2018年5月28日月曜日

三位一体の主日

この日のミサは勝谷司教の主司式により行われました。


イエスは「放蕩息子のたとえ」に出てくる父親の姿が神の本質的な姿であることを示されています。

この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。


『数年前、「いつくしみの聖年」に教皇フランシスコは勅書を出しました。その中で繰り返し言っておられたのは、「神のいつくしみ」です。その姿勢は今も変わらず、ことある毎に同様のメッセージを発信なさっています。しかし、それがカトリック教会の保守的な人たちの反感を買い、いろいろな論争を巻き起こしています。つい先日も、幼少時に性的虐待を受けた人をバチカンに招き、数日間を共にし、教皇様は彼らに対し謝罪と慰めを与えておられました。その中のある一人の男性が自分はLGBT(性的少数者を限定的に指す言葉)であると、同性愛的傾向があると教皇様に言ったところ、教皇様は「神様があなたをそのようにおつくりになったのです。そのありのままのあなたを神様は愛しておられるので、あなたもその自分自身を受け入れ愛しなさい。」とおっしゃいました。それが報道されるやいなや早速論争が沸き起こっているのですが、教皇様はけっして神学論争を仕掛けているのではなくて、こういうような既存の掟やモラリズムというものを先に立てて、それに対して人は(槍を?)打つ。そういう律法主義的な考え方、物の見方を批判しているのです。むしろ、その局地のはざまに陥ってもがき苦しんでいる人間、すべてのどんな人でも、そのような人たちをも神様は愛しておられると。そのような愛のメッセージを伝えようとされておられるのだと思います。

 これはいつの時代もその間の中で私たちはいれるのですが、例えば今日の第二朗読でパウロはこういうふうに言ってます「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」(ローマ8:15)「人を奴隷として恐れに陥れる霊」とは何でしょうか。これも先日、ある研修会に出席したのですが、その時に議論されました。その時に、こういうことを確信をもって強く主張する人がいました。ある意味、正しいです。「人は天国に入ることを目的としてつくられた。私たちの生きる目的は天国に入ることだ。」ちょっと異論はありますが、確かにそのとおりです。天国は死んだ人が行くところか。私はそうとも思わないのですが、それに続く言葉があります。何を言ったかというと、「私たちはこの世において天国に行くために善行を積まなければならない。」と。天に宝を積まなければならないという昔の考えです。 そして、この世で正しく生きることによって天国の門が開かれ、私たちは天国に入れてもらえる。強く確信をもって主張しておられました。それに対して反論して論争になってしまいました。結局、この世において良いことをし徳を積んで、そのご褒美として天国に入れてもらえる。これはパウロの言う奴隷の信仰です。奴隷は主人から命令されたことを忠実に果たすことによって褒められる。しかし、「神の子とする霊を受けた。」このパウロの続きの言葉。「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)神を父よ、お父さんと呼ぶのです。これは奴隷ではない。神の国の相続人です。あの放蕩息子のたとえ話、あの弟が受けたいつくしみと恵みの世界です。それを理解出来ないまま、掟を忠実に守ることによって父からのご褒美をもらおうとしていた兄の態度です。どちらも間違っていると言う意味ではなくて、より相応しく、神の愛やいつくしみの注ぎの中で、愛されている実感に溢れて、回心に導かれていく。それによって神の愛の懐の広さ、豊かさ、大きさを体験するものと、言われたとおりにしないとバチが当たる。へたすると地獄に落とされるかもしれない。考えていたこととはまったく対称にあるのです。私たちは神の子とされる霊を受けている。すなわち無条件に愛され、無条件に神の国を継ぐ者としてすでに受け入れられています。この愛されている実感によって、ふかまりによって、私たちは完全な自分を発見し、より愛に相応しいものとしてなるように自分を変え、正しい生き方をすることが出来るのです。すなわち正しい生き方とか、昔の身に着ける徳目として、愛、誠実、柔和、寛容…とありますが、私たちがそれらの資質を身に着けたら天国に入れるというものではなくて、逆です!私たちが愛されている者という、恵みの世界に生きた時に初めて、結果として私たちはそのような正しい生き方が出来るように変えられていくのです。

