2018年11月11日日曜日

年間第32主日

今日の福音をとおして、私たち一人一人が大切な隣人として神に愛されているということを心に留めましょう。

今日は「秋の大掃除」の日でした。
聖堂床のワックスがけとカテドラルホールの大掃除を行いました。


外国人信徒の方も参加しました。終わった後の昼食です。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読、福音と共通して出てくるのは「やもめ」。それも日々の生活に困窮し、明日の保障もない苦しい生活をしている「やもめ」のお話になります。
どんなに苦しくても辛くても命あるものは神を誉め讃えなさいと、今日の答唱詩編で私たちは歌っていますが、私たちにどこまでそれができているでしょうか?

「立法学者の偽善」と「やもめの献金」という二つの異なるエピソードが告げられる今日の福音ですが、私たちは心の底から純粋に神に信頼して祈る時、そのひたむきな心を捧げるときには、今日のやもめのような純粋な姿を見せるのではないか、そんなふうにも考えます。
切羽詰まっても、どんなに苦しい状況にあっても心から神に信頼するその瞬間は、「全てを捧げます」と言える、そういう信仰で神に向かえるような気がします。
ただ、常にそのような心を持ち合わせることが出来ないというのが現実の自分でもあるようです。自分の持っている財布の中身を見て、計算をして思い巡らして、どのくらいの金額までなら捧げられるだろうかと考えてしまいます。その時の心の状態は神様のことよりも困っている人のことよりも、自分のことが先になっているということだと思います。きっと誰もが同じような経験をしているのではないかと思います。

イエスに対する律法学者やファリサイ派の人々の態度は、非常に厳しいものがありました。イエスはそのような彼らの偽善的な態度や行動と、それに比べて貧しい”やもめ”の献金の姿を今日示します。どちらの生き方が神に好されるでしょうか?もちろん答えは分かっていることです。
結論は言うまでもないことですが、もう少し当時の社会や生活がどんなものであったかを考えてみると、”やもめ”の信仰もはっきりと私たちの心に見えてくるような気がします。”やもめ”の姿が、いかに神への信頼に満ちたものであったのか、神の愛に応える生き方であったのかどうか、そんなことが黙想すればするほど、よく見えてくるような気がします。
自分が持っている全てがレプトン銅貨2枚であったという”やもめ”。当時のレプトン銅貨というのは、ユダヤの国が発行したお金の中でも最も小さな銅貨でした。
聖書では時々「デナリ」というコインの名前も出てきますが、それはローマが発行したローマ皇帝の肖像がデザインされている硬貨でした。どちらも当時の社会で使われているもので、労働者の一日の賃金の目安となっているものでした。その100分の1にも満たないお金が1レプトンでした。当時のお金にしてわずか2レプトンしか持っていなかったそういう貧しい”やもめ”であったということです。それを神殿に全て捧げる”やもめ”の姿が浮き彫りにされているわけです。

権威をひけらかす律法学者やファリサイ派の人々に対し、神殿の賽銭箱に持ち合わせた全てを入れたこの”やもめ”。どちらが神に対する真実な生き方をしているのかどうか、そのようなことを今日聖書は私たちに語りかけます。律法学者やファリサイ派の人々がどのうような暮らしぶりであったかは想像するしかありませんが、イエスは常々弟子たちに、彼らには気を付けるように語っています。律法学者たちは、話すことは立派であるけれど、その行動を真似してはいけないというのがイエスから弟子達への忠告でした。
当時、”やもめ”と言われる人たちは、財産を共有して助け合い、協力しながら貧しく生きていたといわれています。そして神殿のために一生懸命奉仕したのが”やもめ”でした。それにも関わらず、律法学者やファリサイ派の人々は、そのような貧しい彼女たちの善意を悪用して私腹を肥やしていたと言われています。このような対比をイエスは弟子たちに話したのです。
大金持ちのたくさんの献金に対し、”やもめ”の献金は人々の目を引くようなことはない、いわば隠れた小さな出来事に過ぎません。しかし、たとえ僅かな額であったとしても生活費の全てに当たる金額を献金した”やもめ”の姿は、イエスにとって最も目立つ献金であり、心からの献金であることにイエスはほめられたのです。
そこに私たちは、”やもめ”が示す神への信頼とゆるがない信仰の姿に驚きさえ感じてしまいます。

私たちは誰もが元気で長く健康に生きたいと願っても、それを決める知恵を持っていません。神は、将来がどんなに暗くても、希望を見失いそうになったとしても、変わらない温かなまなざしを持って、私たちを見つめ励ましてくださる存在です。
神こそ私たちが願う「永遠のいのち」をもたらす方であるという信仰をこの貧しい”やもめ”は持ち合わせていたのです。
貧しさの中で冷たい視線を浴びたことのある貧しい”やもめ”は、金持ちの知らない神を知っていたということではないでしょうか。

先週のみ言葉に大切な掟が二つ示されました。神を愛することと、隣人を愛することでした。この貧しい”やもめ”の隣人になってくださったのは神であったということも言えるかと思います。
今日のみ言葉は、この貧しき”やもめ”をとおして、「変わらない愛をもって、いつもあなたを愛している」と私たち一人一人の隣人になっている神が私たちの傍におられ、私たちの信じる神は、そのような方であるということを示すものだと思います。
神を愛し、隣人を愛する。それよりも先に、神から私たち一人一人が大切な隣人として愛されているということも、私たちはもう一度心に留めたいと思います。』

2018年11月7日水曜日

年間第31主日

イエスは律法学者の問いに対し、申命記(6・5)とレビ記(19・18)を引用して最も重要な掟について話されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『モーセはトーラー(モーセ五書)をヤコブ共同体の相続財産として我々に命令した。申命記の中で聖書は述べています。ユダヤの民は律法学者によってその信仰を厳しく指導されています。その信仰を守っています。でも、そのユダヤ伝来の信仰は掟が少しずつイエスの時代に変化していきます。熱心なユダヤ教のグループのある人々は、古代からの伝統が少しずつイエスによって崩されていく、壊れていくようなそんな思いがあったようです。特に律法学者たちの間で。それはどういうことなのか。ひとつ例をあげると、イエスはたくさんの人々を癒やし、慰め、励ましています。時に神の業をしるしとして人々の前で現します。奇跡がそこで行われました。でも、安息日に行われるそういう行為は、イザヤの掟に背くものであると考える人々がいます。安息日は聖なるものである。そして、安息日は仕事は出来ないということが、当時の人々の考えでもありました。安息日、主の日に3百数十種類の仕事の内容が記されていて、それ以外は許されないとか、そういう細かい規定があったそうです。今で言うと、1日800メートル以上歩いてしまうと仕事にもってなると、そういう掟があるという中味が伝えられています。ですから本当に安息日に縛られてしまう、そのような人々の生活もあったということです。
  そういう背景の中で考えると、イエス様が神殿で人々を見て憐れみ、奇跡を行ったとき律法学者たちはまさに、仕事をしている  掟を破ったという見方になりました。考えのようです。でもイエスはその時に安息日は国民のためにつくられた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。安息日が私たちの上にあるのではなく、人が安息日のためにあるのだ。厳格に守ってきた掟が覆されたように考える人々はイエスに対する反発をだんだんと増幅させてしまいます。病人を癒やす行為にさえ、そこにあまりにも恵みや権威に満ちていることを知って、妬む心が大きくなってしまいます。
聖書の中で何度も律法学者ファリサイ派、サドカイ派の人々が現れてはイエスに意地悪な質問をする。そういう物語がたくさん現れます。そのくらい、イエスの行いがだんだんと特定なグループの人たちから反感を買うようになった、そういう時代のお話が今日もまた出てきます。
 タルムード(口伝律法)の戒律は613の掟があるそうです。インターネットで調べるとそれが全部出てくるのですが、小さなことから様々な掟が見ることが出来ます。その掟の中に消極的な掟と積極的な掟があるといわれています。インターネットで見たところ、消極的な掟は365、積極的な掟、命令が 248、合わせて 613あるようです。もちろん、ユダヤ教の信仰の中にに入ってくる様々な掟や規律ですが、その十戒の内容もその掟の中に入っています。

