2020年1月22日水曜日

年間第2主日

この日は、先週フィリピン・エクスポージャーから帰国された勝谷司教司式の主日ミサでした。


お説教では、キリストを証するために、私たちに出来ることがあるはずです。というメッセージをいただきました。

お説教の大要をご紹介します。

『先週の木曜日、高校生を連れてフィリピン・エクスポージャーから帰ってまいりました。
今年も感動的な出来事があって、皆、涙を持って別れを惜しんで帰国しました。
帰路、私は高校生とは別な便を使ったのですが、大変な思いをしました。というのもご存知の方もおられるとおり、マニラのすぐ南にある火山が爆発して今大変な被害をもたらしています。
ちょうど私が出発する前の日に噴火があり、その当日はほぼマニラ空港が閉鎖されている状況でした。私が乗る便は、午後最初の12:45分 ダバオ発マニラ行きの便だったわけですが、午前中の便は全てキャンセル、他の航空会社の便は終日全便キャンセルでした。
私はその日、マニラを経由して日本に帰る予定だったのですが、それに乗れなければ乗継便がないという状況でした。恐らくキャンセルになるだろうということを見越して、ネットで八方手を尽くし、ようやく香港経由の帰りの便の”空き”が見つかり、あとはボタンを押せば購入完了というところまで漕ぎ着けました。
ところが、なかなかマニラ行きの便のキャンセルが点かず、定刻発の表示のままなのです。キャンセル扱いにならないと、購入済みの航空券は全て棄てることになってしまうので、直前まで待っていました。そして、いつまでもキャンセルにならなかったので、とうとうチェックインしましたが、その後、延々と何の情報もないまま4時間待たされました。よくフィリピンの航空会社がやるのは、散々待たせた挙句にキャンセルということがあるので、どきどきしながら待っていました。
最終的には4時間遅れで飛んだのですが、それ以降の便はキャンセルになっていました。その日、ダバオからマニラに飛べた便はわずか2便のみで、それに運よく乗ることができたわけです。到着したマニラ空港でも人々がごった返している状況でしたが、その日のうちに何とか成田空港まで帰ることができました。しかし、成田に着いたのは真夜中で着いてからホテルを探さなければならない、また、次の日の成田から千歳までの便も満席で乗れるかどうか分からないという状況であり、不安でいっぱいでした。
一番大変だったのは、先が見えない、この後どうなるか分からない、そして何の情報もない、ということでした。そのようなことが如何にストレスと不安をもたらすということをつくづく感じさせられました。
結果的には、一日遅れにはなりましたが、比較的順調に帰ってくることができたわけです。ただ、司教館に帰って来た翌日、一日遅く帰ってきたということに対して皆の反応が薄く、「何かあったのですか?」という言葉に二重のショックを受けました(笑)。
フィリピンでは噴火によって大変な騒ぎになっているのですが、日本ではほとんど報道されておらず、皆さんの中にも知らない人がいるのではないかと思います。
このように、マスコミがどのようなニュースを流すのかということによって、私たちは近くの国で起こっている大災害についても全く知らないでいることがあるのだということを感じました。
これ以前にも、1998年に私は一年間ヨーロッパにいたのですが、その3年前に起こっていた阪神淡路大震災の話をしても知らない人がほとんどでした。あのような大災害のことをヨーロッパの人が知らないということに大変驚きました。

このように私たちが受け取る情報というものは、マスコミがどのように扱うかによって、大きく左右されてしまうということです。ただ、今私たちはマスコミに頼らずともネットをとおして様々な情報にアクセスし知ることが出来るような環境にあります。しかし、まだ多くのマスコミが恣意的な情報を流すならば、私たちは操作されてしまうという危険性や、あるいは何も知らずに置かれるのだという危険性も今回の出来事をとおして感じています。

