2022年5月27日金曜日

5月29日 主の昇天

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】


2021年5月29日 主の昇天の主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様


  今日の第一朗読は、ルカが描いた『使徒言行録』の箇所で、イエス様が天に昇った後の出来が事が描かれています。ところが、『福音』朗読では、イエス様の宣教活動の終わりが描かれています。つまり、第一朗読では、後で起こった出来事が、福音朗読では先に起こっている出来事が朗読されます。先のものが後になり、後のものが先になる、いわば逆転現象が起きています。ですから、かえってその違いを意識することができます。

  福音書では、イエス様は、ご自分の宣教活動について説明した後、エルサレムを離れないように命じています。それは、聖霊を受けるためでした。他方、第一朗読では、出かけていくように勧めています。それは、聖霊を受けるからです。福音書では、「あらゆる国の人へ」と福音宣教を命じていますが、その地域は抽象的に語られています。しかし、第一朗読では、「エルサレム、ユダヤ、サマリア、地の果てまで」とより具体的な地名を挙げています。更に、『使徒言行録』の内容を見ると、エルサレムから始まる福音宣教は、ステファノの出来事を介してサマリアでの宣教に移り、最終的にフィリポが当時の地の果てと思われていたエチオピアの高級官僚に福音を伝えることで、より具体的になっています。そして更に、スペインを目指したパウロを考えるにいれると、その広がりが、より現実味を帯びてきています。

  二つの朗読を結びつけているのは、聖霊の授与による福音宣教です。聖霊降臨の出来事を介して二つの朗読は、エルサレムに留まるか、出発するかが異なりますが、結局は宣教に出かけるよう呼びかけているのです。ここで面白いのは、二人の人、天使の存在です。おそらく空の墓にいた天使たちでしょう。二人は弟子たちに「なぜ天を見上げて立っているのか」と注意しています。今日的な言い方で表すと、「なぜボケーっと立っているのか」と注意していると理解していいでしょう。弟子たちは、強く福音宣教へと促されています。

  福音書では、福音宣教への促しは、イエス様自身がしていますが、その促しは「食事を共にしていた時に」です。これはミサを暗示していると言えるでしょう。そして、ミサと福音宣教が密接に結びついていることを示しています。『使徒言行録』では、来週記念する聖霊降臨、つまり聖霊の働きと福音宣教が、『福音書』より密接に結び付けられていると言えるかもしれません。それに引き換え、『福音書』ではミサにより密接に結びつけられていると捉えることができます。

  さて、私たちは、ミサに出た時に福音宣教を意識するでしょうか。自分が派遣されていると意識するでしょうか。聖霊の働きだけではなく、ミサにおいてもイエス様は、その都度、私たちを福音宣教に派遣しているのです。このことを私たちは強く意識したいものですね。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  あなたは御ひとり子イエスを、

  苦しみと死を通して栄光に高め、

  新しい天と地を開いてくださいました。

  主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。

  キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、

  ともに永遠のいのちに入らせてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 1章1~11節


 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、 イエスが行い、また教え始めてから、 お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、 天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、 御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、 四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、 父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、 あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 さて、使徒たちは集まって、 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、 この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、 あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、 雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 イエスが離れ去って行かれるとき、 彼らは天を見つめていた。 すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、 天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」




第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節、10章19~23節


 キリストは、まことのものの写しにすぎない、 人間の手で造られた聖所にではなく、 天そのものに入り、 今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 また、キリストがそうなさったのは、 大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、 度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。 ところが実際は、世の終わりにただ一度、 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、 現れてくださいました。 また、人間にはただ一度死ぬことと、 その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、 二度目には、罪を負うためではなく、 御自分を待望している人たちに、 救いをもたらすために現れてくださるのです。

 それで、兄弟たち、 わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、 つまり、御自分の肉を通って、 新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、 体は清い水で洗われています。 信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、 公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。




福音朗読 ルカによる福音書 24章46~53節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には)次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、 その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。 エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、 手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

2022年5月21日土曜日

5月22日 復活節第6主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ】

(5月22日)復活節第6主日 福音のメッセージ  「一致」  

松村繁彦 神父

今日の第一朗読では、ペトロを中心とした弟子たちの最初の会議、使徒会議(第一エルサレム公会議とでもいうのだろうか)が開かれたが、そこで議論となったのは、律法を厳格に守るべきかそうではないかという議論が中心であった。人間が集まるとどうしてもルールというものや基準になるものが必要となるし、人が増えれば統治するためには厳密にしていかなければ、後々面倒になるから決め事は、ある程度致し方ないことでしょう。

