2019年6月16日日曜日

三位一体の主日

この日のミサは、当教会出身の浅井太郎司祭(名古屋教区)が共同司式され、ミサの後「キリシタン時代」の講話をしていただきました。



この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ヨハネ16章12~15節】

『このキリストの言葉の中に三位一体の神秘の一つが隠されていると思うのです。父なる神がすべてを御子であるキリストに委ねて、御子であるキリストがそのすべてを聖霊に委ね、この父と子と聖霊は同じものだと言うこと。
  「愛の喜び」という使徒的書簡を教皇様が発表されて、その中で、夫婦の絆は三位一体の似姿であると書いています。夫婦だけでなくて、愛の絆のひとつの面が、三位一体の似姿であるとしたら、同じ絆をそれぞれの人が可能性として持つことが出来るということが言えると思う。その面についてちょっとだけ紹介したいと思いますが、その愛は洗礼を受けてキリスト者となってから初めて持つわけではなくて、創造のときの神の似姿としての一面ですから、キリスト者でなくても誰でも持つことが出来るし、実現することが出来るのです。
 古い思想家がこのようなことを言っています。「人間は愛なしに生きることは出来ない。孤立して生きることは出来ないからである。」と言っていますが、創世記の最初のところで、神様は人はひとりでは生きていけない。いっしょに生きるものをあげよう。その人の絆の中で、私たちは生きれる存在となるわけです。この絆の一面がこの三位一体の絆。この愛をなくして生きられないと言っている思想家が、同時にこういうことを言っています。指導者たちは町を治めるわけですが、一番何に苦心するか。それは正義の実現ではないと言います。愛の実現だと言います。どんなに正義がいきわたっていても、その町、国が分裂していたら国はたちゆかない。政治家が一番心を砕くのが和合一致なんだと言っています。古代のギリシャの国ですから大きな国ではないです。大きな国ではないにしても分裂していたら立ちゆかなくなっていく。キリストもそう言ってます。そういう和合一致をもたらす愛のひとつの側面について、彼はこのように要約しています。キリストの言葉みたいですが、「その愛する者のために、その相手にとって最善のことを願い実現するように。自分中心ではなくて愛する者が中心である、利他的な愛です。人を愛する、隣人を愛するといっても良いでしょう。」

 そして、一番最高なことは相手がいつまでも生きることを望むことですが、同時に同じようなものを選ぶ。相手にとって最善なものは自分にとっても最善ですから同じものを選ぶ、同じ時を過ごす、同じ感情を共有する、悲しめば一緒に悲しみ、喜べば一緒に喜ぶ、それが愛だと言うのですが、別の言葉で言えば「兄弟のような愛」といっても良いかもしれません。同じものを選びながら、相手のために、相手にとって良いことを願いながら、相手のために生きる。その面はある意味で三位一体の交わり、絆のひとつの面といえる。これまでも復活節のときヨハネ福音書をとおして話してきたが、それがある意味で私たちの絆の理想的な面ではないかと思うのです。実現するかどうかは難しいかもしれない。少なくても私たちが神の似姿として創られたならば、そういう能力を持っているはずです。三位一体の持っている能力の一部は完全でないにしても持っているはず。それを実現することは全く出来ないことではない。できる限りこの三位一体の愛の交わりすべてを相手に委ね、相手のために生きる。そういう姿を私たちの内に実現する努力は必要だと思うし、出来ないことではない。ただ、私たちはあまりそれを意識していないかもしれない。 
 この共同体の中でも、少しでも実現出来るように三位一体の神に委ねるように、日々努力していく必要があると思うのです。』

2019年6月9日日曜日

聖霊降臨の主日

私たちは聖霊を受けた時に、キリストの証人として生きる使命をおびています。

今日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今から十数年前に、東京の小教区で「聖霊降臨」を迎えた時に、ある女性から「今日は逆バベルですね」と話しかけられ、「あっ」と。創世記に出てくる「バベルの塔」のことだったのですが、そうだろうか?と思ったわけです。聖霊降臨の出来事は、同じようなところもあるし、違うところもあり、ある意味関連しているのかもしれません。