では、私たちはどんな情報を外に向かって流しているのか、そのことも考えてみなければならないということも感じています。
今日の福音書を見ると、ヨハネはこの当時マスメディアというものが無かったので、個人の証でしか伝達する術はなかったのですが、ヨハネが指し示したのは、言うまでもなくイエス様ご自身です。ヨハネはこの証を自分に与えられた啓示をとおして行ったわけです。しかし、ヨハネが期待していたメシア像はこの世の悪を駆逐する正義の神の登場、すなわち理不尽に国を支配しているローマ帝国を追い払い、そしてまた人々を苦しめている悪徳商人や為政者、彼らに裁きが下される、そのようなことを期待していたはずです。
しかし、どうも自分の予想していたメシアと違うと感じた時に、ヨハネは獄中から弟子を派遣し、こう問わせました。「来るべき方はあなたですか?他の方を待つべきですか?」ここにヨハネの戸惑いを見て取れるわけです。その時イエス様がおっしゃられたことは、「目が見えない人の目は開き、足の不自由な人は歩けるようになる。そして死者は生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされる」。
イエス様にとって自分がメシアであるという証は、このような奇跡的な行いを意味するのではなく、社会から疎外され追いやられている人たちに福音が告げ知らされている、その人たちに神の愛が告げ知らされ、その人たちがまた人間社会へと復帰し、その中で人間らしい生き方を取り戻していく、それこそがイエスがメシアであることを指し示す”しるし”であるということです。
そして今、ヨハネのように私たちは、このキリストを指し示すように、その試練を託されています。では私たちはどのようにこのキリストを指し示すのか? 聖書から読み取れることは「2人3人、わたしの名によって集まるところには、わたしはいる」、そして互いに愛し合う時そこに神の存在が証されていく。
私たちは一人の努力によってではなく、共同体の中に、共同体をとおして、存在するイエスを証しなければならない、そのように召されていると考えなければならないでしょう。そして、共同体がなすべき証は何かというと、自分たちが内向きになって、ただ自分たちの閉ざされた環境の中で自分たちの救いだけに関心を向けるような共同体でないことは確かです。
むしろ社会に向かって、何を証するのか、それは言うまでもなくイエス様が行った活動です。社会から疎外されいる人たちに寄り添って彼らの声を代弁していくものとなる、
それを通して私たちはイエスを証することになるわけです。
それでは、札幌教区はどうなのかということですが、ベトナムの技能実習生の支援など最近いろいろな形で慈善活動が行われマスコミでも取り上げられています。
カトリックの名前は出てきませんが、私たちはそうのような人たちを支援する活動をとおして、そのような人たちの存在を社会に指し示して、そして人々の良心に訴えかけていく、これも大切な役割だと思います。
私たちは、この共同体として何ができるのか、内向きに教会行事の話だけではなく、今、身の周りの日本の社会をよく見た時に、何か自分たちに出来ること、関わることが出来ることが必ずあるはずです。そういうところに目を向け、心のアンテナを拡げながら、そこにキリストを指し示す証の活動を、私たちはしていくように召されているということを、改めて考えていただきたいと思います。』

2020年1月13日月曜日

1月12日(日)主の洗礼

神の子であるキリストは、なぜわざわざ洗礼を受ける必要があったのでしょうか?


この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の洗礼をもって公生活が始まります。イスラエルの人々にメシアが来たことが初めて知らされて、人々はメシアの到来を聖霊と洗礼者ヨハネの証によって知るようになります。ある人々は今日のところを疑問に思って「何故、わざわざイエス様は洗礼を受けられたのだろうか?」。洗礼者ヨハネが行っていたのが悔い改めの洗礼ですね。「イエス様は悔い改める必要も清められる必要もないのに、パフォーマンスだったのでしょうか?」というような意味ありの質問でした。昔からこのような質問があって、最近では言われませんが、伝統的に聖人たちやむかしの聖なる学者たちはこう考えていました。「イエス様は洗礼の水を清めるために洗礼を受けられた。」と言うことです。イエス様が清められるのではなくて、将来洗礼に使われるであろうすべての水を清めるつもりで洗礼を受けられたという解釈があって、けっこう教会の典礼の中では繰り返し言わているのです。聞いたことがあるかどうか分かりませんが、その答えを聞いて質問する人は納得していました。
  洗礼者ヨハネは自分こそ洗礼を受けるべきだと、これは本当に正しいことだったのですが、イエス様の答えは「正しいことをすべて行うのは我々に相応しいことです。」と、ちょっと不思議な答えでした。洗礼者ヨハネの考えこそ正しいのではないかということにイエス様は「正しいことすべてを行うのは相応しいことです。」とおっしゃいました。
 神様のおっしゃる正しさと私たちが言う正しさとはだいぶ違います。私たちの世界では正しさや 正義は人によって違うのです。正しさを主張しぶつかったり戦争したりします。対立した方からの正しさというものがあります。そして、日本人が主張する正しさと韓国人が主張する正しさは違って争う。トランプ大統領の言う正しさだけあって、アフリカの人が支援することもあるのです。私たちの世界では正しさというものが違って、それぞれに正しいと思っているのですが、それが争いを引き起こすことがおうおうにあります。
  イエス様がおっしゃる正しさは、洗礼を受ける必要がなかったのに、ある意味で自分自身は全人類の代表の方ですね。ここに罪をすべて押し込めて、十字架に磔にして人類の罪の赦しをもたらす。こういうおつもりがありました。ですから、こういう広い意義も含めた正しさであって、よくよく考えたら本当に素晴らしいことだと思います。正しさ、正義のみを見ていると、罪ある人間の罪を罰するのも正しさのひとつとなっています。
罪を罰し、良いことを褒める。報いを与える。これが一般的に言う正しさであり、法律の正しさであり、私たちみんなそれを正しいと思うのです。         
 しかし、神様の正しさは愛に満ちた正しさ。そして人間の犯したすべての罪を、裁くべきところですが、だからといってすべてチャラのしてしまうということもしない。正義が保たれなければ秩序が壊れていきます。そこで、御ひとり子を人としてお生まれさして、全人類の代表です。神の子であり、真のまったき人である。私たちと変わらない人となる。
そして彼がすべての罪を背負って十字架に架かってくださった。それによって罪の償いという人類の果たすべきことが、イエス様において果たされる。正義が満たされ、それによって神様は人類を自分の子、神の子として愛することができる。親となることができた。
  罰すべき正義の中に自らの自己犠牲というものが入って人類を愛した。これは神の正しさであって、私たちの考える超える正しさであって、私たちはこういう神様の正しさを学びながら、あるいは自分自身の身に置き換えながら、この世の中で神様の正しさというものを実現しなければ、今後それぞれの人が自分がもっとも正しい、これで良いだろう。善意で主張することによって争いが起こるのを止められなくなってしまう。
  もう一方、神様からの視点にたって、それぞれの正しさを満たすために、誰かが間に入り和解の使者、仲介をする使者、自己犠牲をする使者、主イエスに倣う使者によって和解がもたらされる。これが聖書の思想なのです。イエス様がご自分の身体によって敵対する者を和解させられた。そこをおっしゃっているわけです。

