2019年8月18日日曜日

年間第20主日

ルカによる福音書 12章49~53節
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」と言うイエスの厳しいことばは、福音を選ぶのか選ばないのかを私たちに問いかけています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8月6日の広島原爆投下の日から先週15日の終戦記念日まで平和旬間として、平和を祈りました。平和を祈ったのに、キリストは「平和をもたらすために来た」と思わないでくれと言っています。分裂をもたらすためだ。何かどっちを選んだら良いのか分からない感じですが、そういう次元とは違う話です。先週、「目を覚ましていなさい。」という言葉でしたが、盗人はいつくるか分からないから、信仰を意識しているようにという福音でした。
  今日の福音はそれと少し関連しています。ですから、そういう文脈で読まないと、キリストは分裂のために来たのだということになってしまう。ほかのところでは「私は平和をあなたがたに与える。」と言っています。ここでは平和ではないと言っているのですから。それぞれ言っていることが少し違うわけです。いわば福音というものが持っている、ひとつの性格です。どうしても決断をせまられるという性格。優柔不断であることは許されない。ルカは誕生物語の中で、シメオンがマリアに向かって言うわけです。あなたの心を剣で刺し貫かれるというわけです。けっして十字架のそばにいるだろうと言っているわけではない。福音が持っている、あるいはイエス・キリストの存在が持っているひとつの性格。あるいはその前のザカリアの子供の洗礼者ヨハネもそうです。その福音を告げる者、告げられる者にとって、それはひとつの選択を迫られるので、そこで優柔不断な判断は出来ないということ。剣で刺し貫かれるということは、白か黒かはっきりさせられる。マリアでさえも決断を迫られるということ。時間の経過からするとマリアはすでに決断している。その言葉を聞くときには決断しているわけです。福音を受け入れるか、受け入れないか、キリストはイスラエルの○○○のところにしるしとなっている。どちらも福音にあったものに決断しなければならない。選ぶか選ばないか、応えるか応えないか、どちらかひとつです。そこには応える者と応えない者が出てくるわけで、それがひとつのたとえになって、一家に五人の人がいるならば、二人と三人が別れる、その後にミカの預言を引用しているわけです。

 けっして福音が不和をもたらしているわけではないのですが、もたらすためのものではなくて、必ずどれかを福音を選ぶか選ばないか 決断を迫られてどっちかを選択しなければならない。どちらでもいいというわけにはいかない。しかし現実はそこまでは厳しいものではなくて、けっこう現代の私たちは信仰生活、それといって生命に関わるわけではないので、状況がそういうことではないので、けっこう優柔不断に曖昧に、さしあたって適当にというわけでおくっている。
  そうだからといって、だから何も問題ないわけです。たしかに主人は帰ってくるだろう。さしあたって今ではないだろうという感覚。これはけっして信仰だけでなくて、たとえばシステムにたいしてもそのように扱っている。たしかに人間はいつかは死ぬ。でも今ではない、自分ではない。だからのんびりと生きていられるわけで、もしそういうことが迫られたら急いで帰って掃除をしなければならない。信仰もおそらく我々は、信じたからと言って厳しい状況に生きるわけでないので、まあ次の日曜日は休むかという感じです。はたしてそれで良いのかというのがこのキリストの問いかけです
 必ず福音はどちらかを選択させられている。いい加減ではいられない。主人が帰って来たら終わりということ。そういう意味でどれだけ本当の信仰に生きている人がいるとしたらというふうに、彼は願っていたわけです。おそらくキリストが登場したこの時代の2000年前の社会も似たような社会であったかもしれない。いつもそうなのかもしれない。
おそらくキリストはこういうような現実を見て、ため息みたいな言葉を言っているわけです。マタイとルカは同じ言葉を残していますが、マタイは……という反疑問。

  いずれにしても、私たちにこの言葉が向けられている言葉としてとらえなければならないないのですが、私たちはさしあたって先延ばしをしているか、注意したり注意されたりしてるかもしれない。この信仰に関しては、さしあたって先延ばしは出来ないことだが、現実はけっこう先延ばし出来るので、適当に済ましている。しかし、いざとなるとどちらかを選択しなければならないそのときがあるのです。それはけっこう日常の中であるかもしれない。しかし、けが人を横目で見て、脇を通ったレビ人、祭司と同じように、さしあたって私ではなくて別な人がいる。そんな感じで通っているかもしれない。信仰生活を少し反省していきたいと思います。』

御ミサの後、カテドラルホールで8月15日『聖母の被昇天』の祝賀会が行われました。
湯澤神父様(主任司祭)とレイ神父様(助任司祭)も参加されました。


レイ神父様は、まだ苦手な日本語でご挨拶されました。



2019年8月17日土曜日

8月15日(木)聖母の被昇天・平和祈願ミサ

8月15日(木)18時から、勝谷司教と司祭8名の共同司式により平和祈願ミサが行われました。ミサには約200名の信徒が参加し、平和を願いお祈りを捧げました。ミサの後、小雨の降る中、大通り公園まで平和行進が行われました。


勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
【聖書朗読箇所】マタイ福音書 第5章1~10節


『私は司祭になった時、自分の考えていることを、相手に正しく伝えることの難しさを感じさせられたことがすぐにありました。初ミサで、そこで説教をしました。ミサが終わった後の懇親会の終わり頃、「神父さん、今日の説教はとても素晴らしかったです。」と、褒めてくださる人がおられました。神父さんがそうおっしゃたことは私の救いになりましたと。でも、私はそのように言ったことは覚えがないのです。全然違うことを言ったのですが、そのように聖霊が働き受けとめたのだろうと、そのときは黙っていました。
  似たようなことがある教会でありました。(内容省略)
 そのときに司祭の説教であっても、人は自分の聞きたいようにしか聞かないし、受け取れないのだと痛感しました。これは最近、司教になってからもいろいろな雑誌やカトリック新聞からも取材があるのですが、載せる前に必ずチェックをします。さすがに記者ですから、こちらの伝えたいことをかなり正確にとらえているのですが、それでも微妙なニュアンスが違うことで、訂正を行うことが必ずあります。ここで言いたいのは、人々はいろんな情報があるとしても、自分が受け止りたいようにフィルターにかけて、その情報を受け取っているということです。

