2023年9月3日日曜日

9月3日 年間第22主日

 この日は、ケン神父様の司式により、午前10時から合同ミサ(日本語・英語)が行われました。

ミサの中で洗礼式が行われました。

ミサの後、4年ぶりにチャリティバザーが行われました。

好天にも恵まれ、信徒と聖園幼稚園の子供たち、父兄の皆さんで賑やかに行われました。




ケン神父様のお説教をご紹介します。

https://drive.google.com/file/d/1ui3jPcq6YHFy2ZF9xUZYRm43VIiQuBp8/view?usp=sharing

2023年8月24日木曜日

8月13日 年間第19主日

 この日は、北一条教会出身で現在、東京カトリック神学院で神学生の養成を行っている浅井太郎神父(名古屋教区)がミサの司式とミサ後の講演会でお話をしてくださいました。




【浅井神父様のお説教】

 今日の第一朗読にこんな言葉がありました。列王記(上)ですね。

 エリヤの話ですが、激しい風の後、地震の後、火の後にも主はおられませんでしたが、その後、「静かにささやく声が聞こえた。」とあります。静かにささやく声、神様の声は普通に話している状態では聞こえることはありませんが、しかし、私たちの中に静かにささやいておられる。沈黙の中で耳を澄ます中で、私たちどこかでその声を聞いているはずです。自覚する場合もありますし。自覚されない場合もありますが、しかし、その言葉には力があって人を動かします。ですから、今、皆さん、この場に来ておられる。皆さんを動かし引き寄せてここにひとつに集めておられるのだと思います。

  その静かな声は多くの場合聞こえない声ですが、時には人の声の中に、実際に語られる言葉の中で聞こえる場合もあります。これが神の御言葉、キリストだろうと思います。


 そういった声に引き寄せられて私もここにいるわけですが、1994年8月14日にここ北一条教会で洗礼を受けました。皆さんのほとんどは、私と初めてお目にかかれておられると思いますが、何人かの方あの浅井君だねと懐かしく思っておられると思います。

※この後は、神父様のプライベートなお話になりますので割愛します。

2023年8月15日火曜日

8月15日 聖母の被昇天

聖母の被昇天おめでとうございます。

つい先日までポルトガルで行われていたワールドユースデイに行っておられました勝谷司教様が帰国され、この日のミサを司式されました。




写真のカズラは、ワールドユースデイでのミサの際に支給されたものだそうです。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、

からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。

信じる民がいつも天の国を求め、

聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。

   集会祈願より

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第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節


 天にある神の神殿が開かれて、 その神殿の中にある契約の箱が見え〔た〕。

 また、天に大きなしるしが現れた。 一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、 頭には十二の星の冠をかぶっていた。 女は身ごもっていたが、 子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。 また、もう一つのしるしが天に現れた。 見よ、火のように赤い大きな竜である。 これには七つの頭と十本の角があって、 その頭に七つの冠をかぶっていた。 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。 そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、 産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。 この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。 子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。 女は荒れ野へ逃げ込んだ。 そこには、神の用意された場所があった。

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節


(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、 眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、 死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、 キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。 最初にキリスト、 次いで、キリストが来られるときに、 キリストに属している人たち、 次いで、世の終わりが来ます。 そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、 父である神に国を引き渡されます。 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、 国を支配されることになっているからです。 最後の敵として、死が滅ぼされます。 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。



福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節


 そのころ、マリアは出かけて、 急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、 その胎内の子がおどった。 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。 「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、 どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、 胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、 なんと幸いでしょう。」

 そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも

   目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も

   わたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、

   わたしに偉大なことをなさいましたから。s その御名は尊く、

その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、 自分の家に帰った。

2023年7月17日月曜日

7月16日 年間第15主日

この日は、ケン・スレイマン神父様のミサ司式でした。




お説教はこちらを

 


【聖書朗読箇所】


すべての人を照らしてくださる神よ、

 あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、

 真理の光を輝かせてくださいます。

 洗礼を受けたすべての人が、

 信仰に反することを退け、

 キリストに従って生きることができますように。

  集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 55章10~11節


(主は言われる。)

雨も雪も、ひとたび天から降れば

むなしく天に戻ることはない。

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ

種蒔く人には種を与え

食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も

   むなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたしの望むことを成し遂げ

わたしが与えた使命を必ず果たす。



第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節


(皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、 取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、 服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、 神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 被造物がすべて今日まで、共にうめき、 共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、 神の子とされること、つまり、体の贖われることを、 心の中でうめきながら待ち望んでいます。