 そう言いますと今日の洗礼は、これから生け贄に捧げようとしている自分の身体をまず清める。そういう意味合いも入っているかもしれません。そしてイエス様は私たちが正しいと思うところをはるかに超えて、普通ならばメッセージを神の教えを天から響かせれば良かったのです。あるいは必要に応じて現れて神の教えを説けば良い。それでも十分だったと分かりませんが。しかし、イエス様は女性からお生まれになったのです。赤ちゃんの時から人であられた。そして、公生活の前、隠れた謎の30年間。漁師となり,漁師に育てられたり、いろいろな苦しい体験をしながら、そこから苦しみながらいろいろなことを悟っていく。成長していく、成熟していく。そういう私たちがたどる全く同じ人生を30年辿られていったのですね。神の子だからすべてを免除されて、すべてを始めから悟っていたわけでなくて、同じようにすべてにおいて私たちと同じであった。罪以外は。聖書が述べています.

  そのようにして私たちは、イエス様が私たちと辿った人生とまったく同じ経験をしてこられた。その中で苦しみを共にしてこらえながら神の国を実現されていったと、思うときに、凄い親しさを感じるわけです。私たちの人生もすべてが尊い。成人となった大人が尊いのみならず、イエス様が赤ちゃんとなり、幼児となり、そのすべての時代が尊く意味がある。祝福されたものになっています。イエス様の秘密の30年間の中に、本当に人間のすべてを祝福しよう。そういう意味があるのではないかと思います。
 そして、死刑囚になったのです。冤罪です。冤罪で死刑になっていった。冤罪となった人たちとまったく同じ立場になり、そして国家により死刑に宣告されてしまった。つまり、行政(司法)によって有罪にくだされた人になってしまった。十字架の上では「御父よ、何故私をお見捨てになったのですか。」と失望の叫びです。見捨てられたようなところまで享有してくださった。ですから自分は見捨てられたと思う人たちと同じ立場になられた。
そこまで降りていかれたと思います。
 お生まれになった時から貧しいところに生まれ、ヘロデ王から命を狙われて難民になっていったのです。そのように単に人間になったのみならず、そのもっとも社会の隅々、片隅のところにまで光が届く。冤罪の人にも、絶望する人にもイエス様の光が届いていく。
そういう意味があったのではないかと思うのです。
 そう考えた時に、イエス様のおっしゃる正しさというのは、本当に愛に満ちた正しさであって、私たちひとり一人が考えたり、主張したりする正しさを超えて、正しさの極致、
誠実と誠実が最高に至る姿勢という生き方をつらぬかれました。ですからイエス様の言葉というものは様々な思いやりと正義と愛に満たされた言葉が語られます。語る口調は素晴らしい口調。イエス様のまなざしも、すべてそういった思いに満たされたまなざしになっていく!その一挙手一投足、しぐさ、そういうものがすべて満たされた人になっていったと思われます。神様はそういうイエス様を見て、今まで旧約聖書でだれにもおっしゃったことのない天からの声を語られます。「これは私の愛する子。私の心に適うもの。」本当にそのような方だったのだと強く思います。

  今日は正しいことをすべて行う、正しいことの意味。洗礼者ヨハネの正しさを超えて、私たちが一般に考える正しさを超えて、愛のある正しさ。敵対する者を和解させる正しさ。罰せられるべき者が救われる者になれる行動する正しさ。そういうものであることを学びます。私たちも神様の正しさ、人となられた神様の正しさ。すべての人の隅々にまでいきわたる、常にご自身の人生をそれに捧げられた。そういう正しさから学んで、私たちも社会で、本当に正しさというものを追い求めたいと思います。』

2020年1月5日日曜日

1月5日(日)主の公現

今日のルカ神父様のお説教は、とても「ほっこり」する内容でした。


お説教の大要をご紹介します。

『北一条教会は、建物も教会らしく、また馬小屋も素晴らしいです。とてもうらやましい(笑)

今日の「主の公現」の祭日は、全ての人、全人類のために救い主である神が公に現れたことをお祝いする日です。

福音の「種」は、いろいろなところにあります。その中のひとつ、工藤直子さんという人が作った詩の一節を紹介します。
「ひなたぼっこ」  こねずみ しゅん という詩です。

