2018年4月22日日曜日

復活節第4主日(世界召命祈願の日)

復活節第4主日のテーマは「よい牧者」。
この日のミサは勝谷司教様が司式されました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『今日の「世界召命祈願日」に当たって教皇様は、書簡を発表しました。そのテーマは若者に対して「聞き、識別し、生きる」という3つのステップを踏んで、神さまの召し出しを見出し、それを識別し、それに応えて生きるようにと、呼びかけておられます。 枝の主日の「世界青年の日」のメッセージにも、非常に長いメッセージだったのですが、その中で現代のネット、SNSの世界の中で若者たちが、非常に素晴らしい道具ですが、逆に多くの危険性が潜んでいます。小さなコンピューターやスマートフォンという窓からしか世界を見られない。結局、自らを狭い部屋に閉じ込めて若さの炎を消してしまうことのないように、必死に呼びかけておられました。
 このような危機感から、今年の世界代表司教会議(シノドス) のテーマは、青年・召命に絞られて、10月に向かって準備を進めています。この10月のシノドスの会議に向けて、 全世界のアンケートの調査が行われました。私が去年から、青少年の司牧担当になっていますので、そのアンケートの取り纏めを依頼され行ったのです。全国の青年担当者や学校関係者にこのアンケートを配りました。そこに書いてあった注意書きには、直接青年にこのアンケートに答えてもらう。そのお願いを添えて全国にの配りました。膨大な数のアンケートが帰ってきて、集計に大変苦労したのですが、直接青年が答えたアンケートは1通だけでした。しかもその1通は、小教区や教区、学校関係ではなくて、東京のネットワークミーティングという、学生が独自に運営しているグループです。そのほかはすべて担当司祭や先生が答えたものでした。これは何を物語っているかというと、今の教会、こういうシステム、組織、教区、小教区という中では、もはや直接、青年と関わることが出来ないとなっているということです。こういう教会という組織の中には、もう青年たちは関わらない。教皇も青年たちとコンタクトをとる術を失っていると言っていましたが、今回のアンケート調査で良く分かりました。
 昨年、支笏湖でネットワークミーティングの集まりがありました。全国から100人以上の青年が集まって来ました。札幌からも30人くらいのスタッフが集まり運営してきました。  これだけの青年がまだ全国にいる。そして、札幌にも関わっている青年がいると驚いたのですが、わたしは全体の集まりの中で聞いてみたのです。「この中で、自分の所属するネットワークミーティングに申し込みをしたときに、どのグループを代表して来たか?」いろいろな活動のグループがあります。小教区の青年会を代表して来た人は手を挙げてください、一人もいませんでした。これが今の日本の教会の現状だということです。   
 彼らが今、今日の福音のテーマですが、牧者の声に耳を傾ける。いったいどこの牧者に耳を傾けているかということはとても心配になります。教皇様が懸念されていたように、この閉ざされたネットの窓口からしか世界を見ていないという傾向が、非常に顕著になってきています。当然、それによって様々な懸念といわれるものがあります。非常に片寄っていくとか、テロもそうですね。知らないあいだに自分がどんどんそういった中になかに入っていくけれど、歯止めがかからない。実体験の中で関わっている人はいない。ネットの情報の世界の中だけで物事を判断している。そういうとんでもないところに行ってしまう可能性があるのです。
 そして、もうひとつ教皇様が指摘されておられたのは、ネそのようなット依存とは言わないが、ネットに関わっている青年たちは、ある種の恐れというものが根本に抱いている。この恐れというのは何か。宗教的に言うならば、人間的にある根本的な恐れは、自分が愛されていないという恐れ。あるいは誰からも何も必要とされていない、好かれていない、受け入れられていない。それの如実な現れは、SNSと言われる、皆さん理解してくれるかどうか心配なのですが。皆さんはYESマイスター知ってますね。いわゆる自撮りをしたり、自分を良く見せようとする。必死になっている。何のため。「いいね」をもらうつもりなのですね。いろんな人がネットを通して見ることが出来る。そして、いいね、素晴らしいという反応をするのです。その「いいね」の数。自分の精神的な反応をはかる。特にフェイスブックやそのほかのラインもそうなのですが、SNSの世界がそうです。自分を肯定してくれる仲間たちがどれだけいるかがとても気になる。返事がない。そういう私もSNSをやっていて、記事を載せると100以上の「いいね」がつくのです。50くらいだと何かあったかなと。心配になり、気になるのです。自分のアイデンティティが崩壊のところまでは絶対いかないけれど、そのすれすれのところで必死になってくいとどまっている青年たちがいるのが現実だと思います。

  先ほどの情報の話しですが、彼らはどういう情報を得ているのか。私たちは、皆さんも同世代の人が多いと思いますが、学生時代はどうやって情報を得るか。学校の授業、図書館。あるいは自分が直接電話をかけてしか方法は無かったですね。ところが今は簡単に、ありとあらゆる情報が机上で集められるようになってしまいますき。そんな中で若者たちは、実際に出会う感覚無しで世界を判断している。これはとても恐ろしいことだと思います。
 実際に具体的な話しがいくつかあるのですが、ひとつはこういう場で話したくないのですが、政治的な今の問題について。とても片寄った情報で、しかも浅い解釈でそちらの世界に入っていってしまう。あるいは今、教会の中でも少し微妙な問題になっています。福島の放射能汚染でどのような対応をとるか。今、現実に避難退避されて戻ってくる人たちがいるのです。そうした中で一生懸命、復興支援を支えているグループがいるのです。しかし片や同じように、  それがどれほど危険であるか、まだ本当に示されている情報が安全なのか。安全だ安全だという情報が先にいって、子どもたちにもそういっているのですが、その根拠はなんなのか。懸念を示す農家もいるのです。そういう人たちはネットで情報を発信していますが、多くの場合は国の政策に従った情報が圧倒的に多くて、その情報を丸呑み信じている人たちがいるのです。本当にこれは大丈夫なのかなと。本当の情報がどこにあるのかは、なかなか識別しずらい。 だから教皇様言っているように識別し生きるのですが、その判断の基準というものがどこにあるのか。難しい問題ですが少なくてもネットの情報は、うまく大切に利用しながら、実際に自分の目で認識する大切さ。そして、本当の意味で自分の人生を決定づけるような体験は、やはり直に出会うこと。そういう人間関係、触れあいをとおしてか得られないと私は考えています。

