2019年3月17日日曜日

四旬節第2主日 「洗礼志願式」

この日のミサは、後藤神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

福音では「主の変容」の場面が朗読されました。


この日行われた洗礼志願式には5名の入信志願者が臨まれ、神父様の前で洗礼の意思を表明し、正式に洗礼志願者となりました。
約1ヶ月後の復活徹夜祭には、皆さんが揃って洗礼の恵みに与れることができるよう祈り支えましょう。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『「灰の水曜日」から始まった【四旬節の典礼】は、主の復活までの主日を除く40 日間に定着するまでは色々な変遷を経ていると伝えられています。しかし、キリストの受難を思い起こして、それを生きる期間としての四旬節。そのことは、復活をもって切り離すことは出来ないこと。初代教会の時代から「主の日」に信者が集まり、主の復活を記念を行っていたということは、カタコンベの壁画にも描かれており、そのことが推測ができるようです。
 また、四旬節を過ごしながら主の受難と復活に信 者を固く結びつける意味合いからも洗礼式が行われるようにもなりました。四旬節の目的、期限は、すべてのキリスト者の生活がこの過ぎ越しの秘儀にあったのです。罪のゆるしを受けて、新しいいのちを得て、復活されたキリストの姿にあやかることが出来ますように。そういった新しい出発に向けての準備でもあることは、この四旬節の精神でもあります。四旬節、皆さんはどんな日々を過ごされていますか。
  今日は、説教の後に洗礼志願式を行い、洗礼の準備を進めている受洗予定者を紹介することになります。

 さて、先週のイエスに対する悪魔の誘惑の話から、今日はイエスの変容の話 に変わりました。黙想をする中で単純にキリスト者の信仰に対して精神的にも肉体的にも、四旬節の日々を過ごすなかで、霊と肉において変容してゆくことが語られているように思えました。今日のみ言葉、イエスの姿が変わったという出来事は、どの福音書でも語られています。イエスは弟子たちに「エルサレムに上って苦しみを受け、殺され、三日目 に復活することになっている。」と話しています。そのことを誰にも話すなと戒め、さらに「それでもわたしについて来たい者は、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と話されましたが、それから八日目に起こった出来事でした。
 イエスは高い山に上られ祈っておられる時に、その姿は変わったと聖書は記しています。この現場に立ち会ったのは限られた弟子で、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけでした。でも一緒にいたはずの三人の弟子はひど い睡魔に襲われていて、ぼんやりしていたかのようでしばらくは、目の前で起きていることが良く分からなかったのです。40日にわたって悪魔の誘惑を退けたイエスを思うと、誘惑に負けるなという声が響いて来るようです。神の恵みをいただく時にでさえ、うっかりしてもらい損ねている私たちは、弟子たちとそう変わらないかもしれません。復活祭に向かう四旬節の準備の大切さがココにも描かれているような気がします。

 ベトロはおぼろげな意識が目ざめる中で、ことの重大さを知り悔やんだことでしょう。とっさに叫んだのが「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。」そして、「仮小屋を三つ建てましょう。」いかに慌てふためいていたかが分かります。聖書には、ペトロが「自分が何を言っているのかわからなかった。」とはっきり書かれています。 ペトロの失敗、ぼやっとした性格。イエスの忠実な弟子として、はまだまだが時間を必要としたペトロ、ほかの弟子でした。そういう姿は私たちとほとんど同じ。そういうことを私は黙想する中で感じています。
 
 今日呼びかけているみ言葉で、「イエスの変容の出来事」は、私たちに恵みを受けとるために「心の準備」がいかに大切かを伝えていると思います。「自分の十字架を背負いなさい」ということは、祈ることを大切にし、十字架の輝きを知るために、己を捨てる生き方も大切にしなければならないと、四旬節の中で考えるように話されていると思います
命の大切さ、十字架の神秘を理解することの大切さ。自分の十字架を背負ってイエスに従うことの大切さ。そのために時には、自分を捨てるという覚悟も持たなければイエスの忠実な弟子にはなれないということ。四旬節の歩みを私たち一人ひとりが考え、イエスにより深く繋がっていきたいと思います。』

2019年3月10日日曜日

四旬節第1主日

回心と愛のわざに励み、イエスの荒れ野での試みを思い出し、試練や誘惑を受けとめ乗り越え、四旬節の準備をいたしましょう。


今日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『典礼の紫色は待降節と、そして今始まった四旬節の間に着ることになります。先週の「灰の水曜日」から、四旬節が始まっています。
灰の水曜日の儀式に与った方は、みな額に灰を受けます。灰を受けながら四旬節の精神というものを心に刻まれたと思います。
四旬節の典札を通して、わたしたちがよりいっそうキリストの死と復活の神秘を深く悟ることができるように祈りましょう。そして日々、キリストのいのちに生きることができるよう四旬節を過ごしていきましょう。

四旬節のテーマは、「苦しみを経て 栄光へ」ともいえるかと思います。このテーマを今日の第一朗読の「申命記」が最初に語ります。試練は、イスラエルの民が苦しみの時代を超えて、エジプトを脱出しモーセによって紅海を渡り、砂漠を越えて40年間と言う長い時の流れを持って試みられ、その後、嗣業の地 に導かれたことを伝えます。試み、試練の時には民は神から与えられたマンナについてつぶやき、また、みことばから離れ自分たちの思うままに生きたいと神に仕えることを忘れ、過ちを犯してしまいました。