「でっかい うちゅうの なかから
ちっぽけな こねずみ いっぴき
みつけだして
おでこから しっぽのさきまで
あたためて くれるのね
  ・・・・・・
おひさま
ぼく
どきどきするほど うれしい」

この作者の方は、キリスト教の信者かどうかはわかりませんが、この詩からは、神様の温かい愛、神様の愛は一人一人のひとに向けられている、ということが伝わってきます。

神様は、ちっぽけな僕を全宇宙のなかから見つけてくださる。ちっぽけな僕のことも忘れないでいてくださる。

今日の福音で、占星術の学者たちが見た「星」。それはただの夜空に輝く星の光ではなく、心を照らす信仰へと導く光でした。
ある信者さんから聞いたお話をご紹介します。
その信者さんのご家族は、おじいちゃん以外、みな信者でした。おじいちゃん以外の家族は食事の後、みなで夕べの祈りをするのが日課になっていました。ある日のこと、4歳の孫がいつものようにみなで夕べの祈りを捧げようとしていたところ、ひとりで新聞を読んでいたおじいちゃんのそばに来て、「じぃじ、お祈り!」と言ってきたそうです。
おじいちゃんは、その孫の一言をきっかけに、ある日のこと、近くの教会に立ち寄って洗礼志願者の勉強会に参加することにしたそうです。

今日の第2朗読「使徒パウロのエフェソの教会への手紙」では、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった・・・」とあります。
パウロがキリストの恵みを与えられたのは、「パウロ自身のため」ではなく、パウロをとおして「皆のために」ということです。

この一年、まだキリストを知らない人たちのために、私たちも神の温かさを伝えていくことができるように願って、歩んでいきましょう。』

2020年1月2日木曜日

1月1日(水)神の母聖マリア「世界平和の日」

明けましておめでとうございます。
新しい年が神の豊かな恵みに満ちた年でありますように。
午前10時から湯澤神父様の司式により元旦ミサが行われました。


また、ミサの中で一足先に新成人の祝福がありました。教会からお祝いをお贈りしました。おめでとうございます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8日たってとありますが、イエス様の御降誕から8日目のことです。この福音は、クリスマスの早朝のミサで読まれる箇所です。早朝のミサは行っているところが少なく、聴くことがないかもしれません。
 今日の福音で大事なところは「飼い葉桶に寝かせてある」ということがキーワードになっています。マリアとヨセフがベトレヘムに着いて、子供を生んで飼い葉桶に寝かせました。天使たちが羊飼いに現れて、その赤ちゃんがイスラエルの救いの徴、メシアの徴となったことを伝えています。そういうことから重要な言葉になっているのです。

  この話しにはひとつの背景があって、イザヤの預言です。イザヤは当時の人々の信仰を嘆くのです。動物だって自分の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルの人たちは自分の飼い葉桶を忘れてしまっている。しかし、ルカは今はそこを探し当てる時代になっている。それが喜びとなっているんだと書いているのです。
   
 救い主の到来の喜び。念頭に相応しい箇所であります。新しい年に向かう。キリストに出会うことができる。それは、象徴的なものは十字架、復活。でも福音書こそイエスに出会うことができる。パウロが言っている福音そのもの。
  私たちはこれを聴き、これを受け入れるとき、神にキリストに会うことができる。そういう素晴らしい時代が到来している。
  そのことは私たちの双肩にかかっている。そういう意味で新しい年を身を粉にして、方向性を見失わないように歩んでいきたいものです。』


2019年12月30日月曜日

聖家族

今年最後の主日ミサでした。
聖家族も当時の迫害から難を逃れようと宿も見つからずに彷徨っていた名もない多くの難民のなかの一家族でした。

この日の勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。


『「聖家族」の祝日を迎えました。
第1朗読、第2朗読は、家族の在り方を示しています。
そして、福音書は、どんな困難に直面しても、家族が一つになってその困難を耐えて克服していく姿を描いています。

昨年シノドスがありましたが、それについての話は以前したことがあります。
今の教皇フランシスコが強調していることは、最も弱い立場に追いやられた人たちと共に歩む、そのことを常に機会あるごとに、何処へ行っても主張されています。
今回の訪日に当たっても、その線はぶれることなくお話されていました。
家庭の問題についても、昨年のシノドス以前に開かれた家庭に関するシノドスにおいて、現実は非常に厳しい、特にヨーロッパにおいては、教会が規定している結婚の形態を取らずに、いわゆる正式な結婚をせずに婚姻関係を結んでいることや、シングルマザーの問題など、教会が受け入れることができないような家庭については、教会が勧めるあるべき姿に従っていないということから、疎外され教会から離れざるをえない。でもそれは、彼らが離れていったというよりは、むしろそのような教会の体質が彼らを阻害し追いやっているのだと。
同じような論点から、青年についても言われました。青年が教会を離れていったのではなく、教会が青年から離れていったのだと。
つまり、現代社会が抱えている様々な問題が、教会の勧めるあるべき姿からかけ離れている現実を、良くないことだとして切り捨ててしまうのか。それが従来の”裁く”教会の姿でした。
しかし、教皇フランシスコはそうではなく、まさにそのような現実に生きてその中で苦しみ、そしてその生きる指針を求めている人たちに対して、教会があるべき姿はこうだと、言ってみてもしょうがないことです。むしろ、その人たちの苦しみに寄り添い、共に歩み、その重荷を担うことによって、進むべき方向を指し示していく、それがこれからの教会に求められる姿であると強調されています。