ただその場合、人間同士の議論だとどうしても「守る」か「守らないか」の間の二択で論争が起きてしまうが、今日の福音は第3の道を私たちに教えてくれているのではないだろうか。

「わたしを愛する人は、私の言葉を守る・・・父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」「・・・聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え。」「わたしは・・・わたしの平和を与える」

教会で「聖霊による識別」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。イエスは自らの平和を「世が与えるように与えるのではない。」ということから、違う導き方があることを教え、それが聖霊によることであることを知らせる。聖霊は一致へ導くものであって、分裂していたら「神不在」を示す。「神不在」ならば「愛不在」、誰かと一緒に居るのも嫌になる。

昔、高校生の時に練成会があり、同じ世代が大勢集まった。3泊かけていろいろと分かち合い、作業をしながら神様のことを話した。多感な時期ではあったが、「こんなに充実した時」「密度の濃い時間」を過ごしたのも初めてだった。わずかな時間なのに同じグループのメンバーの気持ちが手に取るようにわかり、互いの心が通じ、この時間「凝縮された時」と感じた。もっと長く続いたらと思った経験があった。まるで兄弟姉妹を通り越して一体となる経験。きっとその時聖霊の風が吹き、我々を一致に向かわせたのだろうと今も信じている。その時のグループのメンバーの心の向きようを考えながら今、現代社会ではどれだけ人々の心がバラバラだろうか。その人たちが一致の体験もしないで議論するのだから当然分裂するし、一般的な判断しかできないのだろう。

大事なことは、我々の心が共同体のために「神とともに住み」「言葉を超えて理解し」、そして「キリストの平和」にあずかり「聖霊に聞き従い判断する」こと。つまり「一致の体験」。神の愛に包まれたとき、その答えは「律法を守るか守らないか」ではなく、知らないうちに答えが導かれる。これは一人ではできない。

今回のペトロの回答は、「必要なこと以外に重荷を負わせない」こと「派遣されたものの言葉を聞くこと」。それは一人一人弟子となった私たちに、より愛を聞き・語り・派遣される力が与えられていることを、もっと信じるようにと言う私たちへのエールなのだろうと感じた。


【聖書朗読箇所】


主イエスの父である神よ、
  あなたはみことばと聖霊によってわたしたちの内に来られ、
  いつもともにいてくださいます。
  ここに集うわたしたちの心をキリストの平和と喜びで満たしてください
   集会祈願より



第1朗読 使徒言行録 15章1~2、22~29節

ある人々がユダヤから下って来て、
「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、
あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、
激しい意見の対立と論争が生じた。
この件について使徒や長老たちと協議するために、
パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、
パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。
選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、
兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。

使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。
「使徒と長老たちが兄弟として、
アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、
異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。

聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、
わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、
あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。

それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、
そちらに派遣することを、
わたしたちは満場一致で決定しました。

このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために
身を献げている人たちです。

それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、
彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。

聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、
一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。

すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、
みだらな行いとを避けることです。
以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」



第2朗読 ヨハネの黙示録 21章10~14、22~23節

この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、
聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、
天から下って来るのを見せた。

都は神の栄光に輝いていた。
その輝きは、最高の宝石のようであり、
透き通った碧玉のようであった。

都には、高い大きな城壁と十二の門があり、
それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。
イスラエルの子らの十二部族の名であった。

東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。

都の城壁には十二の土台があって、
それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。

わたしは、都の中に神殿を見なかった。
全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。

この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。
神の栄光が都を照らしており、 小羊が都の明かりだからである。



福音朗読 ヨハネによる福音書 14章23~29節

イエスはこう答えて言われた。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。
あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、
わたしをお遣わしになった父のものである。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、
わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。

『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』
と言ったのをあなたがたは聞いた。
わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。
父はわたしよりも偉大な方だからである。

事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、
今、その事の起こる前に話しておく。

2022年5月14日土曜日

復活節第5主日 福音メッセージ

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

復活節    5月15日   “今や、神は栄光をお受けになった”  ウルバン神父

  さて、ユダが晩さんの広間から出てきた。そこに何があったでしょうか。私達も静かに階段を上って、幾つかの油の火に照らされた広間の中を覗きましょう。弟子たちは薄暗い部屋の中でテーブルを囲んで、ジッとイエスの悲しそうな姿を見ていた。「あなた達の内の一人が私を裏切る」とイエスが言ったのである。その時、パンを取って、汁に浸して、言葉で言い表せない表情で一人、また一人を見つめた。最後に、しばらくの間ユダを見つめて、彼にそのパンを渡した。弟子達はその親しみ深いわざを見て、「ユダ、お前が羨ましい、なあ。僕達よりもお前をそんなに愛しているのか」と心の中で考えていた。イエスとユダは互いを静かに見つめあった。ユダはイエスの目を見た時、何と感じたでしょう。主の心を見る事ができた。「我が子よ、我が友よ、何をしようとするのか。本当に裏切るのか。愛しているのに、友よ、愛しているのに」と。

