2019年2月17日日曜日

年間第6主日

「心の貧しい人、その人たちは幸いである」
イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。


今日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日のみ言葉は、ルカの福音書と共観福音書のマタイ福音書にみられる同じ出来事が語られる場面ですが、ルカとマタイの福音を比較すると興味深いものがあります。ルカの福音では、弟子たちと共に山に退いていたイエスが、民の群れに教えるために山から下りて「平らなところに立って教えた」という下りになります。逆に、マタイの福音は、群衆から逃げて弟子たちと一緒に山に退き、弟子たちに語られた話しとして「山上の垂訓」になっているからです。同じような内容のお話ですが、山で語られるイエスと、民衆の近く平らなところで語られるイエスと、極端に違うイエスの姿を感じてしまいます。どういう理由だったのでしょうか。黙想の材料にもなります。
 ルカの福音によるとイエスは山に行って夜通し祈り、弟子たちを呼び寄せて中核となる12人の使徒を選びます。イエスによる12人の弟子の選びによって、新しい神のイスラエル、神の国の形成の意図があったかも知れません。そして、彼らと一緒に 山を下りて、平らなところに立ってイエスの教えを聞こうとして集まって来た群衆に語られたのです。ルカ版とも言える「平地の説教」は、マタイでは「山上の説教」となっています。マタイではイエスの教えの頂点として3章にわたり書かれています。でも、ルカの記述は、わずかに30節です。ルカは、すでにここに至る前の4章でイエスがナザレを訪問をしていました。貧しい人に福音が伝えられる時機が満ちたということで、福音宣教に出かける、そういう記述になります。イエスの話を聴いて感動した人々は、次から次へとイエスの周りに集まりました。特に貧しい人々が押し寄せています。

 今日の福音でも「貧しい人は幸いである」という言葉がありました。貧しい人とは、まず第一にイエスが「あなたがた心の貧しい人たち」という言葉になっています。貧しい人、それは聖書では心の状態を言うのです。次に「教えを聞こうとしてイエスのもとに来た群衆」、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞いて行う人」たちに代表されるイエスのメッセージ。それは、当時のキリスト者ではありますが、現代のわたしたちにも繋がってくるものです。
 ルカはキリストのみ言葉をとおして、貧しい人、迫害に苦しむ人々に対して地上的富や喜びが、われわれに救いをもたらすものではないことを強調して書かれます。ここにルカの、特に貧しい人たちに心を配り、貧しい人を幸いなるもののトップにあげて語るイエスの救いを伝えるのです。「金持ちが神の国にはいるのは難しい」と言われるように、富んでいる人を不幸なものの頂点にあげています。飢えている人、泣いている人は貧しい人のグループに入りますが、逆に、「今、満腹している人」、「今、笑っている人」は、みな富んでいる人のグループとしています。
 さらにいま、飢えている人、今泣き悲しんでいても、イエスによる救いが実現するときには、状況は完全に逆転すると伝えています。キリストは「権力あるものをその座から引きおろし、卑しい者を引き上げる」からです。ルカは、当時の社会背景に、貧しさや飢えに苦しむ人がいかに多くいたことや、また、富める人や権力ある人に迫害されていた人を背景に置いて福音書を書かれたように思います。

  私たちが聖書を見るときに、聖書を書いた福音記者の意図も少し考慮して読むと、深い味わいがあります。特にイエスの時代、その迫害の時代、苦しむ人飢え乾く人も含めて、社会が混乱した中で書かれたことを念頭に入れて置く必要があると思います。誰しも貧しさや飢え、迫害を好む人はいません。それらの苦悩を、救いの喜びを得るための手段として奨めています。そして福音の喜びは、資格のない者が資格のある者とされるところになる、そういうところのようです。
 ユダヤの国では貧しい人々は、少なくとも神から祝福を受けた人々とは見なされませんでした。彼らは神の国から遠い存在であったのです。しかし、イエスの福音はそういう人たちに慰めを与え、満ち足らせるのです。神が資格のない者を救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったがゆえに、貧しい人たちが幸いなのです。逆になぜ、喜んでいる者、満腹している者が災いとなるのでしょうか。それは、イエスを受け入れない人々、福音に耳を傾けようとしない人々、み言葉を聞かず、神の恵みに預かることが出来ない人々。それは現実にこの世的に満足してしまって、自分たちの幸いだけを考えてしまう人々と受け止めてしまいます。富自体が悪いわけではない。
 イエスの言葉を聞きたいと集まった群衆にとって、約束の救い主が来たと喜びます。イエスと共にあることが幸せでした。ますます、イエスの近くに行きたいと願います。イエスに触れようとする人々も出てくるくらいです。先日の福音でのパンの奇跡の話は、イエスが三日も自分といっしょに過ごしてついて来た群衆が、何も食べずに空腹であることに気づかい、「パンの奇跡」を行ったと紹介されていました。

 今、みことばに耳を傾けるわたしたちは、どんな幸せを持っているでしょうか。私たちの熱心さはどこに向かっているのでしょうか。日常の生活では、悩みも苦しみもあるわたしたちです。心貧しく生きている私たちではないでしょうか。見かけはそのようにないと言っても、心の中では誰でも悩みや苦しみを持っているはずです。今飢えている、今泣いているとは、現実に社会の底辺におしつぶされている人々と受け取っても良いはずです。私たちもそういう一人であるはずです。
 わたしたちは、貧しさや苦悩のうちに、見捨てられ、押しつぶされているその時、神が心配し、手を差し伸べ、救おうとされていることを感じとりたいものです。そして、救いへの道、希望を見つめ、真の幸福への道を見出すべきではないでしょうか。心の貧しい人、その人たちは幸いである。イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。』

2019年2月10日日曜日

年間第5主日

今日朗読されたルカ5・1-11では、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となった弟子達の姿が語られました。


札幌教区の司祭異動(5月1日付)が発表されました。
それぞれの地区・小教区での新しい”歩み”が始まります。
神様の導き・恵みを祈りましょう。

ミサの後、恒例の「雪割り(排雪作業)」を行いました。
今年は雪もそれほど多くなく、青空の下、ほどよい汗を流しました。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」と今日の福音は語られます。わたしたちもクリスチャンとして信仰を持ち、「神のことばを聞こう」として教会に集いますが、わたしたちの信仰は、どうなのでしょうか?

