2018年7月21日土曜日

7月20日(金)カルチャーナイト2018に参加しました

今年もカルチャーナイトに参加し、ミサ聖祭のあと、オルガン演奏、聖堂内の聖画・装飾の紹介、DVD鑑賞会、教会活動の紹介などを行いました。
会場は、聖堂、カテドラルホール、そしてお隣のカトリックセンター1Fでも喫茶コーナーを開設しました。


ミサ聖祭は、18:30より森田神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。


ミサの後、パイプオルガンのミニ演奏会を行いました。


聖堂内の聖画・装飾の紹介では、大勢の方々がスタッフの説明に熱心に耳を傾けられておりました。



隣のカトリックセンター会場では、教会活動を紹介しました。



2018年7月15日日曜日

年間第15主日

一人だと不安かもしれませんが、
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」
とイエスは励ましてくださいます。

今日のミサの主司式は佐藤神父様でした。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日のマルコによる福音の箇所は、マタイによる福音にも、ルカによる福音にも書かれています。しかし、マルコによる福音の中では、杖を一本持って行ってもよい、と書かれています。他の福音書では、杖も持たず、と書かれているので、そういう意味では少し優しいイエス様が描かれているのではないかと感じます。また、他の福音書では「下着を持って行ってはならない」と書かれていますが、ここでは、「2枚着てはならない」とあり、持って行ってもよいと受け取ることもできます。このようにマルコによる福音書は、少し私たちにとって、優しい感じがするかもしれません。

先週の福音の続きですけれども、先週の福音の最後では、イエスはガリラヤの村を巡り歩いて宣教していたと、締めくくられていました。その続きの箇所です。今日の福音では弟子たちがイエスによって派遣されるという場面になっています。
ずっとイエスの傍にいてイエスの言葉、そして行いを見てきたこの弟子たちを、イエスは人々の中に派遣させることにします。そして、その弟子たちを二人一組にして遣わされるということをなさいます。二人ずつというのは、当然一人で宣教するよりもずっと心強いしお互いに協力して歩んでいくことができることを意味しています。
マタイによる福音の中でイエスは、「二人あるいは三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われています。二人一組で遣わされるとき、イエスご自身もその二人の中に共におられるのだということを意味しているのだと思います。だから、二人で出かけて行って安心して宣教しなさい、ということも意味しているのではないかと思います。
神学校で学んでいたころ、二人で組になって何かをするということが非常に多かったと思います。典礼の当番に当たった時も侍者として二人で協力して祭壇の準備をしたり、先唱係と香部屋係の当番になった時には、香部屋係が蝋燭を点けると同時に、先唱係が聖堂の灯りを点けるということをしていました。また、先唱係がミサの初めに案内をしたりする時には、香部屋係が聖堂の扉を閉めたりするという、そのような協力体制が出来ていました。
神学校の生活の場でも、二人一組というのは行われています。それを思い出すのは土曜日の昼食の準備の時のことです。土曜日の昼食はいつもカレーライスでした。カレーの準備も二人一組で行っていました。皿とスプーンを出して、炊飯器のスイッチを入れる人と、カレーを温める人に役割を分けていました。後片付けも二人一組でした。一人が皿とスプーンを片付け、もう一人がカレーの鍋を洗うということをしていました。先にお話しした典礼の当番もカレーの当番も、どちらも一人でやろうとすると非常に大変ですけれども、二人ならそれほど苦にはならずに楽にできます。これは非常に不思議なことだなと思います。
そして、私の大先輩の神父様が神学生の頃の話を聞いたことがありますけれど、散歩に行くにも二人一組で行かなければならなかったそうです。今はないですけれどそのような決まりがあったそうです。二人で散歩をする中で、お互いの中にイエスがおられる、聖霊がおられるということを感じるように、そういう意味があったのではないかと思います。中には、二人で散歩という組み合わせの中では、あまり気の合わない人もいたかもしれず、そういう時には気が重かったということも聞いています。神学生同士だから何とかうまくやっていけるというものでもありません。皆さんと同じように相手を苦手に感じたり、いやな奴だなあと思ったりすることも結構あります。ただ、二人一組で散歩したりする時に、いやな奴だなあと思ったにしても、実際に話をしてみると実はいい人だったとか、実は気が合う奴だったとか、ということもあります。人を誤解していたということも非常に多くあります。そういう新たな発見を期待して、二人一組で行動させる、遣わすということをしているのかもしれません。
そして神学生は司祭になって、司牧者として教会へ派遣されるわけですが、その中で多くの人々と接し、物おじせずに話が出来るとか、いやだなあと思う人がいても、しっかり話をして付き合っていくことができると、そういう訓練であったというふうにも思います。
今日の福音に戻りますが、弟子たちの派遣にあたって、いろいろな指示が下されています。食べ物を持たず、袋を持たず、金も持たず、下着も一枚だけ着るようにと、言われています。
誰の世話にならないように全て自分で準備しておくということではなく、人との出会いの中で、宿のことでも食べ物のことでも人の世話になるようにしなさいということだと思います。必ず迎え入れる人がいるのだというふうにイエスは言っているのだと思います。
自分のことは自分でしなさいと、この世の中ではよく言われることですけれど、自分の力ではどうしようもないということもあります。今日の福音では、神の呼びかけに応えていこうとする時に、神が全てを配慮してくださるという信頼と、人との出会いに対して、恐れずに関わるということを大切にしていくということが述べられているというように思います。

今日私たちは、イエスが示された神の国をこの世に実現するために呼びかけられています。一人では不安かもしれませんが、二人あるいは三人であれば、心強く歩んでいけると思います。互いに助け合い、そして出来ることを分担していけば、神の国を大胆に伝えていくことが出来るのはないでしょうか。
弟子たちはイエスに呼ばれて、イエスが行ってきたことをイエスと同じように実践しました。イエスをとおしてここに呼ばれた私たちも弟子たちのように、二人三人で出かけて行って出会う人々に言葉だけではなく行いをもって、イエス・キリストを証しすることが出来るわけです。
このミサの中で、私たちもその勇気と希望を持つことができるように、祈り求めてまいりましょう。』

2018年7月10日火曜日

7月8日 年間第14主日

 私たちはいつの時代であっても神に心を向けながら、思い上がったり、時には強欲な心を捨てきれません。
この日の集会祈願を心に留めましょう。
「ここに集う私たちがあなたの言葉を深く受けとめ、心からあなたを賛美することができますように」


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音です。そのときイエスは故郷にお帰りになった。イエスの故郷でのお話しが語られています。この最初の1行を読んで、私も今日、50年ぶりか50数年ぶりで故郷、羽幌町に帰ります。今日午後から、同窓会があるのです。最初の言葉が私と同じだと読んでいました。 今日の集会祈願を味わいます。私は良く集会祈願を心に留めて味わうのです。どんな祈りの言葉だったか、少し分かち合います。「ここに集う私たちがあなたの言葉を深く受けとめ、心からあなたを賛美することができますように。」ミサの最初の祈りの祈願の言葉です。「心からあなたを賛美することができますように。」今日、ミサの中で本当に心から神を賛美することが出来るように祈りたいと思いますが、私たちはいつの時代であっても神に心を向けながら、自分中心の傾きを抑えることが出来ず、思い上がったり、神に従うよりも、時には強欲な心を捨てきれないまま、神様のほうにまた、自分中心の生活の方へと、行ったり来たりしているような気がします。
 今日の第二朗読のコリントのみ言葉の中にも、弱さの中で思い上がることのないようにと  私たちを導いてくださるみ言葉がみられます。思い上がる心。どうして、なぜ、私たちの心の中から湧き上がるものなのでしょうか。きっと誰もが体験している、経験していることだと思います。自分の思い上がり、身勝手さ。それに気付くと少し恥ずかしくもあり、反省もありますが、日々繰り返しているのが私たちでもあるともいえます。
 イエスが故郷に帰った時の故郷の人々の反応も そういう心に繋がる思いでイエスを見、そしてイエスを非難しています。故郷の人々はそのイエスの業や奇跡について受け入れることよりも、賛美することよりも疑問が先になりました。何故、大工の家の子であるイエスがそんなことできるのか、考えられない、信じられない、受け入れることが出来ないことになってしまいます。もちろん故郷の人は、イエスの小さな時からきっと知っている方がたくさんおられます。なおのこと、何故、こんな素晴らしい立派なお話しを出来るようになったのだろうか。そういう思いが心の中から払拭されないかぎり、片寄った考え方、自分中心の考え方から抜け出すことが出来ないと思います。
  先入観。それはある意味で不審な目で見ることが先になることにも繋がってくるようです。こうしたことは私たちの日常生活にも見られること。神を信じる。神を信じたい。そんな信仰の道を歩んでいる私たちにもおこっていること。イエスが不信仰に驚かれたということは、故郷の人に言われたのではなく、まさに私たちに向けられて言われているのではないかと感じられます。

 先週、私は殉教者の話を取り上げました。今日もまた皆さんといっしょにミサの前に 殉教者の祈りを唱えていますが、「殉教者の信仰、その生き方の中に、現代を生きる私たちがどのような困難な時にも聖霊の助けを信頼し、キリストに従いあなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように。」こういう祈りの言葉がありました。キリストに従い、ひたすらあなたへの道を歩むことが出来ますように。主が示される道を歩くこと、そのことを願いながら、何故か自分の思いが優先する道を選んでしまう私たち。主への道をひたすら歩むことと自分の道を選びとって自分の都合の良い道を歩いてしまう私たち。行ったり来たりしていると思います。
  先週、7月1日の日曜日は、ペトロ岐部と同志殉教者の10年目の記念日だということを皆さん思い出しておられると思います。以前お話ししたか定かではありませんが、もう一度伝えたいと思います。長崎のある神父様のお話です。殉教者と言えば長崎に多く見られるところですが、その深い信仰、強い信仰が尊敬を受けます。私の知っている長崎の神父様が話したことを私は忘れることが出来ず、また思い起こしています。「迫害以来、拷問を受けて多くの信者は信仰を捨てざるを得ませんでした。中には家族を思い小さな我が子を思う余り、信仰を捨てざるを得なかった人たちがいたということ。自分ではなく、我が子のため、子供の将来のために自分の信仰を捨てざるを得なかった。目の前に踏み絵が置かれます。十字架やマリア様の御像が置かれます。そして、それを踏みなさいと命令されます。踏むことによって信仰を捨てたことを証しするということになっています。」小さな我が子を持つ親の信条はいかばかりだったでしょうか。長崎の神父様の話しは「私の先祖が信仰を捨てたことによって、今、私が司祭である。」とのお話しでした。信仰を捨てる、棄教するということは、弱い信仰者のレッテルを貼られるかもしれません。でも、子どものために信仰を捨てる。信仰を捨てると言いながら「隠れキリシタン」として自分の信仰をひたすらに生きるという、そんな生き方を選ぶ人は少なくありませんでした。見かけは信仰を捨てた。我が子のために、愛する家族のために。でも、心の内では信仰を周りの人には隠して、隠れキリシタンとして生きる彼ら。その信仰を守り続け、何百年と経ってその子孫が司祭として信仰を導いているとしたら、殉教者の信仰に負けない、隠れキリシタンの信仰があったからではないでしょうか。それこそ、今日告げられたみ言葉。キリストの力が私たちのうちに宿るなら、むしろ大いに喜んで、自分の弱さを誇りましょうと言えるのではないでしょうか。棄教する、踏み絵を踏む。外見から見れば、弱さそのものを表すかもしれません。でもその弱さを誇りとして、隠れキリシタンとして信仰を生き抜いた人がたくさんおられたということ。

 聖書の中では、本当に愚かで弱さを抱える弟子たちの姿もたくさん見られます。ペトロもその一人だったと思います。美徳なまでに愚かさをイエスの前に見せる。叱られます。でも、ペトロは何度叱られても立ち上がります。それはイエスの愛と慈しみの手をいつも感じることが出来るペトロの信仰があったからだと思います。キリストに従い、あなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように。ペトロもまた、殉教者の祈りの言葉の信仰がそこにあったように思えます。キリストから離れることなく歩み続けたペトロは、やがて何度も失敗を繰り返したにもかかわらず教会の頭に選ばれています。イエスを受け入れる心、ひたむきな心、そしてイエスを証しする心が誰よりも強く、深い意味で、あったに違いありません。ペトロももちろん最期は殉教して亡くなりますが、ペトロの殉教者の心を長崎の隠れキリシタンの多くの人たちが受け継いでいたこと、証しかもしれません。つまづいても手を伸ばして立ち上がらせてくださる愛と慈しみの主に、私たちは赦しを願いながら愛し続けることができます。

   今日も私たちの弱さの中で主の霊を、主の心を願い、思い上がることのない日々を過ごすことが出来るように、共にこのミサの中で心を合わせて祈りたいと思います。』


ミサの後、初めての消防避難訓練を行いました。
ほとんどの人が初めての体験で戸惑いもありましたが、無事終了しました。




◎カテキズム要約版を読む会が60回目を迎えました。
5年ほど前の信仰年を機会に立ち上げ、参加者も最近は増え、多いときには20名近くになっています。


2018年7月1日日曜日

年間第13主日

今日は「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日でもありました。
殉教者少年ディエゴの残したことばを心に留めてイエスのもとに歩みましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週は月曜日から4日間、全道司祭会議で教会を留守にしていました。わずか4日間の日程でしたが、長い旅をして教会に帰ってきたような気がしています。今年は35名の司祭が全道から集まっての会議でした。
今年のテーマは、「これからの札幌教区の福音宣教」というものでした。私たち司祭にとっても今年の会議は、これまでとは少し意識が違う状況で話し合いが行われました。通常は3日間の日程なのですが、今年は重いテーマで、もっと真剣に語り合わなければならないとのことで、4日間の日程になりました。
皆さんは、今回のテーマである「これからの札幌教区の福音宣教」ということについて、どのような印象を持たれるでしょうか?皆さんも既に聞いていると思いますが、2019年には札幌教区の各教会に派遣されているフランシスコ会の神父様が引き揚げるという話が、ずっとここ数年続いていました。いよいよ来年、その時期を迎えるということで、私たちもさらに真剣に、そのことを考えていかなければならないというのが今年の会議の主旨でした。現実的には、全ての教会からフランシスコ会の神父様がいなくなる訳ではありませんが、フランシスコ会日本管区の方針として、修道会司祭の高齢化の状況を鑑み、一人で地方の教会を任されて、そこで生活するという現状を見直すということであり、教区司祭も現実的な対応を突きつけられているところです。来年に向けて大きな移動があるということも勝谷司教さんも口にされていますが、いよいよ差し迫ってきたという状況の中での会議となりました。たくさんの祈りを皆さんからもいただけたことと思います。お礼を申し上げたいと思います。少しづつ具体的な案については、司教さんを中心に皆さんとも考えていかなければならないテーマだと思います。これからもまた、一緒に祈りながらご協力をお願いしたいと思います。

