2014年8月31日日曜日

年間第22主日 チャリティーバザー「かてどらる祭」

先週のペトロの信仰告白に引き続き、
今日のみ言葉は、キリストの受難の告白でした。
イエスが弟子たちにお話になった「自分の十字架」の意味を考える日としましょう。

今日の主日ミサは英語ミサとの合同ミサで午前10時から行われました。
後藤神父様と新海神父様による共同司式でした。


栄光の賛歌は、英語ミサで歌われる機会が多い”Glory to God"が歌われました。
やさしく心に届いてくるようなメロディで、ミサもいつもと違った雰囲気になりました。
福音朗読は、後藤神父様による聖書朗読とお説教に続き、新海神父様が外国人信徒のために英語による聖書朗読とお説教を行いました。
また、共同祈願では、日本人信徒と外国人信徒のそれぞれから、自然災害に見舞われた方々への祈りと、世界各地で起こっている紛争に対する平和の実現をお祈りしました。

そして御ミサの後、午前11時半からチャリティバザーが開催されました。
雲一つ無い快晴に恵まれ最高の一日となりました。

焼きそばコーナーです。今年も好評でした。


教会学校の紙芝居です。たくさんの子供たちが集まりました!




今年のチャリティバザーも例年どおり、私たち教会の信徒だけではなく、聖園幼稚園の先生や父兄の皆さま、外国人信徒の皆さま、そして地域の皆さまの温かいご協力により、笑顔が溢れ賑やかな交流の場となりましたことに感謝申し上げます。

バザーの売り上げは小さなものかもしれませんが、援助を求めている方々のために少しでもお役に立つことができますことをお祈りします。

2014年8月24日日曜日

8月24日(日) 年間第21主日

少しづつ夏が過ぎ行くのを感じるようになってきました。
来週はミサの後11時からカトリック北一条教会のチャリティバザーが行われます。
出店はもちろんのこと、パイプオルガンのミニコンサートや聖園幼稚園の子供たちの出し物もあります。
一般の方々も大歓迎です。たくさんの皆さまのお越しをお待ちしています。

今日のみ言葉では、ペトロの信仰告白の場面が語られました。
私たちも自分の言葉で「イエスはどのような人なのか」ということを現すことができるようになりたいと思います。




後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週の日曜日は聖母被昇天のお祝いが行なわれました。
イエスの死と復活の後、マリアは聖ヨハネの元で使徒たちに守られて生活していたと言われており、その後、肉体と魂を伴って天に上げられました。
このことをお祝いする聖母被昇天の祭日は、今から64年前の1950年にピオ12世によって制定され、それほど古い祭日ではありません。
先週はまた、北一条教会では4名の子の初聖体という喜びの日でもありました。
その祝賀会では、初聖体を受けた子供たちが唱えた信仰宣言が大変立派であったことにとても感動しました。まさに、守護の天使がこの教会に降りてきたと感じるような出来事でした。
この感動と喜びは、教会学校のリーダーたちのおかげだと感謝しています。

今日のみ言葉で皆さんは何を感じたでしょうか?
今日のみ言葉は信仰告白がテーマになっています。
ミサの中で私たちは何度も信仰告白を行い、聖体へと近づいていきます。
今日の福音(マタイ16・13-20)の舞台であるフィリポ・カイサリア地方は、異教礼拝が盛んに行われていた場所です。紀元前20年にヘロデ大王は、この地に大理石の神殿を築きローマ皇帝の像を建てました。
このような地を訪れたイエスは、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ね、メシアに対する間違った信仰を言わせます。それは弟子たちの答えた、メシアとは洗礼者ヨハネ、旧約の預言者エリヤ、預言者エレミア、預言者の一人、という答えにありました。
そして、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの問いかけに対してペトロが答えた「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白によって、正しい信仰とは何かを明確に表しました。
ペトロはイエスと出会ってからずっと一緒に過ごし、様々な奇跡を見聞きしてきました。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときに聞こえてきた天からの声、イエスが行った奇跡の数々、湖の上を歩いていたときに沈みかけたこと。それらの全てがこの時のペトロの信仰告白に繋がっていたと思います。
弟子たちのイエスに対する姿勢は、み言葉を聞き、啓示を受け入れた信仰そのものでした。しかし、他の多くの人々の中には、イエスに対して「この国を変えてくれる革命家」のような誤解した期待を抱く者もいたようです。イエスはそのことを察知して、自分がメシアであることを誰にも話さないようにと弟子たちに命じたのかもしれません。
今日のみ言葉を聞いて、私たちは自分の言葉で「イエスはどのような人なのか」ということを現すことができるようになりたいと思います。』