 そして、その問題は現代社会においてはより深刻になっています。私たちの出会う情報量が極めて多いわけですし、それが自分にとって正しい情報を選び出すことが非常に難しくなっています。今、ネットの世界では多くの専門家が指摘しているように、特に保守的な考え方をする人とリベラルな考え方をする人たちは、ホームページなり自分がアクセスする情報は、自分の思いを満足させる、そういう情報に偏っている。どんどんそれが偏っていく結果、あのテロリストのような過激な思想を持つにまで至る。自分でその情報を選んで受け取ろうとしているわけではなくて、自分の中にはそういう思想性がいつか選ぶ情報を自分の中でより分けて、そしてどんどん偏った世界にいく傾向にある。これは私たちが陥りやすい現代の大きな誘惑であり罠だと思います。
 しかし、同時に私たちがそのような傾向を持っているのとは別に、私たちに敢えて誤った考え方をするように操作させる情報もあります。偏った情報で一方の意見や情報しか流さない、あるいは今、世界中で問題になっているフェイクニュース。わざと誤った情報を流して印象を操作する。そのようなことが溢れている中で  私たちは正しい情報を受け散るということを意識的にチェックすることをしなければ、どんどんそのようなものに流され、悪い言い方をするならば、洗脳されている。そういう危険性をある社会に生きていると言わざるを得ないと思います。

  最近、日本の司教団はハンセン病患者の人たちに、あるいは亡くなられた元患者の家族に対して謝罪声明を出しました。これは久しぶりに全司教が一致して出す司教団声明です。
ちょうどそれが、あのハンセン病患者の家族に政府が控訴を断念した、判決確定と重なったのですが、それはたまたまだったのです。その半年以上前から謝罪声明を出さなければならないということで、社会司教委員会で原案を練り、何回も委員や司教の中でやりとりが行われていました。
 ここで非常に難しかったのは、どうして謝罪する必要があるのかという意見です。すなわち、日本のカトリック教会はハンセン病患者のために献身的に努力してきました。いろいろな施設を作り、患者の人たちがここは地上の天国だと思えるような世界を作りたいと、本当に生涯かけて献身的に奉仕した方々もおられました。そういう人たちの行為が間違っていたとか、それらを無にするような、そういう謝罪声明であってはならない、いろんな方面から出されていました。しかし、私たちが良かれと思ってやっていたことが、結果としてあの政府の隔離政策と極めて深刻な人権侵害といわれるものを見過ごしてきたことになるのです。それをどのように謝罪声明に入れるのか、非常に実は苦労しました。
  出された文言の中で一点だけお話します。謝罪声明は「わたしたちカトリック教会は」
ではなく、「私たちカトリック司教団は」ということで主語はすべて、謝罪する主語はすべて司教団としました。教会の指導者である司教団が間違っていた。しかし、その中で形式的に働いておられた人とたちは、その政府の国策に結果的に協力してしまった責任を負わせるものではない。また、負わせることは出来ない。その背景は当時の社会の常識です。   あのハンセン病患者の人たちは隔離されてしまう。当然だということがだれも疑問に感じず、その政府の政策にすべての国民が協力していたわけです。何もそこに疑問を感じていなかった。確かにぞ隔離政策は必要ないという専門家の意見やカトリック教会の中でもそのような人たちがいました。それはごくごく少数でした。あの時代の流れ、雰囲気の中にあって、それに異を唱えるなどということは発想すら起こってこないような状況でした。しかし、これはハンセン病に対する私たちが誤った取り組みをしていたことに限らず、同じことが戦前の雰囲気と言えますし、そして今日本の社会を包み込んでいる空気がいつのまにか、法律などでそういうことが駄目だと言うのではなく、国の空気全体がそうでなければならない。そこから外れた考えを知るものは攻撃され排斥されていく。そういうような得たいのしれない空気のようなものが出来上がってきているのではないかと危険性を感じています。そして、これこそがむしろ明白なおかしな法律だとか、おかしな政策だとかと糾弾するよりも、いつのまのか私たちの足下から私たちの心を食い尽くそうとする、恐ろしいウイルスの存在だと思います。
  そして、現代社会はそのようなものに満ちているのです。危機的状況、戦争とかあるいはそれに至るような私たちの自由が制限されるような、弾圧されるような社会は突然やってくるようなわけではありません。知らないうちに、いつのまにかそうなっていたというのが戦前や日本に限らずドイツもそうでした。民主的な社会だと思い込んでいた、そのしくみの中できちんと営まれていたと思った社会が、まったく違うものに変わってしまっていた。私たちは経験しているわけです。ですから私たちは今、それを見極めることの重要性。それが問われているのだと思います。

  2016年にバチカンで行われた非暴力と正義と平和の会議において、先日シスター弘田も来て南スーダンの司教の話をしていました。非常に印象的な話でした。南スーダンで二つの勢力が対立し内線状態だったとき、唯一、双方の意見を聞くことが出来るのは、信頼されていた司教でした。どうしたら双方の仲介が出来るのですかという質問に対して、非常に抽象的に「愛する。」と答えられたのです。愛するのは分かるが具体的にはといろいろ言ってましたが、特に印象的だったのは、敵対する者に対するリスペクト、相手に対する尊敬の念がなければ絶対に和解というものは成立しない。そして、相手を尊敬、尊重するという態度とともに、現れる態度は聞くことです。相手の意見は自分とは違う、異なる、まったく異なる正反対の価値観を持っていたとしても、まず聞いて受け止める。それは時間がかかるけれど徹底することによって、和解の糸口が見えてくるのだと。それが具体的に政治的レベルの愛することの意味だと、そうおっしゃっていたのが印象的でした。果たして今、日本が抱えている様々な多くの問題の中で、特に敵対する考え方や自分たちと相いれない人たちに対して  相手をリスペクトして主張に耳を傾けることから和解をしようとする努力をなされているのか、これが非常に疑問なところであります。

 実は、昨日、今日の日付(8月15日)で「韓国と日本の和解に向けての会長談話」を正義と平和協議会会長のメッセージをとして日本語と韓国後で出しました。今回は背景となる解説が非常に多く7ページにもなりました。その締めくくりに引用した祈りが、今日の皆さんのしおりの中にある「第52回『世界広報の日』の教皇メッセージより」というものです。これは昨年5月の世界広報の日に、アッシジのフランシスコの平和の祈りを題材にしながら教皇様が祈りとして載せられていたものです。
 これを祈りとして、最後に皆さんと読んで、終わりたいと思います。