四旬節のテーマは新約にも引き継がれ、今日のルカの福音では、イエスの荒野での40日の悪魔の試みにも重なってきます。イスラエルの民の過ちがイエスの三度の誘惑と重なり 考えることができるのです。マンナのつぶやきは、「人はパンだけで生きるのではない」とイエスは悪魔の誘いを退けます。みことばから離れたイスラエルの民は偶像礼拝の過ちを犯しますが、「あなたの神なる主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ」と悪からの妥協を許さず退けました。さらにイスラエルの民が砂漠で渇きをおぼえ、水が欲しいと神を試みましたが、イエスは「あなたの神である主を試みてはならない」とその誘惑を退けたのです。
試練の中に起こってくる悪からの誘惑は、今のわたしたちにも起こりうることです。イスラエルの民が犯した三つの誘惑の過ちは、イエス・キリストの悪魔から受けた三つの誘惑と重なりますが、新しい民の頭である救い主イエス・キリストを証明することにもなりました。その救い主は、受難、死と復活をもってわたしたちを救いへと招いているのです。
教会が四旬節の典礼の精神を思い起こさせるのは、復活秘義にあずかるために、古い衣を脱ぎ捨て、キリストを着ることでもあるでしょう。
心に刻みたい祈りは、四旬節の初めにありました。
「いつくしみ深い神よ、四旬節の務めに励み、清い心で復活祭を迎え、御子の過越の神秘を祝うことができますように(灰の水曜日、灰の式 I )。
「四旬節の努めに励み、罪のゆるしを受けて新しいいのちを得、復活された御子の姿にあやかることができますように」(同、または灰の祝別 II )。この祈りは、四旬節が始る灰の水曜日の典礼儀式で使われた祈りになります。

四旬節に入り最初の日曜日である四旬節第1主日には、A,B,C年の各年ともイエスの洗礼の後、聖霊によって荒れ野に導かれ、そこで悪魔から誘惑を受けてそれに打ち勝った記事が今日も読まれましたが、この内容は誰でも知っています。
現代社会でも「試み、試練、誘惑」は誰もが体験しますが、この世に生まれすでに洗礼を受けたわたしたちもまた、試練や誘惑の場に生きているように思います。そして、避けることのできない試みの現実が日々わたしたちに訪れてきます。そういう時に私たちは、どんな選択をし、どんな決断をして歩んでいるでしょうか。
避けることのできない試みの現実がありますが、終末的な試みの場を通して約束の地に導かれる神の民として、私たちがキリスト者としてよい決断を持って前に進まなければなりません。

今日のみことばでは、そうした三つの誘惑の物語をもって私たちに黙想を求めています。、当時の人々は 預言者を通して伝えられた戒め、勧めとして思い起こして、黙想をしていたと伝えられています。私たちも二千年前のキリスト者と同じように教会が示している四旬節のテーマを心に刻んで歩んでいきたいと思います。

四旬節の「苦しみを経て栄光へ」というテーマで始まった四旬節、回心と愛のわざに励み、イエスの荒れ野での試みを想い出して、試練や誘惑を受けとめ乗り越え、そして復活祭の準備に一人一人がお互いに祈り合って今日のミサに与りたいと思います。』

2019年3月7日木曜日

灰の水曜日

この日、灰を受けた私たちは四旬節を「悔い改め」「罪の償い」「神への立ち帰り」の心で過ごしましょう。

この日のミサは、佐藤神父様と後藤神父様の共同司式で行われました。



佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「灰の水曜日」で、今日から四旬節に入ります。この紫色の祭服は、私が司祭叙階の時に四種類全部揃えたもののひとつですが、紫というのはほとんど使われることがなく、この四旬節と待降節の期間に使われるので、非常に珍しいと思います。ただ、今日は久しぶりにクリーニングをして着るものですから、アルバにまとわりつく感じです。逆に、新鮮な感じをしております。
 今日の「灰の水曜日」で私たちは灰を受けるわけですが、そのしるしによって私たちは四旬節の間中、悔い改めなさい、罪の償い、そして神に立ち帰れ、これを思って過ごせるようにこの灰を受けるわけです。

 第一朗読、ヨエルの預言の始めに「あなたたちの神、主に立ち帰れ」という言葉がありましが、これが端的に四旬節の意味を表しています。すでに洗礼を受けておらえる皆様にとっては、改心と罪の償いを意味しますし、これから洗礼を受ける方にとって洗礼の準備を意味するわけです。洗礼の準備とは復活祭に向けての準備といえます。洗礼志願者が復活徹夜祭で洗礼を受けた後、洗礼を受けている私たちは「洗礼の約束の更新」を行います。そしてその「洗礼の約束の更新」をとおして、私たちも洗礼を受けたと時のことを思い出し、神から離れることのないようにします。もし、神から離れていたなら、この四旬節の期間に悔い改めて、神に立ち帰るように心がけるのが良いと思います。

 福音の中でイエスは次のように言っておられます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。…祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。…断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。」と、あります。これらこういうことをすることは、神の前で神を試す行為であると思います。
  私たちはこの四旬節の間、祈りをしますし、施しをします、善い行いをします。断食もします。そのときに決して人に見てもらおうとか、と思うのではなくて、これが当たり前のことなんだと思うように歩んでいってもらえると良いと思います。施しをすることで既に報いを受けているのだ。祈ることで既に報いを受けているのだ。断食することで既に報いを受けているのであって、そこで人に見られたからといって何になるのかということです。普通のことであって、そして人に誇ることではないと、心にとめていただきたいと思います。

