2016年12月26日月曜日

降誕祭ミサ(日中のミサ)

クリスマス・イブから一夜明けて、降誕祭 日中のミサが午前10時から行われました。
感謝のうちにキリストの生誕をお祝いしました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主の御降誕、クリスマスおめでとうございます。
 昨日のクリスマス・イヴと今日は穏やかな一日を迎えられそうです。好天に恵まれるクリスマスになりましたが、一昨日までは大変な雪、50年ぶりの大雪だそうですが、真っ白な雪にすっぽりと包まれた北海道、そして札幌です。近くの郵便局に行こうとしましたが、歩道は歩く人がいないせいか歩くところが消えてしまい、車道を歩くしか方法はありませんでした。昨日、今日と除雪が進んで道路は綺麗になったと、今朝、来られた方に伺っています。
 クリスマスをお祝いするために、初めて教会に来られた方がおられるようです。ともにクリスマスを祝い、ともに祈ることを感謝いたします。ようこそお出でくださいました。
 今朝、御聖堂のドアを開けて一歩外に出て空を見上げました。月がくっきりと目にとびこんできました。久しぶりに見る夜明けの月にみとれていましたが、よくよく空を見ていると星もいくつか輝いているのも気づきました。寒さを一瞬忘れる久しぶりの朝焼けの空でした。星も出ているので、あわてて部屋に戻ってカメラを持ち出して、外に出て写真を記録しました。クリスマスの喜びをカメラに写すような気分でした。
 イヴの大雪の後の穏やかな天気。昨日の夜にミサに来られた方に伺ってみますと、自宅から4時間かかって教会に来ました、そう言う声も昨日は聞かれました。歩くのも、車で来るのも大変という中、私たちはこのクリスマス、主の降誕を祝っています。そして、キリスト教徒ではないけれど「メーリークリスマス」と乾杯した人も昨日は多かったのではないでしょうか。また、今日もそういう乾杯をする人がたくさんいると思います。

  日本ではいつからクリスマスをお祝いしているでしょうか。考えたことがあるでしょうか。少し調べてみました。日本では室町の戦国時代にまで遡ります。1552年に現在の山口県山口市の教会で降誕祭のミサを行ったという記録が残されています。その記録が日本で降誕祭を祝ったという証しがあります。当時はイエスの誕生のことを「ナターリス」という呼び方をしたそうです。ナターリスというのはラテン語。そしてラテン語で「誕生」という意味だそうです。当時のキリシタンは「ナタラ」という呼び方をしていたそうです。こういう記録が残されています。日本に来ていた宣教師フロイスという人が手紙をしたためて、自分の国へ日本での宣教の様子をいろいろ書いています。そうした中にも度々、クリスマスのことが表されるようになったそうです。その記録の一部の文書はこういう表現がされています。『告白し、聖体拝領するために八里ないし十里の遠方から来ることもいとわず、篭や馬に乗って運ばれることも出来たのに、一同はその信心、信仰から徒歩でやってきたのである。』こういう表現、記録が見られます。八里ないし十里の遠方、今の時代は車で、タクシーで駆けつける状態ですが、随分長い距離を歩いて12月の寒い中、教会に来てクリスマスを祝った当時のクリスチャンの信仰が偲ばれます。でも、今年の大雪を考えると私たちも皆さんもきっと何時間もかかってやって来たということは、当時の人たちに通じるクリスマスを昨日、迎えていたのではと思っています。『信者の人たちはミサに与って幼子イエスの誕生の福音を喜びのうちに聞いていました。ミサの後、集めたお金で 食事の用意をし年長の信者が給仕をした。』こういう表現も記録の中に見られます。それはきっと私たちの現代のクリスマス・パーティの最初の状況を表しているのかもしれません。

  幼子イエスの誕生の福音の喜びを聞いていた。今日の福音は皆さんに喜びをもたらす福音の内容だったでしょうか。ちょっと今日のヨハネの福音は、「はじめにことばがあった。」との表現から始まりますが、ちょっとむずかしい。神学的、哲学的な内容の福音になりました。昨日のクリスマス・イヴの福音はそういう意味では、わたしたちが良く絵本などで見ているクリスマスの内容をしたためた福音が読まれています。皇帝アウグストゥスから登録をせよとの勅令がでて最初の住民登録が行われることになりました。当時の人々が住民登録をするために自分の出身地まで行かなければならなかった。マリアもヨゼフもダビデ家に属していたのでガリラヤの町ナザレからユダヤのベトレヘムというダビデの町へ上って行った。こういうお話が昨日のイヴの福音の内容です。ですから、皆さんが小さい頃から絵本などでクリスマスのお話を聞いた内容は、昨日のイヴの福音の中で語られていることです。そういう登録をするためにマリアとヨゼフはお腹が大きい状態でしたが旅をすることになりました。そして、その旅の途中で幼子イエスが誕生することになったというのが、昨日読まれたルカの福音のお話です。

  クリスマスをどのように感じ、どのように祝うかはその時代時代によって大きく変わってきているようです。聖書の物語からつくられたクリスマスに飾られる馬小屋、私たちの教会もそちらに飾られていますが、これは聖書に書かれている内容を想像しながら造られた飾りです。私たちは教会で一般的に馬小屋という表現をとっています。飼い葉桶に寝かされた幼子の傍にはお父さん、お母さんであるヨゼフとマリアが、その幼子を見守っているのが馬小屋の光景になります。何故、神の子イエス・キリストは馬小屋で産まれたのか。クリスマスを祝う時にそうしたことは忘れてしまってお祝いをしているような気がしますが、それも昨日のイヴの福音の中で語られていました。誕生間近にして旅をしなければならなかったマリアはベトレヘムに来て宿屋も無く、夫のヨゼフは慌てて準備をしようとしたのですが、見つけたところは暗く冷たい馬小屋であった。そこは暗くて不衛生なところ。貧しい場所で神の子が産まれるということは誰が想像したでしょうか。不衛生、汚くて暗くて寒くて、そこに幼な子神の子が誕生するはめになります。旅の途中であったということは、大変なことでもあった。私たちはそうしたことをクリスマスに思いを馳せながら、私たちの社会、私たちの周りを見つめたとき、同じような状況におかれている人がたくさんいるということを気づかされます。難民と呼ばれる人たちはまさにそういう状況の中に、今もおかれているのではないでしょうか。そういう状況を知ることによって、このイエスの誕生はさらに大きな感謝と大きな喜びになるような気がします。そして、私たち一人ひとりがそのことを深く見つめること、理解することによって、私たちの周りをさらに見つめる機会にもなっていきます。
  このクリスマスの一日、家族の中にある悲しみ苦しみを抱えながらも主の降誕を迎えている人はたくさんいると思います。私たちの教会の中においてもつい最近、家族の大切な一人を亡くされた方がいます。悲しみを抱えながらも主の降誕を祝う人たちが、そういう状況の中で本当に周りにたくさんいるのではないでしょうか。病気の人も自分の苦しみと闘いながら、主の降誕を祝っているでしょう。
  外へ目を向けてみるとつい先日、新潟県の糸魚川市で大火がありました。突然の出来事で本当に驚きながらも、ひもじさの中で今日のクリスマスを迎えている人がいると思います。さらに外国に目を向けると、テロに怯える映像がたくさん私たちに見えてきます。そして、それぞれの国の中における内戦。紛争が続いていて何百万人という難民が私たちの世界にはいるという現実もあります。

  父なる神は幼な子を通して私たちの歩むべき道を示そうとしているのではないでしょうか。クリスマスを祝いながら私たちの現実を見つめ、感謝と喜びのうちに、私たちは周りの人と本当に平和を築いていかなければならない。そんな思いが強くされます。地には平和が訪れますように。御心の適う人に幸せがきますように。天使の賛美の声が夜空にこだましたと聖書は告げています。その天使の賛美の声、祈りが私たちの心からの祈りに重なっていきますように。そして、隣人と世界中の人々の心に私たちの祈りが届き、世界中の人の幸せに繋がっていきますように。喜びのクリスマス、イエス・キリストの誕生を語る聖書のお話は、大変な家庭の姿を描いています。それは旅の途中で我が子を出産しなければならないという大変な状況でもありました。クリスマスはいっけんロマンチックな物語のように捉えらる人が多いと思いますが、けっしてロマンチックな夢物語ではありませんでした。神は現実のドロドロした生活をしっかりと受けとめてくださっているというのが証言でもあるような気がします。その神の愛、キリストの誕生を祝うのが私たちの本当のクリスマスになるのだと思います。

 クリスマスそれは、父である神の心からの感謝を捧げる日になるのではないでしょうか。今日、私たちはもう一度心に留めながら、私たちの幸せに感謝し、そして私たちの幸せが周りの人にも分かち合うことが出来ますように。そうしたことを祈りながらこのミサを捧げ、また  新しい1年もその幸せに繋がっていくように、ともに祈りたいと思います。』

2016年12月25日日曜日

降誕祭ミサ(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます。


12月24日(土)午後7時から、カトリック北一条教会(札幌教区司教座聖堂)において、
ベルナルド勝谷太治司教様の司式により、降誕祭ミサが行われました。




札幌は前日まで、50年振りとなる大雪に見舞われましたが、聖夜の夜は穏やかな天候に恵まれ、聖堂は400名以上の方々で埋め尽くされました。
教会に所属する信徒の他に、外国人ツーリストの方々もたくさん訪れていました。

聖堂の照明が消され、ローソクを持った侍者が先導する中、勝谷司教様が幼子イエス様の御像を抱き入場しました。



祭壇前に御像が安置された後、入祭の歌「やみに住む民は光を見た」が歌われる中、侍者のローソクの火は会衆の持つローソクへと移され、聖堂はやがて仄かな明かりに満たされました。



勝谷司教様は、お説教の中で、
今年一年の自身が経験されたフィリピンでの出来事と、バチカンでの「正義と平和協議会」会議を振り返り、教皇フランシスコの回勅を引用しながら、平和は決して武力では得られない、平和への道は一人一人の家庭が出発点になる、と訴えかけられました。


ミサが終わった後、子どもたちによる聖歌の合唱が行われました。


隣接するカテドラルホールでは、祝賀会が行われました。





2016年12月12日月曜日

待降節第3主日

待降節第3主日を迎えました。

教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。
ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日、待降節第3主日。教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。 ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。紫の待降節の季節の中で、教会によっては待降節第3主日にバラ色の祭服を着るところもあるようです。北一条教会ではバラ色の祭服は用意されていませんので、いつもの紫色の祭服を着ています。4本のロウソクをそのようなかたちで色を付けている教会もたくさんあるようです。昨日は円山教会の共同回心式でしたが、4本のうち1本はピンク系統のロウソクが置かれていました。その前には真駒内教会にも行きましたが、やはり同じようなロウソクを使っていました。  

  喜びの主日。私たちにとって喜びの主日になっているでしょうか。今日、大雪のなか、教会に足を運んだ皆さんには喜びの主日になっているのではないかと思います。がんばって教会に行こうと思ったけれど、バス停までの大雪の道を考えたら、今日はちょっと出かけられない というお年寄り、病気の方もたくさんおられたのではないでしょうかか。
  今日の入祭唱では、喜びの主日に見合ったみ言葉が述べられています。私たちは、入祭の歌を歌いましたから、入祭唱の言葉を味わっていませんが、「聖書と典礼」をみますと2ページの下にその言葉を味わうことができます。どうぞ、今日は「聖書と典礼」を持ち帰られて、その喜びの主日を心にとめて、今日のみ言葉をこの1週間、繰り返し、繰り返しみ味わってみてはいかがでしょうか。入祭唱の言葉は「主にあっていつも喜べ、。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ4:4-5)こういうみ言葉が用意されていました。今日のイザヤの預言も「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ」という言葉で始まっています。さらに今日の福音もその内容は、期待や希望を持たせる「喜び」のテーマが流れているような気がします。
 今日の待降節第3主日の全体のみ言葉を黙想するとそこには 、基本的にテーマは「喜び」ということがあげられるような気がします。それはまた、御降誕を前にした主における喜びではないでしょうか。私たちにとっての主の降誕、クリスマス、少し安易に流れてしまう、そういうクリスマスを迎える、そういう人がいるような気もいたします。
 喜びとはどういうことを言うのでしょうか。私たち一人ひとりも喜び、それはどういうことなのか、もう一度考えてみても良いような気がします。そして、クリスマスを迎える為に私たちが成すべきことは何でしょうか。待降節の中日(なかび)を迎えて、さらに準備の日々を過ごしたいと思います。

