2017年9月18日月曜日

年間第24主日 「敬老の日の祈りと祝福」

今日のみことばで、イエスは私たちに赦しについて教えます。

ミサの中で、「敬老の日」を迎える先輩の方々へ祈りを捧げ、後藤神父様から祝福がありました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日のみ言葉は、罪と赦しがテーマとして語られます。
第一朗読(シラ書)では、「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。」と、罪と赦しについては、旧約時代から信仰に生きるものにとっては、大きなテーマということになると思います。
今日、イエスのみ言葉で「七の七十倍までも赦しなさい」と語られます。いかに赦すことが大切なのかということが、この数字からも理解できるかと思います。赦しの根源には、「憐れに思う」心があります。赦す心は、憐みの心に深く結びついています。聖書の中で説明されるその意味は、人間のはらわたから、内臓に由来して溢れてくる憐み、同情である赦しでなければならない、ということです。ですから口先だけ、言葉だけの赦しでは足りないということです。私たちも本当に心の底から人を思い、心を動かされて赦すという心にまで至らなければ、本当に赦すことにはならないのだと聖書では語られます。それは広い心を持って人を赦すという「七の七十倍」というとてつもない数字に深く結びついているということでもあると思います。頭や言葉では、私たちは十分にそのことを理解しているつもりですけれど、人の過ちを赦すどころか、時には非難し続けている自分がいます。復讐心を燃やし続けるような心が続いてしまうこともよくあるような気がします。聖書の中では、度々イエスの赦しの場面が語られますし、イエスの人を大切にするという教えの中でも赦しがあるということが語られています。

「敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい。」「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。」たとえ敵であっても復讐してはいけませんと教えられます。まさに今、北朝鮮の問題は世界中で考えなければならないことです。世界中の人たちが忍耐を強いられています。
信仰から考える赦しと、今の時代の直面する問題とどう繋がっていかなければならないかということも、私たちにとって大きなテーマになるような気がします。
神様は、善人にはもちろん、悪人でさえも受け入れ愛してくださる方。そのことを私たちはとてもうれしく思いますし、そこに慰めを見出します。そして、そこに救いもあるような気がします。神様がそうあるように、私たちも自分に害を与えた悪人にさえも慈しみの心を持って、「七の七十倍」まで広い心で赦し、そして受入れなさい。まさに私たちが主の祈りで唱える「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人を赦します。」という言葉を実践できるようにならないといけないと思います。
私たちは今日もまたミサの前で、回心の祈り、悔い改めの祈りを唱えてミサに入っています。その悔い改めの祈りの中には、「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を 犯しました。」と祈ります。皆さんはこの祈りを唱えたとき、どんな思いを持って、罪を赦してください、と祈りましたか?どんな言葉で罪を犯し、「どうか主よ赦してください。私はこのミサの中で御子であるイエス・キリストのからだをいただこうとしています。どうかふさわしい心でいただくことが出来ますように。どうか私の言葉による過ちを赦してください。」と、ふさわしく準備する祈りを捧げたでしょうか。どんな「行い」や「怠り」があって悔い改めようとしたでしょうか。そのようなことを具体的に考えると、きっと一日だけでも沢山の過ち、反省が起こってくるような気がします。
隣人や罪に対して、寛大な心で人と接しているだろうか、そんなことを考えなければと思います。
「七の七十倍」という数字に、私は驚いて今日の日を迎えました。私自身の個人的なことになりますが、「七の七十倍」という数字が、私に言われているような気がしています。9月7日に、私は誕生日を迎え古希で70歳を迎えました。偶然ですが、「7日に70歳を迎えた」ということに驚いています。今日の聖書のみ言葉は、私に語られていたのではないかと。私も7の70倍をゆうに超すほどの過ちを繰り返しながら70歳を迎え、赦しを願いながら歩み続ける人生が先に見えています。

今日の聖書のみ言葉(マタイ18章21~「1万タラントンの赦し」)では、莫大な借金を王の憐みによってゆるされた家来が、自分にわずかな借金のある仲間をゆるさなかったという内容でした。このたとえ話の家来は、どこか私たちに似ているのかもしれません。自分の罪には寛大でも、人の小さな罪に対しては、なかなか赦すことも、自分の心から消し去ることができない。それが私たちなのかもしれません。それだけに「赦す」ということをもう一度、心に留めなければと思います。

過去を水に流すこと、負債を帳消しにすること、赦しは愛の行為であり、憐みであり、そして恵みでもあるということ。赦しは、相手が何をしたかに関わらず、相手に対してされたことを心に留めないという決意が求められるということ。私たちの信仰生活の中で、愛と赦しは大切なテーマです。

さて、今日はもう一つ皆さんにお願いし、一緒に祈らなければならない日が来ました。明日は国民の祝日でもある「敬老の日」ですが、今日教会ではこのミサの中で、この敬老の日を迎えた先輩である人々と共に、祈りを捧げたいと思います。
生きると言うことは老いていくということでもありますが、老いるということをマイナスのイメージで考えてしまいがちです。神の恵みとして長寿を感謝し、いっそう元気に生きられることを願い、家族や子供達のために祈りを捧げることを喜んで受入れられたらと思います。教会を支え、私たちのために労苦を惜しんで働かれた長寿を迎えている人々を敬い、感謝して祈りましょう。』

2017年9月10日日曜日

年間第23主日  ー チャリティバザー「かてどらる祭」ー

今日は、北一条教会のチャリティバザー「かてどらる祭」の日でした。
好天にも恵まれ、大勢の皆さんがご来場しました。


この日の主日ミサは10時から、英語ミサと合同で行われ、勝谷司教様が司式されました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『(司教様は、まず英語でお話しをされ、その後、時間的なこともあり要約のみ日本語で説教されました。)
 私たち日本人は、面と向かって人にアドバイスを与えることは苦手でないかと思います。特に相手が神父、司教であるとなおさらのことだと思います。どちらかというと、直接その人のことを何か言うよりも、陰でみんなで何かを言って、その人の耳に入るのは回り回って、「こんなことを言ってる人がいるよ。」というような噂で耳に入ることが多いのです。これがいつのまにか、私たちの共同体を支配する妖怪のようなものになってしまうことは多々あります。ただ、どうでも良い小さな欠点をあげへつらって、みんなでとりたててどうこう言うのも必要無いことですが、重要なことに関しては、私たちはきちっとそれに直面する必要があるわけです。

  今日の福音書や朗読聖書の流れを見ると、過ちを犯した人を正す義務があるというふうに受けとめてしまいがちですが、果たしてそうでしょうか。私たちはおうおうに、間違っている人を見ると、集団でその人をやり玉にあげて対処してしまう傾向があります。しかし、多くの場合、その人は私たちの教会共同体を去ってしまう結果をもたらしてしまいます。ただ単に、複数の人数でその人を追い詰めることが求められているのではありません。むしろ、私たちが過ちを正すというときに、その人の救いのために何が出来るのかという観点で考えなければなりません。そう言った意味で今日の箇所は、過ちを犯した人をただ直す、忠告せよという意味ではなくて、むしろその人が私たちの共同体にとってかけがえのないメンバーであり、私たちと同じく救われることが大切です。
 ですから私たちの救いのために、私たちの共同体のために、今キリストが何を望んでいるのか、ということを識別するために、祈る必要があります。そして、それは共同体の祈りです。二人三人が共に祈るとき、私はその中にいると言うのはそのような意味です。
 共同体的な識別のセンスを私たちが持って、私たちが一人ひとりの救い対して責任を負っているのだと。そういう観点から私たちは互いに愛を持って忠告し合おうと、今日の福音は求めているのだと思います。』

