2020年4月7日火曜日

主任司祭からのメッセージ

兄弟姉妹の皆様へ

  今年は、聖週間と復活の主日、その後の主日も、教会としてすべての人に開かれた典礼が行われないという今までにない事態を迎えています。しかし、一人ひとりが主の受難と復活を思いながらこの時期を過ごすことはできます。
まず、聖なる三日間の福音を読み、主の受難を黙想しましょう。聖木曜日は、『ヨハネ福音書』13章1節から15節まで、聖金曜日は、『ヨハネ福音書』18章1節から19章42節まで、聖土曜日は、『マタイ福音書』20章1節から10節まで、そして復活の日曜日は『ヨハネ福音書』20章1節から9節までです。
一度読み、味わい、もし話し合える人がいたら、感じたことを分かち合いましょう。そして、主の復活の主日を迎えましょう。もし出来たら、手紙か電話かメールか、親しい人の輪を一つ広げて、復活の喜びを分かち合いましょう。ミサの中で交わしている平和の挨拶のあの言葉、「主の平和」と呼びかけてみましょう。直に一緒に集うことはできませんが、復活されるキリストの兄弟姉妹としての絆を確かめられるでしょう。勇気をもって、「主の平和」そう呼び掛けてみましょう。
  
三教会共同主任司祭 湯澤民夫

2020年3月27日金曜日

札幌教区からの重要なお知らせ

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、聖週間(4/5~4/12)の典礼は、司祭のみで行われることになりました(信徒は参加できません)。

To prevent the transmission of the new coronavirus, the liturgy of Holy Week (April 5-April 12) will be held only by priests (believers cannot participate)

教区通知文書

2020年3月14日土曜日

聖週間のミサ・祭儀スケジュール

聖週間のミサ・祭儀の予定です。

2020年4/5(日)~4/12(日) 日本語・英語合同ミサ(司式:勝谷司教、レイ司祭)

April 5 -12, 2020, Holy Week Mass Schedule(Joint Mass in Japanese and English:bishop Katsuya, Priest Rei)

4/5(日) 枝の主日 10:30 (夜18:00)
4/7(火) 聖香油ミサ 11:00
4/9(木) 聖木曜日 18:30
4/10(金) 聖金曜日 18:30
4/11(土) 聖土曜日 18:30
4/12(日) 復活の主日 10:30 (夜18:00)

4/5(Sun), 10:30, Palm Sunday (18:00)
4/7(Tue), 11:00, Mass of holy balm
4/9(Thu), 18:30, Maundy/ Holy Thursday
4/10(Fri), 18:30, Good Friday
4/11(Sat), 18:30, Holy Saturday
4/12(Sun), 10:30, Easter Sunday (18:00)

2020年3月11日水曜日

主任司祭からのメッセージ「四旬節に向けて」

+ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様、コロナ・ウィルスによる臨時的な措置として、3月14日まで、公開のミサが中止されましたが、この期間が今回、更に延長されました。四旬節に入り、私たちは一度も教会に集うことができないという異例の事態を迎えています。
四旬節は、もともと洗礼志願者と共に過ごす時期でもありますが、同時に回心を呼び掛ける神様の呼び掛けに応えるときでもあります。40日間荒れ野で試みを受けられたイエス様に倣うことも必要ですが、同時に、皆様の生活している場で福音に生きること、特に愛の業に生きることも求められています。コロナ・ウィルス騒動によって一番被害を受けているのは、弱い人、貧しい人、病気の人たち、更に高齢者や幼児を抱えて働いている人たちです。皆様の身近にこうした人たちがたくさんいます。こうした置き去りにされていく人たちに対して、目を注ぎ、祈り、また何かできる範囲ですることは、この四旬節を過ごす上で大切なことです。
四旬節が明けたとき、私たちが再び一つの祭壇を囲めることを、喜びと感謝をもって与ることができるように、この試練の時を信仰の糧として過ごしましょう。
2020年3月11日
札幌北三教会 共同主任司祭
 湯沢民夫

【緊急告知】新型コロナウイルス感染に伴うミサ中止期間の延長について

新型コロナウイルス感染に伴うミサ中止期間の延長について
[Emergency Notification] About Mass Cancellation Due to New Coronavirus Infection

札幌教区では、4月4日(土)までの間、ミサを中止します。
In Sapporo parish, mass will be canceled until Saturday, April 4.