 今日のお話は律法学者から出される質問です。律法学者たちは掟を研究している人たちですから、モーセの掟もその中に入っていることも知っているし、特にその掟は大事にさればならないことを当然知っている質問です。一番の掟は何ですか。一番良く知っている学者さんがそういう質問をするとはどういうことでしょうか。いろいろ想像してしまいますが、イエスに質問します。もちろんイエスは彼らの質問の意図をよく知って答えます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが一番の掟です。日本語で話されていますから説明は必要ないと思いますが、次から次へと神に向かう心が出てきます。すべてをあげて全身全霊を込めて神を愛しなさいということに尽きると思います。
 イエスはさらに加えました。隣人を自分のように愛しなさい。切り離すことではなくて、最初に唯一の主である神を愛することと隣人を愛すること、セットになるように答えていました。律法を研究している律法学者にとって、イエスのこの答えは否定する余地はまったくありません。イエスのこの最初答えは、申命記6章にある聖書の言葉そのものです。二つ目の隣人を自分のように愛しなさいというのも、レビ記にある聖書そのものです。ですから律法学者は否定することはもちろん出来ません。そのとおりと認めざるを得ません。何よりも大切なすぐれた教えそのものであると認めます。掟の数が数多くあると人々は迷ったり、どちらの教えが正しいのか、そういう迷いも当時あったそうです。あまりにも細かく規定がありすぎて、この掟を守れば、こちらの掟は守れそうもない。それくらい規定がいっぱいあったそうです。ひとつ例をあげると、供え物を捧げよという掟もあったそうです。当然、父母を敬えという掟もありました。当時の社会では供え物を理由に両親の扶養の義務を怠ったり、放棄する風潮があったともいわれます。現代でもそのことがあるような気がします。お金をどのように使うか。財産をどのように使うか。両親のために使うか、自分たち若い家族のために使うか。そんなことで両親を投げやりにしたり、粗末にあつかったり、扶養を怠ったり。そういうことは、今の私たちにも考えられることです。当時の社会も同じような風潮があったそうです。神殿に犠牲を捧げるために物を使った。それを用意したから、両親の世話を十分することが出来ませんでしたという理由もたくさんあったのではないでしょうか。
  でも、よくよく考えなければならない。イエスの教え、神の教えはそういうことだったでしょうか。掟はそういうことではなかったはずということが指摘されることです。犠牲や燔祭は罪ある人間が自分を全部神に捧げるしるしに犠牲を捧げる。時に小鳥や鳩であったり、少し余裕のある人は仔牛を捧げたり、そういう風にして犠牲にはお金がかかることであったのかもしれません。生活の一部を捧げざるを得ない。罪の償いがあったかのように当時の社会を想像することが出来ます。でも、その犠牲を捧げるために生活の一部をそれに当てたとすれば、両親をどこかで十分に養うことができないという人がどんどん出ていったとすれば、掟を守る中で間違ったことをしているというふうに考えられます。

  神を愛することと人を愛することは切り離すことではない。愛するときに神はその人とともにいる。愛に欠ける行為がだんだん当時の社会の中に現れてしまう。イエスはそういうことを含めてきっと律法学者に神を愛することと人を愛することがなにより大切である
と答えたのではないでしょうか。神を愛する。実際に具体的にどのようなものでしょうかと考えてしまうかもしれません。
 神を愛するということは具体的にはイエスのみ言葉を聴くほかはないと言えるかもしれません。イエスのみ言葉に心から従い神を思うとき、私たちの心は自分の周りの人々に向かっていくのではないでしょうか。時々とても熱心な人が一生懸命教会で祈りを捧げます。祈りに多くの時間をかけて本当に熱心な姿をそこに見てしまいます。時々、そういう人の中に教会、共同体の皆さんとの関わりよりも、神に祈るその時間の方が大切であるという人がなんとなく見えてくる場合があります。神を愛する。祈りを大切にする。もちろんそれも大切なこと。でも、人との関わりを避けて、その時間を割いてただ祈りだけをするのであれば、神を愛する人を愛することに少し問題が出てくるのかもしれません。バランスは難しいと思いますが、ただ熱心に神に祈るだけではなく、神と人とを介することの大切さを私たちはもっともっと考えなければならないような気がします。
  神の言葉に、そしてその教えに耳を傾け黙想するとき、当然私たちは自分の周りにいる人々、助けを必要とする人々、苦しんでいる人、悩んでいる人、そういう人にも心が向かうはずです。そういう思いこそ必要としている人の隣人になることが出来るのではないでしょか。それはマリア様がイエスのみ言葉に耳を傾けていたその態度にも表れているような気がします。
 イエスは後に弟子たちに話します。私があなたがたを愛したように、あなた方も愛し合いなさい。自分のようにだけでは足りないのかもしれません。イエスが愛したように、私たちはそれを一番の模範としなければならないようです。ですから、イエスの言葉を心に留めて思い巡らし黙想していかなければ、イエスがどのように私たちを愛してくださったかを知ることは出来ないはずです。

  自分ほど神の国から遠い人間であると誰もが思えてしまいます。自分に欠けているものがあるから、そのようにどうしても考えます。洗礼の恵みをいただいた私たち。キリストの教えをただ学ぶだけでなくて、本当に全身全霊をもって神の国に相応しい人にならなければなりません。愛を生きる人こそ神の国から遠くないと呼ばれるはずです。今日、私たちは共同祈願でもたくさんの祈りを捧げます。私たちの祈りで、私の祈りとしてその一つ一つの祈りを捧げるようにしたいものです。』

2018年10月29日月曜日

年間第30主日

今日の福音は、イエスが目の見えない人「バルティマイ」を癒すお話でした。
何気ない日常の中に起こる奇跡を物語っています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんは今日の福音をどのように聞いていたでしょうか。どのような場面が心に浮かんだでしょうか?
先週、先々週とみ言葉を聞きながら、私はその時の内容も思い起こしながら今日の「盲人の奇跡」の話を黙想しています。
イエスに仕えてきた2人の弟子が「栄光の日が来たら良い席に着きたい」と願って、他の弟子達から怒りをかった場面が先週語られていました。イエスはその時、良い牧者としての模範を示して「仕える者になりなさい」と弟子たちを諭しています。
今日のみ言葉は、何気ない日常の中で起こる奇跡の物語のようにも感じます。
イエスはエリコを通過する長い道を通ってエルサレムへ向かっていくような状況にありました。旧約時代のエリコという街はオリエント世界の最古の街と言われ、肥沃な土地でヘロデ王が宮殿を建て、娯楽施設が整った貴族的な街とも言われてます。場所的には、塩の海と呼ばれる死海の北、9kmのところにあります。また、この街は「ザアカイの回心」の舞台となった街の近くにあります。
その街を出て、エルサレムに向かうために狭い谷間を通る時の出来事が、今日の物語になっています。今日のマルコの福音は、他の二人の福音史家も共通してこのお話を書いています。ですからこのお話は、当時の人々にとっては大切な話として伝承されていたということも考えられます。しかし、同じ物語を扱いながら二つの福音では盲人の名前はなく、二人の盲人という表現がとられています。マルコの福音だけが盲人の名前も書かれているのは、このバルティマイの信仰がとても素晴らしかったので、バルティマイ一人を中心に取り上げて書かれたのではないかとも考えられます。
ルカの福音によるとザアカイの家に泊まられた翌日のことであると言われています。マルコの福音では、まず先に盲人で道端で乞食をしていたバルティマイに、群衆の会話そして足音がだんだんと自分の方に近いづいてくる、そんな様子が描かれています。バルティマイは以前から、おそらくイエスの話を噂として聞いていたのでしょう。だんだんと近づいて来るのは、もしかしたらイエスではないだろうか、そんなことを思い巡らせながら、近くにいる人に誰なのか?と質問したようです。すると誰かが「ナザレのイエスが通る」と教えました。
バルティマイは、イエスの奇跡の噂を思い出したことでしょう。近づいて来るその足音を聞きながら大きな声で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」執拗に何度も繰り返し、自分の声がイエスに届いているのかも分からずに叫び続けました。
イエスが足を止めて「彼を連れてきなさい」と言われました。うるさいと思っていた人々は、イエスがそのように言うのであればということで、バルティマイに近づき安心させ、立ち上がらせてイエスの前に連れていきます。
盲人の願いはただ一つでした。イエスが「あなたは何を願うのか?」と質問すると、「見えるようになりたい」と答えます。イエスは既にこの叫び続けていたバルティマイの声を聞きながら、この人の熱心な信仰も見つめていたようです。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と彼に答えたイエスがそこに立っています。どこにそんな立派な信仰が表されていたでしょうか?
バルティマイは、近づく足音を聞き「ナザレのイエス」が来たことを知ったのですが、叫んだ言葉は違っていました。ここにこの盲人の信仰が見えてきます。どういうことでしょうか?「ナザレのイエスが来た」と教えられながら、盲人が叫んだ言葉は「ダビデの子イエス」という言葉です。「ナザレの子」と「ダビデの子」にはどのような違いがあるでしょうか?彼は「ダビデの子」というメシアを表す言葉を使ってイエスの向かって叫び続けたのです。そこに、人々の理解とは違ったバルティマイの信仰を見ることができるのです。
「黙れ」と叱りつけられ、人々が黙らせようとしたにも関わらず、彼の求めの熱心さ、そしてその信仰も、恥じらうことなくイエスに向かってはっきりと表されていきました。彼のその熱心な信仰がメシアの憐れみを求めていたことに大きくこの物語の特徴が見えてきます。

