2017年5月21日日曜日

復活節第6主日(世界広報の日)

私たちは、隣人を愛することで神につながることが出来ます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「聖書と典礼」にも載っていますが、「世界広報の日」です。
今週のカトリック新聞は紙面の2ページを使って、「広報の日」の教皇様のメッセージが掲載されています。少しその一部を紹介してみます。
メッセージのタイトルは「畏れるな、わたしはあなたとともにいる」、イザヤの43章のことばになります。そしてポスターの中に短いメッセージが書かれています。
「他者に対して先入観を抱かずに、出会いの文化を育むことにより、確かな信頼をもって現実に目を向けられるよう助ける、建設的なコミュニケーションをわたしは皆さんに強くすすめる」と、教皇様のメッセージの真髄がここに見えてくるような気がします。
私たちの今の時代、広報は本当に様々な形で深く関わっています。テレビやラジオ、そしてインターネットは世界中の情報を即座に私たちの元に届けます。その情報が良くても悪くても飛び込んでくる、そういう時代を私たちは今生きています。しかし、様々な情報に接している現在、他者に対して先入観を抱かずに、情報を正しく理解し、判断しているでしょうか。とても難しい状況にあるような気がします。
友人と隣人との関係を振り返っても同じことが言えるのではないでしょうか。そんなことも考えさせられます。それでも教皇様のメッセージをとおして考えるとき、私たちが信頼をもって話し合いをするかどうかが大切になるということを教皇様は話しておられます。また、主に信頼して希望を持ち続け、そして人との対話、関係を築き上げなさい、ということを教皇様は話されています。希望を持てない、そいう時代であるかもしれませんが、諦めてはならない、ということだと思います。
主に信頼して希望を持って諦めることなく、私たちは正しいと思うこと、神様がすすめる愛を隣人との間でも築いていける、そのようなコミュニケーションを持ち続けることが大切なようです。
広報の日にあたって、私たち一人ひとりの使命に照らして、共にいてくださる主とともに、み国のために働く希望を見失うことのないように、その働きを担うことができるように祈りましょう。

さて、来週は「主の昇天」を迎えます。そして6月に入ると、約束した助け主、真理の霊がくだる「聖霊降臨」の祝日、「三位一体」の祝日と、祝日が続く6月を間近にしています。
今日のみ言葉ではそのことを少し思い起こさせるように、真理の霊である聖霊を派遣するという内容が語られています。聖霊の派遣、それは最後の晩餐の席上でも話されていることですけれど、主イエス・キリストは、「私がこの世を去った時には、助け主、弁護者をおくる」と聖霊について話されました。そして先週のみ言葉の中では、父と子が一体であること、今日は聖霊について語っていますが、三位一体についても触れられているような気がします。
父とイエス・キリストは一つである。そしてイエス・キリストによって、私たちは神と深くつながっている。イエス・キリストは天に昇られた後は聖霊を遣わし、聖霊とも私たちは深くつながって、父と子と聖霊の名によって、私たちの信仰は生かされているということでもあります。
先週のみ言葉を思い出してみましょう。「あなた方がわたしを知っているなら、わたしの父も知ることになる。」このような言葉が書かれていました。不安を覚えていた弟子たちでした。最後の晩餐でイエスはこの世からいなくなる、そんな話をされて弟子たちは信じ難い話として不安を抱えました。それでも弟子たちはイエスに応えていきたいという気持ちを表しました。イエスはそれに対して弟子たちに、助けてくださる聖霊を遣わすと話されていました。今日のお話はさらにそれにつながって、「わたしを愛することが、わたしの掟を守る」ということを表しながら、「その掟を守るものは、わたしを愛するものである」、イエス・キリストと深くつながれているものである、という言い方をしています。
イエスが言う掟は、すでにヨハネ13章でも話されています。「新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい」。どのような愛なのか、それは、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。あなたが考えている愛ではなく、わたしが愛したように、わたしがあなた方に示した愛をあなた方も生きなさい、ということを教えています。それは、イエスを愛する掟を守れば、それは神を愛することにもなります。
私たちはそのことを大切にしなければなりません。
神を愛することは出来ても、簡単に隣人を愛することは出来ないというのが私たちの現実だと思います。神様から赦され、神様に祈りを捧げ、神様を大切にして愛するということは言えても、同じように隣人・友人をそのような表現で表すことは簡単ではありません。信者の方々と話をすると、「どうしても赦せない人がいます」という話がよく出てきます。赦したつもりでいても、ふとわだかまりが湧き出してくることがあります。愛することの難しさ、赦すことの難しさが私たちにはあります。でもそうだとしても私たちは神に信頼して、聖霊の助けを祈りながら、愛することを生きていかなければ神様と一つにならないということだと思います。
先日、平日のミサの中でみ言葉を聞いた時に、私はドキッとしたことがあります。その日の福音書は「ふさわしい信仰があると認められた人が癒しを受ける」という内容でした。ふさわしい信仰を持って初めて恵みに与ることができるのだと考えたときに、私は自分の信仰について、「ふさわしい信仰」を生きているかどうか、ということにドキッとして、そのみ言葉を受け止めました。自分は「ふさわしい信仰」を自信を持って生きているということを断言できない自分に気付いていたからです。それは誰でも同じではないかと思います。