さて、今日のみ言葉について、皆さんはどのように受け留められたでしょうか?
大勢の群衆がイエスのもとに向かってひたすら進んでいく情景がわたしたちに語られました。二千年を過ぎた現代においても、日曜日になると大勢の信者がイエスを求め、今日のミサのように教会に集まってきます。
聖書で語られるイエスのもとに集まる「群衆」という言葉が繰り返される中で、その人々の情景と、私たちが今集まっている教会の現状と、何が同じで何が違うのだろうかと、私は昨日から考えています。イエスのもとに集まった群衆と、教会に集まる私たちと、その心のうちは同じでしょうか?
み言葉では、群衆のなかの一人として会堂長ヤイロのイエスに向かう信仰の姿が浮き彫りにされています。愛する我が子を救うためにイエスの前に進み出て、足元にひれ伏し、しきりに願うその姿が描かれています。その心のうちは、神へのイエスへの信頼そのものでした。父親の信頼とその思いは、ただイエスに触れたい、触れられたいという願いでいっぱいだったと思います。イエスは命の主そのもの、イエスに出会い、イエスに触れることによって救いがあると、この会堂長ヤイロは考えていたに違いありません。その信頼は揺るぎないものであったと思います。
み言葉の後半では、誰もが死んだと思われた会堂長の12歳の娘は、イエスによって救いが現実となっています。大勢の群衆もまた、様々な形で救いを求めていたはずです。イエスを信じていたはずです。イエスに対する信頼は深いものであったにも関わらず、死んだはずの少女が歩く姿を見たとき、信じ難い出来事として「群衆は我を忘れ、驚いた」と記されています。100%イエスを信じていなかった故の驚きだったのでしょうか?
この話の合間に、もう一つの話が加わっています。長い間、病気に苦しむ女性もまた、イエスに近づき触れようとしていました。イエスに触れることで自分の病気が治っていくことを感じながら。イエスの体から力が出て行ったと聖書は記しています。そしてイエスは「誰がわたしに触れたのか」とそのことを突き止めようとしています。
救いをもたらすイエスへの信頼によって、「あなたの信仰があなたを救った」とやさしく声を掛けられています。
いま、私たちは神を、そしてイエスを、どこまで信じているでしょうか?そんなことを考えながら今日を迎えています。私たちはイエスに救いをどこまで真剣に求めているのでしょうか?私たちは何を求めてこの教会に、今日来たのでしょうか?本当にイエスに触れたいという思いが心の中に生きていたでしょうか?
日曜日のミサに与る私たちは、習慣のようになってしまって、何を求めることなくただ教会に来てしまった、という人はいないでしょうか?
そした私たちは、救いということをどのように考えているでしょうか?

今日は、最初の集会祈願でも触れたように、特別な日です。「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日が重なりました。そのことについても少しお話したいと思います。
日本の司教団から通知文書が届いており、掲示板にも貼られています。
2008年11月、日本の新しい聖人である「ペトロ岐部と187殉教者」が列福されて10年を迎えました。その後、ユスト高山右近も列福され、今度は、聖人となる運動を展開しているのが、今の私たち日本の教会です。
司教団からの文書は、列聖を求める祈りをぜひ今日皆さんと共に祈りをささげて欲しいという内容でした。その列聖の取り次ぎの祈りのなかに「現代に生きるわたしたちが、どのような困難のときにも、聖霊の助けを信頼し、キリストに従い、あなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように」とあります。これはまさに殉教者と同じ道を歩みましょう、という呼びかけでもあります。
日本の司教団からこの日を思い起こして祈ってくださいというメッセージ。そして10年前を思い起こして、今日教会のホールに置いていた小冊子から、一人の少年殉教者を紹介します。
この少年殉教者は、「わたしを歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」という言葉を残したそうです。
その経緯は、1613年10月7日、長崎の島原半島、有間川の中州で、3家族8人が縛られ、火あぶりの中で殉教しました。信者たちの信仰生活を助けるために、「サンタマリアの組」、「ご聖体の組」、「ミゼリコルディアの組」などを組織していた有馬の教会は、当地で迫害が始まると、1612年、城下町に新しい組を結成しました。「殉教の組」です。これは信者が殉教できるよう祈り、苦行をもって神のおん助けを求める信心会です。これに倣い少年たちも「子供の殉教の組」をつくり、大人に負けないほど熱心に祈り、苦行に励んでいたといいます。12歳の少年福者ディエゴ林田は、このとき、有馬の「子どもの殉教の組」の頭でした。ディエゴは、仲間と共に殉教の恵みを受けるために祈り、組の集まりでは皆を導き、ともに苦行に励んでいました。その殉教の記録は、素朴なこころの少年が、精神的に立派な大人に成長していたことを伝えています。
有馬の信者たちが殉教に立ち会おうと集まってきて、捕らわれた人々をすでに殉教者と呼び、その取次ぎを求めました。すると少年ディエゴは、「死ぬ前に殉教者の名はふさわしくありません。でもその名をいただくのは嬉しいことです」と言いました。そして、「まだまだです。まずオラショ(祈り)を頼みます」と皆の祈りによる支えを願ったのです。
のちに迫害で火あぶりにされたドミニコ会司祭ハシント・オルファネル神父は、ディエゴのこの言葉を日本語のまま記録しています。
ディエゴのこれらのことばは、長崎の潜伏キリシタンが殉教の心得として伝えてきたことを思い起こさせます。
「殉教とは死ぬこと、殉教は神からのめぐみであること、人は皆弱いので、殉教のとき力を与えられるよう、ふだんからいつも祈りと苦行に努めること」などです。

「わたしを歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」
少年ディエゴが残した言葉です。
私たちもイエスのもとに歩いていかなければなりません。必死になって歩かなければならないでしょう。

私たちの教会は、2年前に「次の世代につなぐ」というテーマを掲げて聖堂献堂100年を祝いました。「次の世代につなぐ」、まさにこの殉教者少年ディエゴの心を私たちはもっと大切にしなければ、私たちの信仰は中途半端な形で伝えることになるような気がします。殉教者の思いを伝える「明日の教会を託される子どもたち」というテーマは、私たちにとっても大切なテーマであり、私たちの教会が掲げた「次の世代につなぐ」というテーマに深くつながっていると思います。
幼い少年殉教者は、私たちを信仰の道へと導いているような気がします。神の目からみると私たちも弱く幼い信仰者なのかもしれません。イエスのいのちに出会うため、一人一人に示された十字架の道を歩むことができるよう祈りましょう。』

2018年6月25日月曜日

6月24日(日)洗礼者聖ヨハネの誕生

イエスが誕生した6ヶ月前の今日、洗礼者ヨハネの誕生をお祝いしました。
主司式は勝谷太治司教でした。


勝谷司教のお説教をご紹介します。


『洗礼者ヨハネの祝日は、洗礼者ヨハネの殉教と誕生を祈願しますが、特にこの誕生の日は 祭日と扱われ、しかも日曜日に優先する祭日になっています。通常、日曜日に優先するのはマリア様とイエス様ご自身のものです。すなわち、ヨハネの誕生、存在というものが、イエス様の救いの営みに深く関わっている。いわばイエス様が誕生されて救いを成し遂げるまで、その生涯のプロローグにあたるもとして、非常に重要な位置を示している。
 しかし、今日の福音書はそうは言っても、主人公は誰であるかと言うと、ヨハネを産んだエリザベトとその父ザカリアの話しになります。ザカリアはエリザベトがこの男の子を宿すという天使のお告げを信じなかった。そのために口がきけなくなったと書かれています。今日の福音書を見ると、「この子に何と名をつけたいか。」と、手振りで尋ねたという記述があることから、ただ口がきけなかったのではなくて、耳も聞こえなくなっていたと推測されます。これは天使のお告げを信じなかったから、その罰としてそうなったのでしょう。わたしはそうは思わないのです。このザカリアという人、今日の福音の前の部分を見ると、エリザベトも含めて二人、非常に敬虔で熱心な掟を守っていたユダヤ教の信者と思われます。すなわち自分たちに与えられた努めを忠実に果たし、律法を守り 敬虔に信仰生活を営んでいた人たちです。
 しかし彼らは自分たちをとおして神がなさろうとする、全く予想谷しなかった出来事、常識では考えられないような、この年老いた女が身ごもるということ、これを受け入れることが出来ない、それを超えたことを考えることが出来なかったわけです。ですから、毎日の生活の中で忠実に熱心に与えられた仕事、決められた掟を守り続けるし、生活を送っていましたが、自分の生活はおろか、身の周りでおこるこの神のこのダイナミックな業に対して、それに気付くことが、それに協力すると言う考えをまったく持ち合わせていなかった。そういうことが言えるわけです。
  この沈黙、耳が聞こえなくなり、話せなくなることが何を意味するのか。今、エリザベトをとおして行われる神の業を、いわゆる周りの常識的な雑念を捨てる中で、ただ沈黙のうちにそれを祈り続けるもの。この男の子が産まれるまでの間の、この沈黙の時間というものは、ザカリアにとっては、自分たちの生活をとおして神の業が実現していくものを深く受けとめる、黙想する期間であっと言えるのではないかなと思います。
 そして、この子が誕生し「ヨハネ」という名を付けたと。実は今日の箇所では省略していますが、聖霊に満たされたザカリアの預言があります。「神を誉め称えよイスラエルの民を/ 神は民を訪れて購い/ わたしたちのために力強い救い主を与えられた」。そのザカリアの預言は世界中の聖職者が毎日朝、聖務日課で唱えている祈りです。自分たちをとおして実現していった神の業、それに対する賛美を高らかに唄っています。
  この出来事は私たちにとって何を意味しているのでしょうか。  私たちと同様にこのミサに与っている人たちは、信仰生活を熱心に、そして社会人としても、人の子の親としても、非常に模範的な生活をしていると思われます。しかし、それは自分の生活というものをしっかり計画を組み立て、忠実に信仰生活を営んでいたとしても、今、ダイナミックに働かれる神の業に対して、開かれた心の目を持ち合わせているかどうか、自分たちに問い合わせなければならないことです。時々、この単調な私たちの生活の中で、まったく予想谷しなかったことが起こり、それについて考えさせられることは良くあります。
 今日の物語は誕生の物語ですが、年老いて私たちが経験することは、両親や配偶者との死別だと思います。さらに長寿社会になっていくならば、場合によっては自分の我が子の死別も体験しなければならない。そのような出来事は避けようのないことです。ですから、何故死んだのかということを問うことは、ある意味、現実にわたしたちは直面しなければならないのです。
「何故、今なのか」ということは常に、私たちの心に湧き上がってくる疑問だと思います。しかし、そこにどういう意味を見出すのか。神がわたしに、何故今わたしにこれを体験させるのか。そして、どこに導こうとされているのか。悲しみや苦しみを受けとめながら、その中にあってもなお神が私たちの人生に介入され、常により良いように導かれていることに信頼し続けていける。何が起こっても、そこにわたしたちは、常に臨機応変に、その神の出来事をとおしてわたしたちに与えられる招きに、応えることが出来るようになっていく。そういうセンス、常に与えられる日を祈り続ける必要があると思います。

  しかし、その死滅のような悲しい出来事だけではありません。歳をとってからまったく違う生き方に召されることがあります。停年退職がそれかもしれませんが、それ以外にも様々なケースが考えられます。
 余談になりますが、昨日、ローマ法王庁は日本時間の午後7時、幸田司教様の退任を承認されました。幸田司教様は東京教区の補佐司教として永年、岡田司教のもとで仕えてきましたが、昨日をもって補佐司教の職を解かれます。司教は司祭と同じで約束で与えられたり、解任されるものではなくて、一生司教のままです。役職は解かれますが、引退司教としての生活を送ることになり、今は 南相馬のベースで復興支援活動にもっぱら取り組んでおられます。今後もそうなると思います。幸田司教様は引退ですが、最近任命された司教様方は皆、高齢ですね。それよりも、これから自分の人生をあとゆっくり、今まで与えられていた役割を果たして、あとは死ぬだけだと思っていたときに、突然、青天の霹靂のように重責を負わされることになります。
 これは、この間任命された司教様方ばかりでなく、わたしたちの人生の中にもそのような出来事は起こりうるものです。その時々にわたしたちがどう応えるのか。今まで生きてきた常識にとらわれるならば、神がなさろうとするこの非常識的なことを受け入れることは出来ない。あるいは、ただそれを傍観しようとする。受け身的な態度を取ってしまいがちですが。しかし、今日のザカリアの態度が示していることは、ザカリア自身もわたしたちと同じと思われますが、この神の強い導きによって、自分をこうして働かれる神の業を深く受けとめる恵みをいただきました。
 わたしたちも、いつどんなときにも、何があろうとも常に神はわたしたちの自立性を見守る、
そして導いてくださっている。ですから、わたしたちの予想を超えた出来事は起こっても、 そこに神様の何らかの意図がある。その人生の意味をわたしたちは見出していくように求められていると思います。わたしたちがとるべきは、人生にどういう意味があるのかと、神様に問うのではなくて、神はこの出来事をとおして、わたしたちにどういう人生の意味を見出すよう求めておられるか。それをわたしたちは、そのように求めるべきではないかと考えています。』