 今日は三位一体の主日ですが、三位一体の意味するところは難しい。論理的な解釈はそもそも無理である。だから奥義なのですね。人間の理性では理解しきれないから奥義なのです。 理性で理屈をつけて理解しようとすると、やはり無理があります。大切なことはその三位一体という教義は何を意味しているのか。これの意味していることは、神は孤独な神ではなく、すなわちたった一人でこの国に存在しているのでこの世を創造し、人間に仕えてもらわなくてはならい、そういう神ではありません。むしろ、神ご自身のなかにすでに完全な愛が完成している。愛は一人ではけっして交わりは出来ない、一人では決してありえない。神の中にこの三位の交わりがある。そして、完全な愛の世界がそこにある。孤独な神ではなくて「愛の充満」なわけです。ですから神は愛であると私たちは信じているわけです。その神の愛の一致、三位の神の愛に私たちを与らせてくださるものとして私たちは存在しているのです。私たちは最初から神の愛に包まれて、神の愛に(学んだ?)思想の中で生まれ導かれている。

 この世に地獄があるのかという論争が今でもなされます。私の友人の晴佐久神父は、地獄はないと言ってます。ネットで叩かれていますが。言っていることの真意を神学的に考えると、今までの教えと違うぞとなるのです。真意を私たちが受けとめようとすると、私もどちらかというと、そちらの立場になります。神が愛であるならば、家庭でとらえると良いと思います。家族がどんなに悪いことをしようが、それをもって家族でないと切り捨てることはあり得ないですね。ましてや親であるならば、どんな過ちを子供が犯したとしても、それによって切り捨てることはあり得ません。神も同じように、人がどのような過ちを犯しても、地獄に落とすというのは、愛である(当世?)からあり得ないと私もそれを感じています。 
  では地獄はないのか。そうではないと思います。私たちには自由な意思があります。どんな人間も自分を深く愛してくれる両親に対して、その愛を否定して家を出て行く自由があるのです。どんなに神様が私たちに愛を向けておられても、その愛を完全な意味で拒否し否定することが出来る人間がいるならば、確かにそれが地獄の状態なのです。あらゆる愛の交わりを自分の意思で完全に断ち切ってしまう。そのようなことが出来る人間がいるかどうかは別として、そのような人は地獄の状態にある。これは死んだ後の世界ではなくて、生きている今の段階で、もしそのような生き方をしているならば、その人は地獄の状態にあるといえるわけです。であるならば逆も同じですね。私たちが生きている今、この神の愛を実感し、どんな過ちや愚かさを持っていても  豊かな赦しといつくしみに包まれていると実感している人は、今救われている。そして、先ほど言いましたように、救われた状態、天国にいるわけです。

  そして最初言ったように、私たちはこの愛の交わりの世界に入るように招かれています。愛は一人で達成することが出来ないものです。私たちは孤独な聖人になるように召されているのではなくて、おろかな過ちを犯すような人間だったとしても、互いにそれを受け入れ合い赦し合う、愛の交わりの中で生きるときそれが天国の状態です。その互いの愛の交わりの中で、人間はその恵みによってより良い自分になり、愛するもののために自分を変えていくことが出来る存在になるのです。けっして恐れ、罰を免れるために正しく生きるのではなくて、むしろ恵みに生かされて私たちは変わっていこうとしているわけです。
 このことを教皇様が繰り返し繰り返し言っておられることだと私は思っています。あの放蕩息子の父親の姿、あれが神の本質的な姿だとイエス様はおっしゃっています。どうしてそれを一生懸命、理屈をもって間違っていると言うのか。しかし残念なことに、長いこと教会はそのようなかたちで教会に来るお互いを、裁きや批判の目で見ることが多いわけです。
 まず私たちは、自分に対して神がそれほどまでの憐れみと赦しといつくしみの眼差しを注いでくださっていることを実感するならば、教会も共同体も同じように愛の共同体になるように招かれています。どんなに過ちや愚かさを出す人であったとしても、私たちはそこにまずいつくしみを教会の中に実現することによって、お互いに変わっていくように、変えられていくように招かれていることを、忘れないでいただきたいと思います。』