『主よ
 わたしたちをあなたの平和の道具にしてください。
 交わりをはぐくまないコミュニケーションに潜む悪に気づかせ、
 わたしたちの判断から毒を取り除き、兄弟姉妹として
 他の人のことを話せるよう助けてください。
 あなたは誠実で信頼できるかたです。
 わたしたちのことばを、この世の善の種にしてください。
 騒音のあるところで、耳を傾け、 混乱のあるところで、調和を促し、
 あいまいさには、明確さを、
 排斥には、分かち合いを、
 扇情主義には、冷静さをもたらすものとしてください。
 深みのないところに、真の問いかけをし、
 先入観のあるところに、信頼を呼び起こし、
 敵意のあるところに、敬意を、
 嘘のあるところに、真理をもたらすことができますように。
 アーメン。』
(日韓政府関係の和解に向けて 8.15「日本カトリック正義と平和協議会 会長」
 談話より)』

2019年8月11日日曜日

年間第19主日

この日の主日ミサは、勝谷司教と韓国から訪問中の金山椿(キム・サンチュン)司祭の共同司式でした。


キム神父様はイエズス会所属で、現在、ソウルの西江大学(ソガン大学)哲学科で教鞭をとっておられるそうです。
キム神父様のお説教では、日韓関係が悪化している状況のなか「カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。」というお話がありました。

キム神父様のお説教の大要をご紹介します。

『このような素晴らしいカテドラルで司教様と一緒にミサを捧げられ、そしてお説教までやらせていただきとてもうれしい気持ちです。

今日の第2朗読「ヘブライ人への手紙」に書かれているように、アブラハムは行き先も知らずに出発しました。私も26歳の時、イエズス会がどんなところかわからずに入会して、もう35年が経ちました。また、この札幌教区がどんなところか分からないのに、お盆に実家に帰省する人のように毎年、20年間くらい夏休みに訪れています。昨年、司祭に叙階して25周年を迎え、年も60歳で還暦になっています。昨年本を出しました。タイトルは「私をこえてあなたのうちに」という本でした。このタイトルはアウグスティヌスの「告白録」に書かれている言葉です。告白録の最後には結論として「私をこえて、ここであなたを見つけるでしょう」と書かれています。

神様はいつも働いています。ヨハネ5・17に「わたしの父は、今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」とあります。
イエス様は何の仕事をなさっているのでしょうか? それは、コリント2・5-18に、「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」とあります。イエス様の仕事というのは、人類と神様を和解させること。その和解させるその任務を私たちにも下さったので、私たちもいつも働くということです。
最近、日韓関係が悪化していますが、カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。そういう面で司教様には深く感謝いたします。

人生の中で大切なのは、私たちが何をしたかではなく、それを愛を持ってしたかどうか、ということです。愛を持ってしなかったことは、全て徒労に過ぎません。しかし、愛を持ってしたことは、少なくともその愛は永遠に残ります。例えば何年か前に東京で、韓国の留学生が線路に落ちた酔客を助けようとして命を落としたことがあります。その学生の行為は永遠にその場所に残ると思います。

ある哲学者は「人間が人間に与える一番大きなプレゼントは、対価を求めない純粋な奉仕、その思いである」と言っています。
母親は、何の対価を求めずに自分の子供に奉仕します。
イエス様も同じです。私たちの罪のために、この世のすべての罪を愛を持って贖ってくださいました。そこに愛がなければ何の意味もないただの徒労に過ぎません。
芥川賞をもらった又吉さんの「火花」という小説には、このような言葉があります。「そういう君だけが作れる笑いがある」。私たち信者にも、「私たちだけが行うことができる愛がある」と思います。
日野原重明さんという皆さんもご存知のお医者さんがいます。100歳を超えても現役で頑張っておられました。彼は1970年に「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれました。彼はその事件があってから、自分に言います。「私の命は残っている時間の中にある」ということでした。その大切な時間を、「子供のころは自分のために使うのですが、大人にあっては他人のために使わなければなりません。」と彼は語っていました。他人のために使う時間が多ければ多いほど、天国は近づいてくるということです。

人生は何よりも愛を学ぶ学校でもあります。
この世は、「愛」の小学校だと思います。この世に私たちが送られてきたのは、この「愛」を学ぶためです。修道院のような所は「愛」の中学校か高校ではないかと思います。「愛」の大学とはどこでしょうか?それは、私たちに本当の愛は何かということを教えてくれるところだと思います。これは、マタイ25章に出ています。「牢にいるときに訪ねてくれた」。多分、「愛」の大学は刑務所じゃないかというような気がします。「病気のときに見舞いに来てくれました」、病院も「愛」の大学という気がします。
この世には愛の大学はあちこちにたくさんあるのではと思います。ここを卒業したら天国に直接行けるのではないでしょうか。

私たちのふるい命は、この地上でなくなります。しかし新しい命、それはキリストとともに神の中に託されます。』



2019年8月4日日曜日

年間第18主日

この日の第一朗読「コヘレトの言葉(1・2,2・21-23)」では、現実世界の空しさが語られます。
たしかに、私たちの生きている現実は、理不尽なことがたくさんあります。
でもそう感じてしまうのは、神に心が向き合っていないということなのかもしれません。


この日の湯澤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音はルカだけが書き残している部分です。ある意味でルカのセンスというか、財産的なものに厳しい見方をするルカ、福音を書いた人の性格がしないでもないです。ある人がやって来て、財産を分けてくれるように兄弟に言ってくださいと頼んだのです。この当時の宗教的指導者は、こういう問題を取り上げて調定をしたり裁いたりしていましたが、キリストはそれをきっかけに別な話を始めたのだと思います。一般的にすべての人に向かって、どんな貪欲にも注意を払いなさいと。ですから最初の人は貪欲な人かなと思うのですが、そうではないと思います。おそらく遺産相続の時に不平等を感じて、何とかして欲しいと言ったんでしょう。こういう理不尽なことは良くあることです。普通であれば正しいことをしていれば、良い報いがある。昔から良いことをしていれば天国にいけると。悪いことをしていれば地獄にいくと。普通はそう考えますね。実際はそうでないことの方が多いですね。