 第二朗読、Ⅱコリントの手紙でパウロは、「神と和解させていただきなさい」と言っています。私たちに求められているのは、神に立ち帰ることであり、神と和解することです。
四旬節に入り、今日、灰を受けるために集った私たちは、自分の心が神に向かっているのだろうかと考える良い機会を与えられています。
  このような神の恵みに感謝して、今日引き続き、灰の式に入っていきたいと思います。』

2019年3月3日日曜日

年間第8主日

死よ、お前の勝利はどこにあるのか(一コリント15・55より)

今週「灰の水曜日」を迎えます。今日の福音でイエスは「隣人を咎める前にまず、自分の過ちを正しなさい」と諭されました。



後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『1年の典礼の季節の中で「年間」の季節が一番長い季節ですが、年間の季節は毎年、四旬節、復活節がちょうど中に入ってきますので、前半の年間の季節と復活節が終わった後の年間の季節と、ふたつの季節に分かれています。今日は年間の前半の季節の最後の主日になります。今週の水曜日(6日)から新しい典礼の季節、四旬節が始まろうとしています。四旬節を迎えると、皆さんもきっと春が来る、復活節を迎えるという思いの中で、春も来るんだと、長い信仰生活をしている人は感じているのではないかと思います。

 3年間(C年)の前半の最後の主日である今日のみ言葉。いろいろなテーマでイエスが弟子たちにたとえ話で語られました。イエスの弟子たちに対する心は近い将来、ご自分の後継者として教えを正しく、忠実に生きることを願い、その弟子たちが力強く復活の証し人として生きること、そういう思いであったと考えます。そうしたことを考えて、今日のみ言葉を味わう時に、たくさん語られるたとえ話の理解が深まるような気がします。
 自分の後継者として相応しくあって欲しいと弟子たちに語ったたとえ話。盲人の案内のたとえ、目にあるおが屑を使った人を裁く過ちの話し、実を結ぶ木の話など、次から次へと話されました。キリストの証人として、人を導く者になるならば、相応しい道案内人にならなければならない。案内をしながら、共に穴に落ちては困る。そして、あなたがたは師であるイエスに勝ることはないにしても、相応しい弟子になることが出来る。そのためには努力もしていかなければならない。
 イエスの目には、弟子たちの中にはまだまだ努力をしなければならないものが見えていたのかも知れません。先週のみ言葉を借りるとすれば、思いおこすと、裁くことはできたとしても、赦すことも、与えることもまだまだ十分に出来ていない弟子たちであったようです。時々、弟子たちはイエスに仕えていながら、非常に狭い考え方で人々を追い払おうとしていました。時にはペトロもそうでした。イエスの言葉にほんの少しでしたが、疑いを持ってしまった。あの網を下ろしなさいと言われた話の時に、ペトロはまだ十分な信頼を持てないでいた。また、弟子たちの中には、イエスの右に座るのは誰だろうか。そんな思いで、自分の立場に執着する弟子たちもいたように語られています。狭い考え、利己心に左右されて自分の立場を優先しまう弟子たち。そういう生き方がイエスの目には、見え隠れする弟子たちの心がありました。正しくない、道を外れたことを企てる心などを表す「よこしまな気持ち」。それは時に律法学者たちがたびたびイエスをおとしめようとしていたときに現れていたものでした。でも、その「よこしまな気持ち」は弟子たちの中に時々湧き上がっていたようです。

 今日のみ言葉の中でも厳しいイエスの呼びかけがありました。弟子たちに向かって「偽善者よ!」と呼びかけています。隣人を咎める前にまず、自分の過ちを正しなさいと諭されました。他人に教え、他人を導く第一の条件は、自らをよく知ることであり、自らを改め清めてこそ、キリストの弟子にふさわしい者になる。そして、心の内からあふれる言葉は、「話しているその人を現す」ともいわれます。
 それは第一朗読のシラ書でも語られていました。「話し方で、人は試されるのであり、心の思いは、話しを聞けばわかる。」と語っています。話す前にまず自ら実行することが求められ、その人の生き方に関わっているというのです。弱い私たちです。心の目が常に開かれてイエスに信頼するものであり、良き実を結ぶための人になっていかなければと思います。けっして偽善者であってはなりません。
 それでも、自分を見つめていると弱い自分が目に浮かびます。第二朗読のパウロが励まして応えてくださっています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないよう にしっかり立ち、主の業(わざ)に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:58)。

 わたしたちは、日々の生活の中で自分の十字架を背負って歩いています。試練においては、神に信頼して信仰に励むことが大事になります。弱さの中にあって主が励まし、力を与えてくださいますように。そう祈りを続けなければと思います。
 復活祭の準備となる四旬節が、今週の6日、「灰の水曜日」から始まろうとしています。教会が奨めている四旬節の精神はどんな精神でしょうか。回心と愛のわざに励むように と、毎年のように教皇様は全世界に繰り返し呼びかけられています。「償い」という言葉も良く四旬節に使われている言葉です。「灰の水曜日」は特別な日になります。「大斎・小斎」という言葉を皆さんは思い起こしていると思います。満60歳に達するまでの成人、健康な人は「大斎・小斎」を守る日とされています。大斎とは、一日に一回だけの十分な食事をとり、その他はわずかな食事をすることとされています。これは満14歳から60歳までの健康な人が守って欲しい、守るべき義務としての大斎とされています。また、小斎は肉を控えるという伝統的な考え方になっています。
 四旬節中は全世界の教会と連帯し、小さき人たちとの共感を大切にして「愛の献金」の奨めも続いています。日々の償いは各自の判断で、愛の行為に換えて行うことも「償う」といえると説明されています。愛と償いのわざを積極的に進めていくことが出来るように、この四旬節もまた神様の力と後押しを願いながらと思います。』