湖畔に立つイエスは漁を終え、岸に上がって網を洗う漁師の仕事ぶりを眺めています。大勢の群衆が自分の回りに集まってくるの見ながら、舟に乗り岸から少し離れて、イエスは教えを群衆に述べられるのです。 神のことばを聞くということは、「神のみことばとして」受け入れることです。みなさんは、今もキリストが教会をとおして神のみことばを宣べ続けている全世界の人々中の一人であり、今日もイエスのことばを聴いているのです。
 「漁師が夜通し働いても漁がなかったが、キリストの言葉に従って網をおろすと網が裂けるほどの大漁であった」と言うことは、宣教も使徒職活動も キリストのみことばに従がうこと、そして、キリストと一致して働くことで効果があるということを象徴する話ではないでしょうか。
漁師のペトロにとっては、まさに奇跡のようですが、キリストにとってはみことばに従って働き続ける教会の未来を示唆する、預言的しるしでもあるようです。このすべてを見た漁師はペトロの他にヤコブとヨハネもいて、神のしるしを見て圧倒された三人はイエスに従うことになりました。

また、イエスは不思議なしるしを行ない病気さえ治してしまう方なのです。今日読まれたルカ福音書の前章では、高熱で苦しんでいたペトロの姑(しゅうとめ)を治した話がありました。この時、ペトロはすでにイエスという人物に深く関わっていることになります。
 ペトロはイエスに出会い、イエスに惚れ込み、イエスに従う者となったようですが、”招かれて”従うことになったのです。
「召しだし・出家」には、本人の熱意から決心する場合もあるでしょう。しかし、ペトロは「自分の思い」からではなく、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となったのです。自分の熱心さからだけでは、召し出しは続くものではないとよく言われることです。私の神学生時代のある先輩は、家族が皆、熱心なクリスチャンで特に祖母の強い勧めもあり司祭の道を志したのですが、祖母の帰天をきっかけに改めて自分自身に問い掛け直し、神学校を去ったのでした。

ペトロは神の力の偉大さをつぶさに見て、イエスの足元にひれ伏しました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。わたしたちの力だけでは出来ないことをするのが神の業なのです。
イエスのもとにとどまる信仰者であるためには、いつ変わるかも知れない自分の気持ちを拠り所とした信仰ではなく、確かな信仰を持つためにも、何があっても変わることのないイエスの恵みを拠り所としなければなりません。自分の気持ちでイエスを信じる者ではなく、イエスの恵みによって 捕らえられた者になること、その信仰が必要なようです。

札幌教区の司祭の異動が発表されました。また、新たな土地、環境で働くことになります。旅する教会のように、ひと所にとどまっていることもならず、生きている限り、呼ばれるまで、また歩きはじめなくてはなりません。 人を漁る(すなどる)仕事でもあるわたしたち司祭の仕事ですが、矛盾を感じるような時でも、また、困難に思える時があっても、イエスとともに働くことで、豊かな実を結ぶことができると信じ、これからも進みたいものです。息切れがしてしまうようなこの頃でもありますが、生きていることを感謝し、一歩一歩、地を踏みしめて、歩いていかなくてはとも思います。

今日のみことばの最後には、 ペトロはイエスに招かれて「すべてを捨ててイエスに従った」と結んでいます。 このことばを心に留め、今日も、みなさんとともに新たな出発がありますようにと祈ります。』

2019年2月5日火曜日

年間第4主日

この日の福音ではイエスが郷里のナザレで受け入れられなかった話が語られました。
私たちがイエスを立ち去らせることのないよう,私たちの信仰を強められますように。


この日は月例会後に、2年間に渡って教会の将来について検討した「中長期ビジョン検討会議」の報告が行われました。共同体の活性化に繋がるような素晴らしい内容の提案がありました。
これらの提案を、どのように具体的に実現させていくか?私たちの共同体が試されているような気がします。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日、わたしたちが聞いた聖書のみ言葉、ルカの福音書が続いて読まれています。今日聞いた最初のみ言葉は、先週語られていた最後の一節がもう一度、繰り返し読まれています。宣教の始めにあたり、ガリラヤ地方の会堂で教え始めた、霊に満ちたイエスの姿が私たちの頭によみがえってきます。公生活に入って会堂で福音を宣べ伝え、新しい神の御国について語り始めたイエス。至る所で評判を呼び、皆から尊敬を受けられたと、聖書に記されています。そして、イエスは生まれ育ったナザレの会堂に入ってきました。でも、これまでの人々の反応とナザレの会堂での人々の反応では対称的でした。マタイやマルコの福音書では宣教の終わりの時期の話が、今日わたしたちが聞いているルカの福音書は宣教の始めの出来事として語られています。ルカによると会堂のすべての人の目がイエスに注がれていた。ナザレでも最初の目がイエスに注がれています。ナザレはガリラヤ湖から二十数キロメートル離れた盆地にある寒村で、せいぜい100~150人くらいが住む村でした。
 親戚でなくても、誰もがイエスの子ども時代を含め、両親のこともよく知っていたことでしょう。最初は、イエスの恵みのことばに聞き惚れていた人もいたのではないでしょうか。しかし、人々の拒絶は、「あの大工のヨセフの子である。」「わたしたちと同じガリラヤ人ではないか?。」と考え、現実に夢破られた思いだったのでしょうか。嫉妬心に満たされることもあったのでしょうか。殺そうとさえ思うほどに、怒りを爆発させるような人々も現れます。なぜ、これほどまでになったのでしょうか。

