2018年1月14日日曜日

年間第2主日

年間の典礼季節がはじまりました。今日の典礼のテーマは、神の呼びかけの神秘です。

第1朗読(サムエル記)では、主が少年サムエルに呼びかけられました。
そして、ヨハネによる福音では、イエスが最初の弟子となるアンデレとヨハネに「何を求めているのか」と尋ねられました。これは、ヨハネが福音書に記しているイエスの最初の言葉であり、彼らへの招きでした。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『年間の典礼季節に入っています。
 今日、私たちが聴いたヨハネの福音、B年の福音と違い、今日だけヨハネの福音になっています。毎年、年間第2主日の福音朗読は、ヨハネの福音が読まれます。来週からはマルコによる福音に戻ります。ヨハネの福音が読まれるためには、きっと何かそこに深い意味があるのだと考えます。共観福音書と違って、ヨハネの福音の序文は特別な内容で始まります。ヨハネの福音は創世記と同じように「はじめに言葉があった。」という書き出しで福音が書かれます。「はじめに言葉があった。」永遠の言葉の存在から書き記されるヨハネの福音の序文。そこから展開するヨハネの福音の物語。それは、イエスが神の子キリストであるという、真の信仰に導いていくものでもあります。
  「はじめに言葉があった。」という序文に続いて、1章の途中から特別な一週間の出来事が書かれています。その内容は、洗礼者ヨハネが登場したり、最初の弟子たちの召し出し、最初の奇跡であるカナの婚礼の出来事まで、最初の一週間の出来事だと言われています。そして、2章に入るとイエスの公生活に入っていきます。ヨハネの福音だけがガリラヤではなく、過越祭が近づく中での、神殿から商人を追い出す出来事、それはエルサレムで起こったという出来事で、ガリラヤではなくエルサレムでの公生活の出来事として語られています。そういう意味で共観福音書と違って、独特の書き出し内容で、福音でヨハネの福音は書かれているものです。

   今日のみ言葉は、その一週間の出来事の中の、三日目の出来事であるといわれています。イエスによって弟子たちを召し出している。その弟子たちとの最初の出会いを伝える場面が今日のみ言葉です。召し出しの内容に入っています。どんな状況で弟子たちとの出会いがあったのでしょうか。ヨハネは後にイエスに洗礼を授ける「洗者ヨハネ」と呼ばれる人ですが、弟子を持っている立派な人でした。熱心な信仰の人でした。
 この時、ヨハネの傍には二人の弟子がいたと書かれています。先生であるヨハネは旧約聖書のみ言葉を使って人々に悔い改めを述べる人でもありましたが、ヨハネ自身は自分の使命を自覚して、そのことに忠実に生きている信仰の人でもありました。いつの日か、救い主は自分たちの前に訪れる、現れる、そのことを信じて弟子たちを指導しています。弟子たちにとって尊敬する偉大な先生であるヨハネが、イエスを見つけて、指を示して「見よ、神の小羊だ。」と証言しています。尊敬する先生が 目の前でイエスを指さして言われたのですから、弟子たちは素直に日頃から教えを聞いているように、その救い主、神の小羊と言われた人に付いていく。私はこのように召し出しの場面を見つめています。

  この神の小羊という宣言、私たちもミサの中で何度も何度も繰り返す言葉です。私たちは神の小羊とどんな関わりがあるのでしょうか。私たちの信仰は神の小羊にどう繋がっているのでしょうか。あまり意識しないでその信仰を見ているかもしれません。深い繋がり、関わりを持っているのが私たちの信仰であるということです。聖書と典礼でも説明されているとおりですが、旧約時代から人々の救いのために、神殿で神に捧げられる犠牲の供え物、すなわちそれは生け贄の小羊を指し示しているものです。よくよく考えていくとそれはまた、私たちの購いのために十字架に架かるイエス自身を差し示しているということが私たちの信仰であるはずです。私たちの救いのために、私たちの購いのためのに、私たちを永遠の御国に導くために、この神の小羊は生涯をとおして御父を私たちに示して、十字架の道にまっすぐに進まれる方でした。この神の小羊をとおして、私たちは贖われ、罪の赦しを得、新しい命に生きる者としてくださいます。
 以前にも話したことがあります。私たちの祭壇の真上には、その神の小羊のレリーフが描かれています。もう皆さんは気づかれていることですが、今は煤で真っ黒になって、神の小羊か判断が付きにくくなっているのですが、こちらの傍に来て見上げると小羊であることが分かります。まだ、良く見ていない方は是非、ミサの後で前に来られ確認して欲しいと思います。いつも祭壇の真上に神の小羊のレリーフが私たちの教会にはあったんだ。ミサの中の祈りもこの神の小羊に繋がっているんだということを考えると、私たちはもっとミサの中の祈りも、キリストに繋がる羊に繋がる信仰の祈りもまた意識も変わってくるかもしれません。

  ヨハネはイエスを指し示して、神の小羊と呼んで、イエスは自分に従おうとして付いてきたヨハネの二人の弟子に振り向いて話されています。私はこの「振り向いて」と言う言葉に特別な感情を抱いて味わっています。敢えてイエスが自分に従って来た人に「振り向いて」というのはもっと深い意味があるのではと創造しています。自分の意志で振り向いて、確認してそして声を掛けてきた。あなた方は何を求めているのか。イエスはそうに二人の弟子に声を掛けています。ヨハネ福音書では、イエスが発した最初の言葉です。「あなた方は何を求めているのか。」そのことも深い意味を表しているのではと考えられます。誰を探しているのかではありません。何を求めているのか。

 多くの人は人生に何かを求めています。その多くは自分たちの欲望を満たしてくれる物質的なものかもしれません。でも、ヨハネの弟子たち、彼らが、求めているのは決して物質的なものではありませんでした。彼らは真実を求めています。救いを求めています。私たち人間の本当の真実、平和を求めています。彼らは先生と呼ばれる人の話を聞き、それを悟ろうとしていました。彼らの周りにはラビと呼ばれるたくさんの宗教的指導者がいましたが、まだ自分たちの問い掛けに、十分に答えてくれる先生はいませんでした。自分の先生が指し示した神の小羊の救い主イエスに対して、彼らはラビと呼びかけ、何処に泊まるのですか?と聞いています。イエスが泊まっているところ、自分たちに真実を伝えてくれるかもしれない。その先生が泊まるところに自分たちは赴いて、その先生から話しを聞きたい。真実を聞きたい。本当の平和を聞き出したい。イエスと膝を交え語り合い、親しく教えを受けたいと彼らは願っていたのではないでしょうか。この一連のやりとりに私は興味を持っていますが、流れに戸惑いも感じます。イエスと弟子たちとの会話。何を求めているかとの問いに、直接答えることなく、何処に泊まっているのか、という質問に変わっています。イエスは何処に泊まっているのか、具体的に答えることなく「来なさい。そうすれば分かる。」という答え方で導いていきます。もう少し具体的に会話が交わされていたのではないかと思いますが、聖書の言葉はポンポンと飛んで、具体的に示されていないような気がします。でも、そこに象徴的な深い意味が入っているのではと、黙想するとそうしたことに、その世界に入っていけるような気がします。

