2019年7月15日月曜日

年間第15主日「善きサマリア人のたとえ」

ルカによる福音書 10章25~37節
イエスは、「自分の隣人とは誰か?」とイエスを試す律法学者の質問に対して「善きサマリア人のたとえ」を話されました。この話はルカ福音書だけに記されています。
このたとえ話をとおして、イエスの言われる隣人とは?そして、人が陥りがちな偏見・差別について考えてみましょう。

この日のミサは、勝谷司教様の司式でした。


司教様のお説教の大要をご紹介します。

『数年前の話ですが、東京管区の司祭の集まりで、次のようなことが話題になりました。日本の西にある大きな教区では信者も多いのですが、そこでは日曜日のミサに参加する出席表などのようなものがあって、それの出席率が悪いと秘跡を受けることが出来なくなるシステムを採用している教会がある。これは事実かどうか確認をとっていませんが。その話題が出た時、そんなとんでもないことをしているのかという反応がでることを私は期待したのですが、管区のその集まりのある一定の神父様方は「我々もそうすべきだ。」という意見を持っていることに大変驚いたことを記憶しています。つまり普段、教会で信者としての務めを果たさない、(それは教会維持費を納めていないことを念頭にしていたのですが)普段、教会に来ていないのに結婚や葬儀の時だけは信者としての権利を主張してやってくる。これはとんでもないという発想らしいのですが。
 そもそもこの発想は何か勘違いしていないか。教会はサロンではないですね。会費を払っていれば必要なサービスを受けられるようなところではありません。そして、教会維持費にしろ、教会員の務めにしろ、信者がその信仰に基づいて神に対する自発的な喜捨。そこに大きな勘違いがあるのです。しかし、同じような発想が、つまり守るべき規定を守っていないから、私たちの正常な関わりからは除外されるべきだ。これは長い間教会で支配されてきた考え方です。
 以前、シノドスから帰ってきたとき、この場所から話したことですが、そこでテーマになっていたことはまさにこのことです。教会は永い間、裁く教会であったこと。教会の掟を守れない人を排除しようとする。ひとり一人、それぞれの事情があって、守りたくても守れない。確かにその人自身に責任があるかもしれない場合もありますが、それがどのようなケースであれ、ひとり一人の心の状態に耳を傾け、寄り添っていくべきである。これがシノドスで打ち出された新たな今後の教会の姿勢として示されたのです。しかし、私たちの中にこの裁く心は、ひじょうに深刻に巣くっていると感じられることが度々あります。

 今日の福音書は、善きサマリア人のたとえ話として何度も耳にしたことがあると思います。憐れに思うという言葉は「はらわた」という言葉で、深い共感を表す言葉として知っていると思います。しかし、この対局にある律法学者の姿はどこに問題があったのでしょうか。もっとも大切な教えは何であるかは、この律法学者もイエス様も意見を同じくしています。それをどう解釈し、実践するかはまったく違っていました。この律法学者は神様の起きては徹底的に命がけで守るべきと考えていました。そして掟に、隣人を自分のように愛すると書いてありますから、この掟を厳密に適用するには、隣人というものが誰であるかをきちんと定義しなければならない。そして、律法学者の考えによれば、まず神の民に属さない、今日の福音書に出てくるサマリア人などは、最も隣人から除外されるべき人種であったのです。さらに罪を犯していく人たち。徴税人や娼婦という人たちは真っ先に隣人リストから除外されるべき人たち。それを神の前で正しいことと信じていたのです。 しかし、イエス様の視点はそれとは全く異なる視点でした。むしろ掟を守れない、正しく生きようとしてもそれが出来ない、そういう弱さや矛盾を抱え人たちの心に寄り添っていくなかから、その人たちに救いに至る道筋を同伴しながら示していこうとする、これがイエス様の姿です。
 人ごとのようにして聞いているかもしれませんが、実は裁く教会の姿は札幌市内の教会で何度もいろいろなところから報告されています。一番多いのは、子供の時から教会から離れてしまっている。結婚を迎える時、教会で式を挙げたい。普段教会に来ていないのに虫がよすぎると拒否されるケースがいまだにあります。これも札幌教区で実際にあったケースですが、葬式を拒否する。
  そのような裁く教会。それが当然だと思う信徒がいるのも確かです。しかし、これは何か私たちに大きな勘違いをしているのではないか。私たちに必要なことは、まず掟を優先し、それに人を当てはめることではなくて、むしろその掟を守れない人の心に耳を傾ける姿勢、これがとても大切である。そういう人の心の痛みに少しでも共感できるならば、
けっしてその人を頭ごなしに裁くことは出来ない。少しでも私たちがその人の心の痛みに共感できるならば、そこにおこってくるものは裁きは排除され、共に歩んで行きたい、支えてあげたい。心にわきおこってくる自然の営みです。
  今日の第一朗読で、この教会の掟を、律法学者のいう何百もある掟を覚えを守ろうとする困難な道ではなくて、最後の行にある「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)。私たちは自分の心に呼びかけられる聖霊の働きに従っているならば、難しいことではない。