 今日の第一朗読は、旧約聖書のコヘレトの言葉、昔は伝道の書と言われていました。「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これは空しく大いに不幸なことだ。」せっかく努力したのにそれを自分のものに出来ない、努力が無駄になる。全然努力しない人が良い思いをする。それはおかしいことではないかということですね。普通だったら、がんばったら良いことがおこる。そうとは限らないのが人間の世界ですね。
  分かりやすい例ですが旧約聖書に、カインとアベルの話があります。カインとアベルの兄弟がいて、二人が神様に捧げ物をします。アベルは牧畜をする人だったので、一番良い羊を神様に捧げます。カインは農民だったので農作物を捧げました。両方とも素晴らしいものを捧げたのですが、神様はアベルの捧げ物を受けて、カインの物は受け入れなかった。カインは怒ったのです。
 こういうことは良くあります。同じ人間に生まれながら、非常に頭の良い人とか、イケメンの人とかいますね。そうじゃない人はあまり良いことがないですね。頭の悪い人はどれだけ努力しても勉強は出来ないし、イケメンでない人はどんなにもてようと思ってもモテないですね。なんで神様はこんな理不尽なことを…。私の中学の同級生にすごく頭の良い人がいました。高校も男子校でいっしょでした。いつも遊んでいるのですが、成績はトップでした。なぜ勉強をしないのにそんなに出来るのか聞いたことがありました。一回授業をきけば全部分かるよと言われました。そんな馬鹿なと思いました。でもその後、東大の医学部に入りました。こっちはきゅうきゅうとして試験勉強し、やっと大学に入れたのに。頭の良い人は勉強しないのに良い大学に入り、良い職業を得て良い生活をするのですが、そうでない人はどんなに努力しても駄目。カインとアベルみたいなものですね。
 
 どうやら人間の社会は、良いことをすれば良い報いがあるだけではないらしい。コヘレトは考えたのですね。反知恵文学と言います。頑張りましょう。神様は必ず報いをくださいますから。これを知恵文学といいます。知恵の書や格言のこと。コヘレトなどの反知恵文学は、どんなに努力しても良い報いがあるとは限らない。だったらどうしようかという問いかけですね。カインとアベルの物語に戻りますと、神様は答えを出すのです。もし悪いことしていなかったら神様の方をずっと見ていれば良い。もしそのときに嫉妬などして神様から離れると罪を犯すかもしれない。実際にカインは弟を殺してしまったわけですね。
カインとアベルの話は簡単にお話しがなされていますが、コヘレトもそうですね、神様の摂理、神様の意思は分からないものです。だから悪いことをしても栄える人はいますし、良いことをしても不幸になる人はいる。でも、神様の意思、思いは分からない、結果では分からない。最終的には神様の意思、心に従って生きようではないかとコヘレトは結論を出します。そのように考えると今日の第二朗読も似たようなことが書いてありますね。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイの教会への手紙3章1、2節)キリストの話もそういうふうにしてみると、なんとなく分かるような気がします。

  確かに私たちはこの世の中で生きなければならない。その中で何と理不尽なことがある。
努力しても報われないことがあるし、変だなということがたくさんあるかもしれない。
 でも大切なことは、そういう中で神様は私にどういうことを望んでおられるのか、探すこと。それに応えて生きること。私たちは日常生活でどうしても表面的な人間的なものに心が囚われてしまって、一番大事なことを忘れてしまっているかもしれない。キリストは言うわけですね。弟子たちに求めたものは何か。神様の意思を知ってそれに応えること。そのように考えると今日のこの話も何となく分かってくるのでは。私たちが最終的に大切にしなければならないことも分かってくるのではないかと思います。』

2019年7月28日日曜日

年間第17主日 「主の祈り」

ルカ 11・1-13
この日の福音でイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えました。
祈りというのは自分自身を見つめることでもあります。
自分の願いは何でしょうか?


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の場面ではイエスがエルサレムへ行く旅の途中が続いています。 先週はマリアがイエスの足元で話を聞いていて、マルタがイエスに食事を出すために忙しく働いている場 面でした。 マルタはマリアの態度を見て自分の正当性を訴えられました。 イエスはマルタをさとされました。 それによってマルタの祈りは受け入れられたのです。 マルタが望んでいたようにではなく、神の望んでおられたことはこういうことだったとマルタは理解したと思います。

さて、今日の福音はイエスがあるところで祈っておられたという言葉から始まります。 弟子の一人がイエスにわたしたちにも祈りを教えてくださいと言います。 わたしたちにとっても祈り方というものは切実なものかもしれません。 神父様、こういう時にはどのように祈ればいいですか、と聞かれることがあります。 例えば、墓をしまってこちらに移したいのですがどう祈ればいいですかとか、ロザリオが壊れてしまいましたどうすればいいですかと聞かれることがあります。 こういう時に話すのは、「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と、感謝の気持ちを伝えて処分すればいいと伝えます。 土に埋める、あるいは燃やすのがいいと思いますが、今の世の中はなかなかそうもできませんので、通常のごみと一緒に捨ててもいいと伝えています。 すでに感謝の祈りをささげたなら目的を達成した物として処分できると思います。 もし捨てきれないというのであれば、直接司祭に持ってきてください。 司祭の権限で処分しますので安心していただければと思います。

今あえて「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と言いました。
この神への呼びかけとして「父よ」という言葉はもともとユダヤ人の祈りでは出て来ません。 旧約聖書では知恵の書、シラ書で神に願うときに、数回、出ているだけです。 この2つの書物は紀元前3世紀以降にギリシャ語を用いるユダヤ教徒が書いたものです。 ギリシャ語で書かれているけれども、カトリック教会ではユダヤ教徒が伝えた大切な聖書として扱っています。 ともかく、イエスは祈るときにはまず「父よ」という言葉から始めています。 これは当時とても新鮮だったと思います。 当時のユダヤ人の間では「父よ」というのは、子どもが「お父さん」と親しみをこめて呼びかける言葉でした。 逆に言えば、お父さんは子どもの呼びかけを聞いて「何だい?」と耳を傾けることになるでしょう。 そして、子どもの願いを聞き入れ、その願いをかなえてあげようとします。 それほどの親密な関係がわたしたちと神の間にはあるのだということです。
今日の福音の最後の部分、11節以降のたとえ話で父と子の関係に当てはめて、反語で強調しています。 反語というのは、言いたいことの反対の内容を疑問形で述べる表現のことを言います。
「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。 「卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。
最近のニュースを見ていると自分の子供を虐待しているのをよく目にしますので、本当だろうかと揺らいでいる面もあるかと思います。 ただ、多くの親は、「自分の子供にはよいものを与えることを知っている」のです。 同じように、いやむしろ自分のお父さん以上に、神である父は求める者の願いを聞き入れてくださいます。

