2018年12月10日月曜日

待降節第2主日

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』
洗礼者ヨハネは、荒野のかなたから「主の道を整えよ」と回心を呼びかけます。

この日は、ミサの後「堅信の学び」が行われ、約50名の方が参加しました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『イスラエルを導く救い主が、悲しみと不幸から解放し喜びをあらわすと今日の第一朗読(「バルクの預言)で読み上げられました。そして、何世紀もの沈黙の時が流れますが、待ち続けるその待望の時は重要な役割を持つ洗礼者ヨハ ネによって現実になろうとしています。ヨハネの叫びは、イスラエルの民にとって、他国民に圧迫されることが多く、あるときは神殿を崩壊された時もありました。国を追われ捕囚の身にさらされた時代もありました。そのような状況の中でヨハネは、預言者イザヤの言葉を借りて、救いの時が近づいた。救いの喜びが近いから「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ばれた。ヨハネの使命は、聖書に現され ているように、イスラエルの民を主のもとに立ち帰らせ ることであり、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせること。失望や悲しみを捨てて平和のうちに生きるようにと励まし諭しています。「道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイスラエルの民に対し、 また、今日の福音の3節にあるように「罪のゆるしを得させるため」と、呼びかけていました。待降節にいつも読まれるこの内容は、 わたしたちに対しても、良心の道をまっすぐにし、救いの神を受け入れるためにも大切な悔い改めも含まれているような気がします。心の準備とともに私たちは自分たちの信仰を見つめて、凸凹の道や曲がりくねった道があるならば少しでもまっすぐにして、主の心に繋がるように、待降節の大切な準備になるのではないでしょうか。

 パウロも今日の第2朗読の中で「あなた方の愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように。」と祈っていることを話しています。こうしてみていると今日のみ言葉の中にも聖霊の働きが見えてきます。堅信の秘跡を受ける人の学びが先週から始りましたが、その際に聖霊には「7つの賜物」があることを話したのですが、それは、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」だといわれています。(神父様は、お話の中で、4日の毎日のミサのイザヤの預言も引用しました。)ヨハネは、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせており、聖霊の力を持って民を指導しています。パウロは愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように、と祈っています。聖霊はわたしたちの気づかないうちに至る所で働いているのです。
 待降節を迎えて、わたしたちはキリスト者として、イエスに向かって歩もうとするとき、悪い行いを単に悔やむだけでなく、「方向転換」が必要ではないかと良く言われることです。「方向転換」と言えば、今週のカトリック新聞で教皇様の記事がありました。教皇様は講話の中で「新しい心の移植」が必要であると一般謁で見車に述べられました。古い心から新しい心への入れ替えは、新しい望みの賜物であると言い、それは聖霊によって植えられる種であり、新しいいのちへの渇きに成長するのだとお話されたようです。
 まさに、ヨハネが言われた道を整えるということは、救いの実現の道に導くためのふさわしい条件とともに、イエスの福音宣教の始まりにも繋げていかなければなりません。それは、教会がずっと主張してきた旧約から新約へと続く、旧約における「終わりの日」も意味し、新しい時代への入り口にもなるのです。

 待降節を過ごす私たちは、父なる神から幼子イエスを迎える準備の日々を過ごす週目を迎えますが、私たちの心にキリストを迎えるためだけではなく、神不在ともいわれる現代社会、人間関係も冷え切ったといわれる中で、現代社会に愛と希望をもたらすキリストを迎えることは教会にも社会にも大切なことだと思います。私たちや社会の中にある荒れ野の道をならし、険しいところを平らにする努力が求められると思います。
 今日改めて待降節第2主日を迎え、救いの道に招かれていることを噛みしめながら、真心を持って神に応えていけるよう祈っていきたいと思います。』

2018年12月2日日曜日

待降節第1主日

教会の新しい1年が始まりました。
待降節は救い主イエスの誕生を迎えるための準備期間になります。
この日、祭壇上のアドベントクランツのローソクの1本に火が灯されました。

今日のミサ後、馬小屋とクリスマスツリーの飾りつけも終わり、
リースとツリーのイルミネーションは今夜から点灯します。
クリスマスを迎える準備が進んでいます。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日から「待降節」という新しい典礼の一年が始ります。皆さんは何回、待降節、クリスマスを経験しているでしょうか。待降節は4週にわたるご降誕を待つ期間ですが、今年のクリスマス・イヴは4週目の待降節第4主日の翌日月曜日が24日ですから、実質は3週間ほどとなります。あっという間に「主の降誕」の祝日を迎えることになりそうです。

 待降節第1主日にあたって、みことばは「目を覚まして祈りなさい」と呼びかけていますが、キリストの来臨の希望をもっていつも目ざめ、救い主を待ち望むための心の準備が大切な時と言えるでしょう。今日のミサ後に堅信を受けられる方の勉強会が行われます。受けられる方々は、違った意味での降誕祭を迎えられると思います。わたしたちは毎日の生活、日々の生活のさまざまな出来事の中に働く神を感じて、誰もが主のことばに従うことができるようにと願っています。でも、主の言葉に従うことがどんなに難しいことかはいうまでもありません。今日もまた、神父さんは厳しいことを指摘して、わたしたちはいつも反省ばかりと思う人がいるかも知れません。それは出来なかったことばかりに目がいって反省を迫られているように感じるのかも知れません。
 この一年は本当に天候の不順や自然災害の多い年であったように感じます。台風や地震の体験を北海道の人間や誰もがその体験で気づきを新たにしました。困難に目をそらすことも出来ず、助けを必要としている人々にさえ十分にこたえることのできなかった私たち。自分の無力さを感じてしまうのです。「出来たことよりも出来なかったほうが目に付くというのは普通なのかも知れませんが、出来たことの一つに目をとめて、もっと深めてみようとか、もっと心から愛をもって進めてみようとか、反省も前向きに生きることも大切だとおもうのです。
 「目を覚まして祈りなさい」という今日の呼びかけは、「出来たか・出来なかったか」ではなく、そこに何があり、何が大切なのかということに気がつくことでもあると思います。そして、何よりもキリスト者となって、キリストの福音を身をもって生きるかが問われることであるかも知れません。終末の時を語っているみことばを前にして、人間の不安や恐怖は絶望と隣りあわせで、「救い」を求める希望や期待は2千年前のイエスの時代を生きる人々と、今を生きるわたしたちも同じではないでしょうか。9月6日に起きた「北海道胆振東部地震」の犠牲者を考えると今日の幸せさえ、明日に保証されているものではないことを痛感するのです。幸せは 一瞬のうちに消し去られてしまう可能性が誰にも、どこにもあるということです……。
 今日のみことばの中にもうひとつ「身を起こして頭を上げなさい」ともイエスは言われています。救いを待ちのぞみながら、わたしたちの弱さを知り、救いのおとずれを待ち、何が大切なのか!気づきの恵みを祈りたいものです。そして、出来なかったことや、出来ないことばかりに目を向けるのではなく、出来ることの一つをいっそう大事にして前向きに歩む、新しい一年となりますように今日もまた心をひとつにして祈りたいと思います。』


2018年11月25日日曜日

王であるキリスト

B年の典礼の一年がまもなく終わろうとしています。
毎年この一年の最後の日曜日に「王であるキリスト」を私たちは祝います。
来週の日曜日からは、いよいよ待降節にはいります。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『イスラエルにとって「王」とは、どんな人物がふさわしいと考えていたのでしょうか。今日の福音では、イエスは本当に「王」なのかどうか問われる内容となっています。
その疑問は、誰が考えてもおかしくはないことで私も感じています。当時、イエスの時代にもし生きていたとしたら、私もきっとイエスの話を聞きながら、特別な人だとは思うでしょうが、イエスが王なのかどうかということを考えたに違いありません。
ピラトは私たちに代わって、直接イエスに尋ねています。「あなたは、本当にユダヤ人の王なのか?」と。それに対してイエスは傍にいる人たちがまったく想像もつかない答えを言われました。「わたしの国は、この世に属していない。」
イエスのこのような答えを誰が想像したでしょうか。そして、そのイエスの答えはどのような意味を持っているのだろうか?と誰もが戸惑ったのではないでしょうか。
王の概念、国の概念、それぞれ人によって考えがあると思いますが、国や王という存在を超えて、「この世に属していない」という答えは、きっと当時の人々にとっても戸惑うばかりの答えではなかったかと想像します。