  最後に、私が司祭になって間もない頃体験したことを分かち合いたい。司祭になった頃、数年間、子供たちはたくさんいました。毎年、召命錬成会というものを行っていました。50人近い男子だけですが、今で言えば差別になる。ただ、男子だけというのは、召命は男子だけと考えていたわけではなくて、とても野蛮なサバイバル・キャンプをしていたわけです。テントを張ったり、かまどを作ったり、遠くまで水をくみに行き運んでこなければならない。こんな体験生活は今の子供たちはしていません。楽しい、大胆な体験をたくさんしました。
  この召命錬成会の準備が大変だったのです。ある年には積丹でやろうと下見に行きました。弁当を持たして、まる一日費やすオリエンテーリングというものも計画しました。地図とコンパスだけ持たせ出発させるのです。そのオリエンテーリングのコースを探すために出かけました。一日かけて、最後に夕方になってひじょうにきれいな丘陵地帯がありました。そこは歩けるのではないかと、道路を逸れて山道を車で見に行きました。途中、ゴツンという変な音がしたのですが、気にせず一番上に着いた時に、オイル缶に穴が空きオイルがジャーと漏れていました。車は動きません。人里離れた所で途方にくれていたところ、下から2台の車がやってくるのです。そして、降りてきた運転手は「やっぱり。」と言うのです。下から登る道路があるのですが、逸れて上がっていくところで、オイルの跡がずっと続いているのを発見したのですね。その運転手さんは千葉から来たトラックの運転手さんでした。休暇をとってふたつの家族が旅行をしていたのです。この先に難儀をしている車があるに違いないという運転手の直感です。それでわざわざ登って来てくれたのです。そして、やっぱりいたと言ったわけです。それで私の車を牽引して小樽の工場まで運んでくれました。着いたのは夜8時。小樽のどこか旅館を予約していて、すでに家族で楽しんでいるはずの時間に、付き合わせてしまったのです。私は後でお礼をと思い名前や住所を聞いても教えてくれないのです。職業だけは分かっていたのですが。困った私はお金を包んで渡そうとしたのです。当然ですが受け取ろうとしないのです。その時、最後に何を言われたかというと「今度はあなたが道で困っている人を見つけたら、その人に返してくれ。」。びっくりしました。その言葉を聞いて、私は神父ですとはとても言えませんでした。信者以上に信者の心を理解する人でした。これは私にとって本当に善きサマリア人でした。私がその時にお礼をしたならば、そのことは完結したのだと思います。
 「次にそのお礼は別な人に返してくれ」という、最近そのような運動がどこかにあると聴いたことがありますが、その当時はそのような社会的な運動とか、ましてやインターネットのような情報が広がっていることもなかった時です。ですから、その運転手さんの自発的な心の現れだったと思うのです。もっとも福音の心を理解している人だと私は感じ取りました。まさに福音書のように「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)、この言葉を自分に投げつけられたと感じています。
 福音書は難しい理屈ではなくて、自分や人に対しての痛みを共感出来る、その心に従って行動するときに、私たちの愛の世界は広がっていくものだと切に感じました。』

2019年7月7日日曜日

7月7日(日)年間第14主日

私たちは一人一人が福音を述べ伝えるためキリストから遣わされています。

今日のルカ福音書(10・1-12、17-20)では、72人を任命し、宣教に遣わされました。


湯澤神父神父様のお説教の大要をご紹介します。

『イエスが12人の弟子たちを宣教に遣わすという出来事については、共観福音書すべてに記述されていますが、ルカだけが72人を任命して派遣するという、もう一つの出来事を収録しているわけです。
この72人を任命して派遣するという背景には恐らく、モーセの出来事が前提になっていただろうと思われます。ユダヤ民族がエジプトから脱出してカナンに向かう途中、モーセの仕事があまりにも多かったので、誰かアシスタントをつくってはどうだろうかという話になり、70人を選んでモーセの前に集めたわけです。この70人がモーセの仕事を分担して、負担を減らしたという形になりましたが、どういう訳かそこに集められなかった人の中から、二人の人の上に霊が下って同じように予言を始めました。そして、その二人も加えた72人がモーセの手伝いをするようにったという出来事でした。
今日の福音朗読にあるイエスに任命された72人は、12人の弟子という特別な人たちだけではなく、もっと参集範囲を拡げているわけです。この意味するところは、宣教は12人だけの務めではなく、いわゆる全てのキリスト者がこの任命を受けているということと理解してよいかと思います。

この派遣にあたっては、「二人ずつ先に遣わされた」とあります。二人ずつというのは「一人ではない」ということです。これは、ある意味で共同体の宣教ということが前提とされているということです。宣教活動というのは個人プレーではない、共同体として宣教活動をするということです。それが「二人ずつ」ということに象徴されています。

さらに、宣教に遣わされる人たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」と話され、必要性が開かれているということを伝えています。

それから宣教活動というものは、そう楽なものではないということも話されています。狼の中にエサを撒くようなものだと喩え、それだけ大変なものだということでしょう。それ故、共同体として宣教を行うということだと思います。