  待降節に入って聖書をとおして呼びかけられた言葉、どんなことを皆さんは思い出すことが出来ますか。「目を覚ましていなさい。思わぬ時に人の子は来る。回心せよ。天の国は近づいた。」いろんなメッセージが私たちの耳に響いていました。心からの平和と救いを願い求める時代に、洗者ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という呼びかけの言葉に、イスラエルの民は自分たちの歴史を顧みながら祈り続けています。これまでの苦しい旅する教会の姿をとったイスラエルの民にとって、その呼びかけの言葉は、大きな希望をもたらすような気もいたします。人々はヨハネの言葉を聴いて、いよいよそういう時が自分たちのもとに近づいたんだという意識もきっと持たれたと思います。罪を清めるためにある人々はヨルダン川の水に浸り清めの洗礼を受けます。ヨハネの言葉には無味乾燥した、いっけん何もないかのような砂漠や荒地に花が咲くときが訪れ、そういう希望をもたらす喜びのメッセージがあったようです。私たちは毎年そういうみ言葉を聴いていますが、私たちは呼びかけの言葉にどのくらい希望を見いだしているでしょうか。私たち現代に生きる人間にとっては、ヨハネの言葉は少し自分たちの心にはあまり響いていないのかもしれません。2000年前のイスラエルの民にとって、渇いた砂漠や荒野は自分たちの目の前に広まる大自然でした。いっけん暗闇にも見える砂漠の中にひと雨があれば、そこから植物は大地から芽吹き成長し、花を咲かせる大自然の神秘を経験したと思います。
 私たち日本人には、そういった砂漠や大自然は、ほとんど縁がないため想像がつかないかもしれません。イスラエルの砂漠の中に小さな小さな植物が一滴の水だけでも、命の元気を大きく開かせて成長すると言われます。普段は渇いてずっと縮こまっているようですが、一滴の水で大きく命は蘇るといわれます。そういう大自然の中で自分たちの歴史にも重ねてヨハネの言葉を聴くときに、今度こそ大きな喜び、平和が訪れるという期待が高まったんだと思います。目覚めよ、思わぬ時に人の子は来るとは、まさにそんな時を連想させたのだと思います。何よりも神の約束が成就すると信じてきた民にとって、救い主によって願い求めてきた祈りが実現に向かう。悲しみ嘆きは私たちの生活から消え去る。そういう信仰、期待、確信があったようです。私たちはそういうイスラエルの民の信仰を黙想しながら、考えながら私たちの待降節の日々を過ごし、大きな喜びの日を迎えたいと思っています。

  牢屋に閉じ込められていたヨハネは、キリストの噂、み業を伝え聞きます。そして、イエスのもとに自分の弟子を送って質問します。「来るべき御方はあなたですか。それとも他の方を待つべきでしょうか。」そのヨハネの弟子の質問に対して、イエスは旧約聖書のイザヤの預言の言葉をもって答えます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人には福音が告げ知らされる。」。ひとつの解釈は、まさにご自分が預言の実現者である。また、ヨハネは正義の救い主を期待していますが、囚われの牢屋の中で聞くその噂は、キリストが慈悲深い愛の人であると聞いたことによって、正義の救い主というイメージを大きくします。正義の救い主、それは、愛の救い主であることでもあるようです。イエス・キリストは正義の方であると同時に完全な愛の方でもありました。でも、当時の人々は正義を優先するのか、愛を優先させるのか、そのようにどっちにしか考えられない人も多かったようです。それはある意味でキリストに対するつまずきの始まりでもありました。自分たちを解放してくれる、社会を解放して私たちの生活を少しでも楽にしてくれる、力ある権威あるリーダーである。そういう期待のほうが政治的な現実的な世俗的な期待だけをふくらませていた人にとっては、おおきなつまずきが後にやってくるようです。期待したその人は無残にも十字架の上で人からあざけりを受け、亡くなってしまう。

 今、私たちが生きる現代は、ヨハネの生きた時代とは余りにも違いがあるかもしせません。私たちの毎日に思いどおりにならないことがたくさんあるという点では、昔も今も変わらないかもしれません。喜びよりも悲しみの方が多い毎日であると感じている人もたくさんいる私たちの社会です。自分の小ささ、自分の努力がやるせない気持ちにさせている現実を私たちはたくさん見てきています。自分自身も経験します。
 喜び踊れ。この招きは絶望の淵に立つ、ぎりぎりの人間のもろさの中で愛の神が差し伸べてくる御手を感じることができる言葉です。私たちはもう一度、今日の「喜びの主日」にあたって喜びの心を私たちの心にも取り戻したいと思います。この喜びの招きはほって置けば消え失せる世界にあって、私たちを支え満たしてくれる神の招きでもあるとも思います。ヨハネのようにひたむきに神を渇望し、神の訪れを待ち続けるとき、私たちのために、私たちに近づいてくる神の姿を感じることができるのではないでしょうか。ひたすら待ち続けることによって、神の喜びが私たちのもとにやってきます。
  待降節も半ば残すところ 2週間となりました。自分の無欲を体験する現実の生活の中で、 神の訪れが真の喜びになるように、私たちも主に信頼をおいて、幼子イエスを待ち続ける日々を今日からまた歩みたいと思います。』

2016年12月4日日曜日

待降節第2主日

待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。

「悔い改めよ」と呼び掛ける洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。

聖堂に飾り付けられた馬小屋です。



後藤神父様のお説教をご紹介します。



『待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。このローソクの火を見ていると、クリスマスが近づいてくることが実感されます。
12月に入り、気忙しい季節となりましたが、皆さんはどのような気持ちでこの12月を迎えているでしょうか?今日の福音の中でも「悔い改め」という言葉が出てきていますが、昨日は真駒内教会で共同回心式が行われていました。昨日は北11条教会でも「虹の会」の集いがあったそうですし、こちらの教会ではカリタス家庭支援センターのチャリティコンサートが行われ、他の教会からも沢山の方がみえていました。真駒内教会の近藤神父様は昨日の共同回心式の参加者の少なさを嘆いておられましたが、他の行事と重なったことを話すと信者さんたちの忙しさも少し理解されたようでした。いずれにしても、共同回心式は待降節のなかにあって、私たちが準備をしていく上で、とても大切な儀式になっています。今週の土曜日は山鼻教会で、来週は北26条教会でそれぞれ共同回心式が行われることになっています。私たちの教会では共同回心式の計画はありませんでしたが、信徒の一人一人が回心のひとときを過ごすことができるように、個人告解はいつでもできますので、私に声掛けをして、赦しの秘跡や恵みを受けることを改めてお伝えしておきます。

さて、昨日の12月4日はフランシスコ・ザビエルの祝日を迎えていましたが、皆さんはそのことを思い起こしていたでしょうか。私たち日本の教会にとってフランシスコ・ザビエルは日本宣教の保護者として、私たち日本人信徒の信仰の上では切っても切れないご縁のある方です。今日は、「宣教地司祭育成の日・献金」ですが、今年6月の定例司教総会で「宣教地召命促進の日」と名称が変更されました。日本ではザビエルを始め、海外から多くの宣教師が来て、キリスト教の信仰をもたらしました。現在の信徒数に対して、司祭の数がとやかく言われる時代が来ました。司祭が少なくなったという話もよく聞く話です。キリストを知らない人の数を考えると、もっと司祭がいてもいいと考えることもできますが、急に増える状況ではありません。そういう意味では、いつも言われているように、私たち一人一人が宣教の使命を担っているということが益々大切になると思います。そのような意味でも、この日の献金はローマに送られて全世界の宣教地の司祭育成のために使われることになりますので、改めてご協力をお願いします。

「宣教」について少しお話をしたいと思います。
私たち日本の国では今やクリスマスは、社会行事になったように思えます。嬉しい反面、ちょっとそれでいいのかな、という思いもあります。美味しいケーキはクリスマスに用意されますけれど、そこに神様がおられるのか、イエス・キリストがそこにおられるのか、ということを少し考えてみる必要がありそうです。クリスマスを何のために祝っているのか?迎えているのか?
かつて私はお説教でも触れましたが、私は函館江差教会の出身ですけれど、江差教会での降誕祭の夜のミサで、信者さんが帰るときに私は何人かの人たちの送り迎えをしていたのですが、夜中の人の出入りを不審に思ったのでしょうか、警察が教会の前に来ていて尋ねてきたので、「今日はクリスマスなので」と答えたところ、「え?クリスマスは教会と関係があるんですか?」と言われ、私の方がとてもびっくりしたことがあります。世の中はそういうものなのかなと思っています。クリスマスは一般的に誰もがお祝いするようになってきていますが、本当のクリスマスになっていないということがいえるのだと思います。イエス・キリストが不在のクリスマスというものを私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか?
私たち一人一人もクリスマスを祝うということの本当の意味をもっと深く心に留めて、周囲の人と話す機会が出来るならば、そこから私たちの福音宣教も可能になっていくことだと思います。本当に意味のクリスマスを伝えるということだけでも大きな宣教になるのではないかと思います。

今日の福音でも、宣教する洗礼者ヨハネの姿が示されました。洗礼者ヨハネは宣教活動を開始するに当たってユダヤの荒れ野に赴いています。ちなみにイエス・キリストが公生活を始めて宣教を開始されたのはガリラヤでした。宣教の始まり、それは決して人が大勢いる都会であると考える必要はないと思います。大切なことは、一人一人の心に語りかけられることが大切ではないでしょうか。どんな人の心にも神様の訪れが近づいているということを伝えることだと思います。

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ!」という言葉から始めています。最初から神の言葉を語り伝えているのではなく、一人一人の心を見つめさせ、回心を促し、神に心を向けさせていく洗礼者ヨハネに私たちも習いたいと思います。
まず心を洗われること、そして新しい生き方があるのだということを知ってもらい、そこから神への道、神に至る道が始まっていくということでもあるということ。
「回心せよ!」との洗礼者ヨハネの声は、私たち現代社会にも響いてくると思います。それは欲望に取りつかれ争いの絶えない社会が今日あり、また人間性を無視する犯罪が毎日のように起こる私たちの社会でもあります。さらには食料不足で命を失くす世界もある、命の軽視で罪のない幼い子供の命が奪われる事件が絶えることのない現実があり、心を痛める私たちですが、時には出来ることから始めなければという思いも強くしています。でもそのような思いはなかなか現実の行動に繋げることは簡単ではありません。
待降節を迎えて、まず私たちは自分自身の心を振り返り、自分自身を深く見つめ、回心することから始めないとならないようです。
人から受け入れられないことは、誰にもつらいことです。人間関係で思いや心に、何か食い違いを起こしていることも、つらいことではないでしょうか。何を始めなければならないのか、何を改めなければならないのか、それが回心につながってくることではないかと思います。
「キリストに向って、同じ思いを抱かせてくださいますように」と、思いや心の深いところで一つになることは、希望の光や愛の心をもたらすはずです。

洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。』

2016年11月27日日曜日

待降節第1主日

教会暦では新しい年を、そして待降節を迎えました。
教会ではこの日、降誕祭を迎えるためのクリスマスツリー、馬小屋の飾りつけを行いました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。