夕べの会

毎年、夏と冬の年2回、懇親を深めるための手作りお食事会「夕べの会」をカテドラルホールでおこなってます。
今回は、いつもより多い30名ほどが参加しました。
料理自慢の方々が午後から準備を始め、17時から皆さんが揃ったところで「かんぱーい」。
後藤神父様、森田神父様、神学生の佐藤さん、佐久間さん、箕島さんも参加し、楽しいひと時を過ごしました。
途中、ビンゴゲームでは大いに盛り上がりました。
次回は、年末を予定しています。またお楽しみに。

さっそく盛り上がってます


ビンゴゲームでも盛り上がりました

リーチだらけなのですが・・・


ようやくビンゴ! お目当てのコイン入れをゲットして
ご満悦な佐藤さんでした


神父様、神学生の皆さんからのご挨拶


後藤神父様


森田神父様


神学生の佐藤さん、来年助祭に叙階予定です


神学生の佐久間さん



夜も更けてきました。そろそろお開きです。楽しいひと時でした。

次回は年末です。お楽しみに!



2014年8月17日日曜日

年間第20主日  「聖母の被昇天」ミサ

15日の「聖母の被昇天」の祭日をお祝いするミサが今日振り替えで行われました。
ミサでは洗礼式と初聖体が行われ、4人の子供たちが神父様の手から初めて聖体を受けました。

洗礼式


4人の子供たちの初聖体


神父様から記念品が贈られました


後藤神父様を囲んで


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖母被昇天の祭日は15日でしたが、北一条教会ではその日、札幌地区の「平和祈願ミサ」が毎年行われるため、日曜日に移動して聖母被昇天を記念するミサを行っています。
8月15日は「聖母の被昇天」の祝日であるのと同時に、「終戦の日」、そして祖先の霊を祀る「お盆」でもあり、人それぞれにこの日を迎える思いがあることでしょう。
8月15日は、聖母被昇天を祝いながらも、マリア様をとおして死者のためにも祈るという日でもあると思います。

今日、皆さんと共に聖母被昇天を考えてみたいと思います。カトリックの信仰を持つ私たちにとっても、聖母被昇天の祭日は、どのような意味を持つ一日でしょうか?
キリストによって救われる全ての人々は、死んでから魂として、神の国で、限りない幸福に与かります。人々の身体は世の終わりまで復活することはありませんが、復活には招かれています。
聖書で言われている「その時」という言葉があります。その時が来ると、全ての人は復活するということになります。魂もからだも神の豊かな救いを味わって幸せになります。それが復活の世界です。それが私たちの将来でもあります。
でもマリア様だけは、私たちと違う生き方をされた方です。「全能の神、あなたは御ひとり子の母、汚れのない乙女マリアをからだも魂もともに天に上げられました」と、今日私たちは集会祈願で唱えました。からだも魂も天の栄光に上げられたのはマリア様だけです。マリア様は、世の終わりを待つことなく、この世の命が終わってからすぐに、ご自分の御子キリストと同じようにして復活され神の国にあげられた、ということを祝うのが今日の聖母被昇天です。
このことを再度、心に留め、私たちも、復活の命に招かれるように、より一層、日々努力していかなければと思います。

マリア様は、教会にとっても私たちにとっても特別な存在です。
なぜなら存在の最初から、罪に少しも汚れたことのない方、それがマリア様であるからです。救いの最高の実りを生きられた方、それがマリア様です。
被昇天の聖母マリアと同じように、栄光のキリストのからだに似たものになるということが、私たちの憧れでもあり希望でもあります。そしてそれは、神の私たちに対する本当の望みでもあるということです。神の望みは、私たちがマリア様と同じような状況に置くことを救いの恵みと言っておられるのだと思います。
今はイエス様だけではなく、憐れみの御母、罪びとの慰めとなられた聖母マリアをとおして、私たちはいつも取り成しの祈りを唱えることができるようになっています。
私たちはマリア様をとおしても、たくさんの恵みをいただくことができます。ルルドやファティマにおいて、数え切れない奇跡をこれまで見てきたように、マリア様の恵みは、今もなお世界中の人々に注がれているかと思います。