  彼らはイエスの泊まるところを見たとはありますが、イエスが泊まるところは本来ならば、父なる神との交わりによる天上の住まいであるはずです。イエスが答えた「来なさい。そうすれば分かる。」というその場所は、単なるこの地上の宿泊場所ではなく、イエスといっしょに過ごすことによって天の住まいが分かるようになること。また、父なる神の御心を悟るようになること。そしてやがて、弟子としてその心理を理解し、実践することが可能になるところ。そこがイエスの泊まるところであり、泊まるところの意味はきっと、留まるところであり、存在するところであり、生きるところであったとも思われます。何処に泊まっているのですか。私たちもそういう質問をしていかなけばならないと思います。信仰の目でみることができないなら、イエスの十字架の死は悲惨な死であり、否定的にしか受け取ってしまうことになります。信仰を十分に理解していなし一般の人は、イエスが十字架で亡くなった。そういうことに残酷さだけを感じます。でも、イエスの十字架の死は信仰の目で見れば、神の光の中で見るならば、人類を救うという偉大な力に包まれた死でもあるのです。
 ヨハネの福音はそのことに私たちを導こうとして聖書を書いていきます。見よ、神の小羊と指し示したヨハネの言葉。叫びは弟子たちだけでなくて、私たち一人ひとりにも神秘的な意味を持つ神秘的な言葉です。そしてそれは私たちの召命、召し出しにも繋がっています。信仰による召し出し。

 今日の第一朗読でも、サムエルの召し出しの話しが語られました。サムエルは神からの呼びかけを感じて、先生でもあるエリのところにいきました。エリは自分は呼んではいないよと答えます。今日の福音のみ言葉の中にも二人の弟子の召し出しが描かれていますが、そこには先生であるヨハネがイエスとの間に立っています。ヨハネは弟子たちをイエスのもとに行かせます。導きます。そうして考えてくると、召し出しというのは、必ずしも直接、神と自分との関係ではなく、人間、人が介入していることがあるということを指し示しています。皆さんが信仰に導かれたこと、そのことを考えるともしかすると、人をとおして教会に、信仰に導かれる人も大勢おられるのではないでしょうか。
  私たちの一人ひとりの召し出しも考えながら、一人ひとりが召し出しに答えるために人に
深い関わりを持っていることも大切にしなければと思います。私たち一人ひとりが友人、そうした人々を神のもとに導くきっかけを作っているということを忘れてはならないと思います。召命、召し出しは私と神との関係だけではなくて、私とほかの人々との関わりも召し出しに繋がっていくとうことを大切にしたいと思います。

 召し出しの大切な要素を三つあげると言われます。
 ひとつは好奇心にも似た問い掛けが大切な要素になるということ。イエスは何を求めているのかと問われましたが、そうした関心を持つことによって、召し出しに繋がっていきます。私たちの周りにいる隣人が何かそういう思いを持っているならば、それはひとつの大きなきっかけになるかもしれません。第二の段階は、キリストに従うことと言えるでしょう。弟子たちがヨハネの指示に従ってイエスに付き従ったように、キリストに従うこと、イエスに従うこと。従うことは大きな要素になります。さらに第三段階としては、主とともに生きること、ということができます。キリストを探し求め永遠の住みかにいたるまでキリストを探し求めるならば、キリストに従い生きることは大切になる。それが召し出しをさらに深めるということ。

 年間の季節に入りました。四旬節の始まる「灰の水曜日」まで第一段階の年間の季節になります。み言葉は日曜日に告げられる聖書の言葉は、イエスの生涯における様々な出来事を私たちに告げ知らされることになります。私たちはそのみ言葉に出会いながら、信仰を成長させなければと思います。主イエスとの出会い、そしてその言葉に従い、歩み続けることが出来るように、今日もまた、皆さんと心をひとつにして、主の祭壇の前に一致して祈りたいと思います。

2018年1月8日月曜日

1月7日(日)主の公現

明日の「主の洗礼」の祝日で降誕節は終わり年間の季節に移ります。
主との出会いを忘れずにこの一年を歩みましょう。

後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『「主の公現」の祝日を迎えています。
私は今、思い出に浸っています。かつてドイツの田舎町でクリスマスから「主の公現」の祝日のあたりまで冬休みを過ごしたことがありました。「主の公現」のミサが終わった後で、その教会の子ども達が数組のグループを作って、星を持った子供を先頭に3人の博士に扮した子供の4人一組で町に繰り出します。どんなことをするのか私にはさっぱりわかりませんでしたが、子ども達が教会へ戻ってきて初めてそれがわかりました。子ども達は各家庭を訪れて、貧しい人たちのために寄付を集めていたのです。その日教会に来られなかったり未信者の人も、子ども達の訪問を受けて、今日は「エピファニア(主の公現)」の祝日であると感づいたのではないでしょうか。日本ではこのような習慣は聞いたことはありませんが、私たち一人一人が主がこの世に現れた日、主が私たちの元に降りてきて下さったことを知らせるという使命を、このような行事を通してドイツでは大事にされてきたのだと思います。

主の降誕をお祝いした私たちは、クリスマスから降誕節という季節を迎えていましたが、明日の「主の洗礼」の祝日で降誕節は終わり、明後日からは年間の主日、緑の季節に入ります。クリスマスの喜びの気持ちも少しづつ遠くなります。主との出会いを忘れずにこの一年を歩まなければと思います。

聖書を読んでいると、ここ数日福音をとおして、もう既に年間の季節を表すような内容が入ってきていました。神の子羊と宣言したヨハネと出会い、またガリラヤの道で出会ったフィリッポにイエスは「私に従いなさい」という言葉をかけて、12人の弟子たちを選んでいくイエスの姿が福音の中で語られていました。

2000年前に生まれた幼子イエス・キリストを私たちは祝い続けていますが、そのイエスは私たちのためにもお生まれになった方だということを、私たちはどこまで心の中に留めているでしょうか。波乱のない静かな人生を送る人は少ないと思います。多くの人は人生の歩みの中でときには涙を流したり、苦労したり、絶望を味わうこともあるでしょう。でもそのような人の中に、幼子イエスは誕生します。そうした人々ともイエスは出会いをもたらします。そして私たちの中に生まれ、私たちの中で出会ったイエス・キリストは、私たちを立ち上がらせ慈しみの神の元へ、永遠の命の世界へと導く方であるということを忘れてはなりません。』