旧約のイスラエルの歴史をみると、ダビデによって国家が統一され、王が誕生することになりました。「王」とは、神に任ぜられたものであり、主との契約によって、油を注がれたもの、そしてその権能を受けるという、この世の支配を表すものでした。このような考えを持つ人たちに対して、イエスの答えは「わたしの国は、この世に属していない」、当時の人々にとっては理解できないイエスの言葉であったと思います。
今日の福音のピラトとの問答の最後に、「わたしは真理についてあかしをするために生まれ、またそのためにこの世にきたのである」と、イエスは堂々とピラトの前で宣言しています。真理のために命をかけたイエス。真理にそって常に生きたのがイエス。私たちは聖書をとおして、イエスの生き様を見ています。確かにイエスは妥協することなく真理のために常に歩んでいました。そして真理のために命を捧げました。
真理のために私たちも生きようとしています。でも真理のために命をかけるとは実に難しいことであります。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理を求めていながらも、現実は真理から離れてしまうことも多いということ。
考えてもみてください。皆さんは真実を生きていますか?今何を一番大切にしておられますか?大抵の場合、真理ではなく別なものになっているような気がします。その別なものとは何でしょうか?
ある人は自分の欲望であり、自分の野心である。ある人はお金であり、また快楽であるかもしれません。いずれにせよ、自分を満足させてくれるものに心が向かうことがあまりに多いのが私たちの現実ではないでしょうか?
真理を生きる。口で言うほど簡単ではないのが誰もがわかっています。そのようにして考えてみると、ローマ皇帝の命令に従って、ユダヤに赴任し、その地方を統治するピラトという人もまた、私たち同じように真理とはほど遠い世界に生きているといえるかもしれません。ですからピラトだけが責められるものではなくて、ピラトももしかすると、私たちと変わらない、一人の人間であったかもしれません。
イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長や長老、律法学者たち。彼らもまた真理から離れてイエスを突き出しました。彼らが命をかけて守ろうとするのは、自分たちの権威を揺るがない確かなものとすることであって、それはまた自分の出世や繁栄であったかもしれません。
自分の権威を守るためであれば、偽りも平気なのかもしれません。自分の望む目的を実現するために手段を選ばなかった彼ら。彼らの心の中にはイエスを亡き者にしてもかまわないと、そういう気持ちさえ現れ出でています。恥ずべき行為も厭わず実行してしまう、考えてみれば恐ろしい状況にまで追いやっていたのが彼らの欲望でもあった。それはまさに真理からは程遠い自分がそこにあったということ。私たちの社会で起こっている犯罪はそういう人間の心から起こっていることが多いのではないでしょうか。

聖書をよく読んで黙想していくなかで、ローマ総督のピラトは、ユダヤ人の宗教や信仰上のもめ事には関心がありませんでした。政治には関心があっても、宗教上の問題には関心がありません。国を持つということは「王である」とピラトは考えます。それは体制に反対する政治的な活動家に繋がっていく。そしてピラトにとっても政治的な野心を持つ人であれば、自分の利益に敵対する存在にもなってくるイエスでもあったということ。
自分が不利になれば黙ってしまう。妥協するピラトも真理から目を逸らしていました。真理に従えばユダヤ人の暴動が起こり、自分の地位や権力も危うくなると、自分の良心の声に耳を塞いでしまったピラトの姿が想像されます。
ピラトにしても律法学者たちにしても真理とは程遠い生き方をしてしまったということです。
イエスはそのようななかで、今までの状況を全く変えようとする「真理の王」であったということが見えてきます。真理をあかしするために来たイエス。イエスが見つめているのは神の世界です。そしてそこに命の全てを賭けています。
「王であるイエス」は、この世の王でないことは確かであり、イエスの使命はただ「真理」をこの世にあかしすることでした。
イエスは私たちをこのように招きました。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。イエスに従おうとする私たち信仰者。私たちはまた、一人一人は「神の民」であるということも自覚しています。そういうなかで真理の神に遣わされたイエスに私たちは本当に従おうとしているのかどうか。私たちは真理から遠いものに心を向けて生きているといえるのかもしれません。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」という言葉を、私たちの心の中にいつも持ち合わせているでしょうか。

イスラエルの人々にとって、ダビデの王から始まるこの世の王には失望しながらも、主こそ「真の王である」という信念は根強く生き続けていたようです。理想のメシアの到来を待ち望む人は多かった。そういうイスラエルの歴史を見つめながら、私たちは今、待降節に向かっています。新しい典礼の一年を迎えて、幼子の到来である待降節をまもなく迎えます。
今日「王であるキリスト」の祝日を迎えて、改めて、王であるキリストを讃えて、神の計画の実現のために祈り、そして歩む決心をしていきたいと思います。』

2018年11月20日火曜日

年間第33主日 ー 貧しい人のための世界祈願日 ー

春が来て夏が近づくように、その時こそ"人の子"が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音は、これまでの福音の内容と違って、随分驚くような話に皆さんは今、耳を傾けていたと思います。マルコによる福音第13章が読まれましたが、この第13章はイエスが終末について語られている場所で「小黙示録」とも呼ばれます。黙示録と言うと聖書の一番最後にあるものです。イエスは弟子たちに人の子による大いなる栄光である「再来臨」を告げます。来臨と言うと皆さんはどんなことをイメージするでしょうか。主の来臨。私は主の降誕、クリスマスを迎える時に二つの来臨があることを話したことがあります。ひとつは幼子の誕生、主がこの世に生まれる来臨がひとつ。もうひとつの来臨は、その時のことではないのですが、次に来る来臨、再来臨。終末にむけての主の来臨と言えるかもしれません。どうしてイエス様はこのような話をされたのでしょうか。未来について、そして私たちが計り知ることが出来ない遠い未来についてお話をされました。
 太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。この言葉を聞くとちょっと不安のような気持ちになるのではないでしょうか。どういうことなんだろうか。不思議でしようがなくなります。今の私たちにしてみても、こういう表現があるとちょっと、それはどういう意味ですかとなると思います。当時の人々はこの言葉をどんな風に感じたでしょうか。そのことを想像してみてください。当時の人々はその話を直接イエス様から聞かされた。
 実際は聖書を書いたマルコが記述しているとのことですが。マルコがこの福音を書いていた時代、相当深く関係しています。今は上映が終わりましたが「パウロ」という映画がありました。この「パウロ」の映画の内容もまさに迫害の時代。悲惨な時代でした。ですからパウロが生きていた時代、ルカが福音を書く時代、映画を見られた方は実感が出来たと思います。迫害時代の中においてパウロの信仰をルカは伝えようとして、牢獄につながれているパウロを訪ねました。そういうシーンが何度も繰り返される映画でしたが、どんな時代であったか。歴史上の重大な事件が次々と起きていた時代であることに間違いはないようです。聖書が書かれていた時代はそういう時代。イエス様が亡くなってしばらく経過していましたが、そういう時代に聖書が書かれていた。
 ひとつはエルサレムが滅亡する紀元の70年代の時代。ユダヤの人々、信仰の民はちりぢりばらばらになってしまい、迫害も起こっている時代になっている。そしてこの時代、この地を治めているローマの皇帝はネオ皇帝。迫害が起こりペテロもパウロも殉教する時代でした。まさにキリスト者にとっては苦悩と困難の時代を迎えている。イエス様とともにその教えを聞いて感動した民は信仰に目覚めるようになったようですが、そういう苦しみに生きている中で、どんなふうに今後なっていくのか。これからの時代はどうなるのか。そんな心境の中で このマルコは聖書を書いています。ですからイエスのこの言葉は そういう時代の信者の心の内も表しているような内容です。
  ですからある特定の人たちは終末が早く来れば良い。そして新しい時代が始まった時にイエス様が言われる「神の国」が早く来ると良い。そんな思いをきっと強く持っていた人たちが大勢いたような気がします。逆に失望した人たちがいたかもしれません。聖書を書くマルコはそういう社会、時代を背景に、信徒の信仰の状態も考えながら終末の問題として、「その日その時は誰も知らない。」そういう終末の内容を聖書に盛り込みました。
  現代に生きる私たち信仰者にとっても、信仰の目標の中に復活の時が来るという思いが
誰にもあると思います。私たちは復活の信仰を生きています。主の再来臨はまさにそういう終末、復活の時がくる。12月、主の降誕が近づいてきますが、幼子の誕生のお祝いの中にもうひとつの再来臨があることもこれまでお話していることでした。

