2019年4月21日日曜日

復活の主日

昨夜の徹夜祭から一夜明け復活祭の朝を迎えました。
改めまして「キリストの復活」おめでとうございます。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『キリストの復活、おめでとうございます! 復活祭の朝を迎えました。待ちに待ったうれしい復活祭の日曜日です。
そして、洗礼を受けられた5名のみなさん、長い準備をしてお恵みにあずかりました。心よりお祝いを申し上げます。わたしたち教会共同体にとっても「復活祭」と共に新しい兄弟姉妹を迎えられる喜びです。おめでとうございます。
昨日は、「洗礼の約束の更新」をしたわたしたちでもありますが、復活したキリストの恵みと希望に満ちたいのちの輝きが、受洗者と共にみなさんの上に豊かに注がれますように。

典礼に関わり奉仕してくださり、この一週間、準備に明け暮れ少し疲れもたまってきた人もいることでしょう。毎日、事前の打ち合わせや準備がありました。神父のわたしでも一年に一度の儀式ですので、典礼儀式の細かな流れを忘れていることが多いのです。歌やオルガンにしても、十字架崇敬や聖体の安置異動、火の祝福、復活ローソクの祝別にしても聖堂から離れた場所で厳かにすすめるとすれば、典礼奉仕者のみなさんの準備と支えがなければ出来ないことなのです。ありがとうございました。 きょう一日、喜びに心弾ませて頑張りましょう。
侍者の奉仕をしてくださった子どもたちにも感謝します。毎日学校もありましたが、夜遅い時間まで笑顔で休むことなく奉仕してくださいました。 「昨日、声をかける」と、「学校では疲れるけれど、教会の奉仕は疲れない」と嬉しいことばが帰ってきたのです。みなさん、教会の子どもたちは何とも頼もしいではありませんか? 子どもたちを大事にしてください。

喜びの日を迎えましたが、聖書のみことばをもう一度、振り返ってみましょう。
親しい人びとの力ではどうすることもできなかった、愛する人イエスへの裁きは、残忍な姿を人目にさらす十字架の死という結果でした。
せめて遺体を引き取ろうとしたにもかかわらず、墓に着くとその石が取りのけてありました。「どこに置かれているのか・・・」と戸惑う婦人たちには、遺体がないことだけが、ただ心配でありイエスが復活したことは想像さえできないことで、茫然と亜麻布が置かれているのを見つめていました。

聖書を読み、聖書から物事を見つめて、この不思議な意味を知ることになるのですが、復活という出来事を当時の人はすぐには理解出来なかったのです。
泣いているマリアの後ろから、「マリアよ!」と呼びかける声で、その声の方がイエスだとわかったのです。
このことは、わたしたちが信仰生活をしていくことで、イエスとわたしとの関係を大切にしておくことがとても大事なことだと教えてくれているのです。神と出会うのは、みな個人です。一人の人間として神の前に立たされるのです。一人になる時に初めて、神とその人との交わりが生まれてくるのです。マリアはその関係を大切にしていたからこそ、「マリアよ」と呼ぶ声に気づいたのです。その呼びかける声は、生きている時のイエスの声 そのものでした。疑いもなくイエスは生きていると信じる事が出来るマリアとイエスとの関係でした。

わたしたちも復活の主に出会っているのです。困難や苦しみの中に立たされていても、たとえ自分の立っているところが墓場のような夢も希望もない所だとしても、墓が破られる時があるという信仰にならなければと思います。イエス・キリストの復活のゆえに信じなければならないのです。
苦しみに閉じ込められることなく、立ち上がり、新しい出発があるのです。
主の復活を新しい仲間と祝うと共に、信仰と信頼を再び取り戻して、心から一致して歩んでゆきましょう。』


ミサの後、奉納されたイースターエッグを後藤神父様に祝福していただき、皆さんにお配りされました。子供たちには特別に神父様からイースターカードのプレゼントがありました。



その後、会場をカテドラルホールに移し、復活祭と5名の受洗者方々の祝賀会、そして5年間お世話になった後藤神父様の送別会が行われました。

2019年4月20日土曜日

聖土曜日 復活徹夜祭

4月20日(土)午後6:30から、後藤神父様、地主司教様の共同司式により「復活徹夜祭」が行われました。


復活徹夜祭は、「光の祭儀」、「ことばの祭儀」、「洗礼の典礼」、「感謝の典礼」の4部からなり2時間以上にも及ぶ、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。

「光の祭儀」
会衆は聖堂に隣接されたカテドラルホールに集まりました。
最初に、復活されたキリストのシンボルである「ローソクの祝福」が行われました。
司祭により祝福された火は「復活のローソク」にともされ、そこから信徒の持つローソクへと移されました。