2018年5月20日日曜日

聖霊降臨の主日

聖霊のはたらきによって、私たちがイエスの教えられる愛の業を実践していくことができますように


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖霊降臨の祭日を迎えている私たちです。
聖霊を言葉で説明することは難しいと誰もが思います。私も求道者に対する公教要理の説明ではいつも苦労します。
聖霊は三位一体の格(ペルソナ)の一つという言い方がされますが、ペルソナという言葉の説明もまた難しいことです。私たちは聖霊の賜物を今日いただく、という聖霊降臨の記念日を迎えて、改めて聖霊に対する理解を深めることが大切だと思います。
聖霊は旧約聖書の記述の中にも見られ、神の息吹や風で示されました。聖霊は神の霊、聖なる霊として、神の働きについて漠然とした表現で聖書に表されています。しかし、よく見ていくと、人間に対する神の働きかけを意味するということが理解できます。その聖霊を受けると、どのようになるのだろうか?人間を神に向かわせる働きを持っているのが聖霊ではないだろうか、ということが旧約聖書をとおして考えられてきたことです。

新約では主の霊、キリストの霊ともいわれ、神の霊は、父と子から切り離すことのできない交わりから溢れる愛である、と説明されることがあります。三位一体のペルソナでもあるのです。愛という言葉で聖霊を置き換えてみると、聖霊の働きが非常に理解しやすくなります。
一つの例として、「聖書と典礼」の中には3つの公式祈願がありますが、最初の一つである集会祈願には、結びの言葉として必ず「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」という祈りの言葉が使われます。一方、拝領祈願と奉納祈願では「わたしたちの主イエス・キリストによって。」という言葉だけで結びになっています。
この「聖霊」という言葉を、「愛」に置き換えてみましょう。「愛の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」
第2朗読についても「愛」に置き換えてみると、「愛」が結ぶ実として「喜び、平和、寛容、親切、・・・」というように、理解が深まり難しい霊の壁が消えてしまうようです。

今日の祭日「聖霊降臨」はラテン語で「ペンテコステ」と言いますが、イエス・キリストの復活から50日が経って、この出来事が起こったというのが聖書の記述です。
弟子たちが祈っていたときに、聖霊が弟子たちに降ってきました。祈りといつも一緒になって聖霊の働きが現れるようです。
この時、聖霊によって強められた弟子たちは、死と復活という出来事を思い起こすことになります。それもまた、聖霊の働きによって、過去の出来事が思い起こされて自分たちの心に蘇って、神秘を深く理解する恵みが与えられました。
「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」というように、聖霊は弟子たち一人一人をキリストの証し人として宣教に旅立たせます。
今日のヨハネの福音で、私が一番心に響くイエスの言葉は、「言っておきたいことは、まだ、たくさんある」というイエスの思い、そこに私は非常に心が留まります。これまでイエスが弟子たちに様々な「神の国」ことを話してきましたが、いくら話しても切りが無い程のイエスの思いが溢れてくる言葉です。
「全てを言い尽くすことは出来ない、時がもう満ちて私は父の元に帰らなければならない」そのような中で、イエスは聖霊をおくってくださるということを約束します。聖霊はイエスの思いを全てもたらすものであり、力を持っている愛の霊です。そして、その聖霊の働きによって、あなた方は信仰を生き抜くようにと、イエスは話されているように思います。弟子たちは、愛の聖霊の力によって、証し人となり、教会を築いていくことになります。

わたしたち一人一人も、聖霊の働きをいただいて、教会をつくっていかなければなりません。弟子たちのように私たちも使命をもって、召されているということを心に留めておきたいと思います。
聖霊の働きについては、第2朗読で様々な表現がされています。そしてコリント書には、「聖霊を受けることを切望することが大切です。聖霊によらなければ誰もイエスを主である、とは言えない」と記されているとおり、私たちは聖霊に祈ることも大切にしなければならないと思います。
「求めるなら、まことの大きな恵みの体験を与える」と神様は約束し、聖書にもそのことがはっきりと示されています。
聖霊降臨を迎えて、私たちはもう一度、聖霊の働きを確認しましょう。「父と子と聖霊の御名によって」と私たちは祈りを結んでいます。この聖霊の働きをさらに私たちは深くいただきながら、神の信頼をもって今日のミサを捧げていきたいと思います。