 聖書の中で、そういう時代を生きている人々に対してイエス様は励ましています。希望の火を消すことのないように、いつも暖かく見守り、導きます。こういう言葉を残します。惑わされないように注意しなさい。気をつけて目覚めていなさい。神の前に正しく歩みなさい。どんな困難な状況に遭っても、迫害の中にあって信仰の火が消えそうになっても神の前に正しく歩みなさい。これが目覚めていなさいという言葉でも表されました。マルコが、そのイエスの再来臨の時を旧約の預言者の言葉を借りて語ります。
 今日の聖書の最初の言葉はまさにイザヤの預言の言葉を使ってのお話になります。太陽は暗くなる、月は光を放たず、イザヤの預言の言葉はこのようなかたちで旧約について語っています。こうした預言者の言葉、そしてイエスと出会って新しい目覚めを感じた人々は、ひとつの古い時代は終わってキリストによる新しい時代が到来する。その新しい訪れがまもなくやって来るに違いない。そういう思いでイエスに心を向けていました。
                               
 今日の聖書の中で、特別な記述があります。ヨハネの福音ではキリストの死の目的は国民のためばかりではなく、散らばっている神の子たちをひとつに集めるという表現が、ヨハネの福音の中にあります。マルコも同じような表現をとって、今日の聖書の言葉の中で選ばれた人たちを四方から呼び集める表現で終末を表しています。選ばれた人たちを四方から呼び集める。幸いにもイエス様は再び来られる。選ばれた人たちが四方から呼び集められる。そういう再来臨の時が来るのだ。そのためにも目覚めていなさい。どんな苦しい状況にあっても神の前に正しく生きなさい。正しく生きる人たちが散らばっていたとしても呼び集められる。そういう範疇に入る人たちがあることが、マルコの福音書の中に表されています。
 そして、いちじくの木の話が後半に入ってきます。どんな教訓が見られるでしょうか。いちじくの木の話を通してどんなふうに私たちは考えていますか。今朝も早くから教会に来られて枯れ葉を集めてくださっている人々の姿がありました。教会の庭のケヤキの葉は
毎日ものすごい量で落ち続けています。クリスマスの頃まで毎日落ち続けると思います。地面に舞い降りて広がっている色づいた枯れ葉を見て、美しい秋の自然を感じる人もいるかと思います。そして枯れ葉が落ち、枝だけになった木は枯れた木に見えるかもしれません。作業する人の姿を先に考えてしまいますと、雨で濡れた枯れ葉が地面にへばり付いて、何度も何度もほうきで枯れ葉を集める人の苦労の方が私は見えてきます。枯れ葉が落ちて木が枯れたように見えたとしても、春を迎え夏が近づく頃にはまた新しい葉が至るところで見られるようになります。聖書の教訓は、そのようなことを私たちに伝えているのだと思います。枯れ葉が落ちて枯れ木のようになるいちじくの木を見て学びなさい。枯れ木のように見えていたいちじくの木は   やがて枝が伸び始めるとやわらくなって芽が出、葉が出るようになる。春が来て夏が近づくように、その時こそ人の子が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。死んだ者でもない、枯れた者でもない。また新しい命の息吹があるのだと。そのことを信仰者として私たちは受けとめなければなららないと思います。
 エルサレムの滅亡を体験し、ユダヤの民がちりぢりばらばらになってしまったその時代を生きている当時の人々にとって、この預言の言葉もまた新しい神の国の到来を告げるそういうみ言葉です。神の国の到来は大きな希望をもたらすものでした。イエスははっきりと話されます。この時代はけっして滅びることはない。私の言葉はけっして滅びない。力強く宣言しています。まさに、キリストの言葉は過ぎ去ることなく、必ず実現するものであることを私たちに伝えます。
 皆さんは、来週「王であるキリスト」の祝日をもって一年の典礼の終わりを迎えます。年間の季節の終わりは来週になります。そして翌週から「待降節」という新しい一年のスタートを迎えることになります。イエスの言葉はけっして消えることも過ぎ去ることもない。その力強い言葉に励まされて、私たちの信仰をもう一度歩み直す決心をしたいものです。

 さて、今日はまた教皇様が呼びかけて始まった二回目の「貧しい人のための世界祈願日」となっています。聖書と典礼にも載っています。聖書週間の言葉も入っています。私たちは今日もまたそのことを意識いたしましょう。教皇様は貧しい人たちのために呼びかける。私たちの祈りもまたミサの中で捧げられます。共同祈願の中にも入っていますが、私たち一人一人「貧しい人」の意味を深く探りながら祈りを捧げらればと思います。
 貧しさと言えば、先週、貧しさの中で献金を捧げるやもめの話がありました。その貧しきやもめの姿を通して、私たちは感動さえ覚えたと思います。何故でしょうか。貧しさの中で感動を呼ぶものがあるとすれば、それはどこから来るのか。見えるものでない心の中にある輝きが、やもめの姿をとおして私たちは感じられたと思います。神への信頼と謙虚なやもめの姿をとおして私たちの心の中に響いていたと思います。救いの道は謙虚な心で神に信頼して生きる中に現れてくる。そんなことを感じます。自分の弱さも醜い欠点もありのままに神の前にさらけ出して、神に信頼して生きるということが、貧しい人の中に入り輝きでもあったとも思われます。そして、いと小さき者が滅びることも天の父は望まれない。そのみ言葉に信頼するあのやもめの信仰も、そこに見えてきたのだと思います。イエスの心は神の心に導かれることでもあります。ですから、私たち一人一人が更に神の心に導かれるためにはどうしたら良いのでしょうか。
  そのことのためにもう一つ伝えておきたいと思います。聖書の言葉は神の心に私たちを導いてくれるものだと思います。聖書の言葉は私たち一人一人の心に訴えかけてくるものがあります。そのためにも聖書、み言葉に親しみ出会うことが大事になります。今日から聖書週間が始まります。皆さんの心に刻んでほしいと思います。25日まで続きます。良く言われることですが、信仰生活において食べることと、寝ることと同じように、み言葉に養われることが大切であることも私たちは忘れてはならないと思います。現実の生活の中では食べること、寝ることに煩わされてなかなか聖書の方に心が向かないというのが現実かもしれません。み言葉に養われることも大切にしたいものだと思います。聖書の親しむ、み言葉に親しむ。そういうことでは残念なことをまた繰り返しますが「聖書と典礼」がいつもミサが終わったら置かれて帰ってしまわれています。今週、私たちに伝えたみ言葉は聖書と典礼をとおして、日々繰り返し見つめ学び直すことができます。聖書週間をとおして、さらにみ言葉に親しんで参りましょう。』

2018年11月11日日曜日

年間第32主日

今日の福音をとおして、私たち一人一人が大切な隣人として神に愛されているということを心に留めましょう。

今日は「秋の大掃除」の日でした。
聖堂床のワックスがけとカテドラルホールの大掃除を行いました。


外国人信徒の方も参加しました。終わった後の昼食です。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読、福音と共通して出てくるのは「やもめ」。それも日々の生活に困窮し、明日の保障もない苦しい生活をしている「やもめ」のお話になります。
どんなに苦しくても辛くても命あるものは神を誉め讃えなさいと、今日の答唱詩編で私たちは歌っていますが、私たちにどこまでそれができているでしょうか?