御ミサの後、11時からチャリティバザーが始まりました。
オープニングは聖堂玄関前で、聖園幼稚園の子供たちの合唱と、司教様のギター弾き語りが披露されました。



やわらかい秋の日差しがそそぐ中、談笑の輪が拡がっていました。




2017年9月3日日曜日

9月3日(日)年間第22主日 「札幌地区使徒職大会」

9月3日(日)午前9:30から、札幌地区使徒職大会が藤学園講堂で行われました。


昨年12月から今年の4月にかけて受洗された80数名の方々が一人一人紹介されました。

レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会日本管区長)の講演「福者ユスト高山右近の霊性に学ぶ」が行われました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『昨年、私たちは教区100周年の年を閉じる式典を行いました。多くの未来に向けた提言がなされ、それに基づいて様々な取組が各地区地でなされていることを嬉しく思っています。昨年の提言では、司祭が減少し信徒も含めて高齢化する中で、建物としても、そして共同体としても、いかに教会を維持・発展していくことができるか、そういうことについての新しい発想や提言がなされました。引き続き、各地区で様々な努力をなされていることを嬉しく思っております。
  しかしながら、私たちの取組のスピードをはるかに超えた速さで現実も動いております。道北地区や北見地区、そして帯広地区では司祭が一人しかいません。函館地区でも多くの教会や施設、修道会を抱えながら、高齢の司祭を含む二人の司祭しか司牧に携わっていません。今までは考えられなかったことですが、道内各地の観想黙想会=トラピスチヌ修道会やカルメル修道会=でもミサが出来なくなっているのです。
  一方、札幌地区でいえば、司祭の減少は深刻な問題ですが、司祭の休暇や出張を除けば、地区内教会ではほとんどの信者が、毎週、主日のミサに与ることが出来る現状です。つまり、札幌地区内では、主日の司祭の数が足りているのです。確かに各教会に一人以上の司祭がいた時代と比べると大変な現象です。十分な司牧活動は昔のようには出来なくなっています。ミサに与ることが出来ると言っても、司祭が兼務している複数教会で、交互に主日ミサを行っているところが多くなっています。それでも現状を他の地区と比べると、大変恵まれていると言わざるを得ません。札幌地区の皆さんには、このことを理解していただき、今後近い将来、他地区との格差をなくすために、司祭の再配置を考える時に、協力してくださるようお願いいたします。

   また、青少年活動についていえば、昨年の報告では、新しい流れとしてミッションスクールを通しての活動がありました。夏冬2回行われているフィリピンボランティアとエクスポージャは相変わらずの人気ですが、参加者のほとんどがミッションスクールの生徒です。しかし、函館では、このミッションスクールの生徒を通して「地区高校生会」が作られ、小教区で活動をしています。旭川地区や北見地区でもこの函館地区の取組に習って、「函館モデル」としてミッションスクールと小教区教会との連携の取組を始めようとしています。
 札幌地区にはどこよりも多くの、そして規模の大きいミッションスクールがあります。青少年委員会の企画に多くの参加者がいても、その活動が小教区の活性化に繋がっていない現状を見るならば、ミッションスクールと地区教会との連携の可能性を是非模索していただきたいと切に願います。
  小教区を通しての青少年活動はかなり深刻です。先ほども加藤(神父)札幌地区長の話しにもありましたように、わたしの記憶するかぎりでは初めてのことだと思います。今年の高校生の夏季キャンプの申込みが一人もいなかったために企画が中止になりました。このままだと細々と続いている「春の錬成会」も開催できるかどうか危惧されます。
  とはいえ、明るい兆しもあります。今月16日から支笏湖で、全国の青年が集まる「ネットワーク・ミーティング」が開かれます。年に2回、全国か100名以上の青年が集まるイベントです。今回は札幌の青年たちが準備し開催します。この青年たちは、地区の小教区を基盤として動いていないので、教会内では目にぬきにくいのですが、熱心に活動をしています。この全国から集まる「ネットワーク・ミーティング」の運動体自体、教会の組織的な繋がりではなく、ネットワーク的な繋がりで集まるグループ、全国の若者たちです。彼らの中には、先日行われた「アジアユースディ」、「ワールド・ユースディに参加して、世界的な繋がりを持ち、この集まりを通してそれを共有しあっています。このような活動をどのようにして応援出来るのか、していけるのか。そして、それを教会の活性化にどう繋げるのか、私たちの意識しだいだと思っています。
 バチカンで行われる次回の世界代表司教会議(シノドス)のテーマは「若者・信仰・召命の識別」です。私が代表として参加することになっていますが、青年を育てることなくして、未来の教会はないという、この世界共通の危機感、これに真剣に対応していこうと今、世界の教会全体が取組を始めています。今までの常識と視点を転換して、求められる青少年支援の在り方も、是非、私たちは考えていかなければならないと思います。今日の午後、青年活動の報告もありますので、彼らと共に考えていただきたいと思います。

  今現在、私たちが思い描くことの出来る未来図は、悲観的な材料ばかりであることは確かです。今日の福音書のペトロの言葉のように「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、言いたくなるような現状です。これに対してキリストは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱咤されます。人間のことを考え、私たちが変わろうとする努力を放棄して、現状を嘆いているところからは何も生まれません。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)これは空腹の5千人を前にして打つ手をなくした弟子たちに対して、キリストが発した命令です。人のことを思うとき、不可能に思えることも、神のことを思って働くとき私たちの無力さを通して、神が働かれることを私たちは確信しています。
 そのために必要なことは、出来ないと思える心にこそ呼びかけられている主の招きに信頼して、私たちを賭けることです。まず、私たち一人ひとりが変わる必要があるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」そういう今日の言葉をよく考えてください。私たちは十字架の意味を、私たちの意図とは関係なく負わされる苦難や重荷として、受け身に捉え理解しがちです。しかしキリストは、「十字架を負わされる」とは言っていません。「自分で負え」と、言っておられるのです。自分で選び取って、自分の意志で負えと言うのです。

 キリストが担った十字架は、私たちへの愛のために、ご自分の命を捧げることを自ら敢えて選び取ったものです。「自分の十字架を負え」と言う意味は、あなたを愛する誰かのために、あるいは大切な何かのために、自分を捨て自分を捧げるという意味と解釈することができます。 望ましくない現状を嘆くのではなく、そこに示される希望の光を輝かさせるために、私たちを変えていくことが求められています。
 第二朗読のパウロの言葉です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるかを、わきまえるようになりなさい。」』

第21回 カテドラルコンサートのご案内

第21回 カテドラルコンサート 「トランペットとオルガンの響き」

大事なお知らせ:開演時間が午後3時00分から、下記の時間に変更になりました。お間違えのないようご注意ください。

2017年10月14日(土) 午後4時30分開演(開場午後4時00分)
カトリック北一条教会 聖堂で行われます。

当教会オルガニスト 大野敦子さんと、札響のトランペット奏者 前川和弘さんのジョイントコンサートになります。秋にふさわしい しっとりとした演奏をお楽しみください。

2017年8月27日日曜日

年間第21主日

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」というイエスの問い掛けに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロに、イエスは「天の国の鍵」を授けました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今朝6時頃、聖堂に入ってみると、壁に架けられている「十字架の道行」第12留のイエスが十字架上で息をひきとられるレリーフに、ちょうど朝日の光が当たっていて、とても良い光景に巡り合うことができました。そして、8時くらいにまた聖堂に入ってみると、光は祭壇の方に移動していて、ステンドガラスからの赤い光も交じって、とても温かくてきれいな光景でした。朝早く教会に来るとそのような恵みにも与れるかと思います。

