2020年2月24日月曜日

年間第7主日

”赦す”ということは、なんと難しいことでしょうか。
赦すことの出来ない弱さを抱え苦しんでいる人をも神は慈しんでくださる、
そのような内容のお説教でした。

この日の主日ミサは、勝谷司教と語学研修で来日中の張 雲喆神父(チャン・ウンチュル師、韓国・大邱大司教区)の共同司式により行われました。


勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音書、いろいろポイントはありますが、やはり「隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という言葉が私たちに突き刺さってきます。
 実は先週、司教総会がありました。その中で話題になったことが二つありました。それはまさに愛するということです。人に強要することは出来ない。特に自分が相手にひどい損害を与えたとき。特に人格的な取り返しのつかない傷を与えたときに、赦してくださいということの難しさです。
 二つのことというのはこのハンセン病患者への謝罪が不十分だという指摘を受け、もう一度謝罪しなおすか、いやむしろそれよりも、実際私たちが真剣に謝罪の意向を示すために今後の取り組みの、あるいは今後の啓蒙活動を続けて、実際の活動をとおして理解してもらえることのほうが必要でないか。結局、言葉だけであとは何も変わらないほうが悪いのではないか。実際、今後の取り組みを含めて検討したのがひとつです。その背景には、ここでは説明出来ませんが、難しい問題をたくさん抱えています。気遣いない多くの問題を抱えています。

 もう一つは、未成年に対する性的虐待の問題です。これに対しても私たちはただただ謝罪するだけです。その反面見えて来たもう一つの大きな課題は、教会で被害に受けた人たちはほとんどが信者です。信者ですから当然その信仰から、まさに今日の敵を愛することは赦すことの同義語になることです。何とか赦したいと努力して、それも何年も何十年もその苦しみを抱えながら、赦すことの出来ない。いや本人は赦すと言ったとしても心はそうなっていない。多くの場合はフラッシュバックしたときの思い。どうしようもない憎しみがあるいは相手に対する嫌悪感、そういうものは理屈では拭い去ることは出来ないのです。いくらあなたを赦しますと言ったとしても、心と身体がそれを拒否しているのです。ですからそういう人たちに対して、加害者を赦してくださいということはとうてい言えない、難しいことです。この未成年に対する虐待の専門家、クリスチャンの専門家を呼んで話しを聞いたのですが、教会の中で行われることは悪気のない隠蔽工作です。その多くの場合は何十年も前に起こっていることです。あるいは何年も経って子供の時は、何が起こっているのか分からない。それが、大人になって自分が何をされたのか、そのとき自分が感じていたことがフラッシュバックされてくるのです。それを誰にも相談出来ずに教会の誰かに打ち明ける時に、「昔のことだから相手のことを赦しましょう。」「あなたのために一緒に祈りましょう。」「祈りが解決してくれます。」そのような言葉ほど残酷にその人を、二次被害といいますけれど、傷つけることがあるのです。安易にあなたのために祈りましょうとか、ましてや相手を赦すことがクリスチャンの務めですよと言うならば、苦しみの中に追い込むのです。

 赦したい、しかし赦せないから苦しむのです。赦さなければならないという思いを抱きながら、赦しなさいと言われると、赦すことの出来ない自分は神の教えに反している。そういう自分を神は受け入れてくれない。更に深い失意と絶望な中に追い込んでしまうことになるのです。私たちはそれに気づかず、安易にそのようなことを言いますが、赦そうとしても赦せない、その人の苦しみに対して安易に教会の掟や奨めを持ち出して、それで簡単に解決しようとする、そういう傾向はとても危険なのです。むしろ私たちは、その赦すことの出来ない、苦しんでいるその人に寄り添って、そういう態度が必要なわけです。

 では神様は私たちにいったいどのようなまなざしを向けてくださっているのか。今日の福音書は、敵を愛せよ…これは掟ではない。守らなかったら地獄に落ちるとか、そういうことを指摘されているわけではない。むしろ招きなさい。何故ならば神がそのような方だからで、ある意味での解説になります。神は善人も悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。これは悪人に対してという意味もありますが、また今言ったように、敵を愛せよ、愛することの出来ない弱さ。それを抱え込む私たちに対しても、神はそういう私たちを愛し、受け入れてくださっている。この神の広い慈しみの世界に接したときに、初めて私たちは赦すことが出来る存在になるかもしれません。

 でもそれは、赦すことが神から愛される条件ではありません。人を赦すことが出来るように苦しんでいる私たちを神は、その私をこそ愛してくださっていることに気づくことが大切です。そして、私たちは人と接するときと同じように、教会の掟や奨めに人を当てはめようとするのではなく、むしろそれを出来ずにいる人たちのために、寄り添っていく。そして、そこに働かれる神の恵みが私たちに本当に感じることが出来るように。それをとおして初めて、その恵みの中で私たちは神が完全であられるように完全な者として、変えさせられる。しかし、徐々に徐々に。 
 それを信頼しながら私たちは互いに、そういう人たちを含めて、共同体として関わりを見直していく必要があると思っています。』

2020年2月10日月曜日

年間第5主日

この日の福音は、山上の説教の「八つの幸い」に続く箇所が朗読されました。

この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の福音は、マタイの福音書にある5つの説教集のうちの最初の説教集の最初のところです。「幸いなる人」と「地の塩、世の光」が最初にくるお話です。この(聖書と典礼)脚注を読んでいて、不思議に思った説明があって、そうかなと思うのですが、イエスの弟子となった人は皆、無学な漁師である。ここに集まった群衆は、いろいろな病気や苦しみに悩む者と書いてありますが、そうなのかなと思います。
 確かに最初の弟子の召命は4人。漁師ですが、漁師ばっかりが弟子なのか、みんなが漁師だった 。それと無学というのもちょっと変だなと思います。漁師の子が無学なら、大工の子イエスだって無学ですよ。大工だけが知識があって、漁師は致死がないとは差別です。そしてイエスの回りに集まったのは病人だけで、悩みにある人たちだけだったのか。もしそういう人ばっかりだったら、罪人や徴税人を何故仲間に入れるんだと言っていた人たちは、自分たちを差しおいて同じになるということになりますからね。イエスの回りに集まったのは普通の人たちだったのですね。 その中に変な人たちが入っているのは嫌だ。それでなんであの人たちを仲間に入れるんだと、そういうふうにとらえた方がごく自然。
そういうふうにとらえて見ると、人は無学ではないと思うのです。

