2019年1月13日日曜日

1月13日(日)主の洗礼

ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始まりでした。



当教会では、今回成人式を迎える若者が2名おられます。
今日教会に来られていたその中の一人に、「派遣の祝福」の前、教会からプレゼントが贈られました。新成人を祝して皆で「アーメン・ハレルヤ」を唄いました。
新成人おめでとうございます!


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日、ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、気の遠くなるような遙かな時間、長い時の流れの中でイスラエルの信仰の民にとって、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始りでした。
救い主を待ち続けていた当時の人々の関心がいかに強かったかをルカの福音で告げています。ヨハネの前にも後にもメシアと主張する人物が政治的地位を持とうとしたり、武器を手に取ったりする人物が多く現れていたそうです。民衆の最後の期待は、政治に介入することなく、また、武器を手にすることのない貧しい男、「心を入れかえ、悔い改めよ」と荒野で叫んでいたヨハネとナザレで成長を遂げヨハネから洗礼を受けるイエスに注目することになります。ヨハネのメッセージは「神の国」への準備として、心づもりのある人には、迷った道を引き返し、正しい道に入れという意味があったそうです。

聖書では、母親同志の出会いをとおして胎内の子が踊ったこと、ベトレヘムの馬小屋での誕生、エルサレムの旅で12歳の少年イエスが語られた以外、ヨハネについてもイエスについても影に隠されたような30年が過ぎていましたが、ヨハネに続いてイエスもまた公にその姿をあらわしたのです。ヨハネは修行者のような生活をし、荒野で厳しい孤独な生活を送りながら「道を開く」先駆者として紹介されその使命も明らかにされます。
聖書は「荒野でザカリアの子ヨハネに神のみことばが降った」と記してヨルダン川地方一帯の人々に「罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」として、道を準備するヨハネの使命が語られました。
当時の人々はさておき、わたしたちは神の子であり、救い主イエスが罪の許しを得るため、悔い改めの洗礼を受けるとは一体どういうことかと考えてしまいますが、ルカの福音は洗礼後のイエスを重要視して展開していきます。神の子でありながら、人間と同じ者になって洗礼のすぐ後でも祈るイエスの姿は、何よりもわたしたちの目をひきつけています。これまでもマリアやヨゼフの両親に倣い、一人、真剣に祈るイエスがいたのだと思います。イエス自身、どんな覚悟、思いを持って洗礼を受けられたのでしょうか? ゲッセマネのイエスの祈りの時、血の涙を流したとあるように、自分が人間であり、弱い、限界のある自分自身であることを受け入れ、その覚悟・決心を持って父なる神にご自身のすべてを捧げる決意をもったでしょう。 それは御父への愛であり、御父からの愛でもあったはずです。

今日のみことばを黙想するとき・・・、洗礼の場面での祈りは、種々の活動の出発点となっているとも考えることができますが、わたしたちにとっても洗礼や堅信の秘跡を初めて受けた時と同じなのではないでしょうか?
主の洗礼を祝う今日、わたしたちはもう一度、一人一人の洗礼を振り返りつつ黙想して、新しい歩みを始められるように祈りましょう。

そして、イエスの洗礼を黙想する時、洗礼は御父からのいつくしみと愛を受けとる瞬間であり、それを人々に伝える使命の出発でもありました。
イエスが洗礼を受け祈っていると天からの声が聞こえたように、その原点に「祈り」があったのです。
わたしたちは、すでに神の救いの恵みである洗礼を受けて信仰を歩んでいますが、わたしたちも、日々の生活に信仰があり、信仰の中心に祈りが大切にされるこの一年となるようにしたいものです。

新しい一年がスタートしたばかりですが、改めて、洗礼を思い起こし、聖霊の恵みとともに、祈ることをイエス自身から学びましょう。
イエス自身、洗礼から出発してすべての人々を神に出会わせる道を歩み出されたように、祈りをもって、わたしたちの道にも宣教への実り、恵みが注がれるよう切に願いたいと思います。』



2019年1月6日日曜日

1月6日(日)主の公現

 この祭日は、神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。

この日のミサは、後藤神父様と簑島助祭の共同司式により行われました。


簑島助祭は今のところ、3月21日に司祭叙階式を迎えることになりそうだということです。この日のミサ後すぐに、神学校へ戻るために空港へと向かわれるそうで、次にお目にかかるのは叙階式の直前になります。
「派遣の祝福」の前に、簑島助祭からご挨拶があり、6年間の神学校生活を感慨深く振り返っておられました。


叙階式を迎えるまでの間の最後の神学校生活が、どうか充実した日々でありますように。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『新聞テレビでは、何をするにも「平成最後・・・」のということばが繰り返されていましたが、この新しい一年が神のみ旨に適う歩みが出来るように、互いに祈りあい、支え合ってゆくことが出来るようにと、今日もまた皆さんとともに祈りたいと思います。
 新しい一年の日々に困難がないように願いたいところですが、年を重ねてくると考えも少し変わってくるような気がします。困難があっても、神への信頼を欠くことなく、希望を失わずに明るく乗り越える事が出来ますようにと考えるばかりのような気もします。
 このことを考える一つは、元旦に、私たち共同体の家族、アンナ水野るりさんが84歳で亡くなられました。家族の方のお話を聞くと、退院するのを楽しみに待っていたということでしたが、神のもとへと帰りました。神の秘められた計画の中で生きている限り、幸せと悲しみ、困難がこの世の中で繰り返されるような気がします。日々の生活の中で信仰、希望、愛がわたしたちの心から離れないようにとみなさんのために、そして、自分のために祈りたいと思います。