さて、今日のみ言葉の舞台は先週に続いて、異教の地にイエスと弟子たちが出かけていた時の話です。異教の地であってもイエスの評判は人々の関心を呼び起こしており、イエスのことをまだよく知らない人たちによって、いろいろな噂が起こっていたようです。
それは、会ったことのない人や一度も話を聞いたこともない人が、イエスのことを「洗礼者ヨハネが生き返った」、旧約聖書に出てくるエリヤだとか、立派な予言者の一人ではないのか、などの様々な噂でした。私が驚くのは、みな過去の偉大な人の名前をイエスに結び付けて考えていたということは、やはりイエスはただならぬ人、ちょっと不思議な魅力のある人というように伝えられていたのではないかと思います。
「この人は何者なのか」という問いは、私たちも信仰の道を歩み始めたとき、そのような質問を心の中で問い掛けながらイエスについて学んでいたのではないでしょうか。聖書の中では最初のうち、正気を失った人とか、悪霊に憑かれた人とか、そのように言われていたイエスです。しかし時の流れとともに、今日の聖書の時代に入ってくると、そのような見方をする人は誰もいなくなり、徐々にイエスの真の姿が理解されるようになってきたということです。
しかし、イエスは自分と共に過ごしてきた弟子たちが、自分の本当の姿を理解しているのかと問いかけます。弟子たちは噂話をしていた人々とは違って、いつも直接イエスを見て触れています。何度も何度もその話に耳を傾け、奇跡を目の当たりにしていた弟子たちです。噂話をする人たちと、今一緒に歩んでいる弟子たちの私に対する見方はどうなんだろうか、イエスはそのことを確認するかのように「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と問いかけます。
その中で、弟子を代表するかのようにペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしています。この「生ける神の子です」という箇所は、共感福音書の中でもマタイ福音書にだけ書かれています。イエスの真の姿を理解しなければ言えない言葉がペトロによって荘厳に告白されたのです。この時、イエスはすぐに「あなたは幸いである」とペトロを賞賛します。これも他の福音書では書かれていないことです。
当時の人々は、苦しい状況の中で、政治的に救いと解放を望んでいた面もありましたが、ペトロだけは、そのような人々が期待しているようなメシアではなく、人類を罪から解放し永遠のいのちに導く方として「生ける神の子」と告白したのです。
イエスこそ、全ての人を父である神に導く方、道であり真理であり命なのだ。ペトロの信仰告白には、そのような思いも含まれているようです。
ヨハネ福音書には聖書を書く目的が記されいます(20:31)。その内容は、「これらのことをあらわしたのは、イエスが神の子であることを信じさせるためである」とあり、まさにペトロの信仰告白もその目的を叶えたかのような内容になっています。
神の子となる洗礼を受けた私たち、そしてそこから信仰の道を歩み始めています。その出発点にはペトロの信仰告白、信仰宣言があるのです。

マタイの福音では、他の福音に記されていない3つのことが加えられました。
1.すでに信仰によって神の国の幸せに与っているのはあなたである。あなたは幸せである。と、ペトロはイエスから直接、そのような言葉をいただきました。
2.新しい使命のしるしとして、教会を建てる礎となる「ペトロ」という新しい名前を与えられ、さらには天国の鍵を与えられました。
3.イエスが名指しでペトロだけに権能を授与しています。霊的な共同体である教会の最高責任者であることを示唆しました。
このようにして、マタイの福音書だけに特徴のある記述がされているのが今日の福音です。天国の鍵、それは現代の教皇様に与えられているものとして継承されています。その教皇様は、忙しく世界平和のために働かれていることは皆さんもご存知のとおりです。私たちは教皇様のためにも、私たちはもっと深く信頼を持って祈らなければと思います。

このように、今日はペトロの信仰告白を中心にみ言葉を考えてきましたが、ペトロは完璧で模範的な使徒の一人になったということではありませんでした。すぐにはペトロはこの信仰告白をそのまま生きた人ではなかったのです。この信仰告白の直後にもペトロは何度もイエスに注意される出来事を起こしています。サタン呼ばわりされるペトロも聖書には書かれています。どんなに立派であったとしても完全な人にはなれなかったペトロです。

十字架に向って歩むイエスの姿を思う時、私たちも戸惑いを感じながらイエスの姿を追いかけるのではないでしょうか。何故、神の子であり、救い主であり、そして奇跡を起こす力を持っているイエスが、こんなに辛い状況に置かれているのだろうか。こんなに残酷な酷い仕打ちを人々から受けているのだろうか。こんな人に私たちはついていっていいのだろうか。本当に神の子なんだろうか。様々な思い戸惑いが私たちの心の中でも湧き上がってくることはあるのではないでしょうか。
時には、イエスの教えを理解していると宣言しながら、平凡な現実の幸せを手放すことさえできない私たち。そのような弱さはきっとペトロにもあった人間の弱さではないでしょうか。ペトロもそのような弱さを持ちながら、失敗を繰り返しながら、強い信仰の人として宣教していきました。そのような信仰も恵みによって支えられているということではないでしょうか。
道であり、真理であり、命であるイエスの招かれる永遠の道を、私たちも見失うことなく信仰を歩みたいと思います。』

2017年8月20日日曜日

年間第20主日「カナンの女の信仰」

今日の福音朗読「カナンの女の信仰」から私たちは何を学ぶでしょう。


ミサの後、カテドラルホールで聖母被昇天のお祝い会がありました。

聖歌隊による讃美歌合唱

蓑島神学生から近況報告


手話を交えた聖歌合唱

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の聖書の内容を理解するためには、当時の社会、時代の背景を少しでも理解しておくと、深まるのではと思います。今日のお話の中で特に、「子供もたちのパンを取って小犬にやってはいけない。」というところの話しですが、聖書と典礼の脚注にも説明が出ていますが、このことを少し理解しておくと、なるほどという理解になってくるような気がします。
 イエス様の時代。ユダヤ教の熱心な人々がたくさんいる時代です。    旧約の信仰をずっと受け継いで、その信仰を守るユダヤの人々。そういう中にイエス様は旧約の教えを完成するために、ユダヤの人々だけではなく、イスラエルの民ばかりではなく、すべての人が救われる。救うために私は来たと、新しい教えを展開して人々の注目を集めています。でもその時代、社会の熱心な人々はほかの異教徒の人と交わってはいけない。接してはいけない、言葉も交わすなというくらい、自分たちの信仰のみに熱心でした。そして、自分の信仰を第一に考える人が多い時代でしたから、異教の神、特に今日出てくるカナンの人々に対しても厳しい見方をしていたということです。だから、異教の人々がイエスの前に来て、何か願いごとをしたり、話しを聞いたり、そういう姿を見ているだけで、当時の人々は多分、弟子たちを含めて「何でこういう人たちが来たんだ?」とか、そういう思いで見ていたと思います。
  「この女を追い払ってください。」と言う弟子たちの声がここにも書かれていますが、そういう背景の中で、うさん臭い人たちも来た、そういう思いで話していたとも思います・