教区通知文書(Parish Notice Document)
JapaneseEnglishKoreanTiếng việt

2020年2月24日月曜日

年間第7主日

”赦す”ということは、なんと難しいことでしょうか。
赦すことの出来ない弱さを抱え苦しんでいる人をも神は慈しんでくださる、
そのような内容のお説教でした。

この日の主日ミサは、勝谷司教と語学研修で来日中の張 雲喆神父(チャン・ウンチュル師、韓国・大邱大司教区)の共同司式により行われました。


勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音書、いろいろポイントはありますが、やはり「隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という言葉が私たちに突き刺さってきます。
 実は先週、司教総会がありました。その中で話題になったことが二つありました。それはまさに愛するということです。人に強要することは出来ない。特に自分が相手にひどい損害を与えたとき。特に人格的な取り返しのつかない傷を与えたときに、赦してくださいということの難しさです。
 二つのことというのはこのハンセン病患者への謝罪が不十分だという指摘を受け、もう一度謝罪しなおすか、いやむしろそれよりも、実際私たちが真剣に謝罪の意向を示すために今後の取り組みの、あるいは今後の啓蒙活動を続けて、実際の活動をとおして理解してもらえることのほうが必要でないか。結局、言葉だけであとは何も変わらないほうが悪いのではないか。実際、今後の取り組みを含めて検討したのがひとつです。その背景には、ここでは説明出来ませんが、難しい問題をたくさん抱えています。気遣いない多くの問題を抱えています。

 もう一つは、未成年に対する性的虐待の問題です。これに対しても私たちはただただ謝罪するだけです。その反面見えて来たもう一つの大きな課題は、教会で被害に受けた人たちはほとんどが信者です。信者ですから当然その信仰から、まさに今日の敵を愛することは赦すことの同義語になることです。何とか赦したいと努力して、それも何年も何十年もその苦しみを抱えながら、赦すことの出来ない。いや本人は赦すと言ったとしても心はそうなっていない。多くの場合はフラッシュバックしたときの思い。どうしようもない憎しみがあるいは相手に対する嫌悪感、そういうものは理屈では拭い去ることは出来ないのです。いくらあなたを赦しますと言ったとしても、心と身体がそれを拒否しているのです。ですからそういう人たちに対して、加害者を赦してくださいということはとうてい言えない、難しいことです。この未成年に対する虐待の専門家、クリスチャンの専門家を呼んで話しを聞いたのですが、教会の中で行われることは悪気のない隠蔽工作です。その多くの場合は何十年も前に起こっていることです。あるいは何年も経って子供の時は、何が起こっているのか分からない。それが、大人になって自分が何をされたのか、そのとき自分が感じていたことがフラッシュバックされてくるのです。それを誰にも相談出来ずに教会の誰かに打ち明ける時に、「昔のことだから相手のことを赦しましょう。」「あなたのために一緒に祈りましょう。」「祈りが解決してくれます。」そのような言葉ほど残酷にその人を、二次被害といいますけれど、傷つけることがあるのです。安易にあなたのために祈りましょうとか、ましてや相手を赦すことがクリスチャンの務めですよと言うならば、苦しみの中に追い込むのです。

 赦したい、しかし赦せないから苦しむのです。赦さなければならないという思いを抱きながら、赦しなさいと言われると、赦すことの出来ない自分は神の教えに反している。そういう自分を神は受け入れてくれない。更に深い失意と絶望な中に追い込んでしまうことになるのです。私たちはそれに気づかず、安易にそのようなことを言いますが、赦そうとしても赦せない、その人の苦しみに対して安易に教会の掟や奨めを持ち出して、それで簡単に解決しようとする、そういう傾向はとても危険なのです。むしろ私たちは、その赦すことの出来ない、苦しんでいるその人に寄り添って、そういう態度が必要なわけです。