父である神に祈ることはわたしたちの基本的な姿勢です。 このミサもそうですし、日々の生活の中でも祈りはあると思います。 神はわたしたちの願いをすべてご存知です。 ですが、わたしたちが何を願いたいのかに気づいて、父である神に願うことがなければかなえられません。 ですから、祈りというのは自分自身を見つめることでもあるのです。 しばらく沈黙のうちに自分の願いを振り返り、感謝の祭儀を通して神の恵みを祈り求めてまいりましょう。 』

2019年7月21日日曜日

年間第16主日 「マルタとマリア」

この日の主日ミサは、佐藤神父様とレイ神父様の共同司式で行われました。


今日の福音は、ルカ福音書(10・38-42)の「マルタとマリア」の箇所が朗読されました。

このマルタとマリアのようなことは、私たちの家庭や職場でも起こりうるような出来事です。マルタの面白くない気持ちはよく理解できます。ではなぜ、イエス様はしっかり者のマルタの方を叱ったのでしょうか?

佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音を読んでみると、わたしはどうすればいいのだろうかと悩むかもしれません。 マルタとマリア、対照的に見えるこの姉妹の行動のどちらが正しいのかと思うかもしれません。 結論を言えば、どちらも間違っていないと言えます。
マルタもイエスをもてなしていましたから、アブラハムが行ったもてなし(創世記18・1~)のようにとてもいいことをしていると言えます。 マリアもイエスの話を熱心に聞いていましたから、アブラハムが旅人の言葉を聞いたようにとてもいいことをしていると言えます。 自分がやっていることを他人も同じようにやるべきだと考えないことです。
比較すべき問題ではありません。 マルタの言葉の中に「わたしだけに」という言葉があります。
「わたしだけにもてなしをさせて」という訴えを聞くと確かにそうだ、みんなでもてなそうと同意してしまいがちです。 イエスはそうは考えませんでした。 マルタの選んだこともマリアの選んだこともどちらも正しいことであるのは確かです。 しかし、イエスはマルタが自ら選んだことをマリアも同じように選ばなければならないという考えを戒めます。 今日の場面はイエスがエルサレムへ行く旅の途中です。 イエスは十字架につけられて自分が死ぬことを知っていました。 この親しい弟子であるベタニアのマルタとマリアとの最後の出会いであることもイエスは知っていました。 だからこそ、自分の話すことをよくよく聞いてほしいと願っていました。 マリアが選んだことはイエスとの時を過ごし、イエスの話をよく聞いておくことでした。 マルタが選んだのはイエスのために最高のもてなしをすることでした。 どちらも正しいことです。

しかし、マルタは訴えます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 イエスはマルタの名前を2回呼んで答えます。 目の前にいる人に向かって答えているので名前を呼ぶ必要がありませんが、それも2回呼んでいるというのは本当によく聞いてほしいということだと思います。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」 どのようなもてなしをしたらいいのかというところに心が向いてしまっていて、マリアも同じようにしてほしいと思っているマルタに呼びかけています。 イエスの答えは「必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。 それを取り上げてはならない。」 イエスは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのです。 みんなから多くのもてなしを受けることではなく、みんなに一つの福音を伝えるためにイエスは来たのです。
 もちろん、マルタが悪い方を選んだということではありません。 イエスの福音を聞くことが第一であるということです。 今日の福音はイエスのことばで終わっていますから、マルタがどう思ったかまではわかりません。 しかし、自分の願いを訴えることは祈りにつながっていくことが分かります。 どうすればいいのかわからないときに主に祈ることで解決につながっていきます。

 マルタがイエスに訴えたことによって、マルタはイエスから最も重要なことを教えられました。 イエスのことばを聞くこと、神の国を求めることが大切なことだと教えられました。 もしかしたらイエスのことばで、マルタは自分自身の凝り固まった考えを打ち破ることができたのかもしれません。 福音書はこのあと、主の祈りに続いていきますのでマルタの考えがどうなったかはわかりません。
 イエスはわたしたちが主の福音をよく聞いて歩むことを求めています。 わたしたちも福音を聞いてイエスが伝えたいことを理解し、この世に神の国を宣べ伝えていくことができるよう祈ってまいりましょう。』

【夕べの会】
7月20日(土)15:00から、教会の中庭で親睦会「夕べの会」を行いました。EMCの皆さん、佐藤神父様、レイ神父様、佐久間神父様も参加され、バーベキューと生ビールで親交を深めました。


2019年7月15日月曜日

年間第15主日「善きサマリア人のたとえ」

ルカによる福音書 10章25~37節
イエスは、「自分の隣人とは誰か?」とイエスを試す律法学者の質問に対して「善きサマリア人のたとえ」を話されました。この話はルカ福音書だけに記されています。
このたとえ話をとおして、イエスの言われる隣人とは?そして、人が陥りがちな偏見・差別について考えてみましょう。

