2016年12月26日月曜日

降誕祭ミサ(日中のミサ)

クリスマス・イブから一夜明けて、降誕祭 日中のミサが午前10時から行われました。
感謝のうちにキリストの生誕をお祝いしました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主の御降誕、クリスマスおめでとうございます。
 昨日のクリスマス・イヴと今日は穏やかな一日を迎えられそうです。好天に恵まれるクリスマスになりましたが、一昨日までは大変な雪、50年ぶりの大雪だそうですが、真っ白な雪にすっぽりと包まれた北海道、そして札幌です。近くの郵便局に行こうとしましたが、歩道は歩く人がいないせいか歩くところが消えてしまい、車道を歩くしか方法はありませんでした。昨日、今日と除雪が進んで道路は綺麗になったと、今朝、来られた方に伺っています。
 クリスマスをお祝いするために、初めて教会に来られた方がおられるようです。ともにクリスマスを祝い、ともに祈ることを感謝いたします。ようこそお出でくださいました。
 今朝、御聖堂のドアを開けて一歩外に出て空を見上げました。月がくっきりと目にとびこんできました。久しぶりに見る夜明けの月にみとれていましたが、よくよく空を見ていると星もいくつか輝いているのも気づきました。寒さを一瞬忘れる久しぶりの朝焼けの空でした。星も出ているので、あわてて部屋に戻ってカメラを持ち出して、外に出て写真を記録しました。クリスマスの喜びをカメラに写すような気分でした。
 イヴの大雪の後の穏やかな天気。昨日の夜にミサに来られた方に伺ってみますと、自宅から4時間かかって教会に来ました、そう言う声も昨日は聞かれました。歩くのも、車で来るのも大変という中、私たちはこのクリスマス、主の降誕を祝っています。そして、キリスト教徒ではないけれど「メーリークリスマス」と乾杯した人も昨日は多かったのではないでしょうか。また、今日もそういう乾杯をする人がたくさんいると思います。

  日本ではいつからクリスマスをお祝いしているでしょうか。考えたことがあるでしょうか。少し調べてみました。日本では室町の戦国時代にまで遡ります。1552年に現在の山口県山口市の教会で降誕祭のミサを行ったという記録が残されています。その記録が日本で降誕祭を祝ったという証しがあります。当時はイエスの誕生のことを「ナターリス」という呼び方をしたそうです。ナターリスというのはラテン語。そしてラテン語で「誕生」という意味だそうです。当時のキリシタンは「ナタラ」という呼び方をしていたそうです。こういう記録が残されています。日本に来ていた宣教師フロイスという人が手紙をしたためて、自分の国へ日本での宣教の様子をいろいろ書いています。そうした中にも度々、クリスマスのことが表されるようになったそうです。その記録の一部の文書はこういう表現がされています。『告白し、聖体拝領するために八里ないし十里の遠方から来ることもいとわず、篭や馬に乗って運ばれることも出来たのに、一同はその信心、信仰から徒歩でやってきたのである。』こういう表現、記録が見られます。八里ないし十里の遠方、今の時代は車で、タクシーで駆けつける状態ですが、随分長い距離を歩いて12月の寒い中、教会に来てクリスマスを祝った当時のクリスチャンの信仰が偲ばれます。でも、今年の大雪を考えると私たちも皆さんもきっと何時間もかかってやって来たということは、当時の人たちに通じるクリスマスを昨日、迎えていたのではと思っています。『信者の人たちはミサに与って幼子イエスの誕生の福音を喜びのうちに聞いていました。ミサの後、集めたお金で 食事の用意をし年長の信者が給仕をした。』こういう表現も記録の中に見られます。それはきっと私たちの現代のクリスマス・パーティの最初の状況を表しているのかもしれません。