同時に、「財布も袋も履物も持つな」と話され、宣教にあたって、個人の能力とか、才能とか、地位とか、そういうものには頼らないように、ということです。宣教というものは、そういうものでやるわけではない、神が宣教するのであって、個人の能力に頼るのではなく、神だけを信頼するように、ということです。逆に言うこと、「私のような能力のない人間には出来ません」ということではありません。却って能力のない方が、相応しいのかもしれません。
「心の貧しい人は幸い」と言うように、神しか信頼できなければ、それだけ神を頼ることになるし、下手な能力があれば却って自分の能力を信用して神様を信頼しなくなる訳ですから、能力のない方がむしろいいのかもしれません。

「途中でだれにも挨拶をするな」とありますが、これは別に、しかめっ面して誰とも触れ合わないでということではなくて、目的が宣教に行くことにあるのだから余計なことをするわけにはいかない、という意味あいです。お喋りしたり、親しくなったり、することが目的ではないということです。

そして、どこかの家に入ったら「平和があるように」と。そこで実現するのが平和だというわけです。ただこの平和は、人間が作る平和ではなく、復活したキリストから来る平和です。所謂「主の平和」のことです。そこで集まっている共同体の中に、神の平和が実現するようにという意味であって、世界平和を祈っているわけではありません。この平和は人間が実現させる平和ではない、だから受け入れなければ戻ってくると言っているわけです。もし人間が作るものであれば、成功するか失敗するか、そんな程度のものです。

今日の福音朗読では、このように宣教というものを表現しているわけです。
私たちは、そこで、自分たちはどうしているだろうか?というところまで考えなければなりません。
内側を向いていて閉じ籠もって、お御堂の中にだけいて外にでない、漏らさない、というのはキリストの意向に沿ってはいません。
「行きましょう」と言われているわけですから、福音を伝えるために出ていくことが目的なわけです。そしてまた集まってくるというのが重要なのです。集まるために出て行って、出て行くために集まるわけですから。
常にこのようにして、福音を伝えるために私たちは毎週、派遣されているようなものです。

私たちは一人一人がキリストから遣わされているということを自覚しないといけないと思います。堅信を受けた人は全ての人が、この使命を受けている、キリストの共通祭司職に与っているわけですから、常にキリストによって遣わされている、そして共同体として遣わされているということを心に留めながら私たちの使命を自覚していかなければならないと思います。』

2019年7月1日月曜日

6月30日(日)年間第13主日

今日の聖書朗読では、神が望まれる道を歩むことが最も優先されることとして示されています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


(ルカによる福音書 9章51~62節)
『キリストに従う人たちの心構えについてキリストが語っている箇所ですが、文字面をみると非常に非人間的な感じがしないではないですが、この情況を見るときにそれは、もっとはっきり分かるのでしょう。「イエスが天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)。いよいよエルサレムに行って十字架に架けられる、天の父の意思を実行する。それに応える、その方向に向かって歩み始める。 そのときの弟子たちに対する望みをイエスは弟子たちに語っているわけです。

 ここの言葉を理解するために第二朗読のパウロのガラテヤの教会にあてた手紙を参考にすると少しは分かりやすいと思います。パウロ独特の霊と肉という対立で語っています。「あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)。肉という言葉を往々にして道徳的に捉えたり、欲望という意味で捉えると、意味がひじょうに狭くなってしまうと思います。肉と霊はそういう対立ではない。神と関係のない人間の普通のあり方を「肉」と呼ぶわけです。神の意思に応えて生きる道を「霊」といってパウロは分けるわけです。
 肉に罪を犯させる機会はけっして道徳的に悪いことをしたり、そういう欲望に振り回されたりすることを意味するわけでなくて、時には非常に良いボランティアもこれに含まれてくるわけですね。一見外側から見ていると非常に良いことをしているように見えても、それが神の意思にそっていないことがあり得るわけですね。皆さんもご存じのバベルの塔の話があります。人間が力をあわせて塔をつくる。ひじょうに人間の持っている能力を十分に発揮した素晴らしい事業です。けっして神はそれを妬んで破壊したわけではないのです。神の意思に沿ってないので壊したわけです。どんなに良いことをしても、神の意思に沿っていなければ、神はそれを注意したり破壊したりするわけです。そういう意味で肉というのは、良いことをしていても、肉ということはあり得るわけです。
 そういうところからキリストの言葉を見ると「まず私に従いなさい。」(ルカ9:59)。そうするとその人は「父を葬りに行かせてください。」(ルカ9:59)。キリストは「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。」(ルカ9:60)と言うわけです。
 この福音を伝えるという使命を受け、それに応えたこの人は、もうすでにそういう人間的な考え方に従った生き方をしてはならないことです。それが良い悪いではない。そのやるべき使命を果たしなさいということですね。キリスト自身もエルサレムに向かう、その使命を果たすために歩き始めている中での言葉ですから、そういう意味で全体の流れに沿って理解しなければならないわけです。

  このエリシャは、エリヤからマント(外套)を投げつけられて、自分の使命というものを、初めて神の召命を感じとって従っていこうとするわけです。  が、その家族との別れ、あるいは神とは関係ない生活を良いか悪いかは別問題、そういうものから決別するわけです。そして、決してそれを忘れないようにエリヤは言うわけです。「わたしがあなたに何をしたと言うわけですか。」(第一朗読、列王記上19:19、20)。そういう意味ですね。決して神から呼ばれたことを忘れてはならないといことです。