今の私たちの世界は、決して安心できる平和な世界だとは言い切れません。様々なところで、紛争や戦いが続いています。そして私たちの周りには、孤独死という大変厳しい現実もあります。でも私たちの命の連鎖は、先祖から繋がって私たちに存在しています。私たちは先祖の心を受けながら、この命、そして命の存在を深く考えて、大切にしなければなりません。そして自分の命だけではなくて、私たちの周りにいる一人一人の命をも大切にする心を培っていかなければならないと思います。
幸いなものは神の言葉を聴き、それを守る人であると、聖書は述べています。
そして、その言葉を、実現したのは、マリア様でした。
私たちも幸いなひとと呼ばれるように御言葉に心を向け、それをよく聞き、それを守って歩むことができる、そういう信仰に至りたいと思います。

今日、マリア様に憧れる4人の子供たちがいます。一人はこれから洗礼を授かります。そしてその子を含めて4人の子は、初聖体という大きなお恵みを頂こうとしています。
子供たちは、心の汚れを神様から取り除いてもらって、この一週間を過ごしています。
今朝、子供たちに「心はどうですか?」と質問しましたが、心が汚れないよう頑張ったという子もいるようです。
初聖体の子供たちを見つめていながら、昨日の聖書の言葉を思い起こします。昨日のミサの福音ではこんな言葉が読まれたのです。
「イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが遜れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。」と弟子たちを注意しました。(マタイ19・13-15)。
今日子供たちは、祭壇の前に近づいて、御聖体をいただきます。その子供たちを喜んで見守りながら、私たち一人一人もこの御聖体に近づき一致することが出来るように、このミサをとおして祈りたいと思います。』


御ミサの後、被昇天と洗礼式、初聖体のお祝い会が行われました。
神父様から4人の子どもたちにお祝いの言葉がおくられました。


今日の御ミサでは、夏休みで帰札している神学生の箕島さんと梶沼さんが、侍者奉仕をされました。

2014年8月10日日曜日

年間第19主日 ・ 洗礼式が行われました

台風11号が四国そして本州に上陸し、各地で猛威をふるっていますが、
札幌は、昨日、今日と束の間の好天に恵まれています。

先週の6日から平和旬間が始まりました。平和を思い、考え、祈る月です。

今日は教会にとって喜ばしい日となりました。
赤ちゃんの洗礼式が行われたのです。
後藤神父様にとっても、この教会で初めての洗礼式ということでした。
神父様からは、
「新しい人生をスタートするこの赤ちゃんが、神の祝福のもとに、神の家族の一員となって、私たちと共に神の国を目指して歩む成長を遂げられるように祈りたいと思います。」
という祝福の言葉が贈られました。
おめでとうございます!



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『8月に入り広島や長崎の原爆投下という悲惨な出来事を思い出させる月です。
私たちにとって8月は、改めて平和というものを考える月になります。
原爆投下の時間に合わせて、この北一条教会の鐘も鳴り響きました。
鐘の音は、私たちの心に届いていたでしょうか?
鐘の音と共に、平和への祈りが私たちの心の中にあったでしょうか?

この6日から平和旬間が始まっています。
そして、昨日(9日)は、札幌地区主催の平和講演会が北11条教会で行われました。
今回、講師として招聘されたのは、テレビでもおなじみのエコノミストで大学の先生である浜矩子さんという方でした。ご本人もカトリックの信者だということです。
エコノミストらしく「グローバル時代の福音的な生き方」という副題が付けられており、今の日本の経済政策に対し鋭い批判を展開しておりました。また、今の宰相から見えてくる人間軽視や富国強兵を想起させる動きは、憂慮する事態だというお話もされていました。
私たち自身も政治の動きに対しては、注意していく必要があろうかと思います。

また、教皇様も先日、バチカンに来られた人たちにメッセージを発せられました。
その日は、歴史上最も悲惨な戦争であった第1次世界大戦勃発の日から100年目を迎えた日でした。
教皇様は「今こそ、戦争を止めて下さい」というメッセージを発せられました。

平和を考え、平和を願う8月を迎え、私たち一人一人は、どのように平和を思い、考え、祈っているでしょうか?