  幼子イエスの誕生の福音の喜びを聞いていた。今日の福音は皆さんに喜びをもたらす福音の内容だったでしょうか。ちょっと今日のヨハネの福音は、「はじめにことばがあった。」との表現から始まりますが、ちょっとむずかしい。神学的、哲学的な内容の福音になりました。昨日のクリスマス・イヴの福音はそういう意味では、わたしたちが良く絵本などで見ているクリスマスの内容をしたためた福音が読まれています。皇帝アウグストゥスから登録をせよとの勅令がでて最初の住民登録が行われることになりました。当時の人々が住民登録をするために自分の出身地まで行かなければならなかった。マリアもヨゼフもダビデ家に属していたのでガリラヤの町ナザレからユダヤのベトレヘムというダビデの町へ上って行った。こういうお話が昨日のイヴの福音の内容です。ですから、皆さんが小さい頃から絵本などでクリスマスのお話を聞いた内容は、昨日のイヴの福音の中で語られていることです。そういう登録をするためにマリアとヨゼフはお腹が大きい状態でしたが旅をすることになりました。そして、その旅の途中で幼子イエスが誕生することになったというのが、昨日読まれたルカの福音のお話です。

  クリスマスをどのように感じ、どのように祝うかはその時代時代によって大きく変わってきているようです。聖書の物語からつくられたクリスマスに飾られる馬小屋、私たちの教会もそちらに飾られていますが、これは聖書に書かれている内容を想像しながら造られた飾りです。私たちは教会で一般的に馬小屋という表現をとっています。飼い葉桶に寝かされた幼子の傍にはお父さん、お母さんであるヨゼフとマリアが、その幼子を見守っているのが馬小屋の光景になります。何故、神の子イエス・キリストは馬小屋で産まれたのか。クリスマスを祝う時にそうしたことは忘れてしまってお祝いをしているような気がしますが、それも昨日のイヴの福音の中で語られていました。誕生間近にして旅をしなければならなかったマリアはベトレヘムに来て宿屋も無く、夫のヨゼフは慌てて準備をしようとしたのですが、見つけたところは暗く冷たい馬小屋であった。そこは暗くて不衛生なところ。貧しい場所で神の子が産まれるということは誰が想像したでしょうか。不衛生、汚くて暗くて寒くて、そこに幼な子神の子が誕生するはめになります。旅の途中であったということは、大変なことでもあった。私たちはそうしたことをクリスマスに思いを馳せながら、私たちの社会、私たちの周りを見つめたとき、同じような状況におかれている人がたくさんいるということを気づかされます。難民と呼ばれる人たちはまさにそういう状況の中に、今もおかれているのではないでしょうか。そういう状況を知ることによって、このイエスの誕生はさらに大きな感謝と大きな喜びになるような気がします。そして、私たち一人ひとりがそのことを深く見つめること、理解することによって、私たちの周りをさらに見つめる機会にもなっていきます。
  このクリスマスの一日、家族の中にある悲しみ苦しみを抱えながらも主の降誕を迎えている人はたくさんいると思います。私たちの教会の中においてもつい最近、家族の大切な一人を亡くされた方がいます。悲しみを抱えながらも主の降誕を祝う人たちが、そういう状況の中で本当に周りにたくさんいるのではないでしょうか。病気の人も自分の苦しみと闘いながら、主の降誕を祝っているでしょう。
  外へ目を向けてみるとつい先日、新潟県の糸魚川市で大火がありました。突然の出来事で本当に驚きながらも、ひもじさの中で今日のクリスマスを迎えている人がいると思います。さらに外国に目を向けると、テロに怯える映像がたくさん私たちに見えてきます。そして、それぞれの国の中における内戦。紛争が続いていて何百万人という難民が私たちの世界にはいるという現実もあります。