 私自身がこういう道に歩んだきっかけは、洗礼を受けた時の出会いが強烈だったこともあります。大学時代、東京に行ったときに真生会館という学生会館でいろいろな活動を行っていました。あの当時は学生運動も崩壊してしまって、一部のセクトが内ゲバを繰り返している時代で、あまり政治的なことにはかかわらないで、むしろ学生の聖書研究会や音楽を聞くとか、真生会館では多かった。ところが、アジアの国際会議がバンコクで開かれる時に、それはかつての学生運動の流れを色濃く残している団体、IMCS(国際カトリック学生連盟)、そこには昔のカトリック学生連盟に所属していたのです。全国の高校や大学に広まりますが、1968年に崩壊します。その後、全国で統一した学生運動はなかったのです。学生運動の中心だった真生会館。真生会館で集っている学生の中で、何故か私が目立ったのか、それに(バンコク)行けと言われて、行かされるハメになりました。その時の青少年担当司教が後の濱尾枢機卿でその時は司教で、東京の補佐司教でした。私はイヤでイヤでしょうがなかったのですが、英語の会議に、英語に慣れない人間に何が出来るのかと思いました。特にそういう政治的、社会的な運動に対して関心が高かったわけではなかった私が行かされたのです。 
 その時の体験が非常に大きかったです。あの当時、東南アジア、香港やバンコクを含めて、東南アジア各国では日本製品の不買運動が行われていました。日本の経済進出、エコノミック・アニマルが行われ、様々な社会問題が東南アジアで起こっていました。
  反日感情が非常に高まり、路上で日本製品が積み上げられ火をつけて燃やされる、テレビで何度も報道されていました。私は何度もそういうニュースに接していましたが、人ごとのようにしか感じていませんでした。しかし、その会議に行ったときに、まさにそれが話し合いのテーマとしてあげられたのです。当然、私に対していろいろ質問がくるわけですが、そもそも知らない、答えようがないのです。知らなかったという恥ずかしさだけでなく、知らなかっただけでは済まされない日本人の責任。それを非常に感じさせられました。そして、休憩時間にある参加者の女の子。一言、私と同じグループだったのですが、「あなたは自分をアジアの一員だと思っているの?」。そんな質問を受けると思ってませんでしたから、そのときの私には答えることができませんでした。というのも、外国といえば、アジアは考えていなかった。ヨーロッパやアメリカ。アメリカのホームドラマで育った時代ですから。フリッパーとか名犬ラッシーとか、日曜日の午前中や夜中のゴールデンタイムはアメリカドラマのものばっかりでした。自分をアメリカの一員と錯覚、おちいっていたきらいもあります。その当時の日本は、アジアの貧しさから脱して、ヨーロッパと対等のメンバーになろうと、経済的に目指していた。それは、明治維新のときからですね。戦争が終わった後は、経済的にそれを築いた時代だったと思います。しかし、東南アジアで生きていたその学生たちは、戦前は軍隊に、戦後は経済で支配され、自分たちは苦しめられていると感じていたのです。そのような苦しみを実感しているのに、親しくなった友からのたった一言。日本で何度も接していたニュースの情報より、はるか強烈にわたしの心に突き刺さってきました。テレビの情報によっては、自分を変えようと、生き方を変えようなどとは、まったく思わなかったのですが、その友のたった一言は自分の人生を変えてしまった。そういうことが言えます。
 その会議に参加した経験から、会議に集まった友達のつてを辿って、東南アジアの研修旅行を真生会館を中心に、毎年エクスポージャして回って歩けるようになりました。そこで出会った人たちが、いろいろの人たちの考え方から、だんだんと自分は神学校に行きたいというような感覚になっていったのです。

 ですからそれに比べて、先ほどまで言っていたネットの情報は、自分を傷つくことのない立場において、机上で集められた情報にすぎません。わたしたちは外に出向いて行って、実際そういう人たちと出会う体験を通じて、他を知る体験をするわけです。ネットやテレビは確かに共感を呼び起こすような情報もあります。でもちょっと自分を中心に見たくないものであれば遮断し、テレビだったらチャンネルを切り変えることもできます。傍観者にはなりますが、自分を突き動かすものにはなかなかなれません。単なる机上で世界を分析する評論家のような 世界を眺める存在になってしまう。
 若者に対しては、先ほども言ったように教会がその関わりの手段を失っている。であるならばどうしてそこで神さまを見出し、そして召命への道へ導くことが出来るのか。これは確かに難しい問題ですが、私にとって教会というものは、ネットというものが無かった時代でしたので、まったく違う新しい世界の入り口で、そこで出会った同じ世代の友だちだけではなくて、そこに関わった大人たちとの出会いも非常に決定的なものでした。 
 あの当時、室蘭では家庭集会というものが盛んだったのですが、毎週行っていました。今では考えられない。毎週、各地区で家庭集会が行われていて、若輩ものでありながら私も参加しました。そこでのいろいろな人の分かち合いを聞いて、本当にささやかながらも、いろいろな悩み苦しみを抱えながらも、信仰に基づいて生きようとしていた真剣な姿が若い人たちに伝わってきました。ですから教会は、若者がいるから場所を提供するではなくて、実際に関わりを必要としているというのは青年の側ではなくて、教会の側が青年たちに関わりを求めていく、それが必要ではないかと考えています。
  先ほどのアンケートもそうですが、これまでイヤというほどアンケートをとっているのですね。私も宣教司牧評議会の時代から、青年に対して何度もアンケート、話し合いの場が持たれています。アンケートの集約で問題が分かったような形になって、その後何もしないことが 続いているのが現状だと思っています。アンケートではなくて、何が出来るか、出来るところから実施していく。もうそうしなければ本当に未来の教会、今しなければ教会は20年後どうなってしまうんだ、本当に懸念されることだと思います。

 私たちはなかなか教会で若者を見かけなくなりましたが、どのように接して若者と実際、具体的に関わりを持つことが出来るのか。真剣な関わりであれば必ず何かが伝わる。真剣に関わろうとしなければ、すぐ彼らは直感的に識別してしまう。これは本気で関わろうとしている人たちは、そういう鼻だけはすぐきくのが青年です。教会が今本当に、あなたたちのために何かをしようとしていることを、何とか伝えたい。シノドスも教皇様もそうですが、今、具体的に教会の中で、真剣に考えていかなければならないことだと思っています。』

