2018年7月15日日曜日

年間第15主日

一人だと不安かもしれませんが、
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」
とイエスは励ましてくださいます。

今日のミサの主司式は佐藤神父様でした。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日のマルコによる福音の箇所は、マタイによる福音にも、ルカによる福音にも書かれています。しかし、マルコによる福音の中では、杖を一本持って行ってもよい、と書かれています。他の福音書では、杖も持たず、と書かれているので、そういう意味では少し優しいイエス様が描かれているのではないかと感じます。また、他の福音書では「下着を持って行ってはならない」と書かれていますが、ここでは、「2枚着てはならない」とあり、持って行ってもよいと受け取ることもできます。このようにマルコによる福音書は、少し私たちにとって、優しい感じがするかもしれません。

先週の福音の続きですけれども、先週の福音の最後では、イエスはガリラヤの村を巡り歩いて宣教していたと、締めくくられていました。その続きの箇所です。今日の福音では弟子たちがイエスによって派遣されるという場面になっています。
ずっとイエスの傍にいてイエスの言葉、そして行いを見てきたこの弟子たちを、イエスは人々の中に派遣させることにします。そして、その弟子たちを二人一組にして遣わされるということをなさいます。二人ずつというのは、当然一人で宣教するよりもずっと心強いしお互いに協力して歩んでいくことができることを意味しています。
マタイによる福音の中でイエスは、「二人あるいは三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われています。二人一組で遣わされるとき、イエスご自身もその二人の中に共におられるのだということを意味しているのだと思います。だから、二人で出かけて行って安心して宣教しなさい、ということも意味しているのではないかと思います。
神学校で学んでいたころ、二人で組になって何かをするということが非常に多かったと思います。典礼の当番に当たった時も侍者として二人で協力して祭壇の準備をしたり、先唱係と香部屋係の当番になった時には、香部屋係が蝋燭を点けると同時に、先唱係が聖堂の灯りを点けるということをしていました。また、先唱係がミサの初めに案内をしたりする時には、香部屋係が聖堂の扉を閉めたりするという、そのような協力体制が出来ていました。
神学校の生活の場でも、二人一組というのは行われています。それを思い出すのは土曜日の昼食の準備の時のことです。土曜日の昼食はいつもカレーライスでした。カレーの準備も二人一組で行っていました。皿とスプーンを出して、炊飯器のスイッチを入れる人と、カレーを温める人に役割を分けていました。後片付けも二人一組でした。一人が皿とスプーンを片付け、もう一人がカレーの鍋を洗うということをしていました。先にお話しした典礼の当番もカレーの当番も、どちらも一人でやろうとすると非常に大変ですけれども、二人ならそれほど苦にはならずに楽にできます。これは非常に不思議なことだなと思います。
そして、私の大先輩の神父様が神学生の頃の話を聞いたことがありますけれど、散歩に行くにも二人一組で行かなければならなかったそうです。今はないですけれどそのような決まりがあったそうです。二人で散歩をする中で、お互いの中にイエスがおられる、聖霊がおられるということを感じるように、そういう意味があったのではないかと思います。中には、二人で散歩という組み合わせの中では、あまり気の合わない人もいたかもしれず、そういう時には気が重かったということも聞いています。神学生同士だから何とかうまくやっていけるというものでもありません。皆さんと同じように相手を苦手に感じたり、いやな奴だなあと思ったりすることも結構あります。ただ、二人一組で散歩したりする時に、いやな奴だなあと思ったにしても、実際に話をしてみると実はいい人だったとか、実は気が合う奴だったとか、ということもあります。人を誤解していたということも非常に多くあります。そういう新たな発見を期待して、二人一組で行動させる、遣わすということをしているのかもしれません。
そして神学生は司祭になって、司牧者として教会へ派遣されるわけですが、その中で多くの人々と接し、物おじせずに話が出来るとか、いやだなあと思う人がいても、しっかり話をして付き合っていくことができると、そういう訓練であったというふうにも思います。
今日の福音に戻りますが、弟子たちの派遣にあたって、いろいろな指示が下されています。食べ物を持たず、袋を持たず、金も持たず、下着も一枚だけ着るようにと、言われています。
誰の世話にならないように全て自分で準備しておくということではなく、人との出会いの中で、宿のことでも食べ物のことでも人の世話になるようにしなさいということだと思います。必ず迎え入れる人がいるのだというふうにイエスは言っているのだと思います。
自分のことは自分でしなさいと、この世の中ではよく言われることですけれど、自分の力ではどうしようもないということもあります。今日の福音では、神の呼びかけに応えていこうとする時に、神が全てを配慮してくださるという信頼と、人との出会いに対して、恐れずに関わるということを大切にしていくということが述べられているというように思います。

今日私たちは、イエスが示された神の国をこの世に実現するために呼びかけられています。一人では不安かもしれませんが、二人あるいは三人であれば、心強く歩んでいけると思います。互いに助け合い、そして出来ることを分担していけば、神の国を大胆に伝えていくことが出来るのはないでしょうか。
弟子たちはイエスに呼ばれて、イエスが行ってきたことをイエスと同じように実践しました。イエスをとおしてここに呼ばれた私たちも弟子たちのように、二人三人で出かけて行って出会う人々に言葉だけではなく行いをもって、イエス・キリストを証しすることが出来るわけです。
このミサの中で、私たちもその勇気と希望を持つことができるように、祈り求めてまいりましょう。』

2018年7月10日火曜日

7月8日 年間第14主日

 私たちはいつの時代であっても神に心を向けながら、思い上がったり、時には強欲な心を捨てきれません。
この日の集会祈願を心に留めましょう。
「ここに集う私たちがあなたの言葉を深く受けとめ、心からあなたを賛美することができますように」


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音です。そのときイエスは故郷にお帰りになった。イエスの故郷でのお話しが語られています。この最初の1行を読んで、私も今日、50年ぶりか50数年ぶりで故郷、羽幌町に帰ります。今日午後から、同窓会があるのです。最初の言葉が私と同じだと読んでいました。 今日の集会祈願を味わいます。私は良く集会祈願を心に留めて味わうのです。どんな祈りの言葉だったか、少し分かち合います。「ここに集う私たちがあなたの言葉を深く受けとめ、心からあなたを賛美することができますように。」ミサの最初の祈りの祈願の言葉です。「心からあなたを賛美することができますように。」今日、ミサの中で本当に心から神を賛美することが出来るように祈りたいと思いますが、私たちはいつの時代であっても神に心を向けながら、自分中心の傾きを抑えることが出来ず、思い上がったり、神に従うよりも、時には強欲な心を捨てきれないまま、神様のほうにまた、自分中心の生活の方へと、行ったり来たりしているような気がします。
 今日の第二朗読のコリントのみ言葉の中にも、弱さの中で思い上がることのないようにと  私たちを導いてくださるみ言葉がみられます。思い上がる心。どうして、なぜ、私たちの心の中から湧き上がるものなのでしょうか。きっと誰もが体験している、経験していることだと思います。自分の思い上がり、身勝手さ。それに気付くと少し恥ずかしくもあり、反省もありますが、日々繰り返しているのが私たちでもあるともいえます。
 イエスが故郷に帰った時の故郷の人々の反応も そういう心に繋がる思いでイエスを見、そしてイエスを非難しています。故郷の人々はそのイエスの業や奇跡について受け入れることよりも、賛美することよりも疑問が先になりました。何故、大工の家の子であるイエスがそんなことできるのか、考えられない、信じられない、受け入れることが出来ないことになってしまいます。もちろん故郷の人は、イエスの小さな時からきっと知っている方がたくさんおられます。なおのこと、何故、こんな素晴らしい立派なお話しを出来るようになったのだろうか。そういう思いが心の中から払拭されないかぎり、片寄った考え方、自分中心の考え方から抜け出すことが出来ないと思います。
  先入観。それはある意味で不審な目で見ることが先になることにも繋がってくるようです。こうしたことは私たちの日常生活にも見られること。神を信じる。神を信じたい。そんな信仰の道を歩んでいる私たちにもおこっていること。イエスが不信仰に驚かれたということは、故郷の人に言われたのではなく、まさに私たちに向けられて言われているのではないかと感じられます。