  父なる神は幼な子を通して私たちの歩むべき道を示そうとしているのではないでしょうか。クリスマスを祝いながら私たちの現実を見つめ、感謝と喜びのうちに、私たちは周りの人と本当に平和を築いていかなければならない。そんな思いが強くされます。地には平和が訪れますように。御心の適う人に幸せがきますように。天使の賛美の声が夜空にこだましたと聖書は告げています。その天使の賛美の声、祈りが私たちの心からの祈りに重なっていきますように。そして、隣人と世界中の人々の心に私たちの祈りが届き、世界中の人の幸せに繋がっていきますように。喜びのクリスマス、イエス・キリストの誕生を語る聖書のお話は、大変な家庭の姿を描いています。それは旅の途中で我が子を出産しなければならないという大変な状況でもありました。クリスマスはいっけんロマンチックな物語のように捉えらる人が多いと思いますが、けっしてロマンチックな夢物語ではありませんでした。神は現実のドロドロした生活をしっかりと受けとめてくださっているというのが証言でもあるような気がします。その神の愛、キリストの誕生を祝うのが私たちの本当のクリスマスになるのだと思います。

 クリスマスそれは、父である神の心からの感謝を捧げる日になるのではないでしょうか。今日、私たちはもう一度心に留めながら、私たちの幸せに感謝し、そして私たちの幸せが周りの人にも分かち合うことが出来ますように。そうしたことを祈りながらこのミサを捧げ、また  新しい1年もその幸せに繋がっていくように、ともに祈りたいと思います。』

2016年12月25日日曜日

降誕祭ミサ(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます。


12月24日(土)午後7時から、カトリック北一条教会(札幌教区司教座聖堂)において、
ベルナルド勝谷太治司教様の司式により、降誕祭ミサが行われました。




札幌は前日まで、50年振りとなる大雪に見舞われましたが、聖夜の夜は穏やかな天候に恵まれ、聖堂は400名以上の方々で埋め尽くされました。
教会に所属する信徒の他に、外国人ツーリストの方々もたくさん訪れていました。

聖堂の照明が消され、ローソクを持った侍者が先導する中、勝谷司教様が幼子イエス様の御像を抱き入場しました。



祭壇前に御像が安置された後、入祭の歌「やみに住む民は光を見た」が歌われる中、侍者のローソクの火は会衆の持つローソクへと移され、聖堂はやがて仄かな明かりに満たされました。



勝谷司教様は、お説教の中で、
今年一年の自身が経験されたフィリピンでの出来事と、バチカンでの「正義と平和協議会」会議を振り返り、教皇フランシスコの回勅を引用しながら、平和は決して武力では得られない、平和への道は一人一人の家庭が出発点になる、と訴えかけられました。


ミサが終わった後、子どもたちによる聖歌の合唱が行われました。


隣接するカテドラルホールでは、祝賀会が行われました。





2016年12月12日月曜日

待降節第3主日

待降節第3主日を迎えました。

教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。
ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日、待降節第3主日。教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。 ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。紫の待降節の季節の中で、教会によっては待降節第3主日にバラ色の祭服を着るところもあるようです。北一条教会ではバラ色の祭服は用意されていませんので、いつもの紫色の祭服を着ています。4本のロウソクをそのようなかたちで色を付けている教会もたくさんあるようです。昨日は円山教会の共同回心式でしたが、4本のうち1本はピンク系統のロウソクが置かれていました。その前には真駒内教会にも行きましたが、やはり同じようなロウソクを使っていました。  

  喜びの主日。私たちにとって喜びの主日になっているでしょうか。今日、大雪のなか、教会に足を運んだ皆さんには喜びの主日になっているのではないかと思います。がんばって教会に行こうと思ったけれど、バス停までの大雪の道を考えたら、今日はちょっと出かけられない というお年寄り、病気の方もたくさんおられたのではないでしょうかか。
  今日の入祭唱では、喜びの主日に見合ったみ言葉が述べられています。私たちは、入祭の歌を歌いましたから、入祭唱の言葉を味わっていませんが、「聖書と典礼」をみますと2ページの下にその言葉を味わうことができます。どうぞ、今日は「聖書と典礼」を持ち帰られて、その喜びの主日を心にとめて、今日のみ言葉をこの1週間、繰り返し、繰り返しみ味わってみてはいかがでしょうか。入祭唱の言葉は「主にあっていつも喜べ、。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ4:4-5)こういうみ言葉が用意されていました。今日のイザヤの預言も「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ」という言葉で始まっています。さらに今日の福音もその内容は、期待や希望を持たせる「喜び」のテーマが流れているような気がします。
 今日の待降節第3主日の全体のみ言葉を黙想するとそこには 、基本的にテーマは「喜び」ということがあげられるような気がします。それはまた、御降誕を前にした主における喜びではないでしょうか。私たちにとっての主の降誕、クリスマス、少し安易に流れてしまう、そういうクリスマスを迎える、そういう人がいるような気もいたします。
 喜びとはどういうことを言うのでしょうか。私たち一人ひとりも喜び、それはどういうことなのか、もう一度考えてみても良いような気がします。そして、クリスマスを迎える為に私たちが成すべきことは何でしょうか。待降節の中日(なかび)を迎えて、さらに準備の日々を過ごしたいと思います。