私たちの心の中には、平和を祈る心と同時に、平和からは程遠い思いや不安が去来することがあります。
ですから、本当の平和とは、私たちの心の中に作られていかなければなりませんし、身近な社会で実現していかなければならないと強く感じます。
心の中の不安、心の中の騒々しさというものは、神へ心が向かうことから離れさせ、違う方向に向かわせてしまいます。
それは、今日の福音の場面に出てくるガリラヤ湖の弟子たちの姿からもうかがえてきます。
吹き荒れる強い風で、足元に波が寄せてくるとイエスから心が離れて、心は恐れ怯えてしまったペトロは、その途端、湖から少しずつ沈んでしまうという事態になりました。
恐れが信頼よりも心を支配したとき、益々沈んでいく状況を作ってしまう、それは私たちの毎日の生活の中にもあるような気がします。
私たちは、箱舟のこの教会に入って、世の荒波に向かって歩む日々を送っています。
この教会は、箱舟の底を模して作られましたが、まさに私たちはこの教会と共に旅する人生を歩んでいます。

私たちを取り巻く社会、そこには混沌とした世界もまたあります。
平和から程遠く、不安をもたらす荒れ狂う嵐のような動きも起こっています。
世界の中を見渡すと、そうした状況に今置かれている地域もたくさんあります。
イエスから目を離すと、沈み込んでしまう信仰、そこから私たちはいつも「助けてください」と叫ぶばかりかもしれません。
様々な困難にぶつかり、くじけそうになりながらも、イエスの言葉、「来なさい」というその言葉に私たちは救われる思いです。
ペトロも「信仰の薄い者」と言われながらも、イエスに向かって一歩を踏み出したとき、そこに道が開かれイエスが待っていました。
信じること、信頼すること、それこそ私たちが忘れてはならない心だと思います。
私たちの信仰が、揺らぐ事のない、しっかりした信仰に成長するように、今日もまた共に祈っていきたいと思います。

この後、私にとってもこの教会での初めてとなる洗礼式が行われようとしています。
新しい人生をスタートするこの赤ちゃんが、神の祝福の元に、神の家族の一員となって、私たちと共に神の国を目指して歩む成長を遂げられるように祈りたいと思います。
また、その家族も祝福されますように、成長を見守りながら祈っていきたいと思います。
それでは、只今から洗礼式を始めます。』


洗礼式の様子です。
洗礼を受けたのは、ご夫婦でいつも教会共同体のために献身的にご奉仕されている柳澤様ご夫妻のお孫さんです。



おめでとうございます!

現在、札幌教区からは4人の神学生が神学校で学ばれていますが、皆さん夏休みで北海道に帰省されています。
今日は、佐藤神学生が侍者と聖体奉仕者の奉仕をされました。
閉祭の前に、ご挨拶がありました。



2014年8月3日日曜日

年間第18主日

先週までの福音は、天の国のたとえ話が続いていきましたが、マタイ福音書も14章に入り、イエスの宣教の姿が語られていきます。


後藤神父様は5月に着任以来、教会運営委員会や小集会の場でよく「皆さんはどう思われますか?」「皆さんでもう一度考
てみて下さい!」とお話しされます。
私たちの北一条教会共同体は多くのテーマを抱えています。その大半は(幾つかは?)主任司祭の一言で解決すると思いますが、後藤神父様は札幌教区の今年のテーマの一つ「信徒主体の教会共同体」を進める事を常にお考えなのだと思います。
今日配布された広報誌「かてどらるの鐘8月号」の巻頭言では、「わたしたちを運ぶ箱舟・教会の旅は続いています」と結ばれています。たとえそれが最適解ではなくても、私たちが自ら考えて、共同体内の其々の役割を行動に移す事の大切さを、旅する教会のマイルストーンとしての「信徒主体の教会共同体」を、お示し下さっているのだと思います。