 何をもって無学というのか。学問がなかったのです。たしかにそうかもしれない。20世紀のなかぐらいまで義務教育は無いわけで、ヨーロッパはそうです。そういう人たちを無学と言ってしまうと、すべての人が無学になってしま。だから普通の人ですし、また 聖書を読んでみると、大工だったイエスが集会に来て指名されて聖書を読まされて、聖書について話しをするわけです。イエスだけが特別だったわけでなくて、そういうシナゴークに来て礼拝する人たちは、指されるかどうか。神父みたい人が指すわけですから、みんなが読めないといけないし、たいてい読んだところは説明することが常識ですから、礼拝に来る人は聖書をある程度読めたし、聖書について感じたことを語れるのです。それを無学と言うのは何をもって言うのか、分からなくなってしまいます。無学というと文盲みたいな表現で誤解をよぶ表現かなと思います。

 何故こんなことを言うかというと、山上の垂訓の最初のところで、イエスは回りに集まった人たちを前にして、山に上に登って座って話し始めます。そして、その人たちに向かって、幸いな人たちと呼びかけるのです。あなたたちの中には漁師の人もいるでしょう、苦しんでいる人もいるでしょう。でも幸いな人たちと言うのです。同じようにあなた方は地の塩であり光である。全体の意味がとらえられないと、この後厳しい話しが始まるわけだから、マタイはまずみんなを盛り上げ、おだてあげるのです。イエス様の褒め言葉を差し置いて、厳しい律法の話しを聞かせるわけです。だから回りに集まって来た人たちも普通の人たちだったのです。
 どうも聖書の説明は誤解を生みそうな感じがするのです。何でそういう人たちが幸いで、塩味がして輝くのか。そこが問題です。輝きなさい、塩味を持ちなさい。そういうことをしないと幸いでありませんよとか、そういう教えではありませんよ。もう、ここに集まって来ている人たちに向かって、あながたは幸ですよ、塩味があるし輝いていると言ったわけです。何故輝いていたかということです。この福音書を読む人たちも聞く人たちも、  マタイがこう書いたのは 聞く人たちが同じように幸いな人たちですし、塩味があり輝いている。奨めの言葉ではない。呼びかけです。では、何が輝かない人たちとキリストの弟子たちとの違いがあるかというと、ずっと後の方にも出てくるのですが、マタイは少しアレンジしていますが、マルコの方がもっと生々しく。イエスの評判がナザレに伝わった時に、家族が人をやらなければ何かおかしいと、急いでやって来るわけです。そして、あなたの家族が来ています。お母さんも来ているし、親戚も来ている。そのときに私の身内とは誰かというわけです。そこで、自分を取り巻いている人たちにも向かって、この人たちが身内だと言うわけですね。そこでは身内がどうということでなくて、古い民族と新しい民族、新約の民と古い民の違いを語るわけです。天の御父の意思を知って行おうとする人が、自分たちの仲間だと。そこには身分とかは全然なくて神の意思を知って行う、それが新しい民族のアイデンティティなんだと。ですから、そうやって生きていれば、どういう状況にあっても幸いな人たちだし、塩味はしているし輝いている。どうも雀のことのように理解して、あなた方は輝いていない、塩味がしないからそうでなければならないというようみたいにとらえるかもしれないが、そうではない。キリストの弟子たちはみんな、そういう意味ではみんな輝いているのです。 
 だから、そのことを自覚すると自己疲弊してそうではないと否定する必要はない。もしキリスト者であれば塩味がしているはずだし、輝いているはず。ですから無理して隠すなと言うわけです。輝いているのに升の下に置く人はいないし、せっかく光が灯されているのに升を被せて消してしまう人はいないでしょう。敢えて消す人はいないでしょう。それから寝台の下に光が見えないように隠して見えないようにする人はいないでしょう。光が輝いていると言うことは、部屋を照らすために高いところに置くのです。元々輝いているのです

  往々にして道徳的にとらえると、そこまで未熟だからと考えて自己卑下してしまうかもしれないが、そうではなくて、我々のアイデンティティはここにあるということ。我々はこの世界の中で輝いているはずなんだ。信じているから、キリストの弟子だから。そういう意味で自分自身を新たに見直してみる。キリストから見て幸いな人たち、たとえ苦しんでいるかもしれない。犠牲になって虐げられているかもしれない。でも、幸いなんだ。そして、塩味がしているし、そのおかれた場所の中で輝いているんだ。それが私たちなんだ。 キリストのこの言葉を素直に私たちは受け止めて、認めていくことが大切なんだと思います。』

2020年2月2日日曜日

主の奉献

キリスト者は、洗礼によって全てを神に任せ自らを奉献しています。
そして新しいいのちに生きるもの、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされています。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『ルカは福音書を書くにあたって、旧約の代表的な夫婦であるアブラハムとサラをモデルにして、ザカリアとエリザベトの話から始めていくわけですが、この老夫婦にタイアップするのが今日の朗読箇所に出てくるシメオンとアンナという高齢な二人でした。福音の後半部は読みませんでしたが、このシメオンとアンナ、そしてザカリアとエリザベトの話は、サムエル期におけるサムエル誕生の話と重なって来ることになるわけで、巧妙に構成された内容でいろいろな意味がそこに含まれています。
これほど緻密に作られていながら、学者によるとルカは律法を読み違えているのではないかという指摘があります。二つの事を混同しているというのです。
それは「律法に定められた彼らの”清め”・・・」という箇所の”清め”という規定については、お産をする生んだ母親は汚れているので、男の子が生まれると1週間、女の子の場合は2週間過ぎたら”清め”のために、鳩や羊、牛等を捧げるというものです。
それともう一つ今日の祝日に関係している「初めての男の子を奉献する」という律法の規定は、”清め”とは別な規定であるわけです。奉献といっても実際に殺してしまうとどうにもならないので、何らかの代価で贖われて親の元に戻されるということです。
今日のルカの福音箇所では、”清め”と”奉献”という別々な二つの規定が混同されて扱われているという指摘です。