2018年4月15日日曜日

復活節第3主日

今日の主日ミサは、先月司祭に叙階された佐久間神父様のカテドラルでの初ミサでした。
司祭になられたばかりで、お忙しく慌ただしい中、大変有難うございました。


佐久間神父様のお説教をご紹介します。

『皆さん、おはようございます。札幌教区の遅れてきたルーキー、パウロ三木 佐久間力です。年齢的にも体格的にも、決して大型新人とは言えませんが、3月21日に勝谷司教様によって司祭に叙階され、間もなく1ヶ月となろうとしております。カテドラルで説教するのは、これが初めてですので緊張いたします。さて、初ミサと言いながらも、司祭に叙階されてから3週間以上がたち、初めはぎこちなかったミサも大分なれてきた気がしておりますが、なれてきた頃が危ないのは車の運転と同じです。どうか事故のないようにお祈りください。
北1条教会の皆様におかれましては、神学校生活を通して支えていただき、また叙階式では会場教会と言う事もあり、多くの方のお手伝いやご尽力を賜りました、本当にありがとうございます。この場を借りて心からのお礼を言わせていただきたいと思います。その6年の神学校生活が終わり、いまここに司祭として立っているわけですが、振り返って見ればこの6年間は本当にあっという間でした。もう既に45才、決して若いとは言えません。しかし、これでも札幌教区司祭としてはわたしが最年少です。45才の新司祭が教区として最年少。これは現代のカトリック教会の在り様そのものを表しているかも知れません。将来を思うと不安は尽きません。しかし、 それでも希望はあります。来年も新しい司祭が生まれる予定です。そして新しい神学生もいます。その後輩達も決して若くはありませんが、その分人生経験を積んできていて、だからこそ世俗の生活や苦しみを踏まえて福音を語ることができる、そんな気がします。わたし自身も、本当に大きな回り道をしてきたと思います。45才でようやくスタートラインに立つなんていうのは、人生を無駄に過ごしているのではないかと思うこともありましたが、いまは全て自分にとって必要な経験であったと確信しています。回り道は人生を豊かにしてくれる、神様が与えてくださった恵みと言えます。
回り道、と言う言い方をするならば、神様も本当に大きな回り道をされて、わたしたちをお導きになってくださっています。神様はこの世を支配する方法として、ご自身が姿を現して直接統治することもできるはずでしよう。わたしたちに見えるように絶対者として降臨し、わたしたちを従わせる、わたしたちが決して逆らわないようにすることもおできになるはず。ですが、そうはなさいません。わたしたちにこの世界を任せて、自由な意志を与え、自分自身で選ぶことができるようにしてくださっています。わたしたちは弱い存在で、いつも神様に逆らい、反抗し、罪を犯します。しかし、神様はその弱さをよく知っておられ、その弱さすらも愛してくださっています。わたしたちが神を知りながらも、反抗し、逆らっても、優しくなだめ教え、導いてくださいます。そして、そのためにわたしたちにご自分の愛する独り子を贈ってくださりました。
イエス様ご自身も、神の独り子として、完全な姿でこの世に降臨するような現れ方ではなく、マリア様を通して赤子としてお生まれになり、わたしたちと同じように人の手を通して育てられました。そして、イエス様は最高の愛の模範を示しました。受難に身を委ね、ご自身の死と復活を通して、その先にある「永遠のいのち」をもわたしたちに教えてくださいました。今日の福音では、復活されたその体を弟子達に現され、永遠のいのちとはどういうものなのかをお示しになっています。永遠のいのちとは、肉体を離れて、霊的な存在になると言うことではなく、肉体を持って具体的に復活するのだと言うことをイエス様が示してくださいました。触ることのできる肉体、食べることのできる肉体。肉体を持たないような亡霊ではないと断言しています。これは、イエス様が弟子達に、そしてわたしたちに示されている、大きな「永遠のいのち」の「しるし」です。なぜ、このような「しるし」 を与えてくださるのでしょうか。なぜ神様は、直接「永遠のいのち」の在り様を教えてくださらずに、イエス様を通して、しかも痛みと苦しみを伴う、受難と死と復活というややこしい方法をとったのでしょうか。
それはわたしたちには「しるし」が必要だからです。わたしたちは、とても不便で不完全な生き物で、何かに確信を得るためには「しるし」がないと気づくことができません。「永遠のいのち」をただ教えられても、その証拠や、実体験が伴わなければ、それを信じることが出来ません。これは神様の愛を知る場合と一緒です。神様の愛は教えられたからと言って信じられるものでもなく、そこには体験や実感が必要となります。感じるだけでなく、 相手に愛を伝える場合も同じことが言えます。例えば、誰かのことを愛しているならば、わたしたちも必ず何らかの「しるし」を相手に示します。仕草かも知れませんし、言葉かも知れませんが、プレゼントかも知れません、 必ず何かの行動があります。何もしないなら、何も伝わらず、そこには関係性は生まれません。愛には「しるし」 が伴います。愛は感情ではありません。相手が好きとか嫌いとか、そのような言葉を超越する関係性です。愛は具体的な行動を伴います。イエス様はその愛の在り様を、身をもってわたしたちに示してくださいました。そして愛の行いの先にある、永遠のいのちの在り様についても示してくださいました。そして、それを知ったなら、その証人となり、皆にそれを伝えに行けと言われます。
神様が与えてくださった、この希望に満ちあふれた愛と永遠のいのちという福音を、わたしたちが述べ伝えることができるように招かれています。一人ひとりが与えられた場で、自らがイエスの愛と永遠のいのちを証しする「しるし」となることができますように、このミサの中で祈って参りましょう。』