最後に、パウロ6世の「聖霊に向かう祈り」をご紹介します。

「聖霊よ、広く、堅固で、忍耐強い心をお与えください。
犠牲をいとわず、キリストの聖心にあわせて鼓動し、
神のみ旨を謙虚に、忠実に、勇敢に果たすことのみを喜びとする
そういう心をお授けください。」


2018年5月15日火曜日

主の昇天

今日は主の昇天の日。イエスの復活から40日。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と、イエスは天に昇るに先立って弟子たちに話されました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖母月の5月、毎年、札幌教区ではある行事を行っていますが、昨日はその日でした。皆さんはどんな行事があったか分かりますか?3週間ほど前にも、カトリック新聞で大きくとりあげていたのですが、「召命の集い」という行事です。掲示板にもポスターが貼ってあったのですが。私たちはどうでしょうか。神父さんが少なくなった、若い人が少なくなったと誰もが口にしているけれど、その召命の集いの行事に心を合わせて祈ろうとした人は、どのくらいいるのでしょうか。召し出しのために、司祭の召命のために、青年たちのために、心を本当にこめて祈った人はどれくらい札幌教区にいたでしょうか。
 昨日、召命の集いが終わってから、そんなことも考えながら帰ってきました。カトリック新聞にも珍しく大きく取り上げられたので、養成担当の司祭ももしかすると、教区を越えて一人か二人か申し込みがあるかもと、期待もしていたのです。でも、新しくこれまで申込みした人はおらず、今まで出た方が続けて参加するだけの召命の集いでした。東京の知り合いのシスターもそのことを知って、その日、召し出しのために祈ってますよと電話がありました。
 それが現実なのですが、昨日、北26条教会が会場だったのですが、道すがらチューリップやレンギョの鮮やかな黄色い花が咲いていました。その花を眺めながら、イエスが復活して弟子たちと会っていたガリラヤの自然も、そんな季節になっているのだろうか。ガリラヤに巡礼に行った時のことも思い出しながら、昨日は一日を過ごしました。
 召し出しについて私たちは、ただ司祭が少ない、司祭が高齢化して大変だということだけでなく、人々の召し出しに繋がる青年が誕生するように、もっともっと真剣にならなければと思います。そのためには小学生くらいの子供から、みんなで教会で育て上げる意識を強くしなければ召し出しの実りには至らないと考えます。終わってからの話になりましたが、皆さん、これからも召し出しのためにたくさんのお祈りを、真剣な祈りをしていただきたいと願っています。

 さて、今日は主の昇天の日。イエスの復活から40日。弟子たちにイエスは神の国について語られていました。イエスの宣教活動は終わりに近づいたとき、今日の聖書の言葉にもありました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と。天に昇るに先立って、イエスは弟子たちに話し、その使命を再確認させています。主の昇天には、典礼のA年・B年・C年と、3年毎に福音書は変わるということは、皆さんご存知のことです。3年ともそれぞれの福音書の結びが朗読されています。今日はマルコの福音でそのことが語られています。どの福音にも共通することは、全世界に向かっての福音宣教のことだと思います。

 そこで、私は皆さんに一度話したことがあると思いますが、福音宣教と私の召命についてお話しをしてみます。福音宣教は教会が良く強調して語っていることです。一人ひとりにも福音宣教の使命があるということは、誰もがちょっとこころ苦しいけれども、聞いていると思います。一人ひとりがその役割を担って、もっと目覚めなければいけない、そんなことも教会は主張していると思います。
  私にとっての福音宣教、そして自分の召命。今振り返っているところですが、それは初めて出会った一人の司祭の信仰が、私自身の召命にも繋がっていたと思い出すことです。私は函館地区の小さな教会、江差教会で教会と出会い、信仰に導かれました。そういう小さな教会で一人の司祭と出会い、信者さんに大切にされたイメージですが、小さな共同体ですが、みんなが一人の青年が教会に入ってきたというだけで、驚きを与えたようですが。その一人の青年をみんな大切にしてくれた、そのような経緯がありました。
 その中で、初めて出会った外国の神父様。パリ・ミッション会の一人の神父様でした。函館地区はパリ外国宣教会(パリ・ミッション会)の地区となっていました。それは今から50年前になります。私がちょうど二十歳になった年の出来事でした。私がちょうど土曜日の晴れた日、4月の20日。今でもはっきりと記憶に残っています。仕事が半ドンで昼に終わりました。いつものように独身寮に向かっていた時のことでした。教会の看板が道端に出ていました。「教会にいつでもいらしてください」と看板に書かれていて、それに惹かれて教会に足を運んだ。それが一つのきっかけです。迎えてくれたのが外人の神父様でしたので、またそこでびっくりしました。私が、生涯初めて外人と言葉を交わしたのは、そのときが最初だと思います。身近に接したのもそのときが初めてだと思います。今は、どんなところでも外国の方と接する機会はありますが、当時は外国人を遠くから眺めるようなことが多かったと思います。