  そういうことを理解しながら、イエス様とカナンの女の人との関わりの話しが、今日の聖書の展開になります。愛する我が病気で苦しむ姿を見るのは、どの親にとってもそれは辛いことだと思います。子供が病気、悪霊にとりつかれている。そんなところでお母さんは、ひどく心を痛めています。何とかして、この子供の苦しみを救いたい、助けたい。そういう思いで「主よ助けてください。私を憐れんでください。」と叫び続けています。でもイエスはこのお母さんの願いを、その訴えを聞きながら、答えることなく沈黙したというのが、最初のお話しになっています。
 そして、イエスは「わたしは、イスラエルの家の迷える羊のところにしか遣われていない。」先ほどの内容がここに反映されていると思います。一見、私たちはこうしたイエスの言葉に目を留めると、「自分はあなたと関わりがない。」という冷たい答えに聞こえてきます。イエスの愛はいったいどこにいったのだろうか。愛を説かれていたイエスがこんな冷たい態度を異教の民の女性に対してとっているのは、ちょっと不思議に思いませんか。私たちの求めることや願いと、イエスがもたらそうとする世界は違っていたんだろうか。イエスがそんなに冷たい人とは思えない、私たちにとって何かイエスの意図がそこにあった。そういうふうに考えたくなります。

 私たちを新しい世界に、神の国が近づいたという世界に招きいれるために、イエスが遣わされていることを、私たちは忘れてはならない。そういう視点で私たちもまた、イエスの話しに耳を傾けなければならない。でも、落ち着いて考えるとそう思いますが、新しい世界に相応しい生活になかなか向かうことの出来ない、日常の生活をごく普通に送っているという、私たちではないでしょうか。
 イエスが説かれる世界、イエスが話される教えを守る世界、それよりも私たちが培ってきた伝統や習慣や虚栄心。私たちはイエスの教えよりも、自分たちの考えを優先して生活しているのが現実だと思っています。そこには私たちが大切にする昔からの言い伝えや習慣を守ること。そのことのほうが、イエスの教えよりも優先してしまうことがたくさんあるということだと思います。私は、時々、自分の中でも反芻することがあります。昔からこう言われている、こう守られてきたことだからそれを大事にして欲しい。私は親戚がたくさんいます。そういう中で、叔父さん叔母さんがたくさんいます。叔父さん叔母さんは大先輩にあたる年代の人ですから、叔父さん、叔母さんに言われると私もどこかで黙って聞いてしまうことになりますが、叔父さん叔母さんは昔の言い伝え、伝統、習慣というものをとても大切にする人が多いのです。昔からこうやっているんだよと言われると、そうなのかな、そうしなければいけないのかなと、無理やり納得して、それに従って私はずっと育ったような気もいたします。
 そのくらい私たちは昔の伝統とか、習慣とか、昔からそうなってるんだよと言われると抵抗できない。その正しさの根拠がはっきり分からないために、従ってしまうことがたくさんあるような気がします。それはいつから始まったのか。テレビのクイズの解説か何かに時代を遡って、いつごろかそういう習慣が始まったのか放送されることがあります。以外と、昔と言ってもそんな昔ではなくて、ついつい近代国家に入ってからの生まれた習慣がたくさんあることが気付かされます。日本の鎖国が解かれ、日本の国が近代化に向かう中、これまでの考え方や思想も国策、政策もまた大きく変化する日本が、新しく生まれ変わろうと発展していきます。そういう中で、生活の中でもいろいろな習慣が変化して変わっていく時代になりました。新しい生活習慣も生まれてきました。そうした時代の過去であっても、もっと古い時代からのことだと思って、そうしなければならないものだという思いになってしまう。根拠をしっかりと理解しない限りは、やはり大先輩の人から言われると、従うざるを得ないというのが若い者の宿命かもしれません。
 イエスの時代にもまた同じようなことがあったのではと私は考えます。イエスは旧約の律法から、 律法学者やファリサイ派の人たちが主張する掟を守ること、昔からの伝統、習慣が正しいわけではないと、神の教えと愛を説かれて、信仰を大切にする新しい世界に人々を解放するためにこの世に遣わされた。イエスはそのために教えを説かれて、人々の中に入っていかれた。でも、なかなか思うようにはいかなかった。イエスの前には、信仰宗教についてずっと学び続けてきた律法学者やファリサイ派の人々が、いつも目の前に立っています。彼らが伝える伝統、習慣や掟は、信仰を生きる上で守らなければならないこと。でも、みんながそれを守るならば、イエスが目指そうとするその目的とは、また違った生き方になってしまう。新しい教えを考えるよりも、やはり新しい教えを聞いても、掟が大事と言われてしまえば、みんなそっちの方がそうだろうなと理解してしまう。
  聖書の中にいくつかお話しがでてきます。食事の前に手を洗わなければ。そんな話しも、掟があって、食事の前には手を洗わなければならない。罪を犯すことになる習慣があります。宗教者はイエスに、何故あなたの弟子たちは手を洗わないで食事をするんですか。そんなことが許されて良いのですか。そんな話しをされている場面も語られています。戒めを守らない弟子たちを見て糾弾する律法学者たち。それはどういうことでしょうか。弟子たちは信仰を大切にしていたはずではないでしょうか。イエスの教えを聞いて、自分たちの信仰を見つめなおしていたはずでした。でも、律法学者たちの目から見ると、神を信じる信仰よりも、伝統や戒めが大事な彼らにとって、手を洗わない姿は罪を犯すことで糾弾になってしまう。

  そういう背景も少し心に留めながら、今日のイエスの、はじめに見せた姿。異邦人であるカナンの女性が心から神を信頼して助けを求めているのかを探っていたんだろうか。そんなふうにも私は最初考えています。「私を憐れんでください。」二度目には「主よどうかお助けください。」子供のために悩む苦しむ女性が必死に頼みます。
  今日の私たちが聴いた聖書の言葉を少しずつ見ていきますと、始めに「私を憐れんでください。」と、この女性はイエスに願っています。そして、その次には聖書では変わって「どうかお助けください。」憐れんでくださいとお助けくださいは、この場合似たような内容で話されているように感じます。でも、聖書で使うときには違いがあると言われています。どんな違いでしょうか。カナンの女がイエスの前に出て来て。女が出て来て話し始めています。「出て来る」と言う言葉にも私は注目しています。通常、遠くから来て必死になってお願いしなければならない女性は、イエスの前に立って頭を下げたでしょう。お願いを始めたでしょう。この時、聖書の言語学者の説明によると、「もし出来るなら私を憐れんでください」。そういうニュアンスでこの女性は最初にイエスに願っている、という説明があります。立ったままイエスの前でお願いします。「もし出来るならお願いします」「どうか憐れんでください」こういうニュアンスで最初話されたと記されています。
  ところが、次の言葉に注目していくと、その女性の態度が違っているのに少し気付くと思います。次にイエスの前に出て話した女性の言葉の最初に説明が出ています。女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よどうかお助けください。」。最初は来てすぐ立ったままで「できるならば、憐れんでください」と言った女の人は、イエスは沈黙して何も答えず、聞いてくれない状況をずっと見守りながら、今度はひれ伏してお願いしています。大きな違いがはっきりと見えてきます。最初はニュアンスとしては、出来るならばお願いしたいと言っていた女が、今度は地面にひれ伏して、きっと頭を地面につけてまでも、無我夢中でひたすらイエスに願ったのが見えてこないでしょうか。全面的な信頼、そしてへりくだる姿勢がこの女性を変えていきます。その心がイエスに届きます。屈辱的と思われるような地面にひれ伏す態度。私たちも聖書の情景ですが、そこまでしてイエスにお願いする母親の姿をみると、私たちも心がすごくそんな気になってしまいます。
  その後、小犬の話しが出てきて、イエスと言葉を交わす女性の姿があります。その小犬の話しは、先ほど背景として理解して欲しいことに繋がってきます。イスラエルの民は「子供たち」との表現は「自分たち」と考えていたと言われます。神の子供は自分たちイスラエルの民だけだ。祝福を受け契約を結んだのは、神の子として私たちが契約したイスラエルの民だけだ。だから救われるのはイスラエルの民だけだ。そういう思いが強い旧約の信仰をずっと受け継いで来ている人々です。イエスはそういう当時の社会背景を見て、神の民の加護を異邦人にあげてははいけない。こんな表現をとって聖書は語っています。今の時代の聖書の教え、神様の教えとは違ったかたちで表現されているわけです。
 でもこの女性は答えます。「小犬も主人の忠実な僕のようにして、食卓から落ちたパンをいただいております。」。今、私にとって主人はあなたしかいません。主であるあなたが私の主人なのです。ですからどうか助けてください。憐れんでください。私はあなた以外に頼るものはありません。こういう状況に入ってきています。イエスは厳しく冷たいかのように見えましたけれど、けっしてそうではなく、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」と、その女性を讃えます。そのイエスの言葉には、冷たさや厳しさではなく慈しみが溢れてきます。イエスは、魂の深みでしっかりと恵みを受けとめようと必死になっている、母親の信仰も見つめられました。厳しい態度をとりながらも、母親の真実な叫び、信仰の叫びを受けとめています。