  ユダのそばに、見えない敵がすでに待ち伏せている。彼の中にまだ不安、まだ戦いがあったでしょうか。分かりません。主の顔を見ながらパン切れに手を出したその瞬間に、決定した。「俺は決めた。やろう、裏切ろう」と。親しみのパン切れを食べながら、敵に心の門を開けた。その時、サタンがユダの中に入った。もう皆と一緒に、イエスと一緒に居られなかった。晩さんの広間から出た。外は夜でした。主はユダをもう止めようとしなかった、止める事もできなかったが、最後まで彼を守ろうとして、集まっている弟子に何も言わなかった。打たれても、捨てられても、和解の手を差し出しながら、いつか帰って来るのを待っていた。ペトロはその夜、鶏が鳴いた時、泣きながら帰って来たが、ユダは帰って来ませんでした。

  私達も暗闇の道を歩こうとする時、イエスは今でも手に親しみのパン切れを持って私とあなたの前に立って、慈しんで言うのである。「我が子よ、あなたを愛しています。それでも離れようとするのか。いつか帰ってくるのを待っている。いつまでも待っている」。もしも自分が主から離れたら、孤独になり、光から離れたら、暗闇にさまよう。主との暖かさを失うと、心は凍って、死んでいきますが、イエスはあなたが生きて欲しい。

  ユダが外へ消えた時、イエスは友を見回しながら言われた「今や、人の子が栄光を受けた、神も栄光をお受けになった」。深みのあり、理解しがたい、神秘に包まれている言葉。弟子達もその時、何も分からなかったでしょう。自分を無視して、人に潰されて、それでも愛し続ける事を。その夜、イエスは友に最後の願いを表した。「互いに愛し合いなさい、私があなたがたを愛したように」と。ところが、弟子はイエスの十字架につけられた見苦しい姿を見て、その言葉「父よ、彼らを許してください。何をしているか分からないからである」を聞いた時、少し分かるようになった。潰されても、愛する事は負けではなく、かえって、これこそは勝利、神の栄光の現れである。今でも、イエスの願いに生きようとしたら、必ず約束の霊に助けてくれる。

私の母は74才の時、肝臓がんで亡くなりました。司祭である兄は毎晩側にいて祈ったり、歌ったりした。苦しみの中の母の最後の言葉は「もう一回あの楽しいアレルヤを歌って」。兄は泣きながら歌った。「アレルヤ、アレルヤ、主に感謝。アレルヤ、主に賛美。アレルヤ、主に栄光」。母の唇がちょっと動いて、痛みのうちに心の中で神を賛美した。その後、目を閉じたが、兄は母の手を取って「母ちゃん、勝ったぞ、勝ったぞ」と叫んだ。その時、神が母によって栄光をお受けになった。



【聖書朗読箇所】


ともにいてくださる神よ、

  あなたはキリストを死者の中からよみがえらせ、

  限りないいつくしみを示してくださいました。

  わたしたちが互いに愛し合うことによって、

  愛そのものである神をあかしする者となりますように。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 14章21b~27節