 では神様は私たちにいったいどのようなまなざしを向けてくださっているのか。今日の福音書は、敵を愛せよ…これは掟ではない。守らなかったら地獄に落ちるとか、そういうことを指摘されているわけではない。むしろ招きなさい。何故ならば神がそのような方だからで、ある意味での解説になります。神は善人も悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。これは悪人に対してという意味もありますが、また今言ったように、敵を愛せよ、愛することの出来ない弱さ。それを抱え込む私たちに対しても、神はそういう私たちを愛し、受け入れてくださっている。この神の広い慈しみの世界に接したときに、初めて私たちは赦すことが出来る存在になるかもしれません。

 でもそれは、赦すことが神から愛される条件ではありません。人を赦すことが出来るように苦しんでいる私たちを神は、その私をこそ愛してくださっていることに気づくことが大切です。そして、私たちは人と接するときと同じように、教会の掟や奨めに人を当てはめようとするのではなく、むしろそれを出来ずにいる人たちのために、寄り添っていく。そして、そこに働かれる神の恵みが私たちに本当に感じることが出来るように。それをとおして初めて、その恵みの中で私たちは神が完全であられるように完全な者として、変えさせられる。しかし、徐々に徐々に。 
 それを信頼しながら私たちは互いに、そういう人たちを含めて、共同体として関わりを見直していく必要があると思っています。』

2020年2月10日月曜日

年間第5主日

この日の福音は、山上の説教の「八つの幸い」に続く箇所が朗読されました。

この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の福音は、マタイの福音書にある5つの説教集のうちの最初の説教集の最初のところです。「幸いなる人」と「地の塩、世の光」が最初にくるお話です。この(聖書と典礼)脚注を読んでいて、不思議に思った説明があって、そうかなと思うのですが、イエスの弟子となった人は皆、無学な漁師である。ここに集まった群衆は、いろいろな病気や苦しみに悩む者と書いてありますが、そうなのかなと思います。
 確かに最初の弟子の召命は4人。漁師ですが、漁師ばっかりが弟子なのか、みんなが漁師だった 。それと無学というのもちょっと変だなと思います。漁師の子が無学なら、大工の子イエスだって無学ですよ。大工だけが知識があって、漁師は致死がないとは差別です。そしてイエスの回りに集まったのは病人だけで、悩みにある人たちだけだったのか。もしそういう人ばっかりだったら、罪人や徴税人を何故仲間に入れるんだと言っていた人たちは、自分たちを差しおいて同じになるということになりますからね。イエスの回りに集まったのは普通の人たちだったのですね。 その中に変な人たちが入っているのは嫌だ。それでなんであの人たちを仲間に入れるんだと、そういうふうにとらえた方がごく自然。
そういうふうにとらえて見ると、人は無学ではないと思うのです。

 何をもって無学というのか。学問がなかったのです。たしかにそうかもしれない。20世紀のなかぐらいまで義務教育は無いわけで、ヨーロッパはそうです。そういう人たちを無学と言ってしまうと、すべての人が無学になってしま。だから普通の人ですし、また 聖書を読んでみると、大工だったイエスが集会に来て指名されて聖書を読まされて、聖書について話しをするわけです。イエスだけが特別だったわけでなくて、そういうシナゴークに来て礼拝する人たちは、指されるかどうか。神父みたい人が指すわけですから、みんなが読めないといけないし、たいてい読んだところは説明することが常識ですから、礼拝に来る人は聖書をある程度読めたし、聖書について感じたことを語れるのです。それを無学と言うのは何をもって言うのか、分からなくなってしまいます。無学というと文盲みたいな表現で誤解をよぶ表現かなと思います。