 神の計画の中で、私たちには予想も出来ない試練を受けることが、人生の中で度々起こっています。良く私たちが思い浮かべるのは、大きな病気や苦しみ、悲しみがあります。何故、私はこんな大きな苦しみを負わなければいけないのでしょうか。何故こんな試練を私にだけ与えるんですか。そういう思いをすることは誰にもあると思います。何故ですか、神様? 厳しく問い詰めようとする祈りが生まれてきます。そのときはきっと、自分の苦しみから自分が救われることしか考えられなくなります。  
 でも信仰において考えて落ち着くと、それが神の目的であるならば、その試練が神のみ旨であるならば、私たちは神を信じる者として、受け取らなければならない。そういう気持ちも生まれてきます。きっと神様はこの苦しみを通して、その試練を通して良き計らいに私を導いてくれるでしょう。そうした希望に心を向けて、その苦しみに耐えようとします。この悲しみを受けとめようとします。けっして神を利用して、自分だけ、自分中心の楽しい生活を送るような信仰ではないはずです。神の目的がそこにあり、神のみ旨がそこにあるならば、それを受けとめなければならないというのが、私たちの信仰ではないでしょうか。
  聖書のお話しで二度目に、この女性は娘が悪霊にひどく苦しめられているとは言っていません。娘を助けてください、娘を治してください、癒してくださいという言い方は出てきていません。でも必ずしもそういう表現がないからと言って、この母親は自分だけの救いを考えたとは、私たちはきっと考えもしないと思います。どんな結果でも、あなたが与えてくださるなら、受け取る覚悟は出来ています。そういう思いで地面にひれ伏して、お願いしていると思います。立派な信仰だ。イエスが話されたのはそういう一人の女性の気持ちをしっかりと受けとめたからだと思います。

  私たちも自分の信仰をもう一度振り返ります。私はどうでしょう。私の信仰はどうなっていたでしょう。私の祈りは自分の目的のためにだけ、祈りをしていなかっただろうか。そんなことも考えながら今日のみ言葉を深く味わい、新しい1週間に向かいたいと思います。自分の思いがかなう祈りではなく、神のみ旨が私たちの間にゆきわたりますように。私たちは「主の祈り」を毎日のように唱えていると思います。その祈りの中には「神の御名が崇められますように」という祈りが出てきます。それはきっと、私たち一人ひとりのおごる心を乗り越えて、イエスの前に近づくことが出来るようにという信仰を表していると思います。告白していると思います。
 イエスとの信頼の心を揺るぎなくして、共に歩む私たちでありますように。今日もまた、主の祭壇の前に心を一つにして、イエスに近づいて行きましょう。』


2017年8月15日火曜日

聖母の被昇天 (終戦記念日)

午前10時から「聖母被昇天」の祭日を記念するミサが行われました。


引き続き、終戦記念日にあたり12時に鐘楼の鐘が鳴らされ、戦争犠牲者と平和のためにお祈りを捧げました。

この日の後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『今日の「聖母被昇天」の祭日にあたって改めて、マリアの存在と崇敬の意味を教会がどのように教えているのか振り返ってみたいと思います。
マリアは教会の数多くいる聖人の中でも特別な存在です。それは、神の母、すなわちキリストの母であり、贖い主の母として認められ、教会の母として讃えられているからです。
多くの人は「聖母被昇天」を迎えて、神様よりもマリア様に心を向けて祈っているように思うこともあるのですが、まず、神様があっての被昇天であることをしっかりと理解して祈ることは大事なことです。
アヴェマリアの祈りで「神の母、聖マリア、わたしたち罪人のために、いまも臨終の時も祈り給え」とあるように、マリア様の役割については、キリストの結びつきから切り離すことはできない救いのみ業につながっています。』

2017年8月14日月曜日

年間第19主日

この日の福音では、「パンの奇跡」のすぐ後の出来事として、自然界の嵐が語られています。

夏休みで帰省中の蓑島神学生が聖体奉仕をされました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『毎年の事ですが、8月に入って高校球児の熱い夏が始まっています。野球ファン、特に高校野球のファンにとっては、たまらない高校球児の姿ではないかと思います。汗にまみれ白球を追う球児の姿に、私も青春そのものを 見て感動したりしています。テレビ画面に釘付けになっておられる方もいるかもしれませんが。
 今日の朝6時には、陸上の世界選手権の100メートルリレーで、日本のアスリート、若者たちが銅メダルを獲得したニュースが流れてきました。テレビ画面では観衆の大きな嵐がどよめくように聞こえてきますが、金メダルが確実と見られていたジャマイカのウサイン・ボルトという選手が足の故障で棄権しメダルを逃した。そのせいもあって日本がメダルにくらいついたと言えるかもしれませんが、日本の陸上界の若い人たちの力が、どんどん世界のレベルにまで達していることは、今年の陸上界をテレビで観ていても私自身感じるところでした。

 テレビの画面では熱烈なファンの嵐が呼び起こされていますが、今日の聖書では自然界の嵐が語られています。先週は「主の変容」の祝日の日曜日でした。この「主の変容」は移動日になりますので、必ずしも日曜日にあたるとは限りませんが、今年はたまたま日曜日に重なって「主の変容」を先週祝いました。そのために、普通であれば先週の日曜日には、5000人の人にパンを分け与える「パンの奇跡の話」が語られるところでしたが、その話は消えてしまって、「主の変容」のみ言葉を私たちは聴いたわけです。ですから今日の聖書の話は、通常「パンの奇跡」の後に語られるお話しが今日のみ言葉になっています。ですから、今日のみことばの最初は、一言そのことが分かるようなかたちで触れられています。「人々がパンを食べて満服した後」というみことばが語られているわけです。パンの奇跡の内容は弟子たちの想いと、イエスの思い違っている、そういう内容で展開していました。弟子たちは群衆を解散させてほしい、もう夕食の時間でもあるし、大勢の人に食事を与えることは難しい。だから解散させてくださいとイエスに申し出たのですが、イエスはそうではなくて、パンをかき集めて奇跡を行い、5000の人に満腹させるために食べさせたという話しになりました。