バルティマイの求めは「お金」ではなく「目が見えるようになること」でした。一般的に道端で盲人が物乞いをしていると聞くと、お金の無心と考えてしまうのではないでしょうか。しかしバルティマイは違っていました。そこにまた彼の信仰の素晴らしさも見えてくるような気がします。弟子たちが、イエスが栄光の座に着かれたら右と左に座る地位と名誉を求めたことを考えると、同じ求めでも大きな違いがあります。信仰のあるところにメシアの憐れみが現実になるということを、今日のお話は語っているように思います。

あわれみの手を差し伸べる救い主イエスに、私たちの信仰、そして信頼は本物なのでしょうか?
心の底から「主よ、憐れんでください」と叫び続ける信仰を私たちも持ちたいと思います。

人々の中にあわれみを受けたバルティマイも加わって、イエスのエルサレムへの道、決定的な受難の時が迫る旅が続いていきます。
「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」
今日もイエスとの出会いから、心から求める憐れみをとおして、見えない「しるし」と「力」が働いているはずです。
聖体をとおして私たちはイエスと出会い、その力をいただきます。
イエスのことばが今日も私たち一人一人の心に留まるように、このミサをとおして祈り続けましょう。』

2018年10月21日日曜日

年間第29主日 「世界宣教の日」

今日は「世界宣教の日」です。
「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」というイエスのことばを改めて心に留めましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日はインドネシアの兄弟姉妹の皆さんと感謝の祭儀にあずかります。
  今日はご存じのように「世界宣教の日」です。この世界宣教の日にあたって教皇様は、
メッセージを出しておられます。メッセージのタイトルは「若者とともに、すべての人に福音を届けましょう」。全世界の若者、信徒に出されています。
  今、ローマでは世界代表司教会議、シノドスが行われています。日本からは勝谷司教様が参加されています。10月いっぱいということですので、まとめの段階に入っているのかなと思います。今日は、教皇様が出されたメッセージを説教に代えて、要約して皆さんに教皇様の思いをお伝えしたいと考えています。メッセージそのものは若者へ向けてのメッセージなのですが、私たちは若者でないと言ってしまえば、教皇様のメッセージは教会に届きませんので、私たち一人一人が若者であると自覚しながら、教皇様の思いを受け止めたいと思います。私たちは日頃、若者がいないという言い方をしていますが、それを言い続けているならば、私たちの教会の中で大きな変化、新しい旅立ちは出来なくなってしまいます。私たち一人一人も若者であるという意識の中で教会共同体の活動、そして発展を新しく作っていくことが大事だと思います。

  さて、教皇様はどんなことを私たちに、教会に向けてメッセージを出されのでしょうか。
 教皇様は「わたしは、イエスからわたしたちに託された宣教について、皆さんと一緒に考えたいと思います。そして、皆さんに語りかけると同時に、神の子としての冒険を教会の中で生き抜いているすべてのキリスト者にも呼びかけます。……
 宣教の月であるこの10月にローマで開催される世界代表司教会議(シノドス)は、主イエスが若者の皆さんに、さらには皆さんを通してキリスト教共同体に伝えようとしていることに対する理解を、信仰の光のもとに深める機会となるでしょう。」と述べておられます。

  そして、教皇様のメッセージは4つの項目があげられます。
 最初は、「生きることは遣わされること」というタイトルになっています。
 「人は皆、遣わされており、そのために地上に生きています。「引き寄せられ」、「遣わされる」という二つの動きは、わたしたちがとくに若いころ、愛の内的な力として心に感じるものです。この力は未来を約束し、わたしたち自身を前へとつき動かします。いのちがいかに驚きをもたらし、人を引き寄せるかを、若者の皆さんはだれよりも切実に感じています。」

  二つ目のタイトルは「わたしたちは皆さんにイエス・キリストを告げ知らせる」になります。教皇様は
 「無償で受けたもの(マタイ10・8、使徒言行3・6参照)を告げ知らせる教会は、この地上で生きることの意味へと通じる道と真理を、若者の皆さんに伝えることができます。わたしたちのために死んで復活したイエス・キリストは、わたしたちを解放するためにご自身をささげ、そのことの真正で完全な意味を追求し、見いだし、伝えるよう教会を駆り立てています。若者の皆さん、キリストとキリストの教会を恐れてはなりません。」と、おっしゃっています。

  3つ目は「地の果てまで信仰を伝える」となっています。
 「若者の皆さんも、洗礼を受けることにより教会の生きた一員となり、福音をすべての人に伝えるという使命をともに担っています。」
 教皇様はこう言います。
 「教会の宣教の核心である信仰の伝達は、愛を「感染させる」ことを通して行われます。」
私はこのメッセージの表現、訳が「愛を感染させることをとおして信仰の伝達が行われる。」
に驚きを感じます。違和感も感じましたが、興味深い表現だなと思いました。信仰の伝達は愛を感染させる。皆さんは、どう感じるでしょうか。
「物事の意味が新たに見いだされ、人生が満たされたことを、喜びと情熱をもって示すのです。人々の心を引きつけながら信仰を伝えるためには、心が愛により開かれ、広げられなければなりません。」このようにも話しておられます。私たちはどうでしょうか。愛によって、私たち一人一人の心が開かれるよう努力しているでしょうか。

  (4つ目「愛をあかしする」)
 「教会の中に生きておられるキリストと皆さんが個人的に出会えるよう尽くしているすべての教会共同体に、わたしは感謝の意を表します。その中には小教区、教会の諸団体や運動、修道会、さまざまなかたちで行われる宣教活動が含まれます。人間の尊厳を尊重し、愛する喜びとキリスト者であることの喜びをあかししながら、「もっとも小さくされた人々」(マタイ25・40参照)に仕えることを、多くの若者が自発的に宣教する中で感じ取っています。」。教会も小さくされた人々とともにあって欲しいと、教皇様ははっきりと宣言します。今日も、仕えるものになりなさいと福音をとおして与えられましたが、もっとも小さくされた人々に仕える大切さは、私たち一人一人が常に心がけなければならないことでしょう。

  終わりに教皇様は、教皇庁宣教援助事業についても話されています。
 「教皇庁宣教援助事業は、福音をすべての国の人々に告げ知らせるよう促し、真理を求める大勢の人々の人間的、文化的な成長を支えるために、若々しい心から誕生しました。教皇庁宣教援助事業を通して惜しみなくささげられ、届けられる祈りと物的支援は、聖座の取り組み、すなわち自分の必要としているものを受け取った人々が、今度はそれぞれの場であかしできるようにする活動のために役立っています。」と、述べられています。
 (今日のミサ献金について説明。)

 教皇様は言われます。
「自分が持っているもの、そして何よりも自分のありのままの姿を差し出せないほど貧しい人などいません」。貧しい人、小さな人々というテーマが聖書に良く出てきますが、私たち一人一人が心を開き、愛をもって貧しさに向かっていくことが出来る勇気をいただきたいと思います。教皇様のメッセージの中で、持っているものを差し出しなさいというメッセージになっていますが、先週の説教の中で触れたように、あの金持ちの男の人は「永遠の命を持つために何をなすべきでしょうか。」思い出して欲しいと思います。先週の福音を思い出すと、その男の人は何か足りないところがあると思ってイエスに質問しました。
真面目に信仰に生きている人でした。永遠の命を求める人が財産を持って、それを分かつことの難しさ、隣人への愛を開くことがいかに難しいかを、私たちは福音をとおして黙想することが出来ました。

