2016年9月25日日曜日

年間第26主日

教会学校では昨日から今日にかけて、子どもたちの「教会お泊り会」が行われました。
10名の子どもたちが参加して、聖書の勉強会、侍者の勉強会も行われました。
今日の主日ミサでは、お泊り会に参加した子どもたちが全員、元気に侍者奉仕をしました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の福音は皆さんの心に届いたでしょうか?心の中に響いたでしょうか?
今日のたとえ話は、お金に執着し、イエスを嘲笑ったファリサイ派の一人に話されているので、おのずと厳しい話になっています。
聖書でパウロも沢山の悪徳について述べていますが、無慈悲、愛のない心は、神から一番離れている悪徳であると話しています。マザーテレサの無関心の話と共通していると感じます。憐みを隣人にかけない者には、憐みのない裁きが下されると、ヤコブの手紙でも話されています。愛のない者には、愛のない裁きが下される。「心の冷酷な人は、悔い改めをいくら促しても何の効果もない」そういう表現もあります。その言葉だけを聴くと身震いをしてしまいそうです。自分は必ずしも愛のある人間ではない、時には冷たい心を持っていることを自分の中に感じます。ですから天国の人が悔い改めを促しても何の効果もないと言われるならば、本当にどうすることもできない恐ろしさを自分にも感じています。今日のみ言葉はそのような忠告が背景にあるようです。
現実的には、律法や信仰に忠実に生きているといわれるファリサイ派の指導者に対して、痛烈な批判があります。それはイエスがファリサイ派に取った態度でもあるわけです。そしてそのファリサイ派の人々に対して、金持ちのたとえをされたのですが、ファリサイ派の人たちは、そのことを自分自身に当てはめて気付くことがあったのでしょうか?
たとえ話では、重い病気のラザロの様子が誰の目にも気の毒なあわれな状態として描かれます。一方、金持ちは贅沢な生活をし、着るもの、食べるものにも贅沢三昧の生活で自分の満足に重きを置く人であったのです。それは、弱く、貧しく、助けを必要としている人を顧みることのないお金に執着する人たちであり、そのことに気付かないファリサイ派の人たちへのイエスの忠告でもあったのです。
先週も不正な管理人の話があり、お金は決して悪いものではないとしながら、その使い方、利用の仕方で批判をうけることになるのは、昔も今も変わらないのです。今の時代、経済的に余裕のある人は一部かもしれませんが、少なければ少ないなりに、私たちも執着することがあるので、神の前にいつも気を付けていなければならないということでしょう。
たとえ話から想像する死後の世界というものが少し垣間見れました。その死後の世界、天国では「信仰によって義とされた」旧約の偉大な人物であるアブラハムが登場しています。この世で苦しみを受け病気の苦しみに耐えていたラザロが、アブラハムとともにいる世界が描かれています。この世では苦しみの毎日を過ごしていたラザロでしたが、病気の苦しみから解放されて天国では幸せな姿を見せています。反対に、この世で贅沢三昧な生活をしていた金持ちは燃える炎に苦しみ地獄の苦しみにあるのです。ここでも身勝手な金持ちは、ゆるしを願うどころではなく、自分が助けることさえなかったラザロを使って助けを求めようとしているのです。
アブラハムのことばは、金持ちに救いはないことを告げています。大きな淵があって超えることが出来ないのだと言います。もう救われないということなのでしょうか。私は、救われない理由は、死後の世界においてもまだ、自分の救いのことしか考えていない、悔い改めることのない気付きのない人、そのような人には救いの道はまだまだ遠いのだと思います。
自分が救われないと知った金持ちは次に、この世に生きている5人の兄弟に思いを寄せて何とか自分のような苦しみを味あわせること無く救ってやりたいと、またラザロを利用して遣わしてくださいと願っています。血のつながった身内や親類には心を寄せるのは良くあることですが、他人となるとそうではありません。静かにこの場面を心に留めて黙想すると、私たち人間の身勝手さや心の狭さを思い知らされます。
そして後半は、救いをもたらされる方法を一生懸命考えるのだけれど、心の狭い人にはどんな勧めを与えても心を変えることは出来ないというような表現で終わっています。
私たちにはすでに、み言葉でその教えが示されているのでないか、ということです。私たちには聖書で神のことばがあり、教えが告げられているというのです。その教えを聞いて守っているのですか?というのが今日のみ言葉です。その教え、み言葉を聴いても、守らず忘れているのが私たちのようです。ですから、私たちはいつも注意しながら目覚めて神のみ言葉に心を向ける信仰を持たなければと思います。