 何故こんなことを言うかというと、山上の垂訓の最初のところで、イエスは回りに集まった人たちを前にして、山に上に登って座って話し始めます。そして、その人たちに向かって、幸いな人たちと呼びかけるのです。あなたたちの中には漁師の人もいるでしょう、苦しんでいる人もいるでしょう。でも幸いな人たちと言うのです。同じようにあなた方は地の塩であり光である。全体の意味がとらえられないと、この後厳しい話しが始まるわけだから、マタイはまずみんなを盛り上げ、おだてあげるのです。イエス様の褒め言葉を差し置いて、厳しい律法の話しを聞かせるわけです。だから回りに集まって来た人たちも普通の人たちだったのです。
 どうも聖書の説明は誤解を生みそうな感じがするのです。何でそういう人たちが幸いで、塩味がして輝くのか。そこが問題です。輝きなさい、塩味を持ちなさい。そういうことをしないと幸いでありませんよとか、そういう教えではありませんよ。もう、ここに集まって来ている人たちに向かって、あながたは幸ですよ、塩味があるし輝いていると言ったわけです。何故輝いていたかということです。この福音書を読む人たちも聞く人たちも、  マタイがこう書いたのは 聞く人たちが同じように幸いな人たちですし、塩味があり輝いている。奨めの言葉ではない。呼びかけです。では、何が輝かない人たちとキリストの弟子たちとの違いがあるかというと、ずっと後の方にも出てくるのですが、マタイは少しアレンジしていますが、マルコの方がもっと生々しく。イエスの評判がナザレに伝わった時に、家族が人をやらなければ何かおかしいと、急いでやって来るわけです。そして、あなたの家族が来ています。お母さんも来ているし、親戚も来ている。そのときに私の身内とは誰かというわけです。そこで、自分を取り巻いている人たちにも向かって、この人たちが身内だと言うわけですね。そこでは身内がどうということでなくて、古い民族と新しい民族、新約の民と古い民の違いを語るわけです。天の御父の意思を知って行おうとする人が、自分たちの仲間だと。そこには身分とかは全然なくて神の意思を知って行う、それが新しい民族のアイデンティティなんだと。ですから、そうやって生きていれば、どういう状況にあっても幸いな人たちだし、塩味はしているし輝いている。どうも雀のことのように理解して、あなた方は輝いていない、塩味がしないからそうでなければならないというようみたいにとらえるかもしれないが、そうではない。キリストの弟子たちはみんな、そういう意味ではみんな輝いているのです。 
 だから、そのことを自覚すると自己疲弊してそうではないと否定する必要はない。もしキリスト者であれば塩味がしているはずだし、輝いているはず。ですから無理して隠すなと言うわけです。輝いているのに升の下に置く人はいないし、せっかく光が灯されているのに升を被せて消してしまう人はいないでしょう。敢えて消す人はいないでしょう。それから寝台の下に光が見えないように隠して見えないようにする人はいないでしょう。光が輝いていると言うことは、部屋を照らすために高いところに置くのです。元々輝いているのです

  往々にして道徳的にとらえると、そこまで未熟だからと考えて自己卑下してしまうかもしれないが、そうではなくて、我々のアイデンティティはここにあるということ。我々はこの世界の中で輝いているはずなんだ。信じているから、キリストの弟子だから。そういう意味で自分自身を新たに見直してみる。キリストから見て幸いな人たち、たとえ苦しんでいるかもしれない。犠牲になって虐げられているかもしれない。でも、幸いなんだ。そして、塩味がしているし、そのおかれた場所の中で輝いているんだ。それが私たちなんだ。 キリストのこの言葉を素直に私たちは受け止めて、認めていくことが大切なんだと思います。』