さて、今日はこの奉献について少し考えてみたいと思います。
創世記の中で、アブラハムはようやく授かったイサクを神に捧げよと言われ、山で捧げようとするわけです。イサク以外に跡継ぎがいないにも関わらず、そのイサクを殺さなければならないという出来事です。いざ殺す段階になったらストップがかかって羊が贖うものとして身代わりになり、長男を殺さなくてすんだわけです。
この出来事もキリストのことと関わってくるわけです。キリストは律法に従って、40日目に奉献され、何らかの代価を払って贖われて家族の元に戻されます。
これはある意味でキリストの十字架と関わってきます。キリストは十字架に架かって自己奉献するのですが、その代わりに神がもう一度、新しい命、復活のいのちを与えて(贖って)くれる。このように奉献をみていくと、キリストの死と復活がそこに見えてきます。
このように、単に律法に従ったというだけではなく、将来のキリストの最後を見るとき、奉献と重なってきます。それが福音として今日の冒頭箇所に凝縮され書き込まれており、私たちは「主の奉献」の祝日を祝うことになるわけです。
確かにイエスは男の子に生まれたことで律法に従い奉献される必要があったと思いますし、律法に忠実であったということをルカは強調して書き留めたかったのでしょうけれど、それだけではなくて、将来のキリストの姿がそこに見える、ということです。
ただ、もともと神の子でありながら、奉献される必要があるのだろうかということを考えると、この奉献ということは、キリストにとって必要というよりは、十字架がそうであったように、我々にとって重要な意味を持っていたと理解することができるわけです。

私たちは洗礼にあたって、基本的に神を信頼する信仰するということがあって洗礼を受けるわけですが、それは自分自身を全面的に神に任せ奉献するということです。
そして、それによって新しいいのち、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされていきます。私たちの洗礼こそ奉献そのものであるわけです。

現在、奉献生活というと、修道生活のことを指すようになってしまいましたが、そうではありません。
奉献生活というのは信者の生活そのものが奉献生活であり、それがあって初めて修道生活が成り立つわけです。洗礼の奉献がなければ奉献生活というものは有り得ません。
ですから、信徒が奉献されているものであるということが全ての基礎になっており、非常に重要なことです。しかし、あまり皆さん意識しないし、自分が奉献生活をしているとは思っていないようです。シスターやブラザーのことであり、あまり関係ないと思っているかもしれませんが、そうではありません。
もっと、自分が神に奉献され神に買い戻されたもの、新しいいのちに生きるものとされているということを意識していいだろうと思います。もっと自分を奉献されたものとして誇りに思っていいだろうと思います。
その最初として、この新しいキリスト者、新しい神の最初の人として、キリストは自らを子供の時に奉献しました。その完全な奉献は十字架の奉献になるわけですが、その意味で私たちの模範として、主の奉献となったわけです。ですから、この主の奉献の祝日は、キリストの祝日というよりも、キリスト者である私たち一人一人の祝日と言っていいだろうと思います。そして主の奉献を祝う時に、我々自身もキリストと同じように神に捧げられたもの、あるいは自分で捧げたということを、そして、神によって買い戻されたもの、復活のいのちに生きるものとされたことを意識していいのではないかと思いますし、日々意識して生活していいのでないかと思います。
奉献生活を修道者だけに任せるのではなくて、実は自分達なんだということを意識して、生活そのものが神に対する信頼の生活になっていくように努めていくときに、本来の意味での奉献生活になるということを、常に忘れないで意識していっていいのではないかと思います。』

2020年1月29日水曜日

年間第3主日

「悔い改めよ。天の国は近づいた」
すべての人に対してキリストは召命を呼びかけられました。

この日の司式は湯澤神父様でした。


お説教の大要をご紹介します。

『今日のマタイ福音書は、イエスの宣教活動の始まりの時です。今日の朗読箇所に選ばれた後半の半分は省略しても(読まなくても)良いという印がついていますので、省略しようと思ったのですが、省略するとあまり意味が分からなくなる。
 イエスの宣教の最初のきっかけは「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけです。マルコによる福音書ですとこの後に、事実の宣言と同時に「福音を信ずるように」という言葉が続きますが、(両者は)同じです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というこの言葉は、洗礼者ヨハネが言っていた言葉と同じです。それではこの意味合いが同じかと言うと、少し違っていると思います。天の国は近づいたという「国」βασιλεία(バシレイア)という言葉は支配という意味合いで、テリトリー (territory)という感覚はないのです。ここからここまでという、国境線があってその国境線が近づいて来たということではなくて、それぞれの人たち、あるいはその世界に対する神の支配が強まってきたというふうに、理解したほうが良いです。ひとり一人の心の中に神が支配するようになってきた。そういう時代が来たわけだから、神の方に心を向けなさいという呼びかけなのです。
 それに付随して4人の人たちを呼び寄せたという出来事。元々のマルコの福音書も宣教活動の最初にこの4人の弟子たちを呼ぶのです。マルコの福音書の前半の対象はすべてのに向けられた話しです。後半のエリコ、カイザリアからエルサレムに向かう旅は、弟子たちへ向けられた説教、言葉です。一般的にすべての人に向けられた言葉、一番最初のところはこのことです。つまり、弟子たちばかりではなくすべての人に対してキリストは呼びかけた。その中から、4人の人を選んだのです。往々にしてこの4人の人を選ぶ、呼んだことを、司祭とか修道者の召命に限定して理解する傾向がありますが、そうではないのです。すべての人に対しての召命、呼びかけです。「すべての人に対する召命」と前提にしないと司祭とか修道者の召命はあり得ない。すべての人がキリストからこのように弟子になるように呼びかけられている。これが基礎になって初めてほかのすべての召命が意味をもってくることになるのです。
 まず、キリストの召命、あるいは神の召命、呼びかけ、それに対する応えていく召命というのは、まずキリストを信ずる者の召命です。せまく理解する必要は全然ないのです。それは教会の歴史がそれを狭めてしまった。召命の祈りというと、聖職者や修道者の召命の祈りしかしない。間違いです。召命はすべてのキリスト者に向けられている。すべてのキリスト者が呼びかけに応えて共同体をつくるように呼ばれた、集まって来たということです。この呼ばれて応えた人の中でキリストの活動はそれを土台として始まります。ですから宣教にしても何にしても、そういう背景がないとキリストの個人的なプレーで終わってしまうのです。そうではない。常にこの共同体、呼ばれた信徒、あるいは弟子たちの集まりがあって、その中でキリストの活動があるわけです。そのことを踏まえたときに、私たちは召命という問題を自分の人たちに制限することは必要ないし、自分たちのこととしてまず考えないといけないのです。私たちはひとり一人、このペトロと同じように呼びかけられている、私について来なさい。人を漁どる漁師にしよう。それに応えて集まってきたのがキリスト者、全部のキリスト教だった。そういうふうにしないと、そのほかの召命は意味がない。