 先週、私は殉教者の話を取り上げました。今日もまた皆さんといっしょにミサの前に 殉教者の祈りを唱えていますが、「殉教者の信仰、その生き方の中に、現代を生きる私たちがどのような困難な時にも聖霊の助けを信頼し、キリストに従いあなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように。」こういう祈りの言葉がありました。キリストに従い、ひたすらあなたへの道を歩むことが出来ますように。主が示される道を歩くこと、そのことを願いながら、何故か自分の思いが優先する道を選んでしまう私たち。主への道をひたすら歩むことと自分の道を選びとって自分の都合の良い道を歩いてしまう私たち。行ったり来たりしていると思います。
  先週、7月1日の日曜日は、ペトロ岐部と同志殉教者の10年目の記念日だということを皆さん思い出しておられると思います。以前お話ししたか定かではありませんが、もう一度伝えたいと思います。長崎のある神父様のお話です。殉教者と言えば長崎に多く見られるところですが、その深い信仰、強い信仰が尊敬を受けます。私の知っている長崎の神父様が話したことを私は忘れることが出来ず、また思い起こしています。「迫害以来、拷問を受けて多くの信者は信仰を捨てざるを得ませんでした。中には家族を思い小さな我が子を思う余り、信仰を捨てざるを得なかった人たちがいたということ。自分ではなく、我が子のため、子供の将来のために自分の信仰を捨てざるを得なかった。目の前に踏み絵が置かれます。十字架やマリア様の御像が置かれます。そして、それを踏みなさいと命令されます。踏むことによって信仰を捨てたことを証しするということになっています。」小さな我が子を持つ親の信条はいかばかりだったでしょうか。長崎の神父様の話しは「私の先祖が信仰を捨てたことによって、今、私が司祭である。」とのお話しでした。信仰を捨てる、棄教するということは、弱い信仰者のレッテルを貼られるかもしれません。でも、子どものために信仰を捨てる。信仰を捨てると言いながら「隠れキリシタン」として自分の信仰をひたすらに生きるという、そんな生き方を選ぶ人は少なくありませんでした。見かけは信仰を捨てた。我が子のために、愛する家族のために。でも、心の内では信仰を周りの人には隠して、隠れキリシタンとして生きる彼ら。その信仰を守り続け、何百年と経ってその子孫が司祭として信仰を導いているとしたら、殉教者の信仰に負けない、隠れキリシタンの信仰があったからではないでしょうか。それこそ、今日告げられたみ言葉。キリストの力が私たちのうちに宿るなら、むしろ大いに喜んで、自分の弱さを誇りましょうと言えるのではないでしょうか。棄教する、踏み絵を踏む。外見から見れば、弱さそのものを表すかもしれません。でもその弱さを誇りとして、隠れキリシタンとして信仰を生き抜いた人がたくさんおられたということ。

 聖書の中では、本当に愚かで弱さを抱える弟子たちの姿もたくさん見られます。ペトロもその一人だったと思います。美徳なまでに愚かさをイエスの前に見せる。叱られます。でも、ペトロは何度叱られても立ち上がります。それはイエスの愛と慈しみの手をいつも感じることが出来るペトロの信仰があったからだと思います。キリストに従い、あなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように。ペトロもまた、殉教者の祈りの言葉の信仰がそこにあったように思えます。キリストから離れることなく歩み続けたペトロは、やがて何度も失敗を繰り返したにもかかわらず教会の頭に選ばれています。イエスを受け入れる心、ひたむきな心、そしてイエスを証しする心が誰よりも強く、深い意味で、あったに違いありません。ペトロももちろん最期は殉教して亡くなりますが、ペトロの殉教者の心を長崎の隠れキリシタンの多くの人たちが受け継いでいたこと、証しかもしれません。つまづいても手を伸ばして立ち上がらせてくださる愛と慈しみの主に、私たちは赦しを願いながら愛し続けることができます。

   今日も私たちの弱さの中で主の霊を、主の心を願い、思い上がることのない日々を過ごすことが出来るように、共にこのミサの中で心を合わせて祈りたいと思います。』


ミサの後、初めての消防避難訓練を行いました。
ほとんどの人が初めての体験で戸惑いもありましたが、無事終了しました。




◎カテキズム要約版を読む会が60回目を迎えました。
5年ほど前の信仰年を機会に立ち上げ、参加者も最近は増え、多いときには20名近くになっています。


2018年7月1日日曜日

年間第13主日

今日は「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日でもありました。
殉教者少年ディエゴの残したことばを心に留めてイエスのもとに歩みましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週は月曜日から4日間、全道司祭会議で教会を留守にしていました。わずか4日間の日程でしたが、長い旅をして教会に帰ってきたような気がしています。今年は35名の司祭が全道から集まっての会議でした。
今年のテーマは、「これからの札幌教区の福音宣教」というものでした。私たち司祭にとっても今年の会議は、これまでとは少し意識が違う状況で話し合いが行われました。通常は3日間の日程なのですが、今年は重いテーマで、もっと真剣に語り合わなければならないとのことで、4日間の日程になりました。
皆さんは、今回のテーマである「これからの札幌教区の福音宣教」ということについて、どのような印象を持たれるでしょうか?皆さんも既に聞いていると思いますが、2019年には札幌教区の各教会に派遣されているフランシスコ会の神父様が引き揚げるという話が、ずっとここ数年続いていました。いよいよ来年、その時期を迎えるということで、私たちもさらに真剣に、そのことを考えていかなければならないというのが今年の会議の主旨でした。現実的には、全ての教会からフランシスコ会の神父様がいなくなる訳ではありませんが、フランシスコ会日本管区の方針として、修道会司祭の高齢化の状況を鑑み、一人で地方の教会を任されて、そこで生活するという現状を見直すということであり、教区司祭も現実的な対応を突きつけられているところです。来年に向けて大きな移動があるということも勝谷司教さんも口にされていますが、いよいよ差し迫ってきたという状況の中での会議となりました。たくさんの祈りを皆さんからもいただけたことと思います。お礼を申し上げたいと思います。少しづつ具体的な案については、司教さんを中心に皆さんとも考えていかなければならないテーマだと思います。これからもまた、一緒に祈りながらご協力をお願いしたいと思います。

さて、今日のみ言葉について、皆さんはどのように受け留められたでしょうか?
大勢の群衆がイエスのもとに向かってひたすら進んでいく情景がわたしたちに語られました。二千年を過ぎた現代においても、日曜日になると大勢の信者がイエスを求め、今日のミサのように教会に集まってきます。
聖書で語られるイエスのもとに集まる「群衆」という言葉が繰り返される中で、その人々の情景と、私たちが今集まっている教会の現状と、何が同じで何が違うのだろうかと、私は昨日から考えています。イエスのもとに集まった群衆と、教会に集まる私たちと、その心のうちは同じでしょうか?
み言葉では、群衆のなかの一人として会堂長ヤイロのイエスに向かう信仰の姿が浮き彫りにされています。愛する我が子を救うためにイエスの前に進み出て、足元にひれ伏し、しきりに願うその姿が描かれています。その心のうちは、神へのイエスへの信頼そのものでした。父親の信頼とその思いは、ただイエスに触れたい、触れられたいという願いでいっぱいだったと思います。イエスは命の主そのもの、イエスに出会い、イエスに触れることによって救いがあると、この会堂長ヤイロは考えていたに違いありません。その信頼は揺るぎないものであったと思います。
み言葉の後半では、誰もが死んだと思われた会堂長の12歳の娘は、イエスによって救いが現実となっています。大勢の群衆もまた、様々な形で救いを求めていたはずです。イエスを信じていたはずです。イエスに対する信頼は深いものであったにも関わらず、死んだはずの少女が歩く姿を見たとき、信じ難い出来事として「群衆は我を忘れ、驚いた」と記されています。100%イエスを信じていなかった故の驚きだったのでしょうか?
この話の合間に、もう一つの話が加わっています。長い間、病気に苦しむ女性もまた、イエスに近づき触れようとしていました。イエスに触れることで自分の病気が治っていくことを感じながら。イエスの体から力が出て行ったと聖書は記しています。そしてイエスは「誰がわたしに触れたのか」とそのことを突き止めようとしています。
救いをもたらすイエスへの信頼によって、「あなたの信仰があなたを救った」とやさしく声を掛けられています。
いま、私たちは神を、そしてイエスを、どこまで信じているでしょうか?そんなことを考えながら今日を迎えています。私たちはイエスに救いをどこまで真剣に求めているのでしょうか?私たちは何を求めてこの教会に、今日来たのでしょうか?本当にイエスに触れたいという思いが心の中に生きていたでしょうか?
日曜日のミサに与る私たちは、習慣のようになってしまって、何を求めることなくただ教会に来てしまった、という人はいないでしょうか?
そした私たちは、救いということをどのように考えているでしょうか?