今日の聖家族の祝日は、そのようなテーマが一つにありますが、もう一つ重要なテーマがあります。まず今回、教皇様が訪日され、様々な意趣がありましたけれども、マスコミにほとんど取り上げられずスルーされた問題が一点あります。
私は東京のカテドラルで行われた「青年との集い」の総責任者でした。当初、青年が本当に集まるのか心配していた面もありましたが、予想を遥かに超える申し込みが殺到し、申し込み開始から僅か2日間で席が埋まってしまいました。さらにできるだけ多くの青年たちに参加してもらおうと長椅子を全て取り外しパイプ椅子に置き換え何とか追加の200席を確保しました。
ところが直前になって、あと20席確保するようにと、教皇様から指示がありました。その席は誰のためかというと難民の人たちのためのものでした。そして何とか最前列に20席確保しました。本番の際には、教皇様が正面の扉から入って来て、難民の人たちの前を通った時に足を止めて、教皇様は彼らと親しく話しをしました。
教皇様のスピーチは、3人の青年の代表が話したことに対して答えるという形で行われました。会場には関係者を含めると1000人以上が入っており、そのうちの200人程度は外国籍の青年たちでした。
教皇様は、メッセージの中で、
「日本の社会は、今日ここを見ても分かるとおりモノトーンではない。多様な文化・国の人たちがいます。そして何よりも皆さんの保護を求めて、遠くから来られている難民の人たちがいます。彼らを助けてあげて下さい。」とおっしゃられました。教皇様は、このように難民や移民の人たちに常に心を留めておられます。
実際に日本の教会は、インターナショナル・チャーチになって来ており、多様な文化の人たちがいて、その中では異国に来て困難な状況に置かれている人たちがたくさんいるということを改めて知らされました。

難民だけではなく、技能実習生で不当な扱いを受けている人たちもおり、これに関して札幌教区はこの一年間で格段にその対応が進んでいることが私はうれしく思います。
手稲教会の取り組みは、道新の一面全部で取り上げられていましたし、函館のケースについてもNHKや道新で取り上げられました。教会が、そして教会に来ている高校生や青年が、この難民の人たちと関わり、生活支援だけではなく、直面している労働問題についても対応している。函館市内のプロテスタント教会がクリスマス献金を持ってきて、湯川教会で取り組んでいる技能実習生の支援活動に対して賛同するので、このお金を使ってくださいと持ってきました。
いま地方の教会ほど、国際的な教会になってきており、日曜のミサも多言語で行われています。
北一条教会についても以前からお話しているとおり、英語ミサと同じ共同体のメンバーとして、一つの共同体を作っていくような方向で検討していっていただきたいと願っています。

今日の福音書のテーマというのは、まさに「聖家族」自身がエジプトへと逃れた、つまり難民だったわけです。そして私たちは、クリスマスの宿がなく馬小屋で生まれたというシーンも含めて、特別な二人という見方をしていますが、実はそうではないと私は思うのです。たくさんの人たちが人口調査のために移動していく中で、多くの人たちが宿を見つけられずに彷徨っていた。そういうたくさんの人たちの中の名もない二人だったわけです。ヘロデの迫害はこの二人をピンポイントで狙っていたわではなく、誰だかわからないから大勢の子供たちが殺戮されたわけです。ですからその対象はたくさんいたわけです。聖家族だけではなく他の多くの家族が危機を感じていました。そう考えると、たくさんの人たちが難を逃れようと避難したと考えられます。そういう多くの避難民の中の名もない三人だったわけです。そう考えると、この聖家族は特別なものではなくて、多くの小さき人たちの一人にすぎない。そう考えれば、私たちは現代社会において、日本国内に来て困難に直面している人たちの中にも、この聖家族はいるのだということに、改めて私たちは対応していく必要があるのだと思います。』

2019年12月27日金曜日

12月25日(水)主の降誕(日中のミサ)