2018年1月2日火曜日

12月31日 聖家族

2017年最後のミサになりました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『私たちが、教会が「主の降誕」を祝ったのは一週間前のことでした。今日は2017年の最後の一日、それを日曜日(主日)で迎えています。年の瀬の影響でしょうか。この降誕祭のミサは、聖堂を溢れんばかりの参加者でお祝いをしましたが、今日はその半分くらいの参加者です。もうクリスマスの喜びはもう消えてしまったんだろうかと、そんな想いで入堂しました。きっと、忙しい日々に追われている方がたくさんおられるのでしょうか。
 皆さんにとって、今年の一年はどんな一年であったでしょうか。そんなことも考えます。どんな思い出が蘇ってくるでしょうか。様々な出来事をふりかえったり、悲しみや喜びを思い出したりされている方もおられるかもしれません。また、健康をそこなったり、あるいは健康を回復したり、一喜一憂する思い出が蘇たりする人もいると想います。

  先週、クリスマスを祝った私たちですが、ヨセフとマリアは子供をもうけて、ひとつの家族がそこに誕生しました。今日、教会はその三人で構成される、共同体である「聖家族」をお祝いします。三人一組の天上の三位一体に対して、聖家族は地上の三位一体と呼ばれることがある、そんなことを思い出します。父と子と聖霊は天上の三位一体ですが、ヨセフとマリアと幼子イエスは、地上の三位一体である。そして、地上の三位一体を教会は「聖家族」としてお祝いしています。皆さんは三位一体の御絵をいろいろなところで見てきていると思いますが、この地上の三位一体の聖家族の絵もきっと思い出されると想います。芸術的な絵には、聖母子にアンナが加わることになったり、聖母子にヨセフが描かれる絵であったり、地上の三位一体については様々な芸術的な絵が残されているようです。

  さて、今日のみ言葉は天使のお告げを背景にして、ルカの福音が語られています。聖書では八日目に天使から示されたように「イエス」という名前が付けられた後からが、今日のみ言葉で語られています。古来のイスラエルの習慣では両親は産まれた幼子を有名な、立派な老祭司やラビに抱いてもらって、祝福を受けることが習慣だったようです。でも今日のルカの福音によるみ言葉では、ヨセフとマリアは旧約の律法に従って産まれた最初の子供を神殿に奉献する場面が語られています。律法では、出産後40日目に清めの生け贄を捧げることになっていました。聖別を受ける規定もありました。ヨセフとマリアは旧約の掟に忠実に従って、貧しさの中にあっても、山鳩ひとつがいか又は家鳩の雛二羽を捧げる犠牲を神殿で行ったということが語られています。まさに、山鳩ひとつがいか又は家鳩の雛二羽を捧げたとすれば、本当に聖家族も貧しい状況にあった、そのことを示しています。忠実に旧約の律法に従ったということは貧しさの中にあっても、信仰と模範を私たちにルカは示しているのだと思います。
 この貧しい聖家族。でも、神殿においては正しい人で信仰の熱い、聖霊が留まっていた敬虔な老人シメオンの祝福を受けることになりました。このシメオンの素晴らしい姿を聖書は示しています。また、断食と祈りを捧げ仕えていたアンナという女性から歓迎を受けました。シメオンとアンナという老人二人はともに、幼子によって救いを先取りする喜びを味わっています。これはまさに二人が、正しく敬虔な人であった、それだからこそこの救いに加わるあらゆる人たちの先駆けとなったのだと想います。     

 核家族化が進む現在ですが少子化のことも話題にしています。聖家族と現在の私たちの家族の在り方、少しいろいろと黙想ができるようです。私たちの教会の中でも感じるようになっていますが、家族でともに祈っている姿は見えているでしょうか。皆さんの家族の中で、家族が揃って祈りを捧げる習慣は続いているでしょうか。昔は、良く家族で祈った話しを耳にしていました。子供は親と一緒の長い祈りに飽きてしまって、親に叱られたと言う話しも良く聞きました。私も神学生時代のことを思い出しますが、親の代から信仰熱心な同級生が神学校に入って来ていましたので、家族で祈ったときのいろいろな思い出を聞いたことがありました。ある年代になるとロザリオの祈りの先唱も役割として行ったという話しも聞きました。今、そういった習慣を持っている家族はどこにあるかなと、考えてもしまいます。夫婦で祈ったり、家族で祈ったり、そういうことは少し少なくなったような気がいたします。

  先日、司祭の会議があり、その中でも話題となり話し合いました。家庭での祈り、私たち教会が少し力を入れていかなければならないのではとの話しも出て来ます。家庭で祈る小冊子を作成したらどうかと検討もしていますが、現実的には祈りの本はこれまでたくさん発行されています。改めて作る必要があるのかそういう話しも出て来ました。喜ぶ人もいるでしょうが、また祈りの本が増えたと思う人もいるでしょう。少し時間をかけて検討しましょうということになっています。司教様も教区100周年の中のメッセージの中で、家庭の祈りについても少し呼びかけられました。でも、具体的には教会の中では、それについて深めて話し合うことは持たないで今日に至ってると思います。まず、私たち一人ひとりが自分たちの信仰生活、祈りの生活をもう一度しっかりと見つめていかなければ、ただ音頭をとっただけでは、本当の祈りが動き出すわけではないと私自身は考えてしまいます。
  聖家族を黙想するとき、現代の家族の多様な変化の中で、様々な家庭の崩壊ということもどうしても考えざるを得ません。家庭の祈り、家族の祈りと家族の崩壊が何らかで繋がっているような気もいたします。皆さんはどのように考えるでしょうか。

  明日には新しい一年の日を迎える元旦がやってくるとは私には実感がわいてきませんが、新しい一年の信仰の歩みを黙想しながら、新年を迎えなければと思いました。今日、聖家族を迎えた老人シメオンの姿も私たちへの信仰の模範を示しているのではないでしょうか。この幼子、嬰児をイエスのうちに、このシメオンは受難を暗示したようにも思います。聖書の言葉では「反対を受けるしるし」という言葉が使われ、幼子イエスを見つめるシメオンです。イエスの将来を見据えながら、共に苦しむことの大切さを私たちに示されているとも思います。十字架をとおして、受難をとおして、私たち一人ひとりを救われるイエスキリストの未来を、シメオンは心の中で悟ってイエスと出会っていたのではないでしょうか。
 私たちにとって信仰を持っているといいながら、神の愛を生きているといいながら、喜びをともにし一致することは容易なことではありません。家庭の中でも試練があるはずです。失敗したり、苦しみが突然起こることも、ままあることだと思います。苦悩をともにしながら、手を取り合い生きていることは、家族にあっても決して容易なことではないと思います。それは私たち教会共同体人一人にとっても同じ事が言えます。ですから私たちの信仰の歩みはけっしてなおざりには出来ません。もっともっと主に信頼しながら、私たちが歩むべき愛を黙想してそれを実践する努力をしていかなければと思います。

  皆さんも悲しみの中で、驚きの中でニュースを受けとめていたと思いますが、つい先日、我が子を僅か二畳のプレハブ部屋に15年間、隔離、監禁して、一日に一食しか与えず凍死した女性の方の記事が賑わっていました。33歳の娘さんですが、僅か19㎏の体重しかありませんでしたと新聞では報道されています。33年間生きた人の体重が20㎏に満たないということをどのように想像できるでしょうか。まして一日一食。水は管から飲めるようにしてあったということですが、信じられない事件で今日の朝刊にも載っていました。でも、これは私たちの生きている現実にもあることだと、もっともっと考えなくてはならないと思います。

