2018年11月11日日曜日

年間第32主日

今日の福音をとおして、私たち一人一人が大切な隣人として神に愛されているということを心に留めましょう。

今日は「秋の大掃除」の日でした。
聖堂床のワックスがけとカテドラルホールの大掃除を行いました。


外国人信徒の方も参加しました。終わった後の昼食です。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読、福音と共通して出てくるのは「やもめ」。それも日々の生活に困窮し、明日の保障もない苦しい生活をしている「やもめ」のお話になります。
どんなに苦しくても辛くても命あるものは神を誉め讃えなさいと、今日の答唱詩編で私たちは歌っていますが、私たちにどこまでそれができているでしょうか?

「立法学者の偽善」と「やもめの献金」という二つの異なるエピソードが告げられる今日の福音ですが、私たちは心の底から純粋に神に信頼して祈る時、そのひたむきな心を捧げるときには、今日のやもめのような純粋な姿を見せるのではないか、そんなふうにも考えます。
切羽詰まっても、どんなに苦しい状況にあっても心から神に信頼するその瞬間は、「全てを捧げます」と言える、そういう信仰で神に向かえるような気がします。
ただ、常にそのような心を持ち合わせることが出来ないというのが現実の自分でもあるようです。自分の持っている財布の中身を見て、計算をして思い巡らして、どのくらいの金額までなら捧げられるだろうかと考えてしまいます。その時の心の状態は神様のことよりも困っている人のことよりも、自分のことが先になっているということだと思います。きっと誰もが同じような経験をしているのではないかと思います。

イエスに対する律法学者やファリサイ派の人々の態度は、非常に厳しいものがありました。イエスはそのような彼らの偽善的な態度や行動と、それに比べて貧しい”やもめ”の献金の姿を今日示します。どちらの生き方が神に好されるでしょうか?もちろん答えは分かっていることです。
結論は言うまでもないことですが、もう少し当時の社会や生活がどんなものであったかを考えてみると、”やもめ”の信仰もはっきりと私たちの心に見えてくるような気がします。”やもめ”の姿が、いかに神への信頼に満ちたものであったのか、神の愛に応える生き方であったのかどうか、そんなことが黙想すればするほど、よく見えてくるような気がします。
自分が持っている全てがレプトン銅貨2枚であったという”やもめ”。当時のレプトン銅貨というのは、ユダヤの国が発行したお金の中でも最も小さな銅貨でした。
聖書では時々「デナリ」というコインの名前も出てきますが、それはローマが発行したローマ皇帝の肖像がデザインされている硬貨でした。どちらも当時の社会で使われているもので、労働者の一日の賃金の目安となっているものでした。その100分の1にも満たないお金が1レプトンでした。当時のお金にしてわずか2レプトンしか持っていなかったそういう貧しい”やもめ”であったということです。それを神殿に全て捧げる”やもめ”の姿が浮き彫りにされているわけです。

権威をひけらかす律法学者やファリサイ派の人々に対し、神殿の賽銭箱に持ち合わせた全てを入れたこの”やもめ”。どちらが神に対する真実な生き方をしているのかどうか、そのようなことを今日聖書は私たちに語りかけます。律法学者やファリサイ派の人々がどのうような暮らしぶりであったかは想像するしかありませんが、イエスは常々弟子たちに、彼らには気を付けるように語っています。律法学者たちは、話すことは立派であるけれど、その行動を真似してはいけないというのがイエスから弟子達への忠告でした。
当時、”やもめ”と言われる人たちは、財産を共有して助け合い、協力しながら貧しく生きていたといわれています。そして神殿のために一生懸命奉仕したのが”やもめ”でした。それにも関わらず、律法学者やファリサイ派の人々は、そのような貧しい彼女たちの善意を悪用して私腹を肥やしていたと言われています。このような対比をイエスは弟子たちに話したのです。
大金持ちのたくさんの献金に対し、”やもめ”の献金は人々の目を引くようなことはない、いわば隠れた小さな出来事に過ぎません。しかし、たとえ僅かな額であったとしても生活費の全てに当たる金額を献金した”やもめ”の姿は、イエスにとって最も目立つ献金であり、心からの献金であることにイエスはほめられたのです。
そこに私たちは、”やもめ”が示す神への信頼とゆるがない信仰の姿に驚きさえ感じてしまいます。

私たちは誰もが元気で長く健康に生きたいと願っても、それを決める知恵を持っていません。神は、将来がどんなに暗くても、希望を見失いそうになったとしても、変わらない温かなまなざしを持って、私たちを見つめ励ましてくださる存在です。
神こそ私たちが願う「永遠のいのち」をもたらす方であるという信仰をこの貧しい”やもめ”は持ち合わせていたのです。
貧しさの中で冷たい視線を浴びたことのある貧しい”やもめ”は、金持ちの知らない神を知っていたということではないでしょうか。

先週のみ言葉に大切な掟が二つ示されました。神を愛することと、隣人を愛することでした。この貧しい”やもめ”の隣人になってくださったのは神であったということも言えるかと思います。
今日のみ言葉は、この貧しき”やもめ”をとおして、「変わらない愛をもって、いつもあなたを愛している」と私たち一人一人の隣人になっている神が私たちの傍におられ、私たちの信じる神は、そのような方であるということを示すものだと思います。
神を愛し、隣人を愛する。それよりも先に、神から私たち一人一人が大切な隣人として愛されているということも、私たちはもう一度心に留めたいと思います。』