 さて、クリスマスを迎えるまでの「待降節」から典礼暦は、来週まで短い期間ですが「降誕節」に入っていて、今日は「主の公現」の祝日です。みなさんの聴いた福音の言葉は、毎年変わることなくマタイの福音が朗読されています。
 新年を迎えたわたしたちに、博士たちの姿をとおして「信仰、希望、愛」を求める心の姿勢が重なるようです。純朴な心をもっていた羊飼いたちの前に天使が現れ、ベトレヘムの幼な子のもとへと導いたように、異境の地にあって真理を求める博士たちは、不思議な星に導かれて幼な子のもとへと導かれたのです。博士たちとは、羊飼いたちのように素朴で、素直な人…、神を探し求め、神のみ旨を求めている善意あふれるすべての人を代表しているかのようです。
 マタイの聖書が書かれたのは紀元81年頃といわれます。当時の社会では、夜空に輝く星は神秘的であり、不思議な世界でした。占星術も盛んであり、東方の博士たちと書かれていますが、マタイ福音では博士たちの名前も人数も書かれていません。星を神の計画、神のみ旨のしるしとみなしてその解釈につとめていたのが占星術師であり、天文学者であったろうと考えられています。星は当時の社会では天使的、霊的存在でした。星は、羊飼いたちをキリストに導く天使と同じような意味合いを持って博士たちに現れ、導かれたと当時の人々は考えたことでしょう。

 キリストはすべての人の救い主でありますが、とくに善意ある人々、キリストを探し求め、真理を待ち望む人々の救い主でもあったのです。その限りにおいては、私たち一人ひとりも、救い主を知らない人々をキリストに導く、星の役割を持たなければなりません。
 「主の公現」の祭日。救い主が世に公けにされたことを記念する祭日ですが、聖書では危険を顧みず、遠路はるばる訪ね来て礼拝する博士たちの熱意に対し、ヘロデや律法学者たちのかたくなな心が比較されています。メシアを一番知っていたつもりの人たちが、メシアから最も遠い人だったというメッセージも語られているような気がします。わたしたちはこのメッセージをどのように受け止めているでしょうか。

 博士たちの姿を崇敬し、憧れる人々の思いは、後のキリスト教伝承を広げてゆきました。聖書では記されていない博士たちの名前もカスパー、バルタザル、メルキオルと異邦人の世界の代表者と理解されるようになったのです。こうして、博士たちの訪問がキリストがすべての民の救い主であること、さらに、キリストが人類待望の救い主であることを示した、そのことを祝う主の公現の日でもあるのです。
 今日の第二朗読の、使徒パウロのエフェソの教会への手紙の最後の言葉も私たちに大切なものとなっています。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(3:6) 私たちの使命もパウロの言葉によって示されているかもしれません。

 私たちは真剣に救い主を捜し求めて訪問した博士たちの素朴で謙遜な姿を黙想しながら、すべての人をキリストへと導く使命・役割をさらに考えながら、この一年の歩みに結んでいきたいと思います。』

2019年1月3日木曜日

1月1日(火)神の母聖マリア「世界平和の日」

明けましておめどうございます。
新しい年が神の恵みに満ちた一年でありますようお祈りします。

この日のミサは勝谷司教の主司式によるミサでした。
後藤神父様、簑島助祭も共同司式されました。


司教様はお説教の中で、「世界平和の日」教皇メッセージ(2019.1.1)の内容を中心にお話されました。

司教様のお説教の大要をご紹介します。


『今日、1月1日は「世界平和の日」となります。毎年この日のために教皇様はメッセージをくださります。そのメッセージは聖堂の入り口に置いてあります。少し長いメッセージなので皆さんそれぞれ家に帰ってから読んでいただきたいと思います。

今回のメッセージの大きなテーマとして教皇様は「政治家」について述べられています。教会で政治的な話をするのは長い間無視されてきた傾向が続いていますが、私自身といえば「日本カトリック正義と平和協議会」の会長という立場もあり、そのような問題に対して教会がどのような態度で取り組んでいくかということを議論しています。ですから皆さんにお伝えしたいこともたくさんあるのですが、非常に難しさを感じています。いわゆる政治的な話をするときに、どうもイデオロギー的な話へと誤解されてしまいがちであるからです。しかし、今でもカトリック教会が政治的な発言をすることは、福音の精神に乗っ取って、「今、行われていることが本当に”共通善”、つまり全ての人の善のためになっているのかどうか」それが損なわれていたり、あるいは損なわれる危険性がある時に、それに対して警告を発することは、重大な教会の務めであると考えているからです。
今日の教皇様のメッセージで、「政治は市民権と人間活動を築くうえでの基本的な手段ですが、それを司る人々が、人間社会に奉仕するのでなければ、抑圧、疎外、さらには破壊の道具にすらなってしまいます。」そして、残念ながら、今世界の情勢を眺めるならば、対立や人と人との間に壁を作るような動きが非常に顕著になってきており、憂える状況になってきていることは皆さんもご承知のとおりだと思います。
また別なところではこのように書かれています。「政治の役割と責任とは、絶え間ない挑戦です。人間のいのちと自由、尊厳に対する根本的な敬意のもとに行われるとき、政治は愛のわざの卓越したかたちとなるにちがいありません。」政治が”愛のわざ”なのだということはあまり聞いたことのない表現ですが、しかし本当に人間の命と自由、尊厳に関することに直接影響を及ぼすのが政治ですから、その根本的な姿勢の中に人間に対する敬意や愛がなければならないという主張です。
それを受けて「「すべてのキリスト者は、その呼ばれている役割と、社会体制(ポリス)の中での影響力の度合いに応じて、この愛を実践するよう召されています。」と書かれています。

私たちはこの世に生きている限り政治とは無関係でいられません。世界の問題に目を向けると「一体私には何が出来るのか?」というような無力感を感じてしまいますが、しかし身近な問題として日本の社会を生きるとき、私たちの身の回りにはどのような政治的な問題があるのか、それらを政治的な問題だからといって一切口をつぐんで、あるいは目を閉じて見ようともせず、耳を塞いで聞こうともしないならば、それは私たちの務めを放棄していると言わざると得ないのです。
今日本の教会が取り組んできた社会問題はたくさんあります。「移住労働者」の問題。差別の問題。司教団が取り組んでいる脱原発について。死刑廃止。沖縄問題など。