 昨日、2月2日の「土曜日」は「主の奉献」の祝日でした。読まれたみ言葉の中にシメオンがイエスについて、ヨセフとマリアに話した言葉がありました。自分が死ぬまでは、自分がこの腕に救い主を抱くまでは、死ぬことができないと神殿に詣でていたシメオン。その時、二人に話した言葉があります。「イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたり、反対を受けるしるしとして定められている。」。シメオンは旧約の預言者の言葉をはっきりと心に留めている人でした。宣教を始めるナザレで始ったことを思い起こさせ、預言がここでも成就するかのようです。
 神の計画の偉大なことがここでも見え隠れします。ナザレの人々のイエスに対する悪い感情や不信に対して、町の外に追い出そうとする動きは、イエスを十字架に送り出すような行為でもあるはずです。イエスはそうした人々の間を通り抜けて立ち去ったと書かれています。「去って行く」は「進んでゆく、旅を続ける」と言う意味もあるそうです。これはまさに、十字架への道、旧約の預言者のように、受難に向かって進んでゆくことを暗示しているようです。
 ナザレの人々の不信に対してイエスは、旧約の聖書の話を引き合いに出しました。一つは「飢饉の時、エリヤがシドンのサレプタの未亡人のところへ遣わされ」、もう一つは、「エリシャがシリアのナアマンの病気を癒やした」という出来事です。これは二つとも、異邦人がイスラエルの預言者から恵みを受けたという内容なのです。イスラエルの民の不信仰は、異邦の世界に向けられたように、ナザレの人々の不信仰と重ねられて、イエスの教えと恵みが故郷のナザレの人々が退けられているのです。
 郷里のナザレの人々は、カファルナウムで行った神のしるしである奇跡を求め、期待していたがイエスは行われなかった。期待はずれはイエスへの非難となり、憤慨し、街からさえも追い出そうとすることとなりました。今日の詩編の言葉にあるように「あなたの正義でわたしを救い、わたしに こたえ、助けてください」。神への信頼の言葉です。人々の顔を恐れることなくエレミアが、神との約束を信じて自分の召命を歩んだように、神への信頼の祈りをもってイエスもまた故郷の人々に受け入れられなかったとしても、その試練と苦悩の中で忍耐と信頼に生き、神の愛に応えるのです。

 わたしは今日のみ言葉の中で、ナザレの人々が山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたという話は、荒野でのサタンの誘惑を考えてしまいます。イエスはサタンの誘惑を退けて、公生活の使命に入ってきます。
 わたしたちも、日々の体験の中で思い起こす時、私たち一人ひとりはいかに弱く、耐え抜くことがいかに困難であるかを知っています。危険の中で常に生きていることも知っています。
 わたしたちの共同体から、イエスを立ち去らせることのないように、共同体の一人ひとりを受け入れ、神のみ旨と愛を生きることが出来るように、特別な力と助けを祈り求めましょう。』

2019年1月27日日曜日

年間第3主日

今年はC年ということで、今日の主日からルカ福音書を中心に読まれていきます。
福音ではイエスのナザレにおけるはじめての説教の様子が語られました。

1月31日(木)は、当教会主任司祭 後藤神父様の霊名である「聖ヨハネ・ボスコ司祭」の記念日です。この日のミサの「派遣の祝福」前に、信徒一同から日頃からの感謝込めて、お祝いをお贈りしました。


「皆さんに感謝いたします。今後もよろしくお願いします。」


後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、「ルカ福音書」の第1章一節から朗読されました。そこでは、聖書の書かれた理由が「イエスを中心にした活動、福音宣教の一部始終を伝える」ことであり、「その教えが事実にもとずくものである」ことを伝えたいがために書かれたことを宣言しています。
昨年11月に「パウロ」という映画が上映されご覧になった方もおられると思います。映画は、パウロとパウロの信仰を記録し伝えようとするルカが主人公でした。そのルカという人は、ギリシャ語のよく理解できた高い教養のある人であったと言われ、医者であったとも伝えられ、映画でも医者としてのルカの姿が描かれていました。当時のキリスト者から見ると、異教徒であったルカはパウロと出会い改宗者として信仰を得て、パウロの弟子として一緒にマケドニア、ギリシャ、小アジアを宣教しています。
ですから、キリスト教共同体のこともよく知るようになり、イエスの行い、教えを周りの人から聞かされてよく知っていたので、ルカ福音書はイエスの活動のエピソードが一番多く記録されていると言われています。
ルカによると、イエスの宣教の開始は、ガリラヤから始まったとなっています。 今日の聖書のみことばにもあるように「イエスが“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」と記されています。
そして、イエスは度々会堂で話されたようです。聖書を開いて聖書を語り、またその聖書の話の内容を深く人々に理解されるように話されます。
わたしたちにとって信仰生活の中心ともなる日曜日(主日)が大切なように、当時のイスラエルの民には律法で示されているように神の民としての義務でもある安息日はとても大切にされていました。安息日には会堂で、みことばを聞き、祈る一日でした。

ガリラヤはエルサレムから 65 kmほど離れた小さな自然に恵まれた田舎町。
ガリラヤ地方とは一体どのくらいの広さなのかと想像しながら地図を広げて見てみました。札幌を中心にすると小樽~岩見沢。千歳や倶知安を含む一帯になるのでしょうか? イエスは弟子たちを連れて会堂を巡りながら福音宣教をしていた、そんなイメージが浮かんでくるような気がします。
イエスの住む町ナザレもそのガリラヤ地方にあり、先週、出てきたカナの婚宴が行われた町は隣町でした。ルカが記すように、イエスの歩むべき道は、父なる神について語り、神の国を伝え、そのみこころを人々に告げ知らせることでした。

エルサレムに比べて人口も少ない、ガリラヤの町々から宣教活動を始め、霊に満たされたイエスですが、そこは素朴に信仰を受け入れる地域でもありました。イエスの宣教活動は、人間的な力に頼るのではなく「霊の力」に頼りながらはじまりました。この時、イエスは貧しい大工ではなく、洗礼を受けて聖霊に満たされたメシアであり、預言者でもありました。