 そういう意味で私たちは召命を自分ものとして取り戻さなければならない。司教様はいつも言っている「信徒中心の教会」ですが、召命は信徒のもの。司祭とか修道者のものではない。まず自分たちが信徒中心の教会をつくるとしたら、この召命を自分のものとして取り戻さなければならない。私たちはそのように呼ばれたのです。それに応えたのです。
応えた以上は、応え続ける状態にあるということ。つまり責任があるのです。レスポンシブル(responsible)を分解すると応えられるresponseと出来るableという合成語ですから、責任というのは応えられる。キリストの呼びかけに応えられるようになっている人たちがキリスト教です。キリスト教徒の責任はそこにあるのです。

  そして何のために呼ばれたかというと、人を漁る漁師。キリストの福音を伝えるために呼ばれている。ひとり一人が福音を伝えるために呼ばれている。そういう意味で私たちは
何百年の間、召命を司祭とか修道者に制限して自分たちのものではないと。それは信徒のものを取り上げた司祭、修道者が悪いのでしょうが。だから、自分のものとして取り戻さなければならない。信徒はひとり一人、それに応えられる責任、能力を取り戻さなければならない。どう応えられるかというと、人を漁る宣教、権利。それを取り戻す。大変のようですが自分たちの権利です。キリスト教徒の権利として、もう一度この召命、そして使命を(英語では両方ミッションmissionと言う。)取り戻していかなければならない。
 マタイやマルコの福音書では、キリストの宣教を最初に置いたのです。非常に意味のあることです。特殊な人のためではないのです。そういう意味で私たちは、召命とその使命
を取り戻して、それに生きるようにしていかなければならないし、その自覚を持つ必要があると思います。』

2020年1月22日水曜日

年間第2主日

この日は、先週フィリピン・エクスポージャーから帰国された勝谷司教司式の主日ミサでした。


お説教では、キリストを証するために、私たちに出来ることがあるはずです。というメッセージをいただきました。

お説教の大要をご紹介します。

『先週の木曜日、高校生を連れてフィリピン・エクスポージャーから帰ってまいりました。
今年も感動的な出来事があって、皆、涙を持って別れを惜しんで帰国しました。
帰路、私は高校生とは別な便を使ったのですが、大変な思いをしました。というのもご存知の方もおられるとおり、マニラのすぐ南にある火山が爆発して今大変な被害をもたらしています。
ちょうど私が出発する前の日に噴火があり、その当日はほぼマニラ空港が閉鎖されている状況でした。私が乗る便は、午後最初の12:45分 ダバオ発マニラ行きの便だったわけですが、午前中の便は全てキャンセル、他の航空会社の便は終日全便キャンセルでした。
私はその日、マニラを経由して日本に帰る予定だったのですが、それに乗れなければ乗継便がないという状況でした。恐らくキャンセルになるだろうということを見越して、ネットで八方手を尽くし、ようやく香港経由の帰りの便の”空き”が見つかり、あとはボタンを押せば購入完了というところまで漕ぎ着けました。
ところが、なかなかマニラ行きの便のキャンセルが点かず、定刻発の表示のままなのです。キャンセル扱いにならないと、購入済みの航空券は全て棄てることになってしまうので、直前まで待っていました。そして、いつまでもキャンセルにならなかったので、とうとうチェックインしましたが、その後、延々と何の情報もないまま4時間待たされました。よくフィリピンの航空会社がやるのは、散々待たせた挙句にキャンセルということがあるので、どきどきしながら待っていました。
最終的には4時間遅れで飛んだのですが、それ以降の便はキャンセルになっていました。その日、ダバオからマニラに飛べた便はわずか2便のみで、それに運よく乗ることができたわけです。到着したマニラ空港でも人々がごった返している状況でしたが、その日のうちに何とか成田空港まで帰ることができました。しかし、成田に着いたのは真夜中で着いてからホテルを探さなければならない、また、次の日の成田から千歳までの便も満席で乗れるかどうか分からないという状況であり、不安でいっぱいでした。
一番大変だったのは、先が見えない、この後どうなるか分からない、そして何の情報もない、ということでした。そのようなことが如何にストレスと不安をもたらすということをつくづく感じさせられました。
結果的には、一日遅れにはなりましたが、比較的順調に帰ってくることができたわけです。ただ、司教館に帰って来た翌日、一日遅く帰ってきたということに対して皆の反応が薄く、「何かあったのですか?」という言葉に二重のショックを受けました(笑)。
フィリピンでは噴火によって大変な騒ぎになっているのですが、日本ではほとんど報道されておらず、皆さんの中にも知らない人がいるのではないかと思います。
このように、マスコミがどのようなニュースを流すのかということによって、私たちは近くの国で起こっている大災害についても全く知らないでいることがあるのだということを感じました。
これ以前にも、1998年に私は一年間ヨーロッパにいたのですが、その3年前に起こっていた阪神淡路大震災の話をしても知らない人がほとんどでした。あのような大災害のことをヨーロッパの人が知らないということに大変驚きました。