今、教皇様がその中で伝えていることは、特に、平和を作り出すために、恐怖や不信感が支配するこのグローバル化された世界に根強くあるこの閉鎖的なナショナリズム的な姿勢が世界を覆おうとしていますが、それに抗っていくことが大切であると言われています。かつての2度の大戦が残してくれた教訓は、力と恐怖の均衡だけの問題として平和を捉えてはならないということ。しかし今、軍事力の均衡によって平和が保たれるのだという思想が、唱えられ始めている中で、私たちは本当にそれが正しいのかどうか、自分の目と耳で確かめ、その中で自分が何をすべきかを判断することが大切なことと強く勧めておられます。
最後に、平和の元后であるマリア様の歌ったマニフィカトは、まさに平和を作り出す私たちが参考にすべき賛歌です。 マリア様の取り成しを願って私たちのささやかな取り組みが日本や社会を変えていくものになるように強く願ってミサを進めたいと思います。』

2018年12月31日月曜日

12月30日(日)「聖家族」

まもなく2018年が終わろうとしています。
皆様にとってこの一年はどんな年でしたでしょうか?
この一年の神の恵みに感謝しましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『主の降誕を迎えると次の日曜日には「聖家族」の祝日を祝います。 教会では、祝日の「聖家族」ですが、普通一般には、家族に聖という言葉は、あまりにも畏れ多いことで付けられることはありません。しかし、信仰世界ゆえにこのような表現が用いられるのかも知れません。旧約時代には、神の威厳とそのあまりにも気高い至高性から、神殿などの建物や祭儀に用いる器具や用具などに「聖」という文字を付けることがあったとしても、神との距離を置くために罪深い人間、人には付けることはなかったようです。しかし次第に、祭儀をとおして神への奉仕に特別に召された人には、その人格に反映し「聖」という言葉も使われるようになったようです。新約では、12人の弟子たちにも神への聖への同化の要求として「聖なる使徒」という表現も生まれていくようです。人にも物にも「聖」がつくと言うことは特別な意味があるということで、それには二つの意味があると言われています。一つは、神の栄光を現す輝かしさ・明るさを意味すると言われ、もう一つは、分離を意味して聖と俗すなわち創造者と被創造物、神と人とを区別すると言われます。現代は、耳慣れたことばとしては神からの特別な祝福の意味を持つ「聖別」があり、聖人にゆかりのあるものに対し「聖遺物」ということばももよく聞かれます。大切な事は、偶像崇拝になるのではなく、聖なる人や物をとおして、神の聖性に触れることが大事なのです。

 さて、今日は、父と子と聖霊の三位一体という「天上の聖家族」に対して「地上の三位一体である聖家族」を現している「聖家族の祝日」を迎えていますが、みなさんの描いている「聖家族」はどんなものでしょうか?そして、聖ヨセフと聖マリアの清らかな愛の関係。両親の愛情を一身に受け、言うこ とをよく聞いて、すくすくと育つ幼子イエスがいる。多くの人が思い浮かべる「聖家族」は、まさに一点の曇りもない理想的家族の姿なのではないでしょうか? 一般に聖家族とは、聖母子である聖母マリアと幼な子イエスと聖ヨゼフ (イエスの養父)の3人のことを言います。しかし、中世のレオナルドダヴィンチやラファエロの絵には、マリアの母聖アンナが入ったり、また、幼な子のイエスとヨハネとを中心にマリアとヨゼフそしてエリザベトがいる有名な芸術作も多く家族構成が様々名ものがあるようです。建築家アントニオ・ガウディの設計による有名な教会ではサグラダ・ ファミリアがあり、日本語に訳すると聖家族教会と呼ばれています。

 今日のみことばでは、12歳を迎えたイエスと両親であるマリアとヨゼフが描かれていますが、聖書では聖家族の様子は余り語られてはいません。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(ルカ2:40)。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:51~52) とありますが、実際の生活がどのようであったかは、聖書では語られていないのです。今日のみことばで語られている出来事では、両親が心配して三日間も探し回るという情景で、両親の言うことをよく聞いてすくすくと育つイエスの姿がある聖家族のイメージからはほど遠いものではないでしょうか?
 今日の福音で皆さんは、神殿でシメオンが話した言葉を思い浮かべる方もおられると思います。イエスもマリアも苦しまなければならないということ、しかも「剣で心を刺し貫かれる」ほどの耐え難い苦しみが将来あるとシメオンは話されていました。まさに今日の親の心配を考えると、そういう現実が起こってきたということを表している物語だと思います。考えてみると幼な子が生まれた直後に両親は大変苦しい状況に置かれました。幼な子を抱いてヘロデ王が死ぬまでの長い間、遠くエジプトに避難しなければならない、そんな物語が聖書では語られていました。すべてが保証されているような聖家族ではありませんでした。でも私たちが描く「聖家族」の姿は、神に祝福され、幸せに満ちた家族としての憧れがそこにあります。でも今日のみことばのように、その現実は私たちと変わらない苦しみもあった。子育ての悩み、心配もあったと言うことなのではないでしょうか。
 でも私たちが聖家族から学ぶべきことは、マリアの信仰の姿があります。「主を信頼し、信じること」。マリアが私たちに示した模範そのものであります。私たちが聖家族を黙想するとき、祈るとき、沈黙のうちに神の遣わされた御子イエスの現れを見ること。それが聖家族を黙想すること。その黙想の中で奥深い神秘を見つめること。これも大切なことと思います。

 師走を迎え一年も最後となり、この一年を振り返りながらミサに与る方も多いと思います。そして、新しい一年をまもなく迎えますが、聖家族に倣い、家族のつながり、共同体のつながりを、主の計らいの中に見つめ、黙想しながら、どんな時にも互いの成長のために祈りたいと思います。わたしたち一人ひとりも、神の子どもとして愛される人となり、成長することができますように。
 元旦をまもなく迎えますが、日本の元旦は、私たちにとっても大切な一日となります。その日は「神の母聖マリア」の祝日になります。世界の平和のために祈る日にもなります。日曜日以外には1年に二度しかない私たち信徒が「守るべき祝日」であることも忘れないようにいたしましょう。そして、私たちの共同体、私たちの社会、この地上の世界に平和がおとずれることを共に祈る元旦でもありたいと思います。』