「立法学者の偽善」と「やもめの献金」という二つの異なるエピソードが告げられる今日の福音ですが、私たちは心の底から純粋に神に信頼して祈る時、そのひたむきな心を捧げるときには、今日のやもめのような純粋な姿を見せるのではないか、そんなふうにも考えます。
切羽詰まっても、どんなに苦しい状況にあっても心から神に信頼するその瞬間は、「全てを捧げます」と言える、そういう信仰で神に向かえるような気がします。
ただ、常にそのような心を持ち合わせることが出来ないというのが現実の自分でもあるようです。自分の持っている財布の中身を見て、計算をして思い巡らして、どのくらいの金額までなら捧げられるだろうかと考えてしまいます。その時の心の状態は神様のことよりも困っている人のことよりも、自分のことが先になっているということだと思います。きっと誰もが同じような経験をしているのではないかと思います。

イエスに対する律法学者やファリサイ派の人々の態度は、非常に厳しいものがありました。イエスはそのような彼らの偽善的な態度や行動と、それに比べて貧しい”やもめ”の献金の姿を今日示します。どちらの生き方が神に好されるでしょうか?もちろん答えは分かっていることです。
結論は言うまでもないことですが、もう少し当時の社会や生活がどんなものであったかを考えてみると、”やもめ”の信仰もはっきりと私たちの心に見えてくるような気がします。”やもめ”の姿が、いかに神への信頼に満ちたものであったのか、神の愛に応える生き方であったのかどうか、そんなことが黙想すればするほど、よく見えてくるような気がします。
自分が持っている全てがレプトン銅貨2枚であったという”やもめ”。当時のレプトン銅貨というのは、ユダヤの国が発行したお金の中でも最も小さな銅貨でした。
聖書では時々「デナリ」というコインの名前も出てきますが、それはローマが発行したローマ皇帝の肖像がデザインされている硬貨でした。どちらも当時の社会で使われているもので、労働者の一日の賃金の目安となっているものでした。その100分の1にも満たないお金が1レプトンでした。当時のお金にしてわずか2レプトンしか持っていなかったそういう貧しい”やもめ”であったということです。それを神殿に全て捧げる”やもめ”の姿が浮き彫りにされているわけです。

権威をひけらかす律法学者やファリサイ派の人々に対し、神殿の賽銭箱に持ち合わせた全てを入れたこの”やもめ”。どちらが神に対する真実な生き方をしているのかどうか、そのようなことを今日聖書は私たちに語りかけます。律法学者やファリサイ派の人々がどのうような暮らしぶりであったかは想像するしかありませんが、イエスは常々弟子たちに、彼らには気を付けるように語っています。律法学者たちは、話すことは立派であるけれど、その行動を真似してはいけないというのがイエスから弟子達への忠告でした。
当時、”やもめ”と言われる人たちは、財産を共有して助け合い、協力しながら貧しく生きていたといわれています。そして神殿のために一生懸命奉仕したのが”やもめ”でした。それにも関わらず、律法学者やファリサイ派の人々は、そのような貧しい彼女たちの善意を悪用して私腹を肥やしていたと言われています。このような対比をイエスは弟子たちに話したのです。
大金持ちのたくさんの献金に対し、”やもめ”の献金は人々の目を引くようなことはない、いわば隠れた小さな出来事に過ぎません。しかし、たとえ僅かな額であったとしても生活費の全てに当たる金額を献金した”やもめ”の姿は、イエスにとって最も目立つ献金であり、心からの献金であることにイエスはほめられたのです。
そこに私たちは、”やもめ”が示す神への信頼とゆるがない信仰の姿に驚きさえ感じてしまいます。

私たちは誰もが元気で長く健康に生きたいと願っても、それを決める知恵を持っていません。神は、将来がどんなに暗くても、希望を見失いそうになったとしても、変わらない温かなまなざしを持って、私たちを見つめ励ましてくださる存在です。
神こそ私たちが願う「永遠のいのち」をもたらす方であるという信仰をこの貧しい”やもめ”は持ち合わせていたのです。
貧しさの中で冷たい視線を浴びたことのある貧しい”やもめ”は、金持ちの知らない神を知っていたということではないでしょうか。

先週のみ言葉に大切な掟が二つ示されました。神を愛することと、隣人を愛することでした。この貧しい”やもめ”の隣人になってくださったのは神であったということも言えるかと思います。
今日のみ言葉は、この貧しき”やもめ”をとおして、「変わらない愛をもって、いつもあなたを愛している」と私たち一人一人の隣人になっている神が私たちの傍におられ、私たちの信じる神は、そのような方であるということを示すものだと思います。
神を愛し、隣人を愛する。それよりも先に、神から私たち一人一人が大切な隣人として愛されているということも、私たちはもう一度心に留めたいと思います。』

2018年11月7日水曜日

年間第31主日

イエスは律法学者の問いに対し、申命記(6・5)とレビ記(19・18)を引用して最も重要な掟について話されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『モーセはトーラー(モーセ五書)をヤコブ共同体の相続財産として我々に命令した。申命記の中で聖書は述べています。ユダヤの民は律法学者によってその信仰を厳しく指導されています。その信仰を守っています。でも、そのユダヤ伝来の信仰は掟が少しずつイエスの時代に変化していきます。熱心なユダヤ教のグループのある人々は、古代からの伝統が少しずつイエスによって崩されていく、壊れていくようなそんな思いがあったようです。特に律法学者たちの間で。それはどういうことなのか。ひとつ例をあげると、イエスはたくさんの人々を癒やし、慰め、励ましています。時に神の業をしるしとして人々の前で現します。奇跡がそこで行われました。でも、安息日に行われるそういう行為は、イザヤの掟に背くものであると考える人々がいます。安息日は聖なるものである。そして、安息日は仕事は出来ないということが、当時の人々の考えでもありました。安息日、主の日に3百数十種類の仕事の内容が記されていて、それ以外は許されないとか、そういう細かい規定があったそうです。今で言うと、1日800メートル以上歩いてしまうと仕事にもってなると、そういう掟があるという中味が伝えられています。ですから本当に安息日に縛られてしまう、そのような人々の生活もあったということです。
  そういう背景の中で考えると、イエス様が神殿で人々を見て憐れみ、奇跡を行ったとき律法学者たちはまさに、仕事をしている  掟を破ったという見方になりました。考えのようです。でもイエスはその時に安息日は国民のためにつくられた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。安息日が私たちの上にあるのではなく、人が安息日のためにあるのだ。厳格に守ってきた掟が覆されたように考える人々はイエスに対する反発をだんだんと増幅させてしまいます。病人を癒やす行為にさえ、そこにあまりにも恵みや権威に満ちていることを知って、妬む心が大きくなってしまいます。
聖書の中で何度も律法学者ファリサイ派、サドカイ派の人々が現れてはイエスに意地悪な質問をする。そういう物語がたくさん現れます。そのくらい、イエスの行いがだんだんと特定なグループの人たちから反感を買うようになった、そういう時代のお話が今日もまた出てきます。
 タルムード(口伝律法)の戒律は613の掟があるそうです。インターネットで調べるとそれが全部出てくるのですが、小さなことから様々な掟が見ることが出来ます。その掟の中に消極的な掟と積極的な掟があるといわれています。インターネットで見たところ、消極的な掟は365、積極的な掟、命令が 248、合わせて 613あるようです。もちろん、ユダヤ教の信仰の中にに入ってくる様々な掟や規律ですが、その十戒の内容もその掟の中に入っています。