2020年2月2日日曜日

主の奉献

キリスト者は、洗礼によって全てを神に任せ自らを奉献しています。
そして新しいいのちに生きるもの、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされています。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『ルカは福音書を書くにあたって、旧約の代表的な夫婦であるアブラハムとサラをモデルにして、ザカリアとエリザベトの話から始めていくわけですが、この老夫婦にタイアップするのが今日の朗読箇所に出てくるシメオンとアンナという高齢な二人でした。福音の後半部は読みませんでしたが、このシメオンとアンナ、そしてザカリアとエリザベトの話は、サムエル期におけるサムエル誕生の話と重なって来ることになるわけで、巧妙に構成された内容でいろいろな意味がそこに含まれています。
これほど緻密に作られていながら、学者によるとルカは律法を読み違えているのではないかという指摘があります。二つの事を混同しているというのです。
それは「律法に定められた彼らの”清め”・・・」という箇所の”清め”という規定については、お産をする生んだ母親は汚れているので、男の子が生まれると1週間、女の子の場合は2週間過ぎたら”清め”のために、鳩や羊、牛等を捧げるというものです。
それともう一つ今日の祝日に関係している「初めての男の子を奉献する」という律法の規定は、”清め”とは別な規定であるわけです。奉献といっても実際に殺してしまうとどうにもならないので、何らかの代価で贖われて親の元に戻されるということです。
今日のルカの福音箇所では、”清め”と”奉献”という別々な二つの規定が混同されて扱われているという指摘です。

さて、今日はこの奉献について少し考えてみたいと思います。
創世記の中で、アブラハムはようやく授かったイサクを神に捧げよと言われ、山で捧げようとするわけです。イサク以外に跡継ぎがいないにも関わらず、そのイサクを殺さなければならないという出来事です。いざ殺す段階になったらストップがかかって羊が贖うものとして身代わりになり、長男を殺さなくてすんだわけです。
この出来事もキリストのことと関わってくるわけです。キリストは律法に従って、40日目に奉献され、何らかの代価を払って贖われて家族の元に戻されます。
これはある意味でキリストの十字架と関わってきます。キリストは十字架に架かって自己奉献するのですが、その代わりに神がもう一度、新しい命、復活のいのちを与えて(贖って)くれる。このように奉献をみていくと、キリストの死と復活がそこに見えてきます。
このように、単に律法に従ったというだけではなく、将来のキリストの最後を見るとき、奉献と重なってきます。それが福音として今日の冒頭箇所に凝縮され書き込まれており、私たちは「主の奉献」の祝日を祝うことになるわけです。
確かにイエスは男の子に生まれたことで律法に従い奉献される必要があったと思いますし、律法に忠実であったということをルカは強調して書き留めたかったのでしょうけれど、それだけではなくて、将来のキリストの姿がそこに見える、ということです。
ただ、もともと神の子でありながら、奉献される必要があるのだろうかということを考えると、この奉献ということは、キリストにとって必要というよりは、十字架がそうであったように、我々にとって重要な意味を持っていたと理解することができるわけです。

私たちは洗礼にあたって、基本的に神を信頼する信仰するということがあって洗礼を受けるわけですが、それは自分自身を全面的に神に任せ奉献するということです。
そして、それによって新しいいのち、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされていきます。私たちの洗礼こそ奉献そのものであるわけです。

現在、奉献生活というと、修道生活のことを指すようになってしまいましたが、そうではありません。
奉献生活というのは信者の生活そのものが奉献生活であり、それがあって初めて修道生活が成り立つわけです。洗礼の奉献がなければ奉献生活というものは有り得ません。
ですから、信徒が奉献されているものであるということが全ての基礎になっており、非常に重要なことです。しかし、あまり皆さん意識しないし、自分が奉献生活をしているとは思っていないようです。シスターやブラザーのことであり、あまり関係ないと思っているかもしれませんが、そうではありません。
もっと、自分が神に奉献され神に買い戻されたもの、新しいいのちに生きるものとされているということを意識していいだろうと思います。もっと自分を奉献されたものとして誇りに思っていいだろうと思います。
その最初として、この新しいキリスト者、新しい神の最初の人として、キリストは自らを子供の時に奉献しました。その完全な奉献は十字架の奉献になるわけですが、その意味で私たちの模範として、主の奉献となったわけです。ですから、この主の奉献の祝日は、キリストの祝日というよりも、キリスト者である私たち一人一人の祝日と言っていいだろうと思います。そして主の奉献を祝う時に、我々自身もキリストと同じように神に捧げられたもの、あるいは自分で捧げたということを、そして、神によって買い戻されたもの、復活のいのちに生きるものとされたことを意識していいのではないかと思いますし、日々意識して生活していいのでないかと思います。
奉献生活を修道者だけに任せるのではなくて、実は自分達なんだということを意識して、生活そのものが神に対する信頼の生活になっていくように努めていくときに、本来の意味での奉献生活になるということを、常に忘れないで意識していっていいのではないかと思います。』