一同は聖堂へと移動し、高らかに「復活の賛歌」が唄われました。







「洗礼の儀」では、新たに5名の方々が洗礼の恵みを受けました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『長い四旬節の旅が終わり、喜びあふれる復活祭へと辿り着きました。 終点に辿り着いたようでもありますが、信仰の世界では終わりは始まりと よく言われています。復活は新しいスタートでもあり主イエスの復活の喜びと希望を胸に歩み出したいものです。この一週間は、復活祭の今日を迎える忙しい日々でした。
聖週間を迎え、札幌教区で働く司祭たちが集まり「洗礼志願者の油」「病者の油」聖なる香油」が造られる祝福祝別の聖香油ミサがあり、木曜日から始まった聖なる三日間は、弟子たちの足を洗ったイエスの姿を思い起こす「主の晩さんのミサ」に始まりました。昨日の聖金曜日は、ミサとは違う雰囲気の中、どの御像も紫の布で覆われたまま祭壇の飾りも取り除かれたまま、イエスの受難と十字架の死を忍びながら、沈黙のうちに厳かな夜を過ごしました。
主の受難、十字架の奉献・キリストの犠牲にあわせて「わたしたちも 犠牲を捧げます」という神の子として謙虚な心で信仰に立ち帰る日々が求められた長い四旬節が終わりました。
「光の祭儀」で始まり、復活賛歌が歌われる今日の徹夜祭は「すべての聖なる徹夜祭の母」と聖アウグスチヌスが言うように、古来の教会の伝統やその重要性においても、また典礼の美しさにおいても最高峰にあるのが今日の徹夜祭といえるでしょう。
神のことばの朗読は、九つの朗読があり本来、復活徹夜祭の本質的な部 分でありますが、司牧的理由で数を少なくしています。神が人類の歴史と啓示をとおして、どのように神の民を救ったかは旧約聖書の朗読で語られ、時が満ちて新約の時代にはいると、神の子を救い主としてどのようにお遣わしになったかを黙想するようにみことばは告げられていました。
ルカの福音では、イエスの遺体を墓に納めたものの、律法の規定で安息日を迎えて何もできないままでいたこと。マリアの他、イエスと親しい人たちはイエスのことを気にしながら、自分たちも殺されるかも知れないという不安の中で三日間を過ごしていたのです。時にやさしく、弱々しく見える女性ですが男性よりも強くたくましく力を発揮する姿は、聖書の中でも語られています。
誰より先に墓に駆けつけたのは、弟子たちにも負けずイエスを慕い、イエスを愛する人びとでした。深い悲しみの中にあっても、暗闇に放り出されたようなときであっても、愛すること、愛の力が新しい力、大きな力を発揮するのです。
愛こそ、キリストによって与えられた光であり、揺るぎない希望であり信仰そのものでもあります。現代の不安の中でわたしたちが最も必要としている大切なものでもあります。
わたしたちも主の復活を祝いながら、聖なる婦人たちや弟子たちのように希望を持って新しい信仰生活にむかって歩みましょう。 この後、洗礼式がありますが、新しい仲間を教会の共同体に迎えて、一人ひとりが隣人と共に歌うアレルヤの喜びの声がいつまでも心の中に響きますように。また、春の司祭の異動で宣教司牧体制も少なからず変化することと思います。新しい心で互いに祈りましょう。』

4月19日(聖金曜日) 主の受難の祭儀

前日の聖木曜日のミサの後、祭壇から全てのものが取り除かれ、十字架や御像には紫布が掛けられました。


午後6時半から行われた「主の受難」の祭儀は、主イエスの受難と十字架上の死を記念するものです。ことばの典礼、十字架の崇敬、交わりの儀(聖体拝領)の3部で構成されます。


福音朗読ではヨハネ福音書の「受難の朗読」が読まれ、捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。

後藤神父様のお説教の後、「十字架の崇敬」が行われました。
「十字架の顕示」では、
十字架を持った司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え、会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえました。


祭壇前に十字架が置かれた後、十字架の礼拝が行われました。


交わりの儀(聖体拝領)では、カテドラルホールに設置した仮祭壇の聖櫃に安置された御聖体を、後藤神父が聖堂へと運び、聖体拝領が行われました。


2019年4月18日木曜日

4月18日(木)主の晩餐の夕べのミサ

午後6時半から蓑島神父の主司式により、「最後の晩餐」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」が行われました。


ミサの中で洗足式が行われ、神父様が男性信徒の足を洗われました。


御ミサの最後に、聖体がカテドラルホールに設置した仮祭壇に安置されました。

ミサが終わった後、祭壇上の敷布、ローソクが外され、十字架、御像は紫の布で覆われました。

2019年4月14日日曜日

受難の主日(枝の主日)