  待降節に入って聖書をとおして呼びかけられた言葉、どんなことを皆さんは思い出すことが出来ますか。「目を覚ましていなさい。思わぬ時に人の子は来る。回心せよ。天の国は近づいた。」いろんなメッセージが私たちの耳に響いていました。心からの平和と救いを願い求める時代に、洗者ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という呼びかけの言葉に、イスラエルの民は自分たちの歴史を顧みながら祈り続けています。これまでの苦しい旅する教会の姿をとったイスラエルの民にとって、その呼びかけの言葉は、大きな希望をもたらすような気もいたします。人々はヨハネの言葉を聴いて、いよいよそういう時が自分たちのもとに近づいたんだという意識もきっと持たれたと思います。罪を清めるためにある人々はヨルダン川の水に浸り清めの洗礼を受けます。ヨハネの言葉には無味乾燥した、いっけん何もないかのような砂漠や荒地に花が咲くときが訪れ、そういう希望をもたらす喜びのメッセージがあったようです。私たちは毎年そういうみ言葉を聴いていますが、私たちは呼びかけの言葉にどのくらい希望を見いだしているでしょうか。私たち現代に生きる人間にとっては、ヨハネの言葉は少し自分たちの心にはあまり響いていないのかもしれません。2000年前のイスラエルの民にとって、渇いた砂漠や荒野は自分たちの目の前に広まる大自然でした。いっけん暗闇にも見える砂漠の中にひと雨があれば、そこから植物は大地から芽吹き成長し、花を咲かせる大自然の神秘を経験したと思います。
 私たち日本人には、そういった砂漠や大自然は、ほとんど縁がないため想像がつかないかもしれません。イスラエルの砂漠の中に小さな小さな植物が一滴の水だけでも、命の元気を大きく開かせて成長すると言われます。普段は渇いてずっと縮こまっているようですが、一滴の水で大きく命は蘇るといわれます。そういう大自然の中で自分たちの歴史にも重ねてヨハネの言葉を聴くときに、今度こそ大きな喜び、平和が訪れるという期待が高まったんだと思います。目覚めよ、思わぬ時に人の子は来るとは、まさにそんな時を連想させたのだと思います。何よりも神の約束が成就すると信じてきた民にとって、救い主によって願い求めてきた祈りが実現に向かう。悲しみ嘆きは私たちの生活から消え去る。そういう信仰、期待、確信があったようです。私たちはそういうイスラエルの民の信仰を黙想しながら、考えながら私たちの待降節の日々を過ごし、大きな喜びの日を迎えたいと思っています。