 今日のお話は律法学者から出される質問です。律法学者たちは掟を研究している人たちですから、モーセの掟もその中に入っていることも知っているし、特にその掟は大事にさればならないことを当然知っている質問です。一番の掟は何ですか。一番良く知っている学者さんがそういう質問をするとはどういうことでしょうか。いろいろ想像してしまいますが、イエスに質問します。もちろんイエスは彼らの質問の意図をよく知って答えます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが一番の掟です。日本語で話されていますから説明は必要ないと思いますが、次から次へと神に向かう心が出てきます。すべてをあげて全身全霊を込めて神を愛しなさいということに尽きると思います。
 イエスはさらに加えました。隣人を自分のように愛しなさい。切り離すことではなくて、最初に唯一の主である神を愛することと隣人を愛すること、セットになるように答えていました。律法を研究している律法学者にとって、イエスのこの答えは否定する余地はまったくありません。イエスのこの最初答えは、申命記6章にある聖書の言葉そのものです。二つ目の隣人を自分のように愛しなさいというのも、レビ記にある聖書そのものです。ですから律法学者は否定することはもちろん出来ません。そのとおりと認めざるを得ません。何よりも大切なすぐれた教えそのものであると認めます。掟の数が数多くあると人々は迷ったり、どちらの教えが正しいのか、そういう迷いも当時あったそうです。あまりにも細かく規定がありすぎて、この掟を守れば、こちらの掟は守れそうもない。それくらい規定がいっぱいあったそうです。ひとつ例をあげると、供え物を捧げよという掟もあったそうです。当然、父母を敬えという掟もありました。当時の社会では供え物を理由に両親の扶養の義務を怠ったり、放棄する風潮があったともいわれます。現代でもそのことがあるような気がします。お金をどのように使うか。財産をどのように使うか。両親のために使うか、自分たち若い家族のために使うか。そんなことで両親を投げやりにしたり、粗末にあつかったり、扶養を怠ったり。そういうことは、今の私たちにも考えられることです。当時の社会も同じような風潮があったそうです。神殿に犠牲を捧げるために物を使った。それを用意したから、両親の世話を十分することが出来ませんでしたという理由もたくさんあったのではないでしょうか。
  でも、よくよく考えなければならない。イエスの教え、神の教えはそういうことだったでしょうか。掟はそういうことではなかったはずということが指摘されることです。犠牲や燔祭は罪ある人間が自分を全部神に捧げるしるしに犠牲を捧げる。時に小鳥や鳩であったり、少し余裕のある人は仔牛を捧げたり、そういう風にして犠牲にはお金がかかることであったのかもしれません。生活の一部を捧げざるを得ない。罪の償いがあったかのように当時の社会を想像することが出来ます。でも、その犠牲を捧げるために生活の一部をそれに当てたとすれば、両親をどこかで十分に養うことができないという人がどんどん出ていったとすれば、掟を守る中で間違ったことをしているというふうに考えられます。

  神を愛することと人を愛することは切り離すことではない。愛するときに神はその人とともにいる。愛に欠ける行為がだんだん当時の社会の中に現れてしまう。イエスはそういうことを含めてきっと律法学者に神を愛することと人を愛することがなにより大切である
と答えたのではないでしょうか。神を愛する。実際に具体的にどのようなものでしょうかと考えてしまうかもしれません。
 神を愛するということは具体的にはイエスのみ言葉を聴くほかはないと言えるかもしれません。イエスのみ言葉に心から従い神を思うとき、私たちの心は自分の周りの人々に向かっていくのではないでしょうか。時々とても熱心な人が一生懸命教会で祈りを捧げます。祈りに多くの時間をかけて本当に熱心な姿をそこに見てしまいます。時々、そういう人の中に教会、共同体の皆さんとの関わりよりも、神に祈るその時間の方が大切であるという人がなんとなく見えてくる場合があります。神を愛する。祈りを大切にする。もちろんそれも大切なこと。でも、人との関わりを避けて、その時間を割いてただ祈りだけをするのであれば、神を愛する人を愛することに少し問題が出てくるのかもしれません。バランスは難しいと思いますが、ただ熱心に神に祈るだけではなく、神と人とを介することの大切さを私たちはもっともっと考えなければならないような気がします。
  神の言葉に、そしてその教えに耳を傾け黙想するとき、当然私たちは自分の周りにいる人々、助けを必要とする人々、苦しんでいる人、悩んでいる人、そういう人にも心が向かうはずです。そういう思いこそ必要としている人の隣人になることが出来るのではないでしょか。それはマリア様がイエスのみ言葉に耳を傾けていたその態度にも表れているような気がします。
 イエスは後に弟子たちに話します。私があなたがたを愛したように、あなた方も愛し合いなさい。自分のようにだけでは足りないのかもしれません。イエスが愛したように、私たちはそれを一番の模範としなければならないようです。ですから、イエスの言葉を心に留めて思い巡らし黙想していかなければ、イエスがどのように私たちを愛してくださったかを知ることは出来ないはずです。

  自分ほど神の国から遠い人間であると誰もが思えてしまいます。自分に欠けているものがあるから、そのようにどうしても考えます。洗礼の恵みをいただいた私たち。キリストの教えをただ学ぶだけでなくて、本当に全身全霊をもって神の国に相応しい人にならなければなりません。愛を生きる人こそ神の国から遠くないと呼ばれるはずです。今日、私たちは共同祈願でもたくさんの祈りを捧げます。私たちの祈りで、私の祈りとしてその一つ一つの祈りを捧げるようにしたいものです。』

2018年10月29日月曜日

年間第30主日

今日の福音は、イエスが目の見えない人「バルティマイ」を癒すお話でした。
何気ない日常の中に起こる奇跡を物語っています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんは今日の福音をどのように聞いていたでしょうか。どのような場面が心に浮かんだでしょうか?
先週、先々週とみ言葉を聞きながら、私はその時の内容も思い起こしながら今日の「盲人の奇跡」の話を黙想しています。
イエスに仕えてきた2人の弟子が「栄光の日が来たら良い席に着きたい」と願って、他の弟子達から怒りをかった場面が先週語られていました。イエスはその時、良い牧者としての模範を示して「仕える者になりなさい」と弟子たちを諭しています。
今日のみ言葉は、何気ない日常の中で起こる奇跡の物語のようにも感じます。
イエスはエリコを通過する長い道を通ってエルサレムへ向かっていくような状況にありました。旧約時代のエリコという街はオリエント世界の最古の街と言われ、肥沃な土地でヘロデ王が宮殿を建て、娯楽施設が整った貴族的な街とも言われてます。場所的には、塩の海と呼ばれる死海の北、9kmのところにあります。また、この街は「ザアカイの回心」の舞台となった街の近くにあります。
その街を出て、エルサレムに向かうために狭い谷間を通る時の出来事が、今日の物語になっています。今日のマルコの福音は、他の二人の福音史家も共通してこのお話を書いています。ですからこのお話は、当時の人々にとっては大切な話として伝承されていたということも考えられます。しかし、同じ物語を扱いながら二つの福音では盲人の名前はなく、二人の盲人という表現がとられています。マルコの福音だけが盲人の名前も書かれているのは、このバルティマイの信仰がとても素晴らしかったので、バルティマイ一人を中心に取り上げて書かれたのではないかとも考えられます。
ルカの福音によるとザアカイの家に泊まられた翌日のことであると言われています。マルコの福音では、まず先に盲人で道端で乞食をしていたバルティマイに、群衆の会話そして足音がだんだんと自分の方に近いづいてくる、そんな様子が描かれています。バルティマイは以前から、おそらくイエスの話を噂として聞いていたのでしょう。だんだんと近づいて来るのは、もしかしたらイエスではないだろうか、そんなことを思い巡らせながら、近くにいる人に誰なのか?と質問したようです。すると誰かが「ナザレのイエスが通る」と教えました。
バルティマイは、イエスの奇跡の噂を思い出したことでしょう。近づいて来るその足音を聞きながら大きな声で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」執拗に何度も繰り返し、自分の声がイエスに届いているのかも分からずに叫び続けました。
イエスが足を止めて「彼を連れてきなさい」と言われました。うるさいと思っていた人々は、イエスがそのように言うのであればということで、バルティマイに近づき安心させ、立ち上がらせてイエスの前に連れていきます。
盲人の願いはただ一つでした。イエスが「あなたは何を願うのか?」と質問すると、「見えるようになりたい」と答えます。イエスは既にこの叫び続けていたバルティマイの声を聞きながら、この人の熱心な信仰も見つめていたようです。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と彼に答えたイエスがそこに立っています。どこにそんな立派な信仰が表されていたでしょうか?
バルティマイは、近づく足音を聞き「ナザレのイエス」が来たことを知ったのですが、叫んだ言葉は違っていました。ここにこの盲人の信仰が見えてきます。どういうことでしょうか?「ナザレのイエスが来た」と教えられながら、盲人が叫んだ言葉は「ダビデの子イエス」という言葉です。「ナザレの子」と「ダビデの子」にはどのような違いがあるでしょうか?彼は「ダビデの子」というメシアを表す言葉を使ってイエスの向かって叫び続けたのです。そこに、人々の理解とは違ったバルティマイの信仰を見ることができるのです。
「黙れ」と叱りつけられ、人々が黙らせようとしたにも関わらず、彼の求めの熱心さ、そしてその信仰も、恥じらうことなくイエスに向かってはっきりと表されていきました。彼のその熱心な信仰がメシアの憐れみを求めていたことに大きくこの物語の特徴が見えてきます。