平日の日中にも係らず、聖園幼稚園の子供たちをはじめ350名の方がミサに参加しました。ミサ後には聖堂内装飾の紹介を行いました。


この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『昨夜は馬小屋を見ながら、この世にこられたイエス・キリストのお祝いをしました。
今日読まれた福音朗読は少し難しくて、昨日こられたイエス様というのは本来の姿はどういうものであるか、人間となられる前の本来の姿はいったいどういうものであるか、ということを語っています。ひじょうにちょっと深くて、普段ちょっと私たちが考えなかったように、この世の創造にかかわるようなことです。
 そして、はじめに言(ことば)があった。言(ことば)がいっぱいでてきます。この「言(ことば)」をイエスに置き換えて読むということです。イエス様が神の言(ことば)であると言われているように。ただ、言(ことば)という言葉には訳しきれない。元々のギリシア語は「ロゴス」と言います。はじめにロゴスがあった。このロゴスはわたしたちが使っている「言(ことば)」という単語ではとてもとても、全部を表していない。もっと深い内容をもっています。例えば「知恵」とも訳されます。言(ことば)は神の知恵。あるいは神の英知。いろんな言葉がそこに入ります。あるいは、もっと大きく言うと、宇宙と生命の源であるというふうに。天の御父、神様はイエス様とともにこの世を創造なされたということが、ここに書かれているのです。イエス様は神の子であって、御父の心であって、知恵であって、御父とともにこの世を創造なさった神である。というのが私たちの信仰ですね。ですからそこまでいくと本来のイエス様の姿をとらえるのは私たちにはとても難しくて、人となってくだされなければ分からないというぐらいの方なのです。
 そこでイエス様はあるとき教えの中で、私のことは御父以外には誰も知らない、とおっしゃったことがあります。私のことは御父以外には誰も知らない。つまり33年の生涯をおくられたイエス様のこの世の生涯については、私たちは聖書をとおして知っていますが、その本来のお姿は神の子としての、神の英知として、宇宙に満ちたそういう本来の姿は私たちにはとらえるのは難しい。そういう意味合いがこめられているのだと思います。

 そういうような言(ことば)が人となられた。赤ちゃんとなって馬小屋の中で生まれてくださったのです。そしてこの方によって私たちも大きな恵みを受ける。そういう御方から私たちと同じ人間となってくださり、本当に2000年前に33歳の生涯をおくってくださった。そのことによって私たちとその神様との距離がうんと縮められます。私たちも神様のいのちに与る者としていただいた。
 それはいろいろな意味があります。そのことを今日は思い起こす。この人となってくださった方がいったいどういう御方であるのか。それは少し難しいけれど、御父とともにこの世を創造された方です。この方に私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受ける」(ヨハネ1章16節)ことになりますよう、そういうことを教えています。このみ言葉をもう一度読んで、言葉(ことば)というところに「イエス様」を入れて(置き換え)、本来のこの単語では訳しきれない、深い広い意味だということを思いながら、もう一度、ゆっくりと家で読んでいただければと良いと思います。』

2019年12月25日水曜日

主の降誕(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます。


7時からの夜半のミサには600名の方がお越しになり、一緒に救い主キリストの誕生をお祝いしました。今年は、森田神父、レイ神父、地主名誉司教の共同司式により、英語ミサとの合同ミサで行われました。


森田神父様のお説教をご紹介します。

『マリア様とヨセフ様はベツレヘムに向かいます。マリア様はもしかしたら(イエス様の)誕生に期待をふくらませながら旅についたかもしれません。しかし、旅先は人がごったがえしていて、宿をとれませんでしたので、とうとう馬小屋になってしまいました。そのときに、現代であればインターネットなどで予約がとれるのですが、一生懸命探したあげくとうとう見つからなかった。神様から頂いた尊い子供をこんなところで産むことになってしまった。ある意味で最悪のパターンとなってしまったと言えます。それでヨゼフを責めたくなったかもしれません。けんかをしていたかもしれませんが、きっと一生懸命やったあとならば、もういいということで、聖母はきっとそういう非難をなさらずに、その運命を受け入れられたなんだと思います。

 今日、天使たちが羊飼いにあらわれて飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これが徴(しるし)であるとおっしゃったのです。このように馬小屋の飼い葉桶に寝かせられるようなことは不幸なのではなくて、逆に神様からの徴(しるし)ですよ。ということが天使にも告げられたということです。後からマリア様は羊飼いたちからこの話しを聞くことになります。そしてこれは神の御心だ、永遠の神様のご計画だったことを知ることになります。
 ですから私たちも一生懸命やって、それで駄目であればお互いに責め合うことなく、もしかしたら自分たちが想像していなかった、一般的には最悪と言われることのなかにも、神様の永遠の計らい、お考えがあるかもしれないことを心に留めたいと思います。私たちは一生懸命やっても思い通りにいかない。お互いに責めたくなる。責任的に言えば、悪いことばかりになるかもしれませんが、神様は私たちに自分が一生懸命やったらそれで良い。そして世の中が考えるのがまったく違う。答えも私があなたがたに持ってますよということをおっしゃりたいのだなと思います。イエス様が宮殿の中ではなくこの貧しい馬小屋で生まれたということは、人となってくださったことだけでもありがたいのですが、一般の人や身分の高い人のためにお生まれになったのではなくて、社会から外されてしまった人たちに対してもお生まれになったというメッセージが本当に伝わる気がします。