2018年12月24日月曜日

主の降誕

主のご降誕おめでとうございます。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださっています。



私たちはこの日、聖なる、そして平穏で静かな夜を迎えることができました。


後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『キリスト教の世界では、今宵のイブからクリスマスが始まります。 それは元々、わたしたちの現代と違って太陽の陽が沈み暗くなる夕方から 一日が始まるというユダヤの伝統・習慣が背景にあるからです。ですから、 「タ方が午後4時から11時頃まで」を指してイヴニングと言うそうですが、 いま、この瞬間の時間帯が Evening であり、教会に集うわたしたちはクリ スマスイヴを迎えているのです。すなわち、Christmas Evening から イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの一日が、明日につながって主 の降誕を祝う事になります。
あらためて、今年も、わたしたちが待ち続けてきた・救い主イエスのご 降誕をみなさんとともに心よりお祝い申し上げます。 初めて教会に来られた方もおられることでしょう。 「ようこそ、お出でくださいました。」お祝いのご挨拶を申し上げます。

今年も、あとわずかとなる年末を迎えていますが、この一年を振り返り 感謝の祈りを心に携えて教会に来られた方もいるのではないでしょうか。
わたしたちの周りで起こった思いがけない事故や災害をとおして思い起 こされる苦しみ・悲しみを乗り越えた日々があったこと・・・。また、 多くの人に支えられての希望や喜びに包まれた笑顔もあったことなど・・・。
わたしは2千年前に、苦しみや困難を乗り越え救い主を待ち続けた人々と同じように、今日わたしたちもクリスマスを祝っているような気がします。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださるという祈りがそのことを現しています。イザヤの預言の最初のことばは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」と告げています。 2千年前とこんにちではその情景はあまりにも異なるかも知れません。 たとえ暗やみの中でも、どこへ出かける時には自分の足で歩くことが普通 であった時代は、いま、あっという間に自家用車で教会の門の前に着いてしまいます。闇の世界を導く光は今や車のヘッドライトかも知れません。 でも、わたしたち人間の歩みは、いつも暗闇から抜け出る切なる希望を求め続けていると言えるでしょう。
みなさんの心の中に救い主イエス・キリストの光がなければ平和も希望 も闇に覆われ、緊張や孤独の世界があり、自分さえ見えないままなのです。
しかし、神の遣わされた御子イエス・キリストは、わたしたちの救い主 であり、光へと導いてくださる唯一の方なのです。

誰にとっても人生は順調とは言えません。
聖書に描かれている「イエスの誕生物語」でさえもわたしたちにそのこと を教えています。旅の途中で、身重ものマリアとヨセフの夫婦でさえ, しかも、宿も与えられずに馬小屋での出産という状況でした。 また、「幼な子」と言うだけで命を狙われエジプトへの逃避の旅がありました。
平和を願うわたしたちにも、平和の保証がないのです。 神の救い、キリストの救いこそ、わたしたちの保証となるのです。 わたしたちの心の中に光をもたらすイエスを迎え、祝福を願いましょう。
ヨハネの福音は述べています。
神とともにあったことばは、命となり、光となってわたしたちを照らし 続けると・・・。

救い主の誕生を祝うきょう、幼な子のうちに、キリストの中に神のわたしたちに対する光があります。 わたしたちに与えようとする神のいのちそのものが、生きているのです。 「降誕されたイエスをしっかりと見つめ、そこからわたしたちのいのち、 希望、愛をくみとっていきたいものです。
今日のクリスマスイブと、明日に続くクリスマスの一日を、すべての国 とすべての人に平和が訪れることを願い祈りましょう。』


「主の降誕」ミサの後、カテドラルホールで祝賀会が行われました。

待降節第4主日

クリスマスまで、あと2日となりました。今日のルカ福音書では、イエスを宿したマリアがエリザベトを訪れると胎内のヨハネが喜んでおどる様子が語られます。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『先週は、司教様を迎えての「堅信式」が行われました。そして、19名の方々が受堅されました。わたしたちの心にイエスの心を宿させてくださる聖霊の賜物を受けた受堅者のみなさん、改めてお祝い申し上げます。受堅後の初めての日曜日、どんな気持ちで迎えられたでしょうか?受堅のために2回の学習会をしています。学習の中で繰り返し聞いた「聖霊の七つの賜物」を日本語に訳して言うと、上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、畏敬と言われます。そして、「聖霊の実り」もパウロが聖書(ガラテヤ5:22)で語られ、それは、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。謙遜、貞潔などの訳になっている聖書もあるようです。三位一体の神にまします聖霊でもあり、イエスと切り離すことの出来ない聖霊でもあります。わたしたち一人ひとりも、主の降誕祭を前にして、その賜物によって活かされたいものです。そんなことを考えながら、先週の堅信式を思い起こしています。