ユダヤ教の礼拝、宗教教育の場所でもある会堂、シナゴグはイエスの教えの場としても福音書にしばしば登場します。救い主であるイエス・キリストは、聖霊の力によって安息日の会堂に集まるイスラエルの民の前に立ち、貧しく、苦しみにある人たちに向かって「神は決して見捨てることがない」 と福音を宣べ伝えました。
そこでは、まず最初に申命記(第二法の書)6,4 や民数記15 章に書かれている信仰宣言を唱えることから始まります。
当時の信仰宣言は 「イスラエルよ、聞け! 主はわれわれの神、主は唯一のものである。あなたの神である主をこころをつくし、魂をつくし、全力を尽くして愛せよ。わたしが今日命じることばがいつまでも、こころにあるように。それらをあなたの子らに教えこみ、家にいるときも、道を歩むときも、横たわっているときも、立っているときも、それらを語り伝えよ。...あなたのかまちと門とに書き記せ。」
今も熱心なユダヤ人は正しい道からそれることがないように、教えを心に留めるために朝晩の祈りとして唱え続けているそうです。

信仰宣言のあと、預言者イザヤの書が読まれましたが、「主の霊がわたしの上におられる。主がわたしに油を注がれたのである。そして、主が解放を告げるために、わたしをお遣わしになった。」と読みあげてから、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にした時実現した」と宣言されたのです。
人は、社会から見捨てられたり、抑圧されてはなりません。 神から大切にされ、かけがえのない者として愛されていると言うことこそイエスの福音なのです。

わたしたちは、神が与えてくださっている「恵みの時」を見失ってはいないでしょうか? 
イエスは神の恵みが、今、ここにあるというのです。イエスは未来への希望としてではなく、今、神の恵みがここにあるというのです。
イエスのことばを心を開いて受け入れることができるように、わたしたちの信仰宣言が心から信頼に満ちた宣言となり、心からの祈りとなって歩むことが出来ますように。』

2019年1月21日月曜日

年間第2主日 「カナの婚礼」

この日の福音朗読では、イエスがはじめて人々の前で行った”しるし”、「カナの婚礼」の出来事が朗読されました。
また、第2朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙(12・4-11)」では、聖霊のはたらきによって、一人一人に与えられるタレントは、よりよい共同体づくりに活かされるためと、パウロが語りかけています。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『先週は「主の洗礼」を記念する日曜日でした。今日のヨハネによる福音によると、イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた翌日に、シモン・ペトロとその兄弟アンデレに出会っています。そして二人はイエスに従う者となりました。さらにその翌日は、ベトサイダという郷里が同じであったフィリポとナタナエルに出会いっています。彼らも従う者となって、イエスは弟子たちと共に福音を伝える旅に出て行きます。

 今日の福音の始りは「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」…聖書で読んでみると「三日目」にという言葉になっています。ですから、三日目にガリラヤのカナで婚礼があったという出だしになります。
 この「三日目」ということばを取り上げてみたいと思います。三日目に、招かれた婚宴の席で奇跡が起こります。奇跡は神の栄光を人々に示すために行われると良く言われます。カナの婚礼で行った奇跡は、イエスが最初に行った奇跡のひとつと言われます。イエスはこの最初の奇跡でどんな神の栄光を表そうとしていたのでしょうか。私は「三日目」ということばに繋がっているしるしがあったのではと推測します。みなさんは「三日目」とうことばから、何を考えるでしょうか。
 神の子イエスは「わたしたちの罪のために死んでくださり、三日目に復活した。」と聖書に書かれています。わたしは「三日目」と聞くとイエスの「復活」を第一に想い出します。十字架上で死なれたイエスを見たとき、弟子たちはどんな思いだったでしょうか。悲しみのどん底に突き落とされたような苦しみを味わった弟子たちがそこにいました。三日後のイエスの復活に出会ったとき、弟子たちは驚きとともに言葉も出ない不思議な体験をします。弟子たちは驚きとともに喜びも味わうことになりました。その喜びは三日目の「婚礼」の宴にも繋がっているような気がします。婚礼の宴は天国の宴も表しているかのようにも思えます。単なる喜びだけでない弟子たちの目にはっきりと神の栄光を現すことで、その信仰を固く保つことでもあったようです。そのことは、今日の福音の最後のことばでもはっきりと述べています。「この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」と。
  この後、弟子たちがイエスに従い、一致して神の国を証しする旅に出ます。イエスは婚宴の喜び以上に、神の栄光を見た弟子たちが信じるようになる。神の国のために喜びを持って働くことを望まれていたと思います。

 婚宴では欠かせない「ブドウ酒」についても、一つの考察ができます。奇跡により、水がブドウ酒に変わったというそのブドウ酒ですが、普段味わうことの出来ない格別な味だとも言われています。旧約のメシアの時代には、ブドウ酒は特別な意味をもって振る舞われたという聖書の箇所もあります。神が救われた人々に与える最高の宝、そのシンボルとして考えられていました。ですから、カナの婚礼において宴に招待された人々が受ける神の恵みと喜びが、いかに大きなものであったかを考えることが出来るのではないでしょうか。