福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節


 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、 イエスは舟に乗って腰を下ろされた。 群衆は皆岸辺に立っていた。 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、 そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、 あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい。」


  弟子たちはイエスに近寄って、 「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 イエスはお答えになった。 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、 あの人たちには許されていないからである。 持っている人は更に与えられて豊かになるが、 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。 イザヤの預言は、彼らによって実現した。

  『あなたたちは聞くには聞くが、

    決して理解せず、

  見るには見るが、決して認めない。

  この民の心は鈍り、

  耳は遠くなり、

  目は閉じてしまった。

  こうして、彼らは目で見ることなく、

    耳で聞くことなく、

  心で理解せず、悔い改めない。

  わたしは彼らをいやさない。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、 見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、 聞けなかったのである。」

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、 心の中に蒔かれたものを奪い取る。 道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 石だらけの所に蒔かれたものとは、 御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、 御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、 世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、 あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」



2023年7月9日日曜日

7月9日 年間第14主日

 ケン・スレイマン神父様のお説教をご紹介します。



こちらをどうぞ



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは倒れていた世界を、

  キリストの死によって新しいいのちにたち直らされてくださいました。

  信じる者を罪の束縛から解放し、

  終わりのない喜びにあずからせてください。

集会祈願より


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第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節


(主は言われる)

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ、あなたの王が来る。

彼は神に従い、勝利を与えられた者

高ぶることなく、ろばに乗って来る

雌ろばの子であるろばに乗って。


わたしはエフライムから戦車を

エルサレムから軍馬を絶つ。

戦いの弓は絶たれ

諸国の民に平和が告げられる。

彼の支配は海から海へ

大河から地の果てにまで及ぶ。



第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節


 (皆さん、)神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、 あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、 あなたがたの内に宿っているなら、 キリストを死者の中から復活させた方は、 あなたがたの内に宿っているその霊によって、 あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、 それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。



福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節


 そのとき、イエスはこう言われた。 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、 幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。 父のほかに子を知る者はなく、 子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