  今日の「パンの奇跡」の後に続くみ言葉を私自身いろいろ受けとめ考えます。私自身は今日のみ言葉で、イエスのひとつひとつの行動、行為、言葉にいくつかの注目するポイントが出てきます。一つは強いて舟に弟子たちを乗せて群衆と引き離していること。何故イエスは強いて弟子たちを群衆と引き離したのか。また、イエスと弟子たちもいっしょに離れた場所に動き始めることがとても気になる箇所です。もう一つは、イエスは一人山に登って長い間、夕方まで祈りを捧げます。イエスは弟子たちから離れて一人祈ったこと、何故一人で祈ったのか、どんな祈りを捧げたのか、そんなこともとても気になる内容です。さらに、舟に乗っている弟子たちのところに湖の上を歩いて行かれた。それは不思議なことですが、水の上を歩いたイエスの姿もまた、とても気になる特別な出来事として考えます。そして、最後のひとつは、それを見たペトロがイエスの呼びかけに従って水の上を歩こうとした。だけれども、最初は歩いていたはずなのに、突然嵐の風に感じいって気付いた。そのことに心が向かったら沈みかけた。 自分の不信仰のために溺れかけたという内容が繋がっていきます。そういうイエスと弟子たちの行動のひとつひとに特別な意味があるのだろうと、黙想になってしまいます。
  今日の第一朗読では自然の山が舞台となって、激しい地震や風が起こったことを語っています。自然の嵐、出来事。今日の湖の嵐に繋がるような話しが、すでに第一朗読で語られていた共通点も見えてきます。私たちが生きるこの自然界には、常に私たちが予想もできないことが起きてきます。そして今日の福音では湖の上で恐ろしいの嵐の物語です。人生の嵐も考えられます。私たちはそういった人生の嵐の前では、どんなふうに、どのように自分の信仰を見つめているでしょうか。自分の信仰を生きているのでしょうか。そういうことも今日の聖書のお話を通して考えることが出来るようです。

  イエスは一人で祈るために敢えて弟子たちと離れて祈ります。敢えて弟子たちと離れた内容が語られています。私は、「敢えて」という内容がますます気になるかというか、どうしてそのようにしたのだろうかと気になります。そしていろいろなことを考えます。一人で祈られたイエスの祈りはどんな内容だったのか、どんな祈りだったのか。弟子たちから距離をおかれたということは、そこにどんな意味が隠されているのだろうか。これまでずっと共にいたイエスと弟子たちであるのに、このときは離れた。そういう時間を過ごしている、その内容がとても気になります。
 そして、弟子たちの信仰、不信仰という話しが続きますが、「パンの奇跡」のときにおいても、また湖の上を歩かれた主の姿を見ても、後においては弟子たちは信仰告白を常にしていきます。これまでもイエスの奇跡を目の前にして、弟子たちはその驚くべき出来事の前で神の力、イエスの力を思い知って信仰告白を何度もしてきました。先週の「主の変容」の場面においても、ペトロガ信仰告白したことを私たちは思いおこすことができると思います。そんな弟子たちの姿、そしてそんな弟子たちの信仰をイエスは常に見つめていた。その危なげな、迷ってしまいそうな信仰を常に受け入れながらも、弟子たちを強め励まし、神の国、神の力を教え続けていた。  イエスが一人祈るその姿は、もしかすると近づいてくる、エルサレムに向かう、十字架に繋がるご自分の道の使命を祈っていたかもしれない。この時期、遠からずイエスはエルサレムに向かい、受難と十字架の道に辿り着こうとしています。そういうことを想像することができるなら、その前表としていずれ自分は弟子たちと離れざるを得ない。そういう心境もあって、このとき一人山に登って弟子たちと離れて祈られたのでしょう。そして弟子たちはイエスと離れている中においても、共にいるイエスを感じなければならないなずであったのに、  共にいるイエスを忘れて常に不安な状況になってしまう、まだまだ信仰のおぼつかない弟子たちの姿があらわになるような気がします。 

  私たちが信頼する神に心を向けるとき、神の慈しみが見えてきています。感じられます。イエスの言葉にも慰めを見いだし力を頂くことができます。でもそれは神に信頼し、イエスに信頼し心を向けて祈っているとき、そのときは本当に神の慈しみの中に感謝の気持ちが見出せます。不安もそうしたときにはほとんど感じないで  神への信頼から力を頂いているのだと思います。
  パウロが話しています。「だれがキリストの愛から私たちを離れさせることが出来ようか。」(ローマ8:35)神との信頼がはっきりと掴めているときにはまさにパウロの心境に繋がっていきます。回心したパウロの信仰もそういうふうにして、かつてとは全く違った形で自分の信仰を精一杯、命をかけるくらい生きようとしていきます。
 今日の第二朗読でもパウロの言葉がこのようにありました。キリストは万物の上におられ永遠にほめ讃えられる神。まさに信頼がゆるがない信仰を持つパウロの言葉がこうした言葉になってきます。
  一人山に登りただ一人祈られた、聖書はそう伝えてきます。イエスのいない舟に乗った弟子たちは、陸から少しづつ離れて行く中で風を感じ、波が段々と強くなっていくうちに、舟が揺れはじはじめたときに不安を感じています。波と戦っている舟は言うまでもなく私たちの教会を指すかもしれません。そして私たち一人ひとりのこの世での人生、そうしたひとときを表しているのかもしれません。舟の進行が妨げていると、波は悪のシンボルのようにも感じます。誘惑のようにも感じます。またそれは私たちが直面する困難であり不安を誘うものとしての嵐につながっていくような気もします。教会に対する信仰と信頼を揺るがすことは、今の私たちの社会にも教会にも、けっしてないわけでもありません。私たちの教会の中にも時には、困難を見いだすこともあります。そしてそれを作ってしまうこともないわけではありません。
  そういう中で私たちが直面してくる困難、不安、嵐。揺れる心でもしキリストを見たとしても、もしかすると弟子たちのように幽霊としてか目には写らないのかもしれません。不安や動揺や心を騒がせるような状態では神さえも見いだせない、見つけられない。突然のようにもし地震が起きたり嵐が起これば、神の世界を見失って慌てふためくのが私たちではないでしょうか。この頃は時々、日本でもよく地震が起こっています。北海道でも何度かありました。震度1であればそれほど動揺することはないかもしれませんが、テレビのニュースで震度3などと報道されると、治まってからでも心が落ち着かなかったりします。動揺するのは弟子たちだけでなくて、私たちも同じようなことがいえる。奇跡の前で感動もし、力強い信仰告白も何度もしてきた弟子たち。それは私たちの信仰の体験の中で、神の慈しみに何度も感動して、信仰告白をして、祈りを捧げてきたのと同じかもしれません。

 私たちの信仰、困難や嵐に立ち向かわなければならない私たちの信仰の中で、私たちは神を見失うことのない状態で信仰を生きているでしょうか。神に信頼をよせているでしょうか。そんなことも今日のみ言葉で考えさせられます。信仰は希望や平和を私たちに与える機会にもなっていますが、私たちの信仰はただ頂く恵みを生きるというものではないはずです。信仰は人生の嵐や不安の中で、迷い苦しみながらも成長するものであることに、気付いていきたいと思います。ただ恵みを頂く信仰ではなくて、迷ったとき、苦しみにあったとき、神が一瞬見えなくなったとき、そうした試練をとおして、私たちの信仰を成長させなければならないものだと思います。私たちの日常におこる動揺から神から目を離すことなく、そしてペトロのように水に沈んでいくような信仰ではなく、もっともっと神に心を向ける努力をしていかなければと、今日そういうみ言葉を聴かされているような気がします。
 旅する教会でもある私たちの信仰。そして人生を考えるとき、予測出来ない嵐のような人生の途中で吹かれる風があります。危険な波も寄せてくることがあります。そうしたことを予測したり、戦うことは常に私たちの心の中に覚悟として持っていなければ。その嵐に勝ったときには、すぐにも神から目をそらす信仰になってしまうような気がします。どんなときも強い信頼を持って神に心を向ける信仰を私たちは願っていかなければならないと思います。今日もまた、そのことを私たちの祈りとして、教会の祈りとして捧げながら、主のご聖体に近づきたいと思います。』

2017年8月6日日曜日

主の変容

72年前のこの日、広島に原爆が投下された8時15分に教会の鐘楼で「平和の鐘」が鳴らされました。犠牲者への追悼と平和のために祈りましょう。

ミサの中で二人の子供たちの初聖体がありました。この日のために夏休み返上で準備をしてきました。おめでとうございます!


