2017年11月26日日曜日

王であるキリスト

今週で今年の典礼暦は終わり、来週からは新しい暦とともに待降節が始まります。

待降節第1主日の12月3日は、クリスマスを迎える準備として、馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行います。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日のミサには、フィリッピンの巡礼団が多数参加しています。これらの方にも主の豊かな祝福があるよう共に祈りましょう。
  今日のミサで一年の締めくくりである「王であるキリスト」の祭日を迎えたことになります。来週からは、新しい典礼歴(B年)に入ろうとしています。待降節がやってきます。先週の説教の時にひとこと触れましたが、聖書週間は今日で終わります。皆さんはこの一週間の中で、み言葉に触れ、祈ることが出来たでしょうか。聖書を開く機会があったでしょうか。聖書に触れる、み言葉に触れることはこれからも大切なことになります。
 
 さて、イエスの最後の説教といわれる「最後の審判」のことが私たちに語られています。一年の最後の主日を迎える中で私たちは、毎日曜日にイエスと弟子たちの宣教の姿をイメージしながらみ言葉に耳を傾けてきました。そういう意味では、今日の福音はイエスの弟子たちに向けた総決算の言葉とも言えるでしょう。
  第一朗読のエゼキエルの預言で、神である牧者は羊の群れを養い、導くように尋ね求め、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものを滅ぼして裁きのためにくる。牧者はそういう方である、と話しています。 
 神の裁きについては、良くご存知のように新約聖書の一番最後「ヨハネの黙示」で語られています。キリストが万物の王であるといわれているように、最後の日には栄光の座に着かれる王といわれるように、もっとも権威ある審判者として現れています。その方は人の子であり、王であることを今日のマタイ福音書は告げています。歴史の終わり、終末にはキリストがはっきり自らを現される。そして、万物は神の前に膝をかがめる。このとき裁きが行われ、その裁きはもっとも小さい人々に対する愛の行いで裁かれるということも話されています。

  小さな人々。先週、教皇様のメッセージをお話しをしましたが、教皇様も貧しい人のために、世界中で祈って欲しいとメッセージを流され、日曜日はその日に当たっていました。教皇様も聖書からくる貧しい人、小さな人、弱い立場にある人を大切にしましょう。私たちはもっとそういう人たちに向き合っていきましょう。その人たちと共に歩ける、そういう世界つくりあげていきましょう。そういう呼びかけをしています。
 そういうメッセージを心に留めながら、今日のみ言葉を黙想するときに、私たちは一人ひとりの生きざま、行動がどうであったか問われるような気がいたします。キリストを信じ、キリストに従って生きているはずの私たち信者一人ひとりもまた、み言葉が示している裁きの前に立たされ、私は右側に招かれるのだろうか、左側に置かれるのだろうか。私たちは福音をとおして考えざるを得ないと思います。
 主イエスが羊の世話をする牧者としての王であって、御父に全支配を返す僕として私たちは今日のみ言葉を黙想します。そのような中、愛徳について何よりも大切と考えている私たちの行い、行動、日々の生活はどうなっていたでしょうか。王の右側に立つか、左側に置かれるか。真剣に考えると震えがくるような気がします。もう一度、私たちは神の前に、キリストの前に相応しい生き方を考えるようにと、今日の福音は語りかけていると思います。
  十分に理解しているはずの私たちの信仰者としての生き方。何度も聖書の話しを聴き、その内容を理解し、その場面に立たされるような思いを持って、いつもみ言葉に繋がっています。でも、私たちの愛は、私たちの奉納は、考え方は必ずしも神さまの御旨に適う生き方から外れることも度々あります。自己満足や自己の欲望を満たすほうに日々歩む私たちでもあります。   
 王であるキリスト。私たちは王のイメージをどのように捉えているでしょうか。私が子供時代は本や映画やいろんなところで王様の存在が身近だったような気がします。今はピンとこない感覚が私の中にあります。特に日本人はイメージが乏しいような気がします。安倍総理は王とは思えないし、天皇も王様とは見えてきません。一方、外国の国といっても十分理解出来ませんが、王様というイメージは見えてくるような気がします。王様はそれぞれの国、それぞれの民族の中にあったとしても、神さまの御旨を生きる王様はほとんどいないような気がします。テレビで時々、素晴らしいニュースが流れてきます。素晴らしい人の生き方、考え方、行動。そういうものに触れていくと感動sます。よほど私たち神を信ずるものよりも、立派な生きかたをしている。社会のために、隣人のために自分を中心にしてではなく、奉仕する生き方をしている。つい最近のニュースで皆さんも聞いているかもしれません。アフリカのジンバウエで独立以来40年近くにわたって国の実権を握り続けた、英雄として讃えられていた(ムガベ前大統領)が40年経って93歳、世界最高齢の独裁者。その高齢でどこまで仕事が出来るのか。自分の限界を知って52歳の若い妻に権力を与えようと表明したそうです。かつては英雄と讃えられた人が、今の時代では独裁者としか呼ばれない。こんな中、自分の妻に権力を譲ろうとした。国際的な非難も受けていました。そして、自分の地位を降りることを表明しました。国民は大喜びとのニュースが流れてきました。その国の王様のような存在であったといえるでしょう。国民の誰からも信頼できなくなってしまった。今日の福音もいろいろ考えさせられます。