今日は、最初の集会祈願でも触れたように、特別な日です。「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日が重なりました。そのことについても少しお話したいと思います。
日本の司教団から通知文書が届いており、掲示板にも貼られています。
2008年11月、日本の新しい聖人である「ペトロ岐部と187殉教者」が列福されて10年を迎えました。その後、ユスト高山右近も列福され、今度は、聖人となる運動を展開しているのが、今の私たち日本の教会です。
司教団からの文書は、列聖を求める祈りをぜひ今日皆さんと共に祈りをささげて欲しいという内容でした。その列聖の取り次ぎの祈りのなかに「現代に生きるわたしたちが、どのような困難のときにも、聖霊の助けを信頼し、キリストに従い、あなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように」とあります。これはまさに殉教者と同じ道を歩みましょう、という呼びかけでもあります。
日本の司教団からこの日を思い起こして祈ってくださいというメッセージ。そして10年前を思い起こして、今日教会のホールに置いていた小冊子から、一人の少年殉教者を紹介します。
この少年殉教者は、「わたしを歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」という言葉を残したそうです。
その経緯は、1613年10月7日、長崎の島原半島、有間川の中州で、3家族8人が縛られ、火あぶりの中で殉教しました。信者たちの信仰生活を助けるために、「サンタマリアの組」、「ご聖体の組」、「ミゼリコルディアの組」などを組織していた有馬の教会は、当地で迫害が始まると、1612年、城下町に新しい組を結成しました。「殉教の組」です。これは信者が殉教できるよう祈り、苦行をもって神のおん助けを求める信心会です。これに倣い少年たちも「子供の殉教の組」をつくり、大人に負けないほど熱心に祈り、苦行に励んでいたといいます。12歳の少年福者ディエゴ林田は、このとき、有馬の「子どもの殉教の組」の頭でした。ディエゴは、仲間と共に殉教の恵みを受けるために祈り、組の集まりでは皆を導き、ともに苦行に励んでいました。その殉教の記録は、素朴なこころの少年が、精神的に立派な大人に成長していたことを伝えています。
有馬の信者たちが殉教に立ち会おうと集まってきて、捕らわれた人々をすでに殉教者と呼び、その取次ぎを求めました。すると少年ディエゴは、「死ぬ前に殉教者の名はふさわしくありません。でもその名をいただくのは嬉しいことです」と言いました。そして、「まだまだです。まずオラショ(祈り)を頼みます」と皆の祈りによる支えを願ったのです。
のちに迫害で火あぶりにされたドミニコ会司祭ハシント・オルファネル神父は、ディエゴのこの言葉を日本語のまま記録しています。
ディエゴのこれらのことばは、長崎の潜伏キリシタンが殉教の心得として伝えてきたことを思い起こさせます。
「殉教とは死ぬこと、殉教は神からのめぐみであること、人は皆弱いので、殉教のとき力を与えられるよう、ふだんからいつも祈りと苦行に努めること」などです。

「わたしを歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」
少年ディエゴが残した言葉です。
私たちもイエスのもとに歩いていかなければなりません。必死になって歩かなければならないでしょう。

私たちの教会は、2年前に「次の世代につなぐ」というテーマを掲げて聖堂献堂100年を祝いました。「次の世代につなぐ」、まさにこの殉教者少年ディエゴの心を私たちはもっと大切にしなければ、私たちの信仰は中途半端な形で伝えることになるような気がします。殉教者の思いを伝える「明日の教会を託される子どもたち」というテーマは、私たちにとっても大切なテーマであり、私たちの教会が掲げた「次の世代につなぐ」というテーマに深くつながっていると思います。
幼い少年殉教者は、私たちを信仰の道へと導いているような気がします。神の目からみると私たちも弱く幼い信仰者なのかもしれません。イエスのいのちに出会うため、一人一人に示された十字架の道を歩むことができるよう祈りましょう。』

2018年6月25日月曜日

6月24日(日)洗礼者聖ヨハネの誕生

イエスが誕生した6ヶ月前の今日、洗礼者ヨハネの誕生をお祝いしました。
主司式は勝谷太治司教でした。


勝谷司教のお説教をご紹介します。


『洗礼者ヨハネの祝日は、洗礼者ヨハネの殉教と誕生を祈願しますが、特にこの誕生の日は 祭日と扱われ、しかも日曜日に優先する祭日になっています。通常、日曜日に優先するのはマリア様とイエス様ご自身のものです。すなわち、ヨハネの誕生、存在というものが、イエス様の救いの営みに深く関わっている。いわばイエス様が誕生されて救いを成し遂げるまで、その生涯のプロローグにあたるもとして、非常に重要な位置を示している。
 しかし、今日の福音書はそうは言っても、主人公は誰であるかと言うと、ヨハネを産んだエリザベトとその父ザカリアの話しになります。ザカリアはエリザベトがこの男の子を宿すという天使のお告げを信じなかった。そのために口がきけなくなったと書かれています。今日の福音書を見ると、「この子に何と名をつけたいか。」と、手振りで尋ねたという記述があることから、ただ口がきけなかったのではなくて、耳も聞こえなくなっていたと推測されます。これは天使のお告げを信じなかったから、その罰としてそうなったのでしょう。わたしはそうは思わないのです。このザカリアという人、今日の福音の前の部分を見ると、エリザベトも含めて二人、非常に敬虔で熱心な掟を守っていたユダヤ教の信者と思われます。すなわち自分たちに与えられた努めを忠実に果たし、律法を守り 敬虔に信仰生活を営んでいた人たちです。
 しかし彼らは自分たちをとおして神がなさろうとする、全く予想谷しなかった出来事、常識では考えられないような、この年老いた女が身ごもるということ、これを受け入れることが出来ない、それを超えたことを考えることが出来なかったわけです。ですから、毎日の生活の中で忠実に熱心に与えられた仕事、決められた掟を守り続けるし、生活を送っていましたが、自分の生活はおろか、身の周りでおこるこの神のこのダイナミックな業に対して、それに気付くことが、それに協力すると言う考えをまったく持ち合わせていなかった。そういうことが言えるわけです。
  この沈黙、耳が聞こえなくなり、話せなくなることが何を意味するのか。今、エリザベトをとおして行われる神の業を、いわゆる周りの常識的な雑念を捨てる中で、ただ沈黙のうちにそれを祈り続けるもの。この男の子が産まれるまでの間の、この沈黙の時間というものは、ザカリアにとっては、自分たちの生活をとおして神の業が実現していくものを深く受けとめる、黙想する期間であっと言えるのではないかなと思います。
 そして、この子が誕生し「ヨハネ」という名を付けたと。実は今日の箇所では省略していますが、聖霊に満たされたザカリアの預言があります。「神を誉め称えよイスラエルの民を/ 神は民を訪れて購い/ わたしたちのために力強い救い主を与えられた」。そのザカリアの預言は世界中の聖職者が毎日朝、聖務日課で唱えている祈りです。自分たちをとおして実現していった神の業、それに対する賛美を高らかに唄っています。
  この出来事は私たちにとって何を意味しているのでしょうか。  私たちと同様にこのミサに与っている人たちは、信仰生活を熱心に、そして社会人としても、人の子の親としても、非常に模範的な生活をしていると思われます。しかし、それは自分の生活というものをしっかり計画を組み立て、忠実に信仰生活を営んでいたとしても、今、ダイナミックに働かれる神の業に対して、開かれた心の目を持ち合わせているかどうか、自分たちに問い合わせなければならないことです。時々、この単調な私たちの生活の中で、まったく予想谷しなかったことが起こり、それについて考えさせられることは良くあります。
 今日の物語は誕生の物語ですが、年老いて私たちが経験することは、両親や配偶者との死別だと思います。さらに長寿社会になっていくならば、場合によっては自分の我が子の死別も体験しなければならない。そのような出来事は避けようのないことです。ですから、何故死んだのかということを問うことは、ある意味、現実にわたしたちは直面しなければならないのです。
「何故、今なのか」ということは常に、私たちの心に湧き上がってくる疑問だと思います。しかし、そこにどういう意味を見出すのか。神がわたしに、何故今わたしにこれを体験させるのか。そして、どこに導こうとされているのか。悲しみや苦しみを受けとめながら、その中にあってもなお神が私たちの人生に介入され、常により良いように導かれていることに信頼し続けていける。何が起こっても、そこにわたしたちは、常に臨機応変に、その神の出来事をとおしてわたしたちに与えられる招きに、応えることが出来るようになっていく。そういうセンス、常に与えられる日を祈り続ける必要があると思います。