  牢屋に閉じ込められていたヨハネは、キリストの噂、み業を伝え聞きます。そして、イエスのもとに自分の弟子を送って質問します。「来るべき御方はあなたですか。それとも他の方を待つべきでしょうか。」そのヨハネの弟子の質問に対して、イエスは旧約聖書のイザヤの預言の言葉をもって答えます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人には福音が告げ知らされる。」。ひとつの解釈は、まさにご自分が預言の実現者である。また、ヨハネは正義の救い主を期待していますが、囚われの牢屋の中で聞くその噂は、キリストが慈悲深い愛の人であると聞いたことによって、正義の救い主というイメージを大きくします。正義の救い主、それは、愛の救い主であることでもあるようです。イエス・キリストは正義の方であると同時に完全な愛の方でもありました。でも、当時の人々は正義を優先するのか、愛を優先させるのか、そのようにどっちにしか考えられない人も多かったようです。それはある意味でキリストに対するつまずきの始まりでもありました。自分たちを解放してくれる、社会を解放して私たちの生活を少しでも楽にしてくれる、力ある権威あるリーダーである。そういう期待のほうが政治的な現実的な世俗的な期待だけをふくらませていた人にとっては、おおきなつまずきが後にやってくるようです。期待したその人は無残にも十字架の上で人からあざけりを受け、亡くなってしまう。

 今、私たちが生きる現代は、ヨハネの生きた時代とは余りにも違いがあるかもしせません。私たちの毎日に思いどおりにならないことがたくさんあるという点では、昔も今も変わらないかもしれません。喜びよりも悲しみの方が多い毎日であると感じている人もたくさんいる私たちの社会です。自分の小ささ、自分の努力がやるせない気持ちにさせている現実を私たちはたくさん見てきています。自分自身も経験します。
 喜び踊れ。この招きは絶望の淵に立つ、ぎりぎりの人間のもろさの中で愛の神が差し伸べてくる御手を感じることができる言葉です。私たちはもう一度、今日の「喜びの主日」にあたって喜びの心を私たちの心にも取り戻したいと思います。この喜びの招きはほって置けば消え失せる世界にあって、私たちを支え満たしてくれる神の招きでもあるとも思います。ヨハネのようにひたむきに神を渇望し、神の訪れを待ち続けるとき、私たちのために、私たちに近づいてくる神の姿を感じることができるのではないでしょうか。ひたすら待ち続けることによって、神の喜びが私たちのもとにやってきます。
  待降節も半ば残すところ 2週間となりました。自分の無欲を体験する現実の生活の中で、 神の訪れが真の喜びになるように、私たちも主に信頼をおいて、幼子イエスを待ち続ける日々を今日からまた歩みたいと思います。』

2016年12月4日日曜日

待降節第2主日

待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。

「悔い改めよ」と呼び掛ける洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。

聖堂に飾り付けられた馬小屋です。



後藤神父様のお説教をご紹介します。



『待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。このローソクの火を見ていると、クリスマスが近づいてくることが実感されます。
12月に入り、気忙しい季節となりましたが、皆さんはどのような気持ちでこの12月を迎えているでしょうか?今日の福音の中でも「悔い改め」という言葉が出てきていますが、昨日は真駒内教会で共同回心式が行われていました。昨日は北11条教会でも「虹の会」の集いがあったそうですし、こちらの教会ではカリタス家庭支援センターのチャリティコンサートが行われ、他の教会からも沢山の方がみえていました。真駒内教会の近藤神父様は昨日の共同回心式の参加者の少なさを嘆いておられましたが、他の行事と重なったことを話すと信者さんたちの忙しさも少し理解されたようでした。いずれにしても、共同回心式は待降節のなかにあって、私たちが準備をしていく上で、とても大切な儀式になっています。今週の土曜日は山鼻教会で、来週は北26条教会でそれぞれ共同回心式が行われることになっています。私たちの教会では共同回心式の計画はありませんでしたが、信徒の一人一人が回心のひとときを過ごすことができるように、個人告解はいつでもできますので、私に声掛けをして、赦しの秘跡や恵みを受けることを改めてお伝えしておきます。