2020年1月29日水曜日

年間第3主日

「悔い改めよ。天の国は近づいた」
すべての人に対してキリストは召命を呼びかけられました。

この日の司式は湯澤神父様でした。


お説教の大要をご紹介します。

『今日のマタイ福音書は、イエスの宣教活動の始まりの時です。今日の朗読箇所に選ばれた後半の半分は省略しても(読まなくても)良いという印がついていますので、省略しようと思ったのですが、省略するとあまり意味が分からなくなる。
 イエスの宣教の最初のきっかけは「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけです。マルコによる福音書ですとこの後に、事実の宣言と同時に「福音を信ずるように」という言葉が続きますが、(両者は)同じです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というこの言葉は、洗礼者ヨハネが言っていた言葉と同じです。それではこの意味合いが同じかと言うと、少し違っていると思います。天の国は近づいたという「国」βασιλεία(バシレイア)という言葉は支配という意味合いで、テリトリー (territory)という感覚はないのです。ここからここまでという、国境線があってその国境線が近づいて来たということではなくて、それぞれの人たち、あるいはその世界に対する神の支配が強まってきたというふうに、理解したほうが良いです。ひとり一人の心の中に神が支配するようになってきた。そういう時代が来たわけだから、神の方に心を向けなさいという呼びかけなのです。
 それに付随して4人の人たちを呼び寄せたという出来事。元々のマルコの福音書も宣教活動の最初にこの4人の弟子たちを呼ぶのです。マルコの福音書の前半の対象はすべてのに向けられた話しです。後半のエリコ、カイザリアからエルサレムに向かう旅は、弟子たちへ向けられた説教、言葉です。一般的にすべての人に向けられた言葉、一番最初のところはこのことです。つまり、弟子たちばかりではなくすべての人に対してキリストは呼びかけた。その中から、4人の人を選んだのです。往々にしてこの4人の人を選ぶ、呼んだことを、司祭とか修道者の召命に限定して理解する傾向がありますが、そうではないのです。すべての人に対しての召命、呼びかけです。「すべての人に対する召命」と前提にしないと司祭とか修道者の召命はあり得ない。すべての人がキリストからこのように弟子になるように呼びかけられている。これが基礎になって初めてほかのすべての召命が意味をもってくることになるのです。
 まず、キリストの召命、あるいは神の召命、呼びかけ、それに対する応えていく召命というのは、まずキリストを信ずる者の召命です。せまく理解する必要は全然ないのです。それは教会の歴史がそれを狭めてしまった。召命の祈りというと、聖職者や修道者の召命の祈りしかしない。間違いです。召命はすべてのキリスト者に向けられている。すべてのキリスト者が呼びかけに応えて共同体をつくるように呼ばれた、集まって来たということです。この呼ばれて応えた人の中でキリストの活動はそれを土台として始まります。ですから宣教にしても何にしても、そういう背景がないとキリストの個人的なプレーで終わってしまうのです。そうではない。常にこの共同体、呼ばれた信徒、あるいは弟子たちの集まりがあって、その中でキリストの活動があるわけです。そのことを踏まえたときに、私たちは召命という問題を自分の人たちに制限することは必要ないし、自分たちのこととしてまず考えないといけないのです。私たちはひとり一人、このペトロと同じように呼びかけられている、私について来なさい。人を漁どる漁師にしよう。それに応えて集まってきたのがキリスト者、全部のキリスト教だった。そういうふうにしないと、そのほかの召命は意味がない。

 そういう意味で私たちは召命を自分ものとして取り戻さなければならない。司教様はいつも言っている「信徒中心の教会」ですが、召命は信徒のもの。司祭とか修道者のものではない。まず自分たちが信徒中心の教会をつくるとしたら、この召命を自分のものとして取り戻さなければならない。私たちはそのように呼ばれたのです。それに応えたのです。
応えた以上は、応え続ける状態にあるということ。つまり責任があるのです。レスポンシブル(responsible)を分解すると応えられるresponseと出来るableという合成語ですから、責任というのは応えられる。キリストの呼びかけに応えられるようになっている人たちがキリスト教です。キリスト教徒の責任はそこにあるのです。