 私たち一人ひとりはどうなんだ。私たちの周りの隣人にどうであったか。人様の非難をしているときではない。政治的な権限を持って国を治める時には、小さい人、弱い立場にある人を軽んずることがないよう努力をしていると思います。すべてにそれを奉仕することは難しいことは誰もが知っています。今日のみ言葉と比較しながら、私たち一人ひとりの生き方をもう一度見つめましょう。私たちの周りから小さき人々の悲しみの涙が少なくなりますように。イエスが話されている「もっとも小さい者の一人にしなかったことは、私にしてくれなかったことである。」ということで、裁かれることのないように。

 主の再臨と最後の審判。そこにだけ目を向けると、恐ろしいことばかりが私たちの心の中を支配してしまいがちですが、恐れの対象としてこの話しを聴くのではなく、隣人愛と弱い立場にある人を大切に生きるように、そして喜びと希望のうちに生きることが出来るように、あなたがたも心をもう一度見つめ直しなさい、そういう聖書のお話しとして聞くことが出来る。
 待降節を間近にしています。新しい1年、貧しい人とともに歩める、私たち一人ひとりに成長することが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で祈りたいと思います。』

2017年11月19日日曜日

年間第33主日 「貧しい人のための世界祈願日」

教皇フランシスコの意向により、年間第33主日は「貧しい人のための世界祈願日」として、ミサの中で共同祈願が捧げられました。

『ご自分を小さい者や貧しい者と等しい者とみなされたキリストに倣い、わたしたちも、貧しい人、弱い立場にある人に寄り添い、奉仕するよう求められています。
 不平等や不正義のない世界の実現に向けて、具体的なわざを通して神のいつくしみのあかし人となれるよう、祈り求めていかなければなりません。』
(「貧しい人のための世界祈願日」とは? カトリック中央協議会HPより抜粋)

この日の後藤神父様のお説教では、教皇様のメッセージを中心にお話されました。



御ミサの後、
 この日(「貧しい人のための世界祈願日」)の理解を深めようと、ホームレスへの炊き出し支援団体「みなずき会」の活動に参加している、当教会のメンバーから活動の内容、ホームレスの現状などについてお話しをしていただきました。
 
 死者の月の勉強会第2弾「小田神父様DVD視聴会」をミサ後に開催し約40~50名ほどの方が約2時間、研鑚しました。テーマは①通夜と葬儀でカトリック教会が大切にしていること。②家族葬(密葬)、直葬とは。



2017年11月12日日曜日

年間第32主日 「秋の大掃除」

典礼は、今日から「終末主日」と呼ばれる期間に入ります。


今日は「秋の大掃除」の日でした。
主日ミサの後、聖堂とカテドラルホールの大掃除が行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今朝、駐車場の欅(ケヤキ)を眺めていました。かなりの枯葉が落ちています。再臨の時が分からないように、枯葉がいつすべてが落ちるのかなと、今日の聖書のお話しを少し思い出しながら考えていました。
  み言葉の世界に心を向けます。ちょっと大きな行事があると、私たち、教会では誰もが係りの人と相談しながら準備に入ります。準備を考えると行事に合わせ、ていろいろなことを考えます。こうしたらいいなあと思いがあるも、なかなか思うようにならないのが現実です。そう思うと、今日のたとえ話を考えても、いつも準備に一喜一憂する私たちにとって、とても身近なたとえ話になると考えます。
 相応しい準備はこの世のことばかりではなくて、いつの日か死を迎えて旅立ちをする日の 世の終わり、そして主の再臨の時まで考えされられる、今日のたとえ話しになります。その再臨の時に、「私はあなたがたを知らない。」と、天の国の門が閉ざされて入れなくなるという悲しみを、誰もが味わいたくありません。その準備を後回しにするのではなくて、常に良い準備をしておかなければならない。そのようなたとえ話が、今日私たちに語られます。