この日のミサは、勝谷司教様の司式でした。


司教様のお説教の大要をご紹介します。

『数年前の話ですが、東京管区の司祭の集まりで、次のようなことが話題になりました。日本の西にある大きな教区では信者も多いのですが、そこでは日曜日のミサに参加する出席表などのようなものがあって、それの出席率が悪いと秘跡を受けることが出来なくなるシステムを採用している教会がある。これは事実かどうか確認をとっていませんが。その話題が出た時、そんなとんでもないことをしているのかという反応がでることを私は期待したのですが、管区のその集まりのある一定の神父様方は「我々もそうすべきだ。」という意見を持っていることに大変驚いたことを記憶しています。つまり普段、教会で信者としての務めを果たさない、(それは教会維持費を納めていないことを念頭にしていたのですが)普段、教会に来ていないのに結婚や葬儀の時だけは信者としての権利を主張してやってくる。これはとんでもないという発想らしいのですが。
 そもそもこの発想は何か勘違いしていないか。教会はサロンではないですね。会費を払っていれば必要なサービスを受けられるようなところではありません。そして、教会維持費にしろ、教会員の務めにしろ、信者がその信仰に基づいて神に対する自発的な喜捨。そこに大きな勘違いがあるのです。しかし、同じような発想が、つまり守るべき規定を守っていないから、私たちの正常な関わりからは除外されるべきだ。これは長い間教会で支配されてきた考え方です。
 以前、シノドスから帰ってきたとき、この場所から話したことですが、そこでテーマになっていたことはまさにこのことです。教会は永い間、裁く教会であったこと。教会の掟を守れない人を排除しようとする。ひとり一人、それぞれの事情があって、守りたくても守れない。確かにその人自身に責任があるかもしれない場合もありますが、それがどのようなケースであれ、ひとり一人の心の状態に耳を傾け、寄り添っていくべきである。これがシノドスで打ち出された新たな今後の教会の姿勢として示されたのです。しかし、私たちの中にこの裁く心は、ひじょうに深刻に巣くっていると感じられることが度々あります。

 今日の福音書は、善きサマリア人のたとえ話として何度も耳にしたことがあると思います。憐れに思うという言葉は「はらわた」という言葉で、深い共感を表す言葉として知っていると思います。しかし、この対局にある律法学者の姿はどこに問題があったのでしょうか。もっとも大切な教えは何であるかは、この律法学者もイエス様も意見を同じくしています。それをどう解釈し、実践するかはまったく違っていました。この律法学者は神様の起きては徹底的に命がけで守るべきと考えていました。そして掟に、隣人を自分のように愛すると書いてありますから、この掟を厳密に適用するには、隣人というものが誰であるかをきちんと定義しなければならない。そして、律法学者の考えによれば、まず神の民に属さない、今日の福音書に出てくるサマリア人などは、最も隣人から除外されるべき人種であったのです。さらに罪を犯していく人たち。徴税人や娼婦という人たちは真っ先に隣人リストから除外されるべき人たち。それを神の前で正しいことと信じていたのです。 しかし、イエス様の視点はそれとは全く異なる視点でした。むしろ掟を守れない、正しく生きようとしてもそれが出来ない、そういう弱さや矛盾を抱え人たちの心に寄り添っていくなかから、その人たちに救いに至る道筋を同伴しながら示していこうとする、これがイエス様の姿です。
 人ごとのようにして聞いているかもしれませんが、実は裁く教会の姿は札幌市内の教会で何度もいろいろなところから報告されています。一番多いのは、子供の時から教会から離れてしまっている。結婚を迎える時、教会で式を挙げたい。普段教会に来ていないのに虫がよすぎると拒否されるケースがいまだにあります。これも札幌教区で実際にあったケースですが、葬式を拒否する。
  そのような裁く教会。それが当然だと思う信徒がいるのも確かです。しかし、これは何か私たちに大きな勘違いをしているのではないか。私たちに必要なことは、まず掟を優先し、それに人を当てはめることではなくて、むしろその掟を守れない人の心に耳を傾ける姿勢、これがとても大切である。そういう人の心の痛みに少しでも共感できるならば、
けっしてその人を頭ごなしに裁くことは出来ない。少しでも私たちがその人の心の痛みに共感できるならば、そこにおこってくるものは裁きは排除され、共に歩んで行きたい、支えてあげたい。心にわきおこってくる自然の営みです。
  今日の第一朗読で、この教会の掟を、律法学者のいう何百もある掟を覚えを守ろうとする困難な道ではなくて、最後の行にある「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)。私たちは自分の心に呼びかけられる聖霊の働きに従っているならば、難しいことではない。

  最後に、私が司祭になって間もない頃体験したことを分かち合いたい。司祭になった頃、数年間、子供たちはたくさんいました。毎年、召命錬成会というものを行っていました。50人近い男子だけですが、今で言えば差別になる。ただ、男子だけというのは、召命は男子だけと考えていたわけではなくて、とても野蛮なサバイバル・キャンプをしていたわけです。テントを張ったり、かまどを作ったり、遠くまで水をくみに行き運んでこなければならない。こんな体験生活は今の子供たちはしていません。楽しい、大胆な体験をたくさんしました。
  この召命錬成会の準備が大変だったのです。ある年には積丹でやろうと下見に行きました。弁当を持たして、まる一日費やすオリエンテーリングというものも計画しました。地図とコンパスだけ持たせ出発させるのです。そのオリエンテーリングのコースを探すために出かけました。一日かけて、最後に夕方になってひじょうにきれいな丘陵地帯がありました。そこは歩けるのではないかと、道路を逸れて山道を車で見に行きました。途中、ゴツンという変な音がしたのですが、気にせず一番上に着いた時に、オイル缶に穴が空きオイルがジャーと漏れていました。車は動きません。人里離れた所で途方にくれていたところ、下から2台の車がやってくるのです。そして、降りてきた運転手は「やっぱり。」と言うのです。下から登る道路があるのですが、逸れて上がっていくところで、オイルの跡がずっと続いているのを発見したのですね。その運転手さんは千葉から来たトラックの運転手さんでした。休暇をとってふたつの家族が旅行をしていたのです。この先に難儀をしている車があるに違いないという運転手の直感です。それでわざわざ登って来てくれたのです。そして、やっぱりいたと言ったわけです。それで私の車を牽引して小樽の工場まで運んでくれました。着いたのは夜8時。小樽のどこか旅館を予約していて、すでに家族で楽しんでいるはずの時間に、付き合わせてしまったのです。私は後でお礼をと思い名前や住所を聞いても教えてくれないのです。職業だけは分かっていたのですが。困った私はお金を包んで渡そうとしたのです。当然ですが受け取ろうとしないのです。その時、最後に何を言われたかというと「今度はあなたが道で困っている人を見つけたら、その人に返してくれ。」。びっくりしました。その言葉を聞いて、私は神父ですとはとても言えませんでした。信者以上に信者の心を理解する人でした。これは私にとって本当に善きサマリア人でした。私がその時にお礼をしたならば、そのことは完結したのだと思います。
 「次にそのお礼は別な人に返してくれ」という、最近そのような運動がどこかにあると聴いたことがありますが、その当時はそのような社会的な運動とか、ましてやインターネットのような情報が広がっていることもなかった時です。ですから、その運転手さんの自発的な心の現れだったと思うのです。もっとも福音の心を理解している人だと私は感じ取りました。まさに福音書のように「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)、この言葉を自分に投げつけられたと感じています。
 福音書は難しい理屈ではなくて、自分や人に対しての痛みを共感出来る、その心に従って行動するときに、私たちの愛の世界は広がっていくものだと切に感じました。』