今日から聖週間が始まりました。
棕櫚の枝を手にキリストのエルサレム入城を記念しました。


棕櫚の枝を手に持った信徒がカテドラルホールに集まり、蓑島神父から「枝の祝福」を受けました。



その後、行列は聖堂へと進みました。

福音朗読では、「ルカによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。
オリーブ山で、イエスを歓喜のうちに迎えた民衆は、その数日後に「十字架につけろ!」と激しく罵しりました。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『 「私の神よ、私の神よ、どうして私を見捨てられるのか。」答唱詩編の歌になっていました。今日の「枝の主日」、「受難の主日」から教会の典礼は、聖週間に入ります。 イエスの歩みは、今日私たちが聴いたように、その歩みは一直線に十字架に向かい、ナザレの田舎町出身のイエスの教えや神の業は人々の注目を集め、その噂は人々の心をかき立てるものでした。聖週間の典礼は「受難の主日」から始まり、エルサレムへの入城と主の受難という二つの出来事を記念しました。この日の典礼祭儀は、キリストの王としての「栄光の予告」と「受難の宣言」という、過ぎ越しの神秘の両面を含んだ祭儀が今、行われています。
 長い受難の朗読、それは主のエルサレム入城の記念として、約二千年前、ヘブライ人の子、イスラエルの民が「ホザンナ」と歌いながら主を迎えたことに倣い、荘厳な行列で今日も行われています。信徒一人ひとりがイエスのエルサレム入城をドラマチックに描くみ言葉に倣い、司祭から祝福を受けた枝を手に持って、荘厳な入城を心に留めながら私たちも聖堂に入って来ました。その後、みなさんが手にした枝は自宅に持ち帰り、キリストの復活を通した勝利の記念として一年間保存されることになります。

 教会は、受難と復活とを合わせて、これを「キリストの過越の秘儀」または「復活秘儀」と名付けています。なぜこの秘儀が重要かと言うと、これこそが神の救いのわざの中心であり、教会の存在自体もその秘儀に与っていると言われるからです。典礼憲章はすでに第5条で次のように宣言しています。「人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのみわざは、旧約の民のうちに神の偉業によってかたどられたが、主キリストは、主としてその幸いの受難と、死者の国よりの復活と、光栄ある昇天よりなる復活秘儀によってこれを成就され、この秘義によって『われわれの死を死によってうちこわし、生命を復活によって回復された。』十字架上に眠るキリストの脇より、たえなる秘跡である全教会が生じたのである」と述べているのです。
 したがって、全キリスト教的生活は、その復活の秘儀によって開始され、 一層、完全にそれにあずかることを目的としていたのです。イエスはエルサレムと全世界に平和をもたらす者として、人を犠牲にして、血と涙の代償として勝利を得たのではなく、自らの死をもって平和と正義をもたらすのです。しかし、イエスを「ホザンナ」と歓喜の声を上げて叫び歓迎した人々の多くは、やがて「キリストを十字架につけよ!」と叫んだのです。

 わたしたちの心の変化、人間の心の変化は、あっけなくも信頼から裏切りへと変わる人間の心理を見つめてしまいます。この受難の朗読を黙想すると、教会はキリスト復活の祝いの直前、一週間前の今日、何をわたしたちに何を訴えているのかと考えてしまいます。私たちはどんな思いで受難の朗読を聴いているでしょうか。あなたがたの信頼はいつまで続くのでしょうか?。私はそんな呼びかけを自分の中に感じています。あなたの信仰はそれで大丈夫ですかと……。
 そして、十字架の上から死を前にしても、なお「父よ、彼らをお赦しください」と嘆願されたイエスの心に、今日もまた、わたしたちの願いと祈りが繋がっているのだということも強く感じさせられています。この一週間、大切な日々を私たちは過ごしていきます。もう一度祈った言葉を噛みしめたいと思います「全能永遠の神よ、あなたは人類にへりくだりを教えるために、救い主が人となり、十字架を担うようにお定めになりました。わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。」と集会祈願に典礼的に祈りが示されていました。
  聖週間を迎え「聖なる三日間」を過ごす一週間となりました。火曜日には「聖香油ミサ」もありますが、今日は、み言葉を心に留めながら、受難のイエスに心を合わせ、主の祭壇の前でご一致に祈りましょう。』