2019年2月24日日曜日

第24回カテドラルコンサートのお知らせ

2019年5月18日(土)
17:00開演 / 16:30開場
「聖母マリアの夕べの祈り」全曲演奏会



年間第7主日

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい(ルカ6・27より)
今日のルカ福音書では、「キリストの愛」が語られました。
キリストが求める愛は、愛してくれる人を愛する、よくしてくれる人に善いことをする愛ではありません。


今日のミサは、3月21日に司祭叙階式を控えている簑島助祭が共同司式され、春休みで帰省中の千葉神学生が侍者と聖体奉仕をされました。派遣の祝福前に、お二人から簡単なご挨拶がありました。



この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『昨日は、札幌地区宣教司牧評議会主催で、信徒の交流会が行われていました。私も参加しましたが、約140名の信徒、修道者、司祭が参加していました。司教様のお話が1時間ちょっとあって、その後、小グループに分かれて分かち合いがありました。「信徒中心の教会」が大きなテーマになっていました。札幌教区の新しい宣教司牧のありというのも背景にあると思います。私の参加したグループでも分かち合いをしましたが、教区のこれからの方向などを意識した発言が多くありました。1人の信徒の方が、信徒中心という言葉から、「私たちの教会には外国の人や未信者の人も来ているのですが、信徒中心というのはそういう人は入るのでしょうか。」という素朴な疑問も出て、分かち合いが進められていきました。皆さんは、司教様が年頭書簡で毎年のように「信徒中心の教会」ということを書かれているのをご存じでしょう。「信徒中心の教会」…どんなふうに考えていますか。私たちの教会は「信徒中心の教会」なのでしょうか。これに対応するのが「司祭中心の教会」でしょうか。信徒中心だけであっても困るでしょうし、司祭中心だけであっても困ります。
  司教様が話される「信徒中心の教会」という背景には、信徒一人一人がキリスト信者として委ねられた使命をまっとうしているかどうか問われている、「信徒中心の教会」になりましようということだと考えています。それは、過去に信仰についても信仰生活についても神父に頼り切るような信仰があったのではと感じます。信徒一人一人が自分の信仰をダイナミックに力強く生きることの方が大切だという背景があって、司教様は話されているような気がします。グループの中の一人が信徒中心と言ったとき、教会に来て勉強している未信者人の人が入る入らないか、それは私たち一人ひとり信者としての相応しいあり方を感じたとき、そういう人を排除してはいけない、そういう人を含めて私たちの教会と言うのではないですかと、おおかたグループの中の話し合いになっていました。きっと、皆さんもそのような考えと思います。
  教会に集められた一人ひとり、洗礼を受けていようといまいと、私たちの教会を作っていくのが大切だと、基本的にみなさんもそういうことを考えると思うのです。話し合いをし、分かち合いをし、ひとつの言葉から出てくる様々な考え方を共有しながら、もっと豊に私たちの教会共同体を作っていかなければと、そういう(交流会の)分かち合いの場でもあったと思います。
 新しい(司祭)異動にともなって、わたしたちの教会がもっともっと、主のみ心にかなった教会共同体づくりをしていかなければと、私たち誰にでもあると思います。皆さんの心をひとつにして、私たちの信仰が一人ひとり豊に生きられる教会、そして人とのつながりを作っていける教会を、皆さんといっしょに祈りながら進めていければと思います。

さて、『コロサイ書』には「愛する医者ルカ」(4.14)とあり、ここから福音書記者ルカの職業は伝統的に医者であると信じられてきました。また、画才・ 絵の才能もあり、初めて聖母マリアを描いたとの伝承もあり、画家の保護の 聖人でもあるといわれています。先週も話しましたが、ルカは、貧しい人とか、虐げられている人、弱い人、異邦人に対して非常に好意的なようであったようです。先週の「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」は、神から祝福を得られないといわれてきた貧しい人たちにとって、まさに福音でもありました。
 先週に引き続いて語られている今日のイエスのみことばは、あまりにも立派で恐れ入ってしまいます。「敵を愛しなさい」とか「憎しみを持っている人に親切にしなさい」それだけでも、 圧倒されて、何も言えないくらいなのに、さらに続いて、裁くな、ゆるしなさい、与えなさいと続いて話されます。
 道徳の教科書を見る思いでもありますが、わたしたちの日常生活でそれを守ることはいかに難しいことか。これらはイエスの新しい律法ともいわれていますが、なかなかわたしたちには出来ないことでしょう。わたしたちが信じる神は、わたしたちの敵も、憎む人をも愛しているということが真底わかり、その人たちのためにイエスが十字架に上られたと思う時、「わたしは出来ません」とは言えなくなってくるのです。そのことを心の底で思い知らなければと考えるばかりなのです。イエスの力、聖霊の恵みをいただかなければ、到底出来ることではありません。