さて、昨日の12月4日はフランシスコ・ザビエルの祝日を迎えていましたが、皆さんはそのことを思い起こしていたでしょうか。私たち日本の教会にとってフランシスコ・ザビエルは日本宣教の保護者として、私たち日本人信徒の信仰の上では切っても切れないご縁のある方です。今日は、「宣教地司祭育成の日・献金」ですが、今年6月の定例司教総会で「宣教地召命促進の日」と名称が変更されました。日本ではザビエルを始め、海外から多くの宣教師が来て、キリスト教の信仰をもたらしました。現在の信徒数に対して、司祭の数がとやかく言われる時代が来ました。司祭が少なくなったという話もよく聞く話です。キリストを知らない人の数を考えると、もっと司祭がいてもいいと考えることもできますが、急に増える状況ではありません。そういう意味では、いつも言われているように、私たち一人一人が宣教の使命を担っているということが益々大切になると思います。そのような意味でも、この日の献金はローマに送られて全世界の宣教地の司祭育成のために使われることになりますので、改めてご協力をお願いします。

「宣教」について少しお話をしたいと思います。
私たち日本の国では今やクリスマスは、社会行事になったように思えます。嬉しい反面、ちょっとそれでいいのかな、という思いもあります。美味しいケーキはクリスマスに用意されますけれど、そこに神様がおられるのか、イエス・キリストがそこにおられるのか、ということを少し考えてみる必要がありそうです。クリスマスを何のために祝っているのか?迎えているのか?
かつて私はお説教でも触れましたが、私は函館江差教会の出身ですけれど、江差教会での降誕祭の夜のミサで、信者さんが帰るときに私は何人かの人たちの送り迎えをしていたのですが、夜中の人の出入りを不審に思ったのでしょうか、警察が教会の前に来ていて尋ねてきたので、「今日はクリスマスなので」と答えたところ、「え?クリスマスは教会と関係があるんですか?」と言われ、私の方がとてもびっくりしたことがあります。世の中はそういうものなのかなと思っています。クリスマスは一般的に誰もがお祝いするようになってきていますが、本当のクリスマスになっていないということがいえるのだと思います。イエス・キリストが不在のクリスマスというものを私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか?
私たち一人一人もクリスマスを祝うということの本当の意味をもっと深く心に留めて、周囲の人と話す機会が出来るならば、そこから私たちの福音宣教も可能になっていくことだと思います。本当に意味のクリスマスを伝えるということだけでも大きな宣教になるのではないかと思います。

今日の福音でも、宣教する洗礼者ヨハネの姿が示されました。洗礼者ヨハネは宣教活動を開始するに当たってユダヤの荒れ野に赴いています。ちなみにイエス・キリストが公生活を始めて宣教を開始されたのはガリラヤでした。宣教の始まり、それは決して人が大勢いる都会であると考える必要はないと思います。大切なことは、一人一人の心に語りかけられることが大切ではないでしょうか。どんな人の心にも神様の訪れが近づいているということを伝えることだと思います。

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ!」という言葉から始めています。最初から神の言葉を語り伝えているのではなく、一人一人の心を見つめさせ、回心を促し、神に心を向けさせていく洗礼者ヨハネに私たちも習いたいと思います。
まず心を洗われること、そして新しい生き方があるのだということを知ってもらい、そこから神への道、神に至る道が始まっていくということでもあるということ。
「回心せよ!」との洗礼者ヨハネの声は、私たち現代社会にも響いてくると思います。それは欲望に取りつかれ争いの絶えない社会が今日あり、また人間性を無視する犯罪が毎日のように起こる私たちの社会でもあります。さらには食料不足で命を失くす世界もある、命の軽視で罪のない幼い子供の命が奪われる事件が絶えることのない現実があり、心を痛める私たちですが、時には出来ることから始めなければという思いも強くしています。でもそのような思いはなかなか現実の行動に繋げることは簡単ではありません。
待降節を迎えて、まず私たちは自分自身の心を振り返り、自分自身を深く見つめ、回心することから始めないとならないようです。
人から受け入れられないことは、誰にもつらいことです。人間関係で思いや心に、何か食い違いを起こしていることも、つらいことではないでしょうか。何を始めなければならないのか、何を改めなければならないのか、それが回心につながってくることではないかと思います。
「キリストに向って、同じ思いを抱かせてくださいますように」と、思いや心の深いところで一つになることは、希望の光や愛の心をもたらすはずです。

洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。』