2019年4月7日日曜日

四旬節第5主日

四旬節は自分の罪を自覚して、神とそして隣人と仲直りをする喜びの時でもあります。

この日は蓑島新司祭の北一条教会での初ミサでした。


ミサの中で、洗礼志願者の方への塗油が行われました。


蓑島神父様のお説教をご紹介します。


『子どもたち、昨日は午前中に侍者会、午後には黙想会とお疲れさまでした。
昨日はみんなで「けがれなき悪戯」というビデオを見ました。「パンとぶどう酒のマルセリーノ」という映画なのですが、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
12人の修道士がその子を愛情いっぱいに育てるという内容なのですが、マルセリーノはたくさんのやさしさと愛情をフランシスコ会の修道士からいっぱい受けて元気よく育っていきます。修道士の方もマルセリーノから笑顔と喜びをいっぱいもらっていく。
そんなマルセリーノですが、とてもわんぱくで悪戯好きでした。ある時、パンとぶどう酒が食堂からなくなります。実はマルセリーノが2階の聖堂にあるイエス様の像を見て、きっとお腹を空かしているに違いないとパンとぶどう酒を持って行くのです。とても優しい子供でした。そんなマルセリーノは天国にいるママに会いたいとイエス様に願いました。するとイエス様はその願いを聞き届けられて、マルセリーノを天国に導かれるという映画でした。
子どもたちは、昨日の黙想会を通じて、ぼくたち、わたしたちもマルセリーノのように、周りの人にいっぱいゆるされて、いっぱい支えられて、いっぱい愛されて、成長してきたことを黙想いたしました。決して当たり前ではない”ありがとう”の数々、それに気が付かなかったことを「ゆるしの秘跡」で、”ごめんなさい”と謝りました。そして”またよろしくね”と「主の祈り」と「アベ・マリアの祈り」を捧げたのでした。
どうか子どもたちには、いつまでも神様とみんなに愛されているということを忘れないでいて欲しいなと思います。元気に成長することを蓑島さんは祈っています。蓑島さんだけでなく、お父さんもお母さんも、おじさんもおばさんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、神様もみんな祈っていますので、これからも元気によろしくお願いしますね。

それでは、ここからは大人のお説教です。
今日の福音では、罪を犯してしまった女性と、罪は犯していないけれども悪意を持ってイエス様を陥れようとする律法学者とファリサイ派が登場します。この女性には罪の自覚はありますが、律法学者とファリサイ派の人々には罪の自覚がありません。律法に反していないので自分たちは正しい人間だと思い込んでいますが、心の中に悪意を抱いている時点で神から遠く離れた罪の状態にあります。罪とは律法を破ったかどうかではなく、神様の心と離れていくということです。
1週間前に読まれた「放蕩息子のたとえ」では、父の家から飛び出し放蕩の限りを尽くした弟が描かれていましたが、父の心から離れたことが弟の罪だったわけです。弟は父から離れていることの不幸を悟り帰ってきますが、お父さんは死んでいた息子が帰ってきたことを喜んだのでした。我が子が自分のもとに帰ってきた、ただそのことを喜んだのです。
罪の自覚は、神のみ心から離れてしまっていることに気が付くことです。律法学者やファリサイ派のように神から離れているという罪の自覚がなければ、回心することもゆるしを願うことも和解することもできません。神様と共に歩む喜びも、ゆるされることの喜びも知らずに生きることになります。

今日の福音ではまた、イエス様の不思議な行動が描かれていますが、イエス様はかがみ込んで地面に何かを書き始めました。実はこの地ユダヤを支配していたローマの裁判官は、無罪か有罪かという判決を下すときに、前もって必ず判決文を書いたのでした。それは誰もが知っている決まり事だったので、イエス様はローマの裁判官と同じやり方を示して、ご自身こそが真の裁判官であることを、唯一人間を裁くことができる神であることをお示しになっています。そのイエス様が、判決を言い渡しました。「あなたたちのなかで罪を犯したことがない者がまずこの女に石を投げなさい」と。
人を裁いたり誰かを悪意を持って陥れようとするのではなく、まず初めに自分自身の罪を自覚しなさい、と言ったのです。自分の心が神から離れていないかどうか、内省せよと促しています。
年長者から始まり全員が去っていきました。イエス様のことば、イエス様が下した判決を通じて、全員が”自分が神から離れている”ことに気付いたのです。誰もいなくなった時、イエス様は女に言いました。「皆があなたを罪に定めなかったように、わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。
ここに、人を殺すのではなく、生かそうとなさる神の姿が示されています。

さて、私たちの心はどうでしょうか?神様の心から離れていないでしょうか?悪意を持って隣にいる人の死刑判決文を書いていないでしょうか?人を殺すのではなく、生かそうとなさる神の心から離れてはいないでしょうか?

この四旬節は、和解する恵みの時です。神とそして隣人と仲直りをする喜びの時でもあります。それには罪の自覚が必要です。自分の心を見つめなおす恵みを与えて下さるように神に祈らなければなりません。
とはいっても、現実の私たちの心の中には、大なり小なり憎しみや怒り悪意が居座っています。そういう現実を前にしたとき、私たちはがっくり肩を落とすことがあるかもしれません。しかし、そこで私たちが大事にしなければならないのは肩を落とすことではなく、そういう私たちの現実を遥かに超えて全てを生かそうとなさる神に向かって祈ることです。自分の力ではできなくても、神が必ず私たちの心に和解の平安を取り戻してくださいます。

今日も神様は、私たちをご自分の許へと招き、一緒に歩むよう望んでおられます。私たちがどんなに神から離れようとしても、神ご自身が私たちをご自分の許へと連れ戻してくださいます。
第一朗読にも、「どんなに罪深いことがあっても、神はあなたの中で新しいことを行われる」とあります。第二朗読にも、「過去ではなく前を向いて、イエスとともに天におられる父に向かって、走り続けることが大切である」と語っています。
この一週間、天の”お父ちゃん”に全てを委ね、安心のうちに歩んでまいりましょう。』