このように私たちが受け取る情報というものは、マスコミがどのように扱うかによって、大きく左右されてしまうということです。ただ、今私たちはマスコミに頼らずともネットをとおして様々な情報にアクセスし知ることが出来るような環境にあります。しかし、まだ多くのマスコミが恣意的な情報を流すならば、私たちは操作されてしまうという危険性や、あるいは何も知らずに置かれるのだという危険性も今回の出来事をとおして感じています。

では、私たちはどんな情報を外に向かって流しているのか、そのことも考えてみなければならないということも感じています。
今日の福音書を見ると、ヨハネはこの当時マスメディアというものが無かったので、個人の証でしか伝達する術はなかったのですが、ヨハネが指し示したのは、言うまでもなくイエス様ご自身です。ヨハネはこの証を自分に与えられた啓示をとおして行ったわけです。しかし、ヨハネが期待していたメシア像はこの世の悪を駆逐する正義の神の登場、すなわち理不尽に国を支配しているローマ帝国を追い払い、そしてまた人々を苦しめている悪徳商人や為政者、彼らに裁きが下される、そのようなことを期待していたはずです。
しかし、どうも自分の予想していたメシアと違うと感じた時に、ヨハネは獄中から弟子を派遣し、こう問わせました。「来るべき方はあなたですか?他の方を待つべきですか?」ここにヨハネの戸惑いを見て取れるわけです。その時イエス様がおっしゃられたことは、「目が見えない人の目は開き、足の不自由な人は歩けるようになる。そして死者は生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされる」。
イエス様にとって自分がメシアであるという証は、このような奇跡的な行いを意味するのではなく、社会から疎外され追いやられている人たちに福音が告げ知らされている、その人たちに神の愛が告げ知らされ、その人たちがまた人間社会へと復帰し、その中で人間らしい生き方を取り戻していく、それこそがイエスがメシアであることを指し示す”しるし”であるということです。
そして今、ヨハネのように私たちは、このキリストを指し示すように、その試練を託されています。では私たちはどのようにこのキリストを指し示すのか? 聖書から読み取れることは「2人3人、わたしの名によって集まるところには、わたしはいる」、そして互いに愛し合う時そこに神の存在が証されていく。
私たちは一人の努力によってではなく、共同体の中に、共同体をとおして、存在するイエスを証しなければならない、そのように召されていると考えなければならないでしょう。そして、共同体がなすべき証は何かというと、自分たちが内向きになって、ただ自分たちの閉ざされた環境の中で自分たちの救いだけに関心を向けるような共同体でないことは確かです。
むしろ社会に向かって、何を証するのか、それは言うまでもなくイエス様が行った活動です。社会から疎外されいる人たちに寄り添って彼らの声を代弁していくものとなる、
それを通して私たちはイエスを証することになるわけです。
それでは、札幌教区はどうなのかということですが、ベトナムの技能実習生の支援など最近いろいろな形で慈善活動が行われマスコミでも取り上げられています。
カトリックの名前は出てきませんが、私たちはそうのような人たちを支援する活動をとおして、そのような人たちの存在を社会に指し示して、そして人々の良心に訴えかけていく、これも大切な役割だと思います。
私たちは、この共同体として何ができるのか、内向きに教会行事の話だけではなく、今、身の周りの日本の社会をよく見た時に、何か自分たちに出来ること、関わることが出来ることが必ずあるはずです。そういうところに目を向け、心のアンテナを拡げながら、そこにキリストを指し示す証の活動を、私たちはしていくように召されているということを、改めて考えていただきたいと思います。』

2020年1月13日月曜日

1月12日(日)主の洗礼

神の子であるキリストは、なぜわざわざ洗礼を受ける必要があったのでしょうか?


この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の洗礼をもって公生活が始まります。イスラエルの人々にメシアが来たことが初めて知らされて、人々はメシアの到来を聖霊と洗礼者ヨハネの証によって知るようになります。ある人々は今日のところを疑問に思って「何故、わざわざイエス様は洗礼を受けられたのだろうか?」。洗礼者ヨハネが行っていたのが悔い改めの洗礼ですね。「イエス様は悔い改める必要も清められる必要もないのに、パフォーマンスだったのでしょうか?」というような意味ありの質問でした。昔からこのような質問があって、最近では言われませんが、伝統的に聖人たちやむかしの聖なる学者たちはこう考えていました。「イエス様は洗礼の水を清めるために洗礼を受けられた。」と言うことです。イエス様が清められるのではなくて、将来洗礼に使われるであろうすべての水を清めるつもりで洗礼を受けられたという解釈があって、けっこう教会の典礼の中では繰り返し言わているのです。聞いたことがあるかどうか分かりませんが、その答えを聞いて質問する人は納得していました。
  洗礼者ヨハネは自分こそ洗礼を受けるべきだと、これは本当に正しいことだったのですが、イエス様の答えは「正しいことをすべて行うのは我々に相応しいことです。」と、ちょっと不思議な答えでした。洗礼者ヨハネの考えこそ正しいのではないかということにイエス様は「正しいことすべてを行うのは相応しいことです。」とおっしゃいました。
 神様のおっしゃる正しさと私たちが言う正しさとはだいぶ違います。私たちの世界では正しさや 正義は人によって違うのです。正しさを主張しぶつかったり戦争したりします。対立した方からの正しさというものがあります。そして、日本人が主張する正しさと韓国人が主張する正しさは違って争う。トランプ大統領の言う正しさだけあって、アフリカの人が支援することもあるのです。私たちの世界では正しさというものが違って、それぞれに正しいと思っているのですが、それが争いを引き起こすことがおうおうにあります。
  イエス様がおっしゃる正しさは、洗礼を受ける必要がなかったのに、ある意味で自分自身は全人類の代表の方ですね。ここに罪をすべて押し込めて、十字架に磔にして人類の罪の赦しをもたらす。こういうおつもりがありました。ですから、こういう広い意義も含めた正しさであって、よくよく考えたら本当に素晴らしいことだと思います。正しさ、正義のみを見ていると、罪ある人間の罪を罰するのも正しさのひとつとなっています。
罪を罰し、良いことを褒める。報いを与える。これが一般的に言う正しさであり、法律の正しさであり、私たちみんなそれを正しいと思うのです。         
 しかし、神様の正しさは愛に満ちた正しさ。そして人間の犯したすべての罪を、裁くべきところですが、だからといってすべてチャラのしてしまうということもしない。正義が保たれなければ秩序が壊れていきます。そこで、御ひとり子を人としてお生まれさして、全人類の代表です。神の子であり、真のまったき人である。私たちと変わらない人となる。
そして彼がすべての罪を背負って十字架に架かってくださった。それによって罪の償いという人類の果たすべきことが、イエス様において果たされる。正義が満たされ、それによって神様は人類を自分の子、神の子として愛することができる。親となることができた。
  罰すべき正義の中に自らの自己犠牲というものが入って人類を愛した。これは神の正しさであって、私たちの考える超える正しさであって、私たちはこういう神様の正しさを学びながら、あるいは自分自身の身に置き換えながら、この世の中で神様の正しさというものを実現しなければ、今後それぞれの人が自分がもっとも正しい、これで良いだろう。善意で主張することによって争いが起こるのを止められなくなってしまう。
  もう一方、神様からの視点にたって、それぞれの正しさを満たすために、誰かが間に入り和解の使者、仲介をする使者、自己犠牲をする使者、主イエスに倣う使者によって和解がもたらされる。これが聖書の思想なのです。イエス様がご自分の身体によって敵対する者を和解させられた。そこをおっしゃっているわけです。