  しかし、その死滅のような悲しい出来事だけではありません。歳をとってからまったく違う生き方に召されることがあります。停年退職がそれかもしれませんが、それ以外にも様々なケースが考えられます。
 余談になりますが、昨日、ローマ法王庁は日本時間の午後7時、幸田司教様の退任を承認されました。幸田司教様は東京教区の補佐司教として永年、岡田司教のもとで仕えてきましたが、昨日をもって補佐司教の職を解かれます。司教は司祭と同じで約束で与えられたり、解任されるものではなくて、一生司教のままです。役職は解かれますが、引退司教としての生活を送ることになり、今は 南相馬のベースで復興支援活動にもっぱら取り組んでおられます。今後もそうなると思います。幸田司教様は引退ですが、最近任命された司教様方は皆、高齢ですね。それよりも、これから自分の人生をあとゆっくり、今まで与えられていた役割を果たして、あとは死ぬだけだと思っていたときに、突然、青天の霹靂のように重責を負わされることになります。
 これは、この間任命された司教様方ばかりでなく、わたしたちの人生の中にもそのような出来事は起こりうるものです。その時々にわたしたちがどう応えるのか。今まで生きてきた常識にとらわれるならば、神がなさろうとするこの非常識的なことを受け入れることは出来ない。あるいは、ただそれを傍観しようとする。受け身的な態度を取ってしまいがちですが。しかし、今日のザカリアの態度が示していることは、ザカリア自身もわたしたちと同じと思われますが、この神の強い導きによって、自分をこうして働かれる神の業を深く受けとめる恵みをいただきました。
 わたしたちも、いつどんなときにも、何があろうとも常に神はわたしたちの自立性を見守る、
そして導いてくださっている。ですから、わたしたちの予想を超えた出来事は起こっても、 そこに神様の何らかの意図がある。その人生の意味をわたしたちは見出していくように求められていると思います。わたしたちがとるべきは、人生にどういう意味があるのかと、神様に問うのではなくて、神はこの出来事をとおして、わたしたちにどういう人生の意味を見出すよう求めておられるか。それをわたしたちは、そのように求めるべきではないかと考えています。』

2018年6月17日日曜日

年間第11主日 

私たちの心の中に蒔かれた”みことば”の種は、神様が育ててくださいます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『マルコの福音によるとイエスの宣教はガリラヤから始まっています。
「時は満ち、神の国は近づいた。だから、悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、ガリラヤ湖畔に弟子たちを招き、やがて12人の弟子たちと共にガリラヤ地方を巡回して、会堂を中心に宣教する姿が聖書に描かれます。マルコの福音の第1章は既にそのようなイエスの姿が現れています。
イエスの語る話は、これまで聞いたことのない教えであり、人々は驚き、イエスのもとに集まります。そして、神の教えだけではなく病気の人を癒すことでも、イエスの業を見た人々を感動させ、神を賛美する様子を聖書は語っています。イエスの話、ことばはきっとやさしく、心の中にも響く平和なひと時をもたらしていたのではなかったでしょうか。

今日のみ言葉は、神の国を「種をまく人」のたとえで語られるイエスの姿が語られています。そして、種を蒔く人は「神のことば」を種として蒔くのだと話しています。「神のことば」を種として蒔く、それが神の国の話に深くつながっています。当時の人々も神の国に関心を持っていたのだと思います。そして現代に生きる私たちも決して神の国について無関心ではありません。
マルコだけが語るこのたとえ話では、蒔かれた種、神のことばは聞く人の心に入り、根付いて、そして成長します。
この蒔かれた種の話は、とても印象深い記述で展開しています。
蒔かれた種は、特に世話をしなくても人が寝ている間に芽を出して育っていくという表現がされています。肥料や水をやったりしないで、どうして育っていくのか、それを人は知らないと聖書ははっきり述べています。人手によらず実を結び、それはやがて豊かな収穫の時を迎える。それが神の国である。まさに神秘的な話です。私たちが手を下さなくても神の国は訪れると。
蒔かれた種、すなわちみ言葉は、いっぺんに成長するのでないとも話されています。人が気付かないうちに芽を出し、茎が伸び、葉を開き花が咲き、やがて実を結ぶというように段階的に成長していくと述べられます。
種が実り成長を遂げると、収穫の時が訪れますが、その収穫の時というのは、この世の終わりの時でもあるかのような暗示が語られています。

イエスは、今その時が近づいていると話されています。今私たちは2000年の時を経て、聖書の話として耳を傾けていますけれど、直接イエスのことばで語られるならば、どんな心境になるのでしょうか。聞いている人たちは真剣にならざるを得ないでしょう。見過ごすことのできない話として、自分自身のこととして、なおざりにはできない話だ思うのは当然のことではないでしょうか。
続いて話された「からし種」のたとえでは、小さく目に見えないような種であっても、やがて鳥が宿るような大きな枝を張り成長する。イスラエル、ユダヤの国では、3メートル程にも成長するそうです。そういう「からし種」のたとえは、神の国は一つの共同体であるかのようにして話されます。
神に支配される霊的な共同体は、世の終わりには神の支配が世に行き渡るようになる。完成に至る。このような話になっています。

神の国、私たち一人一人はどのように神の国を考えるでしょうか?
時々、神の国の話をすると、どうしても死後の世界にある「天国」というイメージで捉えることがよくあります。神の国は死後の世界、天の国ある。でもよくよく考えてみると、それは狭い偏った天国のイメージに過ぎません。何故なら、イエスがこの世に来られた使命と目的は、神の国を実現するためであるからです。また、神の国は、私たちがこの世で進歩させ、発展させ努力して造り出すこの世の平和な場所、ということでもないということです。「神の国」は、私たちが造り出す世界ではなく、神の支配がおよぶ国といってもいいかもしれません。ですから、神の世界が完成されるように、私たちは今もその努力を続けて神の国の実現のために、協力して働かなければなりません。

イエスの話に耳を傾ける人々は、ふと、神に選ばれた先祖の人たちの信仰を思い浮かべたかもしれません。過去を振り返ると神のことばを信じ約束された国に向かって旅するイスラエルの民でした。でも困難が生じると、神の教えを破って自分たちの立場を優先し、自分たちの判断に従って進もうとした時に、不平不満による分裂が広がっていきました。自分たちが中心になったり、自分の力に過信したりすると、神の国はどんどんと遠ざかっていくかのようです。
神がいつも近くにおられることを忘れてはならない。当時、耳を傾けた人たちもまた、先祖の信仰を思い起こして心にそう感じたことだと思います。イエスはこの地上に神の国をもたらすために来られたのです。そのことを私たちも今一度、心にしっかりと留めておかなければなりません。

神の国、神のみ言葉は、それを聞く人の心の中で育っていきます。神が育ててくださっています。私たちの心の中に蒔かれた種も同様です。
自分が育てるのではなくて、神が育ててくださることを信じるならば、み言葉の種まきにも、私たちは惜しみなく、協力することが出来るのではないでしょうか。神のみ言葉を種として私たちが成長するとき、神のみ言葉、その種は人々の心の中で、神が育てていきます。そのように考えるなら、私たちはもっと惜しみなく、み言葉の宣教に当たれるような気がします。自分の責任だけを強く感じてみ言葉の種まきをするならば、やがて壁にぶち当たるかもしれません。もしかすると傲慢な形で、人との関係を作っていくのかもしれません。神に信頼して種蒔きをすることが、何より大切なことのようです。

今日のみ言葉を黙想しながら、旧約聖書のイザヤ書にも同じような内容が触れられていることが思い出されます。イザヤ書55章の中に、このような記述がありました。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
このようなイザヤ書のことばがあります。「わたしが与えた使命を必ず果たす」
み言葉の種まきによって、神の国は完成に近づいていくのだ。このように旧約のみ言葉の中にありました。

神の国の完成のために共に祈りつつ、私たちは今日もまた主の祭壇に近づきたいと思います。』

2018年6月11日月曜日

年間第10主日

今日の福音をとおして、教会共同体とは何か?ということを黙想してみましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『私の目の前にも、私の母、兄弟、姉妹…こういう宣言が素直でいつでも出来れたら良いなと思います。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また、母なのだ。私たち教会共同体がこの言葉を常に胸にひめて、私たちの共同体での交わりも大切に出来たら、どんなに素晴らしいことかと考えてしまいます。