今日のみ言葉の最後は、「掟を守り、父を愛するものは、わたしを愛することとなり、それ故に、わたしもその人を愛し、わたし自身を現す」と述べています。
神の愛のすばらしさ、神の愛の喜びを知るならば、きっと神の愛の力は隣人を思いやる心となっていくはずだと思います。自分の力だけではまだそのような生き方は出来ないかもしれませんが、神に信頼して神の力をいただきながら、そのような愛を生きることが出来るように今日もまた祈り、イエス様のご聖体に近付きたいと思います。
私たちの信仰が真の喜びの信仰となるためにも、そしてさらに霊的に成長することができるように、私たちはこのミサの中で心から祈っていきたいと思います。』

2017年5月11日木曜日

第20回 カテドラルコンサートのお知らせ

6月24日(土)午後3時から、カトリック北一条教会聖堂にて、
パイプオルガン設置10周年を記念して、第20回 カテドラルコンサートが行われます。
コペンハーゲンを活動拠点に活躍中で、当教会にも大変ゆかりの深い平中弓弦さんをお招きしてのオルガンリサイタルです。
是非、たくさんの方々のご来場をお待ちしています。

2017年5月7日日曜日

復活節第4主日

今日は「世界召命祈願の日」です。
神は一人ひとりをそれぞれ異なる召命に招いておられます。
自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことは大切な務めです。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『連休が終わっての日曜日を迎えて、また新しい一週間が始まります。
大型連休と言われていましたが良い思い出があったでしょうか。よい一日を過ごされたでしょうか。またよい出会いはあったでしょうか。
5月の「聖母月」を迎えましたが、この一週間を思い起こして喜びや出会いを感謝の気持ちで心からマリア様に捧げ、祈りとすることができれば素晴らしいことだと思います。そして、そんな祈りを捧げられたら、聖母月もまた素晴らしい月に変わっていくことだと思います。祈りは実に多様であり、願ったり、頼み事だけでなく、感謝の心で捧げることも大事なことではないでしょうか。

さて今日は、「世界召命祈願の日」です。この日は、1964年に教皇パウロ6世によって定められ、神は一人一人を固有の召命に招いておられるのだといわれました。ですから、神に活かされている私たちは、一人ひとりが自分に対する神の招きを識別していく必要があるようです。
ある人は社会の中で会社員、医師や看護師、教員でもあります。また、工場で働く人でもあり、また夫や母としてよい家庭を築くように、そして、ある人は神と人とに仕える司祭、修道者となるように招かれているようです。神の招きは、このように人それぞれ異なりますが、自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことが大切です。
召命という言葉を聞くと、司祭、修道者のことが先ず頭に浮かびます。しかし、神は、全ての人が誠実に自分の生涯を過ごすことを望んでおられます。一人ひとりにその道があります。「世界召命祈願の日」の今日は特に司祭、修道者への招きのために祈るように招かれていますが、すべての人が神から招かれているという基本的なことを忘れないようにしたいものです。そのためにも、一人ひとりの心に語り掛ける神の声に耳を傾け、その声に従う勇気を祈り求めましょう。教皇様のメッセージの言葉には「全ての信徒は福音宣教者である」とあり、主のことばを聞くために、自分自身の囲いの中から出るようにと呼びかけています。

今日のみ言葉を黙想してみましょう。
よき牧者であるイエスは、羊のため、それは私たち信者のためと受け止められますが、その羊たちに自分のいのちを与える覚悟を牧者の条件として示しています。だからこそ、司祭も病気や年齢に関係なく、司祭職を全うすることに命をかける人が多いのだと思います。遠く自分の生まれた故郷を離れて日本に来られている宣教司祭は、まさに自分の家族や自分の生まれた国から離れても、なおその使命に命をかけているのです。
でも司祭も人間です。人間的な欲求もあります。その内なる欲求と闘いながらも牧者の心を第一に考えているのです。それがイエスの心であり、召命の道だと思います。
孤独や不安と向き合い、罪を繰り返す私たちであっても、なおイエスの憐みは、私たちへの愛となって十字架に向われたという事実に向き合う時、力が与えられ希望も生まれてくるのです。

「私は羊の門である」とイエスは言われます。私たちの救いの門は、ただ一つだけです。洗礼を受けて救いの門をくぐった私たちですが、囲いの中に入っただけで救いが保証されているわけではありません。囲いの中にも危険が常にあるのです。囲いの中にも強盗や盗人が入ってくるとイエスはたとえ話を使って話しています。教会の中にあっても、まだ私たちは救いの道を歩んでいるということではなく、救いの道を歩むためには常に真剣に神と向き合い神と繋がって神の声を聞いていかなければならないと思います。まさに私たち現代社会にに生きる人々の上には、どんな安全も保障されているわけではないということは、誰もが気付いています。そのような中で私たち一人ひとりの召し出しをどのように生きていこうとしているのか。
ペトロは第二朗読で召された理由を話しています。その理由はただひたすらキリストに倣うこと、そのキリストのみ跡に忠実に従うということでした。
今日の教会において召し出しの現状は厳しい状況にありますが、悲観に暮れてばかりではいられません。幸い、この教会では、喜んで侍者の奉仕を子供たちが務めてくださっています。
教会のための召命を他人事としてではなく、一緒に考えていくとことができたらと、つくづく考えさせられます。献堂100周年に「次の世代につなぐ」というテーマを掲げて私たちは歩んできました。そのテーマをつぶやくのでなく、心からの祈りとしていけますように。昨日は「召命の集い」を教区の主催で行っています。先週の日曜日にはそのことを皆さんにお知らせして、お祈りをお願いしていました。
10年に一人でも、一つの教会から一人の司祭を送り出すことができたなら、司祭の高齢化とはいえ、それほど大きな心配はないのではと思いますが、それも難しいのが現状です。。
そのようなことを考えると、比較的大きな教会は、10年、20年をかけて、一人の召し出しを実現していくということを真剣な思いで祈りを捧げ、教会に来られる子供たちを支えることが出来たなら、どんなに素晴らしいことになるかと、時々夢のようなことを考えます。子供たちは今、私たちの教会にとっても宝そのものだと思います。信者である私たちみんなが、その子供たちをわが子のように共に寄り添い、励まし、喜びをこの子供たち一人ひとりと分かち合うことができているだろうか。分かち合うことができなければ、私たちは本当の共同体、家族になっていないのではないか?そんなことも考えます。