 今日、教皇様の最後のメッセージの中で、そのことにも触れられたと考えます。最後には若者に呼びかけて話します。
「自分には差し出すものがないとか、自分はだれも必要としないとか、考えないでください。大勢の人があなたを必要としています。このことについて考えてください。多くの人が自分を必要としていると、それぞれが心から考えてください」。結びのメッセージの内容です。
  そして、最後の結びは、
「わたしは使徒の元后聖マリアと聖フランシスコ・ザビエル、幼きイエスの聖テレジア、福者パオロ・マンナに、わたしたちすべてのためにとりなし、つねに寄り添ってくださるよう願い求めます。」10月の宣教のこの月。10月にはたくさんの聖人が記念されますが、そうした聖人に向けて取り次ぎを願い、寄り添っていただけるようにと教皇様は結んでいます。
 教皇様のメッセージ。若者に向けられたメッセージですが、私たち一人一人にも向けられているということを重く受け止めなければならないと思います。私自身、2年前、私たちの教会が献堂100周年を迎えた時に、ひとつの標語を皆さんで考えて作りあげました。「次の世代につなぐ」という言葉が、標語で今も玄関前に掲げられていますが、若者がいない、子供がいないというだけでは何の解決にもならないと思います。若者がいないというだけでなくて、私たち一人一人がしっかりとした考えを持って、私たちの教会をこれからどう作っていくか、考え続けなければならないと思います。

 そのためにも私たちは、イエスとともに歩み続けなければなりません。今日の福音の中で、弟子たちの心を動かしている俗っぽい野心とか競争心とか見え隠れするメッセージが私たちに語られています。2000年前の弟子たちのことですが、まだまだ弟子たちには学ぶべきことがたくさんあったようです。一生懸命イエスのみ言葉を聴き、その教えを守ろうとしたけれど、すぐに現実の生活に心を奪われてしまうことのほうが多かったかもしれません。イエスの心も神秘、十分理解出来ないままに今日のような質問が出たのかもしれません。もしかするとまだまだ、イエスの心に近づくことが出来ないで、自分の欲望を満たすことのだけに心を奪われた弟子もいたかのように思います。十字架の歩みはイエス一人だけの歩みなのでしょうか。そのことも考えなければならないことだと思います。
 イエスの心を理解し、支え、ともに歩むことを弟子たちに期待することと同じように、私たち一人一人もその期待を背負って信仰を歩むことが大事だと思います。私たちも洗礼によって神の子の恵みをいただきました。その時からイエスとともに歩み、信仰を生きています。でも、その信仰の中でどこまでイエスの心、その教えを歩んでいるか。そのことももう一度考えて新しい出発にしたいと思います。
 世界宣教の日にあたり、教皇様のメッセージの思いに触れながら、私たちに託された宣教を考え、祈り続けたいと思います。』

2018年10月14日日曜日

年間第28主日

神の”掟”を守ることと同じように、隣人も大切にしなさいとイエス様は教えられます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『本日、10月14日(日)ローマ時間の10:15(日本時間 17:15)から、バチカンでパウロ六世、ロメロ大司教の列聖式が行われます。

カトリック中央協議会のホームページで列聖式の生中継が視聴できるLIVE動画が公開されています。ご興味のある方はご覧になってください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2018/10/12/17747/

教皇パウロ6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

オスカル・ロメロ大司教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%AD

列聖について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%81%96

今日こうして、二人の聖人が誕生します。私たちも聖人の精神を習いながら信仰を歩むことができるように、またミサの中で祈りたいと思います。
特にロメロ大司教の生き方は、今日の福音にも繋がってくるのではないかと思います。

今日私たちはミサの最初の集会祈願の祈りで、
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」このような祈りを捧げてミサが始まっています。
小さなことであっても私たちの日常生活の中では、随分目先のことに囚われています。そしてそこに、時間を掛けてしまうし、心にも煩わしさをたくさん作ってしまう”目先の事”がたくさんあるような気がします。小さな事から離れられずに、大きなストレスを抱え込んでしまうということもたくさん私たちの現実にあるでしょう。
目先のものへの執着。それは私たち一人ひとりにとって、どのような事でしょうか?いろいろ考えることが出来ると思います。人によって様々だと思います。
一つ挙げると、人間の強欲・欲望に繋がっている執着もあるかもしれません。また、健康や財産や名誉など、目先のことで煩わしさを抱え込んでしまう人もいるかもしれません。私たちの日常はそういう小さなものへの執着との闘いと言えるのかもしれません。
執着心、欲望と対照的な心の貧しさ・清さを表す清貧は、よく教会ではテーマとして取り上げられます。私たちにとってそれは理想と現実でもあるような気がします。

第一朗読では、知恵と比較して富や財産に対して話されています。神の知恵は私たちに生きる道を示すことが語られます。しかし、神の知恵は人間からみれば厳しい要求を突きつける場合もあるようです。
今日の福音の中では、”掟”をとおして一人の人がイエスと問答を交わしています。その人は「掟を守っています」と言いながら、神の教えをよく考えてみたら、どうだったのか?ということも問われる今日の福音です。
「永遠のいのちを相続し、神の国に入るためには何を行う必要があるでしょうか?」今日登場した一人の人は、イエスをつかまえてそう質問します。
いかに永遠のいのちが大切であるかということは私は最近よく口にしています。私たちは信仰を持っていると言いながら、どこまで永遠のいのちを目指しているでしょうか?永遠のいのちよりも、私たちの生活の楽しい面とか豊かになることや快楽を考えてしまうのが私たちかもしれません。
”イエスが道に出ていくと、この尋ねてきた男の人は走り寄ってひざまずいて”と、このような表現でイエスに質問をしようとしています。この表現には、この男の人の生真面目さや熱心さを感じます。でもイエスとの会話が始まると、最後は気を落とし、悲しみながら立ち去ったという結末に向かっていきます。なぜなのでしょうか?
イエスとの対話の最後に触れられいた言葉は、たくさんの財産をこの人が持っていたという表現になっています。資産家であった。富や財産を持って豊かな生活をしている人であったということがわかります。でも富や財産が永遠のいのちを妨げてしまうということもあるでしょうか。いろいろなことを私たちに黙想させてくるような今日のお話です。

私は今日の福音を聞きながら、そして黙想しながら、「戒めを全て守っています」と答えたけれども、神の教えを守っているか、ということを考えたときに、この男の人は自分の財産にしがみついて、隣人に対する思いやりや愛には、何も生かされていなかった、ということを感じます。そのことをイエス様は指摘されたのだと思います。
熱心に立派な信仰を持っていて、それを全て「果たしています」と言いながら、隣人に向ける心は欠いていた。私たちもそんな思いにかられていまうような気がするのです。
昨日のミサの中で読まれたルカの福音では、イエスが話をしていた時に一人の人が大声でイエス様を賛美する話なのですが、その人は「あなたのお母さまであるマリア様は、素晴らしい方です。何故ならあなたを生んだお母さまは神の母であるし、神の幼子がマリア様のお乳を吸っていたから」だと言いました。確かに私たちもそう思います。しかしイエス様がその人に答えたのは、まったく違ったことでした。「大切なのは神のことばを聴き、それを守る人である」と言われたのです。

今日の金持ちの男の人のように、ただ熱心な祈りを捧げるだけでは駄目だ、本当に教えを守っているのか?本当に神様が大切にする愛を見せているのか?隣人に対して愛はどうなのか?ということを問われるようです。
昨日の福音も今日の福音も私たちが大切にしなければならないのは、もちろん祈りも大切です。神に感謝し賛美し信頼することは大切なことです。でも隣人も同じように大切にしなければ神の道に入っていくことは出来ない、ましてや永遠のいのちを得ることは難しいということを話されているようです。
今日の福音の時代背景には、ローマの支配下にあって迫害が迫っているという状況があります。イエスは弟子達にも厳しく諭されています。神に仕え、福音のために生きるには、自ら進んで全てを捨てる覚悟が必要であると。まさにそのくらいの覚悟が必要だという時代の中にあってイエスはこの福音を話されています。

永遠のいのちの道はイエスに忠実に従う道ということであるような気がします。私たちはどこまで忠実にイエスの教えを生きているでしょうか?
今日改めて集会祈願の祈りをもう一度思い起こします。
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」イエスの教えを守り、そして生きることができるように、このミサの中でともに祈っていきたいと思います。』