  私は今日のみ言葉を少し緊張感を持って耳を傾けています。イエスの熱心さは何かにとりつかれているように、人の目からは異常に見られていたのでしょうか。良く芸能人や人気のスターを追いかける人を「追っかけ」と呼んでいますが、イエスを追っかける人々も異常なほど大勢いたようです。食事をする暇もなかったといいますから、イエスの働きぶりはいかほどであったか、そう考えさせられます。そして、イエスの親類、身内のものが、イエスに対する律法学者たちからの非難や中傷を聞くと、心配のあまり連れ戻すために引き取りに来たと聖書のみ言葉は語っています。
  イエスは何故、皆さんから驚きの目をもって見られているのでしょうか。異常であると見られるほどの働きの理由は、いったいどんなものだったでしょうか。私たちはみ言葉の奥深く、心を込めて入っていかなければイエスの真の姿は見えてこないかもしれません。その働きの理由は汚れた霊にとりつかれた病気からの解放、癒し、救いでした。闇から光へと目を開き、サタンの支配から信仰に立ち帰させるために、イエスは救いを求める人に奇跡を行っていたようです。でもイエスのこの熱狂的とさえ言えるような働き、身を捧げる働きに、人々は尋常ではない姿を見ていたようです。救いのために身を粉にして働くイエスは彼への忠告も聞かず、そのイエスの行動を止める者はいなかったようです。そのために最後の最後、イエスの母と兄弟が説得に来たと聖書は語ります。イエスの母、イエスの兄弟、彼らの住まいはナザレでしたから、ナザレから50キロメートル。私たちは50キロメートルをどのように考えるでしょうか。50キロメートル離れたところから自分の身内であるイエスを連れ戻すためにやってくる。一人二人ではないのです。身内の者、親類の者、イエスの母もという表現がとられています。ナザレから50キロメートル離れたカテナウムという町までこぞって身内、親類はイエスを連れ戻すために、身内も親類も真剣であったということが、み言葉から受けとめられます。

 そういうみ言葉から見えてくるイエスの働く姿を黙想していると、神のために仕えられるためではなく、仕えるために、そして自分の命を与えるために奉仕しているイエスの姿は浮かびあがってきます。イエスの人々に対する憐れみの心の深さも強さも感じられます。ヨハネの福音の中でも語っていますが、イエスのこの熱心な働きの姿。ヨハネの福音では、盲人を癒したときの言葉ですが、このような表現がありました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」(ヨハネ福音9:4 )こういう言葉がありますが、イエスの働く使命というものが伺えます。イエスのこうした働きの姿は、後に弟子たちの姿にも見られます。福音のために奉仕したパウロも周囲の人々から気が狂ったと思われたと言われています。パウロもまたイエスのために身を粉にして働かれたと聖書の他の箇所で見られます。恵まれた生活、健康と体力をいただいて神に働く。尊い働きですが、今、自分に当てはめて省みずにはいられません。私は、そして私たちは恵まれた身体、生活をいただいていながらどのくらい真剣に神のために奉仕できているのでしょうか。
 一方、わざわざエルサレムからやって来たと表現されている律法学者たちは、この機会をとらえてイエスの力ある働きを見つめながらも、イエスの働きが悪霊によるものだと非難します。
イエスがとにかく気になってしょうがない律法学者、ファリサイ派の人たち。このイエスの働きに対して悪霊によってそうしている。それは神を冒涜する行為なのだ。こういう非難をし始めます。でもイエスはすぐに反論して明白に彼らに答えました。「どんな罪も赦されるが聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。」どんな罪も赦される、イエスはこう話されました。今日の第一朗読。天地創造によって神の似姿に造られた人間が、原罪という罪を犯す箇所が語られます。蛇はサタンの誘惑、悪の誘いだったと思います。でも、その罪も赦されるということをイエスは語られます。そのことを心に留めると、本当に希望が沸いてきます。私たちもたくさん過ちを犯し続けます。でも赦される。その一言は私たちに大きな希望をもたらすものだと思います。
 でも、聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。聖霊に逆らう罪、何故でしょうか。何故、聖霊に対する罪は赦されないと言われるのでしょうか。聖霊の働き、役割についてもう一度思いおこさなければなりません。聖霊は私たちに信仰を語らせます。聖霊の力は私たちを神に向かわせます。その神に向かわさせる聖霊への働きを冒涜する罪は、赦されないとイエスは警告しています。が犯す罪はすべて赦される。この言葉だけ心に留めると本当に私たちはホッとしますが、甘えてばかりはいられないでしょう。軽く考えてもいけないと思います。もっと真剣に神様に向かっていくことが何より大切だと思います。

 洗礼によって神の子となり、神の家族の一員となった私たちにとって、忘れてはならない言葉が最後にありました。「神の御心を行う人こそ私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」この言葉はまさに私たちが良く言葉に発している「教会共同体」をも指し示す、そういう言葉だと思います。家族の絆はだれにとっても大切、大事なことですが、霊的家族において、その絆は信仰において結ばれますし、内面的な関係を持っているものです。それは天において消すことの出来ない神との永遠的な関係であることを示しています。
  神の御心を行う人こそ私たちの教会共同体の一人、私たちも神の家族の一人である。これは消すことの出来ない永遠のものである。私たちはとかく好き嫌いがあって、なかなか何かうまく話せない人も周りにたくさんいると思います。神の恵みによって導きによって、神の家族の一員であることをもっともっと自覚して、互いに支え合うこと、愛し合うことも大切なものとして、行っていかなければいけないと思います。

 イエスは今日も私たちを神へ導き招きます。今日いただく恵みをからだいっぱいに頂いて、
新しい一歩を踏み出すことが出来るように祈り続けましょう。』


2018年6月3日日曜日

キリストの聖体

私たちの教会が、”キリストのからだ”に救われて、お互いに一致して共に歩んでいく共同体でありますように。

今日のミサは、佐藤謙一神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「キリストの聖体」の祭日です。季節は年間に入っておりますが、復活節の余韻を残しながら、今日の祭日を祝います。
この”聖体の祭日”というのは、皆さんご存知のように今日の祭日の他にも、キリストの聖体を制定したことを記念するお祝いがあります。それは、聖なる過ぎ越しの3日間の最初の日に当たる聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中で祝われます。
「主の晩餐の夕べのミサ」の中では、聖体の制定を祝うばかりではなく、イエスの受難、死、復活という出来事を忠実に祝おうとしています。もちろん今日のミサの中でも、同じようにイエスの受難、死、復活、昇天を記念する、ということは行います。
感謝の祭儀の中で、「信仰の神秘、主の死を思い復活をたたえよう、主が来られるまで」というように私たちは唱えます。イエスは私たちの罪を背負い死に渡され、私たちが義とされるために復活されたのだという信仰宣言です。それを私たちはミサの度にとなえます。

今日のミサでは、聖なる過ぎ越しの3日間の聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中から、改めてキリストの聖体について私たちは祝おうとしています。聖なる過ぎ越しの3日間というのは、復活徹夜祭に至るまで、洗礼、堅信、聖体、ゆるしの秘跡というものが行われます。北一条教会でも多くの人が洗礼を受けたと思います。
この3つの秘跡というのは、キリスト者になるための秘跡ということです。洗礼を受けてキリスト者となり、そしてキリストのからだを受けてキリストに結ばれ、共にキリストのからだを受ける他のキリスト者、私たちの共同体と一致するという、そのような秘跡です。

聖体の秘跡というものは、新たにキリスト者となったことを完成させる秘跡であり、洗礼や堅信を受けるだけでは完成ではありません。聖体の秘跡を受けてそれでキリスト者として完成するのだということです。特に成人の入信式は、復活徹夜祭で洗礼と堅信を受けて、聖体をいただき、その時点でキリスト者としての完成になるのです。これら3つの秘跡の違いは、洗礼と堅信は一度きりですが、聖体の秘跡は何度も受けます。それはこの世で生きている中で、私たちがいつもキリストに強められて歩んでいくことが出来るようにという意味があります。私たちはこの秘跡をいつも受けることができます。日々キリスト者としての信仰を生き続ける私たちは、この秘跡に与る恵みというものをいつも与えられているというように考えることが出来ます。
この聖体の秘跡は、私たちの権利でもありますし、同時にキリスト者としての使命を果たす義務を与える秘跡でもあるということを心に留めておいていただきたいと思います。