  神の子イエスとマリアとヨセフの幸せな家庭を私たちは想像します。神を中心にして結ばれた家族を黙想しながら、現代社会にあって一人ひとりの生き方、そしてあるべき姿を真剣に見つめなければと思います。親として、一人の人間としてどう歩まなければならないのか。私たちが持っている信仰はどういう形に変わっていかなければならないのか。変えようとしているのか。
  福音に示されたように神殿に奉献したことは、両親にとって子供は神のものであるという宣言でもあるのではないか。「子は鎹(かすがい)」という諺(ことわざ)もありますが、子離れの痛みをとおして、親の心も広げられ深められていくことが言われています。親として、一人の人間として私たち一人ひとりが更に真剣に立ち向かって、神の子に相応しい生き方に結ばれたいと願います。

 一年の最後の日、聖家族を黙想しながら、見つめながら、この一年の恵みに感謝いたしましょう。そして来るべき新しい一年の歩みには、一人ひとりの使命が全うすることが出来るように、心を合わせてこのミサで祈りたいと思います。』

1月1日 「神の母聖マリア」

新年明けましておめでとうございます。
神の豊かな恵みに満ちあふれた1年となりますよう。

1月1日 「神の母聖マリア」の祭日のミサが、午前10時から勝谷司教様の主司式で行われました。
新しい年の始まりを感謝の祭儀で迎えようと、多くの皆さんが集い祈りを捧げました。

今日は「世界平和の日」です。
緊張が続く最近ですが、私たち一人一人が平和を祈り、その実現のための歩みを続けていけますように。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『ちょうど20年前に1年間の休暇をとってヨーロッパに向かっていました。途中の経由地としてコペンハーゲンで一泊することになりました。空港の近くの街でしたが、慣れない中、ホテルをとることができました。そこで、驚いたのは街が大変きれいだったのです。街並みの統一性がとられ、ゴミひとつ落ちていない。何よりも驚いたのは、着いたのが昼頃でしたので、どこかで食事をと、街中を歩いていました。そうすると、すれ違う人々がまったく知らないこのアジア人にあいさつをするのです。ようやく見つけた食堂でそれを話したのです。「みんながあいさつしてくれる。」何を当たり前のことを言ってるんだという顔をされました。このときの体験は、ずっと自分の心のアルバムにしまっておいたのです。

 そのアルバムが開かれたのは北広島教会に在任中のことでした。司祭としての生活は忙しかったので、移動手段は車でした。そしてあるとき何を思ったのか、今、飼っているボーダーコリーを飼ってしまったのです。自分の健康のためでした。あの犬は運動量が豊富で、犬との散歩で私の運動不足が解消出来ると想ったのですが、間違っていました。いっしょに歩く程度では、あの犬には運動にならないのです。走り回らないと運動にはならない犬でした。結局、ディスクやボールで思い切り走り回り、飼い主は椅子に座り動かない…後から気付いたのです。
 ともあれ、北広島教会にいたとき、犬の散歩に出かけることになったのです。すぐ近くに犬のドリームコースがありました。北広島市はヨーロッパのある街をモデルにした街づくりを進めていると聞いていますが、散歩道路の周りに施設や幼稚園、学校などが整備されているのです。そして、それぞれに公園が設置されていて、こういう街づくりをしていることに気付いたのです。
  そして、驚いたのは犬を散歩している者同士すぐに友達になれたのです。お互いの名前は知らないのですが、犬の名前は知っている。犬はオス、メスとは言わないで男の子、女の子と呼び、(人間は)○○チャン(犬)のパパ、ママと呼ぶのです。
  犬の散歩同士このように知り合いになれるのですが、更に驚いたのは、街を歩いている子どもたちが見知らぬ大人にあいさつをするのです。気持ちの良いものです。子どもたちとも知り合いになれる。幼稚園の園長もしていましたから、卒園後数年経ってもちゃんと街で会えばあいさつしてくれます。本当に居心地の良いものでした。北一条教会に赴任したときは、そんなこともなくホームシックにかかったような気分でした。それまで自分はどんな顔の表情をして歩いていたのだろうか。無表情、しかめっ面。でも、あいさつをされると本当に気持ちの良いものです。やがて自分の方からあいさつをしていくようになったのです。

  しかし、考えてみると一日誰とも会わない、笑顔を作れない生活をしている人がいたということに気付かされると同時に、多くの日本人、特に老人たちが一日誰とも会わず、会話もせず、笑顔もつくれない生活をしていることを感じたのです。
 そして衝撃的なエピソードがあるのです。ある教会に赴任したとき、家庭集会と繋がり、数ヶ月毎に集まりました。その集会には一人の老人が隣のブロックから参加していました。家族は信者ですが別に住んでいました。最初、数回は「何かお話しはありませんか?」と聞いても黙っておられました。三回目くらいにまた「何かお話しはありませんか?」と聞きました。そうすると「しばらく教会には行ってません。」「どうしてですか?」「足が悪く、夏はいいが、冬は雪が障害で行けない。」その老人が冬場に教会に来れないことを誰も気付いていなかったのです。同じ(隣の)ブロックにいながら、教会にも家庭集会にも車で来ているのですが。ですからちょっと寄って、その方を乗せて教会に来ることは、ごく自然のことと思うのです。でも、そのような老人がいたことは知らない、気付かなかった。
 結局、この老人は冬の間、教会に来れず誰とも会わない生活を強いていたのです。そして、その老人が加えた言葉は「私は教会に行っても、誰とも話すことはありませんでした。」その場(家庭集会)に居合わせた人たちは、自分たちの共同体とは何か、反省させられました。その時から、教会はあいさつをしましょう、名札を付けましょうと変わりました。システムとして、家庭集会や様々な集まりを持つことは大事なことですが、それよりもなによりも教会の中で私たちは笑顔で、あいさつを交わし合っているのか。自然な笑顔であいさつをされる。これは自分を受け入れてくれている、そういう実感を感じるのです。そこから、自分(たち)のことを分かち合うことが出来るようになるのです。教会の中で受け入れられていると感じることなく、でも、神さまは受け入れてくださっているというのは、少し憂いがある話しですね。私たちは教会に来て祈る時に、お互いに受け入れ合っていると実感しなければ、自分の居場所があるということを肯定出来なければ、そこは福音が実現していない教会です。

  私たちに出来ることはささやかなことです。今日の教皇様の平和メッセージですが、クリスマスの夜半ミサでは、その中の難民についてここからお話しをしました。私たちはその人たちに心を留め、何かをするように求められていますが、まず身近なところで何が出来るか。世界に溢れている難民のために何かしましょうと言われても、すぐに出来るのは祈りです。しかし、身近なところで私たちが出来ること、外に一歩出たときの始まりが、私は笑顔と考えます。今、身近な人に目を向けることになる。笑っていない人がいれば、どうぞ笑わせて。笑顔を大切にすれば笑顔を返してくれるようになると思います。そこから互いに何か出来るのではないか。そこに小さな働きかけや何かやろうとする歩み出した一歩を神さまが用いて、私たちに何かするように、私たちの思惑を超えたところに導いてくださる。そう感じています。
 