 今日の 福音のなかで、私は特別にひとつの言葉、イエスが母マリアに言われたことばが気になります。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と、こんな言葉があります。母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけ、さらに「どんなかかわりがあるのか」。あまりにも冷たい言葉のようにも感じられるのです。もちろん「わたしの時はまだ来ていません」という言葉をよくよくかみしめるのならば、イエスの言わんとしていることが分かるのですが、「わたしにどんなかかわりがあるのか」という言葉が先にしていることを私には気になる言葉になります。婚宴の席で言われたイエスのことば、母マリアがイエスに対して言われた言葉。よくよく味わっていかなければなりません。
 婚宴の席で「ぶどう酒がありません」とイエスに言われるマリアがいます。イエスであれば何とかしてくれる。イエスに対するマリアの信頼もこの言葉に良く見えてきます。世話役に言うのではなく、イエスに言っている母親の立場も不思議に感じます。イエスなら何とかしてくれるという深い信頼が感じられます。ゆるぎない信頼を持つマリアの姿がここにあります。マリア自身、時が満たなければ、時が満ちてこなければ、神の計画はいつもすぐには成就しないということも、自分の経験をとおしてマリアは知っています。時が来るのを待ちながら「何でもこの人の言うとおりにしてください」とマリアは伝えています。わたしたちもこのマリアの信頼、信仰の姿を模範としたいものです。

 「どんなかかわりがあるのですか」。ひとつの言葉を思い巡らしているときに、24年前の1月17日に発生した阪神淡路大震災のことを考えました。10万以上の住宅が全壊し、6,434名の命が失われた大きな自然災害を体験しました。今年の追悼の集会で、「つなぐ」ということばをテーマに行われたという記事を見ています。「つなぐ」、「きずな」という言葉が、わたしたちの精神生活を豊かにするために、日常生活の安心・希望を支えるためにどんなに大切であるかを考えさせられます。「わたしとどんなかかわりがあるのですか」という言葉から、あらためて人との関わりが、いかに脆いものであるかも気づかされます。

 私たちの教会でも献堂100年の記念をした時に「次の世代につなぐ」という言葉、「つなぐ」という言葉を表題に掲げましたが、「つなぐ」「きずな」という言葉をもう一度想い出し、大切にしたいものです。
 人という文字はふたつの線で支え合う形で文字になっています。支えることによって「人」が成立する。そういう説明が良くされています。
 互いに支え合いながら、私たちの歩みをこの一年を本当にともに歩んでいきたいと改めて思い起こします。』

2019年1月13日日曜日

1月13日(日)主の洗礼

ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始まりでした。



当教会では、今回成人式を迎える若者が2名おられます。
今日教会に来られていたその中の一人に、「派遣の祝福」の前、教会からプレゼントが贈られました。新成人を祝して皆で「アーメン・ハレルヤ」を唄いました。
新成人おめでとうございます!


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日、ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、気の遠くなるような遙かな時間、長い時の流れの中でイスラエルの信仰の民にとって、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始りでした。
救い主を待ち続けていた当時の人々の関心がいかに強かったかをルカの福音で告げています。ヨハネの前にも後にもメシアと主張する人物が政治的地位を持とうとしたり、武器を手に取ったりする人物が多く現れていたそうです。民衆の最後の期待は、政治に介入することなく、また、武器を手にすることのない貧しい男、「心を入れかえ、悔い改めよ」と荒野で叫んでいたヨハネとナザレで成長を遂げヨハネから洗礼を受けるイエスに注目することになります。ヨハネのメッセージは「神の国」への準備として、心づもりのある人には、迷った道を引き返し、正しい道に入れという意味があったそうです。

聖書では、母親同志の出会いをとおして胎内の子が踊ったこと、ベトレヘムの馬小屋での誕生、エルサレムの旅で12歳の少年イエスが語られた以外、ヨハネについてもイエスについても影に隠されたような30年が過ぎていましたが、ヨハネに続いてイエスもまた公にその姿をあらわしたのです。ヨハネは修行者のような生活をし、荒野で厳しい孤独な生活を送りながら「道を開く」先駆者として紹介されその使命も明らかにされます。
聖書は「荒野でザカリアの子ヨハネに神のみことばが降った」と記してヨルダン川地方一帯の人々に「罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」として、道を準備するヨハネの使命が語られました。
当時の人々はさておき、わたしたちは神の子であり、救い主イエスが罪の許しを得るため、悔い改めの洗礼を受けるとは一体どういうことかと考えてしまいますが、ルカの福音は洗礼後のイエスを重要視して展開していきます。神の子でありながら、人間と同じ者になって洗礼のすぐ後でも祈るイエスの姿は、何よりもわたしたちの目をひきつけています。これまでもマリアやヨゼフの両親に倣い、一人、真剣に祈るイエスがいたのだと思います。イエス自身、どんな覚悟、思いを持って洗礼を受けられたのでしょうか? ゲッセマネのイエスの祈りの時、血の涙を流したとあるように、自分が人間であり、弱い、限界のある自分自身であることを受け入れ、その覚悟・決心を持って父なる神にご自身のすべてを捧げる決意をもったでしょう。 それは御父への愛であり、御父からの愛でもあったはずです。

今日のみことばを黙想するとき・・・、洗礼の場面での祈りは、種々の活動の出発点となっているとも考えることができますが、わたしたちにとっても洗礼や堅信の秘跡を初めて受けた時と同じなのではないでしょうか?
主の洗礼を祝う今日、わたしたちはもう一度、一人一人の洗礼を振り返りつつ黙想して、新しい歩みを始められるように祈りましょう。

そして、イエスの洗礼を黙想する時、洗礼は御父からのいつくしみと愛を受けとる瞬間であり、それを人々に伝える使命の出発でもありました。
イエスが洗礼を受け祈っていると天からの声が聞こえたように、その原点に「祈り」があったのです。
わたしたちは、すでに神の救いの恵みである洗礼を受けて信仰を歩んでいますが、わたしたちも、日々の生活に信仰があり、信仰の中心に祈りが大切にされるこの一年となるようにしたいものです。

新しい一年がスタートしたばかりですが、改めて、洗礼を思い起こし、聖霊の恵みとともに、祈ることをイエス自身から学びましょう。
イエス自身、洗礼から出発してすべての人々を神に出会わせる道を歩み出されたように、祈りをもって、わたしたちの道にも宣教への実り、恵みが注がれるよう切に願いたいと思います。』