 そういうかたちで教会に足を踏み入れ、一人の神父様によりキリストに出会うことになりました。自分の信仰を宣言する、受け入れるまで私は随分時間がかかりました。信仰を少しずつ深める中で、召命を少しずつ考えるようになっていきました。函館地区で働くパリ・ミッション会の神父様方の一人ひとりの姿が、私の召し出しに小さな影響を与えていた期間かもしれません。私は求道者として3年間、教会に通っていましたから、教会の行事や函館地区の大きな教会の行事にも参加をしていましたので、その度に外国の神父様方に触れるようになっていました。
 でも、その召命がはっきりするまでは、私の中ではぼやけた感じで神父様の姿や信仰を見ていました。どうして外国の人が自分の国や家族からも離れて日本人のために、まして私が住んでいた小さな町、江差町まで人生を捧げ働くのだろうか。私にはなかなか理解出来ないことでした。でも一人の司祭の生き方、それがキリストの愛に応えるひとつの生き方であることは、神父様と接しながら少しずつ感じられるようになりました。それでも召命に応えるためには、さらに多くの時間が私には必要だったようです。その頃は、ベトナム戦争の時代でしたが、パリ・ミッションの神父様方がベトナムで働いていたようで、休暇で神父様と知り合いだからと、江差に来られていたことがありました。私たち小さな教会の信者は、知らない神父様が来られたということで、お話しを楽しみにしていました。ベトナム戦争のさなかのお話しも聞きました。キリストを知らない人々がいる国に、パリ・ミッション会の宣教師が出かけて行く、そのことが自分たちの使命なのだ。そういうことも聞く度に、考えさせられる機会でもありました。ですから私が、私のようなものでも神父になれるのでしょうかと、恥ずかしげに神父様に尋ねたときに、私たちが働こうとしている地(国)に新しく司祭が誕生することを夢見て、私たちは宣教地に向かうのだ。それが宣教師だと教えてくれました。私は、そのころ神父は外人と思い込んでいましたから、パリ・ミッション会の仲間に加わることが、司祭になる道だと思っていました。あなたは教区の司祭になるべきですと聞かされました。教区と宣教会の違いなどもそのときに説明されるようになりました。こういう経緯で私の召命は一人の神父様をとおして、また様々なかたちで出会った神父様方をとおして、召し出しの芽が深まっていったのだと思っています。
 また、パリ・ミッション会のかなり年輩の神父様のお話も、私の記憶の中にはいつも留まっています。その神父様は今は亡くなっていますが、八雲で最期働いておられたジェイエ神父様です。ジェイエ神父様もパリ・ミッション会の神父様で、最初は中国で宣教活動していたそうです。中国は司祭を追放した国で、そのときに中国に留まって、宣教活動をした司祭は皆、捕らえられ牢獄に入ったそうです。牢獄では拷問も受けたとその神父様から聞きました。拷問で苦痛だったのは爪をせめられることだったそうです。私たちは想像でしか考えられませんが、厳しい、辛い、痛みが身体全体にはいるのだと思います。そんな話しも聞きました。でも、パリ・ミッション会で中国で働いていた神父様は後に解放されますが、その時に自分の国に帰るのではなくて、ある人は日本に来て働いたとその時に聞きました。宣教師の熱心な姿、宣教師魂と良く言いますが、函館で働いていた後輩の神父様方にも受け継がれていたのだと思いま