  まず私たちはこの笑顔を人に向ける前に、自分が愛されていると感じるためには、マリア様に祈ることが必要だと思います。神の母聖マリアは、遠くにあって女王の冠を被って鎮座されている方ではなく、私たちのお母さんとして私たちを包み込んでくださる方です。私たちに向けられている愛、その表情は私たちに微笑みを向けてくださっていると思います。それを具体的にイメージしながら、今私に向けられているあなたの微笑みを、私が会えた人に分かち合うことが出来るように。それを日々の祈りとして、日々出会う人々に、この笑顔を分かち合おうとする姿勢が世界を変えていく、何らかの働きかけとして導かれているのではないかと思います。マリア様の執り成しを願って、私たちをとおして世界に平和を実現していくように、引き続き神さまに祈りましょう。』

2017年12月26日火曜日

主の降誕(日中のミサ)12月25日(月)

日付が変わり、改めまして、主のご降誕おめでとうございます。
この日は平日にもかかわらず300名ほどの方がお祝いに訪れました。
また、ミサの中でもうすぐ1歳になる(27日)アンジェリーナちゃんの洗礼式が行われました。おめでとうございます!


それからクリスマスプレゼントでしょうか、今のキタラコンサートホールの専属オルガニスト、マルタン・グレゴリウス氏(ポーランド)がミサに与り、そのあとで即興的にクリスマスの音楽をひいてくれました。7月に当教会でのカテドラルコンサートが決まっています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主の御降誕おめでとうございます。また、初めて教会にお出で下さった皆さま。主の御降誕おめでとうございます。ようこそお出でくださいました。
 例年、この日は外部からミサ時間の問い合わせが多くなりますが、今年はいつになく多いと思っています。今年はそんな中、珍しい質問がありました。「クリスマスとはどんなことですか?」簡単な説明であれば、電話でもすぐに出来るのですが、十分に説明するとなると時間が必要です。是非、教会にお出でくださいと、お声かけしました。

 全世界のキリスト者と教会が祝うクリスマスについて、皆さまといっしょに少し考えてみたいと思います。主の降誕を記念する一日を私たちは「クリスマス」と呼んでいると思います。そのクリスマスは、昨日24日の日没から今日の日没までをお祝いする教会の行事として「クリスマス」とか「主の降誕」という言葉を使ってお祝いをします。教会の典礼という、祈りの季節を表す言葉がありますが、典礼としては主の公現を祝う日まで、その喜びの中に置かれます。教会のクリスマスは、街の中で行われる華やかなクリスマスとは違います。その本来の意味が教会では考えられるからです。
 キリスト教という宗教に深く結ばれた主の降誕をお祝いする祭日、お祝い。直接にはイエス・キリストの誕生日というわけではありません。イエス・キリストが何時産まれたというのは、古代から教会内部でも様々な説があるようです。例えば3世紀の初め頃、アレキサンドリアのクレメンスという教会の聖人は5月20日頃と推測した資料が残っているようです。実際に私たちは聖書でキリストの誕生をみていますが、新約聖書にも誕生日を特定するような記述は一切ありません。降誕祭とは別に西方教会では1月の6日にキリストの公現を祝う公現祭を持っています。公現祭は公にキリストがこの世に現れた、お祭りとして古くから祝われていたようです。実際に、誕生を祝うようになったのは、キリストが亡くなってから約300年が経過してから、初めて降誕を祝うようなことが起きています。遅くとも345年には西方教会で主の降誕を祝う資料が出てきてます。救いをもたらす神の子イエス、誕生し私たちのもとにきた。私たちを救うために十字架に架かり亡くなられた。その方の誕生を祝うことはとても大事なことです。今で言うキリストの誕生のお祝いがどんどん広まっていった。キリストが規模の光を届けるように、当時の祭りに結ばれて12月に祝われるようにもなったようです。12月25日を産まれた日として今日のクリスマスに繋がったようです。ですから24日は産まれた日としてではなく、2000年前の生誕を祝う日として24日、25日が定着したとのことです。冬至との関係があったようです。

  私たちは先ほど聖書の言葉を聴きました。聖書の言葉が3つ朗読されました。
 最初に読まれたのは、旧約聖書のイザヤ書でした。その内容は紀元前6世紀のイスラエルの歴史が語られました。イエス・キリストが誕生したエルサレムの町に平和が告げられていました。驚きを感じました。
 そして、第二の朗読では、この世界を創造された神が人類の歴史に深い関わりをもって、古い時代から新しい時代に移り変わる。そこにキリストが関わることを物語ります。キリストが誕生して始まる世界は新約時代という言い方をしますし、聖書では新約聖書というふうに使われます。
 3つ目の朗読は、ヨハネによる福音が朗読されました。創造主である神が言葉とともにあった。言葉は神であった。この言葉は旧約聖書に出て来る創世記の一番最初の内容と深く結ばれているお話しです。暗い時間より、光の時間が長くなる冬至にも関連するように、光となって人間の世界に降りてくるという、救い主イエス・キリストの誕生を告げる話しが、今日の最後に読まれたヨハネによる福音の内容になっています。

  光となって私たちの救いのために神の子であるイエス・キリストがこの世に誕生する。それがまさにクリスマスの意味です。一般の暦では新しい一日は深夜のの0時から始まります。0時を過ぎると新しい一日が始まると普通に理解していますが、キリスト教の世界では、ユダヤ教の教会暦が繋がってきました。ユダヤ教では日没から一日が始まり、日没で終わります。ですから12月24日の日没からクリスマスが始まって25日の日没で終わると言うことです。ですからクリスマス・イヴ(=24日日没)という言葉もここからきているようです。
 昨夜のミサではローソクに火を灯しながらお祝いしました。その時もイザヤ書が読まれましたが、「大いなる光が輝く」という唄で儀式が始まりました。イエスの降誕の光の輝きが私たち皆に輝き、ともに喜び祝うもの。まさに預言者イザヤの言葉は、いかに真実で理に適っていると驚きを感じます。紀元前の預言がまさに現実になった。さらに2000年経って、私たちは毎年祝ってます。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになりましたとイザヤは告げています。私たちもこのような喜び、楽しみを待ち続けてきました。この時期、プレゼントを贈る習慣があるようですが、私たちは「愛」のプレゼントを贈りたいと思います。

 さて、英語のクリスマスが一般的になっていますが、クリスマスはキリストのミサということでクリス・マスと言われています。日本語では「主の降誕(祭)」です。私たちはこのクリスマスの日をが心から喜び、主を心に 迎えて素晴らしい一年に向かうことが出来れば、私たちの世界は少しずつ変わっていくと思います。
 素敵な詩をを皆さんにお聞かせします。
「生まれる前は 母に待たれ  死ぬ前は 神を待つ
  この世に生きること それは  待って 待たれることばかり
  たとえ 誤解されたり、裏切られたり
   迷い、不安、孤独に苛まれても苛まれても
      身を委ねて 待つ
 ……そんなにあなたこそ待たれている  もっと大きな存在に
    (カトリック生活 2017年12月号 P7 おむらまりこ)
神さまに私たちは最終的に待たれているということ。