 憎しみの連鎖を断ち切るためには、「目には目を、歯には歯を」という人間の心の中から湧き上がる感情を押さえ、越えなければならないのです。わたしたちが許せない、憎いと思う人のためにも死んでくださったというキリストの愛の論理が、わたしたちを招いているのです。しかし、人をゆるすことも、愛することもできずにいる自分は、自分に特別に関係する人だけを愛することに満足しているようでもあり、神の望みに応えることなく信仰者になりすましているようで、どんなに罪深い者かと感じるのです。
 イエスがペトロに「網を降ろしなさい」といった時、ペトロは心の中で(そんなことをしても無駄です)と少しの疑いを持ち、そのことをペトロはイエスの側にいることさえも恥ずかしく思い、「わたしから離れてください」と罪を告白しました。 失敗を繰り返すペトロが、いかに純粋な信仰を持つ人であり、魅力ある人間であることかと感じ入るばかりです。

 キリストが求める愛は、愛してくれる人を愛する、よくしてくれる人に善いことをする愛ではありません。「憎む者に善を行う」という敵さえも愛し、悪に対しても積極的に善を施すキリスト教的な愛なのであり、それは、十字架を背負うという自己犠牲を伴う愛なのです。
 キリストは神の国に入る条件として、神への愛と隣人への愛を説かれています。自分の秤で人を量ることなく、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」という教えを忘れることなく、わたしたちの心の中にどんな時にもとどまるように、今日のミサをとおして祈りましょう。』

2019年2月17日日曜日

年間第6主日

「心の貧しい人、その人たちは幸いである」
イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。


今日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日のみ言葉は、ルカの福音書と共観福音書のマタイ福音書にみられる同じ出来事が語られる場面ですが、ルカとマタイの福音を比較すると興味深いものがあります。ルカの福音では、弟子たちと共に山に退いていたイエスが、民の群れに教えるために山から下りて「平らなところに立って教えた」という下りになります。逆に、マタイの福音は、群衆から逃げて弟子たちと一緒に山に退き、弟子たちに語られた話しとして「山上の垂訓」になっているからです。同じような内容のお話ですが、山で語られるイエスと、民衆の近く平らなところで語られるイエスと、極端に違うイエスの姿を感じてしまいます。どういう理由だったのでしょうか。黙想の材料にもなります。
 ルカの福音によるとイエスは山に行って夜通し祈り、弟子たちを呼び寄せて中核となる12人の使徒を選びます。イエスによる12人の弟子の選びによって、新しい神のイスラエル、神の国の形成の意図があったかも知れません。そして、彼らと一緒に 山を下りて、平らなところに立ってイエスの教えを聞こうとして集まって来た群衆に語られたのです。ルカ版とも言える「平地の説教」は、マタイでは「山上の説教」となっています。マタイではイエスの教えの頂点として3章にわたり書かれています。でも、ルカの記述は、わずかに30節です。ルカは、すでにここに至る前の4章でイエスがナザレを訪問をしていました。貧しい人に福音が伝えられる時機が満ちたということで、福音宣教に出かける、そういう記述になります。イエスの話を聴いて感動した人々は、次から次へとイエスの周りに集まりました。特に貧しい人々が押し寄せています。

 今日の福音でも「貧しい人は幸いである」という言葉がありました。貧しい人とは、まず第一にイエスが「あなたがた心の貧しい人たち」という言葉になっています。貧しい人、それは聖書では心の状態を言うのです。次に「教えを聞こうとしてイエスのもとに来た群衆」、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞いて行う人」たちに代表されるイエスのメッセージ。それは、当時のキリスト者ではありますが、現代のわたしたちにも繋がってくるものです。
 ルカはキリストのみ言葉をとおして、貧しい人、迫害に苦しむ人々に対して地上的富や喜びが、われわれに救いをもたらすものではないことを強調して書かれます。ここにルカの、特に貧しい人たちに心を配り、貧しい人を幸いなるもののトップにあげて語るイエスの救いを伝えるのです。「金持ちが神の国にはいるのは難しい」と言われるように、富んでいる人を不幸なものの頂点にあげています。飢えている人、泣いている人は貧しい人のグループに入りますが、逆に、「今、満腹している人」、「今、笑っている人」は、みな富んでいる人のグループとしています。
 さらにいま、飢えている人、今泣き悲しんでいても、イエスによる救いが実現するときには、状況は完全に逆転すると伝えています。キリストは「権力あるものをその座から引きおろし、卑しい者を引き上げる」からです。ルカは、当時の社会背景に、貧しさや飢えに苦しむ人がいかに多くいたことや、また、富める人や権力ある人に迫害されていた人を背景に置いて福音書を書かれたように思います。