ちょっと緊張気味かな・・・


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『夏も真っ盛りという8月を迎えています。九州の豪雨災害、世界中で起こるテロ、つい先日の北朝鮮のミサイル発射など、私たちの毎日を不安にさせる出来事が続いています。また、国を代表する政府も混乱する中、8月6日の今日、広島は原爆投下から72年目を迎える夏になりました。
新聞の記事で見ましたが、今年新たに5,530人の亡くなった人の名前が追加され刻まれているそうです。今もきっとこの時間、式典が続いていることだと思いますが、名前もわからないままの人を含めると30万8,725名の方々の死没者名簿が今年も納められて式典が進められているようです。想像を超えた死者の数です。私たちは毎年今日の日を迎えて、今日だけは少なくともそのことに心を寄せて、平和の願いを祈りに込めてミサに与る方も多いかと思います。
昨日はこの北一条教会において平和講演がありましたが、日本の教会では平和旬間として15日の平和祈願ミサまで、平和を考える期間が設けられています。平和的に利用するという名目で使われている核、原子力の事故がいまだに収まらないというのは誰でも知っていることです。私たちも歯がゆい思いをしていますが、今日は犠牲者に祈りを捧げながら平和のためにも祈っていきたいと思います。

さて、福音朗読では「天の国」のたとえが毎日曜日ずっと続いていましたが、今日のみことばが伝える内容はガラッと変わって、「変容」のお話になっています。「主の変容」の祝日を迎えています。主の変容の話は、4つの福音書のうち共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書でその出来事が語られています。この3つの福音書に共通することは、変容の出来事の前にペトロの「信仰告白」が記述されており、これには非常に大きな意味があるのではないかということを聖書学者たちは気付いています。変容の前に、弟子の一人ペトロが「信仰告白」をしている、その後で主の変容が起こっている。ペトロの信仰告白と何か繋がりがあるのではないか、ということが解釈上考えらえます。
変容の出来事の少し前には、洗者ヨハネがヘロデ王によって殺されています。そしてそのことを含めて、イエスの噂はどんどん広がっていっているようで、色々な人が噂をしています。聖書では、イエスのことを「洗者ヨハネではないか?」「予言者エリヤではないか?」といった、そういう噂もあったということです。イエスはそのような噂を弟子たちから報告され、イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」この質問に逸早く応えたのがペトロです。「あなたはメシア、あなたは生ける神の子です。」と真っ先に応えたのです。その後に、今日の変容の出来事が起こったということのようです。

イエスは、ご自身の栄光の姿を弟子たちに見せた後に、やがて訪れる受難と死を打ち明け、さらに三日目に復活するということも弟子たちに話します。この出来事、そしてイエスが弟子たちに自分の将来について話した後、聖書の流れはこれまでとは大きく変わっていく内容になっています。エルサレムへと向かう受難の道へと進んでいきます。
主の変容の姿を間近に見て、弟子たちは驚き、同時に終末の素晴らしい姿をイエスから感じ取ります。特別に選ばれた三人の弟子たちは、ユダヤの思想を回顧したことでしょう。出エジプト記で、モーセが山で神と出会い、山から下りてきた時、白く輝いており、神から十戒を授かったという過去の言伝えを改めて思い出していたのではないでしょうか。今日の第一朗読においても、人の子が現れて、その変容の姿を記しています。モーセもそのような出来事に遭いました。予言者もそのような変容の出来事を語っていました。ですから、弟子たちは過去に聞いてきた出来事とイエスの変容を重ね合わせていたのだと思います。

私たちの思いから遥かに超える栄光の出来事です。私たちから考えると現実離れしたものというようになってしまうかもしれません。でも、この弟子たちが体験したことは、現実から遠く離れたところにある輝きではなくて、現実を輝かしめていることが神の栄光であるというように、考えることはできないでしょうか。

イエスの十字架と復活の出来事は決して離れたものではなくて、切り離すことはできない結びつきを持っています。イエスはこのことを変容の直前に弟子たちに話していました。聖書には「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。・・・・人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来る・・・・」とあります。
日常的な現実を超えた体験をした弟子たちでしたが、イエスを信じた弟子たちにとって決してそれは驚くべき体験ではありません。限界を超えたかのような体験ではありましたが、信仰を支える力としていった弟子たちではなかったでしょうか。私たちに、この変容の出来事はどのように映っているでしょうか、そして捉えることができるでしょうか。
私たちの信仰の支えとなるような出来事として捉えることができるならば、それは素晴らしい幸いなことになると思います。
弟子たちにとって、この幻のような体験に意味があり、みことばがありました。今日のそのみことばを私たちも聞きました。
「これは愛するわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」みことばが天から聞こえてきたとあります。弟子たちにとっては、その天からの声もイエスの洗礼の時に聞いた声と同じみことばであるということを心に留めたのではないでしょうか。

時代と場所を超えて私たちにも迫り語ってくる神のことば。弟子たちにとってこれから苦難が迫ってくるのですが、この栄光の出来事は、現実に力と勇気、さらに希望を与える出来事でありました。私たちの信仰においてもこの出来事が、慰めや希望に繋がっているものでありたいと思います。
今日の変容の出来事を黙想しながら、私たちにとっても希望や励まし勇気となる、そうした理解のもとで受入れられるよう祈りたいと思います。

今日このミサで、初聖体を受ける二人の子供がいます。子供たちは夏休みを返上するように集中的に準備を進めてきました。昨日は「赦しの秘跡」の勉強をして心をきれいにしています。そのきれいな心の中にイエス様が訪れようとしています。お二人の初聖体に神様の祝福を皆さんと共に祈りたいと思います。』

2017年7月31日月曜日

年間第17主日 小田武彦神父様をお招きして

7月29日(土)~30日(日)に、小田武彦神父様(カトリック大阪大司教区司祭、聖マリアンナ医科大学特任教授宗教主事)をお招きし、「ミサ 愛の秘跡に生かされて」と題して講演会が行われました。


主日ミサ後に行われた2日目の講演では、教皇ベネディクト16世 使徒的勧告「愛の秘跡」を引用され、キリストの愛の秘跡とご聖体をいただく意味、信徒の務め、大切に心がけなければならないこと、などについて解りやすくお話いただきました。
私たちが日常生活を過ごすなかで埋没しがちな使徒的意識を目覚めさせていただけるような大変有意義な講演会となりました。特に「私たちが与るミサと日常生活は深くつながっていることが大切です」という言葉がとても印象的でした。イエス様の語られる真理を、私たちは日常生活を送るなかでいつも心に留めておくことが出来るよう祈りたいと思います。






講演会後に小田神父様を囲んでの茶話会では、参加者からの質問にご丁寧にお答えいただき、また、司祭を志すきっかけや、当教会主任司祭 後藤神父様との神学校時代のエピソードについてなどについてもご披露いただき、楽しいひと時を過ごすことができました。
小田神父様、遠いところからお越しいただき大変有難うございました。