 そう言いますと今日の洗礼は、これから生け贄に捧げようとしている自分の身体をまず清める。そういう意味合いも入っているかもしれません。そしてイエス様は私たちが正しいと思うところをはるかに超えて、普通ならばメッセージを神の教えを天から響かせれば良かったのです。あるいは必要に応じて現れて神の教えを説けば良い。それでも十分だったと分かりませんが。しかし、イエス様は女性からお生まれになったのです。赤ちゃんの時から人であられた。そして、公生活の前、隠れた謎の30年間。漁師となり,漁師に育てられたり、いろいろな苦しい体験をしながら、そこから苦しみながらいろいろなことを悟っていく。成長していく、成熟していく。そういう私たちがたどる全く同じ人生を30年辿られていったのですね。神の子だからすべてを免除されて、すべてを始めから悟っていたわけでなくて、同じようにすべてにおいて私たちと同じであった。罪以外は。聖書が述べています.

  そのようにして私たちは、イエス様が私たちと辿った人生とまったく同じ経験をしてこられた。その中で苦しみを共にしてこらえながら神の国を実現されていったと、思うときに、凄い親しさを感じるわけです。私たちの人生もすべてが尊い。成人となった大人が尊いのみならず、イエス様が赤ちゃんとなり、幼児となり、そのすべての時代が尊く意味がある。祝福されたものになっています。イエス様の秘密の30年間の中に、本当に人間のすべてを祝福しよう。そういう意味があるのではないかと思います。
 そして、死刑囚になったのです。冤罪です。冤罪で死刑になっていった。冤罪となった人たちとまったく同じ立場になり、そして国家により死刑に宣告されてしまった。つまり、行政(司法)によって有罪にくだされた人になってしまった。十字架の上では「御父よ、何故私をお見捨てになったのですか。」と失望の叫びです。見捨てられたようなところまで享有してくださった。ですから自分は見捨てられたと思う人たちと同じ立場になられた。
そこまで降りていかれたと思います。
 お生まれになった時から貧しいところに生まれ、ヘロデ王から命を狙われて難民になっていったのです。そのように単に人間になったのみならず、そのもっとも社会の隅々、片隅のところにまで光が届く。冤罪の人にも、絶望する人にもイエス様の光が届いていく。
そういう意味があったのではないかと思うのです。
 そう考えた時に、イエス様のおっしゃる正しさというのは、本当に愛に満ちた正しさであって、私たちひとり一人が考えたり、主張したりする正しさを超えて、正しさの極致、
誠実と誠実が最高に至る姿勢という生き方をつらぬかれました。ですからイエス様の言葉というものは様々な思いやりと正義と愛に満たされた言葉が語られます。語る口調は素晴らしい口調。イエス様のまなざしも、すべてそういった思いに満たされたまなざしになっていく!その一挙手一投足、しぐさ、そういうものがすべて満たされた人になっていったと思われます。神様はそういうイエス様を見て、今まで旧約聖書でだれにもおっしゃったことのない天からの声を語られます。「これは私の愛する子。私の心に適うもの。」本当にそのような方だったのだと強く思います。

  今日は正しいことをすべて行う、正しいことの意味。洗礼者ヨハネの正しさを超えて、私たちが一般に考える正しさを超えて、愛のある正しさ。敵対する者を和解させる正しさ。罰せられるべき者が救われる者になれる行動する正しさ。そういうものであることを学びます。私たちも神様の正しさ、人となられた神様の正しさ。すべての人の隅々にまでいきわたる、常にご自身の人生をそれに捧げられた。そういう正しさから学んで、私たちも社会で、本当に正しさというものを追い求めたいと思います。』

2020年1月5日日曜日

1月5日(日)主の公現

今日のルカ神父様のお説教は、とても「ほっこり」する内容でした。


お説教の大要をご紹介します。

『北一条教会は、建物も教会らしく、また馬小屋も素晴らしいです。とてもうらやましい(笑)

今日の「主の公現」の祭日は、全ての人、全人類のために救い主である神が公に現れたことをお祝いする日です。

福音の「種」は、いろいろなところにあります。その中のひとつ、工藤直子さんという人が作った詩の一節を紹介します。
「ひなたぼっこ」  こねずみ しゅん という詩です。

「でっかい うちゅうの なかから
ちっぽけな こねずみ いっぴき
みつけだして
おでこから しっぽのさきまで
あたためて くれるのね
  ・・・・・・
おひさま
ぼく
どきどきするほど うれしい」