  私たちが聖書を見るときに、聖書を書いた福音記者の意図も少し考慮して読むと、深い味わいがあります。特にイエスの時代、その迫害の時代、苦しむ人飢え乾く人も含めて、社会が混乱した中で書かれたことを念頭に入れて置く必要があると思います。誰しも貧しさや飢え、迫害を好む人はいません。それらの苦悩を、救いの喜びを得るための手段として奨めています。そして福音の喜びは、資格のない者が資格のある者とされるところになる、そういうところのようです。
 ユダヤの国では貧しい人々は、少なくとも神から祝福を受けた人々とは見なされませんでした。彼らは神の国から遠い存在であったのです。しかし、イエスの福音はそういう人たちに慰めを与え、満ち足らせるのです。神が資格のない者を救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったがゆえに、貧しい人たちが幸いなのです。逆になぜ、喜んでいる者、満腹している者が災いとなるのでしょうか。それは、イエスを受け入れない人々、福音に耳を傾けようとしない人々、み言葉を聞かず、神の恵みに預かることが出来ない人々。それは現実にこの世的に満足してしまって、自分たちの幸いだけを考えてしまう人々と受け止めてしまいます。富自体が悪いわけではない。
 イエスの言葉を聞きたいと集まった群衆にとって、約束の救い主が来たと喜びます。イエスと共にあることが幸せでした。ますます、イエスの近くに行きたいと願います。イエスに触れようとする人々も出てくるくらいです。先日の福音でのパンの奇跡の話は、イエスが三日も自分といっしょに過ごしてついて来た群衆が、何も食べずに空腹であることに気づかい、「パンの奇跡」を行ったと紹介されていました。

 今、みことばに耳を傾けるわたしたちは、どんな幸せを持っているでしょうか。私たちの熱心さはどこに向かっているのでしょうか。日常の生活では、悩みも苦しみもあるわたしたちです。心貧しく生きている私たちではないでしょうか。見かけはそのようにないと言っても、心の中では誰でも悩みや苦しみを持っているはずです。今飢えている、今泣いているとは、現実に社会の底辺におしつぶされている人々と受け取っても良いはずです。私たちもそういう一人であるはずです。
 わたしたちは、貧しさや苦悩のうちに、見捨てられ、押しつぶされているその時、神が心配し、手を差し伸べ、救おうとされていることを感じとりたいものです。そして、救いへの道、希望を見つめ、真の幸福への道を見出すべきではないでしょうか。心の貧しい人、その人たちは幸いである。イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。』

2019年2月10日日曜日

年間第5主日

今日朗読されたルカ5・1-11では、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となった弟子達の姿が語られました。


札幌教区の司祭異動(5月1日付)が発表されました。
それぞれの地区・小教区での新しい”歩み”が始まります。
神様の導き・恵みを祈りましょう。

ミサの後、恒例の「雪割り(排雪作業)」を行いました。
今年は雪もそれほど多くなく、青空の下、ほどよい汗を流しました。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」と今日の福音は語られます。わたしたちもクリスチャンとして信仰を持ち、「神のことばを聞こう」として教会に集いますが、わたしたちの信仰は、どうなのでしょうか?

湖畔に立つイエスは漁を終え、岸に上がって網を洗う漁師の仕事ぶりを眺めています。大勢の群衆が自分の回りに集まってくるの見ながら、舟に乗り岸から少し離れて、イエスは教えを群衆に述べられるのです。 神のことばを聞くということは、「神のみことばとして」受け入れることです。みなさんは、今もキリストが教会をとおして神のみことばを宣べ続けている全世界の人々中の一人であり、今日もイエスのことばを聴いているのです。
 「漁師が夜通し働いても漁がなかったが、キリストの言葉に従って網をおろすと網が裂けるほどの大漁であった」と言うことは、宣教も使徒職活動も キリストのみことばに従がうこと、そして、キリストと一致して働くことで効果があるということを象徴する話ではないでしょうか。
漁師のペトロにとっては、まさに奇跡のようですが、キリストにとってはみことばに従って働き続ける教会の未来を示唆する、預言的しるしでもあるようです。このすべてを見た漁師はペトロの他にヤコブとヨハネもいて、神のしるしを見て圧倒された三人はイエスに従うことになりました。

また、イエスは不思議なしるしを行ない病気さえ治してしまう方なのです。今日読まれたルカ福音書の前章では、高熱で苦しんでいたペトロの姑(しゅうとめ)を治した話がありました。この時、ペトロはすでにイエスという人物に深く関わっていることになります。
 ペトロはイエスに出会い、イエスに惚れ込み、イエスに従う者となったようですが、”招かれて”従うことになったのです。
「召しだし・出家」には、本人の熱意から決心する場合もあるでしょう。しかし、ペトロは「自分の思い」からではなく、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となったのです。自分の熱心さからだけでは、召し出しは続くものではないとよく言われることです。私の神学生時代のある先輩は、家族が皆、熱心なクリスチャンで特に祖母の強い勧めもあり司祭の道を志したのですが、祖母の帰天をきっかけに改めて自分自身に問い掛け直し、神学校を去ったのでした。

ペトロは神の力の偉大さをつぶさに見て、イエスの足元にひれ伏しました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。わたしたちの力だけでは出来ないことをするのが神の業なのです。
イエスのもとにとどまる信仰者であるためには、いつ変わるかも知れない自分の気持ちを拠り所とした信仰ではなく、確かな信仰を持つためにも、何があっても変わることのないイエスの恵みを拠り所としなければなりません。自分の気持ちでイエスを信じる者ではなく、イエスの恵みによって 捕らえられた者になること、その信仰が必要なようです。

札幌教区の司祭の異動が発表されました。また、新たな土地、環境で働くことになります。旅する教会のように、ひと所にとどまっていることもならず、生きている限り、呼ばれるまで、また歩きはじめなくてはなりません。 人を漁る(すなどる)仕事でもあるわたしたち司祭の仕事ですが、矛盾を感じるような時でも、また、困難に思える時があっても、イエスとともに働くことで、豊かな実を結ぶことができると信じ、これからも進みたいものです。息切れがしてしまうようなこの頃でもありますが、生きていることを感謝し、一歩一歩、地を踏みしめて、歩いていかなくてはとも思います。