2018年6月17日日曜日

年間第11主日 

私たちの心の中に蒔かれた”みことば”の種は、神様が育ててくださいます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『マルコの福音によるとイエスの宣教はガリラヤから始まっています。
「時は満ち、神の国は近づいた。だから、悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、ガリラヤ湖畔に弟子たちを招き、やがて12人の弟子たちと共にガリラヤ地方を巡回して、会堂を中心に宣教する姿が聖書に描かれます。マルコの福音の第1章は既にそのようなイエスの姿が現れています。
イエスの語る話は、これまで聞いたことのない教えであり、人々は驚き、イエスのもとに集まります。そして、神の教えだけではなく病気の人を癒すことでも、イエスの業を見た人々を感動させ、神を賛美する様子を聖書は語っています。イエスの話、ことばはきっとやさしく、心の中にも響く平和なひと時をもたらしていたのではなかったでしょうか。

今日のみ言葉は、神の国を「種をまく人」のたとえで語られるイエスの姿が語られています。そして、種を蒔く人は「神のことば」を種として蒔くのだと話しています。「神のことば」を種として蒔く、それが神の国の話に深くつながっています。当時の人々も神の国に関心を持っていたのだと思います。そして現代に生きる私たちも決して神の国について無関心ではありません。
マルコだけが語るこのたとえ話では、蒔かれた種、神のことばは聞く人の心に入り、根付いて、そして成長します。
この蒔かれた種の話は、とても印象深い記述で展開しています。
蒔かれた種は、特に世話をしなくても人が寝ている間に芽を出して育っていくという表現がされています。肥料や水をやったりしないで、どうして育っていくのか、それを人は知らないと聖書ははっきり述べています。人手によらず実を結び、それはやがて豊かな収穫の時を迎える。それが神の国である。まさに神秘的な話です。私たちが手を下さなくても神の国は訪れると。
蒔かれた種、すなわちみ言葉は、いっぺんに成長するのでないとも話されています。人が気付かないうちに芽を出し、茎が伸び、葉を開き花が咲き、やがて実を結ぶというように段階的に成長していくと述べられます。
種が実り成長を遂げると、収穫の時が訪れますが、その収穫の時というのは、この世の終わりの時でもあるかのような暗示が語られています。

イエスは、今その時が近づいていると話されています。今私たちは2000年の時を経て、聖書の話として耳を傾けていますけれど、直接イエスのことばで語られるならば、どんな心境になるのでしょうか。聞いている人たちは真剣にならざるを得ないでしょう。見過ごすことのできない話として、自分自身のこととして、なおざりにはできない話だ思うのは当然のことではないでしょうか。
続いて話された「からし種」のたとえでは、小さく目に見えないような種であっても、やがて鳥が宿るような大きな枝を張り成長する。イスラエル、ユダヤの国では、3メートル程にも成長するそうです。そういう「からし種」のたとえは、神の国は一つの共同体であるかのようにして話されます。
神に支配される霊的な共同体は、世の終わりには神の支配が世に行き渡るようになる。完成に至る。このような話になっています。

神の国、私たち一人一人はどのように神の国を考えるでしょうか?
時々、神の国の話をすると、どうしても死後の世界にある「天国」というイメージで捉えることがよくあります。神の国は死後の世界、天の国ある。でもよくよく考えてみると、それは狭い偏った天国のイメージに過ぎません。何故なら、イエスがこの世に来られた使命と目的は、神の国を実現するためであるからです。また、神の国は、私たちがこの世で進歩させ、発展させ努力して造り出すこの世の平和な場所、ということでもないということです。「神の国」は、私たちが造り出す世界ではなく、神の支配がおよぶ国といってもいいかもしれません。ですから、神の世界が完成されるように、私たちは今もその努力を続けて神の国の実現のために、協力して働かなければなりません。

イエスの話に耳を傾ける人々は、ふと、神に選ばれた先祖の人たちの信仰を思い浮かべたかもしれません。過去を振り返ると神のことばを信じ約束された国に向かって旅するイスラエルの民でした。でも困難が生じると、神の教えを破って自分たちの立場を優先し、自分たちの判断に従って進もうとした時に、不平不満による分裂が広がっていきました。自分たちが中心になったり、自分の力に過信したりすると、神の国はどんどんと遠ざかっていくかのようです。
神がいつも近くにおられることを忘れてはならない。当時、耳を傾けた人たちもまた、先祖の信仰を思い起こして心にそう感じたことだと思います。イエスはこの地上に神の国をもたらすために来られたのです。そのことを私たちも今一度、心にしっかりと留めておかなければなりません。

神の国、神のみ言葉は、それを聞く人の心の中で育っていきます。神が育ててくださっています。私たちの心の中に蒔かれた種も同様です。
自分が育てるのではなくて、神が育ててくださることを信じるならば、み言葉の種まきにも、私たちは惜しみなく、協力することが出来るのではないでしょうか。神のみ言葉を種として私たちが成長するとき、神のみ言葉、その種は人々の心の中で、神が育てていきます。そのように考えるなら、私たちはもっと惜しみなく、み言葉の宣教に当たれるような気がします。自分の責任だけを強く感じてみ言葉の種まきをするならば、やがて壁にぶち当たるかもしれません。もしかすると傲慢な形で、人との関係を作っていくのかもしれません。神に信頼して種蒔きをすることが、何より大切なことのようです。

今日のみ言葉を黙想しながら、旧約聖書のイザヤ書にも同じような内容が触れられていることが思い出されます。イザヤ書55章の中に、このような記述がありました。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
このようなイザヤ書のことばがあります。「わたしが与えた使命を必ず果たす」
み言葉の種まきによって、神の国は完成に近づいていくのだ。このように旧約のみ言葉の中にありました。

神の国の完成のために共に祈りつつ、私たちは今日もまた主の祭壇に近づきたいと思います。』

2018年6月11日月曜日

年間第10主日

今日の福音をとおして、教会共同体とは何か?ということを黙想してみましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『私の目の前にも、私の母、兄弟、姉妹…こういう宣言が素直でいつでも出来れたら良いなと思います。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また、母なのだ。私たち教会共同体がこの言葉を常に胸にひめて、私たちの共同体での交わりも大切に出来たら、どんなに素晴らしいことかと考えてしまいます。

  私は今日のみ言葉を少し緊張感を持って耳を傾けています。イエスの熱心さは何かにとりつかれているように、人の目からは異常に見られていたのでしょうか。良く芸能人や人気のスターを追いかける人を「追っかけ」と呼んでいますが、イエスを追っかける人々も異常なほど大勢いたようです。食事をする暇もなかったといいますから、イエスの働きぶりはいかほどであったか、そう考えさせられます。そして、イエスの親類、身内のものが、イエスに対する律法学者たちからの非難や中傷を聞くと、心配のあまり連れ戻すために引き取りに来たと聖書のみ言葉は語っています。
  イエスは何故、皆さんから驚きの目をもって見られているのでしょうか。異常であると見られるほどの働きの理由は、いったいどんなものだったでしょうか。私たちはみ言葉の奥深く、心を込めて入っていかなければイエスの真の姿は見えてこないかもしれません。その働きの理由は汚れた霊にとりつかれた病気からの解放、癒し、救いでした。闇から光へと目を開き、サタンの支配から信仰に立ち帰させるために、イエスは救いを求める人に奇跡を行っていたようです。でもイエスのこの熱狂的とさえ言えるような働き、身を捧げる働きに、人々は尋常ではない姿を見ていたようです。救いのために身を粉にして働くイエスは彼への忠告も聞かず、そのイエスの行動を止める者はいなかったようです。そのために最後の最後、イエスの母と兄弟が説得に来たと聖書は語ります。イエスの母、イエスの兄弟、彼らの住まいはナザレでしたから、ナザレから50キロメートル。私たちは50キロメートルをどのように考えるでしょうか。50キロメートル離れたところから自分の身内であるイエスを連れ戻すためにやってくる。一人二人ではないのです。身内の者、親類の者、イエスの母もという表現がとられています。ナザレから50キロメートル離れたカテナウムという町までこぞって身内、親類はイエスを連れ戻すために、身内も親類も真剣であったということが、み言葉から受けとめられます。

 そういうみ言葉から見えてくるイエスの働く姿を黙想していると、神のために仕えられるためではなく、仕えるために、そして自分の命を与えるために奉仕しているイエスの姿は浮かびあがってきます。イエスの人々に対する憐れみの心の深さも強さも感じられます。ヨハネの福音の中でも語っていますが、イエスのこの熱心な働きの姿。ヨハネの福音では、盲人を癒したときの言葉ですが、このような表現がありました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」(ヨハネ福音9:4 )こういう言葉がありますが、イエスの働く使命というものが伺えます。イエスのこうした働きの姿は、後に弟子たちの姿にも見られます。福音のために奉仕したパウロも周囲の人々から気が狂ったと思われたと言われています。パウロもまたイエスのために身を粉にして働かれたと聖書の他の箇所で見られます。恵まれた生活、健康と体力をいただいて神に働く。尊い働きですが、今、自分に当てはめて省みずにはいられません。私は、そして私たちは恵まれた身体、生活をいただいていながらどのくらい真剣に神のために奉仕できているのでしょうか。
 一方、わざわざエルサレムからやって来たと表現されている律法学者たちは、この機会をとらえてイエスの力ある働きを見つめながらも、イエスの働きが悪霊によるものだと非難します。
イエスがとにかく気になってしょうがない律法学者、ファリサイ派の人たち。このイエスの働きに対して悪霊によってそうしている。それは神を冒涜する行為なのだ。こういう非難をし始めます。でもイエスはすぐに反論して明白に彼らに答えました。「どんな罪も赦されるが聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。」どんな罪も赦される、イエスはこう話されました。今日の第一朗読。天地創造によって神の似姿に造られた人間が、原罪という罪を犯す箇所が語られます。蛇はサタンの誘惑、悪の誘いだったと思います。でも、その罪も赦されるということをイエスは語られます。そのことを心に留めると、本当に希望が沸いてきます。私たちもたくさん過ちを犯し続けます。でも赦される。その一言は私たちに大きな希望をもたらすものだと思います。
 でも、聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。聖霊に逆らう罪、何故でしょうか。何故、聖霊に対する罪は赦されないと言われるのでしょうか。聖霊の働き、役割についてもう一度思いおこさなければなりません。聖霊は私たちに信仰を語らせます。聖霊の力は私たちを神に向かわせます。その神に向かわさせる聖霊への働きを冒涜する罪は、赦されないとイエスは警告しています。が犯す罪はすべて赦される。この言葉だけ心に留めると本当に私たちはホッとしますが、甘えてばかりはいられないでしょう。軽く考えてもいけないと思います。もっと真剣に神様に向かっていくことが何より大切だと思います。

 洗礼によって神の子となり、神の家族の一員となった私たちにとって、忘れてはならない言葉が最後にありました。「神の御心を行う人こそ私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」この言葉はまさに私たちが良く言葉に発している「教会共同体」をも指し示す、そういう言葉だと思います。家族の絆はだれにとっても大切、大事なことですが、霊的家族において、その絆は信仰において結ばれますし、内面的な関係を持っているものです。それは天において消すことの出来ない神との永遠的な関係であることを示しています。
  神の御心を行う人こそ私たちの教会共同体の一人、私たちも神の家族の一人である。これは消すことの出来ない永遠のものである。私たちはとかく好き嫌いがあって、なかなか何かうまく話せない人も周りにたくさんいると思います。神の恵みによって導きによって、神の家族の一員であることをもっともっと自覚して、互いに支え合うこと、愛し合うことも大切なものとして、行っていかなければいけないと思います。

 イエスは今日も私たちを神へ導き招きます。今日いただく恵みをからだいっぱいに頂いて、
新しい一歩を踏み出すことが出来るように祈り続けましょう。』


2018年6月3日日曜日

キリストの聖体

私たちの教会が、”キリストのからだ”に救われて、お互いに一致して共に歩んでいく共同体でありますように。

今日のミサは、佐藤謙一神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「キリストの聖体」の祭日です。季節は年間に入っておりますが、復活節の余韻を残しながら、今日の祭日を祝います。
この”聖体の祭日”というのは、皆さんご存知のように今日の祭日の他にも、キリストの聖体を制定したことを記念するお祝いがあります。それは、聖なる過ぎ越しの3日間の最初の日に当たる聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中で祝われます。
「主の晩餐の夕べのミサ」の中では、聖体の制定を祝うばかりではなく、イエスの受難、死、復活という出来事を忠実に祝おうとしています。もちろん今日のミサの中でも、同じようにイエスの受難、死、復活、昇天を記念する、ということは行います。
感謝の祭儀の中で、「信仰の神秘、主の死を思い復活をたたえよう、主が来られるまで」というように私たちは唱えます。イエスは私たちの罪を背負い死に渡され、私たちが義とされるために復活されたのだという信仰宣言です。それを私たちはミサの度にとなえます。

今日のミサでは、聖なる過ぎ越しの3日間の聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中から、改めてキリストの聖体について私たちは祝おうとしています。聖なる過ぎ越しの3日間というのは、復活徹夜祭に至るまで、洗礼、堅信、聖体、ゆるしの秘跡というものが行われます。北一条教会でも多くの人が洗礼を受けたと思います。
この3つの秘跡というのは、キリスト者になるための秘跡ということです。洗礼を受けてキリスト者となり、そしてキリストのからだを受けてキリストに結ばれ、共にキリストのからだを受ける他のキリスト者、私たちの共同体と一致するという、そのような秘跡です。