 12月を迎え、今年も最後の一週間となり、クリスマスまであと2日となりました。貧しき馬小屋で生まれた幼な子が救い主となるという不思議な思いになってしまいます。 二千年の月日が過ぎた今日、キリストを信ずる人だけでなく、世界中で多くの人がクリスマスを祝う時代に入っているということ、これもまた不思議に思います。偉大なる父である神さま、あなたの限りない愛を感謝します。心からそう言わずにはいられません。
 待降節第四主日からは待ちに待った「イエズスの誕生」の告知が入れられてきます。教会は待降節の最後の主日として、喜びのお告げをマリアとエリザベトを通して強調します。今日はルカの福音に耳を傾け黙想することができます。今日の福音の主役は、聖霊を通して働かれる神なる父の選びを体験し、御子の母となられるマリアであり、マリアのエリザベト訪問の記事が私たちをクリスマスへの思いに向けていきます。今日の喜びのお告げは、すでに旧約からの待望であり、限りない時間の経過の中で困難を乗り越えて待ち続けてきた、果てしない希望でもありました。いま、そのお告げが現実になろうとしています。  わたしたちも先週の日曜日、み言葉を通してヨハネのことばを噛みしめ、道を平らに するように心の準備をしてきましたが、数日の後に、主の降誕・クリスマスを祝います。
みなさんは、待降節の精神を思い起こしながらの準備をしてきました。
 ルカ福音書の中でそれまで別々にのべられてきた、洗礼者ヨハネとイエスでしたが、それぞれの母の出会いによって、互いに生まれる前の母の胎内にいるときに出会うという劇的な場面を描き出しています。それも聖霊に満たされて胎内の子が踊るという表現でエリザベトが声高らかに宣言したときの語りになっています。そして、この出会いは、天使の告げを受け、「主のはしため」から「主の母」 となったマりアが「急いで」ユダの山路を通ってエリザベトのもとに赴く。わたしはマリアの姿に静かにじっと待つのではなく、出かけて行くという行動を通して、その恵みが訪れていることに神の偉大なるメッセージを感じます。それは福音そのもの「喜び」のメッセージでもあります。わたしたちも宣教という言葉にどうしたら良いのだろうと思います。行動するよりじっとしている自分に心を向けてしまいます。でも、福音の喜びは行動することにより、人々と出会うことにより
伝わっていくことを、マリアはわたしたちに示しているのではないのでしょうか。
 マリアの挨拶の声を聞くと、洗礼者ヨハネは、母のエリザベトの胎内で喜びに子踊りしますが、これは、創世記に物語られている「ヤコブとエサウの誕生物語」(創世記25:21-26)の中で、リベカが宿した二人の子供のことを思い起こさせます。神は、この二人の胎児についてこう説明されます。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(同25:23)新約聖書とは少し趣が違うと思います。旧約聖書の場合、胎児はそれぞれの国民の祖であり、それらを代表しています。エリザベトとマリアの場合もそれと同じで、洗礼者ヨハネは、キリストを信じる民の祖として将来果たすべき役割をすでにここで果たし、その「子踊り」によって自分の母に「主の母」の到来を告げているのです。旧約の時代から待ちこがれてきた喜びの中で最高のもの、それが救い主イエス ・キリストの誕生とも言えるでしょう。主が告げられたことを信じたマリアの訪問が、エリザベトやその胎内のヨハネに主の到来の喜びをもたらしたのです。

 今日、私たちに告げているルカの福音。ルカは、後に「神のみことばを聞いて、これを行う者こそ、わたしの母であり、わたしの兄弟である。」(ルカ8:22)といい、「幸いな者は、神のみことばを聞いて、それを守る人である、」(ルカ11:28)。まさに、マリアに繋がるみ言葉でもあります。マリアはこのみ言葉を自分の信仰によって生きた人です。このみ言葉はわたしたちにもいえるみ言葉だと思います。
 神のみことばを信じ待ち続けた人の喜びが、わたしたちの心もひとつになって、主のご降誕の喜びの日に訪れることを祈りましょう。』

2018年12月16日日曜日

待降節第3主日

この日のミサは勝谷司教が司式され、ミサの中で行われた堅信式では20名の方が堅信の秘跡に与りました。

堅信式

後藤神父様から記念品のお渡し

堅信のお祝い茶話会

勝谷司教のお説教をご紹介します。
10月に参加されたシノドスのお話でした。

『「私たちはどうすればよいのですか?」という群衆のヨハネに対する問いかけ。
毎日の生活の中で、「どう生きたらよいのか?」という指針を示してもらいたいという願いは、決して当時の人たちだけではありません。
現代社会にあって「私たちはどうすればよいのか?」という問いかけは、声なき人たちの声となって、常に教会に問い掛けられているものです。そしてそれらは、答えを出すのが難しい。また、いろいろな立場の人がいて、いろいろな意見があって、そこで統一する意見を出すことが難しい問題も多々あります。
現代社会にあっては、複雑で多岐にわたる問題が山積しているなかで、常に教会がそこで、教会の在り方が問われているわけです。

10月に、26日という長い会期で世界代表司教会議「シノドス」という会議が開催されました。日本の司教協議会を代表して私が行くことになったのですが、それは何故かというと、私が司教会議のなかで「青少年部門」を担当しているという理由からです。そして今回のシノドスのテーマが「青年」だったのです。ただ、ご存知のように、昔私も現場で青少年活動に長いこと携わっていました。しかし、司教になる前となってからでは、ほとんど札幌教区に関わりを持つ青年はいなくなってしまいましたし、立場上、関わりが少なくなっていましたので、どういう役割が果たせるのか不安でした。
しかし、今回のシノドスに行ってみて、いろいろな発見がありました。前回のシノドスは、そのテーマが重要ということで、通常総会の他に臨時総会が開かれ、2回に渡って同じテーマ「家庭」というテーマで、このシノドスが開催されました。そしてそこで扱われたのは、いわゆる教会で問題とされている「家庭」、つまり離婚して再婚した人や、あるいは正式に結婚しないでシングルマザーの状態になっている人とか、について話し合われ、それに対する意見が闘われて「教会はもっとはっきりと何か言うべきだ」という人たちもいて、そのような議論は皆さんもどこかで聞いたことがあるかと思います。
もう一つは、性的マイノリティ「LGBT」と言われる人たちについて、シノドスではそのような言い方も避けて、セクシャル・オリエンテーション(性的指向性を持った人たち)という言い方をしています。彼らもかつての教会の教えでは、その存在自体が悪であるかのように、そのような指向性を持つことは悪魔の業と、絶対に認められないものとして考えられていました。最近の心理学や人間学の発達によって、その人の責任によらず生まれながらにそのような指向性を持った人たちがいる、そのような人たちが悪であるとか、そうであるはずがないわけです。では、そのような人たちをどう扱うのか?明確な答えを示せないまま終わったのです。