今日のみことばの最後には、 ペトロはイエスに招かれて「すべてを捨ててイエスに従った」と結んでいます。 このことばを心に留め、今日も、みなさんとともに新たな出発がありますようにと祈ります。』

2019年2月5日火曜日

年間第4主日

この日の福音ではイエスが郷里のナザレで受け入れられなかった話が語られました。
私たちがイエスを立ち去らせることのないよう,私たちの信仰を強められますように。


この日は月例会後に、2年間に渡って教会の将来について検討した「中長期ビジョン検討会議」の報告が行われました。共同体の活性化に繋がるような素晴らしい内容の提案がありました。
これらの提案を、どのように具体的に実現させていくか?私たちの共同体が試されているような気がします。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日、わたしたちが聞いた聖書のみ言葉、ルカの福音書が続いて読まれています。今日聞いた最初のみ言葉は、先週語られていた最後の一節がもう一度、繰り返し読まれています。宣教の始めにあたり、ガリラヤ地方の会堂で教え始めた、霊に満ちたイエスの姿が私たちの頭によみがえってきます。公生活に入って会堂で福音を宣べ伝え、新しい神の御国について語り始めたイエス。至る所で評判を呼び、皆から尊敬を受けられたと、聖書に記されています。そして、イエスは生まれ育ったナザレの会堂に入ってきました。でも、これまでの人々の反応とナザレの会堂での人々の反応では対称的でした。マタイやマルコの福音書では宣教の終わりの時期の話が、今日わたしたちが聞いているルカの福音書は宣教の始めの出来事として語られています。ルカによると会堂のすべての人の目がイエスに注がれていた。ナザレでも最初の目がイエスに注がれています。ナザレはガリラヤ湖から二十数キロメートル離れた盆地にある寒村で、せいぜい100~150人くらいが住む村でした。
 親戚でなくても、誰もがイエスの子ども時代を含め、両親のこともよく知っていたことでしょう。最初は、イエスの恵みのことばに聞き惚れていた人もいたのではないでしょうか。しかし、人々の拒絶は、「あの大工のヨセフの子である。」「わたしたちと同じガリラヤ人ではないか?。」と考え、現実に夢破られた思いだったのでしょうか。嫉妬心に満たされることもあったのでしょうか。殺そうとさえ思うほどに、怒りを爆発させるような人々も現れます。なぜ、これほどまでになったのでしょうか。

 昨日、2月2日の「土曜日」は「主の奉献」の祝日でした。読まれたみ言葉の中にシメオンがイエスについて、ヨセフとマリアに話した言葉がありました。自分が死ぬまでは、自分がこの腕に救い主を抱くまでは、死ぬことができないと神殿に詣でていたシメオン。その時、二人に話した言葉があります。「イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたり、反対を受けるしるしとして定められている。」。シメオンは旧約の預言者の言葉をはっきりと心に留めている人でした。宣教を始めるナザレで始ったことを思い起こさせ、預言がここでも成就するかのようです。
 神の計画の偉大なことがここでも見え隠れします。ナザレの人々のイエスに対する悪い感情や不信に対して、町の外に追い出そうとする動きは、イエスを十字架に送り出すような行為でもあるはずです。イエスはそうした人々の間を通り抜けて立ち去ったと書かれています。「去って行く」は「進んでゆく、旅を続ける」と言う意味もあるそうです。これはまさに、十字架への道、旧約の預言者のように、受難に向かって進んでゆくことを暗示しているようです。
 ナザレの人々の不信に対してイエスは、旧約の聖書の話を引き合いに出しました。一つは「飢饉の時、エリヤがシドンのサレプタの未亡人のところへ遣わされ」、もう一つは、「エリシャがシリアのナアマンの病気を癒やした」という出来事です。これは二つとも、異邦人がイスラエルの預言者から恵みを受けたという内容なのです。イスラエルの民の不信仰は、異邦の世界に向けられたように、ナザレの人々の不信仰と重ねられて、イエスの教えと恵みが故郷のナザレの人々が退けられているのです。
 郷里のナザレの人々は、カファルナウムで行った神のしるしである奇跡を求め、期待していたがイエスは行われなかった。期待はずれはイエスへの非難となり、憤慨し、街からさえも追い出そうとすることとなりました。今日の詩編の言葉にあるように「あなたの正義でわたしを救い、わたしに こたえ、助けてください」。神への信頼の言葉です。人々の顔を恐れることなくエレミアが、神との約束を信じて自分の召命を歩んだように、神への信頼の祈りをもってイエスもまた故郷の人々に受け入れられなかったとしても、その試練と苦悩の中で忍耐と信頼に生き、神の愛に応えるのです。

 わたしは今日のみ言葉の中で、ナザレの人々が山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたという話は、荒野でのサタンの誘惑を考えてしまいます。イエスはサタンの誘惑を退けて、公生活の使命に入ってきます。
 わたしたちも、日々の体験の中で思い起こす時、私たち一人ひとりはいかに弱く、耐え抜くことがいかに困難であるかを知っています。危険の中で常に生きていることも知っています。
 わたしたちの共同体から、イエスを立ち去らせることのないように、共同体の一人ひとりを受け入れ、神のみ旨と愛を生きることが出来るように、特別な力と助けを祈り求めましょう。』