 この後、イエス様は王様に命をねらわれて エジプトに行くわけですが、難民になるわけです。そういうことを良しとされた。ここは私たちの考えとは違う。そして、だからこそいっそう私たちに近くなった。驚くほど近くなられて、私たちよりももっと下になってくださった。こういうメッセージが馬小屋でお生まれになるという中にも読み取れると思います。イエス様がメシヤだ、私たちが考えて最高の場所ではなくて、この最低の場所に生まれたとういうことは、神様の別な計らいであったかもしれない。私たちはそう考えることができるかもしれません。
 この旅先、馬小屋。一生懸命やったけれども、そこに私たちもそうだと思いますが、
実は私たちが考えていなかった素晴らしい計らいがあるかもしれない。そのことを今日、考えていきたいと思います。』

2019年12月22日日曜日

待降節第4主日

降誕祭を迎えるにあたり、両親であるヨセフとマリアの試練について思いを巡らせてみましょう。

この日は森田神父様のミサ司式でした。


森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、イエス様が生まれる前の試練について語られています。
当時も今も、女性が男性なしに子供を宿すということは有り得ないことです。ですから、絶縁しようと思っても、このようなことは本人が説明すればするほど、怪しいと思われてしまいます。聖霊によって身籠ったということをヨゼフであってもどこまで信じられるかわからないですね。

旧約聖書の律法によれば「石打ちの刑」にあたることです。律法的にだけ判断すると、ヨゼフはマリアを石打ちの刑に引き渡してもおかしくはないわけです。しかし、ヨゼフはマリアを石打ちの刑にあわせないために、自分との縁はなかったことにしようと思ったのです。そのようにマリアを救おうと思ったのです。そのような意味で「ヨセフは正しい人であった」し、さらに愛を持って自己犠牲として、自分が引き下がればマリアを救えると、愛のある正しさを示しました。このような意味でもヨゼフはイエスの父親になるに相応しく、認められるような出来事のような気がします。これは神様による試練の一つではないかと思います。そして、天使が現れて「これは聖霊による業なので安心するように」というお告げがあったわけです。

マリアとしても、こんなことは信じられるはずがない、という思いはあったと思います。そこで、神様が為さったことは、後は神様にやっていただこうと考えたのではないでしょうか。私たちにも似たようなこととして、いま自己弁護しても他の人を傷つけてしまうかもしれない、だから今は自分が罪を被るしかない、という場面も往々にしてあるのではないでしょうか。「善を行って苦しむ者は神の御心にかなっている」と聖書にも書いてあるとおり、あとは神様にお任せするしかないと。
神の御心を行えばみんな分かってもらえる、ということだけではなく、善を行いながら、かつ苦しむ、ヨゼフとマリアはイエスを育てる前に、このような試練を受け、神様からも期待されて教えられていたのだと思います。

メシアがこのように登場して世を救うということをどれほど悪魔が嫌うことか、潰そう潰そうという力が働くわけです。イエスが生まれてすぐに、そのことがヘロデ王の耳に入ります。そして捜索の手が入り見つからないとなると、2歳以下のベツレヘムの子供たちを皆殺しにしてしまいました。このような逃げ場のない状況のなか、ヨゼフは夢のお告げを受けて、真夜中に荒れ野を通ってエジプトへと逃れ王の手からメシアを守ったのです。力や有力者をとおして主を守るのではなく、神様への従順によって主は守られる。この力のない両親によってメシアが守られる。ヨゼフの信仰と勇気がイエスを守りました。

他の試練としては、旅先でマリアが産気づいて宿も見つからず、とうとう馬小屋へ案内されたわけです。神様から授かった命を馬小屋で生んでしまうという葛藤もあったかと思います。しかし、後で羊飼いたちが来て、「天使が現れました。そしてこういいました。飼い葉桶に寝かされている幼子、これがしるしであると」それを聞いた時マリアは、飼い葉桶で生まれるということが”しるし”となったということは、これが神様の計画だったのではないか。神様の御心であったのではないかと、マリアは気付き思いめぐらしていたのだと思います。

今日の福音で私たちは、イエス様が誕生の前から、マリア様とヨゼフ様がいろいろな所で試練にあって、そしてイエス様を守り育てていった、ということを思いながら降誕祭を迎えていきたいと思います。』


ミサの後、いつもお世話になっているボーイスカウトへ活動支援献金をお贈りしました。

2019年12月15日日曜日

待降節第3主日

キリストの教えを、私たちはもっと深いところで理解しているでしょうか?

この日のミサは、2ヶ月ぶりに湯澤主任司祭によるミサ司式でした。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『私が学んだ神学校は、教区の神学校と違って、東京の瀬田にあるフランシスコ会の神学校です。学んだ中での教義神学、今は組織神学と言っていますが、公教要理のような難しいものを教える授業があって、ドイツ人の神父様でした。その神父様の部屋にいくと一つの掛軸がかかっているのです。漢字ですが日本語で読むと「鳥啼いて山更に幽なり」という中国の詩人の一節です。今は冬ですが、奥の細道という本があって、ちょうど夏ですね。仙台あたりから山の中を奥羽山脈越えて行くわけです。向こう側に行くと有名な俳句「閑さや岩に染み入る蝉の声」を詠むのですがその前に、山を越える時に似たような言葉が漢詩から引用しているのです。「鳥啼いて山更に幽なり」。ちょうど別な中国の詩人のやはり言葉ですが、啼くか啼かないかの違いですが。全然鳥の声も何もしなくて山の静けさを感じると同時に、鳥が啼くことによって更に山の静けさを感じる。感じることは同じですが。私の教授は中国の北京でも教えていたので中国思想にすごく造詣がある人で、ヨーロッパでは有名な人でしたが、日本ではそうでもなかった。