「派遣の祝福」の前に、侍者の子ども達から花束が贈られました。


ミサの後、佐久間神父様を囲んでのささやかな祝賀会を行いました。


高校時代のカト高連での貴重な体験、司祭を志すまでのいきさつや苦労話など、ユーモアを交え、たくさんお話をいただきました。

司祭叙階式の日に配られていた御絵は、伊達カルメル会修道院のシスターの直筆イラストだそうです。

2018年4月10日火曜日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

この日のミサは4月から司教館事務局長になった佐藤謙一神父が共同司式されました。
これから月に1、2度北一条のミサにお出でになるようです。


「神のいつくしみの主日」のこの日、マリア像の脇祭壇に「いつくしみのイエス」の御絵が置かれました。


受洗、改宗された9名の方が、地区集会に初めて参加され紹介されました。
少しずつでも教会生活に慣れていけるように寄り添っていきましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は、共同司式してくださる佐藤謙一神父様がおられます。ご復活の主日が終わり、この春、司祭の人事異動が発表されていましたが、佐藤神父様はこれまで大麻や江別の教会を主任司祭として、教区事務所とともにがんばっておられました。カトリック・センターが新しく出来上がって、より大きな重責を担って専従として働くことで、大麻と江別の教会を解かれて、教区事務所の仕事に専念することになりました。
  そういうことで、教会との関わりがちょっと薄くなってしまいましたが、今後、協力司祭として他の教会にお手伝いに度々行かれることもあるかと思いますが、そういうときがないときには、私たちの教会でいっしょに御ミサをいっしょに捧げることになりました。月1、2度は私たちと共に祈りをすることが出来るかもしれません。時には、司式してくださったり、説教もしてくださるということなので、私たちは期待し刺激をいただきながら、佐藤神父様とも信仰の歩みを続けることが出来ればと思います。
 いつか(2月18日)、山本孝神父様が黙想会でお出でになった時、神父様の言葉が残っています。教会の責任を解かれるということは、寂しいということを言われていました。信者さんとの直接の関わり、自分の責任において教会での宣教司牧をすることが薄くなてしまう。そういう意味では、寂しいと言われていました。教区の仕事も大きいかもしれませんが、佐藤神父様のそういう思いも出て来るかもしれません。皆さん、どうぞ佐藤神父様への協力も惜しみなくしていきたいと思います。

 さて、今日は復活の第2主日です。皆さんは、かつて、この第2主日がほかの呼び方をしていたのを思い出しますか?伝統的には「白衣の主日」と言われていました。今日の「聖書と典礼」の表紙には「神のいつくしみの主日」と書かれていますが、かつてはここに「白衣の主日」と書かれていました。初代教会の洗礼式からきている伝統的な表現でもありました。昔、新しい信者は復活徹夜祭の中で洗礼を受けました。北一条教会でも先日の復活徹夜祭の中で洗礼式が行われました。かつて、洗礼式は水の中に全身を浸して、頭まで水に沈めるかたちで行われていた、伝統的な習慣があったようです。身体は全身水に浸されますから、水からあがった受洗者には神から与えられる恵み、成聖の恩恵を意味する白衣が着せられた。今はブーケのようなかたちとかベールのようなものに変わっていますが、昔は自らあがるということで白い衣を着せられることがあったようです。パウロが聖書で語っています。「神にかたどってつくられた新しい人を身に着けた。」(エフェソ4:24)そのことを意味して、白い衣が着せられたということがありました。さらに「あなたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」(復活徹夜祭の典礼)受洗された直後、司祭から洗礼を受けた者はそういう言葉をかけられます。受洗者は新しく生まれた人として一週間その白衣を着ていたことが、昔の伝統として残っていたということです。白衣の主日の名前の由来は、そのような伝統から来ているものでした。

  もうひとつ、白衣の主日から変わって新しい名前がつけられました。それは、今日の聖書と典礼に載っている「神のいつくしみの主日」です。これはまだ、比較的新しい名前です。教皇ヨハネ・パウロ二世が、神の愛のこもった寛容さが輝き出る復活節に神のいつくしみをほめたたえるようにと、18年前の2000年に復活節第2主日は「神のいつくしみの主日」と呼ぶように定められました。神のいつくしみを私たちはもっともっと意識し、大切にしていこうというのが教皇様の考えでした。受洗者の方は今日、そのことを心に留めてミサに与っているかと思います。昔の伝統で言えば1週間白い衣を着て、新しい受洗者の恵みを感謝しながら、1週間経った今日、その白い衣を脱いでミサに与ったということがあったそうです。

 主の復活を祝い1週間が過ぎています。私たちの心にも霊的な春が訪れています。今日のみ言葉の中に、安息日が開けていち早く墓に駆けつけた婦人たちでしたが、また、弟子たちも何人かも墓を確認しに駆けつけています。婦人たちも、弟子たちも墓が空になって遺体が無かった、墓からその遺体が消えていた。その事実にまず驚き戸惑います。そして、悲しみを新たにしました。何度も何度も直接イエスから、「死んで3日がたつと復活する。」と聞いていたにもかかわらず、十分な理解が出来ていなかったために、愛する主であるイエス・キリストが亡くなったというだけで、ただただ、驚き悲しんでいた弟子たち、婦人たちでした。墓から戻って悲しみのなかに、一方では迫害を恐れて最後の晩餐が行われた部屋に鍵をかけ閉じこもりながら、彼らは夕方を迎えました。戸惑いながら、不安とともに鍵を掛けた部屋の中で祈っていました。
  復活したイエスは、そうした彼らの信仰を強めようと思ったのでしょうか、栄光に輝く復活の姿で、彼らの真ん中に現れたと聖書は伝えています。そして、最初に「あなたたちに平安」という言葉をかけられています。弟子たちは悲しみ驚きの中にありながら、その復活した主イエスの姿を見て喜んだと聖書は書いています。見なければ信じることが出来ない、そんな思いもこの表現の中に感じます。イエスが墓から消えたということは復活したのではないか、そういう噂も飛び交っていましたが、復活への確信に至っていなかったために驚き、悲しみが混在していました。でも、そのとき、そのイエスの姿を眺めることで確信に変わります。使徒たちは大きな喜びに満たされます。まさに復活の主は、喜びの泉、祝福の光となって弟子たちの前に姿を現しました。イエスは静かに唇を開いて使徒たちに再び言われました。「あなたたちに平安。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と、こう話されます。そして、弟子たちに息を吹きかけます。その息は聖霊でした。「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなたがたが罪を赦すなら、その罪は赦される。あなたがたが罪を赦さなければ、誰の罪も赦されないまま残る。」イエスは弟子たちに厳かにこう言われました。罪を赦す権能を弟子たちに与えた場面でもあります。「あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」私たちが唱える「主の祈り」の中にもそのことが繰り返されています。主の祈りを度々唱えているけれど、その一言一言の重みを私たちはあまり感じずにオウム返しに唱えてしまことも多いような気もします。赦すことの大切さ、愛することの大切さをいつも噛みしめなければなりません。

  イエスは「聖霊を受けよ。」と言われます。これまであなたは神の子であると宣言し、信仰告白し、あなたのために命を捧げると信仰を表してきた弟子たちでさえ、この時、恐れの中でただ震える信仰でさえありませんでした。私たちもそうではないでしょうか。イエスが十字架で死んでくださったことは百も承知している私たち。そういう話しは何度も何度もしてきました。しかし、私たちの信仰生活の中で、どんな力を感じているでしょうか。イエスの教えられた愛を生きるということにしても、十分にその態度を生きられないことが多いのです。人に奉仕する、仕えるということはどんなに素晴らしいかを十分に知っています。思っています。でも、力となって出てこないものは、行動に繋がっていきません。考えているだけで、行動に表すことの難しさもそこにあるようです。