2019年1月6日日曜日

1月6日(日)主の公現

 この祭日は、神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。

この日のミサは、後藤神父様と簑島助祭の共同司式により行われました。


簑島助祭は今のところ、3月21日に司祭叙階式を迎えることになりそうだということです。この日のミサ後すぐに、神学校へ戻るために空港へと向かわれるそうで、次にお目にかかるのは叙階式の直前になります。
「派遣の祝福」の前に、簑島助祭からご挨拶があり、6年間の神学校生活を感慨深く振り返っておられました。


叙階式を迎えるまでの間の最後の神学校生活が、どうか充実した日々でありますように。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『新聞テレビでは、何をするにも「平成最後・・・」のということばが繰り返されていましたが、この新しい一年が神のみ旨に適う歩みが出来るように、互いに祈りあい、支え合ってゆくことが出来るようにと、今日もまた皆さんとともに祈りたいと思います。
 新しい一年の日々に困難がないように願いたいところですが、年を重ねてくると考えも少し変わってくるような気がします。困難があっても、神への信頼を欠くことなく、希望を失わずに明るく乗り越える事が出来ますようにと考えるばかりのような気もします。
 このことを考える一つは、元旦に、私たち共同体の家族、アンナ水野るりさんが84歳で亡くなられました。家族の方のお話を聞くと、退院するのを楽しみに待っていたということでしたが、神のもとへと帰りました。神の秘められた計画の中で生きている限り、幸せと悲しみ、困難がこの世の中で繰り返されるような気がします。日々の生活の中で信仰、希望、愛がわたしたちの心から離れないようにとみなさんのために、そして、自分のために祈りたいと思います。

 さて、クリスマスを迎えるまでの「待降節」から典礼暦は、来週まで短い期間ですが「降誕節」に入っていて、今日は「主の公現」の祝日です。みなさんの聴いた福音の言葉は、毎年変わることなくマタイの福音が朗読されています。
 新年を迎えたわたしたちに、博士たちの姿をとおして「信仰、希望、愛」を求める心の姿勢が重なるようです。純朴な心をもっていた羊飼いたちの前に天使が現れ、ベトレヘムの幼な子のもとへと導いたように、異境の地にあって真理を求める博士たちは、不思議な星に導かれて幼な子のもとへと導かれたのです。博士たちとは、羊飼いたちのように素朴で、素直な人…、神を探し求め、神のみ旨を求めている善意あふれるすべての人を代表しているかのようです。
 マタイの聖書が書かれたのは紀元81年頃といわれます。当時の社会では、夜空に輝く星は神秘的であり、不思議な世界でした。占星術も盛んであり、東方の博士たちと書かれていますが、マタイ福音では博士たちの名前も人数も書かれていません。星を神の計画、神のみ旨のしるしとみなしてその解釈につとめていたのが占星術師であり、天文学者であったろうと考えられています。星は当時の社会では天使的、霊的存在でした。星は、羊飼いたちをキリストに導く天使と同じような意味合いを持って博士たちに現れ、導かれたと当時の人々は考えたことでしょう。

 キリストはすべての人の救い主でありますが、とくに善意ある人々、キリストを探し求め、真理を待ち望む人々の救い主でもあったのです。その限りにおいては、私たち一人ひとりも、救い主を知らない人々をキリストに導く、星の役割を持たなければなりません。
 「主の公現」の祭日。救い主が世に公けにされたことを記念する祭日ですが、聖書では危険を顧みず、遠路はるばる訪ね来て礼拝する博士たちの熱意に対し、ヘロデや律法学者たちのかたくなな心が比較されています。メシアを一番知っていたつもりの人たちが、メシアから最も遠い人だったというメッセージも語られているような気がします。わたしたちはこのメッセージをどのように受け止めているでしょうか。

 博士たちの姿を崇敬し、憧れる人々の思いは、後のキリスト教伝承を広げてゆきました。聖書では記されていない博士たちの名前もカスパー、バルタザル、メルキオルと異邦人の世界の代表者と理解されるようになったのです。こうして、博士たちの訪問がキリストがすべての民の救い主であること、さらに、キリストが人類待望の救い主であることを示した、そのことを祝う主の公現の日でもあるのです。
 今日の第二朗読の、使徒パウロのエフェソの教会への手紙の最後の言葉も私たちに大切なものとなっています。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(3:6) 私たちの使命もパウロの言葉によって示されているかもしれません。

 私たちは真剣に救い主を捜し求めて訪問した博士たちの素朴で謙遜な姿を黙想しながら、すべての人をキリストへと導く使命・役割をさらに考えながら、この一年の歩みに結んでいきたいと思います。』

2019年1月3日木曜日

1月1日(火)神の母聖マリア「世界平和の日」

明けましておめどうございます。
新しい年が神の恵みに満ちた一年でありますようお祈りします。

この日のミサは勝谷司教の主司式によるミサでした。
後藤神父様、簑島助祭も共同司式されました。


司教様はお説教の中で、「世界平和の日」教皇メッセージ(2019.1.1)の内容を中心にお話されました。

司教様のお説教の大要をご紹介します。


『今日、1月1日は「世界平和の日」となります。毎年この日のために教皇様はメッセージをくださります。そのメッセージは聖堂の入り口に置いてあります。少し長いメッセージなので皆さんそれぞれ家に帰ってから読んでいただきたいと思います。