2018年10月7日日曜日

年間第27主日

今日の典礼のテーマは「結婚と夫婦」について。
決して楽ではない日々の生活の積み重ねの中で、大切なことを見失うことがあります。
そんな時こそ神のことばに心を傾けましょう。

この日のミサは、佐藤神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音、そして来週の福音、これは続いているテーマがあります。私たちの日々の生活における福音と言えると思えます。今日は、結婚と離婚について、そして、子供のように神の国を受け入れることについて述べられています。ちなみに来週は自分の努力によって永遠の命を得ようとする青年と富の危険性が語られ、神の国に入るのは何と難しいということが語られます。   
 今日、登場するファリサ派の人々は、いつものようにイエスを陥れようとして質問をします。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いです。モーセ五書と呼ばれる律法の書がありますが、その中には離縁することについての命令というものは一切ありません。何もないと言うことは離縁してはならないということが基本、根底にあるわけです。「神が結び合わせたものを離してはならない。」ということです。そして唯一、申命記第24章1~4節に、離縁状を渡して離縁することが出来るとあります。今日の「聖書と典礼」の下にも、離縁につい書かれています。ただ、離縁状を渡せば離縁出来るというのは、離縁するためのひとつの条件にすぎません。離縁状を渡すだけでは離縁は成立しないということです。しかし、離縁状を渡すことについて、このファリサイ派の人々もちゃんと頭の中に入っていて、イエスの問いかけに答えています。
 当時のユダヤ社会においてはほぼこの条件だけで離縁出来る、離縁状を渡せば離縁出来るというのが当たり前でした。しかし、実はもう一つの条件が必要だったのです。それが、「聖書と典礼」の下に書かれています。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という条件があります。妻に何か恥ずべきことを見いださない限りは、離縁してはならないということです。ここを素直に解釈すると、妻に恥ずべきこと、例えば夫以外の男性と関係を持つとか、あるいは夫婦の関係が続けられないでいること、そういことも条件と捉えることが出来るかもしれません。もちろんこの場合は、離縁の条件となるものと思います。ところがファリサイ派の人々はもっと凄いことを考えました。「何か恥ずべきこと」これを「何か」と「恥ずべきこと」と二つに分けたのです。つまり恥ずべきことだけでなく、「何か」があれば離縁出来ると考えました。何かといえば、例えば料理がまずいとか、自分が呼んだときすぐそばに来なかったとか、そういうことだけでも離縁出来るとファリサイ派の人々は考えたのです。当時のユダヤ社会は、妻は夫の所有物であると考えられていましたから 、離縁するのは男性からしか出来ないと考えられていました。そのような中で、何かすれば離縁出来るという無理矢理な解釈がまかりとおっていたのです。ですからほぼ離縁状を渡すだけで離縁出来たということなります。女性に対してあまりにもひどいことをしていたのです。イエスはあなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだと言います。ファリサイ派の人々は自分たちの都合の良いように解釈し、 人々に押しつけていたことが分かります。

 ここで、ちょっと考えてみたいと思いますが、モーセがなぜ離縁状を妻に渡して離縁することを許したのかということです。彼女が再婚する際に、姦通の罪を犯さないようにするために、離縁状を妻に渡すようにと夫に命じているわけです。再婚するときにその離縁状があれば、正式に離縁したもので誰の妻ではないことを証明することになったということです。モーセ五書の中でそのような記述が元々そういう配慮があったということです。そういう配慮をまったく取り除いてしまって、ファリサイ派の人々はただ単に離縁状に署名すれば離縁出来ると解釈していたのです。当時のユダヤ社会では、女性、子供は男の所有物という考えがありましたが、 新約聖書の中にもそのような記述があります。イエスが弟子たちに五千人にパンを分け与えたエピソードがありますが、そこには男の数しか入っておらず、女性と子供は入っていない。
 ところが創世記の作者は、今日の創世記を読まれた箇所がありますが、女を単に男の所有物だとは考えていなかったことが分かります。彼にあう助けるものとして造られたということです。女性を造ったことによって男は本人として存在すると同時に、女という他者とともに一体として存在するものになりました。他者とともに存在するためには、お互いが人格的に自由で平等な人間であることを認めなければなりません。創世記の読まれた箇所はそういうことを根本的なこととして言おうとしているわけです。イエスもまったく同じです。「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」と言っています。神が最初から意図していたことを生きること、男と女が一体となって子供を産み育てていくことを目指していくことが大切なこととして、創世記でもイエスの言葉でも私たちは理解出来るわけです。

 福音の後半ですが、イエスは子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちは神が良いという相応しい成果を何も上げることが出来ない存在です。また、人々に尊敬されるに値する身分があるわけではありません。子供たちは神の国に入ることを可能にする唯一の特質と他者に依存するという関係のうちに持っているだけです。つまり子供たちは、神の国に入ることを自分たちには身に余るほどの恵みとして受け、素直に受け入れているということです。私たちにも、子供たちのような謙虚で素直な信頼をイエスに置くことが出来ますか、ということが問われているように思えます。
  最後にイエスは子供たちを私のところに来させなさい、妨げてはならないというイエスの命令があります。これは初代教会が、幼児洗礼を実践していた根拠になると教父たちは考えています。アウグスチヌス、ヨハネクリゾストモ、ヒエロニムスなどの教父たちは幼児洗礼を積極的に遅らせることに対して反対していました。それは両親の怠慢だと考えていました。救いのために洗礼が不可欠であると両親が信じていながら、自分の子供に洗礼を授けないというのは、両親の怠慢であると言うのです。自分の子供が大人になってから、自分で洗礼を受けるか受けないかを考えさせようというのは、洗礼による救いを信じて自らが洗礼を受けたことと矛盾しているというわけです。洗礼による救いを信じているなら自分の子供たちにも同じように洗礼による救いを与える機会を持つべきだと教父たちは言っています。
  私たちも是非、子供たちの洗礼の秘跡を遅らせることのないように、その機会を奪うことのないようにしていきたいものだと思います。今日の聖書の言葉の中から、私たちが日々の生活の中で、どういう態度をとって歩いていけば良いのかということが、分かるようになるのではないかと思います。』

2018年9月30日日曜日

年間第26主日

”祈り”とは「神の語りかけに耳を傾けること」
今日の福音でのイエスの厳しいことばは、
「何よりも大切なことは神の国に入ること」と私たちに語りかけます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんもニュースを聞いて驚いているかもしれません。まだ、北海道では余震が続いていますが、一昨日インドネシアでも大きな地震があって、多くの犠牲者が出たというニュースが流れていました。私たちもつい先日、大きな地震の体験をしたばかりですが、インドネシアの人々へ向けても祈りを捧げましょう。

さて、先週は司教様のミサになりましたので、先延ばしになってしまいましたが、トラピストでの黙想会のことを少しお話したいと思います。
私たち教区の司祭は毎年、教会法に定められているとおり、最低1週間は黙想会に参加します。今年も月曜日から土曜日までの1週間の黙想を終えました。
「キリストへの愛は祈りのうちにある」という修道生活の毎日の日課は、祈りを中心に展開しています。聖ベネディクトの精神に従う修道会の中心的な標語、皆さんもこの言葉を聞くと思い出すかもしれません。「祈り、かつ働け」(Ora et Labora)、こういう標語がトラピストの毎日の生活の中で大切にされています。
北海道にはトラピストとトラピスチヌがありますけれど、男子のトラピスト修道院の方が先に創設されており、1896年(明治29年)10月に修道士9名が日本に来て始まっています。それ以来、一日7回の祈りと労働を中心にしたシンプルな生活が今も続いているのが、トラピストとトラピスチヌの修道生活のようです。