よき牧者であるイエスの心に私たちもしっかりとつながって、囲いの中にあっても、また囲いの外に出たとしても、イエスの愛を私たちが示すことができるように、伝えることができますように。また、主の呼びかけにマリア様が応えたように、「はい、ここに私はおります」と、応える牧者の心につながる若者の召命のためにもお祈りを捧げましょう。』

2017年4月30日日曜日

復活節第3主日

今日のみ言葉は、エマオへ向かう二人の弟子たちが、復活したイエスとは気付かずに道中を共にするお話です。
私たちの心の眼は、ともにいてくださる主の姿が見えるように開かれているでしょうか。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『復活祭をお祝いしてから二週間が過ぎました。今日のみ言葉は「復活」の出来事を伝えるエマオの二人の弟子たちの旅の途中での話です。今日語られた聖書の舞台はまだ復活後3日目にあたる日のお話です。
私たちは既に復活祭を祝ってから2週間を過ごしていますが、私たちの心は今どこに向っているのでしょうか。私たちはまだ復活祭の喜びを心に留めて、話し合ったり思い巡らせたりしているでしょうか。それとも、復活祭は忙しかったとか、ようやく落ち着いたとか、そのような言葉を交わしながら、復活祭の喜びはもう過去の出来事になってしまっているのではないでしょうか。
今日のみ言葉を聞きながら、気付くことの大切さ、そして聖書でイエスが言われていた「目覚めていなさい」という言葉の大切さを改めて考えています。

エマオの旅人の記事は短い伝承としてマルコ福音書でも述べられています。当時の弟子たちにとって、そして今日の主人公であるエマオの弟子たちにとっても、復活ということはあまりにも驚きであり、そして半信半疑でもあったかのような記述がなされています。この二人の弟子は、復活したイエスに出会って長い間、話をし続けていたにも関わらず、その時はまだイエスであることに気付けないでいました。目が遮られていたと聖書は記しています。気付くためには、私たちの心の眼も、寝ぼけ眼、ぼやけていては気付けないのだと考えさせられてしまいます。心の眼も開いていなければ、イエスが近付いて来ても、また一緒に歩いているイエスの姿さえも、私たちには見えないのかもしれません。そのように気付くことの大切さ、目覚めていることの大切さということを考えさせられます。
今日のこのエマオのお話の中では、目が開かれるまでの息詰まるような物語が展開しているとも言えます。
二人の弟子は、道連れとなったイエスが復活の噂を知らないとみるや、無知を小ばかにしたようなふるまい、そして得意げになって復活の噂をイエスに話しています。そこには二人の期待と失望がいかに大きかったかということも見えてきます。イエスは希望を見失ったかのような暗く沈んだ二人の弟子たちに改めて聖書のお話をされています。
「あなた方は聖書をどのように聞いてきたのか。どのように学んでいるのか。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」旧約聖書から予言者たちが何度も繰り返してメシアについて話していたことを思いださせるように説明されます。そして、聖書で語られていた、メシアの復活は、過去の出来事に終わるのではなく未来に向かっているのではなかったか、ということを話しました。

知識だけではなく、聖書を通して信仰を持って復活の主と出会うことが何よりも必要になっているようです。二人の弟子は長いこと論じ合って夕方の時刻を迎えます。彼らはイエスを引き留めて夕食を共にしました。そして、その食卓を前にした時、彼らはきっと祈ったでしょう。祈りが終わって、パンを取り、パンを割いたとき、二人の眼は開かれました。新約聖書の中でイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えていますが、旧約の時代から同じような祈りを捧げていたのだと思います。
「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と、イエスが教える以前から伝統的な祈りはあったのではないかと思われます。そして主の食卓を囲んだ。
これまでイエスが道連れとなってから、イエスと議論をしていましたが、二人の弟子の正面にイエスは立つことなく道連れとなって歩いていました。そして自分からは自分の正体を証しようとはされませんでした。
私はそのことを黙想するとき、今私たちが生きる信仰生活の中においても、同じことがあるのではないかと思います。私たちの信仰生活の中でも、イエスが共にいてくださったとしても、決してイエスは私たちの前に立つのではなくて、私たちの横に後ろに付き添うようにして一緒に歩いてくださっているのはないかと思います。そのような時私たちは、神様は何も応えてくれない、イエスは何も私たちに言葉を掛けてくれない、という思いになってしまうことがよくあります。でもきっとイエスは、何も語らずとも私たちの傍に道連れとなって歩いているような気がきます。
私たちの信仰の日々においても、きっと同じようなことがあるかもしれない、そう思いながら、エマオの二人の弟子たちが「一緒にお泊りください」と切なる願いをもって、イエスに申し出たこと、それは「心が燃えていた」ことでもあったようです。私たちにもそのような想い、心が必要なのではないでしょうか。
私たちと共にいて下さるイエス、私たちと一緒にいて下さる、一緒に食卓について下さる、そのような思いで私たちが信仰を生きるとき、きっともっと深く、主であるイエスと復活のイエスと出会うことができるような気がします。私たちはどこまで一緒にいてくださいと願っているでしょうか。きっと生温い心や冷え切った心では、イエスに気付けないような気がします。
それはまた自分の考えに拘り過ぎ、自分の主権をイエスに譲ること無く、自分の傲慢さを守っているなら、きっとイエスの姿は見えてこないのではないかと思います。イエスの前に自分の持っている全てを譲って、謙虚になって、初めて復活の主を見ることができるような気がします。