 聖霊の力により頼むことがないようです。イエスは聖霊を授けて、罪を赦す権能を与えています。聖霊によってもたらされる奇跡、力は罪に弱い霊魂を救う薬であることを、私たちはもっともっと深く理解しなければならないようです。使徒たちも聖霊の力をいただきながら、大きな喜びに包まれています。聖霊の力は様々に私たちに働きかけます。力を呼び戻します。信じるという難しさを感じながらも、綿私たちはその聖霊の力によって、より一歩成長出来るのようです。
 聖書の中でトマスという弟子が登場してきます。トマスも信じることの難しさを生きた一人でした。最初、復活されたとき、トマスはその場にいませんでした。信じるということに比べて、信じないということは易しいかもしれません。でもイエスは弟子たち、私たちに呼びかけます。「信じない者にならないで、信じる者になりさない。」疑いやすい私たちにも言われた言葉ではないでしょうか。
  復活の第2主日。復活してから1週間が経って、主は私たちの中にも現れています。墓を破られた主は希望のない世界に置かれても、そこに閉じ込められるままではなかった。そこから立ち上がって行く者になりなさいというメッセージを持って、復活の主は私たちの前に立っておられます。日常的な生活の中では、私たち一人ひとり悲しみや苦悩の前に負けてしまうことも度々ありますし、うちひしがれることも多くあります。
 でも、私たちはもう一度、復活したキリストを唯一の希望として力強く生きることが出来るよう祈りたいと思います。そのことを今日の福音は私たちに大きな力、メッセージをもたらしてくださっていると思います。』

2018年4月1日日曜日

主の御復活 「復活徹夜祭と復活の主日」

3月31日(土)午後6:30から、後藤神父様、蓑島助祭、地主司教様の共同司式により「復活徹夜祭」が行われました。
復活徹夜祭は、「光の祭儀」、「ことばの祭儀」、「洗礼の典礼」、「感謝の典礼」の4部からなり2時間以上にも及ぶ、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。

第1部 光の祭儀
会衆は聖堂に隣接されたカテドラルホールに集まりました。
最初に、復活されたキリストのシンボルである「ローソクの祝福」が行われました。


後藤神父様によって祝福された火が復活のローソクに燈されました。


蓑島助祭は、復活のローソクを高く掲げ「キリストの光」と唱え、会衆は「神に感謝」と応えます。復活のローソクを先頭に聖堂の中へと進み、会衆の手に持ったローソクにも火が移されます。
ローソクの光がほのかに照らす中、蓑島助祭が「復活賛歌」を歌いました。



第2部 ことばの祭儀
聖書が朗読され、その後「栄光の賛歌」が歌われる中、十字架や御像に掛けられていた紫布が外されました。

第3部 洗礼の典礼
9名の方々が洗礼を受けられました。

水の祝福

洗礼

洗礼の約束の更新
(司祭が祝福された水を会衆にかけました)

第4部 感謝の典礼
いつものミサの流れで行われます。



復活徹夜祭から一夜明けた4月1日午前9時から、「復活の主日」ミサが行われました。


福音朗読とお説教は蓑島助祭でした。

お説教をご紹介します。

『みなさん、主の御復活おめでとうございます。

十字架の苦しみの先には、必ず復活の喜びがある。これはイエス様が身をもって示してくださった過ぎ越しの神秘です。神の愛が、わたしたちを永遠の命に生きる者としてくださいました。この永遠の命とは、洗礼を受けてキリストに従ったときからすでに始まっています。

本日の福音では、マグダラのマリア、そしてペトロとヨハネが登場します。

マグダラのマリアについては諸説あるものの、一般的には彼女は生きるために娼婦をしていたと考えられています。あるとき姦通の現場を取り押さえられたマリアは、石で打ち殺されそうになりますが、イエス様に助けられ、罪の生活をやめる決心をしました。「この方に従っていきたい」。彼女はイエス様に従う人生を歩み始めます。

ー方、ペトロとヨハネは漁師でした。イエス様から「私に従いなさい」と呼ばれたとき、 すぐに漁師の命ともいえる網を捨てます。心の中に満たされないものがあったのでしょうか。彼らもイエス様に従う人生を歩み始めました。

かれらはいずれもイエス様に希望を見出した人達です。

イエス様に希望を見出すこと。それは私達も同じです。ここにいる皆さんは、それぞれキリストの霊に導かれて教会にやってきました。そして洗礼によってキリストと結ばれ、 古い自分から新しい自分へと生まれ変わる恵みを頂きました。神と離れた生活から、神と共に生きる生活へと過ぎ越されたのです。これがわたしたちの出エジプトです。

かつてイスラエルの民は、神によって、エジプトの強制労働から解放され、乳と蜜の流れるカナンに導かれるという経験をしましたが、現代に生きるわたしたちは、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、真の過越しを経験しています。悪いものが良いものに変えられ、苦しみや悲しみは喜びへと変えられていきます。わたしたちは日々、古い自分に死んで新しい自分に復活するという神の招きを受けているのです。

マリア達が見た空っぽの墓、その墓から抜け出した主は、弟子である私たちがやって来るのをガリラヤで待っておられます。ガリラヤはイエス様が宣教を始めたところです。復活されたイエス様は、どんなときも私についてきなさいと招いておられます。墓をみて「主がいない」と恐れる必要はありません。死から復活された主がともにいてくださるので、わたしたちはどんな困難にあっても主と共に立ち上がり、また歩んでいくことができるのです。

「主はまことに復活されました」、この大きな喜びを共に分かち合いましよう。

あらためまして、皆さん、主の御復活、おめでとうございます。』


イースターエッグが奉納されました

後藤神父様がイースターエッグを祝福しました

イースターエッグが皆さんに配られました



2018年3月30日金曜日

3月30日(金)主の受難の祭儀

午後6時半から行われた「主の受難」の祭儀は、主イエスの受難と十字架上の死を記念するものです。ことばの典礼、十字架の崇敬、交わりの儀(聖体拝領)の3部で構成されます。

福音朗読ではヨハネ福音書の「受難の朗読」が読まれ、捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。

後藤神父様のお説教の後、「十字架の崇敬」が行われました。
「十字架の顕示」では、
十字架を持った司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え、会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえました。


祭壇前に十字架が置かれた後、十字架の礼拝が行われました。



交わりの儀(聖体拝領)では、カテドラルホールに設置した仮祭壇の聖櫃に安置された御聖体を、蓑島助祭が聖堂へと運びました。





3月29日(木)主の晩餐の夕べのミサ

「最後の晩餐」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」が、午後6時半から後藤神父様の司式により行われました。