この度の教区司祭の黙想会の中で、修道士のお話を聞く機会がありました。私はその修道士が話したひと言が心に残っています。修道士のひと言は「(祈りの基礎は)一人一人に語りかけられておられる神のことばを聴くことです」というものでした。
”祈り”については、いろいろな説明ができると思います。祈りとは、神への賛美や感謝であると同時に、私たちの願い事や希望をより頼むこと。皆さんもそのように考えておられるのではないかと思います。
しかし、修道士から聞いたひと言である「神の語りかけに耳を傾ける」ことも祈りであるということは、とても私にとって心に残る言葉でした。何故ならば、私自身そのことを少し忘れていたような気がします。神様にお願いすることの方がほとんどになっていたかなという思いがあります。神の語りかけに耳を傾けることに時間を割いていたかどうかを考えると、そのことを意識することを忘れていたような気がします。これからは少し神の語りかけにじっと沈黙し、黙想することも大切だということを心に留めておきたいと思っています。
今、自分が置かれている状況は一人一人様々だと思いますけれど、その一人一人に語りかける神の御旨に心を向け、「神は私に何を語りかけて下さっているだろうか?」そのことも大切にしたいと思います。もちろん神のことばに心を向け耳を傾けるということの中では、聖書をとおしての語りかけもあるということを忘れてはなりません。また自分の仕事や奉仕をとおして、出会いをとおして、神が私たちに語りかけておられるということも心に留めておくべきではないでしょうか。
そのためにも、信仰による従順や謙遜が大切であるということは、いうまでもありません。このことを忘れたならば、先週の聖書のお話のように、神が大切なことを話したとしても、無関心な状況の中で耳を傾けることもできなくなります。
イエスは、受難について弟子たちに話されましたが、弟子たちはそのことに無関心であった。弟子たちの関心ごとは、自分たちの中で「誰がいちばん番偉いか」ということに心を向けていたので、イエスが受難について話してもそのことを受け入れることが出来ませんでした。まさに信仰心の従順や謙遜を忘れた弟子たちには、イエスのことばが届かなかったのだと思います。私たちの信仰生活、私たちの祈りを振り返って考えてみることが必要だと思います。

さて、先週の聖書の語りかけに続いて、今日私たちに語りかけられたみ言葉を皆さんはどのように受け取ったでしょうか。
弟子のヨハネがイエスにした報告から今日の福音は始まっています。ヨハネはイエスにこのように言いました。
「わたしたちの仲間でもないのに、先生の名前を使って悪霊を追い出している者がいたのでやめさせました」
ヨハネのこの報告の内容、言い方は、ちょっと気になるような内容ではないでしょうか。それは、イエスの心の内を理解することなく、弟子たちの競争心で”どちらが偉いか”と話していたにも関わらず、自分たちの味方なのか?自分たちに反対する敵なのか?と狭い心で自分の周りの人たちを見ているヨハネではないかと私は感じました。

イエスはそのことに対して話をしています。そこにイエスが真に弟子たちに、きっと私たちにも理解して欲しいことが語られているような気がします。
イエスは「小さな者をつまづかせることのないように」と言って、地獄について語ります。「神の国に入れるのか、それを失うか」ということを話されます。
自分をつまづかせるものが私たちの”手”や”足”や”目”であるならば、「それを切り捨てなさい、えぐり出しなさい」と言います。とても厳しい言葉になります。どうしてこれほど厳しい話をされたのか?そのことを私たちは考えなければなりません。そこにイエスの伝えたい真の意味があるかのように私は感じます。きっと、”何より大切なことをする”ということからこんな言葉が出てくるのだと思います。
「人間の最大の価値が神の国に入ることであり、それを失うことは最大の損失になる」
そういう意味で、あのような厳しい言葉が出てきていると感じます。

厳しい勧めであるかもしれません。私たちが大切だと思うもの、それがつまづきとなるなら思い切って切り捨てなければならない。自分に当てはめても「厳しいな」と考えてしまいますけれども、私たちの現実、そして自分の思いは、どこにあるのか?ということを指摘されているような気がします。
誰でもがこの世で生きてきて、大切なものへの執着というものを持っていると思います。それが現実だと思います。家族であったり、友達であったり、愛する人であったり、一人一人様々なことが大切だと思います。物に対する執着もたくさんあろうかと思います。お金に対しても切り捨てることができないのが現実でしょう。
でも私たち信仰を生きる者にとって、「神の国」や「永遠のいのち」がどこまで大切かということと比較しなければ、イエスの真意もまた、うわの空になってしまいそうな気がします。

今日、私たち一人一人に語りかける神のことばを受け入れ、理解し、「神の国」と「永遠のいのち」を心から願いながら、それ以外の大切なものに執着する私たちの心を解放してくださるように祈りたいと思います。』

2018年9月24日月曜日

年間第25主日

この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。


この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。
勝谷司教は10月にローマで開催されるシノドスに日本の代表司教として参加予定です。
この日のお説教では日本の公式回答書の内容についてお話されました。

この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。


『来週半ばから、世界代表司教会議(シノドス)が開かれます。今回のシノドスのテーマは、「青年、信仰と召命の識別」です。このシノドスは10月3日から28日までおよそ1ヶ月かけて、世界中から集められた青年の現状についてのレポートを基づいて制作された討議要項、これが215の項目に分かれています。それを1ヶ月かけて最初から討議していくのです。それぞれの項目について各国の司教団は4分間、意見を述べる時間が与えられています。たった4分です。4分というとだらだらと話すのが私たちの傾向なのですが、今まで参加した司教様の話を聞くと、30秒前からカウントダウンが始まって、4分になると完全にマイクが切られるとのこと。
  4分間話すとなると、ひとつのことについて中心的に話すことになります。10分の説教をまとめるのに難しいのに、4分で現状や一番言いたいことを話すことは困難です。私はこのシノドスに代表として派遣されることになっていたので、4分間の原稿を作るように司教団から仰せつかっていました。215項目はA4にして約60ページ以上のもので、まずは読めません。十分に読みこなしているわけではないのですが、すでに日本の青年の現状はナショナルレポートで報告してありますので、私が一番関心のあるキーポイントでまず原稿を準備したのです。

  それは、この討議命題に掲げられていた、今後の青少年の司牧はもはや小教区で行うことは難しくなっている。すでに小教区では青少年を指導する現場ではなくなっている。しかし、ミッションスクールにおいては多くの青少年が話を聞く場を持っている。そこが新たな宣教や青少年を司牧する現場となりうるのではないかと書いてありました。しかし、そこに抱えている前提は、欧米諸国のキリスト教圏のミッションスクール、あるいは発展途上、今発展している東アジア、東南アジア、南米、アフリカ。こうしたミッション校の生徒、先生はほとんどが信者です。その現実のもとで書かれている。
 日本では違うぞと言える点はこの辺だなと思い、日本のミッションスクールはその経営母体である修道会の高齢化によって、修道会が経営を維持すること自体が困難である。司祭、宗教家である先生はおろかチャプレンも派遣できない学校が非常に多くある。そんな中で生徒に信者はほとんどいない。教職員も信者がいない。最近は校長も含めた管理職にも信者でない人が出てきている。その中でどうしてミッション性を保つことが出来るのか。かたや、日本の小教区ではご存じのように深刻な少子高齢化の流れの中で、青少年は教会の中で見られなくなっています。しかし、豊かな人生経験、教職についていた人や知識をたくさん持った人がいる小教区。しかし青年がいない。かたやカトリックの関係者はまったくいないけれども、青年のたくさんいる高校。そういうところとコラボして何か出来るのではないか。その例として年頭書簡にも書きました函館の例。複数のミッションスクール、複数の学校。チャプレンはいませんが、函館の場合は白百合とラサール。そのふたつの学校のカトリック研究会の活動の場を湯の川教会に置き、2ヶ月に一回は彼らが企画したミサを行い、バザーやそのほかの教会の企画にも参加してもらう。フィリピンエキスポージャにも企画して参加してもらう。フィリピンエキスポージャの小教区からの応募はゼロです。ミッションスクールから信者でない生徒の参加で延々と行われています。  まとめながら、現状から新しい可能性として、小教区、教区そしてミッションスクールがコラボすることにより、小教区が活性化し、ミッションスクールもそのミッションの使命を果たすことになるのではないかと4分間にまとめ……。これだけの話で4分間が超えるのですが……。日本の現状は討議命題に書いてあることと違うだろうと説明するのが長くなり、否定的な現実をまず理解してもらわなくては……。最後の数行に今のようなことを書いていますから……。司教団からこれはだめだ。悲惨な日本の現実ばかり書かれていて、希望が見えない。もっと、違うことを書いてくれと言われて、別な命題で書くことにしました。