 天国についての3つの教えのひとつが、今日の花婿を迎える婚宴にたとえられて語られます。10人の乙女たちは、ユダヤの婚礼の習慣にしたがって、それぞれ準備をしていたことでしょう。でも、それぞれの結果が大違いになってしまいました。ほんの小さな考えの違いから、時には最終的に取り返しのつかない、悲劇的な結果があるということだと思います。愚かな乙女たちのような状況では、誰もがもうだめだと、そんなふうに考えて寝込んでしまうのではないでしょうか。取り返しのつかない結果を受け入れなければならないと考えるならば、悲しくもあり、また恐ろしくもあります。チャンとしないからと人ごとのように考えてはならないと自分にも言い聞かせます。
  イエスの再臨の時を考えるならば、私たちもイエスを迎える時に必ずやってくる。良い準備というのはイエスに信頼して、心を開いて日々を過ごす予備の油の準備。夜、灯りを灯すことが出来る油の準備を意味していると思います。そういう準備をしてイエスとの再会を待たなければならないのが私たちの現実。良い準備も出来ず、良い準備もしないで、そのとき委せではきっと誰もが後悔することになるのではないでしょうか。良く考え良い準備をし続けることを大切にしたいと思います。たとえその結果、が失敗に終わったとしても、自分なりに精一杯準備をした。その結果としたら、後悔は少ないのではないのでしょうか。良い準備もしないで、そのとき委せで悲惨な結果を受けたとすれば、誰もがああすれば良かった、こうすれば良かったと、後悔が先になるような気がします。
  良い準備。良いと言うことはまさに良いことである、そういう意味です。良い準備はたっぷり十分に時間をかけて、そのために準備をする、考えるということだと思います。良い準備をしてイエスに出会うことになる。良い準備が出来てこそ、またイエスに出会うことが出来る。でも私たちは、時に良い準備をしたとしても、したつもりでも思いがけないことに出会うことが良くあります。この世の中で、出来事はそういうことの連続かもしれません。でも、イエスに信頼して、良い準備をしているならば、神はけっして私たちを悲しませることはないでしょう。たとえ、良い準備の結果が自分の思い通りの結果でないにしても、私たち一人ひとりを愛してくださる。慈しんでくださる。私たちを導いてくださる神は、私たちを前を向いて歩けるように力を与えてくれるはずです。

 聖書ではユダヤの古い時代の状況を取り入れて、今日のたとえ話しが語られています。ユダヤの習慣ではいつも花婿を迎えるために、婚宴の準備をして迎えたようです。今日のお話しの中で、花婿の遅れたことへの非難はひとつも語られていません。花婿が遅れていなければ、こんなことにはならなかったと思っている人もいるのではないでしょうか。そのことについては触れられていません。
  聖書ではしばしばキリストが花婿として表現されます。そして、信徒の共同体である教会が、花嫁としてその関係を表します。花婿を迎える乙女たちとは、キリストを信じ、キリストを待つ私たち信者、共同体をも表しています。
 そして、聖書でいう賢い人、愚かな人というのはどういうことか少し考えます。賢い人…旧約聖書では神の教えや掟を認め、生涯忠実にそれに生きる人のことを賢い人というようです。律法学者やファリサイ派の人たちのことを思いおこすかもしれません。福音でも、神のみ言葉を聴きこれを実行する人。先週の律法学者にイエスが言われましたけれども、言うだけで実行しない人のように、口先だけで終わる人ではないことははっきりしていると。愛の掟の実践者を示してこそ、賢い人と福音では言われている。教えを良く理解して、それを生きる人が賢い人。教えは知っているけれど、それに反する行いをしたり、それを無視したり実行しない人は愚かな人になるようです。私たちはどうでしょうか。公教要理を学び、聖書の勉強をし、そして説教を聞きながら聖書の世界に触れていますが、私たちは理解したこと、学んだこと、それを実践出来ているでしょうか。私たちも愚かな五人の一人になっていることのほうが多いかもしれません。