今回のシノドスはどのような形で行われていったのか、このシノドスの形態が非常にユニークなものであったので、それについて私たちはじっくり受け止めることが大事なので、そちらの話をします。
今回のシノドスは「若者と共に、若者が持つ喜び、希望、夢、望み、そして召命の選択」について、自由に分かち合う場となることが強調されました。今回の会議の特徴は、青年に寄り添い、その声に耳を傾けることである、ということが何度も何度も強調され、実際に通常は司教や枢機卿だけが集まって話し合いをするのですが、今回はこの話し合いの本会議と分科会の全てに世界から集められた青年たちが参加し、最後の投票権はないのですが、自由に発言することが許されていました。ですから今回は「青年について語るシノドス」ではなくて、「青年が司教に対して語るシノドス」と言った方が正確かもしれません。そしてこの本会議の土台となる討議要綱(討議のたたき台)は2年を掛けて準備され、各国の司教団をとおしてなされたアンケートについても実際に青年に答えてもらうようにというただし書きが付いて徴集されました。しかし、それについては以前にも話したように、日本全国に配られたアンケートに答えたのは皆、大人でした(笑)。青年たちではなかったのです。
しかし、この世界中に向けて青年から徴集するようにと言われたアンケートのみならず、インターネットを通じて全世界から10万の回答が寄せられました。さらに3月に開催されたプレシノドスにおいては世界中から集められた300人の青年たちが討議し、そして発題されたその意見書をベースにして作られました。
このような形でまず徹底的に若者から聞き取るという形で行われたのですが、オープンしてまず私たちが直面した問題は、ご存知のように児童に対する性的虐待の問題です。多くの青年たちがこの問題で、教会から離れていってしまいました。それに対する厳しい意見もたくさん寄せられていました。まず、この問題に対して教会が真摯に謝罪するというところから始まりました。そして参加した青年たちに向かって、これまで教会がふさわしい対応をして来なかった、今後透明な形での対応をしていく、という姿勢が何度も強調されました。

全体会の後で、毎週後半は分科会に分かれて討論しましたが、私が参加した分科会では、今言った問題、結婚の問題と性的マイノリティについての問題について、保守的な司教から教皇様に対する批判がどんどん出てきました。この問題についてフランシスコ教皇が明確な指針を表明していないというものでした。だから今回のシノドスではそれをはっきりと打ち出すべきだ、と追及していました。
しかし、会議が進んで今回のシノドスの方法論が違うと、何か結論を出すことよりも、そこに至る過程を重視している、ということを徐々に皆が理解するようになっていきました。そしてその過程は何かというと、自分たちの主張を示すことではなくて、むしろ自分たちではなく、今教会の外にいる青年たちや、問題を抱え苦しんでいる人たちの声に寄り添い、耳を傾け同伴する、このことが重要であるということが何度も指摘され、これはシノドスの方法論だけではなく、今後の教会の在り方を示すものとして強調されていきました。
そしてこの会議が進んで最後に私たちが出した結論は、
「教会は全てのことに回答を持っているわけではない。今解決できない問題は数多くある。しかし、神は全ての人を愛しておられるのだから、教会もそうである。解決できない問題を抱えながらも彼らに同伴し、耳を傾け続けることが大切だ。」
このことをはっきりと、私たちは分科会の最後にまとめの文書として全体会に提出しました。
この視点は、教会の教えに従って生活していない若者についても同様で、「裁いてはならない」ということが何度も強調されました。そして彼らを裁くのではなく、彼らに同伴し耳を傾け続けることによって、彼らを導く姿勢が大切であることが強調されました。
倫理的な指針を打ち出すことは簡単です。しかしそれは世界の信者に向かって、それに従うようにという呼びかけになり、往々にしてそれに従えない人は教会から排除されてしまう。そういうことが今まであったわけです。「あるべき指針」を打ち出してそれに従うようにという従来の教会から、謙虚に耳を傾け同伴し続けるという教会の姿勢、私たちはそのように教会の在り方自体を変えていくのだ、というようなことが表明されていきました。

その他、インターネットに関するものもたくさん出ました。もう青年たちは地理的な教区とか小教区ではなくて、むしろデジタルタイプといわれる新世界において生き生きと生活している。教会は新たにそこに出向いて行かなければならない。どうしたら教会に戻すことができるのかという発想ではなく、むしろ彼らが住んでいる世界に、新たな宣教として私たちが出向いて行く必要があるということ。と同時に様々なネットの世界の危険性も指摘されていました。

大切なことは、一貫してあった「同伴すること」「聞くという態度」。今回のシノドスの隠れたテーマであったと言えます。そしてこの言葉を「シノダリティ」という言葉で表現していました。「シノドス」という意味は「共に歩む」という意味ですから、「シノダリティ」というのは、「共に歩み続ける教会」という意味になるのでしょうか? これが今後大切であるという、そして教皇様もそれを体現するかのように常に会議の期間中、私たちと共にいるようにしていました。

この「シノダリティ」は、シノドスの場面だけではなく是非、世界中に帰っていった司教たちが、自分たちの国でもこの姿勢を取っていっていただきたい、なかなか理解してもらうのは難しいのですが。私は札幌教区の中でも、確かに青年たちはいるのですけれど、教会の中には見受けられないのです。しかしネットワークミーティングなどが行われた時、支笏湖で行われた時には札幌教区の30人近い青年たちが実行委員会を組んでいました。来年1月のワールドユースデー パナマ大会では、東京教区に次ぐ人数で札幌教区の青年たちが参加します。青年たちは教会には来ないけれど、いるのです。教会には来ないけれどカトリックというアイデンティティを持って活動している青年たちはいます。
私たちは”いない”かのように無視しているのは、青年が教会を離れているのではなく、私たちが見ようとしていないだけではないかと考えています。
今回のシノドスのテーマを札幌教区の中でも体現していくために、「出向いて行って耳を傾け同伴する」という在り方を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。』

2018年12月10日月曜日

待降節第2主日

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』
洗礼者ヨハネは、荒野のかなたから「主の道を整えよ」と回心を呼びかけます。

この日は、ミサの後「堅信の学び」が行われ、約50名の方が参加しました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『イスラエルを導く救い主が、悲しみと不幸から解放し喜びをあらわすと今日の第一朗読(「バルクの預言)で読み上げられました。そして、何世紀もの沈黙の時が流れますが、待ち続けるその待望の時は重要な役割を持つ洗礼者ヨハ ネによって現実になろうとしています。ヨハネの叫びは、イスラエルの民にとって、他国民に圧迫されることが多く、あるときは神殿を崩壊された時もありました。国を追われ捕囚の身にさらされた時代もありました。そのような状況の中でヨハネは、預言者イザヤの言葉を借りて、救いの時が近づいた。救いの喜びが近いから「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ばれた。ヨハネの使命は、聖書に現され ているように、イスラエルの民を主のもとに立ち帰らせ ることであり、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせること。失望や悲しみを捨てて平和のうちに生きるようにと励まし諭しています。「道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイスラエルの民に対し、 また、今日の福音の3節にあるように「罪のゆるしを得させるため」と、呼びかけていました。待降節にいつも読まれるこの内容は、 わたしたちに対しても、良心の道をまっすぐにし、救いの神を受け入れるためにも大切な悔い改めも含まれているような気がします。心の準備とともに私たちは自分たちの信仰を見つめて、凸凹の道や曲がりくねった道があるならば少しでもまっすぐにして、主の心に繋がるように、待降節の大切な準備になるのではないでしょうか。