 私たちは往々にしてこの区別をしなくなっています。カトリック教会は罪というものを
ひじょうに道徳的に捉えすぎていて、本来の罪の意味を偏って狭くなっています。どんなに良いことをしていても、神の意思に沿っていなければ、それは極端に言えば罪です。立派なことをしているから罪ではないということではない。キリストが十字架に架かっていくときに、全能の父の意思を実現するために応えるためにいくわけです。その応えは、十字架に架かって死ぬことであり、降りてくることではない。人々は降りてきたら信じるかもしれない。しかし、それは父の意思には沿っていない。キリストはそれが父の意思に沿わなければ、それがどんなに効果的なことであったとしてもしないわけです。

 そういう意味で私たちも考えてみなければなりません。私たちはキリストの呼びかけに応えて、キリスト者として歩み始めたわけですから、何が大切なことなのか、それが分かるはずです。「『主よ、主よ』と言う者が皆、主の国に入れるわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)とキリストも言うわけです。私たちは常に神、キリストの呼びかけを聴いて、何が神の意思なのか、そしてそれを探してそれに応えていく、この姿勢を常に忘れてはならないと思います。』

2019年6月23日日曜日

6月23日(日)キリストの聖体

聖体の秘跡とは、神から与えられたパンをともにいただくことによって、神とのつながりと人と人とのつながりを深く味わうことです。

今日の主日ミサは、佐藤謙一神父様の司式により行われました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『 今日はキリストの聖体の祭日です。イエスがわたしたちに対してどのような出会い方をするのかということが示されていると思います。
今日の福音はイエスが 12人の使徒たちだけを連れてベトサイダというガリラヤ湖の北の町に行きます。
 イエスは使徒たちに病気をいやす力と権能をお与えになって、それぞれ各地に派遣しました。その使徒たちが帰ってきたばかりでしたから、各地で行ったことをイエスは聞きたかったのだと思います。ところが群衆はイエスがベトサイダに行ったことを知ってイエスの後を追います。 使徒たちの話を聞こうとしていたけれども群衆が集まって来たので、イエスはその群衆を迎え入れて神の国について語り、治療の必要な人々をいやされます。
 むしろイエスは群衆を歓迎したと言えると思います。 自分の時間よりも人々の必要の方がイエスにとって大事なことだということです。 これはイエスの生き方そのもの、イエスの活動そのものです。 人々に対するイエスのやさしさがにじみ出ていると思います。
 そしてさらに日が暮れて来たときに12人の使徒たちが群衆を解散させようとします。 人間的な常識から考えれば、当然のことです。 しかしイエスの考えは違います。 使徒たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。
 イエスがことばと行いをとおして示されたことは、自分たちは神から見捨てられていると思っている人々に希望を与えることでした。 弟子たちが最初からこのことを自覚していたわけではないことはイエスへの言葉でわかります。 弟子たちがそれを理解するのは、イエスが十字架上で殺された後、復活したイエスと出会ってからのことです。

さて、5000人以上の人が5つのパンと2匹の魚で満腹したという奇跡についてどう考えるかという問題があります。
 福音書が書かれたのがイエスの死後40年もたった後でしたから口伝えでのエピソードが教会の中で伝えられました。 その中でわずかな食べ物をイエスが人々ともに分け合い、大勢の人が満たされたという弟子たちの体験があったことは確かだと思います。 そこにはイエスの与えるものは豊かであり、本当の生き方が示されているということを感じていたはずです。
人数の問題や食べ物の数の問題を考えると人間的な誤りにおちいってしまいます。 愛には大小や多い少ないはありません。 イエスのもとには本当の豊かさがあり、本物のいのちがあるということを伝えたいのだと思います。

弟子たちは聖霊降臨の後、人々の前でイエスのことを語り始め、教会を作りました。 イエスの弟子たちの集まりである教会はイエスの名のもとに集まることによって目に見えるしるしとなりました。
一人ひとりがそれぞれ神と出会うだけではなく、お互いに集まることによって父と子と聖霊の神を確認し、 力づけ合うのです。イエス・キリストに従う者たちが同じ信仰に支えられて、毎日の生活の中で神との出会いをよりたやすくできるのです。 聖体の秘跡とは、神から与えられたパンをともにいただくことによって、神とのつながりと人と人とのつながりを深く味わうことなのです。 イエスは最後の晩餐で、神とのつながり、人と人とのつながり、そしてご自分と弟子たちのつながりをずっと続くものにしようとされました。

聖パウロのコリントの手紙は、最後の晩餐でイエスが言われた言葉の記録としては最も古いものです。 イエスが亡くなってから20年後くらいに書かれたものと言われています。
 このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる使命がわたしたちに 与えられたのです。
わたしたちもキリストの聖体を通して、神とつながり、同じ信仰を持つ人々とともにイエスの示された愛を実現していく者となれるよう祈ってまいりましょう。 』