ミサの中で洗足式が行われ、神父様が12人の男性信徒の足を洗われました。

御ミサの最後に、聖体がカテドラルホールに設置した仮祭壇に安置されました。

ミサが終わった後、祭壇上の敷布、ローソクが外され、十字架、御像は紫の布で覆われました。

2018年3月25日日曜日

受難の主日(枝の主日)

聖週間に入りました。


イエスのエルサレム入城を記念し、司教から祝福を受けた会衆が手に棕櫚の枝を持ち聖堂に入堂しました。


イエスのエルサレム入城を多くの人々が賛美し迎えましたが、それは受難の道の始まりでもありました。

福音朗読では、「マルコによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『聖週間に入りました。聖木曜日からの聖なる3日間は、典礼の中心になります。
 (この後、司教様はたばこを控える犠牲を例に取り、愛が必要であることに触れます。)

 犠牲が何であれ、その行為が何に向かっているのか。それによって価値が違ってくることを私は言いたいのです。何のための犠牲か。禁煙であれ、私たちの行う断食であれ、ほかの何かであれ、それが達成出来たとしても、それが愛に開かれていなければ、自分の意思を貫徹したという価値しかありません。何故ならそれは聖書が言うように、その人は「報いを既に受けている。」(マタイ6:2)と言われるものです。教会は断食を私たちに勧めていますが、それを掟として捉えるか、あなたへの罰など強迫観念で行おうとしているのか、そういう思いがあるのではないでしょうか。私たちの自己犠牲は愛に向かっているときに本当に価値のあるものとなります。逆に、人を愛するということは、必ず何らかの自己犠牲を伴います。何故なら、人は誰かを愛するとき、その人を喜ばそう、あるいは幸せにしよう、自分を変えよう。自分を超えていく努力をするからです。さらに、愛する人のために成す苦労は、むしろ自分の喜びともなります。そして、相手との関わりをより深めるために、質的に高めるために、進んで耐え偲ぶことができるのです。教会が私たちに求めている自己犠牲というものは、このようなことです。そこには義務や掟もありません。愛するためにあるいは愛されていることに、相応しく応えようとするためにそうするのです。

 そして、その最も優れた完全な模範を示されたのが、わたしたちの主イエス・キリストです。第2朗読にもあるように、イエスは神でありながら、すなわち全能の父である神と、父という名称を除いてはまったく変わることがない方でありながら、私たちと同じ無力な人間となられました。それは神を私たちに示すためです。旧約の人々は、そしてギリシアの哲学者たちがその言葉をもって、どんなに神を表現しようとしても、表し尽くすことの出来ない、想像を超越した神が、天地を造られ永遠から永遠まで存在されている神が、私たちの目に見えるかたちで、そして手に触れることのできるかたちで、私たちの中に住まわれています。
  そして神は、私たちの言葉と想像をはるかに超えた存在であるのに、私たちにしてみればその栄光と真逆としか思えない極端なかたちで、ご自身を示されました。それが十字架上での姿です。しかし、そこにこそ神の本性が表れているのです。神が愛であるから。それは、ご自分の全存在をまったくおしみなく、すべて私たち一人ひとりに与え尽くそうとされる神の無限の愛こそが、私たちが本当に神の愛ある懐で交わりを保つことが出来るように、神自らが私たちのために自己犠牲してくださったのです。死ぬことがあり得ない神が、私たちと同じ死すべき人となり、私たちと同じように死を味わられたのです。

 信仰生活とは、これほどまでに私たちを愛しておられる神のその愛に、いかにして応えていくかということです。神からの愛の交わりへの呼びかけに具体的な答えを生きること、これは私たちにとっての本当の犠牲であり、信仰者として進むべき道ではないかと思います。』


2018年3月21日水曜日

司祭叙階・助祭叙階式

3月21日(水)春分の日
晴天に恵まれたこの日、当教会聖堂でパウロ三木 佐久間力助祭の司祭叙階と、ボナヴェントゥラ 蓑島克哉祭壇奉仕者の助祭叙階式が勝谷太治司教の司式で行われました。
叙階式には、38名の司教・司祭団と500名近い信徒・関係者が参列しました。



助祭に叙階される者の約束(蓑島克哉祭壇奉仕者)

司祭に叙階される者の約束(佐久間力助祭)

按手

叙階されたお二人への花束贈呈と挨拶

佐久間新司祭の御絵



2018年3月18日日曜日

四旬節第5主日 「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」

私たちが歩むべき道と、神が示される道が、本当に一つになったとき、何の迷いも苦しみもなく幸せそのものであるのかもしれません。

この日のミサは、3日後に叙階式を迎える佐久間助祭と箕島神学生のお二人が奉仕をされました。お二人のためにたくさんのお祈りを捧げましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日から3日後に、それぞれ司祭と助祭の叙階を受ける佐久間助祭と祭壇奉仕者の簑島神学生の二人が今日のミサの奉仕をしてくれています。
 今読まれた福音の中でも「わたしに仕えようとするものは」とあったように、誰よりも何よりも神様と教会に仕えようとしている二人の上に、どうぞたくさんのお祈りを捧げていただきたいと思います。
 私自身も叙階式の準備のために司式の確認をしていたところでしたが、私にとっても「仕える」という言葉はとても心に響いています。ですから、今日の福音を叙階式の前に黙想するような思いで見つめています。

 自分の使命、自分の役割を自覚し、その全てを果たすことが出来るとしたら、人はどのように考えるものでしょうか?ある人は「これ以上の幸せはない、もう十分だ」そんな想いで言い切ることができるでしょうか?自分の使命、自分の役割を果たすことが出来るならば、それは本当に幸せそのものであろうと思います。そしてその幸せをさらに保って、成長させて生き続けたいと思うのは誰しもの願いかもしれません。
 イエスのことば、「わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」叙階を前に二人は、”救ってください”という祈りをしているでしょうか?それとも大きな喜び、救いそのものの中で神に心を開いているでしょうか?