ミサの後、カテドラルホールで蓑島神父様を囲んで歓談しました。
司祭を目指すようになったエピソード等をお話され、後藤神父様からは先輩としてのエールがありました。


2019年3月31日日曜日

四旬節第4主日

この日の福音朗読では「放蕩息子のたとえ」をとおして
罪人の回心と神の救いについて語られました。


この日のミサは、後藤神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『3月の最後の日は日曜日になりました。4月の1日は明日に控えていますが、新年度というイメージを私はしています。節目の時と思いますが、日本の中では学校においても新年度と言いますし、年号で言っても1月1日は大きな節目ですし、教会の典礼で言いますと待降節、新しい1年の始まり、節目となってきます。私たちはどこに重要なポイントを置いているでしょうか。
 四旬節もそういう意味では新しい年度、私たちの新しい出発というふうに考えても良いかもしれません。それは回心をもって復活祭を迎える新しい出発、教会の典礼の季節を私たちは今生きているのだと思います。今日は少し長い福音書でしたが、放蕩息子のその内容は、十分に皆さんの心の中に理解されている話ですが、何度聞いてもそれぞれに感動を受ける内容がそこにあります。私は、求道者の時に受け止めた思いとは変化してきていると思います。信者になったころは放蕩息子の姿をとおしてその回心に至る道。そして、お父さんと出会って赦されたその時の、お父さんの愛の深さにとても感銘を受けて、感動をしたりしていました。前半、中盤、そういう感動すするシーンを思いうかべていましたが、どこかで自分の思いは後半に出てくるお兄さんの心情に随分近いような気がして、感動している自分がどこかで冷めてしまう、そんな思いを良く感じていたことが思い出されます。
皆さんはどうでしょうか。放蕩息子の放蕩三昧の生活と悔い改めの道すがらお父さんに抱かれて赦されたときの姿は、本当に感動的なたとえ話です。後半のお兄さんの心情を見ているとき、何となくこの話が矛盾したり、つじつまがあわなかったり、納得出来なかったりで、そんな思い出をわった人もたくさんいるのではないでしょうか。

 灰の水曜日から始った「四旬節」から四回目の日曜日を迎えました。復活の主日までは、ちょうど真ん中にあたります。四旬節の残された日々は三週間。復活の神秘を喜びのうちに待ち望み、心を清めて歩むことを私たちは願い、祈りながら四旬節を歩んでいます。
 教皇フランシスコは今年の四旬節のメッセージの中で「備えの道を旅するように」わたしたちは招かれていると述べられています。多かれ少なかれ、人間の心に潜むおごりは、わたしたちの節度を失なわせ、欲望に従ってしまうという傾向を持って過ちを犯すことが良くあると思います。罪は悪の根源であるともいいますが、大きな過ちは神からも、人々の関係、他者からも交わりを疎外してしまう要素をもっています。そのため、教皇様は、神の恵みを取り戻すためにも、四旬節の日々は復活祭への歩みであり、悔い改め、回心、ゆるしをとおして、キリスト者としての心を取り戻す日々であるとも述べているのです。
 さて、今日のみことば第一朗読で "過越祭"を祝ったイスラエルの民が 過去の「断食」の荒野の生活の苦しみから解放され、神に導かれた新しい未来への旅立ちを表しています。新年度ではありませんが、新しい旅立ちというテーマが今日の福音のたとえ話につながります。ルカの福音書で悔い改め、回心、ゆるしをとおして神に立ち帰るという放蕩息子の姿が、過去の生活から解放され新しい出発へと浮き彫りにされています。

  教会の共同回心式でも、このルカの福音書の「放蕩息子」の聖書の話でよく使われますが、それは「ゆるしの秘跡」の重要なポイントがこのたとえ話の中にあるからです。四旬節でもありますので今日は、この聖書のことばを味わいながら、ゆるしの秘跡について話していきたいと思います。
 ゆるしの秘跡を受ける場合に大切な事を考えて見ましょう。まず、「ゆるし」をいただく前に大事なことの一つは良心の糾明です。自分の過去の行いを、自分の良心に照らして、神の前で立ち止まって考え、どんなことがあったのか、どんなことが良かったか、どんなことが反省すべき材料としてあったのか。それが良心の糾明になります。今日の福音の中で放蕩息子は「我に返って言いました。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』もう息子と呼ばれる資格はありません。」この部分が良心の糾明というテーマに繋がっています。自分の過去に犯した罪を反省し、お父さんの所へ行って(告白)言おうと家に帰ることになります。この経緯の中に、ゆるしの秘跡の中で最も大切な二番目の悔い改めと罪を避ける決心があるのです。もう同じ罪は犯したくない。お父さんははたして自分をゆるしてくれるだろうかと緊張しながら帰ってきます。三番目は、罪の告白です。緊張しつつも懐かしい家に帰ってくると、お父さんが待っていてくれ抱きしめてくれましたが、この時、告白がありました。息子は言いました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても 罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と罪を告白しています。告白があり、その上で罪のゆるしをいただくことになります。罪の告白をし赦しをいただきながら償いもいただきます(与えられます)。私たちの教会の中で行われているゆるしの秘跡の中での司祭は、ゆるしを求める人が自分の罪を悔い改め、再び神に立ち帰る決心をした者を抱擁し、ゆるす父なる神の似姿なのです。これが罪のゆるしということになります。
 司祭は償いを与えますが、償いはひとり一人違ったものですが、償いの行為はどんな意味をもっているでしょうか。信者が秘跡にまします神のみ前でたてた個人的な約束のしるしでもあり、新たな生活を始めるしるしでもあるようです。神のあわれみと恵みによって、主の平和と喜びを再び得た感謝の祈りともなるのが、この償いの祈りになります。わたしたちの四旬節の新しい歩みが、今日告げられているみ言葉から「放蕩息子のたとえ」話をとおして導かれていると思います。今日いただいたみ言葉を味わいながら、黙想しながら、私たちも新しい出発を出来るように準備が出来たらと思います。