『皆さんは待降節という言葉の響きからどんな思いを抱いているでしょうか。私は求道者の時代をいれると50年経ちますので、50回目のクリスマスを迎えようとしています。私はクリスマスの洗礼でしたから、待降節、クリスマスは私にとっては、特に思い出深い待降節、クリスマスになっていますが、皆さんにとって待降節、クリスマスはどんな思いで今日を迎え、教会の歩みをしようとしているでしょうか。今日は、ノアの方舟の話しも少しふれられていますが、私たちのこの教会の設計、デザインは、ノアの方舟の舟底を逆さまにした形のデザインだと言われています。こうして見ているだけでも、そのことを改めて、ノアの方舟はこんなふうだったのかなと考えたりします。そして、方舟の中に入った人々が救われたということを考えると、今日ここに集まっている人々も、教会に足を運んで救いをいただく、その恵みをいただく人々である。そんな思いも私にはしてきます。

  待降節。いろいろな受けとめ方をして今日からの一日を始めるはずです。待降節は元々、私たちが待ち望むというよりも、神が現れて決定的な救いを与えるという意味合いが強かったそうです。でもきっと今の私たちは、私たちが待ち望む、私たちがという、人間の方が中心になって待降節を待つ気持ちの方が強いかなという気がします。元々は神様が現れ救い主を遣わして、この世に神が現れるという意味合いが、待降節に深く結ばれていたということです。 

  世の中の騒がしさに惑わされることなく、神から与えられるその時を見過ごすことのないように、「目を覚ましていなさい。」と今日の福音は私たちに呼びかけます。目覚めていなさい、目を覚ましていなさい。私たちはどんなことに目覚めていなければいけないのか。そんなことも黙想しながら考え、待降節の間、そのことを大切にして主の降誕までいきたいと思います。
  福音は救い主の訪れよりも、主の再臨の時を思わせる内容になっていると思います。いずれにせよ、新しい典礼暦の始めとなる待降節を私たちは今日から迎えています。昨日は、典礼委員を中心として多くの人々がこのクリスマスに向けての準備のために、作業をしてくださいました。馬小屋はまだ出来ていませんが、まず4本のローソクが飾られたアドベントクランツは準備されております。国によってクリスマスツリーを飾ったり、アドベントクランツの4本のローソクを飾ったり、後は馬小屋を飾ったり、その国の伝統、習慣が教会に大きな影響をもたらしたといわれます。でも、今日の教会ではツリーも4本のローソクも馬小屋も全部準備する教会が多くなったのではと思います。目で見えることからもクリスマスを意識して準備の日々を歩むことが出来るようです。今日からの4週間、主の降誕の日を目標にして、救いの喜びを受け取るために私たちは歩んでいきます。父である神は、幼子・救い主を送ってくださるのですから、その幼子を私たちは相応しく迎えることができるように準備をしたいと思います。相応しい準備とは、私たち一人ひとりにとってどんなことでしょうか。自分は幼子を迎えるに相応しい準備が出来ているのでしょうか。どういうふうにその準備をしたら良いのでしょうか。そのことを考える、そして考えながら歩むというのが待降節でもあります。ですから、一人ひとりそのことを忘れないようにして、今日からの待降節を歩むことにいたしましょう。

 皆さんはこの待降節を迎えて何か特別な思いおこしがあったでしょうか? 私は待降節を迎えて、ベネディクト16世教皇は在任期間は短かったのですが、私たち教会にメッセージを下さったことがあります。前の教皇ですが、待降節にあたって、私たちのために生まれた幼子を迎える時にあたり、「すべての命のために祈って欲しい。」そういうメッセージを流されたことがあります。幼子だけを待ち、そして幼子だけを待ち望むのではなくて、すべての命を考えましょう、というメッセージでした。そのとき全世界の教会は共に祈ったと思います。皆さんも同じ意向で祈ったのではと思います。私は今日、待降節の一日目を歩むこの時、そのことを少し思い出しました。今の私たちの少子化の時代、私たちは口にしていますが、様々な原因がそこにはあると思います。そして、全世界を見れば命がどんなに無残に消されているかという時代も、今日だと思っています。少子化だけの問題ではなくて、難民とか内戦、紛争、様々な争いの中で、また自然災害の中で貧しい人が子供を育てられない、子供に食事を与えられないそういう厳しい状況に置かれている人々も、大勢いるということが私たちのこの世界にもあると思います。幼子を待つという中で、命についても忘れてはならないということです。このときベネディクト教皇は、主イエスが人となられ完全にご自身を捧げることによって、すべての人の命の価値と尊厳を示してくださったことに感謝して、すべての人の命を守ってくださるように主に願い求めましょう、こういうメッセージがありました。私たちも与えられた命に感謝するとともに、すべての命、特に幼子の命が大切にされる社会を願いながら歩みたいと思っています。

   幼子を待つ待降節。私たちにとって幼子の存在はいつも大きな希望をもたらしてくださる
命です。今日の入堂のときに子供のほっぺたを少しつつきながら入堂しましたが、幼子、子供をみているだけで私たちの心は喜びに溢れます。純粋な気持ちにかえることが出来ます。私たちの周りに幼い子供がいるということは、私たちにとっても幸せなときであるとも思います。そういうことを大切にしたいと思います。そういう心を見失わないように、いつも私たちは持っていたいと思います。時々、お歳を召されてきますと子供の声が煩わしいという時もあるかと思います。健康上の理由でそのようなことがあるかと思いますが、私たちの周りに若い人、子供や赤ちゃんがいるというだけで、素晴らしい私たちの社会、世界であるということに喜びを見いだせる心を保ちたいと思っています。

  さて、「目を覚ましていなさい。」。いろんなことが考えられる目覚めていなさいという言葉です。私たちはみ言葉をとおしていつも目覚めていられるように、その心を大切に出来るようにこの1年を歩んでいきましょう。今年の待降節、今日から3年周期の福音朗読ではマタイの福音が朗読されることになります。今日も最初としてマタイの福音が朗読されましたが、終末と主の来臨を告げるそういう内容になりました。でも、今日の福音の中心は、いつ何が起こっても不思議ではない、そういう恐れを私たちに募らせていきます。それがいつ起こるのか、どういうことなのか、イエスから直接話しを聞いている人々も不安を感じながら その言葉に耳を傾けていました。今、私たちは福音を通しても、そのことに少し不安や戸惑いを感じながら、み言葉に耳を傾けています。イエスは彼らの期待に反して、その日その時は誰も知らない。それは思わぬ時に突然やってくると言います。パウロは今日の第2朗読で、「救いは近い。」と言う言葉を使っていますが、救いと言うよりも何か訳の分からない恐ろしいことが起こるのではないかと、パウロの言葉に耳を傾けた人が多かったようです。私たちの命の歩み、人生は いつ何が起きてもおかしくない、そういう日々を生きています。明日のことは誰も保証されていないことを時々言葉にだしますが、明日のことは心配しないで済むのでは、そういう生き方をしていると思います。
 そのとき私たちは何が起きるか分からないとう状態で人生を歩んでいるんだと思います。このお話はキリストが十字架に架けられ、受難の苦しみを受け、弟子たちの前から去っていく直前の時の話しでもあります。遺言のように語られている言葉ですが、弟子たちにはまだそのことが分からないままに聞いています。ですから、不安でしょうがなかった。聖書の話しは二人の男が畑にいても、二人の女がいっしょに臼をひいていても、一人は連れていかれ、一人は残る。そういわれます。同じ仕事、同じ場所にいたはずなのに「どうして一人だけが連れていかれるのですか。」というのが私たちの考えになってしまうと思います。死というものは同じ仕事、同じ場所にいたとしても、時には何の予告もなく訪れます。思いがけなく突然にやってくることを伝えています。それはとりもなおさず、弟子たちにそして私たちに常に警戒し用意しておく必要を諭すためのお話でした。だから、目を覚ましていなさいというメッセージになっています。
 盗人のたとえも同じことを言っています。霊的な宝を不用心のために盗まれて、大切なものを失うことがないように、目覚めて警戒しているようにと諭します。私たちが本当に大切なものをしっかり心の中に保っていることが何よりも大事なんだということを言います。私たちは一番大切なものを本当に心の中でしっかりと保っているでしょうか。大切なものよりも違う方向に目を向けて、そっちに気遣いだけをしている、そういうことも多い私たちです。でも、イエスの目から大切なものをいつも大切にしなさい、見失うことのないようにしなさいと、私たちに諭します。
 現代の時代を不信仰の時代と神不在の時代と呼ぶ人がいます。ストレスが爆発して誰でもいいから殺傷するという事件も、一年に何度も何度も新聞やテレビで聞いています。まさにその時、同じ場所にいても、親しい家族が亡くなり自分だけが助かるという状況を経験する時代です。自分だけは大丈夫とは云えない時代になっていると思います。ましてや幼い命、子供の命がそういう中で踏みにじられ消えていく、そういう時代を私たちは生きています。でも、そういう時代を変えていかなければならないのも私たちの努めだと思います。

 主の降誕を待つ準備をしながら、生まれてくる子ども達がいつものびのびと成長する社会を描いて、人権が尊ばれ社会の一員として健康に恵まれるように、私たちは祈り続けなければならないし、そのためにも私たちの行動が大切になっています。その心を見失うことなく、いつも目覚めていられるように、今日はこのミサの中で特に祈りたいと思います。私たち自身も世の騒がしさに惑わされることなく、信仰と神への信頼のうちに主の訪れと喜びを受け入れることが出来ますように。待降節を歩む私たちが、私たち一人ひとりに相応しい道のりを自分の足で、自分のペースで幸せに歩くことが出来る、これこそ私たちが願っていることだと思います。その足もとを主の光がいつまでも照らしてくださるように。待降節、いろいろな意味で私たちは相応しい準備をしていかなければなりません。私にとっての相応しい準備、私たちの教会にとっての相応しい準備を考えながら、共に歩んで行きましょう。』

2016年11月20日日曜日

11月20日(日) 「王であるキリスト」

今日は年間最後の主日です。そして「王であるキリスト」の祭日でした。
メシアであり王であるイエスの愛といつくしみは、十字架の死の苦しみの中にあっても自分を犠牲にし、人々の平和を願い、一人一人を救うという姿に現されています。