 人生振り返ると、様々なことが思い起こされます。苦しい時もたくさんあります。しかし、そのような時に、共に歩んでくれた仲間がいるということを思うと、大きな励まし、力がそこから見出されます。
 私たちにとって主であるキリストは、どのような存在でしょうか?私たちの励み、力でしょうか?人によっては怖い存在、恐ろしい存在であるかのように強く感じている人も多いような気がします。私たちにとって共に歩む主イエスでありたいと願います。

 神の子として託された自分の使命を考えるイエス。完全なまでに父なる神に従う子としての役割を今終えようとして弟子たちと語り合っています。
 だんだんと近づいてくる十字架の死。この世を去る自分が、どのように神の栄光を表そうとしているのか。イエスには十分に理解されていることでした。しかし、人間イエスとして、苦しみ痛み、そして人々の救いへの思いがたくさんあったかと思います。
 誰もが経験する神の思いと自分の思い・願い、そこに時折大きな隔たりを感じることもあるかと思います。そしてその選択に迷いながら、私たちの日々、人生があるような気がします。神が願う選択が、正しく理解できるだけに、いくら祈っても自分の願いからは程遠いものに歯がゆく思うこともあります。それはその時、自分の願いが捨て難いために、神の選択に全てを捧げることが出来ない自分がいるからです。
 自分が背負うべき十字架なのだろうか?これがこの世で自分の命を憎むということに繋がってくるのだろうか?その神が示された一つの道と、自分が描き続けてきたもう一つの道の間で人は大きく揺れ動きます。絶対的な確信に至ることが出来なければ、迷いがいつまでも続くということになりそうです。イエスの道は迷う道ではなかったでしょうけれど、私たちはイエスの道を思い浮かべながら自分が歩むべき道と重ねて少し迷ってしまうような気がします。
 自由は時に残酷なようでもあります。天からの声が聞こえた時、イエスは迷いなく進むべき道に向かっていきましたが、私たちが歩んでいる今の道は徹底的に、神から示された道ではないことに時折気付かされます。私たちが歩むべき道と、神が示される道が、本当に一つに融合されるならば、何の迷いも苦しみもなく幸せそのものであるかもしれません。イエスが弟子たちと語り十字架の道に向かって歩もうとしている時、私はそのようなイエスの姿、イエスの心の内に触れるように、少し思い悩むような気がします。憧れもありますが、どこかで迷いも抱えている自分がいます。

 イエスはこの世から父の元ヘ移る自分の時が来たと悟っています。自分の死を受け入れ、私たちのために十字架に向かうことを決断されます。そのことは私たち一人一人をこの地上から引き上げ、天の自分の元へ引き寄せるためであった。永遠の命へ私たちを導くためであった。
 私は聖書の中で時々出てくる「永遠の命へ導く」というイエスの使命の言葉を聞きながら、この世に生きる私たちの信仰は、それほど強く永遠の命を意識していないという思いが強くあります。皆さんはどうでしょうか?日々の信仰生活、そしてその祈りの中で、永遠の命を希望する思いが強くあるでしょうか?
 永遠の命へ導くために私たちの元へ来られ、私たちと共に天の父を示されたイエス・キリスト。私たちの信仰の中で、そして私たちの本当の目的をしっかりと見極め、永遠の命の意識をもう少し強く持ちたいと思う時があります。
 この世に生きる私たち、キリスト者の永遠の課題、イエスの後に従って生きるために、必要なら命さえも惜しみなく捨てるべき、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」ということばが残されています。このイエスのことばが、もしかすると私たちを悩ませているというのが現実かもしれません。

 この世に生きている間は、この世の救いが限られたものであると分かっていても、私たちは天の御国のことよりも、やはりまだ現実の世で生きているときの幸せを、ただひたすら願っているような気がします。
 イエスの、「わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」
 いつの間にかそのことばは、私自身のことばにもなっています。ルカの福音ではっきりと述べられている「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 自分を捨てるということは必ずしも命を捨てるということに繋がらないかもしれませんが、私たち一人一人はどうしても自分中心、利己的な考え方から抜け出すことが難しいようです。人間としての喜びや幸せを放棄することの難しさがそこにあるのかもしれません。
 でもそのような悩みを抱えながらイエスの呼びかけに「はい」と答えることが出来ることを、私たちは願います。イエスの死が価値あるものと知っているからこそ、そのような生き方、信仰、教えを私たちは大切にします。
 父なる神のみ旨に一歩でも近づくことが出来るように願いながら、今日も私たちの信仰の道を歩み続ける決心をいたしましょう。
 そして主のご聖体が私たちの元に近づき、私たちの元で一つになります。そのことも大きな恵みそのものです。主の祭壇を囲みながら、私たちの祈りを捧げましょう。』

2018年3月11日日曜日

四旬節第4主日「洗礼志願式」

先々週の洗礼入門式に続いて、ミサの中で「洗礼志願式」が行われました。

代父母と会衆が見守る中、9名の志願者の方々が洗礼の意思を表明されました。

続いて、一人一人にニケア・コンスタンチノープル信条が授与され、一緒に唱えました。


最後に、後藤神父様から志願者の額に聖香油が塗油されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『四旬節第4主日を迎えていますが、今日は典礼で言うと、少し特別な四旬節の第4主日になっています。「バラの主日」を聞いたことがあると思います。今日の四旬節第4主日をかつては「バラの主日」と言っていたそうです。少し調べてみましたが、バラ色…誰でも華やかな色を想像すると思いますが、喜びを表すことにも繋がっているようです。何故、今日が、「バラの主日」、喜びが含まれた主日なのでしょうか。お手元の聖書と典礼の入祭唱のところを見てください。
 「入祭唱(イザヤ66:10~11参照)   神の民よ、喜べ、   神の家を愛するすべての者よ、ともに集え。   悲しみに沈んでいた者よ、喜べ。   神は豊かな慰めで  あなたがたを満たしてくださる。」
 喜びという言葉が出てきます。ここに四旬節の中にあっても、少し特別なバラの主日、喜びが含まれている主日になるようです。紫色の祭服を今着ていますが、紫は償うと言う意味を含む色だそうですが、その償いの精神を少し弱めて、復活という荘厳な喜びが近づいて来たんだということも、少し強く意識するバラの主日ということのようです。
  今は昔と典礼も変わってきて、バラの主日を強調するような典礼では、なくなってきています。しかし、教会の典礼の規則、「ローマ・ミサ典礼書の総則」従来の308項では、バラの主日のことが今も伝えられています。
 「ローマ・ミサ典礼書の総則」(暫定版) 346〔=308〕祭服の色に関しては、伝統的な使い方を守るものとする。 すなわち、(略)   f) ばら色は、習慣のあるところでは待降節第3主日(ガウデーテの主日)および  四旬節第4主日(レターレの主日)に用いることができる。
 今日は典礼のお話しから始まりました。「レターレ」という言葉がこの日に使われているそうです。グレゴリアン聖歌が好きな方はレターレの歌詞を思い出すかもしれません。
♪ Regina coeli laetare, alleluia:(レジナ シェリ レタレ アレルヤ)♪  レタレ アレルヤ、これは四旬節が終わって、復活節に入って、そのときに歌われるレジナシェリです。レタレは歓喜せよ。喜べという言葉です。ですから、復活節に入ると、天の元后、喜びたまえ アレルヤ。日本語でこの歌はあります。この喜び、これが四旬節第4主日を「バラの主日」にしています。