この作者の方は、キリスト教の信者かどうかはわかりませんが、この詩からは、神様の温かい愛、神様の愛は一人一人のひとに向けられている、ということが伝わってきます。

神様は、ちっぽけな僕を全宇宙のなかから見つけてくださる。ちっぽけな僕のことも忘れないでいてくださる。

今日の福音で、占星術の学者たちが見た「星」。それはただの夜空に輝く星の光ではなく、心を照らす信仰へと導く光でした。
ある信者さんから聞いたお話をご紹介します。
その信者さんのご家族は、おじいちゃん以外、みな信者でした。おじいちゃん以外の家族は食事の後、みなで夕べの祈りをするのが日課になっていました。ある日のこと、4歳の孫がいつものようにみなで夕べの祈りを捧げようとしていたところ、ひとりで新聞を読んでいたおじいちゃんのそばに来て、「じぃじ、お祈り!」と言ってきたそうです。
おじいちゃんは、その孫の一言をきっかけに、ある日のこと、近くの教会に立ち寄って洗礼志願者の勉強会に参加することにしたそうです。

今日の第2朗読「使徒パウロのエフェソの教会への手紙」では、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった・・・」とあります。
パウロがキリストの恵みを与えられたのは、「パウロ自身のため」ではなく、パウロをとおして「皆のために」ということです。

この一年、まだキリストを知らない人たちのために、私たちも神の温かさを伝えていくことができるように願って、歩んでいきましょう。』

2020年1月2日木曜日

1月1日(水)神の母聖マリア「世界平和の日」

明けましておめでとうございます。
新しい年が神の豊かな恵みに満ちた年でありますように。
午前10時から湯澤神父様の司式により元旦ミサが行われました。


また、ミサの中で一足先に新成人の祝福がありました。教会からお祝いをお贈りしました。おめでとうございます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8日たってとありますが、イエス様の御降誕から8日目のことです。この福音は、クリスマスの早朝のミサで読まれる箇所です。早朝のミサは行っているところが少なく、聴くことがないかもしれません。
 今日の福音で大事なところは「飼い葉桶に寝かせてある」ということがキーワードになっています。マリアとヨセフがベトレヘムに着いて、子供を生んで飼い葉桶に寝かせました。天使たちが羊飼いに現れて、その赤ちゃんがイスラエルの救いの徴、メシアの徴となったことを伝えています。そういうことから重要な言葉になっているのです。

  この話しにはひとつの背景があって、イザヤの預言です。イザヤは当時の人々の信仰を嘆くのです。動物だって自分の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルの人たちは自分の飼い葉桶を忘れてしまっている。しかし、ルカは今はそこを探し当てる時代になっている。それが喜びとなっているんだと書いているのです。
   
 救い主の到来の喜び。念頭に相応しい箇所であります。新しい年に向かう。キリストに出会うことができる。それは、象徴的なものは十字架、復活。でも福音書こそイエスに出会うことができる。パウロが言っている福音そのもの。
  私たちはこれを聴き、これを受け入れるとき、神にキリストに会うことができる。そういう素晴らしい時代が到来している。
  そのことは私たちの双肩にかかっている。そういう意味で新しい年を身を粉にして、方向性を見失わないように歩んでいきたいものです。』


2019年12月30日月曜日

聖家族

今年最後の主日ミサでした。
聖家族も当時の迫害から難を逃れようと宿も見つからずに彷徨っていた名もない多くの難民のなかの一家族でした。

この日の勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。


『「聖家族」の祝日を迎えました。
第1朗読、第2朗読は、家族の在り方を示しています。
そして、福音書は、どんな困難に直面しても、家族が一つになってその困難を耐えて克服していく姿を描いています。

昨年シノドスがありましたが、それについての話は以前したことがあります。
今の教皇フランシスコが強調していることは、最も弱い立場に追いやられた人たちと共に歩む、そのことを常に機会あるごとに、何処へ行っても主張されています。
今回の訪日に当たっても、その線はぶれることなくお話されていました。
家庭の問題についても、昨年のシノドス以前に開かれた家庭に関するシノドスにおいて、現実は非常に厳しい、特にヨーロッパにおいては、教会が規定している結婚の形態を取らずに、いわゆる正式な結婚をせずに婚姻関係を結んでいることや、シングルマザーの問題など、教会が受け入れることができないような家庭については、教会が勧めるあるべき姿に従っていないということから、疎外され教会から離れざるをえない。でもそれは、彼らが離れていったというよりは、むしろそのような教会の体質が彼らを阻害し追いやっているのだと。
同じような論点から、青年についても言われました。青年が教会を離れていったのではなく、教会が青年から離れていったのだと。
つまり、現代社会が抱えている様々な問題が、教会の勧めるあるべき姿からかけ離れている現実を、良くないことだとして切り捨ててしまうのか。それが従来の”裁く”教会の姿でした。
しかし、教皇フランシスコはそうではなく、まさにそのような現実に生きてその中で苦しみ、そしてその生きる指針を求めている人たちに対して、教会があるべき姿はこうだと、言ってみてもしょうがないことです。むしろ、その人たちの苦しみに寄り添い、共に歩み、その重荷を担うことによって、進むべき方向を指し示していく、それがこれからの教会に求められる姿であると強調されています。