今度の日曜日からは典礼の新しい一年が始まります。
待降節が始まる11月27日(日)のミサ後には、クリスマスの準備を行います。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『先週、ローマを除く地方教会は、聖年の扉を閉じる儀式を行いました。そして、この「王であるキリスト」の祭日、ローマでは聖年の閉幕のミサが行われようとしています。時差がありますので、日本の時間では今日の夜、教皇様によってミサが行われるのだと思います。
この一年、「神のいつくしみの特別聖年」として神から注がれるいつくしみに心を向けて歩む一年でもありました。歩みの中で教区100周年があり、また私たちの教会もまたこの祈りの教会が建てられた献堂100周年を迎える一年でもありました。典礼は三年周期のC年にあたり、朗読聖書はルカの福音を中心に歩んできましたが、今日が年間の季節最後の主日になり、今度の日曜日からは別な福音に変わろうとしています。今日は「王であるキリスト」の祭日です。皆さんにとっての王とは?、キリストとは?、そのような繋がりをもう一度深く黙想する一日でありたいと思います。
今日、わたしたちに告げられたみ言葉は、イエスが十字架に架けられて息を引き取る瞬間の出来事です。イエスが生涯をかけて伝えようとしたメッセージがここにあります。イエスが生涯をかけて実現しようとされた「神のいつくしみ」を表すこと、すなわちそれは、罪人との出会いであり、罪人を取り戻すことでもありました。今聞いたみ言葉の中に、私たち一人一人の身を置いてみたいと思います。皆さんは十字架の前に立つでしょうか?会衆の中に自分を置くでしょうか?イエス様の十字架に自分を置くかもしれません。このように自分を聖書のみ言葉の中に置いて、この状況を黙想したいと思います。
聖書のお話は、罪人の一人が死を前にして自分の罪を悔い、死の報いは当然であると受け止めます。そして「王としてあなたが来られる時、どうかわたしを思い出してください」と言います。思い出すに相応しい自分ではないかもしれません、でも今わたしは自分の罪を認め、神の憐み、神のいつくしみを願います、どうかわたしを思い出してください、救ってください、憐れんでください。そういう心境の中で一人の罪人がイエスに声をかけているようです。この状況の中では、裁判に関わった者も、兵士たちも、また群衆もイエスの十字架の前に進んできました。でも誰もが、イエスをののしり、あざ笑い、馬鹿にすることばを投げかけ続けるばかりです。ただ一人、自分の罪を認めた十字架に架けられた犯罪人だけが、憐れんでくださいとイエスに声をかけているのです。そのイエスの十字架の頭の上には「捨て札」がありました。捨て札には「ユダヤ人の王」と書かれています。それは様々な意味を持って、掛けられた捨て札でした。でもその捨て札の王は沈黙しています。
「ユダヤ人の王」。いつの時代にも「イエスは本当に王なのだろうか?」と疑問を抱く人は大勢いました。聖書に見る王とは、どういう人だったでしょうか?旧約時代、聖書の中にはたくさんの王が登場しますが、王とは本来どのような人を言うのでしょうか?また、2000年前のイエスの時代の王を、皆さんはどのように考えていたでしょうか?時代によって王という捉え方は少しづつ違っていたようです。
旧約時代、ヘブル語で「メレク」という言葉があるそうです。「メレク」とは、王を意味して、王である、王となる、支配するという意味を持っていたようです。そして旧約時代のイスラエルの人々は、「王」について三つ意味を考えていたようです。一つは「国民(民族)の指導者」、二つ目は「最高裁判官、軍事的指導者」、そして「祭司として祭儀の司式者」という王の職務には宗教的意義と役割もあったようです。そのようにして考えると、王は神のような存在、力も権力もあり、そして宗教的な指導者でもあったということだそうです。
イスラエルにおいては、神が本来、王であり、支配者であるという考えが根底にあります。イスラエルの信仰者には、地上の王権は神の権威に由来しているという考えがあります。ですから、王に就く人は、神の王権の代行者であるという考え方も当然あったようです。そのために、王になる人には、油を注がれる儀式あって王とされました。本来は神の僕に過ぎないけれども、この「油を注ぐ儀式」によって王の力を持つことになります。
新約時代に入ると、ギリシャ語の「キリスト」とは、ヘブル語で「メシア」、「油注がれた者」と同じ意味を持っています。このメシアは神が世を救うために遣わした救世主を意味し、イエス・キリストは唯一の救い主であるとの信仰をあらわすために、この名称をイエス・キリストに限って用いたのです。そして「イエスはキリストである」という信仰を表明する表現となりました。
このような時代背景を見ながら、私たちは今日のみ言葉をさらに黙想しなければなりません。
十字架の犯罪人が見たイエスは「罪人と共に生きるメシア」でした。十字架から降りられないのではなくて、むしろ降りないことによって、この罪人はイエスのことをメシアだと考えます。メシアは、罪がないのに我々のために、我々に代わって死んだメシアなのです。
「王であるキリスト」を祝う今日の典礼ですが、十字架上のイエスは王の服装ではなく、着ていたものまで剥ぎ取られて、裸同然の姿を晒しているのが私たちの言う王です。十字架に磔にされた体は痛々しく傷つき、輝く王冠を付けているはずの王のイメージからほど遠く、いばらの冠を付けられて額からは血が流れているそういう王です。人々が罵り、侮辱の声がイエスの耳にも届いていましたが、だんだんと遠くなっていきます。苦しみ、うずくような痛みの中においてもメシアであり神の子であるイエスは降りようとはされません。王である、救い主である、神の子であると呼ばれたイエスの姿はまさに十字架の中にありました。
本当にこの人は王なのか?神の子なのか?救い主なのか?と誰もが考え込んでしまう瞬間がありそうです。
メシアであり王であるイエスの愛といつくしみは、十字架の死の苦しみの中にあっても自分を無にし、犠牲にし、人々の平和を願い、一人一人を救うという王としての素晴らしさがそこに表されているのです。私たちが信じるイエスはそのようなお方でした。
神のいつくしみの特別聖年のメッセージの中で、そのことを私たちは、心の中で強く感じながら、自分たちの信仰を見つめる一年を歩んできました。教皇様はメッセージの中で、そのいつくしみを自分たちの心の中に留めておくだけでなく、そのいつくしみを私たちの周りの人々にも示すような、そういう生き方をして欲しいと伝えていました。
人生の闇の中に生き続けていた一人の犯罪人は、十字架の傍らでそのイエスから光と希望の恵みをいただき、回心し、自分自身を深く反省し新しい旅立ちへと向かって行こうとしています。イエスの言葉さえも薄れゆく意識の中で、心の中にははっきりとイエスの声が響いてきます。「きょう、わたしとともに楽園にいる」と。
イエスが過去の罪を許し、罪の責任を背負ってくださったのです。回心した罪人には、神の国への旅立ちがそこから始まっていきます。
私たちもまた、日々の生活の中で神の恵み、神のいつくしみやあわれみを感じながら、回心へと招かれている一人一人であることを心に留めましょう。

王であるキリストを祝いながら、主の再臨を待ち望み、ミサの中での祈りをとおして、キリストによってキリストと共にキリストのうちに賛美し、私たちの心をもう一度見つめましょう。そして新しい一年の典礼に向っていきたいと思います。』

2016年11月13日日曜日

年間第33主日 「いつくしみの特別聖年閉幕式」

昨年の12月8日から始まった「いつくしみの特別聖年」が11月20日に閉幕します。
それに先立って地方教会では年間第33主日の11月13日に特別聖年の閉幕式が行われました。
札幌司教区のカテドラルである北一条教会では、この日、勝谷太治司教様の司式により閉幕式が行われ、聖年の間に神様が与えてくださった霊的たまもののために感謝の祈りを捧げました。

「いつくしみの特別聖年」の公式賛歌”いつくしみ深く 御父のように!(Misericordes sicut Pater!)
”が謳われるなか、主日ミサが始まり、そして感謝のうちに閉幕しました。

【今日の共同体のための共同祈願】
今日、わたしたちは「いつくしみの特別聖年」の閉幕式を迎えました。
Misericordes(ミゼリコルデス)とは、神様の愛、ゆるし、あわれみ、いつくしみを表している言葉です。この特別聖年の間、それぞれが祈りや黙想、また、さまざまなところで御父の豊かな恵みを、導きを体験させていただきながら過ごさせていただきました。あわれみ深く、いつくしみ溢れる御父への信頼を忘れず、過ごすことができますように。






勝谷司教様のお説教ご紹介します。


『来週で「王であるキリスト」、すなわち1年の暦が締めくくられます。いつもこの時期は終末期を迎えることの聖書が読まれるわけですが 、今年はそれに併せて「いつくしみも特別聖年」の閉幕も宣言されます。来週をもって聖年が終わるわけですが、それぞれの地方の教会はその前の週、すなわち今日、聖年の扉を閉める式を行うように通達が出ています。全世界の教会は今日をもってこの聖年の扉が閉じられるわけです。

 今日の福音の中にも出てきていますが、この世の終わりの時に訪れる様々な恐ろしい現象、
これは実は世の終わりのことを指していると言うよりも、福音書が書かれた当時、常にこのような出来事が起こり、そして激しい迫害の中にあったわけです。その少し前のページ、「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙」の中で、働かないで生活している人がいる、ちょっと理解出来ないかもしれません。この「働きたくないものは食べてはならない」。最近は聴かなくなりました日本語のことわざのように「働かざるもの、食うべからず。」これは日本のことわざでではなくて、この聖書のこの言葉が案外知られていない。
 何故このようなことを言っているかと言うと、キリストはすぐ来ると思われていて、世の終わりもすぐやって来る。だから、もう働く必要はない。そういうような意味で、何もせずにただ世の終わりを待つ人たちが結構いたようです。それに対して使徒パウロは、他の手紙でも言ってますが、日常のありのままの自分の生活をそのまま続けなさいと言っています。 そして、世の終わり、再臨の時を待ちなさい、特別なことをするのではなくて、今与えられている努めをただ誠実に果たしていきなさい。ただし、そのかいから離れ自堕落な生活をしている人は 厳しい警告の言葉も向けられているのです。いつの時代にも、このような出来事が起こるとき不安になった人は何かに縋ろうとします。自分たちを変えてくれる、あるいは頼りになる、この世の力というものに縋りたくなる。多くの場合は新興宗教のような形で、これさえ信じていれば御利益を得られるということを主張するものが、最近の世界の流れを見るならば、政治的な力が、だれも予想しなかったことが表しているのは、人々が理性的な判断よりも感情に訴えかける、自分たちの利益を優先して考えてくれる人をリーダーとしてたててしまおうとする。ヨーロッパにおいてもそうですし、世界的にそのような流れが進んでいるときに、私たちはどのようにしてこの世界を見据え、自分なりの生き方をしっかり選びとっていくべきか、今、難しい時に私たちは立たされていえるかもしれません。

 明日から日韓司教交流会が行われ、一週間韓国に行ってきますが、移動できるのかが心配です。教皇様来られたときは(デモではなかったが)30万人と言われましたが、非公式には5~60万人も集まったと言われましたが、それに匹敵するような人々がソウルの広場を埋め尽くしてデモを行っています。この混乱中で、韓国社会を今、世界に対して日本を含める東アジアに対して、カルトの脅威に対して警告を発しています。(この後、司教様はカルト教団についてのカトリック新聞の記事を引用し注意を促しました。)

 私たちは信仰を固く持ってそこに留まる。聖書の中では忍耐していなさいという言葉がありますが、このような混乱した社会情勢や宗教状況の中で、私たちがしっかりよってたつべきところを持つことはとても大切なことです。それがけっして排他主義的な自分さえ良ければよいというようなところへ私たちを導くのではなくて、むしろ平和で共存する豊かな社会を目指すようなものへと私たちを導いてくれるもの、それをしっかり識別して私たちは生活していく必要があると思います。
                                                                           
 同じカトリック新聞の中で、教皇様は関心の問題のひとつは移民の問題です。アメリカでは移民政策を厳しい形で排除しようと、政策を転換するというニュースが今日も報じられていました。しかし教皇様はそうではなくて、必要なのは壁を作ることではなくて、橋をつくることだと強調しておられました。
 そして、現代に生きるキリスト者にとっての新しい幸い 、六つの幸いを示しておられます。山上の垂訓では八つの幸いですが、現代に生きるキリスト者にとっての六つの幸い。
 ①他者から受けた害悪を信仰によって耐え忍び、相手を心からゆるす人は幸い
 ②見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸い
 ③あらゆる人に神を見いだし、他の人たちも同じように主を見いだすことができるように力  を尽くす人は幸い
 ④ともに暮らす家を守り、大切にする人は幸い
 ⑤自分だけの安楽を他の人のために捨てる人は幸い
 ⑥キリスト信者の間の完全な一致のために祈り、働く人は幸い

 特に見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸いという言葉は、単に観念的に社会の隅に追いやられた、小さくされた人たちに寄り添うという観念的なことを言っているのではなく、その人たちの目を見つめるという表現は、理屈ではなくて実際に行動を通して出会う、触れあう具体的に関わりを持つこと、そういうことの大切さをこの一言で表現しておられると、私は感銘を受けています。見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸い。

 頭でっかちにこの世の状況を判断し、評論家のようにそれを論評するのではなくて、具体的に私たちは行動を持ってこの世界の苦しんでいる人や私たちと連帯すべき人たちと具体的に関わっていく。これは特別聖年の幕は閉じられますが、教皇様が示されようとした「神のいつくしみ」。これは私たちに対するいつくしみでもありますが、教会が世界に対して神のいつくしみを示すことになるようにという強い望みが聖年に託されたわけですから、今閉じるということは、それで終わるのではなくて、今これからこれを具体的に取り組んでいく、その始まりの時に私たちは立たされているということを、私たちはしっかりと受けとめていきたいと思います。』