 今日のみ言葉は、ヨハネによる福音です。ファリサイ派でユダヤの議員であったニコデモとイエスの話しから、今日のみ言葉が語られています。このニコデモという人はファリサイ派の人でしたが、イエスが神と共にあることをすでに知っています、見ています。そういうニコデモは、イエスの行う数々のしるしを不思議にも思っていたようです。奇跡を見たり、奇跡の話しを聞いたりしながら、確かにこのイエスという人は神と共にあると違いない、そんなふうにも考えていましたが、充分な理解が出来ず、少し戸惑いがあったかのようです。イエスに話しかけるニコデモですが、イエスはニコデモに新しく生まれることが大切だとお話しをしています。新しく生まれると聞いたニコデモは、そんなことが可能でしょうかという答え方をして、イエスと話しをしているのが、今日の聖書でのお話しです。
 
 その話しの後に、今日の旧約聖書の話しも出て来ます。
  イエスは新しく生まれることに関連させて、旧約聖書の「蛇の話」のことが語られました。旧約聖書の民数記(21章)で描かれているお話しです。それはどういうことかと言うと、エジプトからイスラエルの民が導き出されたことは私たちも良く知っています。モーセに導かれて苦しい奴隷のような生活からエジプトから離れ、旅する民となりました。最初はエジプトの苦しみから解放されて喜んでいた民かもしれません。が、旅が長く続くと食べ物も大変です。お腹もすくし、天候も厳しいし、砂だらけ泥まみれの生活の旅でしたから、不平不満がだんだん大きくなってきたようです。
  飢えや渇きの中で厳しい辛い生活をイスラエルの民は、モーセに感謝の言葉どころか、つぶやき始めた。そして、やがて神とモーセに対しても逆らうようになってしまう。まさに、救いの計画の中で罪を犯すイスラエルの民となってしまいました。そんな日々が続く中で、モーセもその現状に悩み苦しんだでしょう。それで神は、罰として燃える蛇を天からイスラエルの民に降らせます。蛇に噛まれると焼け付くような痛み、激しい熱もきっとでたのかもしれません。蛇は炎の蛇と呼ばれるようにもなりましたが、多くの民が亡くなります。そんな日々が続く中で、自分たちの罪を認めた民はモーセに助けを求めました。モーセは神に祈り、イスラエルの民の罪を償って救うために神から言葉をいただきます。神は青銅の蛇を造って、それを見るものは救われると話されました。神が遣わした蛇に噛まれた者は、そのモーセが造って掲げた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われたのです。
  この場面を黙想すると、神の約束を信じて見つめる者は救われる、そん思いが私の心の中にも見えてきます。神の約束を信じて 見つめる者は救われる。それは新約の出来事で、イエスの十字架の購いにも繋がっているように思われないでしょうか。神に逆らい、罪を犯し、そうした人々がイエスの購いによって救われる。私たちはこの四旬節、高く掲げられた十字架のイエスを仰ぎ見、死から復活する、闇から光へ導く救いというものを黙想しているのではないでしょうか。黙想し祈っているのではないでしょうか。
 四旬節を歩む私たちの信仰を見つめる絶好のテーマが今日のみ言葉にもあります。四旬節、
もう一度私たちは今日のみ言葉に照らして、私たちの信仰から本当に救いに、闇から光に向かう 信仰の歩みを続けられるように祈っていくことが大事です。

 今日、もうひとつ触れなければならない出来事が、私たちの日本人の中に含まれています。
2011年3月11日、午後2時46分に発生した東日本大震災。7年が過ぎたことが報道され続けて来ました。日本の社会が体験した忘れられない出来事です。この大地震は多くの人の生活を一変させ、特に東北地方を中心とした多くの町の姿を変えてしまいました。今日の朝刊でも、一番新しい死者の数が記事になっていました。今なお、2千500人を超える人が行方が分からない、7年経ってもそんな状態が続いています。あの時を忘れない。忘れてはならない。復興支援がずっと続いています。カトリック教会も日本の司教様たちと共にいっしょに 犠牲者や被害者のために祈り、その支援を続けてきています。大震災を忘れないということ、忘れてはならないことで、東日本大震災の祈りも今なお、私たちは唱え続けています。
  私たちに出来る復興支援、少し関心が薄れてきているかもしれません。札幌教区の支援もこの春で、大きく変わろうとしています。これまでボランティアを毎月派遣することが変わるようです。ただ、支援は続けなければならないとして、何かもう少しちがったかたちで出来る事を考えなければと思います。インターネットで被災の状況をいくつか見ていました。祈りも大切なことは当然なのですが、祈りだけでなく今の私たちひとりひとり、今の自分に出来る支援を考えていきたいと思います。今なお、支援を呼びかけるインターネットの文書の中には、祈りという言葉は見あたりませんが、参考になることはたくさん出てきます。「応援しよう東北」私はそのあとのいくつかの言葉に興味深く心に留まりました。「買って応援、旅して応援、参加して応援、寄附して応援」こんな支援のかたちがあることが分かりました。私たちが出来る祈りと支援、忘れてはならないと思います。今なお仮設住宅から出られない人がたくさんいます。出たくても、お年寄りの一人住まいの方は、また不安な状況が生まれると聞いています。東日本大震災やそのほかの大きな事件や事故がありましたが。悲しむ人はたくさんいますが、今日改めて3月11日ということで、私たちは祈りを続けていきたいと思います。

  最後に、今日の志願式について触れたいと思います。入門式を先日(2月25日)行いました。洗礼の準備、回心式の準備を進めている人がいます。洗礼の決意を固めての、求道者としての最後の準備を進めていこうとしています。そして、入信の秘跡によって教会に加わることをこの洗礼志願式で確認して、使徒たちが伝えた使徒信条、信仰宣言をこの志願式の中で授与することになります。
  今日のみ言葉。青銅の蛇を仰ぎ見ることよって救われた民のように、皆さんとともに四旬節の準備をして、私たち一人ひとりも新しく生まれ代わる恵みを祈りたいと思います。』