バルティマイの求めは「お金」ではなく「目が見えるようになること」でした。一般的に道端で盲人が物乞いをしていると聞くと、お金の無心と考えてしまうのではないでしょうか。しかしバルティマイは違っていました。そこにまた彼の信仰の素晴らしさも見えてくるような気がします。弟子たちが、イエスが栄光の座に着かれたら右と左に座る地位と名誉を求めたことを考えると、同じ求めでも大きな違いがあります。信仰のあるところにメシアの憐れみが現実になるということを、今日のお話は語っているように思います。

あわれみの手を差し伸べる救い主イエスに、私たちの信仰、そして信頼は本物なのでしょうか?
心の底から「主よ、憐れんでください」と叫び続ける信仰を私たちも持ちたいと思います。

人々の中にあわれみを受けたバルティマイも加わって、イエスのエルサレムへの道、決定的な受難の時が迫る旅が続いていきます。
「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」
今日もイエスとの出会いから、心から求める憐れみをとおして、見えない「しるし」と「力」が働いているはずです。
聖体をとおして私たちはイエスと出会い、その力をいただきます。
イエスのことばが今日も私たち一人一人の心に留まるように、このミサをとおして祈り続けましょう。』

2018年10月21日日曜日

年間第29主日 「世界宣教の日」

今日は「世界宣教の日」です。
「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」というイエスのことばを改めて心に留めましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日はインドネシアの兄弟姉妹の皆さんと感謝の祭儀にあずかります。
  今日はご存じのように「世界宣教の日」です。この世界宣教の日にあたって教皇様は、
メッセージを出しておられます。メッセージのタイトルは「若者とともに、すべての人に福音を届けましょう」。全世界の若者、信徒に出されています。
  今、ローマでは世界代表司教会議、シノドスが行われています。日本からは勝谷司教様が参加されています。10月いっぱいということですので、まとめの段階に入っているのかなと思います。今日は、教皇様が出されたメッセージを説教に代えて、要約して皆さんに教皇様の思いをお伝えしたいと考えています。メッセージそのものは若者へ向けてのメッセージなのですが、私たちは若者でないと言ってしまえば、教皇様のメッセージは教会に届きませんので、私たち一人一人が若者であると自覚しながら、教皇様の思いを受け止めたいと思います。私たちは日頃、若者がいないという言い方をしていますが、それを言い続けているならば、私たちの教会の中で大きな変化、新しい旅立ちは出来なくなってしまいます。私たち一人一人も若者であるという意識の中で教会共同体の活動、そして発展を新しく作っていくことが大事だと思います。

  さて、教皇様はどんなことを私たちに、教会に向けてメッセージを出されのでしょうか。
 教皇様は「わたしは、イエスからわたしたちに託された宣教について、皆さんと一緒に考えたいと思います。そして、皆さんに語りかけると同時に、神の子としての冒険を教会の中で生き抜いているすべてのキリスト者にも呼びかけます。……
 宣教の月であるこの10月にローマで開催される世界代表司教会議(シノドス)は、主イエスが若者の皆さんに、さらには皆さんを通してキリスト教共同体に伝えようとしていることに対する理解を、信仰の光のもとに深める機会となるでしょう。」と述べておられます。

  そして、教皇様のメッセージは4つの項目があげられます。
 最初は、「生きることは遣わされること」というタイトルになっています。
 「人は皆、遣わされており、そのために地上に生きています。「引き寄せられ」、「遣わされる」という二つの動きは、わたしたちがとくに若いころ、愛の内的な力として心に感じるものです。この力は未来を約束し、わたしたち自身を前へとつき動かします。いのちがいかに驚きをもたらし、人を引き寄せるかを、若者の皆さんはだれよりも切実に感じています。」

  二つ目のタイトルは「わたしたちは皆さんにイエス・キリストを告げ知らせる」になります。教皇様は
 「無償で受けたもの(マタイ10・8、使徒言行3・6参照)を告げ知らせる教会は、この地上で生きることの意味へと通じる道と真理を、若者の皆さんに伝えることができます。わたしたちのために死んで復活したイエス・キリストは、わたしたちを解放するためにご自身をささげ、そのことの真正で完全な意味を追求し、見いだし、伝えるよう教会を駆り立てています。若者の皆さん、キリストとキリストの教会を恐れてはなりません。」と、おっしゃっています。

  3つ目は「地の果てまで信仰を伝える」となっています。
 「若者の皆さんも、洗礼を受けることにより教会の生きた一員となり、福音をすべての人に伝えるという使命をともに担っています。」
 教皇様はこう言います。
 「教会の宣教の核心である信仰の伝達は、愛を「感染させる」ことを通して行われます。」
私はこのメッセージの表現、訳が「愛を感染させることをとおして信仰の伝達が行われる。」
に驚きを感じます。違和感も感じましたが、興味深い表現だなと思いました。信仰の伝達は愛を感染させる。皆さんは、どう感じるでしょうか。
「物事の意味が新たに見いだされ、人生が満たされたことを、喜びと情熱をもって示すのです。人々の心を引きつけながら信仰を伝えるためには、心が愛により開かれ、広げられなければなりません。」このようにも話しておられます。私たちはどうでしょうか。愛によって、私たち一人一人の心が開かれるよう努力しているでしょうか。

  (4つ目「愛をあかしする」)
 「教会の中に生きておられるキリストと皆さんが個人的に出会えるよう尽くしているすべての教会共同体に、わたしは感謝の意を表します。その中には小教区、教会の諸団体や運動、修道会、さまざまなかたちで行われる宣教活動が含まれます。人間の尊厳を尊重し、愛する喜びとキリスト者であることの喜びをあかししながら、「もっとも小さくされた人々」(マタイ25・40参照)に仕えることを、多くの若者が自発的に宣教する中で感じ取っています。」。教会も小さくされた人々とともにあって欲しいと、教皇様ははっきりと宣言します。今日も、仕えるものになりなさいと福音をとおして与えられましたが、もっとも小さくされた人々に仕える大切さは、私たち一人一人が常に心がけなければならないことでしょう。