2016年11月6日日曜日

年間第32主日

今日の福音で、イエスはサドカイ派からの悪意ある問い掛けを退けます。

ミサの中で、今年7月に誕生した赤ちゃんの洗礼式が行われました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『イエスの時代のユダヤ教の中でも熱心な教派を挙げるとその代表なグループは、ファリサイ派とサドカイ派です。その一つのサドカイ派の人たちがイエスを問い詰めるというのが今日の話となっています。
両者はことあるごとにイエスの言葉尻を捉えて、罠にかけようとしていたのですが、今日の話の直前に聖書では共観福音書に共通する内容でファリサイ派が「皇帝への税金」で腹黒い質問をして、律法に叶っているか?否か?を問いただすのですが、見事イエスに敗北することになってしまったのです。ファリサイ派の敗北に喜んだのはサドカイ派の人たちでした。つまり、二つの派閥がそれぞれイエスに質問を仕掛けていたという背景があるのです。
そこで、今度は自分たちの方からイエスに勝負を挑もうと進み出たのがサドカイ派で、彼らはこれまで自分たちの主張を固く守り、ファリサイ派と昔から議論し続けている「復活」についての論争があり、復活を拒否する立場であったことから、この議論でイエスとの勝負に出たのでした。
当時の人たちにとっての復活は単純な考え方で、復活とは眠りから目覚めることであり、前と同じ状態で目覚めることが前提でした。だから、復活した日とは、当然食べたり、飲んだり、眠ったり、亡くなる前の行動が伴うという考えでした。そのため、「男が子どもを持つことなく死んで、その男の兄弟が子孫を作るために、その未亡人と結婚しなければならない」(申命記25.5~)という聖書にある具体例を引っ張り出してサドカイ派はイエスに質問しているのです。イエスは「聖書と神の力をあなた方は知らない」と、そのような考え方を否定し「復活した日とは、前と同じ人間であるが状態が変わってくる。その状態は天にいる天使のようであって、めとりも嫁ぎもしない」と言っています。
そして、サドカイ派の誰もが認めている律法「トーラー」の言葉をもって、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死者の神ではなく、生きている者の神である」と宣言します。この宣言は、彼らが唯一、偉大なる予言者として認めていたモーセの宣言でもあり、この律法の言葉は、あなた方も信仰において宣言しているように、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのであれば、この偉大なる先祖の三人は、すでにモーセの時代に亡くなっているけれど、死んだアブラハムではなく生きているアブラハムであり、イサク、ヤコブを指しているのあって、今現在、生きている者として語っているのではないか? つまり神は私たちに復活を示唆しているのであり「生きている者の神」ではないかと指摘するのです。

イエスの説明と主張はそのとおりであり、真っ向から身体の復活を否定していたサドカイ派の人々にしてみれば、復活の非合理性を指摘して七人の兄弟が死んでその妻となった女性の話を持ち出して、「一体、誰の妻なのか」と、イエスを当惑させようとした質問は、そのまま自分たちに返ってきて、言葉を失ったのです。
私たちにとっても復活の世界は、色々想像することとなりますがなかなか難しいものです。イエスの話では、復活や来世はこの地上世界とは全く異なるものであること、従って、復活の世界を現世的、経験的次元で捉えてはならないことを指摘したのです。

天使と人間が異なるように復活した人間は、復活した神の子をなるので、肉体的にも、精神的にもこの世の人間とは異なった状態に置かれるというのです。
復活の姿は、誰にも関心があって、私たちの人間の都合で考えがちですが、そうであってはならないと言うことでしょう。
間もなく終わりを告げる「いつくしみの特別聖年」の恵みに励まされて、今日の詩編の言葉にあったように「わたしはあなたの後を歩み、あなたの道を離れない」と祈った詩編作者の言葉をそのまま、復活信仰に生きようとする私たち自身の祈りとして、神に信頼して祈りましょう。

この後、7月に誕生した赤ちゃんの洗礼式があります。神の子となる祐(ユウ)君とその家族とともに喜び、神の祝福を祈りましょう。』

2016年11月3日木曜日

「死者の日」記念ミサ -すべての死者のために祈りました-

死者の日にあたり記念ミサが午後6時30分から行われ、約100人の方が参加しお祈りしました。ミサでは、宗教にこだわらず、信徒が祈りを希望した方々の帰天者名簿が、この夏に亡くなられた信徒の遺族から奉納されました。
また、主任司祭からは特に人々の思いから忘れてしまった方々の霊魂にも祈りをお願いしたいとお話がありました。





後藤神父様のお説教をご紹介します。
『こんばんは。先日(10月23日)、札幌地区では死者の月を前に、白石・里塚墓地におもむき墓前で祈りを捧げていますま。死者の月の11月を迎えての今日(11月2日)は死者の日の記念日になっています。私たちの教会では亡くなった方々の(帰天者)名簿を準備して奉納しましょうという呼びかけをしましたので、それに名前を書かれた方々は早くから亡くなった方々との交流をされていたのかなと思っています。亡くなった方々の名前を思いおこしながら、きっと祈りを捧げる日々が今日まで続いたかと思います。なかには家族の方々にに思いをよせたり、亡くなった子供さんであったり、とても親しい友人の方々であったり、そうした自分にとってかけがいのない、亡くなられた方々に心をよせる日々であったかと思います。

 人はだれでも死ななければなりません。何故なら死は原罪の結果であるといわれます。聖書のローマの信徒への手紙の中ではこう述べている箇所があります。「〔そこで、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12 )アダムによる神への不従順は成聖の恩恵、神から受けた命、神的生命、そしてさらに神との友情さえも失わせることになりました。それが創世記のアダムとエヴァの物語の中から生まれてきています。死は盗人のように訪れることとなる。誰にも予測することが出来ない。だから新約聖書の中でマルコ福音書はこういうメッセージを伝えていました。「目覚めていなさい。私はあなたがたに言うことをすべての人に言う。目覚めていなさい。警戒しなさい。」(マルコ13:32関連)死はいつ訪れるか分からないが、目覚めていなければならない。その時がいつ来るか分からないということで「警戒しなさい。目覚めていなさい」という教えが弟子たちに話されました。

 神の最初の計画では、人は来世において悩みも苦しみもなく生活するようにお定めになっていました。でも罪によって人は自分から堕落に身を委ねました。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23前節) という表現も聖書では語られます。でも聖書では「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23後節)という表現もとられます。神に背いた罪を償うために、キリストは私たちの元に、この世にお出でになられました。そしてイエス・キリストは死に打ち勝たれました。私たちが死に直面して、希望のない者のように悲しんではならないというのが教会の教えです。聖書をとおして語られていることです。神への信頼と私たちの揺るぎない信仰がそれを可能とします。私たちは実際、 そういう信仰を大切にしてきているでしょうか。
 揺るぎない信仰。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る希望を私たちに与えてくださっています。ですから私たちは死によってすべてが終わりを告げることでないことを知っています。むしろ死から新しい旅立ちがある。そのためにも大切なことが聖書に書かれます。新しい命を生きるために、そして永遠の命に招かれるために、自分を欺くことなく、神のみ言葉を生きて「たゆまず善を行いましょう。」(ガラテヤ6:9)聖書はこのように私たちに告げます。終わりまで神に忠実な善後にとっては、死は恐ろしいものではないんだ。何故なら神のみ言葉を生きて善を行い続けるならば、神様は私たちを永遠の命に招いてくださると約束するからです。

 神は人間を父の慈しみと  厳しさをもって裁かれる方ですけれども。でも私たちは知っています。裁判官であるとともに神は私たちの父でもあります。私たちはその父なる神の子供であることを知っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神が御子を世におくられたのは世を裁くためではなく、御子によって世を救うためである。裁きの方であるとの一面を持ちながら、裁きよりも神の慈しみが示されて、私たち一人ひとりを御子によって救いへと招いてくださる。イエス・キリストはその使命を受けて私たちのもとに来られる。十字架の死を通して私たちを贖い、永遠の命へ一人も見失うことなく私たちを招こうとしておられる方。そうは言っても、私たちはこの世における人生の終わりに心が固くなります。悲しみも大きくいたします。土から出た肉体が死によってまた土に帰らなければならない、その現実を目の当たりにするとき、私たちはただひたすら無力感、むなしさを感じるばかりです。聖書に書かれている私たちへの励まし慰めの言葉を私たちは忘れてはならないと思います。聖書にはいたるところに、神の掟を守り神がお定めになった人の道を正しく歩む人は、煉獄で清められてから限りも終わりのない幸せな国、天国で神とともに永遠に生きることを約束されていることが度々語られます。神に対する愛の報いが天国に繋がっていることだと思います。私たちに求められるのは、諦めることではなくただ終わりまで耐え忍ぶこと、そのことにかかってくるようです。
  そのことを聖書はまた告げています。マタイの福音では「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)とあります。ヘブライ人の手紙にも「わたしたちは最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(ヘブライ3:14) 私たちが時々、心を乱してその神様の信頼を欠けるような状況にしてしまうことがあるかと思います。でもそういう状況にしてしまうならば救いはさらに遠くなってしまう。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、諦めるのではなくて神に信頼をおいて、そこからまた立ち上がりなさい。そうすれば神は私たちを皆、救いの道へと招かれているということが私たちに約束されていることです。私たちはそのことを決して忘れてはならないと思います。

  今日、私たちは死者を記念して祈るために集まりました。皆さんが捧げる祈りには、両親があり子供があり兄弟姉妹がおられるかと思います。また先祖に対して友人や知人に対して、教会の先人に向けても、さらに宣教師や司祭、修道女の方の姿も思い浮かべておられると思います。さらに、遠く外国で亡くなられた方に対して、災害や事件や事故で亡くなった人も思い浮かべている方があろうかと思います。
 私はいつもお願いしています。今日は皆さんがご存知の方、大切な方だけでなく、誰からも今は思い出されることのない霊魂に対しても、心を向けて欲しいと思います。今は家族もこの世にいない亡くなった方もたくさんおられると思います。そういう人たちは誰から思い出されるでしょうか。私たちは今、すべての死者に心を向けることができます。
 そして、すべての死者に対して免償をお渡しすることもできます。いつくしみの特別聖年の間、特別の条件を持って祈りをすることによって、亡くなった人々への免償を授けることが出来るということもうたわれています。どうぞ、残されたいつくしみの特別聖年の期間は一ヶ月を切っていますが、名も無き死者のために、私たちの祈りを捧げることを大切にして欲しいと思います。
 神はすべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そして、今日のヨハネの福音にもあります。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり…」(ヨハネ6:40)。イエスのこの御心、イエスの意志に私たちは固く結ばれて、多くの亡き人々のための魂に祈ることが出来ると思います。生命の与え主である神に信頼して、御心を行うために遣わされたイエスを信じて、今日も心をひとつにして祈りたいと思います。神の永遠の生命に生きる聖人たちや故人のとり次ぎによっても、今、祭壇の前に集う私たちの上に主の恵みが豊かにありますように。
(※聖書からの引用文は、新共同訳聖書に編集しております。(文責S・I))』