2023年7月2日日曜日

7月2日 年間第13主日

 この日は、ケン・スレイマン神父様の司式でした。




お説教は、こちらを


【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い父よ、

  あなたはわたしたちを選び、

  光の子としてくださいました。

  わたしたちが罪のやみに迷うことなく、

  いつも真理の光のうちにあゆむことができますように。

集会祈願より


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第1朗読 列王記下 4章8~11、14~16a節


ある日、エリシャはシュネムに行った。

そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。

以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。


彼女は夫に言った。

「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、

聖なる神の人であることが分かりました。


あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、

寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。

おいでのときはそこに入っていただけます。」


ある日、エリシャはそこに来て、その階上の部屋に入って横になり、


従者ゲハジに、「あのシュネムの婦人を呼びなさい」と命じた。

ゲハジが呼ぶと、彼女は彼の前に来て立った。


エリシャは、「彼女のために何をすればよいのだろうか」と言うので、

ゲハジは、「彼女には子供がなく、夫は年を取っています」と答えた。


そこでエリシャは彼女を呼ぶように命じた。

ゲハジが呼びに行ったので、彼女は来て入り口に立った。

エリシャは、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げた。



第2朗読 ローマの信徒への手紙 6章3~4、8~11節


それともあなたがたは知らないのですか。

キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、

またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。


わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、

その死にあずかるものとなりました。

それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、

わたしたちも新しい命に生きるためなのです。


わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

キリストと共に生きることにもなると信じます。


そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、

と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。


キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、

生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。


このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、

キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。



福音朗読 マタイによる福音書 10章37~42節


「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。

わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、

わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」


「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、

わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、

正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。


はっきり言っておく。

わたしの弟子だという理由で、

この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、

必ずその報いを受ける。」

2023年6月18日日曜日

6月18日 年間第11主日

 この日の主日ミサ司式は、メリノール会のケン・スレイマン神父様でした。

お説教では、ご自身の自己紹介と生い立ちにも触れられ、とてもユーモアとフレンドリーな内容でした。ミサの最後には父の日にちなみ、会衆に祝福をくださいました。



お説教は、こちらをどうぞ。



【聖書朗読箇所】


第1朗読 出エジプト記 19章2~6a節


 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。

 イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。


 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。

 「ヤコブの家にこのように語り

 イスラエルの人々に告げなさい。


 あなたたちは見た

 わたしがエジプト人にしたこと

 また、あなたたちを鷲の翼に乗せて

 わたしのもとに連れて来たことを。


 今、もしわたしの声に聞き従い

 わたしの契約を守るならば

 あなたたちはすべての民の間にあって

 わたしの宝となる。

 世界はすべてわたしのものである。


 あなたたちは、わたしにとって

 祭司の王国、聖なる国民となる。



第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章6~11節


 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、

 不信心な者のために死んでくださった。


 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。

 善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。


 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、

 キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、

 神はわたしたちに対する愛を示されました。


 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、

 キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。


 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、

 和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。


 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、

 わたしたちは神を誇りとしています。

 今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。



福音朗読 マタイによる福音書 9章36~10章8節


 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、

 打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。


 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。


 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」


 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。

 汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。


 十二使徒の名は次のとおりである。

 まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、

 ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、


 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、


 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。


 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

 「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。


 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。


 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。


 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、

 悪霊を追い払いなさい。

 ただで受けたのだから、ただで与えなさい。


2023年6月11日日曜日

6月11日 キリストの聖体

この日の主日ミサは松村神父様の司式でした。



お説教は、この日の「聖書と典例」に掲載されていた大阪教区 上田神父様「ご聖体はどんな味?」を交えた内容でした。



今日のご聖体は皆さんにとって、どんな味でしたでしょうか?


ミサ後カテドラルホールで、3年ぶりにミニバザーが行われました。

手作りのおにぎり、お赤飯、総菜などの食べ物類、ブーケや手作り小物等が販売され、賑わいました。

2023年4月3日月曜日

4月2日 受難の主日

レイナルド神父様は、人事異動でイタリア(ローマ)に転勤されることになりました。

北一条教会での最後の福音メッセージをご紹介します。




受難の主日 2023年4月2日 9時ミサ

今日の典礼で私たちは経験した事と感情の間の大きな対比に直面します。最初はイエスがエルサレムに大きな喜びと期待で迎えられる話で始まります。‛ホサナ、いと高きところにホサナ!’と人々は叫びます。イエスは当然そうされるべきでした。人々はイエスをみてたいへん興奮します。

でも、この興奮は今日の朗読をさらに深く読み進んでいきますとショックと恐怖に変わります。イエスが十字架につけられ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだとき福音書は最高潮になります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」そう言ってから「イエスは再び大声で叫び、息をひきとられた」。まさにこのとき全ての会衆は沈黙のうちにひざまずきキリストの死の現実を深く考えます。

一週間の短い間でものごとはこうも変わるのでしょうか。イエスがエルサレムに入られたときに叫び賞賛した人々に何が起こったのでしょうか。どうして会衆はイエスが十字架の刑と死を受け止めることを見過ごすことができたのでしょうか。

この問への重大な答えは私たちが思いもよらないものです。その答えとは、天の父がそれを望まれたということです。神は御心のままに、多くの人々がイエスから離れ、打ち捨て、十字架にかけられる事を望まれたのです。これを理解することが非常に大切です。

最初の聖週間のどの時点でもイエスはその聖なる力を用いて十字架を拒否することができたで事でしょう。しかにそうはなさいませんでした。それどころかイエスはこれから受ける苦難と拒絶を胸に抱きながらすすんでこの週を過ごされたのです。そしていやいやながらでも、後悔さえなさいませんでした。自分のご意思で選び、すすんでこの期間を受け入れられたのです。

なぜ、イエスはそんなことをされたのでしょうか?なぜ苦難と死を選ばれたのでしょうか。それは父なる神の完全な知恵の中に、この苦難と死はさらに大きな目的があったからです。イエスご自身の受難と十字架の刑を用いることで私たちの神聖の完全な手段として、神はこの世の知恵を困惑させることを選ばれたのです。こうして神は最大の悪を最大の善へと変えられたのです。

この事から私たちの信仰のあかしとして、十字架は私たちの教会や家の中央にかけられています。そうすることで最大の悪でさえ神の力、知恵、愛には勝てないといつも思い起すことができるのです。神は死そのものより力があり、全てが失われたように思えるときでも最後に勝利するのです。