  終わりに教皇様は、教皇庁宣教援助事業についても話されています。
 「教皇庁宣教援助事業は、福音をすべての国の人々に告げ知らせるよう促し、真理を求める大勢の人々の人間的、文化的な成長を支えるために、若々しい心から誕生しました。教皇庁宣教援助事業を通して惜しみなくささげられ、届けられる祈りと物的支援は、聖座の取り組み、すなわち自分の必要としているものを受け取った人々が、今度はそれぞれの場であかしできるようにする活動のために役立っています。」と、述べられています。
 (今日のミサ献金について説明。)

 教皇様は言われます。
「自分が持っているもの、そして何よりも自分のありのままの姿を差し出せないほど貧しい人などいません」。貧しい人、小さな人々というテーマが聖書に良く出てきますが、私たち一人一人が心を開き、愛をもって貧しさに向かっていくことが出来る勇気をいただきたいと思います。教皇様のメッセージの中で、持っているものを差し出しなさいというメッセージになっていますが、先週の説教の中で触れたように、あの金持ちの男の人は「永遠の命を持つために何をなすべきでしょうか。」思い出して欲しいと思います。先週の福音を思い出すと、その男の人は何か足りないところがあると思ってイエスに質問しました。
真面目に信仰に生きている人でした。永遠の命を求める人が財産を持って、それを分かつことの難しさ、隣人への愛を開くことがいかに難しいかを、私たちは福音をとおして黙想することが出来ました。

 今日、教皇様の最後のメッセージの中で、そのことにも触れられたと考えます。最後には若者に呼びかけて話します。
「自分には差し出すものがないとか、自分はだれも必要としないとか、考えないでください。大勢の人があなたを必要としています。このことについて考えてください。多くの人が自分を必要としていると、それぞれが心から考えてください」。結びのメッセージの内容です。
  そして、最後の結びは、
「わたしは使徒の元后聖マリアと聖フランシスコ・ザビエル、幼きイエスの聖テレジア、福者パオロ・マンナに、わたしたちすべてのためにとりなし、つねに寄り添ってくださるよう願い求めます。」10月の宣教のこの月。10月にはたくさんの聖人が記念されますが、そうした聖人に向けて取り次ぎを願い、寄り添っていただけるようにと教皇様は結んでいます。
 教皇様のメッセージ。若者に向けられたメッセージですが、私たち一人一人にも向けられているということを重く受け止めなければならないと思います。私自身、2年前、私たちの教会が献堂100周年を迎えた時に、ひとつの標語を皆さんで考えて作りあげました。「次の世代につなぐ」という言葉が、標語で今も玄関前に掲げられていますが、若者がいない、子供がいないというだけでは何の解決にもならないと思います。若者がいないというだけでなくて、私たち一人一人がしっかりとした考えを持って、私たちの教会をこれからどう作っていくか、考え続けなければならないと思います。

 そのためにも私たちは、イエスとともに歩み続けなければなりません。今日の福音の中で、弟子たちの心を動かしている俗っぽい野心とか競争心とか見え隠れするメッセージが私たちに語られています。2000年前の弟子たちのことですが、まだまだ弟子たちには学ぶべきことがたくさんあったようです。一生懸命イエスのみ言葉を聴き、その教えを守ろうとしたけれど、すぐに現実の生活に心を奪われてしまうことのほうが多かったかもしれません。イエスの心も神秘、十分理解出来ないままに今日のような質問が出たのかもしれません。もしかするとまだまだ、イエスの心に近づくことが出来ないで、自分の欲望を満たすことのだけに心を奪われた弟子もいたかのように思います。十字架の歩みはイエス一人だけの歩みなのでしょうか。そのことも考えなければならないことだと思います。
 イエスの心を理解し、支え、ともに歩むことを弟子たちに期待することと同じように、私たち一人一人もその期待を背負って信仰を歩むことが大事だと思います。私たちも洗礼によって神の子の恵みをいただきました。その時からイエスとともに歩み、信仰を生きています。でも、その信仰の中でどこまでイエスの心、その教えを歩んでいるか。そのことももう一度考えて新しい出発にしたいと思います。
 世界宣教の日にあたり、教皇様のメッセージの思いに触れながら、私たちに託された宣教を考え、祈り続けたいと思います。』

2018年10月14日日曜日

年間第28主日

神の”掟”を守ることと同じように、隣人も大切にしなさいとイエス様は教えられます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『本日、10月14日(日)ローマ時間の10:15(日本時間 17:15)から、バチカンでパウロ六世、ロメロ大司教の列聖式が行われます。

カトリック中央協議会のホームページで列聖式の生中継が視聴できるLIVE動画が公開されています。ご興味のある方はご覧になってください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2018/10/12/17747/

教皇パウロ6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

オスカル・ロメロ大司教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%AD

列聖について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%81%96

今日こうして、二人の聖人が誕生します。私たちも聖人の精神を習いながら信仰を歩むことができるように、またミサの中で祈りたいと思います。
特にロメロ大司教の生き方は、今日の福音にも繋がってくるのではないかと思います。

今日私たちはミサの最初の集会祈願の祈りで、
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」このような祈りを捧げてミサが始まっています。
小さなことであっても私たちの日常生活の中では、随分目先のことに囚われています。そしてそこに、時間を掛けてしまうし、心にも煩わしさをたくさん作ってしまう”目先の事”がたくさんあるような気がします。小さな事から離れられずに、大きなストレスを抱え込んでしまうということもたくさん私たちの現実にあるでしょう。
目先のものへの執着。それは私たち一人ひとりにとって、どのような事でしょうか?いろいろ考えることが出来ると思います。人によって様々だと思います。
一つ挙げると、人間の強欲・欲望に繋がっている執着もあるかもしれません。また、健康や財産や名誉など、目先のことで煩わしさを抱え込んでしまう人もいるかもしれません。私たちの日常はそういう小さなものへの執着との闘いと言えるのかもしれません。
執着心、欲望と対照的な心の貧しさ・清さを表す清貧は、よく教会ではテーマとして取り上げられます。私たちにとってそれは理想と現実でもあるような気がします。

第一朗読では、知恵と比較して富や財産に対して話されています。神の知恵は私たちに生きる道を示すことが語られます。しかし、神の知恵は人間からみれば厳しい要求を突きつける場合もあるようです。
今日の福音の中では、”掟”をとおして一人の人がイエスと問答を交わしています。その人は「掟を守っています」と言いながら、神の教えをよく考えてみたら、どうだったのか?ということも問われる今日の福音です。
「永遠のいのちを相続し、神の国に入るためには何を行う必要があるでしょうか?」今日登場した一人の人は、イエスをつかまえてそう質問します。
いかに永遠のいのちが大切であるかということは私は最近よく口にしています。私たちは信仰を持っていると言いながら、どこまで永遠のいのちを目指しているでしょうか?永遠のいのちよりも、私たちの生活の楽しい面とか豊かになることや快楽を考えてしまうのが私たちかもしれません。
”イエスが道に出ていくと、この尋ねてきた男の人は走り寄ってひざまずいて”と、このような表現でイエスに質問をしようとしています。この表現には、この男の人の生真面目さや熱心さを感じます。でもイエスとの会話が始まると、最後は気を落とし、悲しみながら立ち去ったという結末に向かっていきます。なぜなのでしょうか?
イエスとの対話の最後に触れられいた言葉は、たくさんの財産をこの人が持っていたという表現になっています。資産家であった。富や財産を持って豊かな生活をしている人であったということがわかります。でも富や財産が永遠のいのちを妨げてしまうということもあるでしょうか。いろいろなことを私たちに黙想させてくるような今日のお話です。