 それが今日から京都で行われている「ネットワークミーティング」……青年の集まりです。これが日本の教会の特徴です。これについて発表することでまとめました。司教団から2回の校正がありましたが、シノドス原稿としてほぼ決定しました。どういうことを言うのか、皆さんに先にお聞かせしようと思います。
 2001年からこのネットワークミーティングは始まりました。これは日本の青少年委員会が閉鎖されて、各教区に青少年の役割が任されることになったときに、小さな教区では独自に青少年活動を行うことができないので、複数の教区が連帯して青年連絡協議会というものが担当者によって結成されました。最初は6つの教区から始まったのですが、その担当者の会議の時に併せて青少年も呼んでミーティングを開こうではないか。そういうことから全国各地から青年が集まるようになりました。今は年2回、全国各地で行われていて、100名以上の青年が集まっています。年頭書簡にも書きましたが、昨年は支笏湖で150名の青年が全国から集まりました。札幌の青年はどこにいたのか分からなかったのですが、25名が実行委員として活躍し、その姿に私も驚いたのです。そのことからも言えるように、青年はたくさんいて活動もしています。自分たちがそれぞれ勝手なことしているかと言うと、実はそうではないのです。小教区にはいられないけれども彼らは、自分たちのミサを真剣に準備している。毎日、夜も準備して、赦しの秘跡の時間もつくる。非常に信仰や秘跡について真剣に求める姿を見ていると、彼らの中にあるカトリック信者であるという強いアイデンティティ。しかし彼らの中には、教会や教会の組織に帰属している意識は非常に薄いのです。年頭書簡にも書いたと思いますが、150人の中で小教区に所属して何らかの奉仕活動をしている人は一人もいませんでした。小教区に貴族しているという意識が非常に乏しい。でもそれが現実であってそれを認めなければ、小教区に戻れという指導をしたら、彼らは行き場を失ってしまう。私は書かなかったのですが、ほかの司教様からも手直しがあって、結論というのは、もはや小教区で青年を司牧するとは現実でない。もちろん小教区で青年が活動することは当然の願いですが。現実は日本、世界の先進諸国ではそうなっていない、この現実から出発しなければならない。しかし、強いカトリックの意識を持っていながら、真剣に自分の人生をどう歩むかと選択しようとしている彼らはいろいろな場をとおして、その導き手を求めているのです。しかし、残念ながら日本を含めた多くの国の教会は、青年たちのその選択をするにあたって、助けてもらいたいと相談を持ちかける対象となっていない。そういう現実が討議要項の命題に書かれています。そしてその原因は、青年が教会から離れていったのではなくて、今、青年が何を求め、どのような問題に直面しているのか、それに対して教会があまりにも無関心で、その中に関わろうとしない。つまり、これは教会の青年離れ。
 現実を言うならば、このネットワークミーティングの青年たちはSNSと言われる、今のネットの社会での関係の中で強く結びついています。私たちは地域に基づいた小教会として物事を見て、その中でいろいろなことを考えようとしていますが、青年は地域を越えている。小教区や教区も越えて、全国的に青年同士と結びあっている。そして、集まりがあればそのときに旧交を暖め、そして刺激を受ける。何人かはそこにおいてワールドユースディ(来年パナマであります。)などに出かけて行く。自分たちの人生の指針を得ようとしています。今、教会が非常に討議要項で繰り返し繰り返しオウム返しになって述べるのは、この青年に同伴することが大切だ。教会が青年が来るのを待っていて、来ない来ないと嘆くのではなくて、自分から出かけて行って、彼らは教会とは違う言語の中で生きている。ネットの世界で生きている。そこには多くの危険性があります。消費主義や世俗主義の中で看過されていく青年たちもいます。その中にあって、むしろそこに出向いて彼らに同伴し、彼らとともに悩み、話しに耳を傾ける。そして、いっしょに人生を歩もうとする同伴者となる、しきりに言われています。
 今日の福音書では仕える者になるということは、かつての教会が聖職者というものは教えに関しても絶対権威を持っており、いわば救いに関わる問題について、悪い意味では社会に対して命令し支配する関係にある。救いに関わる権限をすべて持っている。神の恵みは秘跡を通して、司祭を通して分配されると教えられていた時代、確かに権威は尊敬すべきものであり、絶対服従しなければならない権威があったわけです。第二バチカン公会議はそうではない。命令し支配するのではなくて仕える者として、先ほどの言い方をするならば同伴する者として……。司祭と信徒の召命の違いは質の違いではなくてその役務、役割の違いである。特別な役割の最たるものは共同体のために奉仕する者。そういったことで召されているのを忘れてはならない。それが強調されているのは青年との関わりであり、青年は権威主義は嫌いますから、彼らに同伴することが必要であるのと同じように、青年というものは今の教会を敏感に反映しているものである。炭鉱においてカナリアが死ぬと、有毒ガスが発生して真っ先に弱いカナリアが死んでいく。それを見てみんなが避難する。教会において青年はカナリアみたいものだと随分前から言われてきました。つまり、教会に青年がいないのはどこか病んでいる。そういったことを表している。私たちはそれに気づかずにずっといると、(一酸化炭素中毒で)気を失って命を失いかねない。
 青年たちが私たちに対して訴えていることが何であるのか。今、教会は真剣にこのシノドスの機会をとおして耳を傾けようとしています。私たちの教会もこの現実を受け止めながら、それをとおして神が何を私たちに教えようとしているのか。しっかりと識別する耳に願いを込めていきたいと思います。
 同時に、来月1ヶ月間のシノドス。私、たった一人で行きます。日本は信者が少ないので、信者の数で各国に割り振られますので。心ぼそい私のためにもお祈りをお願いしたいと思います。』

2018年9月17日月曜日

年間第24主日

「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」
この日朗読された「ヤコブの手紙」を深く心に留めておきましょう。


夏休みが終わり、簑島助祭がこの日神学校へと戻りました。
簑島助祭は、いよいよ半年後に司祭叙階式を迎えます。神の恵みが豊かに注がれ、司祭への道を歩まれますようお祈りいたします。

この日のミサの中で「敬老の日」を祈念して、教会を支えてくださっている先輩たちへ、後藤神父様から祝福がありました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先日は大きな地震に見舞われました。一週間が過ぎてもなお余震が続くなか、被災された方々の不安は如何ばかりかと案じます。一日も早く安心して暮らせる日が来ますようお祈りします。

今日の聖書の朗読は、第1朗読、第2朗読、そして福音、詩編では詩を唄いましたけれど、今日私たちに告げられたみ言葉を私たちはどのように受け止めているでしょうか?どんな言葉が心に響いているでしょうか?
福音書全体でもキリストのメシア性と神性を証明するために書かれたマルコの福音が、今日読まれています。福音書全体を通しても、しばしばキリストについて群衆に「この人はいったいどんな人なのか?」そのように問わせ、マルコの福音は書かれているようです。

神の教えが、その驚くべき奇跡について直接見聞きした人々は、今日のみ言葉でも「この人は誰なのか?」と考えさせます。そしてイエスは「わたしのことを何者だと言っているか?」と弟子たちにも問いかけています。そこには初代教会の信仰告白がペトロを代表するように「あなたはメシアです」と生き生きと描かれます。ペトロが告白したこの場所はフィリポ・カイサリアとみ言葉に書かれています。
このフィリポ・カイサリアという街は、ヘルモン山の麓、ヨルダン川の水源地の傍にある街であったといいます。そしてこの街は、ヘロデ王によって造られた街であるといわれます。このようにして考えると、この街はユダヤ人と異邦人のちょうど境目に当たる場所、そういう街のようです。今日の問いかけを黙想するときに、イエスを捨てるべきか、または危険を犯してまでもイエスを信じ、最後まで一緒にイエスについていくべきなのか、そういう問いかけを弟子たちにもしているような気がします。
イエスの求めているのは、一般民衆の答えとはずいぶん違った生き方、神の国がそこに描かれます。
「あなた方は、わたしのことを何者だというのか」
”あなた方”という強調した問いかけをイエスは弟子たちの前で問うています。それはきっと弟子達一人一人の心からの答えを確認しようとしているイエスではなかったのかと、そのように考えます。ペトロは弟子たちを代表して答え”メシア”という表現を使っているのですが、このメシアという言葉は、旧約聖書では度々、王や祭司や預言者に”油をそそがれる”という表現をもってメシア性をそこに表しています。ギリシャ語では”油そそがれた者”という意味を持つメシアという言葉です。ペトロは「あなたはキリストです。メシアです。」このように答えます。それは「油そそがれた者です」という意味でもあります。