復活祭が終わり、時間は過ぎていきます。イエスに向う切なる心の願いは、私たちの心の中から消えることがないように願いたいと思います。
私たちの捧げるパンが、イエスの御身体となり、祭壇上でパンが割かれ、私たち自身の心に寄り添うように、私たちはイエスの御身体を今日もまた頂こうとしています。
今日も心から賛美と感謝を捧げて、ミサの中で一つになって祈りたいと思います。』

2017年4月23日日曜日

4月23日(日)復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

復活祭の喜びから1週間が経ちました。
この日のミサは、司祭叙階10周年を迎えた協力司祭のミカエル森田健児神父様に司式いただきました。


ミサの最後に、叙階10周年の記念と日頃からの御礼を込めて花束と記念品をお贈りさせていただきました。


ミサの後、カテドラルホールで森田神父様を囲み、ささやかながらお祝いの茶話会を行いました。




茶話会では、皆さんから森田神父様へのインタビューがあり、神父様の素顔に迫りました。会場は終始、温かい笑顔に包まれました。
子供のころはスポーツ好きで、中学校時代には柔道部に所属。大学時代に再開して黒帯を取得したそうです。(皆さんから感嘆の声が)
岡山県倉敷市のお生まれ。今年で49歳になられます。大学をご卒業後、修道院へ、その後、室蘭のミッションスクールで3年間教師を務められ、その間、召命の意志を確認していたそうです。
札幌教区の神学生になり司祭叙階。叙階後は1年間フィリピンに行っておられました。北海道に来て19年目だそうです。
司祭になってからの10年間を振り返り、
「10歳の頃から司祭になりたかったので、その願いが叶い充実した10年間でした。最も印象深いのは、フィリピンで過ごした1年間です」とのことでした。
森田神父様、これからもどうかご健康に気を付けてご活躍ください。


この日の森田神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「神のいつくしみの主日」ですが、私がフィリピンに行っていたときには、そこの教区の教会には全部(このマリア様の御像の前にある)神のいつくしみの御絵が飾っていました。引き延ばしビニールのような台座に拡大コピーをして、教会の祭壇にかけたりしてありました。デパートに行って午後3時になると合図があって、お祈りの時間ですよと、3時の祈りがあるのですが。とにかくフィリピンのみならず、外国ではとても盛んで、どこでもこの御絵が掲げられていたという印象を持っています。

 紀元2000年に教皇ヨハネ。パウロ二世が列聖した「聖ファウチスチナ」にイエス様がいろいろないつくしみに関する啓示をなさったのですね。同じように2000年に復活節第2主日を「神ののいつくしみの主日」に定める。これも聖ファウチスチナへの啓示の中にあったということです。それで、今日、このように祝っていることになります。
  フランシスコ教皇様もいつくしみについては聖年を1年間作ったり、特に神のいつくしみに集中する、それを見つめる、私たちもそのように、同じように生きる、そういうことを強力に推進されました。

   今日の福音では、鍵をかけていたのにイエス様が入ってきたと書いてあります。イエスを殺したユダヤ人が弟子たちをも狙おうとしている。その恐怖の中ですべて、鍵をかけるのみです。そして、主はもういなくなった、私たちが大いなる希望を持って、この方だけに希望をもっていたのに、その主が取り去られた。その大きな混乱の中で、弟子たちは自分の心に鍵をかけていくのです。これは私たちにもあてはまると思います。いろいろな暴力を受けたり、恐怖を受けたり、あるいは私の何かを狙おうとしている人に対してどんどん鍵をかけていく。
  世の中でいつくしみとか思いやりとか、親切がまん延していけば、私たちは心を開いている。
今も田舎ではありますように、家には鍵をかけないという、日本の自然な伝統があります。盗られない、盗みがないということでは日本は世界的に。昔の宣教者は驚いたのです。日本は盗みに関してはヨーロッパ以上に安全だと驚いたわけです。そういうものが無くなってくるんですね。どんどん鍵をかけていく。セキュリティが強くなっていく。
 私たちの心も同じです。だんだん世の中が冷たくなってくると、自分を守ることで精一杯になってきてしまう。人を入れることとか、人の心に入る、人を助けようとすることさえだんだん難しくなてきている。助けようとしている相手も警戒している。自分の入ってこれないところに入って来て欲しくない。助けてもらったら結局あとで痛い目にあうとか。いろいろな辛い経験を重ねると、だんだん人と人との間がふさがるようになってしまいます。

  そういう希望がない中で、イエス様が鍵のかかった家の中に入って来て「平和、シャローム」と言ったのは大きな意味があると思います。私たちが心を閉じがちですが、神に期待をかける、神に希望をかけたときに、キリストはちゃんと入ってきてくださる。 彼は私たちのことを心から愛し、同時にあなたたちのために私は命を捧げても良い。そういうお方ですから、そういう人は簡単人の心に入れるのですね。そういう心の鍵を開くものを、イエス様は私たちに見せてくださっていると思います。
 また、トマスは疑い深いですね。みんなが見たと言っているのに、それは亡霊かもしれない。
亡霊だと復活とは言えない。指をそこに入れなければ分からない。多くの人たちが「そうだ。そうだ。」と。現代人もそう言うかもしれません。懐疑主義と言いますか、何でも信じていく時代とは変わってきていますね。契約書の隅々まで読んで騙されない。簡単に人を信じて良いかといえば、本当にそうではなくなりました。電話がかかってきて「オレオレ」と言って、「あー太郎かい。」と言うと違うわけですね。五郎だよと言って騙されるわけです。本当に思いやり深いお年寄りの心にまで電話がかかってくる。孫を助けようとする。善意が利用されて犯罪に繋がるそういう社会です。