聖体の秘跡というものは、新たにキリスト者となったことを完成させる秘跡であり、洗礼や堅信を受けるだけでは完成ではありません。聖体の秘跡を受けてそれでキリスト者として完成するのだということです。特に成人の入信式は、復活徹夜祭で洗礼と堅信を受けて、聖体をいただき、その時点でキリスト者としての完成になるのです。これら3つの秘跡の違いは、洗礼と堅信は一度きりですが、聖体の秘跡は何度も受けます。それはこの世で生きている中で、私たちがいつもキリストに強められて歩んでいくことが出来るようにという意味があります。私たちはこの秘跡をいつも受けることができます。日々キリスト者としての信仰を生き続ける私たちは、この秘跡に与る恵みというものをいつも与えられているというように考えることが出来ます。
この聖体の秘跡は、私たちの権利でもありますし、同時にキリスト者としての使命を果たす義務を与える秘跡でもあるということを心に留めておいていただきたいと思います。

イエスが亡くなった後の、最初の使徒たちの共同体というものは、イエスのことばに従って、信者の家に集まって、そしてパンを割いて共に食べ、葡萄酒を杯から飲み、イエスの死を多くの人に告げ知らせるということをしていました。この聖体の秘跡というものが、この二千年後の今でも続けられているということです。
今日の福音書の終わりに、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とのイエスの言葉があります。イエスご自身は、世の終わりに神の国が完成されるときに、亡くなられた全ての人たちと共に、そして私たちと共に、再び救い主イエス・キリストの食卓につくのだということです。その時まで私たちは、ミサの度ごとにイエスの死と復活、昇天を記念し、ご聖体をいただき、イエスの再臨を待ち望むということです。

最近、私はいろいろな教会に行っているのですが、先週は北見教会に行ってまいりました。北見教会でも同じように感謝の祭儀、ミサ聖祭というものが行われています。帯広の教会にも行きましたが、各地の教会によってやはり雰囲気が違います。教区の神父様がいる教会とフランシスコ会の神父様が司牧している教会では違いが感じられます。
この北一条教会でミサをする時いつも感じることは、やはり模範となる教会であるなあという感じがします。ミサ曲の歌い方にしても朗読の仕方にしても、皆さんは全道の教会の模範になるような教会であるように思います。今後も模範となる教会となっていけばいいなと思っています。

主の晩餐を行うということ、それは私たちがミサの中で、イエス・キリストがただ一度きり行われた受難、十字架上の死、そして復活というものを、何回も毎週毎週記念しているということです。私たちがキリストのからだに救われて、そして互いに一致して、歩んでいく、そういう共同体でありたいと思います。キリストのからだを柱とした教会の中で、私たちはそれぞれ様々な役割を持ちながら互いに協力しつつ、一つづつからだを構成している共同体です。そしてイエスが死者の中から復活して栄光のからだとなったように、私たちも死者の中から復活して、主の栄光の姿にあやかるということになります。これまでに教会共同体の中で亡くなられた方々とともに、私たちもいつかキリストが来られる時に、同じ栄光のからだをもって、最終的に神の国の完成を私たちも共にするのだということです。
私たちの希望は、死が全ての終わりではないということです。死をとおして、そしてキリストと共に、神の国の完成を待ち望むのだということです。
これからいただくご聖体は、私たちの命の糧となるものです。この聖体の秘跡をとおして、私たちはキリスト者としての生き方を、死に至るまで深めていくことができるのだということを今日のミサの中で再確認していきたいと思います。
イエス・キリストの残してくださった聖体の神秘に感謝して、今日のミサを続けてまいりたいと思います。』

2018年5月28日月曜日

三位一体の主日

この日のミサは勝谷司教の主司式により行われました。


イエスは「放蕩息子のたとえ」に出てくる父親の姿が神の本質的な姿であることを示されています。

この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。


『数年前、「いつくしみの聖年」に教皇フランシスコは勅書を出しました。その中で繰り返し言っておられたのは、「神のいつくしみ」です。その姿勢は今も変わらず、ことある毎に同様のメッセージを発信なさっています。しかし、それがカトリック教会の保守的な人たちの反感を買い、いろいろな論争を巻き起こしています。つい先日も、幼少時に性的虐待を受けた人をバチカンに招き、数日間を共にし、教皇様は彼らに対し謝罪と慰めを与えておられました。その中のある一人の男性が自分はLGBT(性的少数者を限定的に指す言葉)であると、同性愛的傾向があると教皇様に言ったところ、教皇様は「神様があなたをそのようにおつくりになったのです。そのありのままのあなたを神様は愛しておられるので、あなたもその自分自身を受け入れ愛しなさい。」とおっしゃいました。それが報道されるやいなや早速論争が沸き起こっているのですが、教皇様はけっして神学論争を仕掛けているのではなくて、こういうような既存の掟やモラリズムというものを先に立てて、それに対して人は(槍を?)打つ。そういう律法主義的な考え方、物の見方を批判しているのです。むしろ、その局地のはざまに陥ってもがき苦しんでいる人間、すべてのどんな人でも、そのような人たちをも神様は愛しておられると。そのような愛のメッセージを伝えようとされておられるのだと思います。

 これはいつの時代もその間の中で私たちはいれるのですが、例えば今日の第二朗読でパウロはこういうふうに言ってます「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」(ローマ8:15)「人を奴隷として恐れに陥れる霊」とは何でしょうか。これも先日、ある研修会に出席したのですが、その時に議論されました。その時に、こういうことを確信をもって強く主張する人がいました。ある意味、正しいです。「人は天国に入ることを目的としてつくられた。私たちの生きる目的は天国に入ることだ。」ちょっと異論はありますが、確かにそのとおりです。天国は死んだ人が行くところか。私はそうとも思わないのですが、それに続く言葉があります。何を言ったかというと、「私たちはこの世において天国に行くために善行を積まなければならない。」と。天に宝を積まなければならないという昔の考えです。 そして、この世で正しく生きることによって天国の門が開かれ、私たちは天国に入れてもらえる。強く確信をもって主張しておられました。それに対して反論して論争になってしまいました。結局、この世において良いことをし徳を積んで、そのご褒美として天国に入れてもらえる。これはパウロの言う奴隷の信仰です。奴隷は主人から命令されたことを忠実に果たすことによって褒められる。しかし、「神の子とする霊を受けた。」このパウロの続きの言葉。「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)神を父よ、お父さんと呼ぶのです。これは奴隷ではない。神の国の相続人です。あの放蕩息子のたとえ話、あの弟が受けたいつくしみと恵みの世界です。それを理解出来ないまま、掟を忠実に守ることによって父からのご褒美をもらおうとしていた兄の態度です。どちらも間違っていると言う意味ではなくて、より相応しく、神の愛やいつくしみの注ぎの中で、愛されている実感に溢れて、回心に導かれていく。それによって神の愛の懐の広さ、豊かさ、大きさを体験するものと、言われたとおりにしないとバチが当たる。へたすると地獄に落とされるかもしれない。考えていたこととはまったく対称にあるのです。私たちは神の子とされる霊を受けている。すなわち無条件に愛され、無条件に神の国を継ぐ者としてすでに受け入れられています。この愛されている実感によって、ふかまりによって、私たちは完全な自分を発見し、より愛に相応しいものとしてなるように自分を変え、正しい生き方をすることが出来るのです。すなわち正しい生き方とか、昔の身に着ける徳目として、愛、誠実、柔和、寛容…とありますが、私たちがそれらの資質を身に着けたら天国に入れるというものではなくて、逆です!私たちが愛されている者という、恵みの世界に生きた時に初めて、結果として私たちはそのような正しい生き方が出来るように変えられていくのです。

 今日は三位一体の主日ですが、三位一体の意味するところは難しい。論理的な解釈はそもそも無理である。だから奥義なのですね。人間の理性では理解しきれないから奥義なのです。 理性で理屈をつけて理解しようとすると、やはり無理があります。大切なことはその三位一体という教義は何を意味しているのか。これの意味していることは、神は孤独な神ではなく、すなわちたった一人でこの国に存在しているのでこの世を創造し、人間に仕えてもらわなくてはならい、そういう神ではありません。むしろ、神ご自身のなかにすでに完全な愛が完成している。愛は一人ではけっして交わりは出来ない、一人では決してありえない。神の中にこの三位の交わりがある。そして、完全な愛の世界がそこにある。孤独な神ではなくて「愛の充満」なわけです。ですから神は愛であると私たちは信じているわけです。その神の愛の一致、三位の神の愛に私たちを与らせてくださるものとして私たちは存在しているのです。私たちは最初から神の愛に包まれて、神の愛に(学んだ?)思想の中で生まれ導かれている。

 この世に地獄があるのかという論争が今でもなされます。私の友人の晴佐久神父は、地獄はないと言ってます。ネットで叩かれていますが。言っていることの真意を神学的に考えると、今までの教えと違うぞとなるのです。真意を私たちが受けとめようとすると、私もどちらかというと、そちらの立場になります。神が愛であるならば、家庭でとらえると良いと思います。家族がどんなに悪いことをしようが、それをもって家族でないと切り捨てることはあり得ないですね。ましてや親であるならば、どんな過ちを子供が犯したとしても、それによって切り捨てることはあり得ません。神も同じように、人がどのような過ちを犯しても、地獄に落とすというのは、愛である(当世?)からあり得ないと私もそれを感じています。 
  では地獄はないのか。そうではないと思います。私たちには自由な意思があります。どんな人間も自分を深く愛してくれる両親に対して、その愛を否定して家を出て行く自由があるのです。どんなに神様が私たちに愛を向けておられても、その愛を完全な意味で拒否し否定することが出来る人間がいるならば、確かにそれが地獄の状態なのです。あらゆる愛の交わりを自分の意思で完全に断ち切ってしまう。そのようなことが出来る人間がいるかどうかは別として、そのような人は地獄の状態にある。これは死んだ後の世界ではなくて、生きている今の段階で、もしそのような生き方をしているならば、その人は地獄の状態にあるといえるわけです。であるならば逆も同じですね。私たちが生きている今、この神の愛を実感し、どんな過ちや愚かさを持っていても  豊かな赦しといつくしみに包まれていると実感している人は、今救われている。そして、先ほど言いましたように、救われた状態、天国にいるわけです。

  そして最初言ったように、私たちはこの愛の交わりの世界に入るように招かれています。愛は一人で達成することが出来ないものです。私たちは孤独な聖人になるように召されているのではなくて、おろかな過ちを犯すような人間だったとしても、互いにそれを受け入れ合い赦し合う、愛の交わりの中で生きるときそれが天国の状態です。その互いの愛の交わりの中で、人間はその恵みによってより良い自分になり、愛するもののために自分を変えていくことが出来る存在になるのです。けっして恐れ、罰を免れるために正しく生きるのではなくて、むしろ恵みに生かされて私たちは変わっていこうとしているわけです。
 このことを教皇様が繰り返し繰り返し言っておられることだと私は思っています。あの放蕩息子の父親の姿、あれが神の本質的な姿だとイエス様はおっしゃっています。どうしてそれを一生懸命、理屈をもって間違っていると言うのか。しかし残念なことに、長いこと教会はそのようなかたちで教会に来るお互いを、裁きや批判の目で見ることが多いわけです。
 まず私たちは、自分に対して神がそれほどまでの憐れみと赦しといつくしみの眼差しを注いでくださっていることを実感するならば、教会も共同体も同じように愛の共同体になるように招かれています。どんなに過ちや愚かさを出す人であったとしても、私たちはそこにまずいつくしみを教会の中に実現することによって、お互いに変わっていくように、変えられていくように招かれていることを、忘れないでいただきたいと思います。』

2018年5月20日日曜日

聖霊降臨の主日

聖霊のはたらきによって、私たちがイエスの教えられる愛の業を実践していくことができますように


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖霊降臨の祭日を迎えている私たちです。
聖霊を言葉で説明することは難しいと誰もが思います。私も求道者に対する公教要理の説明ではいつも苦労します。
聖霊は三位一体の格(ペルソナ)の一つという言い方がされますが、ペルソナという言葉の説明もまた難しいことです。私たちは聖霊の賜物を今日いただく、という聖霊降臨の記念日を迎えて、改めて聖霊に対する理解を深めることが大切だと思います。
聖霊は旧約聖書の記述の中にも見られ、神の息吹や風で示されました。聖霊は神の霊、聖なる霊として、神の働きについて漠然とした表現で聖書に表されています。しかし、よく見ていくと、人間に対する神の働きかけを意味するということが理解できます。その聖霊を受けると、どのようになるのだろうか?人間を神に向かわせる働きを持っているのが聖霊ではないだろうか、ということが旧約聖書をとおして考えられてきたことです。

新約では主の霊、キリストの霊ともいわれ、神の霊は、父と子から切り離すことのできない交わりから溢れる愛である、と説明されることがあります。三位一体のペルソナでもあるのです。愛という言葉で聖霊を置き換えてみると、聖霊の働きが非常に理解しやすくなります。
一つの例として、「聖書と典礼」の中には3つの公式祈願がありますが、最初の一つである集会祈願には、結びの言葉として必ず「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」という祈りの言葉が使われます。一方、拝領祈願と奉納祈願では「わたしたちの主イエス・キリストによって。」という言葉だけで結びになっています。
この「聖霊」という言葉を、「愛」に置き換えてみましょう。「愛の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」
第2朗読についても「愛」に置き換えてみると、「愛」が結ぶ実として「喜び、平和、寛容、親切、・・・」というように、理解が深まり難しい霊の壁が消えてしまうようです。