2019年7月7日日曜日

7月7日(日)年間第14主日

私たちは一人一人が福音を述べ伝えるためキリストから遣わされています。

今日のルカ福音書(10・1-12、17-20)では、72人を任命し、宣教に遣わされました。


湯澤神父神父様のお説教の大要をご紹介します。

『イエスが12人の弟子たちを宣教に遣わすという出来事については、共観福音書すべてに記述されていますが、ルカだけが72人を任命して派遣するという、もう一つの出来事を収録しているわけです。
この72人を任命して派遣するという背景には恐らく、モーセの出来事が前提になっていただろうと思われます。ユダヤ民族がエジプトから脱出してカナンに向かう途中、モーセの仕事があまりにも多かったので、誰かアシスタントをつくってはどうだろうかという話になり、70人を選んでモーセの前に集めたわけです。この70人がモーセの仕事を分担して、負担を減らしたという形になりましたが、どういう訳かそこに集められなかった人の中から、二人の人の上に霊が下って同じように予言を始めました。そして、その二人も加えた72人がモーセの手伝いをするようにったという出来事でした。
今日の福音朗読にあるイエスに任命された72人は、12人の弟子という特別な人たちだけではなく、もっと参集範囲を拡げているわけです。この意味するところは、宣教は12人だけの務めではなく、いわゆる全てのキリスト者がこの任命を受けているということと理解してよいかと思います。

この派遣にあたっては、「二人ずつ先に遣わされた」とあります。二人ずつというのは「一人ではない」ということです。これは、ある意味で共同体の宣教ということが前提とされているということです。宣教活動というのは個人プレーではない、共同体として宣教活動をするということです。それが「二人ずつ」ということに象徴されています。

さらに、宣教に遣わされる人たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」と話され、必要性が開かれているということを伝えています。

それから宣教活動というものは、そう楽なものではないということも話されています。狼の中にエサを撒くようなものだと喩え、それだけ大変なものだということでしょう。それ故、共同体として宣教を行うということだと思います。

同時に、「財布も袋も履物も持つな」と話され、宣教にあたって、個人の能力とか、才能とか、地位とか、そういうものには頼らないように、ということです。宣教というものは、そういうものでやるわけではない、神が宣教するのであって、個人の能力に頼るのではなく、神だけを信頼するように、ということです。逆に言うこと、「私のような能力のない人間には出来ません」ということではありません。却って能力のない方が、相応しいのかもしれません。
「心の貧しい人は幸い」と言うように、神しか信頼できなければ、それだけ神を頼ることになるし、下手な能力があれば却って自分の能力を信用して神様を信頼しなくなる訳ですから、能力のない方がむしろいいのかもしれません。

「途中でだれにも挨拶をするな」とありますが、これは別に、しかめっ面して誰とも触れ合わないでということではなくて、目的が宣教に行くことにあるのだから余計なことをするわけにはいかない、という意味あいです。お喋りしたり、親しくなったり、することが目的ではないということです。

そして、どこかの家に入ったら「平和があるように」と。そこで実現するのが平和だというわけです。ただこの平和は、人間が作る平和ではなく、復活したキリストから来る平和です。所謂「主の平和」のことです。そこで集まっている共同体の中に、神の平和が実現するようにという意味であって、世界平和を祈っているわけではありません。この平和は人間が実現させる平和ではない、だから受け入れなければ戻ってくると言っているわけです。もし人間が作るものであれば、成功するか失敗するか、そんな程度のものです。

今日の福音朗読では、このように宣教というものを表現しているわけです。
私たちは、そこで、自分たちはどうしているだろうか?というところまで考えなければなりません。
内側を向いていて閉じ籠もって、お御堂の中にだけいて外にでない、漏らさない、というのはキリストの意向に沿ってはいません。
「行きましょう」と言われているわけですから、福音を伝えるために出ていくことが目的なわけです。そしてまた集まってくるというのが重要なのです。集まるために出て行って、出て行くために集まるわけですから。
常にこのようにして、福音を伝えるために私たちは毎週、派遣されているようなものです。

私たちは一人一人がキリストから遣わされているということを自覚しないといけないと思います。堅信を受けた人は全ての人が、この使命を受けている、キリストの共通祭司職に与っているわけですから、常にキリストによって遣わされている、そして共同体として遣わされているということを心に留めながら私たちの使命を自覚していかなければならないと思います。』

2019年7月1日月曜日

6月30日(日)年間第13主日

今日の聖書朗読では、神が望まれる道を歩むことが最も優先されることとして示されています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


(ルカによる福音書 9章51~62節)
『キリストに従う人たちの心構えについてキリストが語っている箇所ですが、文字面をみると非常に非人間的な感じがしないではないですが、この情況を見るときにそれは、もっとはっきり分かるのでしょう。「イエスが天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)。いよいよエルサレムに行って十字架に架けられる、天の父の意思を実行する。それに応える、その方向に向かって歩み始める。 そのときの弟子たちに対する望みをイエスは弟子たちに語っているわけです。

 ここの言葉を理解するために第二朗読のパウロのガラテヤの教会にあてた手紙を参考にすると少しは分かりやすいと思います。パウロ独特の霊と肉という対立で語っています。「あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)。肉という言葉を往々にして道徳的に捉えたり、欲望という意味で捉えると、意味がひじょうに狭くなってしまうと思います。肉と霊はそういう対立ではない。神と関係のない人間の普通のあり方を「肉」と呼ぶわけです。神の意思に応えて生きる道を「霊」といってパウロは分けるわけです。
 肉に罪を犯させる機会はけっして道徳的に悪いことをしたり、そういう欲望に振り回されたりすることを意味するわけでなくて、時には非常に良いボランティアもこれに含まれてくるわけですね。一見外側から見ていると非常に良いことをしているように見えても、それが神の意思にそっていないことがあり得るわけですね。皆さんもご存じのバベルの塔の話があります。人間が力をあわせて塔をつくる。ひじょうに人間の持っている能力を十分に発揮した素晴らしい事業です。けっして神はそれを妬んで破壊したわけではないのです。神の意思に沿ってないので壊したわけです。どんなに良いことをしても、神の意思に沿っていなければ、神はそれを注意したり破壊したりするわけです。そういう意味で肉というのは、良いことをしていても、肉ということはあり得るわけです。
 そういうところからキリストの言葉を見ると「まず私に従いなさい。」(ルカ9:59)。そうするとその人は「父を葬りに行かせてください。」(ルカ9:59)。キリストは「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。」(ルカ9:60)と言うわけです。
 この福音を伝えるという使命を受け、それに応えたこの人は、もうすでにそういう人間的な考え方に従った生き方をしてはならないことです。それが良い悪いではない。そのやるべき使命を果たしなさいということですね。キリスト自身もエルサレムに向かう、その使命を果たすために歩き始めている中での言葉ですから、そういう意味で全体の流れに沿って理解しなければならないわけです。