 そういう中で改めて今日のたとえ話を思い起こします。息子の過ちを少しも問うことなく、お父さんである「父なる神」は喜びを表した、このたとえ話。子どもを温かく迎え祝ってくださる天の父は私たちのお父さんになります。神とわたしたちを見つめる事ができるのではないでしょうか。たとえ話の中でも感銘を受けます。神様の愛がいかに私たちに深い愛をもって手を差し伸べてくださっているか。どんなに私たちが過ちを犯したとしても、それを赦してまた私たちを引き上げてくださる。また、神様との新しい関係をもって歩ませてくださる。物語を読んで、触れて、感動したり、感銘したりするのですが、神はいつでも待っていてくださるということを、忘れてしまうことが多い私たちのようです。
 先週の黙想会でも場﨑神父さんは、私たちに話をしてくださっています。祈っていても、自分の都合で祈ってしまうことが多い私たち。どんなにしても私たちは一生懸命自分の信仰をもって神様に心を向けているつもりであっても、時に自己中心的に考えたり、祈ったりしていることに気づきます。祈っているようでも、神を見ていない私たちがいることもあるかもしれません。

 今日あらためて放蕩息子のたとえ話を黙想しながら、四旬節の歩みをもう一度新しい決心をもって再出発したいと思います。秘跡を大切にし清められ、喜びと希望を見失うこ とがないように、悔い改めをもって、神のもとに立ち帰る喜びを、再び私たちひとり一人が生きることが出来るようにように、ミサをとおして神の力、聖霊の力をいただきたいと思います。』

2019年3月24日日曜日

四旬節第3主日 「黙想会」

四旬節第3主日のこの日、場崎洋神父様をお招きして四旬節黙想会が行われました。

主日ミサは、場崎神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。


場崎神父様のお説教をご紹介します。

『イエスが生きていた時代の福音書の中に書かれている事件、そしてそれ以外の事が起きたに違いありません。今日語られた福音もそうです。これを現代風にニュースでかかったとしたら、どういうふうに伝わるでしょうか?
「皆さんおはようございます。7時のニュースをお送りいたします。昨日午前10時頃、エルサレムの東側の神殿で、神殿にお参りしていたガリラヤ人たちがローマ兵によって殺されました。詳細はまだ明らかにされていませんが、神殿を汚していたローマ兵と衝突したものと思われます。
次の事件です。一昨日、エルサレムの地下水道、その出口に建っているシロアムの塔が崩壊し18名の死者が出ました。原因は塔の土台の不具合によるものです。現在調査中です。」
そして、そこで殺されたガリラヤ人。そして事故で死んだ18人。この出来事が伝わっていた。もちろんイエス様も知っていました。当時の人々はいろいろなニュースを聞いて、「あの人たちは何で死んだんのか?きっと悪いことをしたのに違いない。罪を犯したからに違いない」そう思っていたんです。私たちも普段のニュースを聞いた時に、どう思うでしょうか?「あの人がこんな事件を起こした。ああ、あの人は悪い人だった。」 あるいは見知らぬ人が癌になった。「きっとあの人は罪が重かったから、罰を与えられたに違いない」 あるいは「なぜ、私が病気になるの? きっと神様が罰を与えたんだ」そのように思ってしまうんです。

イエス様がそれに対して、どう思っているのか?
私たちも東日本大震災の時に、1万5千人以上の人が死んだ時に、なぜ罪のない人たちがそうなるのか?
罪を犯したからそうなったのではない。
あなた方が回心をするために、神様はその業をなさったのだ。
それでは亡くなった方たちはどうなったのか?
それは神様が全部保証してくださいます。
永遠の宴、平和な国へ招いてくださいます。
その出来事をとおして、あなたはどう自分を神様に向かわせたのか?ということを私たちに問われているわけなのです。
そしてイエス様は、回心をしなければ、私たちは決して神様のもとに立ち返ることが出来ないとおっしゃいました。