昨日から、教会学校の子供たちによる教会での「お泊り会」が行われています。森田神父様も顔を出して、子供たちに話をしてくださいました。子供達には、聖書に神様からの大切な教えがたくさん書かれているけれど、一番大切なことを忘れないようにと、それは「心を尽くし、思いを尽くして神を愛すること。そして隣人を愛すること」であると話されて、神だけを愛するのではなく、隣人である人をも愛することが大切だと強調して、子供たちに話をしてくださいました。
神に熱心に祈るファリサイ派の人たちは、イエスのたとえ話を聞いて隣人を大切にしていない自分たちの生活に気付いたのでしょうか?

私たちも今日、日々の生活を振り返りながら、神を愛し、自分の周りの人たち、特に助けを必要としている人たちに対して、自分はどのように考えて、どのように行動しているかということを黙想することが大切です。
この聖堂の献堂100年を前にして、聖書のことばに耳を傾け、救いについて目覚めていなさいという呼びかけに応えましょう。「若い世代に引き継ごうとしている信仰の遺産」を私たち一人一人がもう一度確認して前に進みましょう。』

2016年9月18日日曜日

9月18(日)年間第25主日

「敬老の日」を明日迎えるこの日のミサでは、後藤神父様から、人生のそして信仰生活の先輩方へ祈りと祝福が捧げられました。

神父様のお説教の後、祭壇前に集まった方々へ神父様からお祈りと祝福が捧げられました。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『先週はチャリティバザー、先々週は教区100周年を記念する式典と行事が続きました。教区100周年記念式典は、カトリック新聞の一面に大きく記事が掲載され、私たちは、これまでの100年の歩みを盛大にお祝いしましたが、これから先も未来に向かって大きな希望をもって歩み続けたいと思います。

さて、今日告げられた福音に思いを巡らせてみましょう。分かりづらく、いろいろな解釈のできる話です。
不正な管理人が登場し、主人からは「もう管理は任せられない」と宣告されたことにより、彼は自分の今後の身の振り方、生活をうまく生きるための方法を真剣に考えます。そして借金の証文を低く書き換えさせることによって、自分に好意を持たせるという抜け目のないやり方を実行したのです。そしてこの主人は、この管理人の巧みさ、狡猾なやり方を知り驚いたのです。
この管理人の賢いやり方は、他の人よりも確かに優れているといえるでしょう。イエスは弟子たちに何を言おうとしているのでしょうか?イエスは「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢い者である」と彼をほめています。それは、この世の財産、この世での生活のために、人々はこれほどまでに巧みになり、熱心に努めているのに、なぜ、神の国、永遠のいのちのためにもっと努力をしないのだろうか、と言う意味が込められているのではないでしょうか。
この世の富は決して悪いものではない。しかし、悪いとすれば、それをただ自分のためだけに利用する利己的生き方であり、そのことが非難されるのです。そして、この世の富を利用して、来るべき世でこそ我々を助け、歓迎してくれる友を作るようにというメッセージがあるようです。
キリストはご自分の弟子として生きたいと願う人々に、つい先日、家族を捨て、自分の十字架を背負って従うようにと話したように、ここでも、神かこの世か、永遠の命かこの世の富か、と「二人の主人に兼ね仕えることはできない」と、二者択一を迫っているのです。
私たちは自分の危機的状況をどこまで真剣に見つめているでしょうか。崖っぷちに立って初めて永遠のいのち、救いを求めるのではなく、日頃の飢えや渇きの中に、いつも、救いを求める生き方こそ、何より大切なことであることを伝えているのではないでしょうか。