  このエリシャは、エリヤからマント(外套)を投げつけられて、自分の使命というものを、初めて神の召命を感じとって従っていこうとするわけです。  が、その家族との別れ、あるいは神とは関係ない生活を良いか悪いかは別問題、そういうものから決別するわけです。そして、決してそれを忘れないようにエリヤは言うわけです。「わたしがあなたに何をしたと言うわけですか。」(第一朗読、列王記上19:19、20)。そういう意味ですね。決して神から呼ばれたことを忘れてはならないといことです。

 私たちは往々にしてこの区別をしなくなっています。カトリック教会は罪というものを
ひじょうに道徳的に捉えすぎていて、本来の罪の意味を偏って狭くなっています。どんなに良いことをしていても、神の意思に沿っていなければ、それは極端に言えば罪です。立派なことをしているから罪ではないということではない。キリストが十字架に架かっていくときに、全能の父の意思を実現するために応えるためにいくわけです。その応えは、十字架に架かって死ぬことであり、降りてくることではない。人々は降りてきたら信じるかもしれない。しかし、それは父の意思には沿っていない。キリストはそれが父の意思に沿わなければ、それがどんなに効果的なことであったとしてもしないわけです。

 そういう意味で私たちも考えてみなければなりません。私たちはキリストの呼びかけに応えて、キリスト者として歩み始めたわけですから、何が大切なことなのか、それが分かるはずです。「『主よ、主よ』と言う者が皆、主の国に入れるわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)とキリストも言うわけです。私たちは常に神、キリストの呼びかけを聴いて、何が神の意思なのか、そしてそれを探してそれに応えていく、この姿勢を常に忘れてはならないと思います。』

2019年6月23日日曜日

6月23日(日)キリストの聖体

聖体の秘跡とは、神から与えられたパンをともにいただくことによって、神とのつながりと人と人とのつながりを深く味わうことです。

今日の主日ミサは、佐藤謙一神父様の司式により行われました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『 今日はキリストの聖体の祭日です。イエスがわたしたちに対してどのような出会い方をするのかということが示されていると思います。
今日の福音はイエスが 12人の使徒たちだけを連れてベトサイダというガリラヤ湖の北の町に行きます。
 イエスは使徒たちに病気をいやす力と権能をお与えになって、それぞれ各地に派遣しました。その使徒たちが帰ってきたばかりでしたから、各地で行ったことをイエスは聞きたかったのだと思います。ところが群衆はイエスがベトサイダに行ったことを知ってイエスの後を追います。 使徒たちの話を聞こうとしていたけれども群衆が集まって来たので、イエスはその群衆を迎え入れて神の国について語り、治療の必要な人々をいやされます。
 むしろイエスは群衆を歓迎したと言えると思います。 自分の時間よりも人々の必要の方がイエスにとって大事なことだということです。 これはイエスの生き方そのもの、イエスの活動そのものです。 人々に対するイエスのやさしさがにじみ出ていると思います。
 そしてさらに日が暮れて来たときに12人の使徒たちが群衆を解散させようとします。 人間的な常識から考えれば、当然のことです。 しかしイエスの考えは違います。 使徒たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。
 イエスがことばと行いをとおして示されたことは、自分たちは神から見捨てられていると思っている人々に希望を与えることでした。 弟子たちが最初からこのことを自覚していたわけではないことはイエスへの言葉でわかります。 弟子たちがそれを理解するのは、イエスが十字架上で殺された後、復活したイエスと出会ってからのことです。

さて、5000人以上の人が5つのパンと2匹の魚で満腹したという奇跡についてどう考えるかという問題があります。
 福音書が書かれたのがイエスの死後40年もたった後でしたから口伝えでのエピソードが教会の中で伝えられました。 その中でわずかな食べ物をイエスが人々ともに分け合い、大勢の人が満たされたという弟子たちの体験があったことは確かだと思います。 そこにはイエスの与えるものは豊かであり、本当の生き方が示されているということを感じていたはずです。
人数の問題や食べ物の数の問題を考えると人間的な誤りにおちいってしまいます。 愛には大小や多い少ないはありません。 イエスのもとには本当の豊かさがあり、本物のいのちがあるということを伝えたいのだと思います。

弟子たちは聖霊降臨の後、人々の前でイエスのことを語り始め、教会を作りました。 イエスの弟子たちの集まりである教会はイエスの名のもとに集まることによって目に見えるしるしとなりました。
一人ひとりがそれぞれ神と出会うだけではなく、お互いに集まることによって父と子と聖霊の神を確認し、 力づけ合うのです。イエス・キリストに従う者たちが同じ信仰に支えられて、毎日の生活の中で神との出会いをよりたやすくできるのです。 聖体の秘跡とは、神から与えられたパンをともにいただくことによって、神とのつながりと人と人とのつながりを深く味わうことなのです。 イエスは最後の晩餐で、神とのつながり、人と人とのつながり、そしてご自分と弟子たちのつながりをずっと続くものにしようとされました。

聖パウロのコリントの手紙は、最後の晩餐でイエスが言われた言葉の記録としては最も古いものです。 イエスが亡くなってから20年後くらいに書かれたものと言われています。
 このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる使命がわたしたちに 与えられたのです。
わたしたちもキリストの聖体を通して、神とつながり、同じ信仰を持つ人々とともにイエスの示された愛を実現していく者となれるよう祈ってまいりましょう。 』