今日の祭日「聖霊降臨」はラテン語で「ペンテコステ」と言いますが、イエス・キリストの復活から50日が経って、この出来事が起こったというのが聖書の記述です。
弟子たちが祈っていたときに、聖霊が弟子たちに降ってきました。祈りといつも一緒になって聖霊の働きが現れるようです。
この時、聖霊によって強められた弟子たちは、死と復活という出来事を思い起こすことになります。それもまた、聖霊の働きによって、過去の出来事が思い起こされて自分たちの心に蘇って、神秘を深く理解する恵みが与えられました。
「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」というように、聖霊は弟子たち一人一人をキリストの証し人として宣教に旅立たせます。
今日のヨハネの福音で、私が一番心に響くイエスの言葉は、「言っておきたいことは、まだ、たくさんある」というイエスの思い、そこに私は非常に心が留まります。これまでイエスが弟子たちに様々な「神の国」ことを話してきましたが、いくら話しても切りが無い程のイエスの思いが溢れてくる言葉です。
「全てを言い尽くすことは出来ない、時がもう満ちて私は父の元に帰らなければならない」そのような中で、イエスは聖霊をおくってくださるということを約束します。聖霊はイエスの思いを全てもたらすものであり、力を持っている愛の霊です。そして、その聖霊の働きによって、あなた方は信仰を生き抜くようにと、イエスは話されているように思います。弟子たちは、愛の聖霊の力によって、証し人となり、教会を築いていくことになります。

わたしたち一人一人も、聖霊の働きをいただいて、教会をつくっていかなければなりません。弟子たちのように私たちも使命をもって、召されているということを心に留めておきたいと思います。
聖霊の働きについては、第2朗読で様々な表現がされています。そしてコリント書には、「聖霊を受けることを切望することが大切です。聖霊によらなければ誰もイエスを主である、とは言えない」と記されているとおり、私たちは聖霊に祈ることも大切にしなければならないと思います。
「求めるなら、まことの大きな恵みの体験を与える」と神様は約束し、聖書にもそのことがはっきりと示されています。
聖霊降臨を迎えて、私たちはもう一度、聖霊の働きを確認しましょう。「父と子と聖霊の御名によって」と私たちは祈りを結んでいます。この聖霊の働きをさらに私たちは深くいただきながら、神の信頼をもって今日のミサを捧げていきたいと思います。

最後に、パウロ6世の「聖霊に向かう祈り」をご紹介します。

「聖霊よ、広く、堅固で、忍耐強い心をお与えください。
犠牲をいとわず、キリストの聖心にあわせて鼓動し、
神のみ旨を謙虚に、忠実に、勇敢に果たすことのみを喜びとする
そういう心をお授けください。」


2018年5月15日火曜日

主の昇天

今日は主の昇天の日。イエスの復活から40日。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と、イエスは天に昇るに先立って弟子たちに話されました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖母月の5月、毎年、札幌教区ではある行事を行っていますが、昨日はその日でした。皆さんはどんな行事があったか分かりますか?3週間ほど前にも、カトリック新聞で大きくとりあげていたのですが、「召命の集い」という行事です。掲示板にもポスターが貼ってあったのですが。私たちはどうでしょうか。神父さんが少なくなった、若い人が少なくなったと誰もが口にしているけれど、その召命の集いの行事に心を合わせて祈ろうとした人は、どのくらいいるのでしょうか。召し出しのために、司祭の召命のために、青年たちのために、心を本当にこめて祈った人はどれくらい札幌教区にいたでしょうか。
 昨日、召命の集いが終わってから、そんなことも考えながら帰ってきました。カトリック新聞にも珍しく大きく取り上げられたので、養成担当の司祭ももしかすると、教区を越えて一人か二人か申し込みがあるかもと、期待もしていたのです。でも、新しくこれまで申込みした人はおらず、今まで出た方が続けて参加するだけの召命の集いでした。東京の知り合いのシスターもそのことを知って、その日、召し出しのために祈ってますよと電話がありました。
 それが現実なのですが、昨日、北26条教会が会場だったのですが、道すがらチューリップやレンギョの鮮やかな黄色い花が咲いていました。その花を眺めながら、イエスが復活して弟子たちと会っていたガリラヤの自然も、そんな季節になっているのだろうか。ガリラヤに巡礼に行った時のことも思い出しながら、昨日は一日を過ごしました。
 召し出しについて私たちは、ただ司祭が少ない、司祭が高齢化して大変だということだけでなく、人々の召し出しに繋がる青年が誕生するように、もっともっと真剣にならなければと思います。そのためには小学生くらいの子供から、みんなで教会で育て上げる意識を強くしなければ召し出しの実りには至らないと考えます。終わってからの話になりましたが、皆さん、これからも召し出しのためにたくさんのお祈りを、真剣な祈りをしていただきたいと願っています。

 さて、今日は主の昇天の日。イエスの復活から40日。弟子たちにイエスは神の国について語られていました。イエスの宣教活動は終わりに近づいたとき、今日の聖書の言葉にもありました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と。天に昇るに先立って、イエスは弟子たちに話し、その使命を再確認させています。主の昇天には、典礼のA年・B年・C年と、3年毎に福音書は変わるということは、皆さんご存知のことです。3年ともそれぞれの福音書の結びが朗読されています。今日はマルコの福音でそのことが語られています。どの福音にも共通することは、全世界に向かっての福音宣教のことだと思います。

 そこで、私は皆さんに一度話したことがあると思いますが、福音宣教と私の召命についてお話しをしてみます。福音宣教は教会が良く強調して語っていることです。一人ひとりにも福音宣教の使命があるということは、誰もがちょっとこころ苦しいけれども、聞いていると思います。一人ひとりがその役割を担って、もっと目覚めなければいけない、そんなことも教会は主張していると思います。
  私にとっての福音宣教、そして自分の召命。今振り返っているところですが、それは初めて出会った一人の司祭の信仰が、私自身の召命にも繋がっていたと思い出すことです。私は函館地区の小さな教会、江差教会で教会と出会い、信仰に導かれました。そういう小さな教会で一人の司祭と出会い、信者さんに大切にされたイメージですが、小さな共同体ですが、みんなが一人の青年が教会に入ってきたというだけで、驚きを与えたようですが。その一人の青年をみんな大切にしてくれた、そのような経緯がありました。
 その中で、初めて出会った外国の神父様。パリ・ミッション会の一人の神父様でした。函館地区はパリ外国宣教会(パリ・ミッション会)の地区となっていました。それは今から50年前になります。私がちょうど二十歳になった年の出来事でした。私がちょうど土曜日の晴れた日、4月の20日。今でもはっきりと記憶に残っています。仕事が半ドンで昼に終わりました。いつものように独身寮に向かっていた時のことでした。教会の看板が道端に出ていました。「教会にいつでもいらしてください」と看板に書かれていて、それに惹かれて教会に足を運んだ。それが一つのきっかけです。迎えてくれたのが外人の神父様でしたので、またそこでびっくりしました。私が、生涯初めて外人と言葉を交わしたのは、そのときが最初だと思います。身近に接したのもそのときが初めてだと思います。今は、どんなところでも外国の方と接する機会はありますが、当時は外国人を遠くから眺めるようなことが多かったと思います。

 そういうかたちで教会に足を踏み入れ、一人の神父様によりキリストに出会うことになりました。自分の信仰を宣言する、受け入れるまで私は随分時間がかかりました。信仰を少しずつ深める中で、召命を少しずつ考えるようになっていきました。函館地区で働くパリ・ミッション会の神父様方の一人ひとりの姿が、私の召し出しに小さな影響を与えていた期間かもしれません。私は求道者として3年間、教会に通っていましたから、教会の行事や函館地区の大きな教会の行事にも参加をしていましたので、その度に外国の神父様方に触れるようになっていました。
 でも、その召命がはっきりするまでは、私の中ではぼやけた感じで神父様の姿や信仰を見ていました。どうして外国の人が自分の国や家族からも離れて日本人のために、まして私が住んでいた小さな町、江差町まで人生を捧げ働くのだろうか。私にはなかなか理解出来ないことでした。でも一人の司祭の生き方、それがキリストの愛に応えるひとつの生き方であることは、神父様と接しながら少しずつ感じられるようになりました。それでも召命に応えるためには、さらに多くの時間が私には必要だったようです。その頃は、ベトナム戦争の時代でしたが、パリ・ミッションの神父様方がベトナムで働いていたようで、休暇で神父様と知り合いだからと、江差に来られていたことがありました。私たち小さな教会の信者は、知らない神父様が来られたということで、お話しを楽しみにしていました。ベトナム戦争のさなかのお話しも聞きました。キリストを知らない人々がいる国に、パリ・ミッション会の宣教師が出かけて行く、そのことが自分たちの使命なのだ。そういうことも聞く度に、考えさせられる機会でもありました。ですから私が、私のようなものでも神父になれるのでしょうかと、恥ずかしげに神父様に尋ねたときに、私たちが働こうとしている地(国)に新しく司祭が誕生することを夢見て、私たちは宣教地に向かうのだ。それが宣教師だと教えてくれました。私は、そのころ神父は外人と思い込んでいましたから、パリ・ミッション会の仲間に加わることが、司祭になる道だと思っていました。あなたは教区の司祭になるべきですと聞かされました。教区と宣教会の違いなどもそのときに説明されるようになりました。こういう経緯で私の召命は一人の神父様をとおして、また様々なかたちで出会った神父様方をとおして、召し出しの芽が深まっていったのだと思っています。
 また、パリ・ミッション会のかなり年輩の神父様のお話も、私の記憶の中にはいつも留まっています。その神父様は今は亡くなっていますが、八雲で最期働いておられたジェイエ神父様です。ジェイエ神父様もパリ・ミッション会の神父様で、最初は中国で宣教活動していたそうです。中国は司祭を追放した国で、そのときに中国に留まって、宣教活動をした司祭は皆、捕らえられ牢獄に入ったそうです。牢獄では拷問も受けたとその神父様から聞きました。拷問で苦痛だったのは爪をせめられることだったそうです。私たちは想像でしか考えられませんが、厳しい、辛い、痛みが身体全体にはいるのだと思います。そんな話しも聞きました。でも、パリ・ミッション会で中国で働いていた神父様は後に解放されますが、その時に自分の国に帰るのではなくて、ある人は日本に来て働いたとその時に聞きました。宣教師の熱心な姿、宣教師魂と良く言いますが、函館で働いていた後輩の神父様方にも受け継がれていたのだと思いま

  何故、自分の国を離れて、命をかけて宣教が出来るのか、私の素朴な疑問は次第にキリストに生きる喜びを知った人は、どんな苦しみにも耐えられるのだ。そういう宣教師の活動をとおして少しは感じられるようになりました。福音宣教の使命や情熱、信仰の喜びと深く結びついているのではないでしょうか。
  イエスは自ら語り、自ら手をのばし、そして人々の心を照らし、慰め、癒しを与えたその働きは今、弟子たちが背負うことになりました。また、今日はその弟子たちの働きを、私たち一人ひとりがまた担うことになっています。聖霊が弟子たちの心の中にに注がれたように、私たちにもまたその聖霊は注がれています。聖霊が弟子たちの心を力づけ、導いていくことにより、人々は神を知り、信仰の喜びを知る機会をもたらされました。
 今、主の昇天を記念する私たちですが、弟子たちの目からもイエスのその姿は消えてしまいます。でも弟子たちの働きの中に、現存するイエス・キリストがいつもともにいてくださる方です。今日の福音の最後にもあるように、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることをはっきりとお示しになった。」と記しています。私たち一人ひとりにも託された使命、それがひとつ宣教の使命であることです。
 先日、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)というみ言葉を、日曜日に聴いています。選ばれた、そして任命されたという言葉で、宣教するという使命を与えられていることを考えた人は、とても重い使命を与えられたということで、身動きが出来ないという思いになったという話しを聞いたことがあります。私たちは任命された、選ばれたということを、神の子供として選ばれたと考えたらどうでしょうかと、お話しをしました。神の子とされたのは、本当に神の愛をいただいたことでもあるし、愛を生きなさいということが任命でもあり、選ばれたということで考えたらどうでしょうかとお話ししました。私たちが互いに愛し合いなさいと言うイエスの言葉をいただいていますが、その愛を生きることが福音宣教に繋がるとなるような気がしますよとお話ししました。
 皆さんは福音宣教という言葉だけにとらわれてしまうと、本当に重い使命を与えられたようで、とても出来ませんという言葉になってくると思います。私たちが神から愛され神の子とされた。その愛を私たちの家族の中で、私たちの隣人の間で生きるということが、福音宣教にまず繋がっていくということも確かにあるということを、私たちは心に留めて主を仰ぎ見る信仰から本当に目覚めていきたいと思います。

  来週は聖霊降臨の祝日を迎え、復活節が終わります。弟子たち、使徒たちが約束の聖霊を待つように、私たちも共にこの1週間を特に大切にして日々を過ごしたいと思います。そして、私たちのタレントを活かしながら、福音を告げ知らせる使命をもっともっと深く祈っていきたいと思います。』