2016年10月30日日曜日

年間第31主日 ザアカイに向けられたキリストの愛

この日は勝谷司教様の司式によるミサでした。


ザアカイに向けられたイエス様の無償の愛をとおして、罪とは、回心とは何かということを考えてみましょう。

勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

『先日、高校時代の同窓会があり出席したのですが、思い出の女性と再会することになりました。実は、その女性に大失恋したことがきっかけで教会に行くことになったのです(会衆・司教様 笑い)。
私の高校生活は、勉強も振るわず、失恋もあり、自暴自棄になり、私にとっては価値観が崩壊していた時期でした。
その時に、教会に行き、そこで同年代の高校生達と出会うことによって、また再び自分自身を再構築できたのです。
私の通っていた高校はその地域では一番の進学校であったのですが、私も含め周囲は模擬試験の成績等で自分の位置や価値を測るというような雰囲気でした。しかし、教会に集まっていた高校生達は、そのような価値観とは全く無縁であり、私は彼らとの分かち合いの中で劇的に転換することになりました。
その分かち合いでは、恰好の良い自分ではなく、成績も最低で、失恋し、友達からも無視されてという自分の姿を話す雰囲気になってしまったのです。そしてそのような自分を話したことで初めて受け入れられたと感じたました。私の話を聞いて涙を流してくれた人もいました。自分の人生の中でそのような人に出会った経験はなかったのです。
そして、その時から、自分の価値はどこにあるのか、優れているからということではなく、こんな情けない自分でも、愛されている、受け入れられている、と感じたときにはじめて、自分には価値があるんだと感じた体験でした。それが、その後の私の人生の方向を決定付けてくれたと思います。
そのような意味では、成績とか、大学のレベルとか、会社の大きさとか、社会的地位とか、そういうもので自分の価値を測ろうとしている人は、逆に言うならば、自己価値の意識が非常に低い人たちと言えるのかもしれません。ありのままの自分でいいのだと意識している人は強いと思います。
今日の福音に出てくるザアカイという人は、まさに支配者であるローマに納める税金を徴収し私腹を肥やしていると、同胞から軽蔑され蔑まれる人でした。
そんな中で、お金の力で人々を見返してやろうと考えていたはずですが、そのような境遇を決して満足していたわけではないはずです。このザアカイが回心していった理由は何処にあるのでしょう。まさに、そんな自分であっても無償で愛されているということをキリストに出会うことで体験したこと、キリストに出会うことによって、神のいつくしみを直感し、その時にはじめて自分の罪深さを知ることができたわけです。
ここで私たちが、間違ってはならないのは、「私たちが価値があるのは愛されていること、でも愛されるためには、善き人でなければならない、正しい人間でなければならない」と、考えてしまうことです。でもそうではありません。このザアカイの話からは、ザアカイは回心しようとしてイエス様に近づいたわけではありません。ザアカイが桑の木に登ってイエス様を見ようとしたのは単なる好奇心にすぎませんでした。でもそのようなザアカイに対して、イエス様の方から「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言ったのです。このイエス様の行動は、人々にとってとても考えられないことでした。ザアカイの家でイエス様とどのようなやり取りがあったのかということはもはや解説不要であり、イエス様の方から客になって、ザアカイの家に泊まったということ自体が、ザアカイに対してイエス様がありのままのザアカイを受け入れ、ザアカイの家ではイエス様はいつくしみに満ちた愛の眼差しで、あなたも神の目から見て大切な人間なんだと感じさせるような話をしたに違いありません。そしてザアカイは回心していきます。
私たちはどうしても、神の御前に出る際は、清い自分でなければならないという気持ちが強くなってしまいます。それはそれで間違いではありませんが、その気持ちが強すぎると、そう出来ない自分は神から拒否される、排除されるのではないか、という強迫観念を持ってしまいかねません。むしろ私たちは弱く罪深さを持っているが故に、イエス様の溢れるばかりの愛に身を委ねることによって癒され回心するということに意味があるわけです。
ただ、私たちには愛されているという実感がどうしても沸かないということがあります。それは、自分が愛されているということに気付いていないだけということが多々あります。私たちは愛されているということに気付いた時にはじめて、良い意味で自分の行いの罪深さに気付くわけです。自分に向けられた愛に対して出来る影が罪として認識されることなのです。逆に言うならば、罪を意識するということは、自分にどれだけの愛が向けられているかということに気付き、その愛に立ち返っていく、それに応えていく決心をすること、これが本来のゆるしの秘跡の意味です。ゆるしの秘跡は過去の罪を赦すというだけの意味ではありません。未来に向かって自分に向けられている愛に応えていくことでもあります。』

2016年10月23日日曜日

年間第30主日 - 記念黙想会 -

献堂100周年の記念行事として、10月22日(土)から23日の2日間、当教会聖堂にて、
フランシスコ会の南雲正晴神父様を講師にお招きして記念黙想会行われました。



南雲神父様は、1981年から5年間、ローマ教皇庁で典礼学を学ばれ、日本カトリック典礼委員会委員を務められています。

講話は3部構成で行われました。

第1部 「ミサにおける沈黙の意味」
ミサ中の沈黙には、「専念、専有、思索、敬神」という四つの意味がある。式次第の場面、場面で、沈黙の持つ意味を理解して臨むことは非常に大切なことです。

第2部 「ミサへの行動的参加」
私たちが与っている今のミサ典礼の形式になるまでの歴史的な背景と経緯。第二バチカン公会議で承認された典礼憲章で明確に示された「典礼の刷新」についてのお話がありました。

第3部 「なぜ、主日に集うのか」
旧約の時代から続いている神に感謝し賛美する「過越し祭」、「安息日」と、イエス様の「最後の晩餐」と十字架の死と復活との関連について解説されました。
ミサは御父への感謝を捧げるもの。主日のミサに与る最大の目的は、聖体をいただくこと。聖体はイエス様の「最後の晩餐」を記念し、祭壇上で割かれたパンは十字架上の栄光を象徴するもの。割かれたパンをいただいた私たちは、キリストによって一つになる。

ミサ典礼の儀式・所作の一つ一つにはそれぞれ重要な意味があって、大切に守らなければならない、ということについて、時折ユーモアも交えながら解説くださいました。

毎週ミサに与り、お祈りや所作が半ば習慣化してしまっている私たちにとって、典礼の儀式に込められている一つ一つの深い意味について顧みる大変よい機会となりました。

南雲神父様、大変有難うございました。


この日の主日ミサは、南雲神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。
南雲神父様のお説教をご紹介します。


『(南雲神父様が白い手袋をはきミサをしていることから、前段にご自身の肌の疾患についてお話がありました。)
9:10
 ミサ前にも触れましたが、年間もそろそろ終わりが近づいています。11月に入ると「死者の月」として過ごします。教会の1年のカレンダーはもう流れの瀬戸際、終わりにきています。
  そういう時にたとえば、今、ごいっしょに耳を傾け聴いた聖書のメッセージは、祈るということの大切さです。今日の最初のシラ書の中でも「私の祈る心からほとばしり出る叫びは、神よあなたに向かって宛てられています。声が枯れるまであなたに向かって叫び続けます。」 シラ書はそういう内容のことです。
 (お手元の聖書と典礼はお持ちになって帰り、一週間 何回でも目を通して見てください。日によって昨日理解したことと違う何かが見える。これが聖書の言葉の凄いことですね。)

 第2朗読は、多分お気づきになったと思いますが、自分の宣教活動を陰ながらに、あるいはともに同行して支えてくれたテモテ、信頼のおける兄弟に書簡を宛てたものです。完璧に今までと違うのは、パウロはそれこそ泣きごとを言うかのように、自分は今まで多くの兄弟からも見放され、敵視され牢にまで入れられ、それだけでなく船の災害で遭難したり、何回もひどい体験をします。でも、彼はだからといって、主がご自分に与えた使命をしっかりと見定めている、目線をそらさない、だからいつもそこに向かっていく。彼が向かっているところはどこかと言うと、書簡にあります。「私は走るべき道を競争者のように、主から与えられたその道をまっしぐらに進んで走っている。もう私にトップの栄冠を受ける時が近づいている。その冠は主ご自身が準備されているものだ。」と、何をとまどうことなくはっきりと断言しています。それは何のことをいっているか。ローマでの殉教、首をはねられた。ペトロがそうであるように、彼もローマで殉教の恵みを受けました。このことを言っています。日本の教会にも26聖人殉教者をはじめ数え切れないほどの殉教者がいます。彼らはみんなそういう思いで走り尽くした。その結果、殉教という栄冠を、つまり主ご自身から善しとされたわけです。

  祈り続ける。正しい祈りですね。今日の福音のイエスのたとえの中に、ファリサイ派的なものが良いとか、そんなことを思っている人は誰もいないと思います、でも、気づかないうちに私たちは自分があの人のようでなくて良かった。うっかり思ったり思いがちです。テレビでニュースとかご覧になるとき、いろんな事故、災害が報道されます。そのとき、自分の家は助かって何も害を受けなかった、助かった救われたと思う人が必ずいますよね。だって、ニュースの発表がそうです。日本人が亡くなったという報告は大使舘にも入っていません。日本人は大丈夫でしたと。あー良かったと思うでしょう。変です。 同じひとつの境遇の中に両親を通して与えられた尊い命。ある者は亡くなり、ある者はそのまま。現実を続けることは一度壊れてしまった日常では大変なのですが、でも生き延びることができた、そういうことはだれでも体験します。そういう時に皆さんはどういう風に現実をとらえるか。今も鳥取を中心に余震が頻繁に起こっている。夜もゆっくり休めない大変な思いです。
  先日のNHKニュースで、こうした自然災害を受け、無事に助かった子ども達が学校に行きます。多くの子ども達がこれまで習慣のなかった車やバスでの送迎です。そのために歩く歩数が少なくなった。だから肥満児がたくさん増えているそうです。食べるものも特別な環境の中で配給される食事をとりますので、やはりインスタントものが多いでしょう。お母さんが作るような健康のバランスを考えたものは難しい。だから子ども達も、一見元気に遊んでいるように見えるけれども、運動が不足がちになり日に日に肥満化していくと、大きな問題として報道していました。小さい子ども達もさいなまれていると知った時、ショックでした。皆さんもそういう意味で心を痛めていると思います。忘れてはなりませんね。

 今日登場するイエスに善しとされなかった彼も祈るために礼拝場にきた。祈るために主のみ前に立って祈ったわけです。ところが、その祈りを主がご覧になってこれは祈りではない。もう一人のものは、言葉がもう出ないくらい、身をかがめて胸をうちながら、目を上げることも出来ず、涙ながらに「主よ罪深い私を慈しんでください。お赦しください。」と。日本人がこうやって胸を打つというのは威張ること。女はしません。ファリサイ派の人は自分の胸を打ちながら「あいつのようではない。こうやっています。」と言っている場面。かたや、聖なるものを仰ぎ見ることもできない自分を「私のようなものをお赦しください。憐れんでください。」と胸を打って。

  どちらが主の御心に適うかは明らかです。このことを今週は改めてテーマにして、私の祈りはどうなっているだろうか、検索してみることが必要です。人に聞くまでもなく、自分自身に尋ねてみる。そういう1週間にしたいと思います。』