明日は国民の祝日「敬老の日」です。長寿は喜びですが、高齢者が日々健康年齢で長寿を迎えていることは、なおいっそう嬉しいことです。国民の祝日に合わせて、私たちは特に教会の諸先輩の方々のために祈り健康と長寿を祈りたいと思います。

教会の福祉部から敬老の日に向けて名簿が届きました。教会の信徒名簿では、現在75歳以上の人は150名ほどです。今日も健康そのもので教会に来られた方もいますし、病気を抱えながらも頑張って来られた方もおられると思います。献堂100周年を記念する年を迎えていますが、この方々こそ私たちをいつも支えてくださり、この守護の天使に守られ献堂された北一条教会の礎を受け継がれ、わたしたちに繋いでくださっている方々です。「次の世代に繋ぐ信仰」を掲げて100年を迎え、明日という未来に歩みを進めようとしています。
 復活秘儀を祝う主の日である日曜日、神のことばを聴き、感謝の祭儀に参加して、主イエスの受難と復活の栄光を記念し、感謝のうちに敬老の日を迎えるみなさんに神の祝福を心から祈りましょう。
 「いつくしみの特別聖年」の閉幕もだんだんと近づいていますが、神のいつくしみがよりいっそう一人一人の上に注がれますように、十字架の称賛の心を取り戻すとともに、わたしたちのために支え、祈り続けられている大先輩とともに今日のミサを捧げることにも心から感謝し祈りを捧げましょう。』

2016年9月11日日曜日

年間第24主日 - チャリティバザー『かてどらる祭』-

10時からの英語ミサとの合同ミサの後、チャリティバザー(かてどらる祭)が行われました。
晴天にも恵まれ国際色豊かな、にぎやかな1日となりました。

主日ミサは、後藤神父様と森田神父様の共同司式により行われました。


後藤神父様の日本語による福音朗読とお説教の後、森田神父様が英語で朗読とお説教を行いました。

(後藤神父様のお説教は、最後にご紹介します)

御ミサの後、11時からチャリティバザー「カテドラル祭」が行われました。
北一条教会の信徒、英語ミサグループ、聖園幼稚園の子供たちと父兄の皆さんが大勢集まり、にぎやかな一日となりました。

教会中庭では談笑の輪が拡がっていました



教会玄関正面



教会学校の紙芝居




後藤神父様のお説教を紹介します。

『先日、全国の典礼担当者会議に行ってきました。教区の100年記念式典が終わった午後から、(東京の)会場に向かいました。今年は40数名の担当者が全国の教区から集まりました。毎年開催されている典礼担当者会議ですが、今年はいつもより出席者が多かったと、会議の冒頭で聞きました。それは昨年からローマ・ミサ典礼書の総則の一部が変わって、信徒の皆さんにもお伝えしましたが、ミサの中で動作の一部が変わってきました。福音を聴く前に額、唇、胸に十字を切るのもそのひとつ。私の着ているこのカズラも、ミサの際に着用することになりました。こういった内容の一部が変更になったこともあり、たくさんの神父さんが集ったのです。私にとってちょっと違った印象をもったのは、その会議の中に6、7ヶ国の神父さんたちの姿も見られたことです。それぞれの外国の神父さん方は、教区の中で「式長」と言われる役割を担っていました。随分、時代が変わってきた印象のひとつと感じられます。元々はきっと日本人の神父さんが「式長」を担っていたと思われますが、それぞれの教区によっては、外国の神父さんが役割を担って進めているという現実もみられました。
  そういう意味では今日のミサもまた、国際色豊かな合同のミサとなっています。私たちは日曜日ごとに集まり、心を合わせて祈りを捧げるこの教会。この教会の聖堂は10月には100年の献堂記念日を迎えようとしています。そして、献堂100年を迎える年の今年のバザーは11回目を迎えています。天候にも恵まれホッとしています。
 祈りで始まる今日の一日。教会を訪れる人には平安があるように。教会に留まる人には喜びがあるように。お帰りになる方には神の祝福がありますように、こう祈りたいと願います。
昨日から会場づくりのために役員、関係者が忙しく働いておりました。そうした同様の祈りが神に奉献できるように、私たちの心をもっていきたいと思います。そして、その奉献が豊かな実りを結びますように。共に祈り合いたいと思います。