私は今日の福音を聞きながら、そして黙想しながら、「戒めを全て守っています」と答えたけれども、神の教えを守っているか、ということを考えたときに、この男の人は自分の財産にしがみついて、隣人に対する思いやりや愛には、何も生かされていなかった、ということを感じます。そのことをイエス様は指摘されたのだと思います。
熱心に立派な信仰を持っていて、それを全て「果たしています」と言いながら、隣人に向ける心は欠いていた。私たちもそんな思いにかられていまうような気がするのです。
昨日のミサの中で読まれたルカの福音では、イエスが話をしていた時に一人の人が大声でイエス様を賛美する話なのですが、その人は「あなたのお母さまであるマリア様は、素晴らしい方です。何故ならあなたを生んだお母さまは神の母であるし、神の幼子がマリア様のお乳を吸っていたから」だと言いました。確かに私たちもそう思います。しかしイエス様がその人に答えたのは、まったく違ったことでした。「大切なのは神のことばを聴き、それを守る人である」と言われたのです。

今日の金持ちの男の人のように、ただ熱心な祈りを捧げるだけでは駄目だ、本当に教えを守っているのか?本当に神様が大切にする愛を見せているのか?隣人に対して愛はどうなのか?ということを問われるようです。
昨日の福音も今日の福音も私たちが大切にしなければならないのは、もちろん祈りも大切です。神に感謝し賛美し信頼することは大切なことです。でも隣人も同じように大切にしなければ神の道に入っていくことは出来ない、ましてや永遠のいのちを得ることは難しいということを話されているようです。
今日の福音の時代背景には、ローマの支配下にあって迫害が迫っているという状況があります。イエスは弟子達にも厳しく諭されています。神に仕え、福音のために生きるには、自ら進んで全てを捨てる覚悟が必要であると。まさにそのくらいの覚悟が必要だという時代の中にあってイエスはこの福音を話されています。

永遠のいのちの道はイエスに忠実に従う道ということであるような気がします。私たちはどこまで忠実にイエスの教えを生きているでしょうか?
今日改めて集会祈願の祈りをもう一度思い起こします。
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」イエスの教えを守り、そして生きることができるように、このミサの中でともに祈っていきたいと思います。』


2018年10月7日日曜日

年間第27主日

今日の典礼のテーマは「結婚と夫婦」について。
決して楽ではない日々の生活の積み重ねの中で、大切なことを見失うことがあります。
そんな時こそ神のことばに心を傾けましょう。

この日のミサは、佐藤神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音、そして来週の福音、これは続いているテーマがあります。私たちの日々の生活における福音と言えると思えます。今日は、結婚と離婚について、そして、子供のように神の国を受け入れることについて述べられています。ちなみに来週は自分の努力によって永遠の命を得ようとする青年と富の危険性が語られ、神の国に入るのは何と難しいということが語られます。   
 今日、登場するファリサ派の人々は、いつものようにイエスを陥れようとして質問をします。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いです。モーセ五書と呼ばれる律法の書がありますが、その中には離縁することについての命令というものは一切ありません。何もないと言うことは離縁してはならないということが基本、根底にあるわけです。「神が結び合わせたものを離してはならない。」ということです。そして唯一、申命記第24章1~4節に、離縁状を渡して離縁することが出来るとあります。今日の「聖書と典礼」の下にも、離縁につい書かれています。ただ、離縁状を渡せば離縁出来るというのは、離縁するためのひとつの条件にすぎません。離縁状を渡すだけでは離縁は成立しないということです。しかし、離縁状を渡すことについて、このファリサイ派の人々もちゃんと頭の中に入っていて、イエスの問いかけに答えています。
 当時のユダヤ社会においてはほぼこの条件だけで離縁出来る、離縁状を渡せば離縁出来るというのが当たり前でした。しかし、実はもう一つの条件が必要だったのです。それが、「聖書と典礼」の下に書かれています。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という条件があります。妻に何か恥ずべきことを見いださない限りは、離縁してはならないということです。ここを素直に解釈すると、妻に恥ずべきこと、例えば夫以外の男性と関係を持つとか、あるいは夫婦の関係が続けられないでいること、そういことも条件と捉えることが出来るかもしれません。もちろんこの場合は、離縁の条件となるものと思います。ところがファリサイ派の人々はもっと凄いことを考えました。「何か恥ずべきこと」これを「何か」と「恥ずべきこと」と二つに分けたのです。つまり恥ずべきことだけでなく、「何か」があれば離縁出来ると考えました。何かといえば、例えば料理がまずいとか、自分が呼んだときすぐそばに来なかったとか、そういうことだけでも離縁出来るとファリサイ派の人々は考えたのです。当時のユダヤ社会は、妻は夫の所有物であると考えられていましたから 、離縁するのは男性からしか出来ないと考えられていました。そのような中で、何かすれば離縁出来るという無理矢理な解釈がまかりとおっていたのです。ですからほぼ離縁状を渡すだけで離縁出来たということなります。女性に対してあまりにもひどいことをしていたのです。イエスはあなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだと言います。ファリサイ派の人々は自分たちの都合の良いように解釈し、 人々に押しつけていたことが分かります。

 ここで、ちょっと考えてみたいと思いますが、モーセがなぜ離縁状を妻に渡して離縁することを許したのかということです。彼女が再婚する際に、姦通の罪を犯さないようにするために、離縁状を妻に渡すようにと夫に命じているわけです。再婚するときにその離縁状があれば、正式に離縁したもので誰の妻ではないことを証明することになったということです。モーセ五書の中でそのような記述が元々そういう配慮があったということです。そういう配慮をまったく取り除いてしまって、ファリサイ派の人々はただ単に離縁状に署名すれば離縁出来ると解釈していたのです。当時のユダヤ社会では、女性、子供は男の所有物という考えがありましたが、 新約聖書の中にもそのような記述があります。イエスが弟子たちに五千人にパンを分け与えたエピソードがありますが、そこには男の数しか入っておらず、女性と子供は入っていない。
 ところが創世記の作者は、今日の創世記を読まれた箇所がありますが、女を単に男の所有物だとは考えていなかったことが分かります。彼にあう助けるものとして造られたということです。女性を造ったことによって男は本人として存在すると同時に、女という他者とともに一体として存在するものになりました。他者とともに存在するためには、お互いが人格的に自由で平等な人間であることを認めなければなりません。創世記の読まれた箇所はそういうことを根本的なこととして言おうとしているわけです。イエスもまったく同じです。「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」と言っています。神が最初から意図していたことを生きること、男と女が一体となって子供を産み育てていくことを目指していくことが大切なこととして、創世記でもイエスの言葉でも私たちは理解出来るわけです。

 福音の後半ですが、イエスは子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちは神が良いという相応しい成果を何も上げることが出来ない存在です。また、人々に尊敬されるに値する身分があるわけではありません。子供たちは神の国に入ることを可能にする唯一の特質と他者に依存するという関係のうちに持っているだけです。つまり子供たちは、神の国に入ることを自分たちには身に余るほどの恵みとして受け、素直に受け入れているということです。私たちにも、子供たちのような謙虚で素直な信頼をイエスに置くことが出来ますか、ということが問われているように思えます。
  最後にイエスは子供たちを私のところに来させなさい、妨げてはならないというイエスの命令があります。これは初代教会が、幼児洗礼を実践していた根拠になると教父たちは考えています。アウグスチヌス、ヨハネクリゾストモ、ヒエロニムスなどの教父たちは幼児洗礼を積極的に遅らせることに対して反対していました。それは両親の怠慢だと考えていました。救いのために洗礼が不可欠であると両親が信じていながら、自分の子供に洗礼を授けないというのは、両親の怠慢であると言うのです。自分の子供が大人になってから、自分で洗礼を受けるか受けないかを考えさせようというのは、洗礼による救いを信じて自らが洗礼を受けたことと矛盾しているというわけです。洗礼による救いを信じているなら自分の子供たちにも同じように洗礼による救いを与える機会を持つべきだと教父たちは言っています。
  私たちも是非、子供たちの洗礼の秘跡を遅らせることのないように、その機会を奪うことのないようにしていきたいものだと思います。今日の聖書の言葉の中から、私たちが日々の生活の中で、どういう態度をとって歩いていけば良いのかということが、分かるようになるのではないかと思います。』