2018年5月7日月曜日

復活節第6主日

この日のミサは、佐藤神父様と後藤神父様の共同司式でした。

私たちがイエスに繋がり、そしてイエスが私たちに繋がっていれば、私たちは豊かに実を結び、喜びへと向かうことができます。


この日の佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音の中で「互いに愛し合いなさい」と言う言葉が出てきました。実は、先週のミサの中の福音ですが、ぶどうの木のお話しでした。皆さん、よくご存知のところのお話しです。今日はその続きの場面です。今日の福音の11節のところに「これらのことを話したのは」とありますが、これらのこととは先週のぶどうの木のたとえの話しです。イエスがぶどうの木のたとえを話したのは「わたしたちの内に喜びがあり、わたしたちの喜びが満たされる」ためであると、今日の福音で続けられています。人がイエスに繋がっていて、そしてキリストがその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶのだということです。それがわたしたちの喜びであるということです。
  先週の福音から今週の福音はずっと繋がっているのですが、先週の福音の中では実は「愛」と言う言葉は出て来ませんでした。「イエスに繋がっていなさい、わたしに繋がっていなさい。」という言葉で終わっていました。イエスと繋がることがまず必要であることを先週は示したわけです。今週はさらに進めて「わたしの愛にとどまりなさい。」と言っています。「それはわたしの掟である。」ということまで言っています。先週は、「わたしはぶどうの木、わたしに繋がっていなさい。」と言われました。この繋がりは十字架でいうと縦の木にあたると思います。今日の福音は「互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てるすこと、これ以上に大きな愛はない。」と、あるいは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」とイエスは言われました。これは十字架の横の木であると考えられます。十字架の縦の木は神と繋がっていることを意味し、十字架の横の木は共同体の中でそれぞれ繋がっていることを意味すると言う神学者もいます。その真ん中にイエスが付けられているということです。イエスは神であって、わたしたちと神の仲介者でもあり、そして同時に共同体の仲介者でもあるとも言えると思います。
 イエスは苦しみを受けて十字架に付けられて亡くなりました。十字架に付けられて亡くなったイエスはそれだけでは終わりませんでした。復活して弟子たちに現れ、復活のからだと永遠のいのちというものを示しました。そこにわたしたちの救いと希望というものがあるのだと思います。先週の福音では、わたしに繋がっていれば豊かに実を結ぶと言われました。そして、イエスに繋がることが出来るのだということが分かりました。

  次にどうすれば良いかということが今日の福音に書かれています。今日の福音では「わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが実を結んで残るように、わたしの名によって願うものは何でも与えられるように任命したのだ。」と言われました。イエスに繋がることは、わたしたちが選んでいるように見えますが、その決断に至る間にイエスがわたしたちを選んでいるのだということです。選ばれた人間がそのことを喜ぶだけではなく、ほかの人々のために働く使命が与えられているのだというふうに考えてもらいたいと思います。互いに愛し合いなさい-この言葉だけ聴くと、実際、聖書の福音の中にも書かれていますが、掟とか命令とかいう言葉が出て来るので、わたしたちが何か押しつけられているように感じるかもしれません。互いに愛し合いなさい-これはイエスが命令するのだから守るべきものと捉えてはいけないと思います。「わたしがあなたがたを愛したようにと」という言葉がその前についています。イエスが弟子たちを愛したということ、だから互いに愛し合いなさいということです。弟子たちはイエスに選ばれたものとして、周りの人々に対してイエスが行ってきた愛を行っています。今日の第一朗読の中でペトロは、すべての人に神の恵みが注がれていることを知ることが出来て、そして、すべての人のために福音を告げ知らせて行こうと決心しました。イエスの愛を知っていれば、周りの人々に対して、わたしたちはどうしても愛さざるを得ない。どうしてもそうしてしまうのだという気持ちになる。そういうことが必要ではないかと、そのように思われます。
  わたしたちをどうしても駆り立てるもの、それがわたしたちが行っている行動に表れていかなければならないと思います。その行動自身はイエスの愛の上になりたっているのだと、これを心に留めていただきたいと思います。わたしたちの根底にイエスの愛があって、それによってわたしたちも互いに愛し合うのだと、そういうことを心に留めておきたいと思います。
  イエスが示された究極の愛というものは、わたしたちの罪のために十字架につけられたことです。十字架をわたしたちが仰ぐときはいつも、イエスの愛を振り返る必要があると思います。
そして、イエスが互いに愛し合いなさいという言葉に込められた意味を受けとめ、歩んで行くときに、復活したイエスがいつもわたしたちの傍にいて、支えてくれていると感じることができます。
  今日のミサの中でわたしたちも、互いに愛し合いなさい、神の愛であるという言葉、これを心に留めて、それを支えにして歩んで行くことが出来るように、互いに祈って参りましょう。』

2018年5月3日木曜日

第23回 カテドラルコンサートのご案内

マルタン・グレゴリウスさん(札幌コンサートホール 第19代専属オルガニスト)をお招きして、オルガンリサイタルを開催します。
木のぬくもりが心地よい当教会聖堂で優美な演奏をお楽しみください。

7月14日(土) 14:30 開場 15:00 開演
場所:カトリック北1条教会 聖堂
入場料:一般 1,000円 小中学生 500円
(当日チケットも購入できます)


マルタンさんのご紹介

1991年、ポーランド生まれ。グダニスク・スタニスラフ・モニューシュコ音楽アカデミーやパリ国立高等音楽院などでオルガンを学ぶ。これまでに、ベルサイユ宮殿王室礼拝堂をはじめヨーロッパ各国でコンサートを行ったほか、さまざまなオーケストラや演奏家と共演。教育活動にも熱心に取り組んでいる。2016年、シュレーグル国際オルガン即興コンクール第1位ほかヨーロッパ各国のコンクールで優秀な成績を修めている。17年9月、第19代札幌コンサートホール専属オルガニストに就任。

2018年4月29日日曜日

復活節第5主日

今日の福音は、「最後の晩餐」の席でイエスが弟子たちに話された「ぶどうの木」のたとえでした。


後藤神父様のお説教を紹介します。

『良い天気が続き、教会と「聖園こどもの家」の境にある桜も満開を迎えています。おそらく永山公園も桜が満開ではないでしょうか。
4月ももう終わり、5月は聖母マリア様の月になります。マリア様を通して私たちの祈りもまた豊かに花開く季節としたいものです。

皆さんは、今日の福音のみ言葉を聞き終えて、心の中で何が響き、何が残っているでしょうか?今この瞬間、み言葉は心に留まっているでしょうか?
今日のヨハネの福音では「ぶどうの木」のたとえ話が話されました。
なぜイエスは自分が「まことのぶどうの木である」と話したのでしょうか?
イエスは「つながる」という言葉を9回も使って、「つながる」ことの大切さを強調していました。
私たち日本人は、「つながる」という言葉をどのようにイメージするでしょうか。
信仰においてイエスと私たちが「つながる」ということを、どう考え、どう受け止めるべきなのでしょうか?
もし私が皆さんに、「あなたは、主イエスとつながっていますか?」という質問を投げかけたとすると、皆さん一人一人はどんな言葉で答えられるでしょうか?
自分の信仰を振り返りながら、それぞれがいろいろな言葉で説明されると思います。一人一人自分の信仰を確認することができるかもしれません。自分の信仰をみつめる機会になるかもしれません。

今日のみ言葉の少し前で、イエスご自身が「わたしは道そのものである。まことそのものである。そして、命そのものである」と、道・真理・命という言葉を使って自分自身をも表しています。ヨハネがこの福音を書いた時代、そしてヨハネが体験した信仰の交わりの中で、神の民が集まる教会は「神のぶどう畑だ」というイエスの言葉、教えを思い浮かべていたのだと思います。ヨハネはイエスの大事な言葉を思い出して、イエスこそ「まことのぶどうの木」であると力強く主張しました。ヨハネが福音を書いたのは随分と高齢になってからのことでした。そしてイエスが亡くなってから随分と時間が経過していました。
ですから、初代教会の動きをよく見つめてきたヨハネにとって、教会での出来事や人々の信仰心が少しづつ変化している、教会の信者が増え組織化されていく中で出てくる様々な体験もあったようです。
ヨハネの思いを考えると、主イエス・キリストこそ天の御国に通じる霊的な命そのものの方であって、その命につながって、その命に生かされなければ神の御国の永遠の命に生きることはできないのだ、だから、つながっていくことが何よりも大切である、とヨハネはどうしてもそう述べたかったのだと私は考えざるを得ません。

今日聞いたみ言葉の一節の中で、「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」という言葉にも心が留まりました。「清い」という言葉に注目すると、私自身は信仰においてどうであろうか、清さを保っているだろうかと、そのような思いにも至ります。
「神のぶどう畑である教会」は、初代教会の頃、皆そのような思いで助け合い、支え合い、愛し合ってキリストに深く一致して歩んでいきました。一つにつながる教会の姿をそこに表していました。しかし、イエス・キリストが十字架でなくなって、30年、50年と経つうちに、教会の中では取り仕切る人が必要なほど大きな組織になっていきました。取り仕切る人は、時には権力を握る者でもありました。支配していく状況も生まれていきました。清さを保ちながら信仰を生きようとする中でも、私利私欲に流される者も現れてきます。みすぼらしい体験をせざるを得ない人も多くなります。

心の清さは、世の汚れに染まらないことだといいます。私たちの信仰はどうでしょうか。世の汚れに染まっていないでしょうか。清さはイエスの言葉によって与えられるものです。ぶどうの木につながることによって、その清さは保たれるのです。

パウロも、「清いこころで主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛を求めなさい」、と言っています。

今日の「つながっていなさい」というみ言葉は、私たちの信仰や心が本当に、神にそしてイエス・キリストにしっかりと深くつながっているのかどうかを黙想するテーマとして与えられているような気がします。』

2018年4月22日日曜日

復活節第4主日(世界召命祈願の日)

復活節第4主日のテーマは「よい牧者」。
この日のミサは勝谷司教様が司式されました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『今日の「世界召命祈願日」に当たって教皇様は、書簡を発表しました。そのテーマは若者に対して「聞き、識別し、生きる」という3つのステップを踏んで、神さまの召し出しを見出し、それを識別し、それに応えて生きるようにと、呼びかけておられます。 枝の主日の「世界青年の日」のメッセージにも、非常に長いメッセージだったのですが、その中で現代のネット、SNSの世界の中で若者たちが、非常に素晴らしい道具ですが、逆に多くの危険性が潜んでいます。小さなコンピューターやスマートフォンという窓からしか世界を見られない。結局、自らを狭い部屋に閉じ込めて若さの炎を消してしまうことのないように、必死に呼びかけておられました。
 このような危機感から、今年の世界代表司教会議(シノドス) のテーマは、青年・召命に絞られて、10月に向かって準備を進めています。この10月のシノドスの会議に向けて、 全世界のアンケートの調査が行われました。私が去年から、青少年の司牧担当になっていますので、そのアンケートの取り纏めを依頼され行ったのです。全国の青年担当者や学校関係者にこのアンケートを配りました。そこに書いてあった注意書きには、直接青年にこのアンケートに答えてもらう。そのお願いを添えて全国にの配りました。膨大な数のアンケートが帰ってきて、集計に大変苦労したのですが、直接青年が答えたアンケートは1通だけでした。しかもその1通は、小教区や教区、学校関係ではなくて、東京のネットワークミーティングという、学生が独自に運営しているグループです。そのほかはすべて担当司祭や先生が答えたものでした。これは何を物語っているかというと、今の教会、こういうシステム、組織、教区、小教区という中では、もはや直接、青年と関わることが出来ないとなっているということです。こういう教会という組織の中には、もう青年たちは関わらない。教皇も青年たちとコンタクトをとる術を失っていると言っていましたが、今回のアンケート調査で良く分かりました。
 昨年、支笏湖でネットワークミーティングの集まりがありました。全国から100人以上の青年が集まって来ました。札幌からも30人くらいのスタッフが集まり運営してきました。  これだけの青年がまだ全国にいる。そして、札幌にも関わっている青年がいると驚いたのですが、わたしは全体の集まりの中で聞いてみたのです。「この中で、自分の所属するネットワークミーティングに申し込みをしたときに、どのグループを代表して来たか?」いろいろな活動のグループがあります。小教区の青年会を代表して来た人は手を挙げてください、一人もいませんでした。これが今の日本の教会の現状だということです。   
 彼らが今、今日の福音のテーマですが、牧者の声に耳を傾ける。いったいどこの牧者に耳を傾けているかということはとても心配になります。教皇様が懸念されていたように、この閉ざされたネットの窓口からしか世界を見ていないという傾向が、非常に顕著になってきています。当然、それによって様々な懸念といわれるものがあります。非常に片寄っていくとか、テロもそうですね。知らないあいだに自分がどんどんそういった中になかに入っていくけれど、歯止めがかからない。実体験の中で関わっている人はいない。ネットの情報の世界の中だけで物事を判断している。そういうとんでもないところに行ってしまう可能性があるのです。
 そして、もうひとつ教皇様が指摘されておられたのは、ネそのようなット依存とは言わないが、ネットに関わっている青年たちは、ある種の恐れというものが根本に抱いている。この恐れというのは何か。宗教的に言うならば、人間的にある根本的な恐れは、自分が愛されていないという恐れ。あるいは誰からも何も必要とされていない、好かれていない、受け入れられていない。それの如実な現れは、SNSと言われる、皆さん理解してくれるかどうか心配なのですが。皆さんはYESマイスター知ってますね。いわゆる自撮りをしたり、自分を良く見せようとする。必死になっている。何のため。「いいね」をもらうつもりなのですね。いろんな人がネットを通して見ることが出来る。そして、いいね、素晴らしいという反応をするのです。その「いいね」の数。自分の精神的な反応をはかる。特にフェイスブックやそのほかのラインもそうなのですが、SNSの世界がそうです。自分を肯定してくれる仲間たちがどれだけいるかがとても気になる。返事がない。そういう私もSNSをやっていて、記事を載せると100以上の「いいね」がつくのです。50くらいだと何かあったかなと。心配になり、気になるのです。自分のアイデンティティが崩壊のところまでは絶対いかないけれど、そのすれすれのところで必死になってくいとどまっている青年たちがいるのが現実だと思います。