 なぜこのような話しをしたかと言いますと、今日の福音の中で(洗礼者)ヨハネは
 「来たるべき方はあなたでしょうか。」「メシアはあなたですか。」と聞いているのです。ちょっと不思議な気がしないわけでもないです。イエス様の母のマリア様と(洗礼者)ヨハネの母のエリザベトはすごく親しくて、ヨハネを妊ってマリア様も神の子を妊って会いにいくわけです。お産の準備をするくらいに親しいのに、子供たちはまったく知らないのですネ。
  問題なのはそのキリストの応えです。「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」。その前に見ないと伝えられない。自分のしていることを良く見なさい、と言っているのです。福音書の中で最初にヨハネが弟子たちの二人をイエスに付いて行かせる。「あなたはどこにお住まいですか。」「来て見なさい。」具体的には、ここでイザヤの預言を引用していますが、キリストの行動を見たら来るべき方かどうか分かるはずだと、キリストは言っているわけです。同じように弟子たちもヨハネについての理解に関して、あなたがたは何を見に行ったったのか、見たはずだと言うわけです。

 先ほどの中国の詩人は音の問題だけですが、ここでは「見る」というもっと知るためには重要な感覚です。百聞は一見にしかずですから、身をもってもっと分かるはずなのに、見えてないことをキリストは言っているわけですね。ヨハネさえも。見えていないのかと言っているのです。 
 待降節にこの箇所が読まれる意味を考えたときに、キリストは人となってこられたときに、実際に様々なことを行動を示し行ったわけですが、結局は弟子たちも理解できなかったわけです。ルカの福音書ですが、十字架の場面でこの人たちは何をしているのか分かっていないと言いますが、分かってないのは殺すということではないのです。キリストが教えたメシアの姿が理解できていない。弟子たちもあなたは神の子メシアですとペトロが言っているのですが、しかし理解していない。何も見えていない。音を感じながら静けさを感じとれていない。単に感覚的な静けさでないこと、五感の向こう側があるのですが、それ以降の感覚が届いていないということですね。 
 何を見にいったのか。同じようにヨハネの弟子たちにキリストは語るわけですが、御降誕、キリストが人となって現れて、言葉で説明し、行動で表しにもかかわらず、あなたがたは分かっているのでしょうか、という問いかけです。

  クリスマスを前にして、私たちひとり一人にキリストは問いかけていると理解しても良いと思います。(馬小屋を指して)こういうふうに飾られていますが、これの向こうに皆さんは何を見ていますか。ひとつの余談ですが、まだ神父で若い頃、教会全体でクリスマスに誰を招待し、どういう雰囲気にするのか、毎年考えていました。あるときベテランの信者が「貧しさ」を打ち出しました。その「貧しさ」とは何ですかと聞いたら、馬小屋で生まれたからと言いました。それは貧しさではない。貧しさはもっと見えないところに、キリストの貧しさがあるのです。
 見えるところで目が止まってしまうというのが、私たちの五感で分かる限界です。限界の向こうをキリストは求めているのです。表現したが、表現していないもっと奥のところが分かってますかとキリストは問いかけています。 
 明後日12月17日、クリスマスの8日前から、私たちはキリストの問いかけ…人となって現れてくれたけれど、私たちはその奥を見ていたか、自ら問いかけていきたいと思います。』

2019年12月8日日曜日

待降節第2主日

待降節は、主の誕生の「喜び」を、私たち一人一人がイエス様の心を持って「待つ」期間です。先週に引き続きルカ神父様の司式でした。


ルカ神父様のお説教の一部をご紹介します。

『今日のみ言葉は本当に素晴らしいです。
神様が作り出しだした世界、全ての生き物、人間だけでなく、全ての動物、植物。
獅子と牛が一緒に干し草を食べ、子供がマムシの巣に手を入れる、、、。
第一朗読のイザヤ書(イザヤ 11-1-10)は、平和を現しています。

福音朗読では、「準備」ということについて語られています。
洗礼者ヨハネが言った「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」
それがイエス様です。
待降節は、四旬節とは違って「喜び」です。
一人一人が、イエス様の心を持って、待つということです。
そのような気持ち、心で今日のミサに与りましょう。』


ミサ後には、フランシスコ教皇の来日メッセージやミサ説教を分かち合う集い「ひとつになろう」を行いました。


45名位の方が参加し、桜谷運営委員長の挨拶、4つの場面の動画視聴、分かち合いの内容でした。多くの方から、教皇のお言葉への受け止め、気持ちを新たにして信仰生活をしたいなどのお話が聞けました。