 今日のお話しの背景には、弟子たちや群衆に話しているたとえ話しですが、先週のみ言葉で話されていたように、対立して襲いかかる律法学者やファリサイ派の人たちへの容赦ない痛烈な言葉として、また語られていると私は考えます。弟子たちに話していますが イエス自らが日々、今体験している律法学者たちの攻めに対して、何が大切かということを弟子たち、そして群衆に教え導いている、このたとえ話しです。良い準備をしなさい。目覚めていなさい。
 イエスを信じ  イエスとの出会いを待つ私たちです。でも、その時になって、知らないと言われることがないように、目を覚ましていなさいと諭しています。
  私たちの心、私たちの祈りは、ただみ言葉を大切にするということだけでなくて、そのみ言葉を生きる者となることが出来るように、今日も私たちは心に留めながら、このミサに与りたいと思います。』

2017年11月5日日曜日

年間第31主日

イエスは、名誉や権威を守ることに腐心する偽善的な行いや高慢な態度を厳しく戒め、仕える者になるように教えます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『「諸聖人」そして「死者の日」から11月が始まりました。皆さんはこのミサに入る前に回心の祈りを唱えましたが、この一週間を振り返りながら、皆さんはどんな回心の祈り、心を改める祈りをされたでしょうか?私は、そのようなことを今朝少し思い巡らしてみました。先週の日曜日の聖書のことばは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」まずそれが私たち信仰を生きるものにとって何よりも大切なことである。それに加えて、隣人を愛するというお話でした。私たちの信仰生活を振り返った時に、この一週間のうちにそれが活かされていたでしょうか?そんなことを考えると、私たちはたくさんの悔い改めの出来事を日々の生活の中で思い起こします。こうした思いを神様に清めていただいて今日のミサを捧げることはとても大切なことです。

今日の福音は、イエスと律法学者たちとの論争に続く場面が語られています。
律法学者やファリサイ派の人たちは、自分たちの名誉や権威を守ることを目的として「モーセの座」に立って教えています。そのような彼らの態度は、イエスの目には「偽善者」として映ります。今日読まれた聖書に続く箇所には「偽善者よ、あなたがたはわざわいである」というイエスのことばが続きます。
「モーセの座にすわっている」という言葉は、律法学者とファリサイ派の人々が教義を説き、律法を解釈し、執行する立場に置かれていたことを意味しています。律法学者とはモーセの律法を研究する法律家であり、ファリサイ派は宗教の教師でした。彼らは教義を教える時や聖なる時間を過ごす際には、特別な装束を身に着けていたようです。その一つには、聖句箱とよばれる聖書の中でも大切な言葉が書かれた経札が入れられた小箱を額に着けていました。それは、主と一つであるという姿勢や、心が常に神の律法に向けられていることを表すためのものでした。これらを身に着けて「モーセの座」に立って教えている時には批判を受けることはありませんでした。しかし、イエスは彼らに向って、本当に神に心を向けているのか?と厳しく咎めたのです。経札を偽善的に使用したり、注目されるために箱を大きくしたりと、そのような行いを決して見倣ってはならないと弟子たちや群衆に話しました。見かけは熱心に祈っていても、神様への畏敬や感謝の心がこもっていないなら何もしないのと同じことであると、彼らの行いの伴わない高慢な態度を批判しました。私たち司祭もイエスが批判した彼らと同じような仕事をしています。知らず知らずのうちに高慢な態度を行使しないとも限りませんので、皆さんのお祈りや支えもお願いしたいと思います。

人間の集まる世界には必ず、権威が現れ、指導者も必要になってくるようです。教会にとどまらず、学校にも、職場にも、また家庭にあっても父親や母親の権威と指導が子どもを育てる上では大切なことになります。
自分の思い通りに人を動かすことは精神的な快感ももたらします。権威を持つときには注意が必要です。
神に向う道であればなおのこと、傲慢な人ではなく謙虚な心を持って歩むことが求められるのです。
奉仕をするにしても指導をするにしても、個人的な自分の名誉のために行うことがないようにと、イエスは弟子たちをそして群衆を諭されています。そのうえで教師は一人、先生は一人、キリストの心を心として生きることこそ、私たちキリスト者の大切な心であると教えます。

私たち一人一人に与えられている神からの恵み、力、能力、そうしたものを人々への奉仕のために謙虚に用いることが出来るように、神への栄光に役立つものとなるように、今日改めて、私たち一人一人の思い・行動が、神のみ心に沿っているのかどうかを考えながら、今日のミサで祝福を祈りたいと思います。』