イエスの時代、ユダヤの人々にはダビデの子孫から王が生まれる、メシアが生まれる、そのような期待がずっと継承されてきています。いつの日か、この苦しい困難な時代からダビデの子孫が王となって、私たちイスラエルの民を契約の民を救ってくださる、そのことを信じてイスラエルの民は自分たちの信仰を守り続けています。
しかし、そのようなイスラエルの民の期待は、イエスの期待とは少し違った形になっています。人々が期待するメシアは、ダビデの国を政治的に確立してくれるメシア、武力をもって地位を獲得し自分たちの世界を造ってくれる人、革命を起こして自分たちの世界を造ってくれる人、そういうイメージで当時の人々はメシアということを考えていたかのように描かれています。
しかし、イエスの使命は、彼らの期待とは少し違ったところにありました。イエスは神のことばを語る預言者です。そして罪を贖う祭司です。さらに新しい霊に満たされたイスラエルの神の国の王となる、そのことを使命として父なる神のもとから遣わされた方であるということ。ですから同じ”メシア”といっても、その思いや期待は随分と違っていたというように考えられます。
実際にイエスがもたらそうとする王国を本当に理解したのは、誰だったでしょうか?弟子たちはこの時、そのことを理解して”メシア”と答えたのでしょうか?
ペトロの答えを聞いたイエスは、すぐさま「誰にも言わないように」と弟子たちを戒めています。イエスのこうした戒めは、度々奇跡の後でも見られることです。この”メシア”の秘密の動機・理由は、いったい何でしょうか?
苦しみに耐え忍ぶ生活が続くイスラエルの民にとって、開放の期待はただならぬものでした。そういう中で、”メシア”の秘密について、聖書学者の一つの解釈がこのように説明しています。「ペトロのこの告白に対して、政治的な反対が起こることを避けるためではなかったか。」このような一つの解釈があります。
もちろん当時の社会、イスラエルの民の心情を考えたとき、「イエスがメシアである。自分たちの期待する王が今ようやく私たちの前に現れた」と感じる人々がイエスを前面に押し出して自分たちの国の革命を実現してくれる人だと期待するでしょう。そうするとローマに支配されているこの国は、混乱を起こしてしまうということは目に見えています。
イエスがイスラエルで捕らえられ裁判にかけられたとき、バラバという人が登場しますが、バラバはまさに革命のリーダーでもあったと言われています。ですからバラバにつながるような思いを持って、イエスを自分たちの全面に押し出して、”この国を変えてください”という騒動が起こったら大変なことになるという時代背景があった、ということを理解しておく必要があろうかと思います。

歪んだ人々の救いへの期待が、手に取るように分かるイエスでしたが、イエスもまた神の計画の時が満たされる前、弟子たちもまた誠の信仰へとひたすら歩んでいかなければならない厳しい日々が続いていきます。自分の救い、自分中心の信仰ではなく、神の愛に生かされた信仰に向かうため、私たちもまた今日のみ言葉、そしてペトロの信仰告白をよく噛みしめたいと思います。

今日の聖書の言葉をとおして、一つもう一度心に留めておきたい言葉を皆さんにお伝えしたいと思います。
今日は珍しく第2朗読は「パウロの手紙」ではなくて「ヤコブの手紙」が朗読されました。その中で、
「信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」このように語っています。行いによって信仰を見せるというこのみ言葉を心に深く留めておきたいと思います。私たちもこの言葉に、いろいろと考えさせられることではないでしょうか。私自身も言葉では沢山の祈りをするとしても、それが行いを伴っているだろうか、行動につながっているだろうかということを反省させられます。きっと、皆さんの中でそういう思いを抱いて味わうみ言葉ではないでしょうか。

今日は敬老の日を明日に控えて、祝福式を行いますが、長寿の恵みをいただいた皆さんには、今日の詩編のことばにもまた、とても味わい深いことばがありました。
「わたしは神を愛する。神はわたしの声を聞き、日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。足をつまずかせないようにさせてくださる神が守ってくださっている。」
高齢になると健康に不安になってしまう私たちは、足元が及ばないことがよくありますが、今日の詩編のことば、そのこともまた私たちについて考えさせ、励ましてくださることばのようです。
神の祝福をいただき、年を重ねて、自分の足で歩ける範囲がどんどん狭くなってきたとしても、祈りの時間は多くある、そしてその祈りの世界をさらに広げることもできるようです。
私たち一人一人に手を伸べて祝福を送ってくださる神に感謝して、今日もまた心を一つにして祈りたいと思います。』


2018年9月9日日曜日

年間第23主日

9月6日(木)未明に北海道の胆振東部を震源として発生した地震は、胆振、日高地方、札幌の一部地域に大きな被害をもたらしました。
また、地震のつい2日前には、猛烈に発達した台風21号により近畿地方を中心に強風や高潮による大きな被害がありました。
今回の災害で亡くなれた方々のご冥福をお祈りしますとともに、被災された方々が一日も早く安心して暮らせる日に戻れますようお祈り申し上げます。

幸いなことに、教会の位置する札幌市中心部は、大きな揺れによる直接の被害はありませんでしたが、北海道全域に及んだ停電は、物流の停止や交通網のマヒなど日常生活に大きな支障を及ぼしました。
このため、今日は年に一度のチャリティバザー「かてどらる祭」が行われる予定でしたが中止を余儀なくされました。

それでも、今日までに停電はほぼ回復し、この日のミサは予定されていたとおり、英語ミサグループの外国人信徒との合同ミサとして司式され、地震の発生から日が浅いにもかかわらず多くの信徒が教会に集いました。
ミサの後は、バザーのためにあらかじめ準備していた食材などを利用して、ささやかなミニバザーが行われ、お互いの無事を確認し合ったりと、束の間の談笑の輪が広がっていました。



この日のミサは、森田神父の主司式で、後藤神父、佐藤神父、簑島助祭の共同司式により行われました。


森田神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音は私たちにとって、風変わりに思います。何故なら、イエス様は触れるだけで癒やすことができる。あるいは、遠くから一言声をかけるだけで癒やすことができる。そのような箇所がいくつかあります。そのような中で、その人を連れ出して、その両耳に手を入れたり、唾をその舌につけたり。少し時間をかけ過ぎのような気がします。
 少し観点を変えて見ると、その人は一瞬で癒やされるよりも、こんなに長い時間、イエス様と一緒にいれていいな。彼の受ける印象が少し違うかもしれません。イエス様は私たちの抱える病気とか問題を、様々な手法でされることが考えられます。百人隊長は僕を癒やしていただくときに、イエス様に、わざわざ来てもらう必要はありません。遠くから一言おっしゃってくださいと言われたのです。イエス様はそのようにされました。イエス様は百人隊長を皆の前で褒めました。(ルカ福音書7章2~10節)別な時には、会堂長のヤイロの娘の話があります。(ルカ福音書8章41~56節)自分の娘が死にそうなので、治してくださいと言われたイエス様は、行って治してあげようと、わざわざそうおっしゃいました。イエス様はヤイロを見ながら、もしかしたらこの家族は熱心な神様の弟子になると直感したのかもしれません。そして、12歳の娘を生き返らせたのです。そういう目的があったかもしれません。
 そして、イエス様はこのことを、誰にも話さないようにとおっしゃいました。別な箇所では、こう言っています。ゲラサ地方の悪霊にとりつかれた男の話です。この男から悪霊は出て行きました。しかし、ゲラサ地方の住民はイエス様に、ここから出て行って欲しいと言います。その時、イエス様はその男に、ことごとく話して聞かせなさいとおっしゃいます。(ルカ福音書8章26~39節)いろいろ違いますね。黙っていなさい。話しなさい。
 今日のイエス様は、私たちが不思議な業を他人に伝えるよりも、それを私たちの心に受け取って、深くこれを黙想したいのです。その意味を考える。神様はこんなに力強い方で、私たちを癒やしてくださる。こんなに近いお方でもある。それを考えて、私たちの今後の信仰やあり方をゆっくりと深めて欲しいと思われているのではないでしょうか。
 肉体上の癒しは一時的なものですが、精神上、霊的な癒しは長く続いて、永遠の命に至ります。もし、これを深めなければ、イエス様を喜んで迎えた後に、十字架につけろと叫ぶ民衆に私たちはなり得るわけです。私たちはこれを深めて、私たちの中に定着させる必要があると思います。
 このように今日の話は、ちょっと以外に見えますが、主はいろんな面からその人自身を良く知っておられ、何がその人にとってベストな方法であるか、何がその人にとって幸福に繋がる方法であるか、良くご存じである。そして主は、ご存じであるばかりでなく、それを望んでくださる。そういうことを思いながら、私たちも自分に対する主のなさり方を常に信頼して、祈りの中でそれを深めていきたいと思います。』