2019年6月16日日曜日

三位一体の主日

この日のミサは、当教会出身の浅井太郎司祭(名古屋教区)が共同司式され、ミサの後「キリシタン時代」の講話をしていただきました。



この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ヨハネ16章12~15節】

『このキリストの言葉の中に三位一体の神秘の一つが隠されていると思うのです。父なる神がすべてを御子であるキリストに委ねて、御子であるキリストがそのすべてを聖霊に委ね、この父と子と聖霊は同じものだと言うこと。
  「愛の喜び」という使徒的書簡を教皇様が発表されて、その中で、夫婦の絆は三位一体の似姿であると書いています。夫婦だけでなくて、愛の絆のひとつの面が、三位一体の似姿であるとしたら、同じ絆をそれぞれの人が可能性として持つことが出来るということが言えると思う。その面についてちょっとだけ紹介したいと思いますが、その愛は洗礼を受けてキリスト者となってから初めて持つわけではなくて、創造のときの神の似姿としての一面ですから、キリスト者でなくても誰でも持つことが出来るし、実現することが出来るのです。
 古い思想家がこのようなことを言っています。「人間は愛なしに生きることは出来ない。孤立して生きることは出来ないからである。」と言っていますが、創世記の最初のところで、神様は人はひとりでは生きていけない。いっしょに生きるものをあげよう。その人の絆の中で、私たちは生きれる存在となるわけです。この絆の一面がこの三位一体の絆。この愛をなくして生きられないと言っている思想家が、同時にこういうことを言っています。指導者たちは町を治めるわけですが、一番何に苦心するか。それは正義の実現ではないと言います。愛の実現だと言います。どんなに正義がいきわたっていても、その町、国が分裂していたら国はたちゆかない。政治家が一番心を砕くのが和合一致なんだと言っています。古代のギリシャの国ですから大きな国ではないです。大きな国ではないにしても分裂していたら立ちゆかなくなっていく。キリストもそう言ってます。そういう和合一致をもたらす愛のひとつの側面について、彼はこのように要約しています。キリストの言葉みたいですが、「その愛する者のために、その相手にとって最善のことを願い実現するように。自分中心ではなくて愛する者が中心である、利他的な愛です。人を愛する、隣人を愛するといっても良いでしょう。」

 そして、一番最高なことは相手がいつまでも生きることを望むことですが、同時に同じようなものを選ぶ。相手にとって最善なものは自分にとっても最善ですから同じものを選ぶ、同じ時を過ごす、同じ感情を共有する、悲しめば一緒に悲しみ、喜べば一緒に喜ぶ、それが愛だと言うのですが、別の言葉で言えば「兄弟のような愛」といっても良いかもしれません。同じものを選びながら、相手のために、相手にとって良いことを願いながら、相手のために生きる。その面はある意味で三位一体の交わり、絆のひとつの面といえる。これまでも復活節のときヨハネ福音書をとおして話してきたが、それがある意味で私たちの絆の理想的な面ではないかと思うのです。実現するかどうかは難しいかもしれない。少なくても私たちが神の似姿として創られたならば、そういう能力を持っているはずです。三位一体の持っている能力の一部は完全でないにしても持っているはず。それを実現することは全く出来ないことではない。できる限りこの三位一体の愛の交わりすべてを相手に委ね、相手のために生きる。そういう姿を私たちの内に実現する努力は必要だと思うし、出来ないことではない。ただ、私たちはあまりそれを意識していないかもしれない。 
 この共同体の中でも、少しでも実現出来るように三位一体の神に委ねるように、日々努力していく必要があると思うのです。』

2019年6月9日日曜日

聖霊降臨の主日

私たちは聖霊を受けた時に、キリストの証人として生きる使命をおびています。

今日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今から十数年前に、東京の小教区で「聖霊降臨」を迎えた時に、ある女性から「今日は逆バベルですね」と話しかけられ、「あっ」と。創世記に出てくる「バベルの塔」のことだったのですが、そうだろうか?と思ったわけです。聖霊降臨の出来事は、同じようなところもあるし、違うところもあり、ある意味関連しているのかもしれません。

皆さんもご存知のように「ノアの方舟」の出来事の後に、ノアは神と契約を結びます。神は「この世界はどんなに駄目でもリセットはしない」と約束をして虹を架けるわけです。そして天地創造と同じ言葉を言いました。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。全世界に散らばっていきなさい」と。
新たな創造をということなのかもしれませんが、その後に「バベルの塔」のお話があるわけです。人間は神の言葉に応えたかというとそうではなかった。世界中に散らばるように、と言われていたにも関わらず、人間がしたことは何かというと、たとえ神であっても散らばらされないようにしよう、ということでした。これを見た神が人間を全世界に散らばらせたという話です。
どんないいことをしたとしても、神の意図に反することは、よくないことということで、神の創造の意図を実現させていくことが大切なこというお話です。

「逆バベル」と言った人に「何でそうなの?」と聞いたところ、バベルの塔では皆は散らばらされたけれど、聖霊降臨では一つに集めた、という理由でした。
確かに今日の集会祈願では、「きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。」とありますが、それだけではないわけです。続きでは、「聖霊を世界にあまねく注いでください。教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、今も信じる民を通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。」とあります。