イエスが亡くなった後の、最初の使徒たちの共同体というものは、イエスのことばに従って、信者の家に集まって、そしてパンを割いて共に食べ、葡萄酒を杯から飲み、イエスの死を多くの人に告げ知らせるということをしていました。この聖体の秘跡というものが、この二千年後の今でも続けられているということです。
今日の福音書の終わりに、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とのイエスの言葉があります。イエスご自身は、世の終わりに神の国が完成されるときに、亡くなられた全ての人たちと共に、そして私たちと共に、再び救い主イエス・キリストの食卓につくのだということです。その時まで私たちは、ミサの度ごとにイエスの死と復活、昇天を記念し、ご聖体をいただき、イエスの再臨を待ち望むということです。

最近、私はいろいろな教会に行っているのですが、先週は北見教会に行ってまいりました。北見教会でも同じように感謝の祭儀、ミサ聖祭というものが行われています。帯広の教会にも行きましたが、各地の教会によってやはり雰囲気が違います。教区の神父様がいる教会とフランシスコ会の神父様が司牧している教会では違いが感じられます。
この北一条教会でミサをする時いつも感じることは、やはり模範となる教会であるなあという感じがします。ミサ曲の歌い方にしても朗読の仕方にしても、皆さんは全道の教会の模範になるような教会であるように思います。今後も模範となる教会となっていけばいいなと思っています。

主の晩餐を行うということ、それは私たちがミサの中で、イエス・キリストがただ一度きり行われた受難、十字架上の死、そして復活というものを、何回も毎週毎週記念しているということです。私たちがキリストのからだに救われて、そして互いに一致して、歩んでいく、そういう共同体でありたいと思います。キリストのからだを柱とした教会の中で、私たちはそれぞれ様々な役割を持ちながら互いに協力しつつ、一つづつからだを構成している共同体です。そしてイエスが死者の中から復活して栄光のからだとなったように、私たちも死者の中から復活して、主の栄光の姿にあやかるということになります。これまでに教会共同体の中で亡くなられた方々とともに、私たちもいつかキリストが来られる時に、同じ栄光のからだをもって、最終的に神の国の完成を私たちも共にするのだということです。
私たちの希望は、死が全ての終わりではないということです。死をとおして、そしてキリストと共に、神の国の完成を待ち望むのだということです。
これからいただくご聖体は、私たちの命の糧となるものです。この聖体の秘跡をとおして、私たちはキリスト者としての生き方を、死に至るまで深めていくことができるのだということを今日のミサの中で再確認していきたいと思います。
イエス・キリストの残してくださった聖体の神秘に感謝して、今日のミサを続けてまいりたいと思います。』

2018年5月28日月曜日

三位一体の主日

この日のミサは勝谷司教の主司式により行われました。


イエスは「放蕩息子のたとえ」に出てくる父親の姿が神の本質的な姿であることを示されています。

この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。


『数年前、「いつくしみの聖年」に教皇フランシスコは勅書を出しました。その中で繰り返し言っておられたのは、「神のいつくしみ」です。その姿勢は今も変わらず、ことある毎に同様のメッセージを発信なさっています。しかし、それがカトリック教会の保守的な人たちの反感を買い、いろいろな論争を巻き起こしています。つい先日も、幼少時に性的虐待を受けた人をバチカンに招き、数日間を共にし、教皇様は彼らに対し謝罪と慰めを与えておられました。その中のある一人の男性が自分はLGBT(性的少数者を限定的に指す言葉)であると、同性愛的傾向があると教皇様に言ったところ、教皇様は「神様があなたをそのようにおつくりになったのです。そのありのままのあなたを神様は愛しておられるので、あなたもその自分自身を受け入れ愛しなさい。」とおっしゃいました。それが報道されるやいなや早速論争が沸き起こっているのですが、教皇様はけっして神学論争を仕掛けているのではなくて、こういうような既存の掟やモラリズムというものを先に立てて、それに対して人は(槍を?)打つ。そういう律法主義的な考え方、物の見方を批判しているのです。むしろ、その局地のはざまに陥ってもがき苦しんでいる人間、すべてのどんな人でも、そのような人たちをも神様は愛しておられると。そのような愛のメッセージを伝えようとされておられるのだと思います。

 これはいつの時代もその間の中で私たちはいれるのですが、例えば今日の第二朗読でパウロはこういうふうに言ってます「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」(ローマ8:15)「人を奴隷として恐れに陥れる霊」とは何でしょうか。これも先日、ある研修会に出席したのですが、その時に議論されました。その時に、こういうことを確信をもって強く主張する人がいました。ある意味、正しいです。「人は天国に入ることを目的としてつくられた。私たちの生きる目的は天国に入ることだ。」ちょっと異論はありますが、確かにそのとおりです。天国は死んだ人が行くところか。私はそうとも思わないのですが、それに続く言葉があります。何を言ったかというと、「私たちはこの世において天国に行くために善行を積まなければならない。」と。天に宝を積まなければならないという昔の考えです。 そして、この世で正しく生きることによって天国の門が開かれ、私たちは天国に入れてもらえる。強く確信をもって主張しておられました。それに対して反論して論争になってしまいました。結局、この世において良いことをし徳を積んで、そのご褒美として天国に入れてもらえる。これはパウロの言う奴隷の信仰です。奴隷は主人から命令されたことを忠実に果たすことによって褒められる。しかし、「神の子とする霊を受けた。」このパウロの続きの言葉。「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)神を父よ、お父さんと呼ぶのです。これは奴隷ではない。神の国の相続人です。あの放蕩息子のたとえ話、あの弟が受けたいつくしみと恵みの世界です。それを理解出来ないまま、掟を忠実に守ることによって父からのご褒美をもらおうとしていた兄の態度です。どちらも間違っていると言う意味ではなくて、より相応しく、神の愛やいつくしみの注ぎの中で、愛されている実感に溢れて、回心に導かれていく。それによって神の愛の懐の広さ、豊かさ、大きさを体験するものと、言われたとおりにしないとバチが当たる。へたすると地獄に落とされるかもしれない。考えていたこととはまったく対称にあるのです。私たちは神の子とされる霊を受けている。すなわち無条件に愛され、無条件に神の国を継ぐ者としてすでに受け入れられています。この愛されている実感によって、ふかまりによって、私たちは完全な自分を発見し、より愛に相応しいものとしてなるように自分を変え、正しい生き方をすることが出来るのです。すなわち正しい生き方とか、昔の身に着ける徳目として、愛、誠実、柔和、寛容…とありますが、私たちがそれらの資質を身に着けたら天国に入れるというものではなくて、逆です!私たちが愛されている者という、恵みの世界に生きた時に初めて、結果として私たちはそのような正しい生き方が出来るように変えられていくのです。

 今日は三位一体の主日ですが、三位一体の意味するところは難しい。論理的な解釈はそもそも無理である。だから奥義なのですね。人間の理性では理解しきれないから奥義なのです。 理性で理屈をつけて理解しようとすると、やはり無理があります。大切なことはその三位一体という教義は何を意味しているのか。これの意味していることは、神は孤独な神ではなく、すなわちたった一人でこの国に存在しているのでこの世を創造し、人間に仕えてもらわなくてはならい、そういう神ではありません。むしろ、神ご自身のなかにすでに完全な愛が完成している。愛は一人ではけっして交わりは出来ない、一人では決してありえない。神の中にこの三位の交わりがある。そして、完全な愛の世界がそこにある。孤独な神ではなくて「愛の充満」なわけです。ですから神は愛であると私たちは信じているわけです。その神の愛の一致、三位の神の愛に私たちを与らせてくださるものとして私たちは存在しているのです。私たちは最初から神の愛に包まれて、神の愛に(学んだ?)思想の中で生まれ導かれている。

 この世に地獄があるのかという論争が今でもなされます。私の友人の晴佐久神父は、地獄はないと言ってます。ネットで叩かれていますが。言っていることの真意を神学的に考えると、今までの教えと違うぞとなるのです。真意を私たちが受けとめようとすると、私もどちらかというと、そちらの立場になります。神が愛であるならば、家庭でとらえると良いと思います。家族がどんなに悪いことをしようが、それをもって家族でないと切り捨てることはあり得ないですね。ましてや親であるならば、どんな過ちを子供が犯したとしても、それによって切り捨てることはあり得ません。神も同じように、人がどのような過ちを犯しても、地獄に落とすというのは、愛である(当世?)からあり得ないと私もそれを感じています。 
  では地獄はないのか。そうではないと思います。私たちには自由な意思があります。どんな人間も自分を深く愛してくれる両親に対して、その愛を否定して家を出て行く自由があるのです。どんなに神様が私たちに愛を向けておられても、その愛を完全な意味で拒否し否定することが出来る人間がいるならば、確かにそれが地獄の状態なのです。あらゆる愛の交わりを自分の意思で完全に断ち切ってしまう。そのようなことが出来る人間がいるかどうかは別として、そのような人は地獄の状態にある。これは死んだ後の世界ではなくて、生きている今の段階で、もしそのような生き方をしているならば、その人は地獄の状態にあるといえるわけです。であるならば逆も同じですね。私たちが生きている今、この神の愛を実感し、どんな過ちや愚かさを持っていても  豊かな赦しといつくしみに包まれていると実感している人は、今救われている。そして、先ほど言いましたように、救われた状態、天国にいるわけです。