 イエス様は世の終わりについてこのように言われています。「不正がはびこるので愛が冷える。」まさにこのことです。不正がはびこるので愛が冷える。そういう中で私たちは右の頬を打たれたら左の頬を向ける。そういうふうにイエス様のせいにする。あるいは、キリストが本当に人のために苦しみを喜んで受けられたように、そういう気持ちがなければ本当に難しい世の中になってきました。ただ、トマスのような疑い深い人に対しても、イエス様が現れて「どうぞ触りなさい。」とおっしゃった中のことには、私たちは大きな救いを感じます。懐疑主義はいけないということではなくて、ともかくイエス様を触ってみよう。それから信じるものになりなさい。神についてはもっと信じて良い。神の恵みの約束。私たちに対するいつくしみについても、もっと信じて良い。たくさんの恵みを与えようとしている神様の気持ちについてはもっと信じても良い。そういう希望をもたらしてくれています。
 イエス様は「平和」とおっしゃいました。同時に、私はあなたがたを遣わす。こういう状況にあってすべてが終わってしまった。すべてが暗くなっていく。そういう状況の中で「いや、私はあなたがたを遣わす。」復活なさって新しいものがこれから始まる、ということをおっしゃる。
  ゆるしの秘跡の起源もここにあるのです。あなたがたが罪を赦せばその罪は赦される。主の祈りで唱えている「私たちが人を赦せば、自分の罪を赦してもらえる」とはちょっとニュアンスが違いますが。これは使徒たちに「赦しの権能」を与えたと解釈されています。

   このようにキリストは死と復活によって、神のもとにある大きな私たちに対する宝の倉を開くべく。ですから私たちはこの当時の弟子たちのように、すべてが暗くなっていくと思えるときに、余計に大きく神に対して希望をもっていく。神はこういう時だからこそ、私たちに恵みが必要であることをよくよくご存知だと思います。罪人こそ私のいつくしみを受ける資格があると、ファウスティナのいつくしみの啓示の中に書いてあります。罪人こそ私のいつくしみを受ける資格がある。冷たい思いに苦しんできた人々、暴力に苦しんできた人々、そうやって道を外れていった人々、そういう人こそまず神のいつくしみを受けなければならない。そこから新たなものが始まる意味合いが含まれているのではと思います。

  今日、復活節の第2主日。イエス様がすべてのこの固い鍵、氷の壁をとおって入って来てくださることや疑い深い私に対してもご自分の手を示してくださる。新たな希望の道を示してくださることを思いおこしながら、私たちも希望をもっていきたいと思います。』


2017年4月16日日曜日

The Easter Mass

Congratulations on the resurrection of the Lord !

The Easter Mass was held from 12:30

A lot of tourists were visiting.









 

4月16日(日)復活の主日

主のご復活おめでとうございます。

聖堂は、主の復活をお祝いする人びとで一杯になりました。
この日のミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。


奉納されたイースターエッグが、司教様により祝福されました。



侍者の子供たちから、イースターエッグが皆さんに手渡されました。


カテドラルホールでは、主の御復活と洗礼・堅信の祝賀会が行われました。


余興では、勝谷司教様の弾き語りも披露されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主のご復活おめでとうございます。
今日のみ言葉は、イエスが墓の中から消えたという形で復活を表す出来事が語られていました。この復活を私たちはどんなに待ちわびていたことでしょうか。
四旬節の間に、よい準備が出来て今日の日を迎えられたことと思います。

今年の四旬節は3月1日と区切りのよい日から始まりました。
私にとっての四旬節は、特別な思いを持って過ごしてきたような気がします。
私ごとになりますが、思い出の深く詰まった四旬節でありました。
四旬節が始まった3月1日、灰の水曜日は恩人の一人が亡くなった日でもありました。亡くなられた方は90歳を超えていましたが、信仰においてもとても熱心な方でした。その方はご自分の死を予測していたかのように、亡くなる時のカードを準備されていたようですが、そのカードの言葉は、「塵に生まれし者なれば、塵にかえれ」と昔の聖書の言葉をそのまま使っていたのでした。ご遺族の方は、「とても不思議な思いで見送りました」とおっしゃられていました。
また、私は司祭叙階から35周年の節目を迎えておりまして、同級生の司祭7名がこの四旬節の間に集まって旧交を温めることができました。
さらに、私たちの教会、教区にとっても助祭叙階式、四旬節の黙想会もあり、行事においても充実した気持ちで四旬節を過ごせたような気がします。
四旬節の間、準備されていた洗礼志願者の方は、日曜だけではなく熱心に平日のミサにも与られる方が多く、教会の中ではそのような方々との出会いもよくありました。
こうして、復活祭をお祝いできることを神様と、そして準備などに関わった多くの方々に感謝したいと思います。
四旬節の愛の奉仕は、「仕えられるためではなく、仕えるためである」というメッセージをイエス様は残されました。一人ひとりが神様の祝福を豊かにいただけますようにと、心から今日もこのミサの中で祈ります。