  先週は教区100年の式典がありました。私たちの教会もそれにあわせて献堂100年という年ですが、小さな共同体から出発したはずの教会であったと思われますま。記念誌をみますと私たちの北一条教会は創成川添いにある信者さんの自宅から出発したと記録があります。そうした一般の自宅、家庭から始まったこの教会は、こうした大きな共同体となって100年を迎える。先人たちの想い、そして祈りが 私たちの心に受け継がれていると思います。この100年を迎える私たち教会のモットーは、その伝統、その信仰を次の世代に繋げたいと掲げています。私たち一人ひとりの信仰の中にも、先人から受け継いだ多くの信仰の実りを受け継いでいると思います。そうしたことを考えながら私たちはこの献堂100年を迎えたいと思っています。

   今日の福音で語られます。教会を訪れ、そして教会に集う私たちは神に導かれる99匹の羊ではないでしょうか。私たち一人ひとりも99匹の羊の中の一匹にすぎないと思います。長い人生を歩んでいく中で様々な出来事に遭います。喜びも苦しみもその中に繋がっていきます。時には99匹の一匹であった羊がその仲間から外れてしまう。また、悔い改めが遅れてしまう
一匹の羊となりかねません。ですから、99匹の羊の中の一匹であった自分がもしかすると、仲間から外れてしまう一匹の羊になってしまう可能性も持っています。社会の中で言葉はきついかもしれませんが、落伍者になってしまう自分かもしれません。今日のみ言葉を良くかみしめたいと思います。神は誰一人も見失うことなく、いつも私たち一人ひとりを導いてくださる。
迎え出てくださる方。そのことを私たちはいつも心に留めていたいと思います。たとえ道から外れても、悔い改めることによって再び神の愛を生きる一人に、神の愛を生きる家族の一人になるとができる。99匹の羊にまた戻れます。神の世界には落ちこぼれ、落伍者はいない世界です。私たちはそのことを心に留めて、神様に感謝しながら神の教えに近づきたいと思います。

  今日、天候に恵まれた私たちの教会のバザーです。訪れる一人ひとりが神の家族、兄弟であることを心に留め、その出会いを大切にする一日でありたいと思います。訪れる人に平安、留まる人に喜び、帰られる人に祝福を共に祈りながら、今日の一日を過ごしたいと思います。』






2016年9月4日日曜日

9月4日(日)年間第23主日 「札幌教区100周年記念式典(藤学園講堂)」

9月4日(日)午前9:30より、藤学園講堂で札幌教区100周年記念式典が行われました。
全道各地から1000名を超える信徒が集い、先人に感謝を捧げるとともに、次の世紀への継承をお祈りしました。

第一部 「100周年の年総括と未来への提言」では、教区事務局長の上杉昌弘神父様から、札幌教区各地区の100周年の取組みついてご紹介がありました。
小教区の閉鎖に直面しながらも、身近にある「祈りの場」を何とか残そうと存続にご苦労されているお話などがご紹介されました。


続いて、札幌教区 ベルナルド勝谷太治司教様より、「教区100周年式典訓話」があり、司祭不足、信徒の高齢化、施設の老朽化など現状抱えている問題点を乗り越えて、未来に向けての具体的な取り組みを信徒全員で共有し、支援実行していこうという、お話がありました。


東京大司教区の岡田 武夫大司教様から、フランシスコ教皇様からのお祝いメッセージが紹介されました。

聖ヨハネ・パウロⅡ世教皇と聖ファウスティナ修道女の聖遺物が祭壇横に安置されました。


この日は、マザー・テレサが列聖される日でもありました。神の愛の宣教者会 Sr. ジャヤ・マリアさんと、Sr.純愛さんから、ご挨拶がありました。


第二部 感謝ミサ
司式: ベルナルド勝谷太治 司教
共同司式: 東京教会管区司教団、札幌教区司祭団


勝谷司教のお説教では、江戸時代初期における江戸幕府によるカトリック信徒の弾圧と、松前藩による106名の信徒の殉教の歴史についてお話がありました。