気仙語の訳者である山浦さんが、洗礼のことを「水潜る(くぐる)」というふうに表現しました。それは、流れる川の中に自分を沈めて、そして息を止めるぐらい、そして一度死んで、そして生き返る。その思いで回心に与るのだということです。もともと洗礼、すなわち洗礼者ヨハネの時の悔い改めの洗礼の古来の意味は、私たち一人一人が穴だらけの小舟なのだ。それを川の底に沈める。すると川が流れて、そして私たちの穴だらけの傷の所に全部神様が、癒し、そして清めてくださるのだ。そして私たちは新しく生きるのだ。ということです。

私たちは、いつも日々の生活の中で清められている。清められているのだけれど、私たち自身が清くなりたいと思う決心がまだまだ遠い。そういう中で、私たちは四旬節の間で、神様に回心する。清めてもらう。そしてまた人をも清めることが出来る方に、祈り求める。それが四旬節における大きな恵みです。
”わたし”だけではありません。”わたしたち”が一緒になって、清められて、天国の宴に招かれることを切に願いながら、今日の日を過ごしてまいりたいと思います。
「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」』


ミサの後、「黙想会」が行われ、場崎神父様の講話をお聴きしました。


私たちが日々習慣のように唱えている「主の祈り」に込められた回心についてお話されました。
講話の最後は、次のように結ばれました。
「いつも皆さんの中から、泉が湧き上がってくる。そして清められていく。そして信者であっても信者ではなくても、皆さん平等に神様の愛がそそがれる。それは、神は善い人の上にも悪い人の上にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからだ。そして詩編の51編に「雪よりも白くなるように」それは、今まで以上に清くされるように、というように祈るわけです。私たちは日々、淀みの水ではなく、いつも清められていく自分がここにいて、神から愛されて、祝福されているということを心に留めて、歩んでいきたいと思います。」

場崎神父様、体調がすぐれないなか、私たちを回心に導いてくださるお話をいただき本当に有難うございました。

2019年3月21日木曜日

ボナヴェントゥラ 蓑島克哉助祭の司祭叙階式

3月21日(木・春分の日)午前11時より、当教会聖堂でボナヴェントゥラ 蓑島克哉助祭の司祭叙階式が勝谷司教の主司式により行われました。
叙階式には、36名の司教・司祭団と500名近い信徒・関係者が参列しました。




蓑島新司祭の心温まる挨拶(動画)



叙階式ミサでの勝谷司教のお説教をご紹介します。

『札幌教区の信者の皆さん、そしてご親族・友人の皆さん、蓑島さんは間もなく司祭団に加えられます。 彼がどのような奉仕の務めを行うために叙階されるのかを共に考えてみましょう。 聖なる神の民全体は、キリストにおいて、王である祭司の民とされています。 確かにそのとおりです。 しかし、わたしたちの大祭司イエス・キリストは、自ら何人かの弟子をお選びになりました。それは、彼らが教会の中で、キリストの名によって、人々のために公に祭司の務めを果たすためでした。キリス トは御父から遣わされましたが、ご自身も使徒たちを世に遣わし、彼らとその後継者である司教たちを とおして、師であり、祭司であり、牧者であるご自分の務めを引き続き果たしていくようにされたので す。そして、司祭たちは司教団の協力者として立てられ、祭司の務めによって司教と結ばれて、神の民 に奉仕するよう召されています。この兄弟は、十分に考えたうえで、今、司祭団の中で祭司職を果たすために叙階されようとしています。それは、師であり、祭司であり、牧者であるキリストに仕えるためであり、キリストの奉仕職によって、そのからだである教会は、神の民、聖なる神殿として築かれ、成長していきます。
この方は、福音をのべ伝え、神の民を司牧し、とくに主の奉献による神への礼拝を司式するために、永遠の大祭司キリストに似た者とされ、司教の祭司職に結ばれて、新しい契約の真の祭司として聖別されます。
司祭に叙階される蓑島克哉さん、あなたは師であるキリストにおいて、司祭として教え導くという聖なる務めに携わる者となります。自分自身が喜びをもって受け入れた神のことばを、すべての人に分け与えてください。そして、神のことばを黙想し、読んだことを信じ、信じたことを教え、教えたことを実行するように心がけてください。そして、あなたの教えが神の民の糧となり、日々の行いがキリストを信じる人々の喜びとなって、ことばと模範をとおして、神の家である教会を築いてください。また、あなたはキリストにおいて、人々を聖なる者とする務めを果たす者となります。この奉仕職によって、信者の霊的奉献は、キリストの奉献に結ばれて完成されます。キリストの奉献は、あなたの手をとおして信者とともに祭壇の上で、秘跡として祭儀のうちにささげられるのです。ですから、自分が行うことをわきまえ、それを生活の中で生かし、主の死と復活の神秘を祝う者として、自分自身あらゆる悪に対しては死んだ者となり、新しいいのちのうちに歩むよう努力してください。
あなたは、洗礼によって人々を神の民に加え、ゆるしの秘跡によってキリストと教会の名のもとに罪をゆるし、聖なる油によって病者を助け、聖なる祭儀を司式します。また、神の民と全世界のために、感謝と願いをこめて、日々定められた賛美の祈りをささげます。こうして奉仕の務めを果たすとき、あなたは自分が神に仕える者として人々の中から召され、人々のために立てられたということを思い起こしてください。そして、自分のことではなくキリストのことを考えて、永遠の祭司キリストの務めを、まことの愛のうちに、喜びをもって果たしてください。
最後に、頭であり牧者であるキリストの務めをそれぞれの立場で果たし、司教と心を合わせ、司教に従って、信者たちが一つの家族となるよう努力してください。こうして信者たちを、キリストによって、 聖霊のうちに、父である神のもとへ導くことができるのです。そして、仕えられるためではなく、仕えるために来られ、失われていたものを探し求めて救いに導くために来られた、よい牧者キリストにならって生活してください。』