十字架の死は苦痛にしか見えないような一般の人のイメージでしょうが、そこに私たちはキリストの姿を真直ぐに見つめます。そのキリストの復活は、私たち人間の想像を遥かに超える真理です。そしてその真理こそ、私たちの信仰の対象だと思います。神様の業、復活それが私たちの信仰の対象でもあるわけです。
昨日16名の方々が、この教会共同体の一員に加わりました。うれしい限りですが、主の復活をたたえる信仰の仲間として、今なお世の中には不幸な出来事が続いていますが、互いに支え合い祈りを共にして、神の国の建設を目指して私たちも前に進んでいきたいと思います。
皆さんにとっても、この復活祭を機会に新しい日々が始められますように、心から祈ります。
改めて、主の復活おめでとうございます。』


12:30からは、英語ミサの「復活の主日」ミサが行われました。
観光客の方々も沢山訪れていました。





4月15日(土)聖土曜日 復活の聖なる徹夜祭

復活徹夜祭は、旧約の時代から続いている一年の典礼のうち最も盛大で中心的な祭儀です。
勝谷司教様、地主司教様、後藤神父様の共同司式によりミサが執り行われました。

会衆は聖堂に隣接するカテドラルホールに集まり、「火の祝福」と「ろうそくの祝福」が行われ、新しい火が復活のろうそくに点されました。

ろうそくの祝福


復活のろうそくを手にした司祭が「キリストの光」と唱えながら、行列は聖堂へと進みました。



聖堂がロウソクの火にほのかに包まれる中、復活賛歌が歌われました。


洗礼式と堅信式
この日、16名の方々が洗礼・堅信を受けました。


神に従うという洗礼の約束を新たにした後、司教が祝福された水を会衆にふりかけました。

受洗、堅信された方に、後藤神父様から記念品が手渡されました。
おめでとうございました!


最後に、この日の勝谷司教様のお説教をご紹介ます。
『皆さんもご存知のとおり、北朝鮮を取り巻く情勢が非常に緊迫したものになっています。非常に懸念されるのは、テレビなどを見ていると、それを聞いていればいるほど現実味が薄れてゆき、何かゲーム感覚で話されているような錯覚に陥ってしまいます。しかし、ひとたびことがおこれば必ずそこで人の命が犠牲になり、人の営みが破壊されていく、その悲劇がもたらすのは目に見えています。
  神様は私たちに英知を与え、どんな困難な状況にあっても 、この戦争を回避し平和をみいだすそのような術を、その力を私たちに与えてくださっているはずです。今、この困難なときにあっても平和な道を選択し何とか解決するように、皆さんに祈っていただきたいと思います。

  フランシスコ教皇は、回勅「福音のよろこび」の中で、時間は空間に勝るという少しわらりずらい哲学的な表現をなさいました。それは空間というのは、同じ時間軸の中で、空間的な世界の中で、そこで問題の解決をしようとするならば、それは一気にすべてを解決することは難しいのです。しかし、時間の流れの中においてそれを見ていくならば、必ずその中で何か解決していく、すなわち方向性を見いだし、時間の重ねの中で私たちは問題の解決をしていくことができる。そういうことを言っておられます。
  確かにこの行き詰まった絶望的な状況の中で、この状態を解決するには武力行使をしかないと考えている人もいるかもしれません。しかし、私たちは神から与えられた英知をもって、神の時間軸の中で物事がほんとうに平和理に解決していくことを求、そのために切なる祈りを捧げて欲しいと思います。

  前もお話しましたが、世界の現実もなかなか思うようにならない厳しい現実に直面しています。それと同じように、私たちも個人の生活の中で、どうにもならないような厳しい現実に直面にさせられるときもあります。そのとき、私たちのとる態度は様々です。理解しがたい現実に遭遇してそこから逃げることなく、現実を受け入れることによって、その苦しみにどういう意味を与えるのか、そこに信仰者とそうでない人の違いが表れてきます。多くの場合、厳しい現実は、私たちにとって選択の余地なく襲いかかってきます。その現実を前にして、私たちはただ受け入れるしかない存在なのでしょうか、言い換えるならば、私たちの人生はそのような偶然に左右されるものなのでしょうか。
  確かに自分で選びようのな現実があります。何故と問うことのできないほどの苦悩に襲われるこおもあります。与えられた状況に私たちは何の落ち度もない、何の責任も無いこともあるでしょう。そして、苦しい現実を誰かのせいにしたくなることもあるでしょう。しかし、与えられた環境に責任はなくても、そこでどう生きるかは私たちの自由に委ねられており、その選び取った生き方には、私たちに責任があるのです。

 私はあえて、そのことを「召命」と呼びたいと思います。すなわち、神が私にそこで生きるように召しておられる。そこで生きるよう神が望んでおられるなら、それは召命であり、同時に必要な助けも必ず神は与えてくださるに違いない。たとえ今の苦しみに意味を見いだすことが出来なくても、選びようのない現実であったとしても、むしろそれは選びようのない現実であるからこそ、神が私をそこに召しておられるのだ。だから必ず今の私には理解出来ない、知られざる意味があるに違いない。そういう確信を私たちは信仰の目をとおして持つことができます。

 そして、そのことをはっりと私たちに保証するものが、この「主の復活」です。限られた今という時間で見えないものも、永遠の時間軸の中において見るならば、永遠の時間の中にある「復活の主」が私の人生を知り愛し招いておられるのです。そして、その主が言われます。「恐れるな。私は既に世に打ち勝った。」
 私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げる事が出来るようになります。この確信に基づいて私たちは、たとえ厳しい現実であってもそこに生きることを選びとることができるのです。偶然でもなく、仕方なくでもなく。そこに神の招きを見て、その生き方を選び取るとき人生の意味は変わってきます。
人生が偶然によって左右されるのではなく、はっきりとした愛の招きがあり、その愛に守られ支えられて今の自分があるのだ。そう悟ったとき、厳しい現実を前にしてどれほど自分の無力を感じても、それに直面し乗り越えていく力を私たちは得ることができるのです。