 パウロも今日の第2朗読の中で「あなた方の愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように。」と祈っていることを話しています。こうしてみていると今日のみ言葉の中にも聖霊の働きが見えてきます。堅信の秘跡を受ける人の学びが先週から始りましたが、その際に聖霊には「7つの賜物」があることを話したのですが、それは、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」だといわれています。(神父様は、お話の中で、4日の毎日のミサのイザヤの預言も引用しました。)ヨハネは、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせており、聖霊の力を持って民を指導しています。パウロは愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように、と祈っています。聖霊はわたしたちの気づかないうちに至る所で働いているのです。
 待降節を迎えて、わたしたちはキリスト者として、イエスに向かって歩もうとするとき、悪い行いを単に悔やむだけでなく、「方向転換」が必要ではないかと良く言われることです。「方向転換」と言えば、今週のカトリック新聞で教皇様の記事がありました。教皇様は講話の中で「新しい心の移植」が必要であると一般謁で見車に述べられました。古い心から新しい心への入れ替えは、新しい望みの賜物であると言い、それは聖霊によって植えられる種であり、新しいいのちへの渇きに成長するのだとお話されたようです。
 まさに、ヨハネが言われた道を整えるということは、救いの実現の道に導くためのふさわしい条件とともに、イエスの福音宣教の始まりにも繋げていかなければなりません。それは、教会がずっと主張してきた旧約から新約へと続く、旧約における「終わりの日」も意味し、新しい時代への入り口にもなるのです。

 待降節を過ごす私たちは、父なる神から幼子イエスを迎える準備の日々を過ごす週目を迎えますが、私たちの心にキリストを迎えるためだけではなく、神不在ともいわれる現代社会、人間関係も冷え切ったといわれる中で、現代社会に愛と希望をもたらすキリストを迎えることは教会にも社会にも大切なことだと思います。私たちや社会の中にある荒れ野の道をならし、険しいところを平らにする努力が求められると思います。
 今日改めて待降節第2主日を迎え、救いの道に招かれていることを噛みしめながら、真心を持って神に応えていけるよう祈っていきたいと思います。』

2018年12月2日日曜日

待降節第1主日

教会の新しい1年が始まりました。
待降節は救い主イエスの誕生を迎えるための準備期間になります。
この日、祭壇上のアドベントクランツのローソクの1本に火が灯されました。

今日のミサ後、馬小屋とクリスマスツリーの飾りつけも終わり、
リースとツリーのイルミネーションは今夜から点灯します。
クリスマスを迎える準備が進んでいます。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日から「待降節」という新しい典礼の一年が始ります。皆さんは何回、待降節、クリスマスを経験しているでしょうか。待降節は4週にわたるご降誕を待つ期間ですが、今年のクリスマス・イヴは4週目の待降節第4主日の翌日月曜日が24日ですから、実質は3週間ほどとなります。あっという間に「主の降誕」の祝日を迎えることになりそうです。

 待降節第1主日にあたって、みことばは「目を覚まして祈りなさい」と呼びかけていますが、キリストの来臨の希望をもっていつも目ざめ、救い主を待ち望むための心の準備が大切な時と言えるでしょう。今日のミサ後に堅信を受けられる方の勉強会が行われます。受けられる方々は、違った意味での降誕祭を迎えられると思います。わたしたちは毎日の生活、日々の生活のさまざまな出来事の中に働く神を感じて、誰もが主のことばに従うことができるようにと願っています。でも、主の言葉に従うことがどんなに難しいことかはいうまでもありません。今日もまた、神父さんは厳しいことを指摘して、わたしたちはいつも反省ばかりと思う人がいるかも知れません。それは出来なかったことばかりに目がいって反省を迫られているように感じるのかも知れません。
 この一年は本当に天候の不順や自然災害の多い年であったように感じます。台風や地震の体験を北海道の人間や誰もがその体験で気づきを新たにしました。困難に目をそらすことも出来ず、助けを必要としている人々にさえ十分にこたえることのできなかった私たち。自分の無力さを感じてしまうのです。「出来たことよりも出来なかったほうが目に付くというのは普通なのかも知れませんが、出来たことの一つに目をとめて、もっと深めてみようとか、もっと心から愛をもって進めてみようとか、反省も前向きに生きることも大切だとおもうのです。
 「目を覚まして祈りなさい」という今日の呼びかけは、「出来たか・出来なかったか」ではなく、そこに何があり、何が大切なのかということに気がつくことでもあると思います。そして、何よりもキリスト者となって、キリストの福音を身をもって生きるかが問われることであるかも知れません。終末の時を語っているみことばを前にして、人間の不安や恐怖は絶望と隣りあわせで、「救い」を求める希望や期待は2千年前のイエスの時代を生きる人々と、今を生きるわたしたちも同じではないでしょうか。9月6日に起きた「北海道胆振東部地震」の犠牲者を考えると今日の幸せさえ、明日に保証されているものではないことを痛感するのです。幸せは 一瞬のうちに消し去られてしまう可能性が誰にも、どこにもあるということです……。
 今日のみことばの中にもうひとつ「身を起こして頭を上げなさい」ともイエスは言われています。救いを待ちのぞみながら、わたしたちの弱さを知り、救いのおとずれを待ち、何が大切なのか!気づきの恵みを祈りたいものです。そして、出来なかったことや、出来ないことばかりに目を向けるのではなく、出来ることの一つをいっそう大事にして前向きに歩む、新しい一年となりますように今日もまた心をひとつにして祈りたいと思います。』