2016年10月16日日曜日

年間第29主日

今日のみ言葉は、やもめのたとえ話を通して、絶えず祈るということを教えてくれます。
今週の土曜日は黙想会が行われます。多くの方のご参加をお待ちしています。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『10月「ロザリオの月」も半月が過ぎています。
祈りをしている中でふと考えることがあります。私は心から神に感謝をしているのだろうか。そんな祈りができるのだろうか。そんなことを考えることがあります。「ロザリオ」の月を迎えている中で、きっとこの10月、神様のもとにはたくさんのお祈りが届いているのだと思います。一方的な願いや祈りで終わるのではなく、静かに心からの感謝の祈りを捧げられたらと、考えたりもします。
心から叫ばれた神に感謝のことばが思い出されます。それは今から6年前にチリで起こった鉱山の落盤事故で、33名が地下700メートルに取り残され69日後に全員が無事救出されたという出来事です。テレビの画像には、次々と地上へと救出される鉱夫の姿が映し出されていましたが、私が特に注目した場面は、深く暗い地下から地上に再び足を踏みしめて喜びを抑えることが出来ずに声をあげている人々の前で、跪いてじっと静かに祈る人の姿でした。きっとその人は、心の中で「神に感謝!」と叫んでいたのではないかと想像します。「神に感謝」と私自身も普段の生活の中で言っていますが、本当に心から「神に感謝」といえる祈りが出来たらいいなと思います。
今週届いたカトリック新聞の一面は、教皇様の記事で埋め尽くされていました。そのひとつは、イタリアで起きた地震の被災地を訪れた教皇様の記事でした。静かに祈り、慰めのことばを被災者にかけられている教皇様の姿が浮かんできます。そして記事の中でも触れられていました、教皇様は「ただひたすら、みなさんに心を合わせていることを伝えるために来ました」とそんな言い方をされたそうです。そして「それ以上の何ものでもありません。私は祈ります。皆さんのために祈ります」と話されたそうです。本当はすぐ被災者のために駆けつけたかったけれども、自分が来ることで却って混乱させてしまうことを恐れたとおっしゃられたそうです。最後に、「同じ歩くなら、一緒のほうがいいのです。一人ではどこにも行けません。皆さん前進しましょう」と勇気づけ、互いに助け合いましょうと励まされたそうです。
記事を読みながら、そして教皇様の姿を思い浮かべながら、教皇様のいつくしみと愛がいかに心から溢れてくるものなのかと感じます。
私たちは、ミサの中で必ず「教皇フランシスコ」と名前をあげて祈っています。ですが名前を口にするだけではなく、心から感謝の祈りとして教皇様に届けられるようでありたいと思いました。私たちが、どんな心で、どんな意向で祈りをするかということも大切なことだと思います。

今日のみ言葉は、絶えず祈るということを教えるイエスの姿を見つめています。そのことを教えるたとえ話は、一人の貧しく弱い立場にあるやもめが、人を人とも思わないという厳しい裁判官に執拗に取りなしを願うというものです。
か弱いやもめがしつこく、嫌われるほど願うというのですが、そのために裁判官は放っておくことができないと考え、彼女の願いを聞き入れたということのようです。
ましてや、私たちが愛し信頼する神は、私たちの願いを聞いてくださらないはずはない、こうイエスはたとえを通して私たちに話されたのです。ですから私たちは神様に向って願いを捧げなさい、祈りをしなさい、必要なことがあれば求めなさい、こうイエスは話されたようです。
私たちは生活の中で、喜びや感動があります。それが当たり前のことのように過ぎ去っていきます。時には神への感謝の心が薄れてしまって、祈りの心も祈っているはずなのに神様に届いているのか届いていないのか、そんなことも考えずにただ祈っていることもあるような気がします。私たちの信仰、祈りが口先ばかりになってしまっては申し訳ない気がします。もしそうであるとすれば、私たちの心におごりがあるのかもしれません。

日々祈りを捧げる私たちですが、主の祭壇を囲む私たちの信仰、祈りをもう一度よく見つめながら、神に向う心をさらに大切にしていきましょう。
聖堂献堂から100年の記念を終えた私たち、今新しい教会共同体として歩みを続けていかなければならないと思います。
今週の土曜日には、献堂100周年の行事として黙想会が行われます。そのテーマは、「なぜわたしたちは主日に集まるのか」です。土曜日ですけれど、一人でも多くの方が参加して新しい一歩を踏み出したいものです。
若い人たちの信仰について、子供たちの信仰について悩み苦しむご両親もたくさんおられると思いますが、私たち一人一人が信仰の喜びを実感し、「神に感謝」と心からの祈りで、模範を示すことができますように。ロザリオの月ですので、マリア様をとおして、そうした意向を捧げることも大切かと思います。』

2016年10月10日月曜日

年間第28主日

真の信仰の喜び。それは、苦しい時、死の陰の谷を渡るとき、どんなときも恐れることなく、神がともにいると確信できる信仰を生きること。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『昨日は、献堂100周年を記念するミサ、そしてミサの中で15人の方が堅信の秘跡を受けられました。祈りの内に盛況に行われました。この日を前に長い期間をかけて研創され留意されてきた役員の方々、そしてご協力を賜った皆さんに心から感謝いたします。そして、ご苦労様でした、お疲れ様でしたとお声をかけたいと思っています。17名の司教様はじめ司祭団もいっじょに喜びをともにしてくださいました。司祭団も感謝と賛美の祈りをミサの中で捧げてくださいました。
 考えてみますと教区司祭の皆さんはこの教会で叙階の恵みをいただいて司祭の道を歩み始めている人たちです。ですから、私たち司祭の一人ひとりは、この教会と切っても切れないご縁を持っています。「カテドラル」という教会でもあるため、司祭はみんなこの教会を大切に考えてくださいます。そのこと自体もありがたいことだと思います。地主司教様も祝賀会の中でいろいろと挨拶をしていましたが、(私も以前聞いた記憶があるのですが)司教様もこの教会で洗礼を受け、その後、円山教会に移動移されたんだとおっしゃっていました。ですから、司教様もこの教会は自分の小さい頃の思い出に繋がる教会だと、そんなお話しをされていました。  本当に昨日の100周年の記念ミサは皆さんとともに捧げる事が出来た。そのことを改めて感謝したいと思います。そういうことを考えながら今朝、思いおこしていましたが、この教会で何人の方々が洗礼の恵みをいただいたんだろうか、この教会で誕生したんだろうかと考えていました。また、何人の方々がこの教会から天の国へ召されたんだろうか、そんなことも考えていました。いずれにせよ、私たちこの教会に属する信者は皆、誕生とそして天国への旅路をこの教会でともにしているのだと思います。そういうことも含めて私たちはさらに若い世代に繋ぐということで、さらに深く考えていかなければと思います。  
昨日、運営委員長の挨拶にもありましたが、 新しい世紀に向かって若い世代に私たちが何を伝えようとしているのか、繋ごうとしているの。そういうことを考えながら一人ひとり行動する教会共同体となることが課題である。櫻谷運営委員長もそう挨拶されていました。
  でも、100周年記念はまだ終わっていません。引き続き22日(~23日)の黙想会も控えています。私たちのミサ、祝賀会は昨日終わりましたが、今度は私たちの心の準備として、
さらに新しく歩み出すことが出来るように、黙想会で信仰の実りをまた祈りたいと思います。多国籍の信徒も集う教会として、意見も交えながらより良い新しい教会に生まれ変わることを希望し、神への信頼持ち歩み出したいと願います。

 では、今日のみ言葉にも心を留めいっしょに考えていきたいと思います。まず最初に、今日の福音の背景を少し考えてみます。第一朗読と福音は非常に似たようなお話が語られました。旧約の時代にはイスラエルの国は南北に分かれたことがありました。四つに分かれたこともありましたが、北王国、南王国と表現された時代もあります。北王国はユダの国として、首都であったサマリアという町がそこにあります。サマリアはわたしたちが良く聞く地名、町の名前です。善きサマリア人という話しもその町で起こった出来事として聖書で伝えられます。ユダの北王国の首都であったそのサマリアの町は攻撃を受け陥落し滅亡し、アッシリアの属国、植民地となったことがありました。そうしたことによって、サマリアはもともとは旧約のイスラエルの民の信仰を受け継いでいた人々でしたが、陥落、滅亡することによって、また属国になったことで異民族が流れ込んで、伝統あるエルサレムの信仰と距離をおいた新しい神殿も建てられることになりました。新しい神殿で北王国の人々はかつて同じ信仰をもっていましたが、どんどんと変わっていきます。ユダヤ人との亀裂はそういう意味でもますます大きくなりました。やがてサマリアの人々は異邦人という表現で呼ばれるようになって、伝統を生きるユダヤ人からは宗教的にも敵対心を持つ関係になってしまいました。そうした歴史と社会的な背景から、当時の物語をみていくともっと理解が深められるような期がします。

 不治の病に罹り町の中から追い出され、 社会からも隔離された人々が重い病気を抱えていながらもイエスの姿を見ようとして近づいてきます。でもイエスの前に立つことはできませんでした。禁じられていました。重い病気の人は町の人と接することは禁じられていました。そのことを考えるとイエスと出会ったり、イエスとすれ違う人は多いのかも知れませんが、一般的にはそれは路上のほんの一瞬の出来事で終わってしまうのが普通なのかもしれません。でも今日の聖書を見る限り、主よ憐れんでくださいとイエスに対する  深い信頼を持って出会う人であるならば、たった一度の出会いであったとしても 、イエスの力や業を体験することになりました。
 自分は汚れている。弱い者である。罪深い者である。そして、貧しいだけでなくて自分はだめな人間です。そのように自分を見つめているのであれば、イエスとすれ違うだけで本当の出会いはなかなか出来ないのかもしれません。私たちはどんな気持ちでイエスと出会おうとしているのでしょうか。誰からも相手にされない、社会からも隔離された重い病気を抱えた孤独な病人、それぞれの病気の苦しみを背負いながら心から救いを願いました。憐れんでください、イエスの傍に行くことは出来なくても、心はもうすでにイエスの傍に立っています。そうした出会いを求めたところに癒しの力に触れる習慣がおこります。
 まさに奇跡がおこりました。聖書の話しはそれで終わっていません。病気を癒された人々は10人いましたけれども、一人は神をほめ讃え、賛美しながらイエスに感謝するために戻って来たというのです。10人の病気の人の中には、当然ユダヤ人もいたかと思います。はっきりと詳細には描かれていませんが、戻って来た一人はユダヤ人にとっては敵対する人、異邦人であるサマリア人であった、そういうふうに強調して物語は展開しています。ユダヤ人はイエスをもともと信頼する人ではなく、自分たちの信仰から遠く離れた人々、そうした人々の一人がイエスに感謝するために戻ってきました。イエスは信仰を持つ者、持たない者にかかわらず分け隔て無く、その人たちに接し癒しを与えられる方でした。本来ならば癒されたユダヤ人もまた、サマリア人も感謝して良いはずでした。でも感謝の一言を言おうとして戻って来たのは一人であった。他の人はどんな気持ちになっていたのだろうか、そんなことを考えさせる物語。

 私たちはどうでしょうか。たくさんの恵みを頂いている私たちです。 感謝の気持ちをどれだけ持っているのか、 感謝の気持ちをどれだけ神様に捧げているのでしょうか。私たちにとって大事なことは何でしょうか。病気を癒されることが大事なことでしょうか。病気は癒されたとえ治ったとしても永遠に生きるいのちをいただいたわけではないはずです。病気を癒されたとしても、やがてまた歳を重ねて死に向かうというのが私たちなのです。大事なことは病気が癒されることだけではないはず。神様から何かしてもらうだけではないはず。イエスがいつもともにいてくださるということを、もっともっと深く知ること、確信すること。大切なのはそのようなことと思います。私たちの信仰はそういう点で、御利益宗教とは違うということが言えると思います。心の中に多くの何か抱え込んでいる私たち。時には直面する悩み、時には人の為の心配事。また、言葉に出来ない自分の貧しさに苦しんでいる、そういうときもあるでしょう。そういう人もいるでしょう。苦しい時、死の陰の谷を渡るとき、どんなときも恐れることなく、神がともにいると確信できる信仰を生きることこそ、私たちの真の喜びとなるのではないでしょうか。私たちの真の信仰の喜び。私たちは今どこに心を向けているのでしょうか。向けようとしているでしょうか。
 献堂100年を祝った私たちです。そして次に世代に繋げる信仰として、新たな出発を昨日祈りました。今日もまた感謝のうちにその祈りを捧げます。私たち一人ひとりの神への深い信頼で、確信がよりいっそうもたらされ、新しい教会共同体としてともに歩み出すことが出来るように今日もまた祈り、また明日の一歩につなげたいと思います。』

2016年10月8日土曜日

カトリック北一条教会 献堂100周年記念ミサ

 今日、私たちの祈りの場であるカトリック北一条教会は献堂100周年を迎えることが出来ました
。改めて、この聖堂を今に残してくださった修道会ならびに外国人宣教師をはじめ、歴代司祭そして諸先輩信徒の方々へ感謝を捧げます。

 また、午前10時からの記念ミサには、札幌市内はもとより各地からもたくさんの方々が祝福に訪れて下さり、ともにお祈りを捧げていただけたことに感謝いたします。ありがとうございました。


記念ミサは、勝谷太治司教様と司祭団による共同司式により行われました。
ミサの中では15名の方々の堅信式も行われました。






後藤神父様から、堅信された15名の信徒の方々へ記念品が贈られました


引き続き行われた記念式典では、
後藤義信神父様、櫻谷政雄運営委員長、パトリシアン・アンドレス英語ミサG会長よりの挨拶と、
第10代主任司祭を務められた久野勉神父様より祝辞をいただきました。

後藤神父様のご挨拶


櫻谷さんのご挨拶


パトリックさんからのご挨拶


久野神父様からのご挨拶


久野神父様の祝辞では、就任当時の教会聖堂の様子についてお話がありました。


記念式典の後、全員で集合写真を写しました。



この後、隣接するカテドラルホールで祝賀会が行われ談笑の輪が拡がりました。





神に感謝!