今回のメッセージの大きなテーマとして教皇様は「政治家」について述べられています。教会で政治的な話をするのは長い間無視されてきた傾向が続いていますが、私自身といえば「日本カトリック正義と平和協議会」の会長という立場もあり、そのような問題に対して教会がどのような態度で取り組んでいくかということを議論しています。ですから皆さんにお伝えしたいこともたくさんあるのですが、非常に難しさを感じています。いわゆる政治的な話をするときに、どうもイデオロギー的な話へと誤解されてしまいがちであるからです。しかし、今でもカトリック教会が政治的な発言をすることは、福音の精神に乗っ取って、「今、行われていることが本当に”共通善”、つまり全ての人の善のためになっているのかどうか」それが損なわれていたり、あるいは損なわれる危険性がある時に、それに対して警告を発することは、重大な教会の務めであると考えているからです。
今日の教皇様のメッセージで、「政治は市民権と人間活動を築くうえでの基本的な手段ですが、それを司る人々が、人間社会に奉仕するのでなければ、抑圧、疎外、さらには破壊の道具にすらなってしまいます。」そして、残念ながら、今世界の情勢を眺めるならば、対立や人と人との間に壁を作るような動きが非常に顕著になってきており、憂える状況になってきていることは皆さんもご承知のとおりだと思います。
また別なところではこのように書かれています。「政治の役割と責任とは、絶え間ない挑戦です。人間のいのちと自由、尊厳に対する根本的な敬意のもとに行われるとき、政治は愛のわざの卓越したかたちとなるにちがいありません。」政治が”愛のわざ”なのだということはあまり聞いたことのない表現ですが、しかし本当に人間の命と自由、尊厳に関することに直接影響を及ぼすのが政治ですから、その根本的な姿勢の中に人間に対する敬意や愛がなければならないという主張です。
それを受けて「「すべてのキリスト者は、その呼ばれている役割と、社会体制(ポリス)の中での影響力の度合いに応じて、この愛を実践するよう召されています。」と書かれています。

私たちはこの世に生きている限り政治とは無関係でいられません。世界の問題に目を向けると「一体私には何が出来るのか?」というような無力感を感じてしまいますが、しかし身近な問題として日本の社会を生きるとき、私たちの身の回りにはどのような政治的な問題があるのか、それらを政治的な問題だからといって一切口をつぐんで、あるいは目を閉じて見ようともせず、耳を塞いで聞こうともしないならば、それは私たちの務めを放棄していると言わざると得ないのです。
今日本の教会が取り組んできた社会問題はたくさんあります。「移住労働者」の問題。差別の問題。司教団が取り組んでいる脱原発について。死刑廃止。沖縄問題など。

今、教皇様がその中で伝えていることは、特に、平和を作り出すために、恐怖や不信感が支配するこのグローバル化された世界に根強くあるこの閉鎖的なナショナリズム的な姿勢が世界を覆おうとしていますが、それに抗っていくことが大切であると言われています。かつての2度の大戦が残してくれた教訓は、力と恐怖の均衡だけの問題として平和を捉えてはならないということ。しかし今、軍事力の均衡によって平和が保たれるのだという思想が、唱えられ始めている中で、私たちは本当にそれが正しいのかどうか、自分の目と耳で確かめ、その中で自分が何をすべきかを判断することが大切なことと強く勧めておられます。
最後に、平和の元后であるマリア様の歌ったマニフィカトは、まさに平和を作り出す私たちが参考にすべき賛歌です。 マリア様の取り成しを願って私たちのささやかな取り組みが日本や社会を変えていくものになるように強く願ってミサを進めたいと思います。』

2018年12月31日月曜日

12月30日(日)「聖家族」

まもなく2018年が終わろうとしています。
皆様にとってこの一年はどんな年でしたでしょうか?
この一年の神の恵みに感謝しましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『主の降誕を迎えると次の日曜日には「聖家族」の祝日を祝います。 教会では、祝日の「聖家族」ですが、普通一般には、家族に聖という言葉は、あまりにも畏れ多いことで付けられることはありません。しかし、信仰世界ゆえにこのような表現が用いられるのかも知れません。旧約時代には、神の威厳とそのあまりにも気高い至高性から、神殿などの建物や祭儀に用いる器具や用具などに「聖」という文字を付けることがあったとしても、神との距離を置くために罪深い人間、人には付けることはなかったようです。しかし次第に、祭儀をとおして神への奉仕に特別に召された人には、その人格に反映し「聖」という言葉も使われるようになったようです。新約では、12人の弟子たちにも神への聖への同化の要求として「聖なる使徒」という表現も生まれていくようです。人にも物にも「聖」がつくと言うことは特別な意味があるということで、それには二つの意味があると言われています。一つは、神の栄光を現す輝かしさ・明るさを意味すると言われ、もう一つは、分離を意味して聖と俗すなわち創造者と被創造物、神と人とを区別すると言われます。現代は、耳慣れたことばとしては神からの特別な祝福の意味を持つ「聖別」があり、聖人にゆかりのあるものに対し「聖遺物」ということばももよく聞かれます。大切な事は、偶像崇拝になるのではなく、聖なる人や物をとおして、神の聖性に触れることが大事なのです。

 さて、今日は、父と子と聖霊の三位一体という「天上の聖家族」に対して「地上の三位一体である聖家族」を現している「聖家族の祝日」を迎えていますが、みなさんの描いている「聖家族」はどんなものでしょうか?そして、聖ヨセフと聖マリアの清らかな愛の関係。両親の愛情を一身に受け、言うこ とをよく聞いて、すくすくと育つ幼子イエスがいる。多くの人が思い浮かべる「聖家族」は、まさに一点の曇りもない理想的家族の姿なのではないでしょうか? 一般に聖家族とは、聖母子である聖母マリアと幼な子イエスと聖ヨゼフ (イエスの養父)の3人のことを言います。しかし、中世のレオナルドダヴィンチやラファエロの絵には、マリアの母聖アンナが入ったり、また、幼な子のイエスとヨハネとを中心にマリアとヨゼフそしてエリザベトがいる有名な芸術作も多く家族構成が様々名ものがあるようです。建築家アントニオ・ガウディの設計による有名な教会ではサグラダ・ ファミリアがあり、日本語に訳すると聖家族教会と呼ばれています。