2019年1月27日日曜日

年間第3主日

今年はC年ということで、今日の主日からルカ福音書を中心に読まれていきます。
福音ではイエスのナザレにおけるはじめての説教の様子が語られました。

1月31日(木)は、当教会主任司祭 後藤神父様の霊名である「聖ヨハネ・ボスコ司祭」の記念日です。この日のミサの「派遣の祝福」前に、信徒一同から日頃からの感謝込めて、お祝いをお贈りしました。


「皆さんに感謝いたします。今後もよろしくお願いします。」


後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、「ルカ福音書」の第1章一節から朗読されました。そこでは、聖書の書かれた理由が「イエスを中心にした活動、福音宣教の一部始終を伝える」ことであり、「その教えが事実にもとずくものである」ことを伝えたいがために書かれたことを宣言しています。
昨年11月に「パウロ」という映画が上映されご覧になった方もおられると思います。映画は、パウロとパウロの信仰を記録し伝えようとするルカが主人公でした。そのルカという人は、ギリシャ語のよく理解できた高い教養のある人であったと言われ、医者であったとも伝えられ、映画でも医者としてのルカの姿が描かれていました。当時のキリスト者から見ると、異教徒であったルカはパウロと出会い改宗者として信仰を得て、パウロの弟子として一緒にマケドニア、ギリシャ、小アジアを宣教しています。
ですから、キリスト教共同体のこともよく知るようになり、イエスの行い、教えを周りの人から聞かされてよく知っていたので、ルカ福音書はイエスの活動のエピソードが一番多く記録されていると言われています。
ルカによると、イエスの宣教の開始は、ガリラヤから始まったとなっています。 今日の聖書のみことばにもあるように「イエスが“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」と記されています。
そして、イエスは度々会堂で話されたようです。聖書を開いて聖書を語り、またその聖書の話の内容を深く人々に理解されるように話されます。
わたしたちにとって信仰生活の中心ともなる日曜日(主日)が大切なように、当時のイスラエルの民には律法で示されているように神の民としての義務でもある安息日はとても大切にされていました。安息日には会堂で、みことばを聞き、祈る一日でした。

ガリラヤはエルサレムから 65 kmほど離れた小さな自然に恵まれた田舎町。
ガリラヤ地方とは一体どのくらいの広さなのかと想像しながら地図を広げて見てみました。札幌を中心にすると小樽~岩見沢。千歳や倶知安を含む一帯になるのでしょうか? イエスは弟子たちを連れて会堂を巡りながら福音宣教をしていた、そんなイメージが浮かんでくるような気がします。
イエスの住む町ナザレもそのガリラヤ地方にあり、先週、出てきたカナの婚宴が行われた町は隣町でした。ルカが記すように、イエスの歩むべき道は、父なる神について語り、神の国を伝え、そのみこころを人々に告げ知らせることでした。

エルサレムに比べて人口も少ない、ガリラヤの町々から宣教活動を始め、霊に満たされたイエスですが、そこは素朴に信仰を受け入れる地域でもありました。イエスの宣教活動は、人間的な力に頼るのではなく「霊の力」に頼りながらはじまりました。この時、イエスは貧しい大工ではなく、洗礼を受けて聖霊に満たされたメシアであり、預言者でもありました。

ユダヤ教の礼拝、宗教教育の場所でもある会堂、シナゴグはイエスの教えの場としても福音書にしばしば登場します。救い主であるイエス・キリストは、聖霊の力によって安息日の会堂に集まるイスラエルの民の前に立ち、貧しく、苦しみにある人たちに向かって「神は決して見捨てることがない」 と福音を宣べ伝えました。
そこでは、まず最初に申命記(第二法の書)6,4 や民数記15 章に書かれている信仰宣言を唱えることから始まります。
当時の信仰宣言は 「イスラエルよ、聞け! 主はわれわれの神、主は唯一のものである。あなたの神である主をこころをつくし、魂をつくし、全力を尽くして愛せよ。わたしが今日命じることばがいつまでも、こころにあるように。それらをあなたの子らに教えこみ、家にいるときも、道を歩むときも、横たわっているときも、立っているときも、それらを語り伝えよ。...あなたのかまちと門とに書き記せ。」
今も熱心なユダヤ人は正しい道からそれることがないように、教えを心に留めるために朝晩の祈りとして唱え続けているそうです。

信仰宣言のあと、預言者イザヤの書が読まれましたが、「主の霊がわたしの上におられる。主がわたしに油を注がれたのである。そして、主が解放を告げるために、わたしをお遣わしになった。」と読みあげてから、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にした時実現した」と宣言されたのです。
人は、社会から見捨てられたり、抑圧されてはなりません。 神から大切にされ、かけがえのない者として愛されていると言うことこそイエスの福音なのです。

わたしたちは、神が与えてくださっている「恵みの時」を見失ってはいないでしょうか? 
イエスは神の恵みが、今、ここにあるというのです。イエスは未来への希望としてではなく、今、神の恵みがここにあるというのです。
イエスのことばを心を開いて受け入れることができるように、わたしたちの信仰宣言が心から信頼に満ちた宣言となり、心からの祈りとなって歩むことが出来ますように。』