  そして最初言ったように、私たちはこの愛の交わりの世界に入るように招かれています。愛は一人で達成することが出来ないものです。私たちは孤独な聖人になるように召されているのではなくて、おろかな過ちを犯すような人間だったとしても、互いにそれを受け入れ合い赦し合う、愛の交わりの中で生きるときそれが天国の状態です。その互いの愛の交わりの中で、人間はその恵みによってより良い自分になり、愛するもののために自分を変えていくことが出来る存在になるのです。けっして恐れ、罰を免れるために正しく生きるのではなくて、むしろ恵みに生かされて私たちは変わっていこうとしているわけです。
 このことを教皇様が繰り返し繰り返し言っておられることだと私は思っています。あの放蕩息子の父親の姿、あれが神の本質的な姿だとイエス様はおっしゃっています。どうしてそれを一生懸命、理屈をもって間違っていると言うのか。しかし残念なことに、長いこと教会はそのようなかたちで教会に来るお互いを、裁きや批判の目で見ることが多いわけです。
 まず私たちは、自分に対して神がそれほどまでの憐れみと赦しといつくしみの眼差しを注いでくださっていることを実感するならば、教会も共同体も同じように愛の共同体になるように招かれています。どんなに過ちや愚かさを出す人であったとしても、私たちはそこにまずいつくしみを教会の中に実現することによって、お互いに変わっていくように、変えられていくように招かれていることを、忘れないでいただきたいと思います。』

2018年5月20日日曜日

聖霊降臨の主日

聖霊のはたらきによって、私たちがイエスの教えられる愛の業を実践していくことができますように


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖霊降臨の祭日を迎えている私たちです。
聖霊を言葉で説明することは難しいと誰もが思います。私も求道者に対する公教要理の説明ではいつも苦労します。
聖霊は三位一体の格(ペルソナ)の一つという言い方がされますが、ペルソナという言葉の説明もまた難しいことです。私たちは聖霊の賜物を今日いただく、という聖霊降臨の記念日を迎えて、改めて聖霊に対する理解を深めることが大切だと思います。
聖霊は旧約聖書の記述の中にも見られ、神の息吹や風で示されました。聖霊は神の霊、聖なる霊として、神の働きについて漠然とした表現で聖書に表されています。しかし、よく見ていくと、人間に対する神の働きかけを意味するということが理解できます。その聖霊を受けると、どのようになるのだろうか?人間を神に向かわせる働きを持っているのが聖霊ではないだろうか、ということが旧約聖書をとおして考えられてきたことです。

新約では主の霊、キリストの霊ともいわれ、神の霊は、父と子から切り離すことのできない交わりから溢れる愛である、と説明されることがあります。三位一体のペルソナでもあるのです。愛という言葉で聖霊を置き換えてみると、聖霊の働きが非常に理解しやすくなります。
一つの例として、「聖書と典礼」の中には3つの公式祈願がありますが、最初の一つである集会祈願には、結びの言葉として必ず「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」という祈りの言葉が使われます。一方、拝領祈願と奉納祈願では「わたしたちの主イエス・キリストによって。」という言葉だけで結びになっています。
この「聖霊」という言葉を、「愛」に置き換えてみましょう。「愛の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」
第2朗読についても「愛」に置き換えてみると、「愛」が結ぶ実として「喜び、平和、寛容、親切、・・・」というように、理解が深まり難しい霊の壁が消えてしまうようです。

今日の祭日「聖霊降臨」はラテン語で「ペンテコステ」と言いますが、イエス・キリストの復活から50日が経って、この出来事が起こったというのが聖書の記述です。
弟子たちが祈っていたときに、聖霊が弟子たちに降ってきました。祈りといつも一緒になって聖霊の働きが現れるようです。
この時、聖霊によって強められた弟子たちは、死と復活という出来事を思い起こすことになります。それもまた、聖霊の働きによって、過去の出来事が思い起こされて自分たちの心に蘇って、神秘を深く理解する恵みが与えられました。
「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」というように、聖霊は弟子たち一人一人をキリストの証し人として宣教に旅立たせます。
今日のヨハネの福音で、私が一番心に響くイエスの言葉は、「言っておきたいことは、まだ、たくさんある」というイエスの思い、そこに私は非常に心が留まります。これまでイエスが弟子たちに様々な「神の国」ことを話してきましたが、いくら話しても切りが無い程のイエスの思いが溢れてくる言葉です。
「全てを言い尽くすことは出来ない、時がもう満ちて私は父の元に帰らなければならない」そのような中で、イエスは聖霊をおくってくださるということを約束します。聖霊はイエスの思いを全てもたらすものであり、力を持っている愛の霊です。そして、その聖霊の働きによって、あなた方は信仰を生き抜くようにと、イエスは話されているように思います。弟子たちは、愛の聖霊の力によって、証し人となり、教会を築いていくことになります。

わたしたち一人一人も、聖霊の働きをいただいて、教会をつくっていかなければなりません。弟子たちのように私たちも使命をもって、召されているということを心に留めておきたいと思います。
聖霊の働きについては、第2朗読で様々な表現がされています。そしてコリント書には、「聖霊を受けることを切望することが大切です。聖霊によらなければ誰もイエスを主である、とは言えない」と記されているとおり、私たちは聖霊に祈ることも大切にしなければならないと思います。
「求めるなら、まことの大きな恵みの体験を与える」と神様は約束し、聖書にもそのことがはっきりと示されています。
聖霊降臨を迎えて、私たちはもう一度、聖霊の働きを確認しましょう。「父と子と聖霊の御名によって」と私たちは祈りを結んでいます。この聖霊の働きをさらに私たちは深くいただきながら、神の信頼をもって今日のミサを捧げていきたいと思います。

最後に、パウロ6世の「聖霊に向かう祈り」をご紹介します。

「聖霊よ、広く、堅固で、忍耐強い心をお与えください。
犠牲をいとわず、キリストの聖心にあわせて鼓動し、
神のみ旨を謙虚に、忠実に、勇敢に果たすことのみを喜びとする
そういう心をお授けください。」


2018年5月15日火曜日

主の昇天

今日は主の昇天の日。イエスの復活から40日。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と、イエスは天に昇るに先立って弟子たちに話されました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖母月の5月、毎年、札幌教区ではある行事を行っていますが、昨日はその日でした。皆さんはどんな行事があったか分かりますか?3週間ほど前にも、カトリック新聞で大きくとりあげていたのですが、「召命の集い」という行事です。掲示板にもポスターが貼ってあったのですが。私たちはどうでしょうか。神父さんが少なくなった、若い人が少なくなったと誰もが口にしているけれど、その召命の集いの行事に心を合わせて祈ろうとした人は、どのくらいいるのでしょうか。召し出しのために、司祭の召命のために、青年たちのために、心を本当にこめて祈った人はどれくらい札幌教区にいたでしょうか。
 昨日、召命の集いが終わってから、そんなことも考えながら帰ってきました。カトリック新聞にも珍しく大きく取り上げられたので、養成担当の司祭ももしかすると、教区を越えて一人か二人か申し込みがあるかもと、期待もしていたのです。でも、新しくこれまで申込みした人はおらず、今まで出た方が続けて参加するだけの召命の集いでした。東京の知り合いのシスターもそのことを知って、その日、召し出しのために祈ってますよと電話がありました。
 それが現実なのですが、昨日、北26条教会が会場だったのですが、道すがらチューリップやレンギョの鮮やかな黄色い花が咲いていました。その花を眺めながら、イエスが復活して弟子たちと会っていたガリラヤの自然も、そんな季節になっているのだろうか。ガリラヤに巡礼に行った時のことも思い出しながら、昨日は一日を過ごしました。
 召し出しについて私たちは、ただ司祭が少ない、司祭が高齢化して大変だということだけでなく、人々の召し出しに繋がる青年が誕生するように、もっともっと真剣にならなければと思います。そのためには小学生くらいの子供から、みんなで教会で育て上げる意識を強くしなければ召し出しの実りには至らないと考えます。終わってからの話になりましたが、皆さん、これからも召し出しのためにたくさんのお祈りを、真剣な祈りをしていただきたいと願っています。