  先ほどの情報の話しですが、彼らはどういう情報を得ているのか。私たちは、皆さんも同世代の人が多いと思いますが、学生時代はどうやって情報を得るか。学校の授業、図書館。あるいは自分が直接電話をかけてしか方法は無かったですね。ところが今は簡単に、ありとあらゆる情報が机上で集められるようになってしまいますき。そんな中で若者たちは、実際に出会う感覚無しで世界を判断している。これはとても恐ろしいことだと思います。
 実際に具体的な話しがいくつかあるのですが、ひとつはこういう場で話したくないのですが、政治的な今の問題について。とても片寄った情報で、しかも浅い解釈でそちらの世界に入っていってしまう。あるいは今、教会の中でも少し微妙な問題になっています。福島の放射能汚染でどのような対応をとるか。今、現実に避難退避されて戻ってくる人たちがいるのです。そうした中で一生懸命、復興支援を支えているグループがいるのです。しかし片や同じように、  それがどれほど危険であるか、まだ本当に示されている情報が安全なのか。安全だ安全だという情報が先にいって、子どもたちにもそういっているのですが、その根拠はなんなのか。懸念を示す農家もいるのです。そういう人たちはネットで情報を発信していますが、多くの場合は国の政策に従った情報が圧倒的に多くて、その情報を丸呑み信じている人たちがいるのです。本当にこれは大丈夫なのかなと。本当の情報がどこにあるのかは、なかなか識別しずらい。 だから教皇様言っているように識別し生きるのですが、その判断の基準というものがどこにあるのか。難しい問題ですが少なくてもネットの情報は、うまく大切に利用しながら、実際に自分の目で認識する大切さ。そして、本当の意味で自分の人生を決定づけるような体験は、やはり直に出会うこと。そういう人間関係、触れあいをとおしてか得られないと私は考えています。

 私自身がこういう道に歩んだきっかけは、洗礼を受けた時の出会いが強烈だったこともあります。大学時代、東京に行ったときに真生会館という学生会館でいろいろな活動を行っていました。あの当時は学生運動も崩壊してしまって、一部のセクトが内ゲバを繰り返している時代で、あまり政治的なことにはかかわらないで、むしろ学生の聖書研究会や音楽を聞くとか、真生会館では多かった。ところが、アジアの国際会議がバンコクで開かれる時に、それはかつての学生運動の流れを色濃く残している団体、IMCS(国際カトリック学生連盟)、そこには昔のカトリック学生連盟に所属していたのです。全国の高校や大学に広まりますが、1968年に崩壊します。その後、全国で統一した学生運動はなかったのです。学生運動の中心だった真生会館。真生会館で集っている学生の中で、何故か私が目立ったのか、それに(バンコク)行けと言われて、行かされるハメになりました。その時の青少年担当司教が後の濱尾枢機卿でその時は司教で、東京の補佐司教でした。私はイヤでイヤでしょうがなかったのですが、英語の会議に、英語に慣れない人間に何が出来るのかと思いました。特にそういう政治的、社会的な運動に対して関心が高かったわけではなかった私が行かされたのです。 
 その時の体験が非常に大きかったです。あの当時、東南アジア、香港やバンコクを含めて、東南アジア各国では日本製品の不買運動が行われていました。日本の経済進出、エコノミック・アニマルが行われ、様々な社会問題が東南アジアで起こっていました。
  反日感情が非常に高まり、路上で日本製品が積み上げられ火をつけて燃やされる、テレビで何度も報道されていました。私は何度もそういうニュースに接していましたが、人ごとのようにしか感じていませんでした。しかし、その会議に行ったときに、まさにそれが話し合いのテーマとしてあげられたのです。当然、私に対していろいろ質問がくるわけですが、そもそも知らない、答えようがないのです。知らなかったという恥ずかしさだけでなく、知らなかっただけでは済まされない日本人の責任。それを非常に感じさせられました。そして、休憩時間にある参加者の女の子。一言、私と同じグループだったのですが、「あなたは自分をアジアの一員だと思っているの?」。そんな質問を受けると思ってませんでしたから、そのときの私には答えることができませんでした。というのも、外国といえば、アジアは考えていなかった。ヨーロッパやアメリカ。アメリカのホームドラマで育った時代ですから。フリッパーとか名犬ラッシーとか、日曜日の午前中や夜中のゴールデンタイムはアメリカドラマのものばっかりでした。自分をアメリカの一員と錯覚、おちいっていたきらいもあります。その当時の日本は、アジアの貧しさから脱して、ヨーロッパと対等のメンバーになろうと、経済的に目指していた。それは、明治維新のときからですね。戦争が終わった後は、経済的にそれを築いた時代だったと思います。しかし、東南アジアで生きていたその学生たちは、戦前は軍隊に、戦後は経済で支配され、自分たちは苦しめられていると感じていたのです。そのような苦しみを実感しているのに、親しくなった友からのたった一言。日本で何度も接していたニュースの情報より、はるか強烈にわたしの心に突き刺さってきました。テレビの情報によっては、自分を変えようと、生き方を変えようなどとは、まったく思わなかったのですが、その友のたった一言は自分の人生を変えてしまった。そういうことが言えます。
 その会議に参加した経験から、会議に集まった友達のつてを辿って、東南アジアの研修旅行を真生会館を中心に、毎年エクスポージャして回って歩けるようになりました。そこで出会った人たちが、いろいろの人たちの考え方から、だんだんと自分は神学校に行きたいというような感覚になっていったのです。

 ですからそれに比べて、先ほどまで言っていたネットの情報は、自分を傷つくことのない立場において、机上で集められた情報にすぎません。わたしたちは外に出向いて行って、実際そういう人たちと出会う体験を通じて、他を知る体験をするわけです。ネットやテレビは確かに共感を呼び起こすような情報もあります。でもちょっと自分を中心に見たくないものであれば遮断し、テレビだったらチャンネルを切り変えることもできます。傍観者にはなりますが、自分を突き動かすものにはなかなかなれません。単なる机上で世界を分析する評論家のような 世界を眺める存在になってしまう。
 若者に対しては、先ほども言ったように教会がその関わりの手段を失っている。であるならばどうしてそこで神さまを見出し、そして召命への道へ導くことが出来るのか。これは確かに難しい問題ですが、私にとって教会というものは、ネットというものが無かった時代でしたので、まったく違う新しい世界の入り口で、そこで出会った同じ世代の友だちだけではなくて、そこに関わった大人たちとの出会いも非常に決定的なものでした。 
 あの当時、室蘭では家庭集会というものが盛んだったのですが、毎週行っていました。今では考えられない。毎週、各地区で家庭集会が行われていて、若輩ものでありながら私も参加しました。そこでのいろいろな人の分かち合いを聞いて、本当にささやかながらも、いろいろな悩み苦しみを抱えながらも、信仰に基づいて生きようとしていた真剣な姿が若い人たちに伝わってきました。ですから教会は、若者がいるから場所を提供するではなくて、実際に関わりを必要としているというのは青年の側ではなくて、教会の側が青年たちに関わりを求めていく、それが必要ではないかと考えています。
  先ほどのアンケートもそうですが、これまでイヤというほどアンケートをとっているのですね。私も宣教司牧評議会の時代から、青年に対して何度もアンケート、話し合いの場が持たれています。アンケートの集約で問題が分かったような形になって、その後何もしないことが 続いているのが現状だと思っています。アンケートではなくて、何が出来るか、出来るところから実施していく。もうそうしなければ本当に未来の教会、今しなければ教会は20年後どうなってしまうんだ、本当に懸念されることだと思います。

 私たちはなかなか教会で若者を見かけなくなりましたが、どのように接して若者と実際、具体的に関わりを持つことが出来るのか。真剣な関わりであれば必ず何かが伝わる。真剣に関わろうとしなければ、すぐ彼らは直感的に識別してしまう。これは本気で関わろうとしている人たちは、そういう鼻だけはすぐきくのが青年です。教会が今本当に、あなたたちのために何かをしようとしていることを、何とか伝えたい。シノドスも教皇様もそうですが、今、具体的に教会の中で、真剣に考えていかなければならないことだと思っています。』

2018年4月15日日曜日

復活節第3主日

今日の主日ミサは、先月司祭に叙階された佐久間神父様のカテドラルでの初ミサでした。
司祭になられたばかりで、お忙しく慌ただしい中、大変有難うございました。


佐久間神父様のお説教をご紹介します。

『皆さん、おはようございます。札幌教区の遅れてきたルーキー、パウロ三木 佐久間力です。年齢的にも体格的にも、決して大型新人とは言えませんが、3月21日に勝谷司教様によって司祭に叙階され、間もなく1ヶ月となろうとしております。カテドラルで説教するのは、これが初めてですので緊張いたします。さて、初ミサと言いながらも、司祭に叙階されてから3週間以上がたち、初めはぎこちなかったミサも大分なれてきた気がしておりますが、なれてきた頃が危ないのは車の運転と同じです。どうか事故のないようにお祈りください。
北1条教会の皆様におかれましては、神学校生活を通して支えていただき、また叙階式では会場教会と言う事もあり、多くの方のお手伝いやご尽力を賜りました、本当にありがとうございます。この場を借りて心からのお礼を言わせていただきたいと思います。その6年の神学校生活が終わり、いまここに司祭として立っているわけですが、振り返って見ればこの6年間は本当にあっという間でした。もう既に45才、決して若いとは言えません。しかし、これでも札幌教区司祭としてはわたしが最年少です。45才の新司祭が教区として最年少。これは現代のカトリック教会の在り様そのものを表しているかも知れません。将来を思うと不安は尽きません。しかし、 それでも希望はあります。来年も新しい司祭が生まれる予定です。そして新しい神学生もいます。その後輩達も決して若くはありませんが、その分人生経験を積んできていて、だからこそ世俗の生活や苦しみを踏まえて福音を語ることができる、そんな気がします。わたし自身も、本当に大きな回り道をしてきたと思います。45才でようやくスタートラインに立つなんていうのは、人生を無駄に過ごしているのではないかと思うこともありましたが、いまは全て自分にとって必要な経験であったと確信しています。回り道は人生を豊かにしてくれる、神様が与えてくださった恵みと言えます。
回り道、と言う言い方をするならば、神様も本当に大きな回り道をされて、わたしたちをお導きになってくださっています。神様はこの世を支配する方法として、ご自身が姿を現して直接統治することもできるはずでしよう。わたしたちに見えるように絶対者として降臨し、わたしたちを従わせる、わたしたちが決して逆らわないようにすることもおできになるはず。ですが、そうはなさいません。わたしたちにこの世界を任せて、自由な意志を与え、自分自身で選ぶことができるようにしてくださっています。わたしたちは弱い存在で、いつも神様に逆らい、反抗し、罪を犯します。しかし、神様はその弱さをよく知っておられ、その弱さすらも愛してくださっています。わたしたちが神を知りながらも、反抗し、逆らっても、優しくなだめ教え、導いてくださいます。そして、そのためにわたしたちにご自分の愛する独り子を贈ってくださりました。
イエス様ご自身も、神の独り子として、完全な姿でこの世に降臨するような現れ方ではなく、マリア様を通して赤子としてお生まれになり、わたしたちと同じように人の手を通して育てられました。そして、イエス様は最高の愛の模範を示しました。受難に身を委ね、ご自身の死と復活を通して、その先にある「永遠のいのち」をもわたしたちに教えてくださいました。今日の福音では、復活されたその体を弟子達に現され、永遠のいのちとはどういうものなのかをお示しになっています。永遠のいのちとは、肉体を離れて、霊的な存在になると言うことではなく、肉体を持って具体的に復活するのだと言うことをイエス様が示してくださいました。触ることのできる肉体、食べることのできる肉体。肉体を持たないような亡霊ではないと断言しています。これは、イエス様が弟子達に、そしてわたしたちに示されている、大きな「永遠のいのち」の「しるし」です。なぜ、このような「しるし」 を与えてくださるのでしょうか。なぜ神様は、直接「永遠のいのち」の在り様を教えてくださらずに、イエス様を通して、しかも痛みと苦しみを伴う、受難と死と復活というややこしい方法をとったのでしょうか。
それはわたしたちには「しるし」が必要だからです。わたしたちは、とても不便で不完全な生き物で、何かに確信を得るためには「しるし」がないと気づくことができません。「永遠のいのち」をただ教えられても、その証拠や、実体験が伴わなければ、それを信じることが出来ません。これは神様の愛を知る場合と一緒です。神様の愛は教えられたからと言って信じられるものでもなく、そこには体験や実感が必要となります。感じるだけでなく、 相手に愛を伝える場合も同じことが言えます。例えば、誰かのことを愛しているならば、わたしたちも必ず何らかの「しるし」を相手に示します。仕草かも知れませんし、言葉かも知れませんが、プレゼントかも知れません、 必ず何かの行動があります。何もしないなら、何も伝わらず、そこには関係性は生まれません。愛には「しるし」 が伴います。愛は感情ではありません。相手が好きとか嫌いとか、そのような言葉を超越する関係性です。愛は具体的な行動を伴います。イエス様はその愛の在り様を、身をもってわたしたちに示してくださいました。そして愛の行いの先にある、永遠のいのちの在り様についても示してくださいました。そして、それを知ったなら、その証人となり、皆にそれを伝えに行けと言われます。
神様が与えてくださった、この希望に満ちあふれた愛と永遠のいのちという福音を、わたしたちが述べ伝えることができるように招かれています。一人ひとりが与えられた場で、自らがイエスの愛と永遠のいのちを証しする「しるし」となることができますように、このミサの中で祈って参りましょう。』