 このクリスマス、いっけん華やかなイメージが最初に浮かびますが、実際はそうではありませんでした。昨日の(夜半ミサの)司教様の説教でそうしたことが触れられました。人々を救う神の子のスタートは私たちの人間の常識では考えられない、煌びやかな神殿でスタートしたのではありません。この幼子の環境、スタートは貧しく冷たい飼葉桶の中から始まっています。驚きを感じます。世において、神にできない事はないというしるしがここにも感じます。

 今日の喜びの愛の灯を私たちの心に燃やし続けて行きたいと思います。私たちの心の中に光をもっともっと大切にして、自分だけでなく周りの人にもその光が照らされるように、祈りたいと思います。このことを家族にとっても私たちにとっても大いなる光であります。』

2017年12月24日日曜日

主の降誕(夜半のミサ)

メリークリスマス!
主の御降誕おめでとうございます!



午後7時から、主の降誕の夜半ミサが、勝谷司教様の主司式で行われました。
会衆が手に持ったローソクの火が灯る中、司祭が抱いた幼子イエス様が入堂し、救い主の到来を祝福するミサが行われました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日は初めて教会に来られた方、お見かけしない方がたくさんいらっしゃいます。本当にようこそいらっしゃいました。少し難しいお話しになりますが、ご容赦ください。

 先月、25年間続いていますが、毎年開催されている日韓司教交流会が、約25名が鹿児島でありました。毎回、その時々のテーマが掲げられますが、今年は両方の国で問題となっている「少子高齢化」でした。どんな取組をしているか話し会いました。その中でこんなエピソードがありました。韓国の司教はおよそ20名くらいお出でになっていました。韓国側のプレゼンテーションはある大学のシスターでした。現代の韓国の老人の貧困率の話しでした。何と5割を超えているのです。韓国の年金制度は充実していないので、韓国を支えた時代の人々の年金は僅かなものです。段ボールなどを集めてお金に換え、それで生活しているとの報告でした。そこで韓国側の何人かの司教は、その報告に異議をとなえたのでした。それはどこの話しか。教会をみているとそんなに貧困な老人は見あたらない。偽りのデータではないのか。これは国際的な機関の公表しているデータで、それをネットで調べたものだとコメント。そして、それに付け加えて言われたのは、司教様がたは教会の内側だけにしかおられない。実際に教会の外、社会に出て行かれていないから現実が分かっていないのではないですか、と。司教様は反論出来ず、ただ沈黙でした。

  これは韓国のことという捉え方でいられないのは、日本の現状だと思います。日本の社会はどうでしょうか。子供の7人に一人は貧困状態にあるといわれています。シングルマザーの世帯では50%以上が貧困状態にある。先日、バチカンの福音宣教省のフィローニ長官が日本に来ました。宣教国を統括する省の長官ですから、訪問する国の事情は事前に調べてお出でになります。日本の現状も良くご存知でした。そして、日本の国の信者の数が増えないことに関して、こう言いました。「皆さんはどこに向かって宣教しているのですか。皆さんが手を差し伸べるのを待っている人はいないのですか。」そのときに例にあげられたのは、『若者の引きこもり』でした。引きこもりは国際語になっています。あるいは自死の多さ。孤独に苦しむ独居老人や今述べた支援を必要としているシングルマザーのことにも触れられました。教会の周りにはそのような人はいないのですかと強く訴えられていました。

  しかし、私はもっと深刻な問題を感じています。フィローニ枢機卿が指摘されていたような人は教会の周りにではなく、教会の中にもいるのです。多くの場合、彼らが支援を求めるのは教会共同体ではなく、教会の外です。枢機卿の指摘はほんの一部です。そのほかにも将来に希望を持てない青年たち。メンタルの病をもち居場所を見つけられない人たち。障害を持つ子どもたちの将来を憂う親たち。日本の政策で制度の狭間に陥って慣れない外国生活を送る苦しい技能実習生たちがいます。実際に不当解雇を受けた技能実習生がおり、その支援が行われています。

 このように、様々なかたちで社会の片隅に追いやられて、小さくなっている人たちがたくさんいます。このような人たちは私たちのすぐ隣にいるのです。キリスト教の宣教とは聖書や教理を教えることだけではありません。第一には、このような人たちと関わりを持っていくことから始まります。必要なことは知識ではなく、共感する心と出向いていく意志。現在、カトリック教会では排除ゼロキャンペーンというものを行っています。教皇フランシスコはこう訴えています。「現在世界中では2億5千万人以上いる移住者と、そのうちの2千250万人の難民がいます。彼らの多くは平和を見出すために命を賭ける覚悟で旅に出ます。その旅は多くの場合、長く険しいものです。そして彼らは苦しみと疲れに見まわれ、目的地から彼らを遠ざけるために建てられた鉄条網や壁に直面します。戦争と饑餓から逃れて来たすべての人々。差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を離れざるを得ないすべての人々を慈しみの精神を持って抱きしめましょう。」
  先ほど読まれた福音書の中で、臨月を迎えたマリアとその夫ヨセフが宿を求めてさまよい、どこからも拒否されて家畜小屋で出産するエピソードが書かれていました。これが排除ゼロキャンぺーンに繋がるものです。排除ゼロキャンペーンは、現代におけるあらゆる排除されている人々、社会的弱者に目を向け、具体的支援をしようとするものです。特に先ほど述べた 難民を強く意識しています。旅の途中で臨月を迎えたマリアとヨセフ。頼る者もなく無情に断り続けられた彼らはまさに闇の中でさまよい苦しむ貧しい人々、難民の象徴です。
 では彼らを断った宿屋の主人は、意地悪で悪人だったのでしょうか。そうとは思いません。当たり前の普段通りの生活をしているからです。彼らにとってヨセフとマリアは特別なカップルではなく、宿泊先を求めても断られ、野宿を余儀なくされたその他多くの旅人の中に数えられる、顔も名前も知らない二人にすぎませんでした。まさに世界中に溢れている難民の中に「聖家族」がいるのです。何をしても二人の心を動かされないのは、彼らを調べ彼らは自分の世界とは関わりのない大勢の中の一人。つまり私たちがマスコミを通して世界を見るのと同じです。2千250万人という統計上の数字の中の一人に過ぎなくなっているのです。悲惨な現実に心が痛むと言っても、そのために何かをしようと自分を突き動かす力になりません。