今日の聖家族の祝日は、そのようなテーマが一つにありますが、もう一つ重要なテーマがあります。まず今回、教皇様が訪日され、様々な意趣がありましたけれども、マスコミにほとんど取り上げられずスルーされた問題が一点あります。
私は東京のカテドラルで行われた「青年との集い」の総責任者でした。当初、青年が本当に集まるのか心配していた面もありましたが、予想を遥かに超える申し込みが殺到し、申し込み開始から僅か2日間で席が埋まってしまいました。さらにできるだけ多くの青年たちに参加してもらおうと長椅子を全て取り外しパイプ椅子に置き換え何とか追加の200席を確保しました。
ところが直前になって、あと20席確保するようにと、教皇様から指示がありました。その席は誰のためかというと難民の人たちのためのものでした。そして何とか最前列に20席確保しました。本番の際には、教皇様が正面の扉から入って来て、難民の人たちの前を通った時に足を止めて、教皇様は彼らと親しく話しをしました。
教皇様のスピーチは、3人の青年の代表が話したことに対して答えるという形で行われました。会場には関係者を含めると1000人以上が入っており、そのうちの200人程度は外国籍の青年たちでした。
教皇様は、メッセージの中で、
「日本の社会は、今日ここを見ても分かるとおりモノトーンではない。多様な文化・国の人たちがいます。そして何よりも皆さんの保護を求めて、遠くから来られている難民の人たちがいます。彼らを助けてあげて下さい。」とおっしゃられました。教皇様は、このように難民や移民の人たちに常に心を留めておられます。
実際に日本の教会は、インターナショナル・チャーチになって来ており、多様な文化の人たちがいて、その中では異国に来て困難な状況に置かれている人たちがたくさんいるということを改めて知らされました。

難民だけではなく、技能実習生で不当な扱いを受けている人たちもおり、これに関して札幌教区はこの一年間で格段にその対応が進んでいることが私はうれしく思います。
手稲教会の取り組みは、道新の一面全部で取り上げられていましたし、函館のケースについてもNHKや道新で取り上げられました。教会が、そして教会に来ている高校生や青年が、この難民の人たちと関わり、生活支援だけではなく、直面している労働問題についても対応している。函館市内のプロテスタント教会がクリスマス献金を持ってきて、湯川教会で取り組んでいる技能実習生の支援活動に対して賛同するので、このお金を使ってくださいと持ってきました。
いま地方の教会ほど、国際的な教会になってきており、日曜のミサも多言語で行われています。
北一条教会についても以前からお話しているとおり、英語ミサと同じ共同体のメンバーとして、一つの共同体を作っていくような方向で検討していっていただきたいと願っています。

今日の福音書のテーマというのは、まさに「聖家族」自身がエジプトへと逃れた、つまり難民だったわけです。そして私たちは、クリスマスの宿がなく馬小屋で生まれたというシーンも含めて、特別な二人という見方をしていますが、実はそうではないと私は思うのです。たくさんの人たちが人口調査のために移動していく中で、多くの人たちが宿を見つけられずに彷徨っていた。そういうたくさんの人たちの中の名もない二人だったわけです。ヘロデの迫害はこの二人をピンポイントで狙っていたわではなく、誰だかわからないから大勢の子供たちが殺戮されたわけです。ですからその対象はたくさんいたわけです。聖家族だけではなく他の多くの家族が危機を感じていました。そう考えると、たくさんの人たちが難を逃れようと避難したと考えられます。そういう多くの避難民の中の名もない三人だったわけです。そう考えると、この聖家族は特別なものではなくて、多くの小さき人たちの一人にすぎない。そう考えれば、私たちは現代社会において、日本国内に来て困難に直面している人たちの中にも、この聖家族はいるのだということに、改めて私たちは対応していく必要があるのだと思います。』

2019年12月27日金曜日

12月25日(水)主の降誕(日中のミサ)

平日の日中にも係らず、聖園幼稚園の子供たちをはじめ350名の方がミサに参加しました。ミサ後には聖堂内装飾の紹介を行いました。


この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『昨夜は馬小屋を見ながら、この世にこられたイエス・キリストのお祝いをしました。
今日読まれた福音朗読は少し難しくて、昨日こられたイエス様というのは本来の姿はどういうものであるか、人間となられる前の本来の姿はいったいどういうものであるか、ということを語っています。ひじょうにちょっと深くて、普段ちょっと私たちが考えなかったように、この世の創造にかかわるようなことです。
 そして、はじめに言(ことば)があった。言(ことば)がいっぱいでてきます。この「言(ことば)」をイエスに置き換えて読むということです。イエス様が神の言(ことば)であると言われているように。ただ、言(ことば)という言葉には訳しきれない。元々のギリシア語は「ロゴス」と言います。はじめにロゴスがあった。このロゴスはわたしたちが使っている「言(ことば)」という単語ではとてもとても、全部を表していない。もっと深い内容をもっています。例えば「知恵」とも訳されます。言(ことば)は神の知恵。あるいは神の英知。いろんな言葉がそこに入ります。あるいは、もっと大きく言うと、宇宙と生命の源であるというふうに。天の御父、神様はイエス様とともにこの世を創造なされたということが、ここに書かれているのです。イエス様は神の子であって、御父の心であって、知恵であって、御父とともにこの世を創造なさった神である。というのが私たちの信仰ですね。ですからそこまでいくと本来のイエス様の姿をとらえるのは私たちにはとても難しくて、人となってくだされなければ分からないというぐらいの方なのです。
 そこでイエス様はあるとき教えの中で、私のことは御父以外には誰も知らない、とおっしゃったことがあります。私のことは御父以外には誰も知らない。つまり33年の生涯をおくられたイエス様のこの世の生涯については、私たちは聖書をとおして知っていますが、その本来のお姿は神の子としての、神の英知として、宇宙に満ちたそういう本来の姿は私たちにはとらえるのは難しい。そういう意味合いがこめられているのだと思います。

 そういうような言(ことば)が人となられた。赤ちゃんとなって馬小屋の中で生まれてくださったのです。そしてこの方によって私たちも大きな恵みを受ける。そういう御方から私たちと同じ人間となってくださり、本当に2000年前に33歳の生涯をおくってくださった。そのことによって私たちとその神様との距離がうんと縮められます。私たちも神様のいのちに与る者としていただいた。
 それはいろいろな意味があります。そのことを今日は思い起こす。この人となってくださった方がいったいどういう御方であるのか。それは少し難しいけれど、御父とともにこの世を創造された方です。この方に私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受ける」(ヨハネ1章16節)ことになりますよう、そういうことを教えています。このみ言葉をもう一度読んで、言葉(ことば)というところに「イエス様」を入れて(置き換え)、本来のこの単語では訳しきれない、深い広い意味だということを思いながら、もう一度、ゆっくりと家で読んでいただければと良いと思います。』