  何故、自分の国を離れて、命をかけて宣教が出来るのか、私の素朴な疑問は次第にキリストに生きる喜びを知った人は、どんな苦しみにも耐えられるのだ。そういう宣教師の活動をとおして少しは感じられるようになりました。福音宣教の使命や情熱、信仰の喜びと深く結びついているのではないでしょうか。
  イエスは自ら語り、自ら手をのばし、そして人々の心を照らし、慰め、癒しを与えたその働きは今、弟子たちが背負うことになりました。また、今日はその弟子たちの働きを、私たち一人ひとりがまた担うことになっています。聖霊が弟子たちの心の中にに注がれたように、私たちにもまたその聖霊は注がれています。聖霊が弟子たちの心を力づけ、導いていくことにより、人々は神を知り、信仰の喜びを知る機会をもたらされました。
 今、主の昇天を記念する私たちですが、弟子たちの目からもイエスのその姿は消えてしまいます。でも弟子たちの働きの中に、現存するイエス・キリストがいつもともにいてくださる方です。今日の福音の最後にもあるように、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることをはっきりとお示しになった。」と記しています。私たち一人ひとりにも託された使命、それがひとつ宣教の使命であることです。
 先日、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)というみ言葉を、日曜日に聴いています。選ばれた、そして任命されたという言葉で、宣教するという使命を与えられていることを考えた人は、とても重い使命を与えられたということで、身動きが出来ないという思いになったという話しを聞いたことがあります。私たちは任命された、選ばれたということを、神の子供として選ばれたと考えたらどうでしょうかと、お話しをしました。神の子とされたのは、本当に神の愛をいただいたことでもあるし、愛を生きなさいということが任命でもあり、選ばれたということで考えたらどうでしょうかとお話ししました。私たちが互いに愛し合いなさいと言うイエスの言葉をいただいていますが、その愛を生きることが福音宣教に繋がるとなるような気がしますよとお話ししました。
 皆さんは福音宣教という言葉だけにとらわれてしまうと、本当に重い使命を与えられたようで、とても出来ませんという言葉になってくると思います。私たちが神から愛され神の子とされた。その愛を私たちの家族の中で、私たちの隣人の間で生きるということが、福音宣教にまず繋がっていくということも確かにあるということを、私たちは心に留めて主を仰ぎ見る信仰から本当に目覚めていきたいと思います。

  来週は聖霊降臨の祝日を迎え、復活節が終わります。弟子たち、使徒たちが約束の聖霊を待つように、私たちも共にこの1週間を特に大切にして日々を過ごしたいと思います。そして、私たちのタレントを活かしながら、福音を告げ知らせる使命をもっともっと深く祈っていきたいと思います。』

2018年5月7日月曜日

復活節第6主日

この日のミサは、佐藤神父様と後藤神父様の共同司式でした。

私たちがイエスに繋がり、そしてイエスが私たちに繋がっていれば、私たちは豊かに実を結び、喜びへと向かうことができます。


この日の佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音の中で「互いに愛し合いなさい」と言う言葉が出てきました。実は、先週のミサの中の福音ですが、ぶどうの木のお話しでした。皆さん、よくご存知のところのお話しです。今日はその続きの場面です。今日の福音の11節のところに「これらのことを話したのは」とありますが、これらのこととは先週のぶどうの木のたとえの話しです。イエスがぶどうの木のたとえを話したのは「わたしたちの内に喜びがあり、わたしたちの喜びが満たされる」ためであると、今日の福音で続けられています。人がイエスに繋がっていて、そしてキリストがその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶのだということです。それがわたしたちの喜びであるということです。
  先週の福音から今週の福音はずっと繋がっているのですが、先週の福音の中では実は「愛」と言う言葉は出て来ませんでした。「イエスに繋がっていなさい、わたしに繋がっていなさい。」という言葉で終わっていました。イエスと繋がることがまず必要であることを先週は示したわけです。今週はさらに進めて「わたしの愛にとどまりなさい。」と言っています。「それはわたしの掟である。」ということまで言っています。先週は、「わたしはぶどうの木、わたしに繋がっていなさい。」と言われました。この繋がりは十字架でいうと縦の木にあたると思います。今日の福音は「互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てるすこと、これ以上に大きな愛はない。」と、あるいは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」とイエスは言われました。これは十字架の横の木であると考えられます。十字架の縦の木は神と繋がっていることを意味し、十字架の横の木は共同体の中でそれぞれ繋がっていることを意味すると言う神学者もいます。その真ん中にイエスが付けられているということです。イエスは神であって、わたしたちと神の仲介者でもあり、そして同時に共同体の仲介者でもあるとも言えると思います。
 イエスは苦しみを受けて十字架に付けられて亡くなりました。十字架に付けられて亡くなったイエスはそれだけでは終わりませんでした。復活して弟子たちに現れ、復活のからだと永遠のいのちというものを示しました。そこにわたしたちの救いと希望というものがあるのだと思います。先週の福音では、わたしに繋がっていれば豊かに実を結ぶと言われました。そして、イエスに繋がることが出来るのだということが分かりました。