  そうです。宿屋の主人たちは善良に生きて当たり前の生活をしている私たちです。こうして私たちは、知らぬまに私たちのドアをノックする救い主の家族を闇の外に追い出しているのです。社会の中で声を発することも出来ずにいる人々に寄り添い、その声を代弁することが教会の使命です。私たちは自分を決して傷つくことのない立場において、机上に集められる情報をもって世界を分析する単なる評論家になってはいけません。出向いて行って実際にその人たちと関わる必要があります。そうして初めて魂を揺さぶられる体験をするのです。テレビ等の情報は確かに共感を引き起こしてくれます。またすぐにチャンネルを切り換えることもできるのです。物知りな傍観者にはなり得ますが、なかなか自分自身を突き動かすものにはなりません。「貧しい人々のための世界祈願日のメッセージ」の中で、教皇様は次のように述べられています。「私たちは貧しい人々に手を差し伸べ、彼らに会って目を見つめ、抱きしめるよう招かれています。」つまり口先にではなく、具体的な行動が求められているのです。

 互いに愛し合いなさいと私たちは何度も聞かされています。しかし、知らない人を愛せません。出会わなければ知り合えません。自分から外に出向いて行かないと出会うことはありません。愛することは理屈ではなく、出向いて行って出会い知り合うことから始まるということを、私たちはしっかりと心に留めておきましょう。』


待降節第4主日

今年の待降節第4主日は、同じ日の夜に「降誕祭」を迎える日となります。
この日のルカ福音書は、主から遣わされた天使カブリエルがマリアの前に現れ、懐妊を告げる場面が語られました。


後藤神父様のお説教はただ今準備中です。

2017年12月17日日曜日

12月17日(日)待降節第3主日

今日の福音では洗礼者ヨハネが救い主キリストの到来を告げます。
1週間後はいよいよ降誕祭です。
洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、謙虚な心で主の降誕を待ちましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『「待降節は愛と喜びに包まれた待望の時である」と言われるように、神の子の来臨・主の降誕が近づいてきます。
今日の待降節第3主日は、昔から「喜びの主日」と呼ばれ、かつては司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を着ました。本日の入祭唱はその趣旨をよく示しており、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられます。
先週のマルコの福音では、イザヤ書に書かれている「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という言葉どおりに、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える場面が語られました。
今日のヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネが光として現れるメシアの証し人としてユダヤ人が遣わした祭司やレビ人の質問に答えています。ヨハネは荒れ野という光の届かない暗い世界から沈黙を破って「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と叫んでいますが、これは私たちの心に神を導くためでした。道を整えなければ、ヨハネがいくら主を案内したくても来られないということです。「道を整えよ」というのは心の中にふさわしく迎える準備ができたのかということと、へりくだった思いを持って、主を迎える祈りをしなさい、ということです。
今日のヨハネの姿に現れているのは、へりくだりの模範の姿です。ヨハネこそキリストだと信じていた人が大勢いたにも関わらず、人々が「キリストではないか?」と思われたとき「そうではない」と答え、人の誤りを自分の誉れとして用いる方ではありませんでした。
ヨハネは自らの試練の場である荒れ野に身を置いて、神だけにしか頼ることしか出来ない環境の中で、人間的虚飾を剥ぎ取りながら、神と純粋に交わり、神の中に身を委ねて生きたのです。見過ごすことの出来ない言葉として、私たちの心の中に響くヨハネの声は、真剣なる神の愛と思いの中でその神秘を生きたヨハネだからこそ、私たちの心に感動を与えるということではないでしょうか。私たちもヨハネの信仰と謙虚な心を見習う必要があるようです。待降節はそのような心の準備も大事にしなければと思います。

私たちはこの地上的な幸せの虜になり、目先の富に目がくらまされることがあるのではないでしょうか。自分の幸せや健康は大切なことです。しかしそれにのみに心を惹かれてしまうと、人を思いやる心や奉仕する心さえもだんだんと小さなものになっていくような気がします。便利な環境に囲まれ快適な生活に恵まれれば恵まれるほど、利己的な欲望に支配されてしまうことがよくあります。そうすると私たちは神を見失い、荒れ野の試煉と危険が迫ってくるのかもしれません。

ヨハネの呼びかけ、その声は、神の姿を見失いかけている私たちに向かって、もう一度恵みの世界へと呼び戻すことを真剣に呼びかけている声なのかもしれません。

来週の日曜日はもうクリスマスになります。
今日のみ言葉の中にもありました「はきものの紐を解く値打ちもありません」とヨハネは公言し謙虚な姿を私たちに示しています。その洗礼者ヨハネに倣って私たちも心を清めて待降節に向かいたいと思います。
「傷ついた心の闇に光を照らしてください」と、罪があるならば赦しを願いながら、謙虚に主の訪れを希望のうちに祈っていく一週間でありたいと思います。』

2017年12月10日日曜日

待降節第2主日 上杉神父様による「黙想会」

上杉昌弘神父様をお迎えし、主日ミサと黙想会「アドヴェントゥスにこそ“マラナタを”」が行われました。
降誕祭を迎える私たちにとって、心を見つめるよいひと時となりました。


上杉神父様のお説教をご紹介します。

『北一条教会には年に2~3回、聖香油ミサや金祝・銀祝のお祝い、叙階式などでお邪魔し、司教ミサに与っています。しかし、今日、プリンチパーレスと言うのですが、主司式司祭として祭壇に上ると不思議にいろいろな思い出や感慨が蘇ってきました。思えば、北一条教会でミサを捧げさせていただくのは、26年ぶりかもしれません。朝早く9時のミサは久しぶりです。北26条教会は(午前)10時半ですから、ゆっくりしていられるのです。もちろん、二ヶ月に1回花川教会に行くときは9時、手稲教会は9時半など…どうでもよいことですね…。

 私たちは間違いなく、今日、神さまに呼ばれてきました。教会と訳されるギリシャ語「エクレシア」は神さまによって呼び集められた人々、その集会を指します。神さまが本当にいらして、「わたしのもとに来なさい」と。一週間、神なしのこの日本の社会にあって、あなたたちは傷つき倒れているかもしれない、あるいは何を目的に何を望み、自分の生涯を何のために捧げて一日一日を生きるのか、それを見失っているかもしれない。世に染まってはいけない。神に祈らず、神に感謝せず、神を愛さずとも幸せそうに生きている人々を見習ってはならない、と。神は千人に三人といない私達信徒の信仰と祈りを通して、ひよっとしたら滅んだかもしれない地上の生活とこの国、私達の生業(なりわい)を支え、忍耐し待っておられるのでしょう。主の呼びかけに応えて私たちは応えます、「はい。主よ、わたしはここにいます」と。皆さんはこの日本に本当に千人の三人といない中から選ばれ、呼びかけられ、その招きに対し「アーメン(そうなりますように)」そう答えて、今日お集まりになられました。