先週の第一朗読「使徒言行録」を読むとよくわかると思うのですが、キリストが天に昇っていく際にこう語られました「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 と、全世界に行ってキリストの証人になっていくということを命じました。
この時に、ただ茫然と天を見つめていた弟子たちに天使たちが言うわけです。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」と、ボーとしていないで、今言われたことを実行しなさいと言ったのです。そしてそれが実行されたことを示すのが、今日の第一朗読で語られた五旬祭の出来事です。使徒たちは決して急に語学が達者になって、いろいろな言語を話せるようなったということではなく、聖霊の力で同時通訳がされたわけでもありません。
ここで、言わんとしていることは、ここに出てくる全域に福音が伝えられたということです。これらの地域はその当時の世界全域を現しており、実際に弟子たちの中には、遥か遠方まで宣教に行ったという伝説が残っています。今日語られた出来事は、使徒言行録の初期の段階で宣教が実際に行動に移され、様々な国で福音が伝えられたということを現しています。

この聖霊降臨が何を意味しているか。それは、この新しい命を受けて、全世界に新しい命を生むために散らばって行ったということです。ですから、別に「バベルの塔」の反対ということではなく、神の意図は”創造”時から同じということです。神のいのちを全世界に広めていくということです。
そういう意味では、私たちもそういう使命を受けているということです。どこにあってもキリストの証人として生きる使命を、私たちは聖霊を受けた時点で授かっているということです。』

2019年6月3日月曜日

主の昇天

「主の被昇天」を様々な視点から考えてみましょう。
この日のお説教のなかで湯澤神父様がお話されています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日は「主の昇天」ですが、福音記者が十字架とかいろいろ描くのですが、必ずしもひとつの面から描いているわけではないのです。同じ福音記者であったとしても 物事は必ずしも一面だけではない。皆さんも前面から撮った写真だけが皆さんの顔ではない。横から撮ったらすごく美人だとか、あるいは後ろからの方が良い場合もあります。一人の人であったとしてもそれぞれの面を持っているわけです。 

 例えば今日の御昇天にしても、けっして一面から捉えるのではなくて、いろいろな面から語られてくるのです。今日の第一朗読と福音は同じことを描いているわけですが、少し角度が違うのです。福音の方は昇天で終わるかたちで語られていますが、最後には「エルサレムに帰り、絶えず神殿で神をほめたたええていた。」この昇天をとおして教会の生活が描かれてくるのです。使徒言行録では2章で、別なかたちで語られてくるのですが、  第一朗読の使徒言行録は、次に聖霊降臨という出来事を控えて書いてありますので、そういうふたつに分けた書き方をしているのです。 使徒言行録の方は昇天について書いてあるわけですが、当然その後の聖霊降臨を見越して書かれていますから、「エルサレムから離れないよう。」にと言うわけです。

 そして、「聖霊を受けるよう。」にと書かれています。福音書の方はそのことには触れていないですね。ふたつに分けて書く必要を感じていなかったかもしれないですね。使徒言行録を見てみると、昇天の出来事があるわけですが、エルサレムに留まるようにとしています。ルカはエルサレムから新しい教会の動きが始まる。おそらくほかの福音を書いた人もそうだろうと思いますし、少なくとも実際エルサレムから始まると推測されるわけです。ただ、一度ガリラヤより引っ込んだ弟子たちが、どのようにしてエルサレムに集まったかというのは、なかなか議論のあるところです。ただ、ルカはガリラヤから始まってエルサレムに、エルサレムから全世界に行くという図式があるので、エルサレムが前面にでているわけです。このエルサレムからすべてが始まり、すべてが終わる、そういう感じです。

  聖霊降臨前に、その後のことも触れているわけですが、非常に面白いことは天使の言葉ですね。キリストが天に上げられたことは、共観福音書では神の栄光を受ける、あるいは全権能を引き受けるという意味がある。ヨハネと違うのです。ヨハネは元いたところに戻るという意味。例えば、墓のところでマグダラのマリアに現れて、マグダラのマリアはすがりつくのですが、「すがりついてはいけない。まだ、天に上げられていないから。」どうしても来たところに戻らなければならない。 共観福音書はそのようなことはないわけ。神としての権能をすべて受け継いでいく。そういうかたちになるからです。

 その意味で天に昇るわけですが、その後どうなるのか。このキリストが地上でしていたことを、弟子たちが受け継いでいくことになる。そのことが天使の言葉の中で強調されてきます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」という言葉ですね。 何気ない言葉ですが、非常に意味のある言葉ですね。平たい言葉で言うと「なぜぼーっとしているのですか。」というこですね。確かに天に上げられたことは素晴らしいことで、それを見上げ礼拝することは良いことなのですが、何か忘れていませんか。その忘れていることは何かと言うと、前のキリストの言葉ですね。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤ、サマリアの全土で、また地の果てまで私の証人となる。」ということです。
 ルカが言ったように、エルサレムから始まって全世界へと広がっていく地理的な広がりを描いているわけで、実際に使徒言行録を見てみると、エルサレムの活動の後、ステファノは殉教する。これを機会に弟子たちはサマリアに移っていく。7人の助祭のフィリポですが、サマリア宣教をするわけですが、それで終わりかと言うとそうではなくて、本当に瞬間移動のように聖霊に導かれて「ガザ」というところに行くわけです。まったく方向が違います。エルサレムから見たサマリアは北ですが、ガザはもっと南の方ですね。そこに連れていかれ、エチオピアの高級官僚に洗礼を授けるわけですね。出来事が続くわけです。 このエチオピアはその当時の地の果てです。エジプトの南で、エチオピアに行ったら地の果て。世界の広さはそんなところですね。西はスペイン、イギリスまで。東はインドくらいまで。だいたいそんな世界が彼らの世界。それよりも東西南北が広がっていない。 ここから見るとエルサレムから始まって、ユダヤ、サマリア、そして地の果てまで。