  次にどうすれば良いかということが今日の福音に書かれています。今日の福音では「わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが実を結んで残るように、わたしの名によって願うものは何でも与えられるように任命したのだ。」と言われました。イエスに繋がることは、わたしたちが選んでいるように見えますが、その決断に至る間にイエスがわたしたちを選んでいるのだということです。選ばれた人間がそのことを喜ぶだけではなく、ほかの人々のために働く使命が与えられているのだというふうに考えてもらいたいと思います。互いに愛し合いなさい-この言葉だけ聴くと、実際、聖書の福音の中にも書かれていますが、掟とか命令とかいう言葉が出て来るので、わたしたちが何か押しつけられているように感じるかもしれません。互いに愛し合いなさい-これはイエスが命令するのだから守るべきものと捉えてはいけないと思います。「わたしがあなたがたを愛したようにと」という言葉がその前についています。イエスが弟子たちを愛したということ、だから互いに愛し合いなさいということです。弟子たちはイエスに選ばれたものとして、周りの人々に対してイエスが行ってきた愛を行っています。今日の第一朗読の中でペトロは、すべての人に神の恵みが注がれていることを知ることが出来て、そして、すべての人のために福音を告げ知らせて行こうと決心しました。イエスの愛を知っていれば、周りの人々に対して、わたしたちはどうしても愛さざるを得ない。どうしてもそうしてしまうのだという気持ちになる。そういうことが必要ではないかと、そのように思われます。
  わたしたちをどうしても駆り立てるもの、それがわたしたちが行っている行動に表れていかなければならないと思います。その行動自身はイエスの愛の上になりたっているのだと、これを心に留めていただきたいと思います。わたしたちの根底にイエスの愛があって、それによってわたしたちも互いに愛し合うのだと、そういうことを心に留めておきたいと思います。
  イエスが示された究極の愛というものは、わたしたちの罪のために十字架につけられたことです。十字架をわたしたちが仰ぐときはいつも、イエスの愛を振り返る必要があると思います。
そして、イエスが互いに愛し合いなさいという言葉に込められた意味を受けとめ、歩んで行くときに、復活したイエスがいつもわたしたちの傍にいて、支えてくれていると感じることができます。
  今日のミサの中でわたしたちも、互いに愛し合いなさい、神の愛であるという言葉、これを心に留めて、それを支えにして歩んで行くことが出来るように、互いに祈って参りましょう。』

2018年5月3日木曜日

第23回 カテドラルコンサートのご案内

マルタン・グレゴリウスさん(札幌コンサートホール 第19代専属オルガニスト)をお招きして、オルガンリサイタルを開催します。
木のぬくもりが心地よい当教会聖堂で優美な演奏をお楽しみください。

7月14日(土) 14:30 開場 15:00 開演
場所:カトリック北1条教会 聖堂
入場料:一般 1,000円 小中学生 500円
(当日チケットも購入できます)


マルタンさんのご紹介

1991年、ポーランド生まれ。グダニスク・スタニスラフ・モニューシュコ音楽アカデミーやパリ国立高等音楽院などでオルガンを学ぶ。これまでに、ベルサイユ宮殿王室礼拝堂をはじめヨーロッパ各国でコンサートを行ったほか、さまざまなオーケストラや演奏家と共演。教育活動にも熱心に取り組んでいる。2016年、シュレーグル国際オルガン即興コンクール第1位ほかヨーロッパ各国のコンクールで優秀な成績を修めている。17年9月、第19代札幌コンサートホール専属オルガニストに就任。