  ミサは、典礼すなわちレイトゥルギア の翻訳ですが、公務、公の勤めとも訳すことのできる言葉です。わたしたちは神の国の公務員かもしれません。今日ミサの初めで、わたしの思い、言葉、行い、怠りによって度々犯した罪をお許しくださいと祈りました。主語は「わたし」でした。しかし、続く集会祈願の時には(この集会=カハルというのが教会と訳される)、主語が「わたしたち」に変わりました。私ではなく、私たち兄弟姉妹が痛み、病み、心の中の愛の灯が消えそうになる罪の喘ぎを告白しました。それを主がお聞きになって呼んでくださり、今日また神のもとに集まることが出来ました。わたしたち一人ひとりが抱えている重荷によって背が曲がり、その重みに耐えかねている時(重荷で背が曲がる、これが聖書でいう貧しい者=アナヴィ-ムの語源)、その時に主の声を聴く。頭をあげなさいと。あなたの前にわたしがいる。あなたに何が必要で、あなたが何を待ち望んでいるのか。自由か、解放か、慰めか。あなた達一人ひとりに必要なものをわたしは知っている。最愛の子キリストをあなたたちに今日も与えよう。あなたたちがこのミサの中で祝っているのは、我が子イエスがあなたたち一人ひとりをわたしに立ち返らせ、暖め、生きる者になるために、今日も愛によって自分を捨てること。わたしがあなたのために自分の命を捧げるよりも、最愛の一人息子の命がとられることのほうが、どれほど痛いことか。しかし、一人も滅びないこと(これが神のみ旨)、一人も滅びないで生きて感謝するようになる、笑顔であなた方が互いを赦し合い愛し合える心となるようにと、今日もミサの中で我が子は自分を惜しむことなく与える、と。

  第一朗読で慰めよ、我が民を慰めよとイザヤが呼びかけます。この2千4、5百年前の預言は、キリストにおいて今日実現しています。カトリック教会で行われているこの儀式は、単なる儀式に留まらず、主キリストがここにいて、わたしたちに手を差し伸べて、暖かい心で言葉をかけ助け起こしてくださると信じる時に、司祭の身体を通してキリストがわたしたちのもとにおられ、み言葉は実現していると。そう信じています。「慰めよ」と聞いた古(いにしえ)のみ言葉は、今日わたしたちのうちに実現します。わたしたちが心を閉ざされた自分の狭い殻から解放されて、広い心に移され、主イエス・キリストの心をいただくなら、今日いただく恵みと平和、慰めは、人々へのため。わたしたちがいかに愛するか、その道を知らない時でも、この一週間に閉じた心を開き、今日いただく恵みを分かち合わせてくださる。そう信じて、この素晴らしい秘跡に与りましょう。秘跡として訳されている言葉はミュステリオンすなわち神秘です。わたしたちが信仰の目を持って臨むならその秘められた大きな宝、恵み、道が見えるようになる。それがこの一週間、わたしたちが気付くまいと、ともにいらしたイエスが私たちにしてくださったみ業とみ言葉です。この秘跡に与っていきましょう。
  愛する人たち、このことだけは忘れてほしくない。ペトロは第二朗読でそう呼びかけます。
一人も滅びないこと。これが父である神の御心であると。しかし、この言葉を無視するならば永遠の滅びがこの地上に入りこみます。この私、愛する家族、群れすべて滅びないように。主よ、わたしたちに必要な糧をお与えください。

  福音書はマルコの第一章第一節から始まりました。マルコ福音書のイエス像は「神の子」これに尽きるそうです。ですから、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と断言します。この神の子イエスは、第一朗読で語られた小羊であることでしょう。「羊飼いが群れを養い、御腕をもって集めた小羊を懐に抱き、その母を導いていかれる。」父である神にとって小羊のようなイエスをわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは最後の信仰告白のときに、キリストのからだとなった聖体を示されこう応えます。「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い。・・・主よ、あなたは神の子キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう。」
  子羊キリストとは、あの出エジプト記の時モーセに率いられてその夜、エジプトを脱出する時に急いで屠られた小羊。その血はイスラエルの家の鴨居に塗られ、そこには災いが過ぎ越して行った。その古事に由来します。災いが過ぎ去りわたしたちを滅ぼさないために、キリストは小羊のように死に渡されました。わたしたちは知っています。災いではなく、神の子の命に生きる幸いをもたらすために、今日キリストはご自分を捧げてくださった。

 円山教会にいたころ、ある中学生が「神父様。あなたをおいてだれのところに行きましょうといつも言っているのですが、だれのところに行くのですか?」わたしは大声で笑いました。「あなたの素朴な質問は本当に正しい。神父さんはじめひょっとしたら大人の人も、ミサが終わったら神様を忘れて誰かのところに行っているかもしれないよね。一週間いっしょに家庭で祈ることも、神さまを忘れて祈らない日もあるでしょう。わたしたちはいつもイエス様に従っていかなければたった一人でこの地上を旅することはできない。その目的地をイエス様はご存知なのです。だからご聖体をいただいて、今日も旅をするためイエス様に従っていくんだよ。」と、お話しすることがありました。

  さあ、もう言葉はよいでしょう。沈黙のうちに、静けさのうちに、わたしたちの心と霊に
近づいてくださる主をお迎えしましょう。あなたこそ私の神。あなたを通していただいた洗礼の恵みによって、わたしたちも父の子、神の子となる。』


御ミサの後、黙想会が行われました。


『どうか皆さん、イエズス様と向かい合うひと時にしましょう。
この一週間、迷ったり、困惑したり、ため息を付くような日々だったのかもしれません。私たちがへりくだって「主よ教えてください」と待ち望んでいるならば、必ず立ち上がらせ元気に笑顔に戻してくださる神の言葉が与えられる、今日それをともに心に蓄え、キリストに一緒に聞いていきましょう。』

典礼聖歌集から、上杉神父様がお選びになった
「あなたの息吹を受けて私は新しくなる」
「主はわれらの牧者」
「主を仰ぎ見て」
を唱え、神父様のご指導により黙想を行いました。

黙想会が終わり、場所を移し茶話会の中で神父様とお話をしました。




2017年12月3日日曜日

待降節第1主日

待降節を迎えアドベントクランツのローソクに火が灯されました。
ミサのあとには馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行いました。
心を清めてクリスマスを迎える準備をしましょう。


今夜からイルミネーションが点灯します。


今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『教会はいち早く、新しい一年の始まりとなる教会の典礼暦「待降節」を迎えました。新しい歩みの一年を「こころの目を開いてください」と神の御心に従って歩めるようにミサの初めにも祈りました。
今日のマルコの福音のことばの中でもイエスが弟子たちに話されていますが、そこでも「目を覚ましていなさい」と三度繰り返されています。
現代の私たちが眠りから「目覚めなければならない」こととはどんなことでしょうか?
隣人愛を忘れた自己中心主義、利己的な生き方なのかもしれません。キリストへの信仰と愛、そして希望をもって祈ることが新しい一年の始まりの決意にしたいと思います。
今年の「待降節」は、今日から三週間で「主の降誕」となります。幼子イエスの誕生を喜び祝い、愛とやさしさのもたらされた救いが、今や地の果てまで全世界に広がっています。その主の降誕を一人でも多くの人々とともに祝うことができるように。
今日から、一人一人の心にローソクの火を灯すように待ち続けて、周りの人にもその光を分かち、照らしながら信仰の道を歩みましょう。』