2023年3月26日日曜日

3月26日 四旬節第5主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。




【福音メッセージ】 四旬節第5主日A年 2023年3月26日 ウルバン神父“イエスは涙を流された“


“主よ、あなたの愛しておられる者は病気なのです”とイエスは知らされたが、姉妹マルタとマリアが泣きながら待っているのを知って、なお二日間、動きませんでした。“主よ、どこにいるのか、早く来てください、必死に待っているよ”と涙のうちに呼びながら、村の入り口まで走って行って、遠くまで覗こうとしたが、何も見えませんでした。“どうして来ないか分からないが、いつかきっと来ます”と、姉妹達は互いお慰めあって。

ある時、5歳の信者のかわいい女の子が病気になった。頭の中にがんがあった。お父さんも、私も何回も子供の床のそばに立って祈っていたが、病気はますます悪くなって、頭はがんでスイカのように膨らんできた。信者ではない母親は泣きながら私達の祈る姿を見ていたが、慰めになりませんでした。子供が死にました。教会へ行って、教えてもらいなさいと、主人に勧められたが、娘を助けに来なかった神様に心を開けませんでした。教会から家へ戻った時、いつも深いうつに沈んだ。もう来なくなった。娘は神様に愛されなかった。何年か後、母もイエスに出会って、子も愛されて、光に生きていることを知った。長い暗闇の道を歩いた後、顔に微笑みが戻った。

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行って、イエスの足元に平伏した。イエスは慈しんで手を伸べて言った。“私を信じる者は、死んでも生きる。信じる者は決して死ぬことはない。マルタ、このことを信じるのか”。マルタはイエスの顔をみて、“はい、主よ、私は信じております”と、答えた。イエスは、ご自分の足元にひれ伏し泣いている姉妹マリアと、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見た。その時、イエスは心に憤り、涙を流された。

この主の涙は私たちの心に響いています。忘れる事が出来ません。主の心の中を見ているのではないでしょうか。このイエスに私もついて行きたい、ゆるぎなく信じたいのです。今日もイエスは私とあなたに手を伸べて話しています。“我が子よ、我が愛する子よ、私はあなたを見ています。あなたの毎日の苦労、体と心の疲れ、周りの理解できない暗闇、あなたの疑い、力と弱さ、悲しみと喜び、あなたの夢、心の餓え渇き、全て知っています。いつもあなたに近いのです。道が見えなくなっても、もし信じるなら、我が子よ、あなたも神の栄光が見られる”。

もう何十年も前の事です。丁度、ドイツにいた時、父母の結婚金祝に参加する事が出来た。大きな喜びでしたが、もうすぐ、別れのつらい日が来ました。母にがんの病があって、もう長く生きる事はないのを知っていた。出発の朝、母はもう一回私を静かな所へ呼んで、私に別れの祝福を与えた。いつも聖水で頭、胸、肩に泣きながら十字架のしるしをしたが、今回は泣きませんでした。私が泣いた。母の最後の言葉はまだ心に響いています。“今度、天国で会おう”。それは別れの言葉でした。マルタが言われた言葉、“信じれば、神の栄光を見る”は、母の中に生きていた。神に賛美。



【聖書朗読箇所】


全能の、神である父よ、

  御子キリストは、人々を愛してみずからを死に渡されました。

  わたしたちも、この愛のうちに力強く歩むことができますように。

会祈願より



第1朗読 エゼキエルの預言 (エゼキエル37章12-14節)


主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。

わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。


わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、

わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。


また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。

わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。

そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、

行ったことを知るようになる」と主は言われる。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ8章8-11節)


(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。


もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ11章1-45節)


(そのとき、)ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。

このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。(ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。

イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」


弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、

またそこへ行かれるのですか。」

イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。


イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。


さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。


マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」


マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。


イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。


マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。


イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、

「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。


人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


※コロナウィルス感染症拡大でミサに参加できない信徒の皆様に、主日の神父様の説教と聖書朗読箇所をお届けして参りました。

先日、勝谷司教よりミサ参加の各種制限撤廃が発表されたことを受け、各小教区でもコロナ前の状況に戻りつつあります。

「主日の福音メッセージ」は今回の配信で最後となります。これからは、ミサで神父様の説教と聖書のみ言葉にご一緒に耳を傾けて参りましょう。