  そして何のために呼ばれたかというと、人を漁る漁師。キリストの福音を伝えるために呼ばれている。ひとり一人が福音を伝えるために呼ばれている。そういう意味で私たちは
何百年の間、召命を司祭とか修道者に制限して自分たちのものではないと。それは信徒のものを取り上げた司祭、修道者が悪いのでしょうが。だから、自分のものとして取り戻さなければならない。信徒はひとり一人、それに応えられる責任、能力を取り戻さなければならない。どう応えられるかというと、人を漁る宣教、権利。それを取り戻す。大変のようですが自分たちの権利です。キリスト教徒の権利として、もう一度この召命、そして使命を(英語では両方ミッションmissionと言う。)取り戻していかなければならない。
 マタイやマルコの福音書では、キリストの宣教を最初に置いたのです。非常に意味のあることです。特殊な人のためではないのです。そういう意味で私たちは、召命とその使命
を取り戻して、それに生きるようにしていかなければならないし、その自覚を持つ必要があると思います。』

2020年1月22日水曜日

年間第2主日

この日は、先週フィリピン・エクスポージャーから帰国された勝谷司教司式の主日ミサでした。


お説教では、キリストを証するために、私たちに出来ることがあるはずです。というメッセージをいただきました。

お説教の大要をご紹介します。

『先週の木曜日、高校生を連れてフィリピン・エクスポージャーから帰ってまいりました。
今年も感動的な出来事があって、皆、涙を持って別れを惜しんで帰国しました。
帰路、私は高校生とは別な便を使ったのですが、大変な思いをしました。というのもご存知の方もおられるとおり、マニラのすぐ南にある火山が爆発して今大変な被害をもたらしています。
ちょうど私が出発する前の日に噴火があり、その当日はほぼマニラ空港が閉鎖されている状況でした。私が乗る便は、午後最初の12:45分 ダバオ発マニラ行きの便だったわけですが、午前中の便は全てキャンセル、他の航空会社の便は終日全便キャンセルでした。
私はその日、マニラを経由して日本に帰る予定だったのですが、それに乗れなければ乗継便がないという状況でした。恐らくキャンセルになるだろうということを見越して、ネットで八方手を尽くし、ようやく香港経由の帰りの便の”空き”が見つかり、あとはボタンを押せば購入完了というところまで漕ぎ着けました。
ところが、なかなかマニラ行きの便のキャンセルが点かず、定刻発の表示のままなのです。キャンセル扱いにならないと、購入済みの航空券は全て棄てることになってしまうので、直前まで待っていました。そして、いつまでもキャンセルにならなかったので、とうとうチェックインしましたが、その後、延々と何の情報もないまま4時間待たされました。よくフィリピンの航空会社がやるのは、散々待たせた挙句にキャンセルということがあるので、どきどきしながら待っていました。
最終的には4時間遅れで飛んだのですが、それ以降の便はキャンセルになっていました。その日、ダバオからマニラに飛べた便はわずか2便のみで、それに運よく乗ることができたわけです。到着したマニラ空港でも人々がごった返している状況でしたが、その日のうちに何とか成田空港まで帰ることができました。しかし、成田に着いたのは真夜中で着いてからホテルを探さなければならない、また、次の日の成田から千歳までの便も満席で乗れるかどうか分からないという状況であり、不安でいっぱいでした。
一番大変だったのは、先が見えない、この後どうなるか分からない、そして何の情報もない、ということでした。そのようなことが如何にストレスと不安をもたらすということをつくづく感じさせられました。
結果的には、一日遅れにはなりましたが、比較的順調に帰ってくることができたわけです。ただ、司教館に帰って来た翌日、一日遅く帰ってきたということに対して皆の反応が薄く、「何かあったのですか?」という言葉に二重のショックを受けました(笑)。
フィリピンでは噴火によって大変な騒ぎになっているのですが、日本ではほとんど報道されておらず、皆さんの中にも知らない人がいるのではないかと思います。
このように、マスコミがどのようなニュースを流すのかということによって、私たちは近くの国で起こっている大災害についても全く知らないでいることがあるのだということを感じました。
これ以前にも、1998年に私は一年間ヨーロッパにいたのですが、その3年前に起こっていた阪神淡路大震災の話をしても知らない人がほとんどでした。あのような大災害のことをヨーロッパの人が知らないということに大変驚きました。