2016年10月2日日曜日

年間第27主日 「守護の天使」

今日は私たちの教会の聖堂名になっている「守護の天使」の記念日です。
この聖堂をとおして、教会共同体、私たち一人一人を守護の天使が守り導いてくださっています。

今週の土曜日、私たちの教会は献堂100周年を迎えます。
心を一つにして、お祝いの日を迎えることができますように。

土曜日の記念ミサでは「堅信の秘跡」が行われます。
受堅される15名の方々が神父様から紹介されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『9月30日のテレビでは、旭岳の初冠雪のニュースが流れていました。旭岳の紅葉は中腹から麓にかけて見頃だそうです。私たちの日頃の生活の中で長袖を着なければ肌寒さを感じるようになりました。カレンダーはロザリオの月の10月を迎えました。まさに「冬も近し」と感じるようになりました。
今日のミサの集会祈願では、皆さんが手にしている「聖書と典礼」とは違う祈りを捧げました。今週の土曜日に私たちの教会は、聖堂が献堂されて100年を迎えようとしていますが、この教会は今日、特別な日を迎えているのです。そのことを思い出しているでしょうか。今日10月2日は、私たちの教会の聖堂名ともなっている「守護の天使」の記念日なのです。日曜日と重なり年間第27主日が優先していますが、私たちにとっては忘れてはならない記念日でもありました。そのため、集会祈願では守護の天使の祈りを捧げました。この聖堂をとおして、教会共同体、私たち一人一人を守護の天使が守り導いてくださって今日に至っているのではないでしょうか。守護の天使のことを顧みながらこれからの歩みを進めていきたいと思います。
守護の天使の記念日は、特別なことを思い起こさせてくれます。
いつくしみ深い神が天使を遣わして、私たちを神の国に招き、神を永遠に仰ぎ見る喜びに入るために常に守ってくださることを思い起こすのです。天使はそのために私たちをすべての危険から守ってくださるのです。旧約聖書では神の民を守り、導くために天使が介入する話がしばしば出てきます。詩編90の言葉にも「足がつまずかないように、神の使いは手であなたを支える」とうたわれています。
献堂100年を迎え、次の新しい時代に向かうためにも、主のことばに基づいて、天使の保護を受けて永遠に生きる喜びを与えてくださるように祈りたいと思います。
嬉しい時も悲しい時も、楽しい時も辛い時も、守護の天使はいつもそばに傍にいて、私たちを守ってくださいます。
朝起きたら守護の天使に心を向けて祈ることを大切にしていってはどうでしょうか。今日一日、罪から誘惑から災いから、そして悪から守ってくださるように祈り、眠りに入るときは、感謝とともに就寝中の守護を祈ることもできると思います。特に出かける前、乗り物に乗る前には天使に祈ることも大切なのではないでしょうか。私たちは見えない天使ですので、多くの危険から守られていることを、なかなか実感できないでいるかもしれません。でもきっと自分の過去を振り返った時、あの時はもしかしたら天使に守られていたかもしれないということを体験している人はたくさんおられるかと思います。
ロザリオの月の10月に入りました。毎週火曜日には有志の皆さんとロザリオの祈りを捧げています。そして祈りの後には、「守護の天使に向う祈り」も毎回捧げています。祈りの後半には「御身の喜びとなるよう、われを導き、われを励まし、われを強め給え。われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、清き御手もてわれを支え、われを守り給え」とあり、わたしが好きな祈りのことばはこの箇所ですが、感謝の心や慰め、そして新たな力が与えられるように感じます。時間がある方は是非、ともに祈りに参加してはどうでしょうか。
古い祈りの本の中には、天使に向う射祷もあります。
「守護の天使、わたしを守り導いてください。」
短い祈りのことばですが、朝起きたとき、寝るとき、この祈りも私たちは心に留めておきたいと思います。

今日の福音にも少し触れておきたいと思います。今日、私たちに語られたみ言葉は、前半の部分と後半の部分に分かれ、それぞれ独立しています。
マタイの福音では、「からし種一粒ほどの信仰がない」から悪霊が追い出せないという表現で語られます。今日のルカの福音では「信仰を増してください」という弟子たちの願いに対するイエスのことばとして語られます。
どんなに小さな信仰であっても、その信仰が生きた信仰であるならば、驚くべきこと、信じがたいことでさえも可能となり、驚くべきことが起こるというものです。弟子たちはイエスから派遣されたとき、病人をいやして帰るという体験もしています。
信仰に大きいとか、小さいとかがあるのでしょうか。信仰は量で量るものではないでしょう。イエスが弟子たちにいいたいこと、信仰において重要なことは、「あなたがた一人ひとりの信仰は、本当に生きた信仰なのかどうか」を言うことだと思います。
昔は生きた信仰であっても、残念ながら今は化石となってしまった信仰もあるかもしれません。また、愛に欠けてしまうならば、どんなに美しくても造花の花のような信仰であったり、骨とう品のようになってしまう信仰もあるのです。信仰は常に生きているものであるはずです。
私たちは神のみ言葉を聞いて、いま、信仰を真に生きているのかどうか黙想しなければなりません。使徒たちは「信仰を増してください」と心から願いますが、まず、小さな信仰を実践していくときにこそ、信仰が強められ、成長していくのではないでしょうか。
100年の歴史を背負ったこの聖堂で、天使に守られる私たちにも、使徒たちと心を同じにして「信仰を増してください」と祈りましょう。』

2016年9月25日日曜日

年間第26主日

教会学校では昨日から今日にかけて、子どもたちの「教会お泊り会」が行われました。
10名の子どもたちが参加して、聖書の勉強会、侍者の勉強会も行われました。
今日の主日ミサでは、お泊り会に参加した子どもたちが全員、元気に侍者奉仕をしました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の福音は皆さんの心に届いたでしょうか?心の中に響いたでしょうか?
今日のたとえ話は、お金に執着し、イエスを嘲笑ったファリサイ派の一人に話されているので、おのずと厳しい話になっています。
聖書でパウロも沢山の悪徳について述べていますが、無慈悲、愛のない心は、神から一番離れている悪徳であると話しています。マザーテレサの無関心の話と共通していると感じます。憐みを隣人にかけない者には、憐みのない裁きが下されると、ヤコブの手紙でも話されています。愛のない者には、愛のない裁きが下される。「心の冷酷な人は、悔い改めをいくら促しても何の効果もない」そういう表現もあります。その言葉だけを聴くと身震いをしてしまいそうです。自分は必ずしも愛のある人間ではない、時には冷たい心を持っていることを自分の中に感じます。ですから天国の人が悔い改めを促しても何の効果もないと言われるならば、本当にどうすることもできない恐ろしさを自分にも感じています。今日のみ言葉はそのような忠告が背景にあるようです。
現実的には、律法や信仰に忠実に生きているといわれるファリサイ派の指導者に対して、痛烈な批判があります。それはイエスがファリサイ派に取った態度でもあるわけです。そしてそのファリサイ派の人々に対して、金持ちのたとえをされたのですが、ファリサイ派の人たちは、そのことを自分自身に当てはめて気付くことがあったのでしょうか?
たとえ話では、重い病気のラザロの様子が誰の目にも気の毒なあわれな状態として描かれます。一方、金持ちは贅沢な生活をし、着るもの、食べるものにも贅沢三昧の生活で自分の満足に重きを置く人であったのです。それは、弱く、貧しく、助けを必要としている人を顧みることのないお金に執着する人たちであり、そのことに気付かないファリサイ派の人たちへのイエスの忠告でもあったのです。
先週も不正な管理人の話があり、お金は決して悪いものではないとしながら、その使い方、利用の仕方で批判をうけることになるのは、昔も今も変わらないのです。今の時代、経済的に余裕のある人は一部かもしれませんが、少なければ少ないなりに、私たちも執着することがあるので、神の前にいつも気を付けていなければならないということでしょう。
たとえ話から想像する死後の世界というものが少し垣間見れました。その死後の世界、天国では「信仰によって義とされた」旧約の偉大な人物であるアブラハムが登場しています。この世で苦しみを受け病気の苦しみに耐えていたラザロが、アブラハムとともにいる世界が描かれています。この世では苦しみの毎日を過ごしていたラザロでしたが、病気の苦しみから解放されて天国では幸せな姿を見せています。反対に、この世で贅沢三昧な生活をしていた金持ちは燃える炎に苦しみ地獄の苦しみにあるのです。ここでも身勝手な金持ちは、ゆるしを願うどころではなく、自分が助けることさえなかったラザロを使って助けを求めようとしているのです。
アブラハムのことばは、金持ちに救いはないことを告げています。大きな淵があって超えることが出来ないのだと言います。もう救われないということなのでしょうか。私は、救われない理由は、死後の世界においてもまだ、自分の救いのことしか考えていない、悔い改めることのない気付きのない人、そのような人には救いの道はまだまだ遠いのだと思います。
自分が救われないと知った金持ちは次に、この世に生きている5人の兄弟に思いを寄せて何とか自分のような苦しみを味あわせること無く救ってやりたいと、またラザロを利用して遣わしてくださいと願っています。血のつながった身内や親類には心を寄せるのは良くあることですが、他人となるとそうではありません。静かにこの場面を心に留めて黙想すると、私たち人間の身勝手さや心の狭さを思い知らされます。
そして後半は、救いをもたらされる方法を一生懸命考えるのだけれど、心の狭い人にはどんな勧めを与えても心を変えることは出来ないというような表現で終わっています。
私たちにはすでに、み言葉でその教えが示されているのでないか、ということです。私たちには聖書で神のことばがあり、教えが告げられているというのです。その教えを聞いて守っているのですか?というのが今日のみ言葉です。その教え、み言葉を聴いても、守らず忘れているのが私たちのようです。ですから、私たちはいつも注意しながら目覚めて神のみ言葉に心を向ける信仰を持たなければと思います。

昨日から、教会学校の子供たちによる教会での「お泊り会」が行われています。森田神父様も顔を出して、子供たちに話をしてくださいました。子供達には、聖書に神様からの大切な教えがたくさん書かれているけれど、一番大切なことを忘れないようにと、それは「心を尽くし、思いを尽くして神を愛すること。そして隣人を愛すること」であると話されて、神だけを愛するのではなく、隣人である人をも愛することが大切だと強調して、子供たちに話をしてくださいました。
神に熱心に祈るファリサイ派の人たちは、イエスのたとえ話を聞いて隣人を大切にしていない自分たちの生活に気付いたのでしょうか?

私たちも今日、日々の生活を振り返りながら、神を愛し、自分の周りの人たち、特に助けを必要としている人たちに対して、自分はどのように考えて、どのように行動しているかということを黙想することが大切です。
この聖堂の献堂100年を前にして、聖書のことばに耳を傾け、救いについて目覚めていなさいという呼びかけに応えましょう。「若い世代に引き継ごうとしている信仰の遺産」を私たち一人一人がもう一度確認して前に進みましょう。』