 今日の福音書にある空の墓のメッセージ。それは次のようなものでした。あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。ガリラヤとは弟子たちの生活の場でした。復活の主は遠くにいて私たちを招いておられるのではなく、まさに多くの困難と苦しみの現実生活において、私たちとともにあり、そこに生きる力と希望を与えてくださっているのです。私たちが召されているのはまさに今、置かれているこの生活の場であり、そこにおいて私たちは必ず生きる意味を、神が与えてくださっている意味を信じて困難に取り組んでいくことができます。
  今日、非常に嬉しいことに洗礼を受ける方が14名、堅信を受ける方が2名おられますが、先日、教勢がどんどん落ちる話しをしたばかりの中で、非常にうれしいことだと思います。私たちの中に明るい兆しとして、ともに神の愛に生きる兄弟(姉妹)を歓迎したいと思います。
そして私たちがひとつになって、この社会の中にあって神の証しとなるその力をますますいっしょになって作り上げることができるよう期待しています。』

2017年4月14日金曜日

4月14日(金)聖金曜日 主の受難

この日の聖金曜日「主の受難」の祭儀は、主イエスの受難と十字架上の死を記念します。


ことばの典礼、十字架の崇敬、交わりの儀(聖体拝領)の3部からなっています。
ヨハネ福音書の「受難の朗読」が読まれ、捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。

後藤神父様のお説教では、聖金曜日の祭儀の意味と、私たちが併せ持っている無関心、無感動というものが「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ罪に繋がっていく事なのかもしれない、というお話がありました。

十字架の顕示
司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え
会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえます。


十字架の礼拝


2017年4月13日木曜日

4月13日(木)聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ

聖木曜日の今夜、「最後の晩餐」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」が、勝谷司教様の主司式で行われました。



ミサの中で洗足式が行われ、司教様が12人の信徒の足を洗われました。



御ミサの最後に、聖体がカテドラルホールに設置した仮祭壇に安置されました。

この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『日本の教会は先々月(2月7日)、高山右近を福者として非常に大きな喜びに満たされました。高山右近は殉教者として扱われているのですが、最初は証聖者として神を証した聖なる生き方をとおした者として聖人になってもおかしくなかったわけです。その生き方は、私たちにとって信仰の模範となります。しかし、一方、同じ同時期を生きたであろう人たちの中で、その信仰を守り通すことが出来ず、棄教していった人たちもたくさんいるわけです。
  そして、それをテーマにしたのが遠藤周作の「沈黙」でした。そしてそれもまた、映画として公開され、非常に話題になりました。あの遠藤周作の「沈黙」,私も高校時代に読みました。非常に衝撃を受けましたが、すぐに、実はあの「弱さによる信仰」とは、その時の印象も含めて私にとって非常に大きなテーマとなっています。あの小説の主人公は神父ではなくて、キチジローであることを高校生でありながら確信していましたが、やがてその確信は正しかったと考えるようになっています。陰の主人公キチジローのあの弱さ。いくら信仰を守りたくても棄教してしまう。そして信仰を裏切り、仲間を裏切ってしまう。そういう弱い者であっても神に愛されるのだ。そういう究極の状態におけるテーマがあそこでは問いかけられていました。 

 しかし、今の教会、特に現教皇様は「いつくしみの特別聖年」を発布して、教会がこの裁き、あるべき姿を追究する信徒の群れではなくて、私たちはこの弱さを帯びた様々の苦しみを持った生きている存在である。その苦しみを皆で共感し、裁きではなくて慈しみを求める、そういう教会であって欲しいということを述べておられます。そして、そこにあるのは正しい生き方を追究することが出来ず、結局教会を離れてしまったり、つまづいて罪のうちに立ち上がることが出来ずにいる人たちに対してこそ、慈しみを示すのが神である。教会は長い間、そのような人たちに対して、裁きの態度しか向けていなかった。赦しという言葉は教会の中から忘れ去られていたようのことであったと、その書簡の中でおっしゃっています。そして今こそ、私たちに必要なものは、神の慈しみを示すことだと。

  先ほどの福音書の中で読まれたように、説教のあとで「洗足式」が行われます。互いの足を洗い合うということはどういう意味であるのか。互いに仕え合うということもそうですが、何よりも互いの過ちを赦し合う共同体になりなさい、という意味だと私は考えています。
 私たちは完全な者の集まりである共同体ではなく、罪を犯すようなものを持った者としての共同体です。            
  ミサの意味は、つまりこの聖体祭儀、今日祝われるであろうこの聖体祭儀の制定でもありますが、この聖体祭儀の意味は何よりも第一義的なものは「一致」です。しかし、それは私たちの力によって成し遂げられる一致ではありません。今日の、第二朗読のコリントの手紙は前提に何が書かれているかというと、教会の中の仲間割れです。仲間割れ、分派などがあるはずなのに、それを無視して聖体祭儀が行われている。パウロはそれに心を痛め、戒めるかたちで手紙で書き送っているわけです。私たちは罪を犯す弱い者を排除する。そういうミサを祝っているのだとすれば、それはキリストが命をかけて証しした神のみ心を表すものではありません。キリストは正しい者のために十字架上で命を捧げれたのではありません。私たちの弱さと罪深さを負って十字架に架けられたのです。
  私たちの弱さは何であるか。それが意味するものはただ単に罪のうちに悩み苦しむものという意味ばかりだけではありません。