このように私たちが受け取る情報というものは、マスコミがどのように扱うかによって、大きく左右されてしまうということです。ただ、今私たちはマスコミに頼らずともネットをとおして様々な情報にアクセスし知ることが出来るような環境にあります。しかし、まだ多くのマスコミが恣意的な情報を流すならば、私たちは操作されてしまうという危険性や、あるいは何も知らずに置かれるのだという危険性も今回の出来事をとおして感じています。

では、私たちはどんな情報を外に向かって流しているのか、そのことも考えてみなければならないということも感じています。
今日の福音書を見ると、ヨハネはこの当時マスメディアというものが無かったので、個人の証でしか伝達する術はなかったのですが、ヨハネが指し示したのは、言うまでもなくイエス様ご自身です。ヨハネはこの証を自分に与えられた啓示をとおして行ったわけです。しかし、ヨハネが期待していたメシア像はこの世の悪を駆逐する正義の神の登場、すなわち理不尽に国を支配しているローマ帝国を追い払い、そしてまた人々を苦しめている悪徳商人や為政者、彼らに裁きが下される、そのようなことを期待していたはずです。
しかし、どうも自分の予想していたメシアと違うと感じた時に、ヨハネは獄中から弟子を派遣し、こう問わせました。「来るべき方はあなたですか?他の方を待つべきですか?」ここにヨハネの戸惑いを見て取れるわけです。その時イエス様がおっしゃられたことは、「目が見えない人の目は開き、足の不自由な人は歩けるようになる。そして死者は生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされる」。
イエス様にとって自分がメシアであるという証は、このような奇跡的な行いを意味するのではなく、社会から疎外され追いやられている人たちに福音が告げ知らされている、その人たちに神の愛が告げ知らされ、その人たちがまた人間社会へと復帰し、その中で人間らしい生き方を取り戻していく、それこそがイエスがメシアであることを指し示す”しるし”であるということです。
そして今、ヨハネのように私たちは、このキリストを指し示すように、その試練を託されています。では私たちはどのようにこのキリストを指し示すのか? 聖書から読み取れることは「2人3人、わたしの名によって集まるところには、わたしはいる」、そして互いに愛し合う時そこに神の存在が証されていく。
私たちは一人の努力によってではなく、共同体の中に、共同体をとおして、存在するイエスを証しなければならない、そのように召されていると考えなければならないでしょう。そして、共同体がなすべき証は何かというと、自分たちが内向きになって、ただ自分たちの閉ざされた環境の中で自分たちの救いだけに関心を向けるような共同体でないことは確かです。
むしろ社会に向かって、何を証するのか、それは言うまでもなくイエス様が行った活動です。社会から疎外されいる人たちに寄り添って彼らの声を代弁していくものとなる、
それを通して私たちはイエスを証することになるわけです。
それでは、札幌教区はどうなのかということですが、ベトナムの技能実習生の支援など最近いろいろな形で慈善活動が行われマスコミでも取り上げられています。
カトリックの名前は出てきませんが、私たちはそうのような人たちを支援する活動をとおして、そのような人たちの存在を社会に指し示して、そして人々の良心に訴えかけていく、これも大切な役割だと思います。
私たちは、この共同体として何ができるのか、内向きに教会行事の話だけではなく、今、身の周りの日本の社会をよく見た時に、何か自分たちに出来ること、関わることが出来ることが必ずあるはずです。そういうところに目を向け、心のアンテナを拡げながら、そこにキリストを指し示す証の活動を、私たちはしていくように召されているということを、改めて考えていただきたいと思います。』