2016年12月12日月曜日

待降節第3主日

待降節第3主日を迎えました。

教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。
ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日、待降節第3主日。教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。 ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。紫の待降節の季節の中で、教会によっては待降節第3主日にバラ色の祭服を着るところもあるようです。北一条教会ではバラ色の祭服は用意されていませんので、いつもの紫色の祭服を着ています。4本のロウソクをそのようなかたちで色を付けている教会もたくさんあるようです。昨日は円山教会の共同回心式でしたが、4本のうち1本はピンク系統のロウソクが置かれていました。その前には真駒内教会にも行きましたが、やはり同じようなロウソクを使っていました。  

  喜びの主日。私たちにとって喜びの主日になっているでしょうか。今日、大雪のなか、教会に足を運んだ皆さんには喜びの主日になっているのではないかと思います。がんばって教会に行こうと思ったけれど、バス停までの大雪の道を考えたら、今日はちょっと出かけられない というお年寄り、病気の方もたくさんおられたのではないでしょうかか。
  今日の入祭唱では、喜びの主日に見合ったみ言葉が述べられています。私たちは、入祭の歌を歌いましたから、入祭唱の言葉を味わっていませんが、「聖書と典礼」をみますと2ページの下にその言葉を味わうことができます。どうぞ、今日は「聖書と典礼」を持ち帰られて、その喜びの主日を心にとめて、今日のみ言葉をこの1週間、繰り返し、繰り返しみ味わってみてはいかがでしょうか。入祭唱の言葉は「主にあっていつも喜べ、。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ4:4-5)こういうみ言葉が用意されていました。今日のイザヤの預言も「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ」という言葉で始まっています。さらに今日の福音もその内容は、期待や希望を持たせる「喜び」のテーマが流れているような気がします。
 今日の待降節第3主日の全体のみ言葉を黙想するとそこには 、基本的にテーマは「喜び」ということがあげられるような気がします。それはまた、御降誕を前にした主における喜びではないでしょうか。私たちにとっての主の降誕、クリスマス、少し安易に流れてしまう、そういうクリスマスを迎える、そういう人がいるような気もいたします。
 喜びとはどういうことを言うのでしょうか。私たち一人ひとりも喜び、それはどういうことなのか、もう一度考えてみても良いような気がします。そして、クリスマスを迎える為に私たちが成すべきことは何でしょうか。待降節の中日(なかび)を迎えて、さらに準備の日々を過ごしたいと思います。

  待降節に入って聖書をとおして呼びかけられた言葉、どんなことを皆さんは思い出すことが出来ますか。「目を覚ましていなさい。思わぬ時に人の子は来る。回心せよ。天の国は近づいた。」いろんなメッセージが私たちの耳に響いていました。心からの平和と救いを願い求める時代に、洗者ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という呼びかけの言葉に、イスラエルの民は自分たちの歴史を顧みながら祈り続けています。これまでの苦しい旅する教会の姿をとったイスラエルの民にとって、その呼びかけの言葉は、大きな希望をもたらすような気もいたします。人々はヨハネの言葉を聴いて、いよいよそういう時が自分たちのもとに近づいたんだという意識もきっと持たれたと思います。罪を清めるためにある人々はヨルダン川の水に浸り清めの洗礼を受けます。ヨハネの言葉には無味乾燥した、いっけん何もないかのような砂漠や荒地に花が咲くときが訪れ、そういう希望をもたらす喜びのメッセージがあったようです。私たちは毎年そういうみ言葉を聴いていますが、私たちは呼びかけの言葉にどのくらい希望を見いだしているでしょうか。私たち現代に生きる人間にとっては、ヨハネの言葉は少し自分たちの心にはあまり響いていないのかもしれません。2000年前のイスラエルの民にとって、渇いた砂漠や荒野は自分たちの目の前に広まる大自然でした。いっけん暗闇にも見える砂漠の中にひと雨があれば、そこから植物は大地から芽吹き成長し、花を咲かせる大自然の神秘を経験したと思います。
 私たち日本人には、そういった砂漠や大自然は、ほとんど縁がないため想像がつかないかもしれません。イスラエルの砂漠の中に小さな小さな植物が一滴の水だけでも、命の元気を大きく開かせて成長すると言われます。普段は渇いてずっと縮こまっているようですが、一滴の水で大きく命は蘇るといわれます。そういう大自然の中で自分たちの歴史にも重ねてヨハネの言葉を聴くときに、今度こそ大きな喜び、平和が訪れるという期待が高まったんだと思います。目覚めよ、思わぬ時に人の子は来るとは、まさにそんな時を連想させたのだと思います。何よりも神の約束が成就すると信じてきた民にとって、救い主によって願い求めてきた祈りが実現に向かう。悲しみ嘆きは私たちの生活から消え去る。そういう信仰、期待、確信があったようです。私たちはそういうイスラエルの民の信仰を黙想しながら、考えながら私たちの待降節の日々を過ごし、大きな喜びの日を迎えたいと思っています。

  牢屋に閉じ込められていたヨハネは、キリストの噂、み業を伝え聞きます。そして、イエスのもとに自分の弟子を送って質問します。「来るべき御方はあなたですか。それとも他の方を待つべきでしょうか。」そのヨハネの弟子の質問に対して、イエスは旧約聖書のイザヤの預言の言葉をもって答えます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人には福音が告げ知らされる。」。ひとつの解釈は、まさにご自分が預言の実現者である。また、ヨハネは正義の救い主を期待していますが、囚われの牢屋の中で聞くその噂は、キリストが慈悲深い愛の人であると聞いたことによって、正義の救い主というイメージを大きくします。正義の救い主、それは、愛の救い主であることでもあるようです。イエス・キリストは正義の方であると同時に完全な愛の方でもありました。でも、当時の人々は正義を優先するのか、愛を優先させるのか、そのようにどっちにしか考えられない人も多かったようです。それはある意味でキリストに対するつまずきの始まりでもありました。自分たちを解放してくれる、社会を解放して私たちの生活を少しでも楽にしてくれる、力ある権威あるリーダーである。そういう期待のほうが政治的な現実的な世俗的な期待だけをふくらませていた人にとっては、おおきなつまずきが後にやってくるようです。期待したその人は無残にも十字架の上で人からあざけりを受け、亡くなってしまう。

 今、私たちが生きる現代は、ヨハネの生きた時代とは余りにも違いがあるかもしせません。私たちの毎日に思いどおりにならないことがたくさんあるという点では、昔も今も変わらないかもしれません。喜びよりも悲しみの方が多い毎日であると感じている人もたくさんいる私たちの社会です。自分の小ささ、自分の努力がやるせない気持ちにさせている現実を私たちはたくさん見てきています。自分自身も経験します。
 喜び踊れ。この招きは絶望の淵に立つ、ぎりぎりの人間のもろさの中で愛の神が差し伸べてくる御手を感じることができる言葉です。私たちはもう一度、今日の「喜びの主日」にあたって喜びの心を私たちの心にも取り戻したいと思います。この喜びの招きはほって置けば消え失せる世界にあって、私たちを支え満たしてくれる神の招きでもあるとも思います。ヨハネのようにひたむきに神を渇望し、神の訪れを待ち続けるとき、私たちのために、私たちに近づいてくる神の姿を感じることができるのではないでしょうか。ひたすら待ち続けることによって、神の喜びが私たちのもとにやってきます。
  待降節も半ば残すところ 2週間となりました。自分の無欲を体験する現実の生活の中で、 神の訪れが真の喜びになるように、私たちも主に信頼をおいて、幼子イエスを待ち続ける日々を今日からまた歩みたいと思います。』