 今日のみことばでは、12歳を迎えたイエスと両親であるマリアとヨゼフが描かれていますが、聖書では聖家族の様子は余り語られてはいません。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(ルカ2:40)。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:51~52) とありますが、実際の生活がどのようであったかは、聖書では語られていないのです。今日のみことばで語られている出来事では、両親が心配して三日間も探し回るという情景で、両親の言うことをよく聞いてすくすくと育つイエスの姿がある聖家族のイメージからはほど遠いものではないでしょうか?
 今日の福音で皆さんは、神殿でシメオンが話した言葉を思い浮かべる方もおられると思います。イエスもマリアも苦しまなければならないということ、しかも「剣で心を刺し貫かれる」ほどの耐え難い苦しみが将来あるとシメオンは話されていました。まさに今日の親の心配を考えると、そういう現実が起こってきたということを表している物語だと思います。考えてみると幼な子が生まれた直後に両親は大変苦しい状況に置かれました。幼な子を抱いてヘロデ王が死ぬまでの長い間、遠くエジプトに避難しなければならない、そんな物語が聖書では語られていました。すべてが保証されているような聖家族ではありませんでした。でも私たちが描く「聖家族」の姿は、神に祝福され、幸せに満ちた家族としての憧れがそこにあります。でも今日のみことばのように、その現実は私たちと変わらない苦しみもあった。子育ての悩み、心配もあったと言うことなのではないでしょうか。
 でも私たちが聖家族から学ぶべきことは、マリアの信仰の姿があります。「主を信頼し、信じること」。マリアが私たちに示した模範そのものであります。私たちが聖家族を黙想するとき、祈るとき、沈黙のうちに神の遣わされた御子イエスの現れを見ること。それが聖家族を黙想すること。その黙想の中で奥深い神秘を見つめること。これも大切なことと思います。

 師走を迎え一年も最後となり、この一年を振り返りながらミサに与る方も多いと思います。そして、新しい一年をまもなく迎えますが、聖家族に倣い、家族のつながり、共同体のつながりを、主の計らいの中に見つめ、黙想しながら、どんな時にも互いの成長のために祈りたいと思います。わたしたち一人ひとりも、神の子どもとして愛される人となり、成長することができますように。
 元旦をまもなく迎えますが、日本の元旦は、私たちにとっても大切な一日となります。その日は「神の母聖マリア」の祝日になります。世界の平和のために祈る日にもなります。日曜日以外には1年に二度しかない私たち信徒が「守るべき祝日」であることも忘れないようにいたしましょう。そして、私たちの共同体、私たちの社会、この地上の世界に平和がおとずれることを共に祈る元旦でもありたいと思います。』

2018年12月24日月曜日

主の降誕

主のご降誕おめでとうございます。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださっています。



私たちはこの日、聖なる、そして平穏で静かな夜を迎えることができました。


後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『キリスト教の世界では、今宵のイブからクリスマスが始まります。 それは元々、わたしたちの現代と違って太陽の陽が沈み暗くなる夕方から 一日が始まるというユダヤの伝統・習慣が背景にあるからです。ですから、 「タ方が午後4時から11時頃まで」を指してイヴニングと言うそうですが、 いま、この瞬間の時間帯が Evening であり、教会に集うわたしたちはクリ スマスイヴを迎えているのです。すなわち、Christmas Evening から イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの一日が、明日につながって主 の降誕を祝う事になります。
あらためて、今年も、わたしたちが待ち続けてきた・救い主イエスのご 降誕をみなさんとともに心よりお祝い申し上げます。 初めて教会に来られた方もおられることでしょう。 「ようこそ、お出でくださいました。」お祝いのご挨拶を申し上げます。

今年も、あとわずかとなる年末を迎えていますが、この一年を振り返り 感謝の祈りを心に携えて教会に来られた方もいるのではないでしょうか。
わたしたちの周りで起こった思いがけない事故や災害をとおして思い起 こされる苦しみ・悲しみを乗り越えた日々があったこと・・・。また、 多くの人に支えられての希望や喜びに包まれた笑顔もあったことなど・・・。
わたしは2千年前に、苦しみや困難を乗り越え救い主を待ち続けた人々と同じように、今日わたしたちもクリスマスを祝っているような気がします。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださるという祈りがそのことを現しています。イザヤの預言の最初のことばは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」と告げています。 2千年前とこんにちではその情景はあまりにも異なるかも知れません。 たとえ暗やみの中でも、どこへ出かける時には自分の足で歩くことが普通 であった時代は、いま、あっという間に自家用車で教会の門の前に着いてしまいます。闇の世界を導く光は今や車のヘッドライトかも知れません。 でも、わたしたち人間の歩みは、いつも暗闇から抜け出る切なる希望を求め続けていると言えるでしょう。
みなさんの心の中に救い主イエス・キリストの光がなければ平和も希望 も闇に覆われ、緊張や孤独の世界があり、自分さえ見えないままなのです。
しかし、神の遣わされた御子イエス・キリストは、わたしたちの救い主 であり、光へと導いてくださる唯一の方なのです。

誰にとっても人生は順調とは言えません。
聖書に描かれている「イエスの誕生物語」でさえもわたしたちにそのこと を教えています。旅の途中で、身重ものマリアとヨセフの夫婦でさえ, しかも、宿も与えられずに馬小屋での出産という状況でした。 また、「幼な子」と言うだけで命を狙われエジプトへの逃避の旅がありました。
平和を願うわたしたちにも、平和の保証がないのです。 神の救い、キリストの救いこそ、わたしたちの保証となるのです。 わたしたちの心の中に光をもたらすイエスを迎え、祝福を願いましょう。
ヨハネの福音は述べています。
神とともにあったことばは、命となり、光となってわたしたちを照らし 続けると・・・。

救い主の誕生を祝うきょう、幼な子のうちに、キリストの中に神のわたしたちに対する光があります。 わたしたちに与えようとする神のいのちそのものが、生きているのです。 「降誕されたイエスをしっかりと見つめ、そこからわたしたちのいのち、 希望、愛をくみとっていきたいものです。
今日のクリスマスイブと、明日に続くクリスマスの一日を、すべての国 とすべての人に平和が訪れることを願い祈りましょう。』


「主の降誕」ミサの後、カテドラルホールで祝賀会が行われました。