、全員で集合写真を写しました。



この後、隣接するカテドラルホールで祝賀会が行われ談笑の輪が拡がりました。





神に感謝!



2016年10月2日日曜日

年間第27主日 「守護の天使」

今日は私たちの教会の聖堂名になっている「守護の天使」の記念日です。
この聖堂をとおして、教会共同体、私たち一人一人を守護の天使が守り導いてくださっています。

今週の土曜日、私たちの教会は献堂100周年を迎えます。
心を一つにして、お祝いの日を迎えることができますように。

土曜日の記念ミサでは「堅信の秘跡」が行われます。
受堅される15名の方々が神父様から紹介されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『9月30日のテレビでは、旭岳の初冠雪のニュースが流れていました。旭岳の紅葉は中腹から麓にかけて見頃だそうです。私たちの日頃の生活の中で長袖を着なければ肌寒さを感じるようになりました。カレンダーはロザリオの月の10月を迎えました。まさに「冬も近し」と感じるようになりました。
今日のミサの集会祈願では、皆さんが手にしている「聖書と典礼」とは違う祈りを捧げました。今週の土曜日に私たちの教会は、聖堂が献堂されて100年を迎えようとしていますが、この教会は今日、特別な日を迎えているのです。そのことを思い出しているでしょうか。今日10月2日は、私たちの教会の聖堂名ともなっている「守護の天使」の記念日なのです。日曜日と重なり年間第27主日が優先していますが、私たちにとっては忘れてはならない記念日でもありました。そのため、集会祈願では守護の天使の祈りを捧げました。この聖堂をとおして、教会共同体、私たち一人一人を守護の天使が守り導いてくださって今日に至っているのではないでしょうか。守護の天使のことを顧みながらこれからの歩みを進めていきたいと思います。
守護の天使の記念日は、特別なことを思い起こさせてくれます。
いつくしみ深い神が天使を遣わして、私たちを神の国に招き、神を永遠に仰ぎ見る喜びに入るために常に守ってくださることを思い起こすのです。天使はそのために私たちをすべての危険から守ってくださるのです。旧約聖書では神の民を守り、導くために天使が介入する話がしばしば出てきます。詩編90の言葉にも「足がつまずかないように、神の使いは手であなたを支える」とうたわれています。
献堂100年を迎え、次の新しい時代に向かうためにも、主のことばに基づいて、天使の保護を受けて永遠に生きる喜びを与えてくださるように祈りたいと思います。
嬉しい時も悲しい時も、楽しい時も辛い時も、守護の天使はいつもそばに傍にいて、私たちを守ってくださいます。
朝起きたら守護の天使に心を向けて祈ることを大切にしていってはどうでしょうか。今日一日、罪から誘惑から災いから、そして悪から守ってくださるように祈り、眠りに入るときは、感謝とともに就寝中の守護を祈ることもできると思います。特に出かける前、乗り物に乗る前には天使に祈ることも大切なのではないでしょうか。私たちは見えない天使ですので、多くの危険から守られていることを、なかなか実感できないでいるかもしれません。でもきっと自分の過去を振り返った時、あの時はもしかしたら天使に守られていたかもしれないということを体験している人はたくさんおられるかと思います。
ロザリオの月の10月に入りました。毎週火曜日には有志の皆さんとロザリオの祈りを捧げています。そして祈りの後には、「守護の天使に向う祈り」も毎回捧げています。祈りの後半には「御身の喜びとなるよう、われを導き、われを励まし、われを強め給え。われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、清き御手もてわれを支え、われを守り給え」とあり、わたしが好きな祈りのことばはこの箇所ですが、感謝の心や慰め、そして新たな力が与えられるように感じます。時間がある方は是非、ともに祈りに参加してはどうでしょうか。
古い祈りの本の中には、天使に向う射祷もあります。
「守護の天使、わたしを守り導いてください。」
短い祈りのことばですが、朝起きたとき、寝るとき、この祈りも私たちは心に留めておきたいと思います。

今日の福音にも少し触れておきたいと思います。今日、私たちに語られたみ言葉は、前半の部分と後半の部分に分かれ、それぞれ独立しています。
マタイの福音では、「からし種一粒ほどの信仰がない」から悪霊が追い出せないという表現で語られます。今日のルカの福音では「信仰を増してください」という弟子たちの願いに対するイエスのことばとして語られます。
どんなに小さな信仰であっても、その信仰が生きた信仰であるならば、驚くべきこと、信じがたいことでさえも可能となり、驚くべきことが起こるというものです。弟子たちはイエスから派遣されたとき、病人をいやして帰るという体験もしています。
信仰に大きいとか、小さいとかがあるのでしょうか。信仰は量で量るものではないでしょう。イエスが弟子たちにいいたいこと、信仰において重要なことは、「あなたがた一人ひとりの信仰は、本当に生きた信仰なのかどうか」を言うことだと思います。
昔は生きた信仰であっても、残念ながら今は化石となってしまった信仰もあるかもしれません。また、愛に欠けてしまうならば、どんなに美しくても造花の花のような信仰であったり、骨とう品のようになってしまう信仰もあるのです。信仰は常に生きているものであるはずです。
私たちは神のみ言葉を聞いて、いま、信仰を真に生きているのかどうか黙想しなければなりません。使徒たちは「信仰を増してください」と心から願いますが、まず、小さな信仰を実践していくときにこそ、信仰が強められ、成長していくのではないでしょうか。
100年の歴史を背負ったこの聖堂で、天使に守られる私たちにも、使徒たちと心を同じにして「信仰を増してください」と祈りましょう。』