二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、

リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、


弟子たちを力づけ、

「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。


また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、

彼らをその信ずる主に任せた。


それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、

ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、


そこからアンティオキアへ向かって船出した。

そこは、二人が今成し遂げた働きのために

神の恵みにゆだねられて送り出された所である。


到着するとすぐ教会の人々を集めて、

神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、

異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。




第2朗読 ヨハネの黙示録 21章1~5a節


わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。

最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。


更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、

夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、

神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。


そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。

神は自ら人と共にいて、その神となり、


彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。

最初のものは過ぎ去ったからである。」


すると、玉座に座っておられる方が、

「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、

また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、

また真実である」と言われた。




福音朗読 ヨハネによる福音書 13章31~33a、34~35節


さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。

「今や、人の子は栄光を受けた。

神も人の子によって栄光をお受けになった。


神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、

神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。

しかも、すぐにお与えになる。


子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。

あなたがたはわたしを捜すだろう。

『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』

とユダヤ人たちに言ったように、

今、あなたがたにも同じことを言っておく。


あなたがたに新しい掟を与える。

互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、

あなたがたも互いに愛し合いなさい。


互いに愛し合うならば、

それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、

皆が知るようになる。」

2022年5月5日木曜日

5月8日 復活節第4主日 福音メッセージ

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 湯澤神父】

2022年5月8日 復活節第4主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、短いですが、善い牧者であるキリストについて語っています。この章(10章)では、初めからイエス様の教え、羊飼い、羊の門、良い羊飼いなどのたとえが語られています。羊飼いのイメージは、旧約聖書の中でも用いられており、もともと遊牧民族であったイスラエル人たちにとってイメージしやすいものだったのでしょう。イエス様も、見失った羊など、いくつかたとえ話を残しています。続いて神殿奉献記念祭の頃の出来事として、今日の福音の箇所が登場します。これは、これらのたとえ話の前の盲人を癒す出来事(9章)と関連しています。見ても見分けられない、聞いても聞き分けられないユダヤ人に対する言葉です。

  話は飛びますが、私がまだ大学生だった頃、ある日、主任司祭が「怒られちゃったよ」と話しかけてきました。「どうしたんですか」「『〇〇に、お宅は男の子が多いのだから一人くらい神様に捧げてはどうか』と言ったら、『どうでもいい子なんて一人もいません。一人ひとり私の大切な子です』と叱られた」。その頃は、子供が多い家庭がいくつかあって四五人の男の子がいる家庭もありました。主任司祭としては、一人くらい神様にお捧げしていいのではないかと考えたのでしょうが、「一人くらい」という言葉にお母さんとしては引っかかったようです。

  イエス様と羊の関係も同じなのでしょうね。たとえ百頭いても、「百頭いるから一頭くらいはいなくなってもいいや」という関係ではないようです。共観福音書の見失った羊を探す例えはこの関係を示しています。ヨハネの福音書では、この関係が直接語られています。「誰も奪い去ることはできない」。なぜなら、何よりも価値があるから、大切だからです。イエス様は、ご自身そして御父と私たちとの関係をこう表現しています。旧約聖書では、民と契約を結んだ神様を、「慈しみと誠実さに満ちている」と表現しています。イスラエルの民を植民の中から選だ慈しみ深い神様は、その民との関係に「忠実であること(誠実さに満ちている)こと」を意味しています。父である神様と民との関係は、イエス様と私たちの関係と同じです。

  ここで、少し考えてみましょう。絆は、誰かとの絆、双方向的な関係です。一方通行的な関係ではありません。イエス様や神様がこうした絆を私たちと結んでくださったとしたら、その相手である私たちはどうでしょう。私たちは、選んで、新しい命を与えてくださった父である神様とイエス様に対して、「誠実」でしょうか。イエス様は、私たちに別のたとえ話でこれを表しています。ブドウの幹と枝の関係です。ヨハネは、共観福音書と違って特にイエス様との人格的な、個人的なつながり、絆を強調しています。イエス様は、羊飼いのたとえで神様の側からの関係を語っていますが、私たちの側からの関係を考えてみることも重要なことではないでしょうか。絆は相互の関係ですから。   湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  まことの過越(すぎこし)の小羊であるイエスは、

  すべての羊にいのちを与えるために自ら苦しみをお受けになりました。

  主の過越をともに祝うわたしたちを、

  キリストの愛といのちで満たしてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 13章14、43~52節


パウロとバルナバはペルゲから進んで、

ピシディア州のアンティオキアに到着した。

そして、安息日に会堂に入って席に着いた。


集会が終わってからも、

多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、

二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。


次の安息日になると、

ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。


しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、

口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。


そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。

だがあなたがたはそれを拒み、

自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。

見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。


主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

あなたが、地の果てにまでも

救いをもたらすために。』」


異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。

そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。


こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。


ところが、ユダヤ人は、

神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、

パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。


それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。




第2朗読 ヨハネの黙示録 7章9、14b~17節


この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って[いた。]


長老はまた、わたしに言った。

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、

その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。


それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、

昼も夜もその神殿で神に仕える。

玉座に座っておられる方が、

この者たちの上に幕屋を張る。


彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、

太陽も、どのような暑さも、

彼らを襲うことはない。


玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、

命の水の泉へ導き、

神が彼らの目から涙をことごとく

ぬぐわれるからである。」




福音朗読 ヨハネによる福音書 10章27~30節


わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。

わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。


わたしは彼らに永遠の命を与える。

彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。


わたしの父がわたしにくださったものは、

すべてのものより偉大であり、

だれも父の手から奪うことはできない。


わたしと父とは一つである。」