この日の主日ミサを司式いただいた小田神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読は、ソロモンがお兄さんのアドニヤとの争いに勝ち、ダビデの王の位を正式に受け継ぎ、ギブオンで一千頭もの焼き尽くす献げ物を捧げ終わった日の夜に、ソロモンが見た夢の話しです。王になったばかりのソロモンは焼き尽くす献げ物を捧げながら、神に向かって必死に祈り続けていたのでしょう。神に感謝し、愛と信頼を込めて語りかける恵みを願い続けていたはずです。焼き尽くす献げ物を捧げ終わった夜、そんなソロモンの夢の中に神が現れて「あなたの願うことを何でも与えよう。」と、おっしゃってくださったのです。ソロモンはアドニヤとの争いに勝つことによって王の位に就きました。その激しい争いの様子は旧約聖書の列王記上1、2章に書かれていますが、けっして生やさしいものではありませんでした。ソロモンはあらゆる手を使って反対勢力を一つ一つねじ伏せ、必死になって王としての立場を確かなものにしていきました。
でも、ソロモンは自分の力で王になれたとはけっして思わなかった。今日の第一朗読の7節をご覧ください。ソロモンの最初の言葉です。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。」実際は激しい争いによって王になったのですが、ソロモンは自分はあくまでも神のみ旨によって、王として立てられたのだと本音で受けとめていました。そして、ソロモンは続けて主に向かって語り掛けます。「私は取るに足りない若者、でどのようにふるまうべきかを知りません。」取りあえず国内を統一することはできたけれど、自分は指導者としてまだまだ未熟だと、ソロモンは自覚していました。それでソロモンは主に向かって 「聞き分ける心をお与えください。」と、必死になって願いました。今日の第一朗読の最後。神はその願いを聞き入れてくださり、聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてくださったと、第一朗読では語られます。

 今日の福音朗読でイエスは、天の国についての三つのたとえを語っておられます。イエスが語る天の国とは、死んでから行くいわゆる天国や極楽のことではありません。つい私たちは、天の国というと日本語の天国と、「の」が入っているか入っていないかの違いなので、「ああ死んでからの世界」と思ってしまうのですが大きく違います。天の国とは神様との交わりそのもの。神との親しい関わりのことです。
  今日のたとえ話しの最初の二つは良く似ています。畑の中に宝を見つけた人も、高価な真珠を見つけた商人も、ともに自分の持ちものをすっかり売り払い、見つけた宝や真珠を手にいれます。つまり、神様と共に生きる天の国というのは、持ち物すべてを手放してでも手に入れたいと願うほどの、貴重で喜びをもたらすものだということです。三つ目のたとえ話しは少し雰囲気が違います。天の国が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を寄せ集める網に似ていると言われます。天の国にはあらゆる魚を集める網のように、すべての人が包み込まれていると言うのです。
 ここで本当に私たち、しっかりとこのイエス様のたとえ話しに耳を傾ける必要があると思います。死んでから行く天国、極楽というイメージで生きたら今日のこのたとえ話し、間違って理解してしまいます。と、言うのはこのたとえ話しの中では、天の国の中には悪い者も含まれているからです。天国、極楽だったら悪い者がいるはずがない。勝手に私たちそう思い込んで、イエス様のお話を誤解して平気で聞いている可能性があります。しっかりと福音を味わいたいと思います。でもこの悪い者とは前の二つのたとえで、持ち物すべてを手放してでも手にいれたいと願うほど、貴著な天の国に気づいていない鈍感な人のことだと、聖書学者たちは解説しています。ですから、悪い者と言われても、つい私たちがなんか意地悪をする人とか、いうふうに思うとこれも違ってきます。私たちが日々出会っている、あらゆる出来事に現れている神の働き。つまり、天の国に気付かない悪い者どもは、世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろうと言われます。私たちはすでに天の国を生きているんです。もう私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっているのです。神様が関わってくださっているのです。それに目をつむっていると悪い者だと言われるのです。世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろう。私たち、つい子供の頃から極楽の話しを聞いていて、嘘をついたら舌を抜かれるよとか、何かそういう物語、説話の世界に生きていて、ついイエス様の話をいつのまにか、そういう日本の説話の話しとごっちゃまぜにして受けとめている可能性があるのではないでしょうか。
 52節の「天の国のことを学んだ学者」とは、学問に秀でた人と言う意味はありません。そうではなくて、日々の出来事の中に神様の働きが見ることが出来るようになった人のことです。ですから私たち、別に特別な有名な大学を出ていなくても、日々の生活の中で、市場であるいは道端でいろいろな人とおしゃべりをしながら「あっ、神様がここで働いてくださっている。神様が関わってくださっている。導いてくださっている。」と感じることが出来たら、それを感謝することが出来たら、「天の国ことを学んだ学者だ。」とイエス様は今日のたとえ話しの中でおっしゃっているのです。

  第二朗読をご覧ください。パウロは、神を愛する者とは、神のご計画に従って召された者のことだと語ります。私たちが神様に出会させていただき、神様の導きに従って、神様の導きを大切にして生きることが出来るようになったのは、神様が呼びかけてくださったからです。もうすでに、私たちは神様の働きの中で歩み始めています。だから私たちここにいるのです。感謝です。私たちが今ここにいるのは神様が導いてくださったから、召し出してくださったから。
 イエスによって神の支配が始まりました。でもまだ完成はしていません。この世の中には、まだまだ悪が複雑に混じりあって存在しています。ですからちょっとでも油断すると、悪の誘惑に負けてしまいそうになります。こういう世の中だからこそ、パウロは言います。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった。」のだと。こういう世の中だからこそ、神様は私たちを召し出してくださった。私たちを義としてくださった。そして、義とされた私たちに栄光を与えようと神様ご自身が、今日も働いてくださっているのです。神様は救いの計画を確実に実現しようと、今日も私たちに働きかけてくださっています。洗礼を受けてキリスト者になるように召された者には、万事が益となるように共に働くことが知らされています。
 ですから、体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見ていることがとても大切なのです。私たちの日々の生活の中で神様が働いてくださっている。それはどんなことでも良いのです。ちっぽけなことかもしれません。でも「あっ、ここに神様が働いてくださっている。」人との出会い、あるいはお花、大自然の営み、いろいろなことの中に神様が働いてくださっている。そして、今日私たちがここにこうして集まっているのも神様の働きです。
 なぜ私たちは今日ここにいるのでしょうか。神様が呼んでくださっているからです。私たちの仲間のなかには来たくても来れなかった方々がいらっしゃいます。その方々のことを思いおこしましょう。突然朝になっておばあちゃんの具合が悪くなった。ミサに行きたい。でも、ミサに行くよりもおばあちゃんの世話をすることを優先する。だから今日、ここに来られない方がいらっしゃるかもしれません。周りを見まわして、「あっ、いつもいらっしゃる方が、今日はいらっしゃってない。」そしたら、その方の分も私は祈らなくちゃ。その方のいろいろな事情のために、「どうか神様、私がいただいている恵みを使ってください。」と差し出していく。御ミサのときにパンとブドウ酒を献げていく時に、そういう私たちの頭を使って、わたしたちの普段のつきあいを思いおこし、それは信者だけではないです。ご近所のおじいちゃんのことであったり、職場の最近、何かうつ状態になっている仲間のことだったり、いろいろなこと全部思いおこして、私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっている。それを思いおこすために、神様が私たちを今日ここに呼んでくださいました。

 わたしたちが日々体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見、ソロモン王と同じように「聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてください。」と心から願い、もうすでに始まっている天の国、でもまだ完成していない、その途中で神様が「おい、手伝って!」と呼びかけられて、私たちはここに集まりました。「こんな私でよければ手伝います。」と、新たな決意を持って、希望を持って祈って参りましょう。』