2018年11月25日日曜日

王であるキリスト

B年の典礼の一年がまもなく終わろうとしています。
毎年この一年の最後の日曜日に「王であるキリスト」を私たちは祝います。
来週の日曜日からは、いよいよ待降節にはいります。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『イスラエルにとって「王」とは、どんな人物がふさわしいと考えていたのでしょうか。今日の福音では、イエスは本当に「王」なのかどうか問われる内容となっています。
その疑問は、誰が考えてもおかしくはないことで私も感じています。当時、イエスの時代にもし生きていたとしたら、私もきっとイエスの話を聞きながら、特別な人だとは思うでしょうが、イエスが王なのかどうかということを考えたに違いありません。
ピラトは私たちに代わって、直接イエスに尋ねています。「あなたは、本当にユダヤ人の王なのか?」と。それに対してイエスは傍にいる人たちがまったく想像もつかない答えを言われました。「わたしの国は、この世に属していない。」
イエスのこのような答えを誰が想像したでしょうか。そして、そのイエスの答えはどのような意味を持っているのだろうか?と誰もが戸惑ったのではないでしょうか。
王の概念、国の概念、それぞれ人によって考えがあると思いますが、国や王という存在を超えて、「この世に属していない」という答えは、きっと当時の人々にとっても戸惑うばかりの答えではなかったかと想像します。

旧約のイスラエルの歴史をみると、ダビデによって国家が統一され、王が誕生することになりました。「王」とは、神に任ぜられたものであり、主との契約によって、油を注がれたもの、そしてその権能を受けるという、この世の支配を表すものでした。このような考えを持つ人たちに対して、イエスの答えは「わたしの国は、この世に属していない」、当時の人々にとっては理解できないイエスの言葉であったと思います。
今日の福音のピラトとの問答の最後に、「わたしは真理についてあかしをするために生まれ、またそのためにこの世にきたのである」と、イエスは堂々とピラトの前で宣言しています。真理のために命をかけたイエス。真理にそって常に生きたのがイエス。私たちは聖書をとおして、イエスの生き様を見ています。確かにイエスは妥協することなく真理のために常に歩んでいました。そして真理のために命を捧げました。
真理のために私たちも生きようとしています。でも真理のために命をかけるとは実に難しいことであります。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理を求めていながらも、現実は真理から離れてしまうことも多いということ。
考えてもみてください。皆さんは真実を生きていますか?今何を一番大切にしておられますか?大抵の場合、真理ではなく別なものになっているような気がします。その別なものとは何でしょうか?
ある人は自分の欲望であり、自分の野心である。ある人はお金であり、また快楽であるかもしれません。いずれにせよ、自分を満足させてくれるものに心が向かうことがあまりに多いのが私たちの現実ではないでしょうか?
真理を生きる。口で言うほど簡単ではないのが誰もがわかっています。そのようにして考えてみると、ローマ皇帝の命令に従って、ユダヤに赴任し、その地方を統治するピラトという人もまた、私たち同じように真理とはほど遠い世界に生きているといえるかもしれません。ですからピラトだけが責められるものではなくて、ピラトももしかすると、私たちと変わらない、一人の人間であったかもしれません。
イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長や長老、律法学者たち。彼らもまた真理から離れてイエスを突き出しました。彼らが命をかけて守ろうとするのは、自分たちの権威を揺るがない確かなものとすることであって、それはまた自分の出世や繁栄であったかもしれません。
自分の権威を守るためであれば、偽りも平気なのかもしれません。自分の望む目的を実現するために手段を選ばなかった彼ら。彼らの心の中にはイエスを亡き者にしてもかまわないと、そういう気持ちさえ現れ出でています。恥ずべき行為も厭わず実行してしまう、考えてみれば恐ろしい状況にまで追いやっていたのが彼らの欲望でもあった。それはまさに真理からは程遠い自分がそこにあったということ。私たちの社会で起こっている犯罪はそういう人間の心から起こっていることが多いのではないでしょうか。

聖書をよく読んで黙想していくなかで、ローマ総督のピラトは、ユダヤ人の宗教や信仰上のもめ事には関心がありませんでした。政治には関心があっても、宗教上の問題には関心がありません。国を持つということは「王である」とピラトは考えます。それは体制に反対する政治的な活動家に繋がっていく。そしてピラトにとっても政治的な野心を持つ人であれば、自分の利益に敵対する存在にもなってくるイエスでもあったということ。
自分が不利になれば黙ってしまう。妥協するピラトも真理から目を逸らしていました。真理に従えばユダヤ人の暴動が起こり、自分の地位や権力も危うくなると、自分の良心の声に耳を塞いでしまったピラトの姿が想像されます。
ピラトにしても律法学者たちにしても真理とは程遠い生き方をしてしまったということです。
イエスはそのようななかで、今までの状況を全く変えようとする「真理の王」であったということが見えてきます。真理をあかしするために来たイエス。イエスが見つめているのは神の世界です。そしてそこに命の全てを賭けています。
「王であるイエス」は、この世の王でないことは確かであり、イエスの使命はただ「真理」をこの世にあかしすることでした。
イエスは私たちをこのように招きました。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。イエスに従おうとする私たち信仰者。私たちはまた、一人一人は「神の民」であるということも自覚しています。そういうなかで真理の神に遣わされたイエスに私たちは本当に従おうとしているのかどうか。私たちは真理から遠いものに心を向けて生きているといえるのかもしれません。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」という言葉を、私たちの心の中にいつも持ち合わせているでしょうか。

イスラエルの人々にとって、ダビデの王から始まるこの世の王には失望しながらも、主こそ「真の王である」という信念は根強く生き続けていたようです。理想のメシアの到来を待ち望む人は多かった。そういうイスラエルの歴史を見つめながら、私たちは今、待降節に向かっています。新しい典礼の一年を迎えて、幼子の到来である待降節をまもなく迎えます。
今日「王であるキリスト」の祝日を迎えて、改めて、王であるキリストを讃えて、神の計画の実現のために祈り、そして歩む決心をしていきたいと思います。』