2019年3月17日日曜日

四旬節第2主日 「洗礼志願式」

この日のミサは、後藤神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

福音では「主の変容」の場面が朗読されました。


この日行われた洗礼志願式には5名の入信志願者が臨まれ、神父様の前で洗礼の意思を表明し、正式に洗礼志願者となりました。
約1ヶ月後の復活徹夜祭には、皆さんが揃って洗礼の恵みに与れることができるよう祈り支えましょう。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『「灰の水曜日」から始まった【四旬節の典礼】は、主の復活までの主日を除く40 日間に定着するまでは色々な変遷を経ていると伝えられています。しかし、キリストの受難を思い起こして、それを生きる期間としての四旬節。そのことは、復活をもって切り離すことは出来ないこと。初代教会の時代から「主の日」に信者が集まり、主の復活を記念を行っていたということは、カタコンベの壁画にも描かれており、そのことが推測ができるようです。
 また、四旬節を過ごしながら主の受難と復活に信 者を固く結びつける意味合いからも洗礼式が行われるようにもなりました。四旬節の目的、期限は、すべてのキリスト者の生活がこの過ぎ越しの秘儀にあったのです。罪のゆるしを受けて、新しいいのちを得て、復活されたキリストの姿にあやかることが出来ますように。そういった新しい出発に向けての準備でもあることは、この四旬節の精神でもあります。四旬節、皆さんはどんな日々を過ごされていますか。
  今日は、説教の後に洗礼志願式を行い、洗礼の準備を進めている受洗予定者を紹介することになります。

 さて、先週のイエスに対する悪魔の誘惑の話から、今日はイエスの変容の話 に変わりました。黙想をする中で単純にキリスト者の信仰に対して精神的にも肉体的にも、四旬節の日々を過ごすなかで、霊と肉において変容してゆくことが語られているように思えました。今日のみ言葉、イエスの姿が変わったという出来事は、どの福音書でも語られています。イエスは弟子たちに「エルサレムに上って苦しみを受け、殺され、三日目 に復活することになっている。」と話しています。そのことを誰にも話すなと戒め、さらに「それでもわたしについて来たい者は、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と話されましたが、それから八日目に起こった出来事でした。
 イエスは高い山に上られ祈っておられる時に、その姿は変わったと聖書は記しています。この現場に立ち会ったのは限られた弟子で、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけでした。でも一緒にいたはずの三人の弟子はひど い睡魔に襲われていて、ぼんやりしていたかのようでしばらくは、目の前で起きていることが良く分からなかったのです。40日にわたって悪魔の誘惑を退けたイエスを思うと、誘惑に負けるなという声が響いて来るようです。神の恵みをいただく時にでさえ、うっかりしてもらい損ねている私たちは、弟子たちとそう変わらないかもしれません。復活祭に向かう四旬節の準備の大切さがココにも描かれているような気がします。

 ベトロはおぼろげな意識が目ざめる中で、ことの重大さを知り悔やんだことでしょう。とっさに叫んだのが「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。」そして、「仮小屋を三つ建てましょう。」いかに慌てふためいていたかが分かります。聖書には、ペトロが「自分が何を言っているのかわからなかった。」とはっきり書かれています。 ペトロの失敗、ぼやっとした性格。イエスの忠実な弟子として、はまだまだが時間を必要としたペトロ、ほかの弟子でした。そういう姿は私たちとほとんど同じ。そういうことを私は黙想する中で感じています。
 
 今日呼びかけているみ言葉で、「イエスの変容の出来事」は、私たちに恵みを受けとるために「心の準備」がいかに大切かを伝えていると思います。「自分の十字架を背負いなさい」ということは、祈ることを大切にし、十字架の輝きを知るために、己を捨てる生き方も大切にしなければならないと、四旬節の中で考えるように話されていると思います
命の大切さ、十字架の神秘を理解することの大切さ。自分の十字架を背負ってイエスに従うことの大切さ。そのために時には、自分を捨てるという覚悟も持たなければイエスの忠実な弟子にはなれないということ。四旬節の歩みを私たち一人ひとりが考え、イエスにより深く繋がっていきたいと思います。』