 このキリストの証人になる宣教が、そういうかたちで広がって行くわけですが、ルカはその当時のイメージを描いていますが、これに時間の軸を加えると四次元になるわけですが、現代に繋がってくるわけです。そのように捉えてみると、「なぜ、ぼーっと立っていのですか。あなたがたは全世界の証人になるのではありませんか。」この天使の言葉は現在の私たちにも向けられている言葉です。四次元のグループ。世の終わりまで福音を伝える使命をキリストの弟子は持っているのです。現在の我々はそれを引き継いで、さらに引き継がせて行く。次の世代に引き継いでいくのです。
 
 この広がりは単なる空間ではなくて、時間の広がりまで持って行くわけです。その意味で見るとこの天使の言葉「なぜ、ぼーっとしているのですか。」もしかしたら、私たちは「ぼーっ」としているかもしれない。何もしないのですね。「何か忘れていませんか。キリストの証人になることを。」
 そういう意味で何気ない天使の言葉ですが、天を見上げて立っているのですか。たしかに神を礼拝することは素晴らしいことですが、それだけではないでしょう。私たちはもしかしたらそれを重視していないかもしれない。もしかしたら忘れているかもしれない。
 私たちに受けられた言葉として受け止めていきたいと思います。』

2019年5月26日日曜日

復活節第6主日「世界広報の日」

精霊降臨が近づいているこの日の福音では、最後の晩餐での精霊を約束したイエスのことばが読まれました。


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日は復活節第6主日です。 復活の主日から36日目にあたります。 復活節は復活の主日から聖霊降臨の主日までの 50 日間ですから、少しずつ、聖霊降臨が近づいているので、 今日聖霊の約束に関連したところが読まれました。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したこ とをことごとく思い起こさせてくださる。」 これは力強い励ましのようにも思えます。
が、実際本当にイエスを証しすることが自分にはできるだろうかと不安になるところもあります。 弟子たちの間でも、最初、その不安は持っていたようです。 イエスがなくなった後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の戸に鍵をかけていました。 自分たちにも危害が及ばないようにと不安のうちにあったことが見て取れます。 彼らはイエスが生前に話していたことをすっかり忘れていたのです。
「心を騒がせるな。おびえるな。」 「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻ってくる』と言ったのをあなたがたは開いた。」 今日の福音に書かれています。 その通りにイエスは戻ってきて、おびえていた弟子たちの間に現れ、息を吹きかけて言われたのです。
「聖霊を受けなさい。」 そこから弟子たちは大胆にイエスを証しするようになるのです。
わたしたちは 2000年前の出来事を聖書で知ることができますが、この弟子たちの変化こそが聖霊の働きで あり、 復活したイエスとの出会いの中に始まったものであると理解し信じています。
でも、本当に自分がイエスを証しして生きて行けるのだろうかという不安は、だれもが持っているものだ と思います。 もし自分の力で何とかしようと考えたとして、誰にも相談せずに自分でいろいろ考えたとしても、不安は なくならないと思います。 弟子たちはどうしていたかというと、何か問題が起こったときにはみんなで集まって協議していました。 使徒たちの宣教で読まれましたが、これはエルサレム会議と言われるもので、使徒たちが集まった最初の 公会議と言われています。 これは教会の中で旧約の掟とイエスの教えの中で激しい意見の対立と論争が生じたため開かれたものです。 問題は、ユダヤ人が律法の掟として守ってきたことを、異邦人にも守らせなければならないのかという点 でした。 使徒たちは話し合いの上、次のように決めました。
「聖霊とわたしたちは、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」 異邦人はイエスを信じるにあたって、割礼を受ける必要はないということです。 ここで注目すべき点は、文書の中にある「聖霊とわたしたちは」という文言です。 聖霊の働きを強調している言葉です。
わたしたちだけで決めたことではない、聖霊の働きの上で決めたことであるという宣言です。 聖霊がキリストを信じる者の中で分裂しかかっていたものを、一つにしてくださったということが分かり ます。
わたしたちも使徒たちのように、様々な問題を自分で抱え込まないで、誰かに話すことで解決の糸口が見 つかるかもしれません。 あるいは大きな気づきが得られるかもしれません。 そのようなときに聖霊は働かれるのではないかと思います。