  私たちは悔い改めて、罪にうちひしがれて膝をかがめて訪れる人に対しては、たしかに慈しみを示すことが出来るかもしれません。しかし、人を人とも思わず、傲慢さをみせる人が目の前に現れたら、その人を赦してその人を受け入れることができるでしょうか。福音書を見るならば、ルカ福音書に出てくるザアカイという人は背が低かったと書かれていますが、そういうような存在であったはずです。権力をかさに人々を苦しめる。しかし、イエス様はそのザアカイに対しても慈しみを示されました。あした 

  イエス様は謙遜に自分の弱さを自分に委ねようとする人ではなくて、むしろ自分を十字架に架け、そして十字架に架けられている姿を、あざ笑いながら見ているそういう人たちに対して赦しの言葉を述べて命を捧げられたのです。
 わたしたちは一致するように求められているときに、特にミサにおいてですね。それと反するように心の動きがある時にどういう態度をとっているでしょうか。「主よ私の罪深さを赦してください。」日本語のミサの式文では、それは表れていないのですが、ラテン語やほかの言語では聖体拝領の前には「主よ、わたしはあなたをお迎えするには相応しくない存在です」と
告白がなされます。つまり、自分はけっして胸をはってご聖体、イエス様を受け入れられるような存在ではない。むしろ様々な罪を抱えている存在である。そのようなことを告白して聖体に向かうわけです。随分前の話ですが、この聖体を受けるにあたって、朝、ミサに行く前に激しい夫婦喧嘩をして、腹が立って、腹が立ってしようがない。このような怒り狂った精神状態で聖体など受けられないと言って、一人家に帰ってふて寝していた。と、分かち合いで聞いた覚えがあります。
  私たちは良く勘違いするのですが、どれほど激しい憎しみであれ、許し難い怒りであれ、それが感情であるならば、感情に対して私たちは自由はないので、感情自体では善も悪もありません。しかし、その感情に基づいてどういう態度をとるのかというところに、私たちの善悪が表れてくるのです。ですから怒りの感情を持つとか、憎しみの感情を持つということが罪にあたるわけではないのです。ですからどんな激しい怒りや憎しみにかられていたとしても、それが今の自分の現実であるとするならば、まさに相応しくない心の状態を自分の力ではどうしようも出来ない。そのおもいで、その自分を主に捧げて聖体に近づくことはむしろ相応しいことです。自分にはどうしようもない罪を持っているからこそ聖体が必要なわけです。

 神が与えられようとしている恵み、私たちのちっぽけな怒りや憎しみで消されてしまうようなものではありません。それらをはるかに超える大きな慈しみの世界に私たちを招き入れるものです。ですから受け入れがたいこと…何であいつがこのミサに来ているんだという。これは私自身の体験ですが、いっしょに聖体を受けたくないと言ってミサをサボっていたことがありました。考えてみるとその気持ちはどうにもならないのです。むしろ受け入れがたい苛立ちや怒り、憎しみというものを自分の力ではどうにもなりません、これが私ですと言って、ご聖体に近づいたときに、不思議とその感情が癒されたという体験をしたことがあります。
 そしてそのとき気付いたのは、相手を受け入れることが出来ない、赦すことが出来ない自分も、そして自分が嫌っている相手に対しても、等しく主はご自身のすべてを与え尽くそうとされる、ご聖体によってご自身を与えようとしている。
  つまり私たちは自分の力では受け入れることが出来ない、赦すことが出来ない、そういう中途半端な弱い存在ですが、それを超えて神は私たちを信仰によってひとつに結び合わせてくださる。私たちに必要なことはこの自分の弱さ、激しい憎しみや怒りを弱さとたとえると、それも私たちの弱さの現実です。しかし、そういう弱さを抱えた私たちが今ここに集められ、互いに足を洗い合うように求められているわけです。

 多くの場合私たちは罪に苦しむときに、大体ほとんどの人はその状態から陥っているときに、どうしたらよいか分からないというのではなく、何をすべきか分かっているのがほとんどです。ですからその過ちを指摘され直すように言われると逆に腹が立つんです。そんなこと言われなくても分かっていると。しかし、分かっていても出来ないところに私たちの弱さの現実があるのです。この堂々巡りに陥っているときに必要なことは、その過ちを指摘すること、指摘されることではなくて、むしろその苦しみに共感してくれる人の存在です。キリストが示したのは、このように過ちを指摘し裁くことではなく、その過ちの中で苦しみ、それを乗り越えることができず、もがき苦しんでいる人に  限りない慈しみを示されたのです。

  今の教皇様は長い間教会が忘れていたそのことを思い起こさせようと、繰り返し繰り返し強調されています。さきほども言ったように「いつくしみの特別聖年」のテーマはまさにそれでしたし、つい最近出版された『使徒的書簡 あわれみあるかたとあわれな女』。あの姦淫の現場で捕らえられた女に対して示されたイエスの態度。ファリサイ派の人たちは、かれらの正義に基づいて裁きを行うように求めます。その裁きとは何かと言うと彼女を死刑に処せということです。それに対して何の申し開きのすることの出来ない、その現場を押さえられた女に対して、主は沈黙で彼らに対処するのです。そして、最後すべての人が去っていった後に「私もあなたを裁かない。」罪に定めない、これがイエス様が示した慈しみです。その物語から始まってこの使徒的書簡はテーマを述べられています。この教皇様の書簡を是非、手にとって読んでいただきたいと思います。
 私たちのこの共同体がこのイエス様の示した神の憐れみと慈しみの心に満ちたものになるように心から願っています。』