「派遣の祝福」の前に、侍者の子ども達から花束が贈られました。


ミサの後、佐久間神父様を囲んでのささやかな祝賀会を行いました。


高校時代のカト高連での貴重な体験、司祭を志すまでのいきさつや苦労話など、ユーモアを交え、たくさんお話をいただきました。

司祭叙階式の日に配られていた御絵は、伊達カルメル会修道院のシスターの直筆イラストだそうです。

2018年4月10日火曜日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

この日のミサは4月から司教館事務局長になった佐藤謙一神父が共同司式されました。
これから月に1、2度北一条のミサにお出でになるようです。


「神のいつくしみの主日」のこの日、マリア像の脇祭壇に「いつくしみのイエス」の御絵が置かれました。


受洗、改宗された9名の方が、地区集会に初めて参加され紹介されました。
少しずつでも教会生活に慣れていけるように寄り添っていきましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は、共同司式してくださる佐藤謙一神父様がおられます。ご復活の主日が終わり、この春、司祭の人事異動が発表されていましたが、佐藤神父様はこれまで大麻や江別の教会を主任司祭として、教区事務所とともにがんばっておられました。カトリック・センターが新しく出来上がって、より大きな重責を担って専従として働くことで、大麻と江別の教会を解かれて、教区事務所の仕事に専念することになりました。
  そういうことで、教会との関わりがちょっと薄くなってしまいましたが、今後、協力司祭として他の教会にお手伝いに度々行かれることもあるかと思いますが、そういうときがないときには、私たちの教会でいっしょに御ミサをいっしょに捧げることになりました。月1、2度は私たちと共に祈りをすることが出来るかもしれません。時には、司式してくださったり、説教もしてくださるということなので、私たちは期待し刺激をいただきながら、佐藤神父様とも信仰の歩みを続けることが出来ればと思います。
 いつか(2月18日)、山本孝神父様が黙想会でお出でになった時、神父様の言葉が残っています。教会の責任を解かれるということは、寂しいということを言われていました。信者さんとの直接の関わり、自分の責任において教会での宣教司牧をすることが薄くなてしまう。そういう意味では、寂しいと言われていました。教区の仕事も大きいかもしれませんが、佐藤神父様のそういう思いも出て来るかもしれません。皆さん、どうぞ佐藤神父様への協力も惜しみなくしていきたいと思います。

 さて、今日は復活の第2主日です。皆さんは、かつて、この第2主日がほかの呼び方をしていたのを思い出しますか?伝統的には「白衣の主日」と言われていました。今日の「聖書と典礼」の表紙には「神のいつくしみの主日」と書かれていますが、かつてはここに「白衣の主日」と書かれていました。初代教会の洗礼式からきている伝統的な表現でもありました。昔、新しい信者は復活徹夜祭の中で洗礼を受けました。北一条教会でも先日の復活徹夜祭の中で洗礼式が行われました。かつて、洗礼式は水の中に全身を浸して、頭まで水に沈めるかたちで行われていた、伝統的な習慣があったようです。身体は全身水に浸されますから、水からあがった受洗者には神から与えられる恵み、成聖の恩恵を意味する白衣が着せられた。今はブーケのようなかたちとかベールのようなものに変わっていますが、昔は自らあがるということで白い衣を着せられることがあったようです。パウロが聖書で語っています。「神にかたどってつくられた新しい人を身に着けた。」(エフェソ4:24)そのことを意味して、白い衣が着せられたということがありました。さらに「あなたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」(復活徹夜祭の典礼)受洗された直後、司祭から洗礼を受けた者はそういう言葉をかけられます。受洗者は新しく生まれた人として一週間その白衣を着ていたことが、昔の伝統として残っていたということです。白衣の主日の名前の由来は、そのような伝統から来ているものでした。

  もうひとつ、白衣の主日から変わって新しい名前がつけられました。それは、今日の聖書と典礼に載っている「神のいつくしみの主日」です。これはまだ、比較的新しい名前です。教皇ヨハネ・パウロ二世が、神の愛のこもった寛容さが輝き出る復活節に神のいつくしみをほめたたえるようにと、18年前の2000年に復活節第2主日は「神のいつくしみの主日」と呼ぶように定められました。神のいつくしみを私たちはもっともっと意識し、大切にしていこうというのが教皇様の考えでした。受洗者の方は今日、そのことを心に留めてミサに与っているかと思います。昔の伝統で言えば1週間白い衣を着て、新しい受洗者の恵みを感謝しながら、1週間経った今日、その白い衣を脱いでミサに与ったということがあったそうです。

 主の復活を祝い1週間が過ぎています。私たちの心にも霊的な春が訪れています。今日のみ言葉の中に、安息日が開けていち早く墓に駆けつけた婦人たちでしたが、また、弟子たちも何人かも墓を確認しに駆けつけています。婦人たちも、弟子たちも墓が空になって遺体が無かった、墓からその遺体が消えていた。その事実にまず驚き戸惑います。そして、悲しみを新たにしました。何度も何度も直接イエスから、「死んで3日がたつと復活する。」と聞いていたにもかかわらず、十分な理解が出来ていなかったために、愛する主であるイエス・キリストが亡くなったというだけで、ただただ、驚き悲しんでいた弟子たち、婦人たちでした。墓から戻って悲しみのなかに、一方では迫害を恐れて最後の晩餐が行われた部屋に鍵をかけ閉じこもりながら、彼らは夕方を迎えました。戸惑いながら、不安とともに鍵を掛けた部屋の中で祈っていました。
  復活したイエスは、そうした彼らの信仰を強めようと思ったのでしょうか、栄光に輝く復活の姿で、彼らの真ん中に現れたと聖書は伝えています。そして、最初に「あなたたちに平安」という言葉をかけられています。弟子たちは悲しみ驚きの中にありながら、その復活した主イエスの姿を見て喜んだと聖書は書いています。見なければ信じることが出来ない、そんな思いもこの表現の中に感じます。イエスが墓から消えたということは復活したのではないか、そういう噂も飛び交っていましたが、復活への確信に至っていなかったために驚き、悲しみが混在していました。でも、そのとき、そのイエスの姿を眺めることで確信に変わります。使徒たちは大きな喜びに満たされます。まさに復活の主は、喜びの泉、祝福の光となって弟子たちの前に姿を現しました。イエスは静かに唇を開いて使徒たちに再び言われました。「あなたたちに平安。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と、こう話されます。そして、弟子たちに息を吹きかけます。その息は聖霊でした。「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなたがたが罪を赦すなら、その罪は赦される。あなたがたが罪を赦さなければ、誰の罪も赦されないまま残る。」イエスは弟子たちに厳かにこう言われました。罪を赦す権能を弟子たちに与えた場面でもあります。「あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」私たちが唱える「主の祈り」の中にもそのことが繰り返されています。主の祈りを度々唱えているけれど、その一言一言の重みを私たちはあまり感じずにオウム返しに唱えてしまことも多いような気もします。赦すことの大切さ、愛することの大切さをいつも噛みしめなければなりません。

  イエスは「聖霊を受けよ。」と言われます。これまであなたは神の子であると宣言し、信仰告白し、あなたのために命を捧げると信仰を表してきた弟子たちでさえ、この時、恐れの中でただ震える信仰でさえありませんでした。私たちもそうではないでしょうか。イエスが十字架で死んでくださったことは百も承知している私たち。そういう話しは何度も何度もしてきました。しかし、私たちの信仰生活の中で、どんな力を感じているでしょうか。イエスの教えられた愛を生きるということにしても、十分にその態度を生きられないことが多いのです。人に奉仕する、仕えるということはどんなに素晴らしいかを十分に知っています。思っています。でも、力となって出てこないものは、行動に繋がっていきません。考えているだけで、行動に表すことの難しさもそこにあるようです。

 聖霊の力により頼むことがないようです。イエスは聖霊を授けて、罪を赦す権能を与えています。聖霊によってもたらされる奇跡、力は罪に弱い霊魂を救う薬であることを、私たちはもっともっと深く理解しなければならないようです。使徒たちも聖霊の力をいただきながら、大きな喜びに包まれています。聖霊の力は様々に私たちに働きかけます。力を呼び戻します。信じるという難しさを感じながらも、綿私たちはその聖霊の力によって、より一歩成長出来るのようです。
 聖書の中でトマスという弟子が登場してきます。トマスも信じることの難しさを生きた一人でした。最初、復活されたとき、トマスはその場にいませんでした。信じるということに比べて、信じないということは易しいかもしれません。でもイエスは弟子たち、私たちに呼びかけます。「信じない者にならないで、信じる者になりさない。」疑いやすい私たちにも言われた言葉ではないでしょうか。
  復活の第2主日。復活してから1週間が経って、主は私たちの中にも現れています。墓を破られた主は希望のない世界に置かれても、そこに閉じ込められるままではなかった。そこから立ち上がって行く者になりなさいというメッセージを持って、復活の主は私たちの前に立っておられます。日常的な生活の中では、私たち一人ひとり悲しみや苦悩の前に負けてしまうことも度々ありますし、うちひしがれることも多くあります。
 でも、私たちはもう一度、復活したキリストを唯一の希望として力強く生きることが出来るよう祈りたいと思います。そのことを今日の福音は私たちに大きな力、メッセージをもたらしてくださっていると思います。』

2018年4月1日日曜日

主の御復活 「復活徹夜祭と復活の主日」

3月31日(土)午後6:30から、後藤神父様、蓑島助祭、地主司教様の共同司式により「復活徹夜祭」が行われました。
復活徹夜祭は、「光の祭儀」、「ことばの祭儀」、「洗礼の典礼」、「感謝の典礼」の4部からなり2時間以上にも及ぶ、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。

第1部 光の祭儀
会衆は聖堂に隣接されたカテドラルホールに集まりました。
最初に、復活されたキリストのシンボルである「ローソクの祝福」が行われました。


後藤神父様によって祝福された火が復活のローソクに燈されました。


蓑島助祭は、復活のローソクを高く掲げ「キリストの光」と唱え、会衆は「神に感謝」と応えます。復活のローソクを先頭に聖堂の中へと進み、会衆の手に持ったローソクにも火が移されます。
ローソクの光がほのかに照らす中、蓑島助祭が「復活賛歌」を歌いました。



第2部 ことばの祭儀
聖書が朗読され、その後「栄光の賛歌」が歌われる中、十字架や御像に掛けられていた紫布が外されました。

第3部 洗礼の典礼
9名の方々が洗礼を受けられました。

水の祝福

洗礼

洗礼の約束の更新
(司祭が祝福された水を会衆にかけました)

第4部 感謝の典礼
いつものミサの流れで行われます。



復活徹夜祭から一夜明けた4月1日午前9時から、「復活の主日」ミサが行われました。


福音朗読とお説教は蓑島助祭でした。

お説教をご紹介します。

『みなさん、主の御復活おめでとうございます。

十字架の苦しみの先には、必ず復活の喜びがある。これはイエス様が身をもって示してくださった過ぎ越しの神秘です。神の愛が、わたしたちを永遠の命に生きる者としてくださいました。この永遠の命とは、洗礼を受けてキリストに従ったときからすでに始まっています。

本日の福音では、マグダラのマリア、そしてペトロとヨハネが登場します。

マグダラのマリアについては諸説あるものの、一般的には彼女は生きるために娼婦をしていたと考えられています。あるとき姦通の現場を取り押さえられたマリアは、石で打ち殺されそうになりますが、イエス様に助けられ、罪の生活をやめる決心をしました。「この方に従っていきたい」。彼女はイエス様に従う人生を歩み始めます。

ー方、ペトロとヨハネは漁師でした。イエス様から「私に従いなさい」と呼ばれたとき、 すぐに漁師の命ともいえる網を捨てます。心の中に満たされないものがあったのでしょうか。彼らもイエス様に従う人生を歩み始めました。

かれらはいずれもイエス様に希望を見出した人達です。

イエス様に希望を見出すこと。それは私達も同じです。ここにいる皆さんは、それぞれキリストの霊に導かれて教会にやってきました。そして洗礼によってキリストと結ばれ、 古い自分から新しい自分へと生まれ変わる恵みを頂きました。神と離れた生活から、神と共に生きる生活へと過ぎ越されたのです。これがわたしたちの出エジプトです。

かつてイスラエルの民は、神によって、エジプトの強制労働から解放され、乳と蜜の流れるカナンに導かれるという経験をしましたが、現代に生きるわたしたちは、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、真の過越しを経験しています。悪いものが良いものに変えられ、苦しみや悲しみは喜びへと変えられていきます。わたしたちは日々、古い自分に死んで新しい自分に復活するという神の招きを受けているのです。

マリア達が見た空っぽの墓、その墓から抜け出した主は、弟子である私たちがやって来るのをガリラヤで待っておられます。ガリラヤはイエス様が宣教を始めたところです。復活されたイエス様は、どんなときも私についてきなさいと招いておられます。墓をみて「主がいない」と恐れる必要はありません。死から復活された主がともにいてくださるので、わたしたちはどんな困難にあっても主と共に立ち上がり、また歩んでいくことができるのです。

「主はまことに復活されました」、この大きな喜びを共に分かち合いましよう。

あらためまして、皆さん、主の御復活、おめでとうございます。』


イースターエッグが奉納されました

後藤神父様がイースターエッグを祝福しました

イースターエッグが皆さんに配られました



2018年3月30日金曜日

3月30日(金)主の受難の祭儀

午後6時半から行われた「主の受難」の祭儀は、主イエスの受難と十字架上の死を記念するものです。ことばの典礼、十字架の崇敬、交わりの儀(聖体拝領)の3部で構成されます。

福音朗読ではヨハネ福音書の「受難の朗読」が読まれ、捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。

後藤神父様のお説教の後、「十字架の崇敬」が行われました。
「十字架の顕示」では、
十字架を持った司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え、会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえました。


祭壇前に十字架が置かれた後、十字架の礼拝が行われました。



交わりの儀(聖体拝領)では、カテドラルホールに設置した仮祭壇の聖櫃に安置された御聖体を、蓑島助祭が聖堂へと運びました。





3月29日(木)主の晩餐の夕べのミサ

「最後の晩餐」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」が、午後6時半から後藤神父様の司式により行われました。


ミサの中で洗足式が行われ、神父様が12人の男性信徒の足を洗われました。

御ミサの最後に、聖体がカテドラルホールに設置した仮祭壇に安置されました。

ミサが終わった後、祭壇上の敷布、ローソクが外され、十字架、御像は紫の布で覆われました。