今日は世界広報の日でもあります。
教皇様は、「ソーシャル・メディアが出会いを促進するものであるが、一方で人々をさらに孤立させるもの でもある」ともおっしゃられております。 ソーシャル・メディアは便利なツールであり使い方によってはより多くの人との出会いの場となりますが、 一方で孤立や分裂が問題となることもあります。
「互いにかかわりあうという人間の本質を、ネット上においても、ネットを通じても確認しなければなり ません」と教皇様は呼びかけておられます。 特に若者の間では、全世界どこにいてもつながることができますので、ネットの世界だけにとどまってい る者もおります。 ワールドユースデーや高校生のエクスポージャーなどで出会った人たちが、それをきっかけにネットでつ ながるのはとてもいいことだと思います。 ですが仮想的なところだけにとどまることがないように、わたしたちは勧め励ましていかなければならな いと思います。 聖霊の働きにより平和と一致を願いながらこのミサを続けてまいりましょう。 』

2019年5月19日日曜日

復活節第5主日

今日の福音のキーワードは、「栄光」と「愛する」です。
キリストのみことばから、ヨハネが伝えたかったことを黙想してみましょう。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、キリストが弟子たちと最後の晩餐を祝っているその席上でのお話です。
この短い話の中でキーワードになるのは、「栄光」と「愛する」です。

「栄光」というと、何か輝かしいというイメージを持つかもしれないのですが、「現れる」という意味を持っています。
ですから、「人の子は栄光を受けた」というのは、キリストが神であることが明らかになる、キリストを通して父である神が、神であることを現すということです。

次に「互いに愛し合いなさい」というのは決して、好きとか恋しいとか、肉親への慈しみとか、そのような意味ではありません。ここで使われている「愛」というのは、どちらかというと「兄弟愛」というのが近いかもしれません。互いに同じもの同志が愛するということです。極端に言えば、「私はあなたであり、あなたは私である」という、言わば一心同体であるという意味合いです。

この意味の「愛する」という行為は、現代の教会では実現することは現実的には難しいことかと思いますが、この時代を考えるとあながち非現実的ではなかったようです。この時代は家庭集会のような小さな単位の教会だったからです。
しかし、現代の教会においては、このようなたくさんの人が集まり、隣の人も良く知らないような状況では難しいことかと思います。
しかし、ヨハネがキリストの言葉を切り取って、何を使えようとしているかを考えることはとても重要なことです。』

ミサの後、「教会総会」が行われ、今年度の取り組みが承認され、運営委員長と会計監査の改選が行われました。


2019年5月12日日曜日

復活節第4主日 ~世界召命祈願の日~

毎年この日は「よい牧者」がテーマになっています。
併せて「世界召命祈願の日」でもありました。

この日のミサは、佐藤神父様の司式により行われました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『ヨハネによる福音の10章は羊と羊飼いのたとえが述べられている個所です。このたとえはヨハネの福音にのみ描かれています。 この10章を3つに分けて毎年読まれています。 今年はC年なので10章の終わりの部分が読まれます。羊と羊飼いの間にある深いつながりを通して、イエスとわたしたちの間にある深いつながりを示しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」イエスの声をわたしたちはイエス様の声だとすぐ分かるのだということです。
 使徒言行録第9章で、イエスはパウロに呼びかけます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」 パウロはだれの声なのか、まだ、わかりませんでした。「主よ、あなたはどなたですか」と質問しました。パウロはそのときはまだイエスを信じていませんでしたので、誰の声か聞き分けられなかったのです。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と聞きました。イエスに呼びかけられたパウロは、回心し3日後に洗礼を受け、「イエスこそ神の子である」宣べ伝え始め ました。イエスを信じて洗礼を受けたわたしたちも、イエスの声を聞き分け、イエスの呼びかけに応えていく者となっているはずです。
 次にイエスは「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言います。わたしたちがイエスを知っているだけではなく、イエスもわたしたち全員を知っているのです。知っているというのは知識として知っているだけではなく、会って話したことがあるというくらいの意味で知っているということです。ですから、わたしたちはすでにイエスと出会って話をする間柄なのです。イエスがわたしたちを知っていてくださるのですから、これは大変大きな恵みではないでしょうか。
 イエスはわたしたちに永遠の命を与えてくださいました。わたしたちは滅びません。 滅びとは地獄に入ることです。「誰もわたしの手から奪うことはできない」「誰も父の手から奪うことはできない。」イエスに聞き従う人は、誰からも奪われることがないのです。ヨハネの黙示に示された通り、小羊であるキリストの血で洗礼を受けた者は、飢えることも渇くこともなく、神と共にいるようになるのです。

 今日、復活節第4主日は世界召命祈願の日と定められています。教皇メッセージの中で、「召命とは、網をもって岸辺にとどまるのではなく、イエスがわたしたちのため、わたしたちの幸せのため、わたしたちのそばにいる人の善のために考えてくださった道を、イエスに従って歩むようにとの招きなのです」と言っています。
 人はそれぞれ神から与えられた召命を持っていると思います。イエスの声を聞き、それに従ったパウロが、危険を顧みずに勇気をもって宣教していく姿を、わたしたちは第一朗読で見ました。
 わたしたちも神からの招きに応えて歩むことができるよう願いながら、そして司祭・修道者への招きに一人でも多くの人が応えることができるよう願いながら、このミサを続けてまいりましょう。』