 さて、今日は主の昇天の日。イエスの復活から40日。弟子たちにイエスは神の国について語られていました。イエスの宣教活動は終わりに近づいたとき、今日の聖書の言葉にもありました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と。天に昇るに先立って、イエスは弟子たちに話し、その使命を再確認させています。主の昇天には、典礼のA年・B年・C年と、3年毎に福音書は変わるということは、皆さんご存知のことです。3年ともそれぞれの福音書の結びが朗読されています。今日はマルコの福音でそのことが語られています。どの福音にも共通することは、全世界に向かっての福音宣教のことだと思います。

 そこで、私は皆さんに一度話したことがあると思いますが、福音宣教と私の召命についてお話しをしてみます。福音宣教は教会が良く強調して語っていることです。一人ひとりにも福音宣教の使命があるということは、誰もがちょっとこころ苦しいけれども、聞いていると思います。一人ひとりがその役割を担って、もっと目覚めなければいけない、そんなことも教会は主張していると思います。
  私にとっての福音宣教、そして自分の召命。今振り返っているところですが、それは初めて出会った一人の司祭の信仰が、私自身の召命にも繋がっていたと思い出すことです。私は函館地区の小さな教会、江差教会で教会と出会い、信仰に導かれました。そういう小さな教会で一人の司祭と出会い、信者さんに大切にされたイメージですが、小さな共同体ですが、みんなが一人の青年が教会に入ってきたというだけで、驚きを与えたようですが。その一人の青年をみんな大切にしてくれた、そのような経緯がありました。
 その中で、初めて出会った外国の神父様。パリ・ミッション会の一人の神父様でした。函館地区はパリ外国宣教会(パリ・ミッション会)の地区となっていました。それは今から50年前になります。私がちょうど二十歳になった年の出来事でした。私がちょうど土曜日の晴れた日、4月の20日。今でもはっきりと記憶に残っています。仕事が半ドンで昼に終わりました。いつものように独身寮に向かっていた時のことでした。教会の看板が道端に出ていました。「教会にいつでもいらしてください」と看板に書かれていて、それに惹かれて教会に足を運んだ。それが一つのきっかけです。迎えてくれたのが外人の神父様でしたので、またそこでびっくりしました。私が、生涯初めて外人と言葉を交わしたのは、そのときが最初だと思います。身近に接したのもそのときが初めてだと思います。今は、どんなところでも外国の方と接する機会はありますが、当時は外国人を遠くから眺めるようなことが多かったと思います。

 そういうかたちで教会に足を踏み入れ、一人の神父様によりキリストに出会うことになりました。自分の信仰を宣言する、受け入れるまで私は随分時間がかかりました。信仰を少しずつ深める中で、召命を少しずつ考えるようになっていきました。函館地区で働くパリ・ミッション会の神父様方の一人ひとりの姿が、私の召し出しに小さな影響を与えていた期間かもしれません。私は求道者として3年間、教会に通っていましたから、教会の行事や函館地区の大きな教会の行事にも参加をしていましたので、その度に外国の神父様方に触れるようになっていました。
 でも、その召命がはっきりするまでは、私の中ではぼやけた感じで神父様の姿や信仰を見ていました。どうして外国の人が自分の国や家族からも離れて日本人のために、まして私が住んでいた小さな町、江差町まで人生を捧げ働くのだろうか。私にはなかなか理解出来ないことでした。でも一人の司祭の生き方、それがキリストの愛に応えるひとつの生き方であることは、神父様と接しながら少しずつ感じられるようになりました。それでも召命に応えるためには、さらに多くの時間が私には必要だったようです。その頃は、ベトナム戦争の時代でしたが、パリ・ミッションの神父様方がベトナムで働いていたようで、休暇で神父様と知り合いだからと、江差に来られていたことがありました。私たち小さな教会の信者は、知らない神父様が来られたということで、お話しを楽しみにしていました。ベトナム戦争のさなかのお話しも聞きました。キリストを知らない人々がいる国に、パリ・ミッション会の宣教師が出かけて行く、そのことが自分たちの使命なのだ。そういうことも聞く度に、考えさせられる機会でもありました。ですから私が、私のようなものでも神父になれるのでしょうかと、恥ずかしげに神父様に尋ねたときに、私たちが働こうとしている地(国)に新しく司祭が誕生することを夢見て、私たちは宣教地に向かうのだ。それが宣教師だと教えてくれました。私は、そのころ神父は外人と思い込んでいましたから、パリ・ミッション会の仲間に加わることが、司祭になる道だと思っていました。あなたは教区の司祭になるべきですと聞かされました。教区と宣教会の違いなどもそのときに説明されるようになりました。こういう経緯で私の召命は一人の神父様をとおして、また様々なかたちで出会った神父様方をとおして、召し出しの芽が深まっていったのだと思っています。
 また、パリ・ミッション会のかなり年輩の神父様のお話も、私の記憶の中にはいつも留まっています。その神父様は今は亡くなっていますが、八雲で最期働いておられたジェイエ神父様です。ジェイエ神父様もパリ・ミッション会の神父様で、最初は中国で宣教活動していたそうです。中国は司祭を追放した国で、そのときに中国に留まって、宣教活動をした司祭は皆、捕らえられ牢獄に入ったそうです。牢獄では拷問も受けたとその神父様から聞きました。拷問で苦痛だったのは爪をせめられることだったそうです。私たちは想像でしか考えられませんが、厳しい、辛い、痛みが身体全体にはいるのだと思います。そんな話しも聞きました。でも、パリ・ミッション会で中国で働いていた神父様は後に解放されますが、その時に自分の国に帰るのではなくて、ある人は日本に来て働いたとその時に聞きました。宣教師の熱心な姿、宣教師魂と良く言いますが、函館で働いていた後輩の神父様方にも受け継がれていたのだと思いま

  何故、自分の国を離れて、命をかけて宣教が出来るのか、私の素朴な疑問は次第にキリストに生きる喜びを知った人は、どんな苦しみにも耐えられるのだ。そういう宣教師の活動をとおして少しは感じられるようになりました。福音宣教の使命や情熱、信仰の喜びと深く結びついているのではないでしょうか。
  イエスは自ら語り、自ら手をのばし、そして人々の心を照らし、慰め、癒しを与えたその働きは今、弟子たちが背負うことになりました。また、今日はその弟子たちの働きを、私たち一人ひとりがまた担うことになっています。聖霊が弟子たちの心の中にに注がれたように、私たちにもまたその聖霊は注がれています。聖霊が弟子たちの心を力づけ、導いていくことにより、人々は神を知り、信仰の喜びを知る機会をもたらされました。
 今、主の昇天を記念する私たちですが、弟子たちの目からもイエスのその姿は消えてしまいます。でも弟子たちの働きの中に、現存するイエス・キリストがいつもともにいてくださる方です。今日の福音の最後にもあるように、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることをはっきりとお示しになった。」と記しています。私たち一人ひとりにも託された使命、それがひとつ宣教の使命であることです。
 先日、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)というみ言葉を、日曜日に聴いています。選ばれた、そして任命されたという言葉で、宣教するという使命を与えられていることを考えた人は、とても重い使命を与えられたということで、身動きが出来ないという思いになったという話しを聞いたことがあります。私たちは任命された、選ばれたということを、神の子供として選ばれたと考えたらどうでしょうかと、お話しをしました。神の子とされたのは、本当に神の愛をいただいたことでもあるし、愛を生きなさいということが任命でもあり、選ばれたということで考えたらどうでしょうかとお話ししました。私たちが互いに愛し合いなさいと言うイエスの言葉をいただいていますが、その愛を生きることが福音宣教に繋がるとなるような気がしますよとお話ししました。
 皆さんは福音宣教という言葉だけにとらわれてしまうと、本当に重い使命を与えられたようで、とても出来ませんという言葉になってくると思います。私たちが神から愛され神の子とされた。その愛を私たちの家族の中で、私たちの隣人の間で生きるということが、福音宣教にまず繋がっていくということも確かにあるということを、私たちは心に留めて主を仰ぎ見る信仰から本当に目覚めていきたいと思います。

  来週は聖霊降臨の祝日を迎え、復活節が終わります。弟子たち、使徒たちが約束の聖霊を待つように、私たちも共にこの1週間を特に大切にして日々を過ごしたいと思います。そして、私たちのタレントを活かしながら、福音を告げ知らせる使命をもっともっと深く祈っていきたいと思います。』