今日のお説教の概要をご紹介します。

『年間主日の約半分が過ぎ、そして8月を迎えました。
今日の福音では、パンの奇跡を通してイエスの宣教の姿がより浮き彫りになります。また、今日の集会祈願には「わたしたちがあなたのことばに聞き従い、まことのいのちに生きるものとなりますように。」とありますが、これは第1朗読のイザヤの預言「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。」と結びついている事からもわかりますように、祈りは様々な個所で結ばれています。
共観福音書に共通の奇跡は数多くありますが、パンの奇跡はヨハネ福音書を含めた4つの福音書に共通(ヨハネ6:1-14、マタイ14:13-21、マルコ6:30-44、ルカ9:10-17)していて、如何に初代教会の人々がパンの奇跡に深い関心を寄せていたかが伝わってきます。また、マルコとマタイは4000人の空腹を満たす内容でも共通(マタイ15:38、マルコ8:9)して書いています。其々の福音書を比較すると微妙に異なります。マタイ14章では、ヨハネが捕えられたと聞いてガリラヤに退くイエス、そして、後を追って来た大勢の人たちを憐れんで自ら近づこうとしているイエス、が描かれています。他の福音書では、イエスが集まって来る人々を受け入れた、という表現ですが、マタイでは、イエスから近づいて行った様子が描かれています。
病人を癒し、神の国の話を語るイエス、熱心にイエスの話に耳を傾ける群衆、弟子たちも群衆を諭し見守りますが、空腹という現実、自然の法則は「うら悲しく」という状態を作ってしまいます。弟子たちは、その現実において無力でした、自分の十字架を背負う事すら出来ない現実において無力でした。容易に適わない事と、私たちの信仰の生活がどの様に関わるか?について黙想できます。
今日のみ言葉は「あなたがた弟子たちの手で彼らに食べ物を与えなさい」と言われている。パンを割くイエスの手、そして割いたパンを群衆に与える弟子たちの手、「手」とは奉げる手でもあります。5000人を前に僅か5つのパンと2匹の魚、それがイエスの手によって神に奉げられた時、人々を充分に満足させるものに変えられました。神に奉げる手を私たちは大切にしているでしょうか?持っているものを神に奉げる時、神は全く違った価値あるものに変えて下さいます。私たちの手、神様に届けられる信仰を大切にしたいと思います。
今日のみ言葉を黙想しながら、弟子たちの奉仕を通して、厳しい状況になっても恵みを与えて下さるイエスとの関わり、不測の苦しみにイエスを信頼して心を向ける時に、私たちの心が豊かになります。神のみ言葉に信頼する時、神の慈しみが生きる道を切り開いて下さいます。
賛美の祈りを唱えたイエス、パンを割いて渡したイエス、そのイエスの姿が主の晩餐の時のイエスに繋がります。寝食を忘れてイエスを見つめ、そして心を向けた群衆に倣って、私たちも聖体のイエスに近づきましょう。
聖体を通して、聖体の恵みによって、新たな歩みを始める事が出来るように祈ります。』



御ミサの後、地区集会が行われ、いろいろな話し合いがされました。
聖母被昇天のミサは、祝日である15日に行うべきなのか?それとも、これまでどおり主日に振り替えて行うのがいいのか?(今年は、8月17日の主日に行うことになりました)
8月31日にはチャリティバザーが行われますが、外国人信徒との交流は今後どのように進めていったらよいのか?
巡礼の旅を計画していましたが、どのように進めるのか
10月の白石墓地合同墓参は、今年は当教会が担当教会になっています。役割分担も考えていかなくてはなりません。
そして、2年後には、北一条教会の献堂100周年を迎えます。どのような形でこの記念すべき年を迎えるのか?
今後もたくさんの行事が控えています。忙しさに流されることなく最も大切な「共同体の一致」を見失わないようにしていきたいのものです。


今日の午後13時から白石墓地で、今年帰天された中江洋神父様と荒木関巧神父様の納骨式が勝谷司教様の司式で行われました。
「教区の良心であった中江神父様、そして知恵であった荒木関神父様。両神父様が帰天されたことは教区としての大きな損失でした。」という勝谷司教様のお言葉がありました。