皆さんもご存知のように「ノアの方舟」の出来事の後に、ノアは神と契約を結びます。神は「この世界はどんなに駄目でもリセットはしない」と約束をして虹を架けるわけです。そして天地創造と同じ言葉を言いました。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。全世界に散らばっていきなさい」と。
新たな創造をということなのかもしれませんが、その後に「バベルの塔」のお話があるわけです。人間は神の言葉に応えたかというとそうではなかった。世界中に散らばるように、と言われていたにも関わらず、人間がしたことは何かというと、たとえ神であっても散らばらされないようにしよう、ということでした。これを見た神が人間を全世界に散らばらせたという話です。
どんないいことをしたとしても、神の意図に反することは、よくないことということで、神の創造の意図を実現させていくことが大切なこというお話です。

「逆バベル」と言った人に「何でそうなの?」と聞いたところ、バベルの塔では皆は散らばらされたけれど、聖霊降臨では一つに集めた、という理由でした。
確かに今日の集会祈願では、「きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。」とありますが、それだけではないわけです。続きでは、「聖霊を世界にあまねく注いでください。教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、今も信じる民を通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。」とあります。

先週の第一朗読「使徒言行録」を読むとよくわかると思うのですが、キリストが天に昇っていく際にこう語られました「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 と、全世界に行ってキリストの証人になっていくということを命じました。
この時に、ただ茫然と天を見つめていた弟子たちに天使たちが言うわけです。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」と、ボーとしていないで、今言われたことを実行しなさいと言ったのです。そしてそれが実行されたことを示すのが、今日の第一朗読で語られた五旬祭の出来事です。使徒たちは決して急に語学が達者になって、いろいろな言語を話せるようなったということではなく、聖霊の力で同時通訳がされたわけでもありません。
ここで、言わんとしていることは、ここに出てくる全域に福音が伝えられたということです。これらの地域はその当時の世界全域を現しており、実際に弟子たちの中には、遥か遠方まで宣教に行ったという伝説が残っています。今日語られた出来事は、使徒言行録の初期の段階で宣教が実際に行動に移され、様々な国で福音が伝えられたということを現しています。

この聖霊降臨が何を意味しているか。それは、この新しい命を受けて、全世界に新しい命を生むために散らばって行ったということです。ですから、別に「バベルの塔」の反対ということではなく、神の意図は”創造”時から同じということです。神のいのちを全世界に広めていくということです。
そういう意味では、私たちもそういう使命を受けているということです。どこにあってもキリストの証人として生きる使命を、私たちは聖霊を受けた時点で授かっているということです。』

2019年6月3日月曜日

主の昇天

「主の被昇天」を様々な視点から考えてみましょう。
この日のお説教のなかで湯澤神父様がお話されています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日は「主の昇天」ですが、福音記者が十字架とかいろいろ描くのですが、必ずしもひとつの面から描いているわけではないのです。同じ福音記者であったとしても 物事は必ずしも一面だけではない。皆さんも前面から撮った写真だけが皆さんの顔ではない。横から撮ったらすごく美人だとか、あるいは後ろからの方が良い場合もあります。一人の人であったとしてもそれぞれの面を持っているわけです。 

 例えば今日の御昇天にしても、けっして一面から捉えるのではなくて、いろいろな面から語られてくるのです。今日の第一朗読と福音は同じことを描いているわけですが、少し角度が違うのです。福音の方は昇天で終わるかたちで語られていますが、最後には「エルサレムに帰り、絶えず神殿で神をほめたたええていた。」この昇天をとおして教会の生活が描かれてくるのです。使徒言行録では2章で、別なかたちで語られてくるのですが、  第一朗読の使徒言行録は、次に聖霊降臨という出来事を控えて書いてありますので、そういうふたつに分けた書き方をしているのです。 使徒言行録の方は昇天について書いてあるわけですが、当然その後の聖霊降臨を見越して書かれていますから、「エルサレムから離れないよう。」にと言うわけです。

 そして、「聖霊を受けるよう。」にと書かれています。福音書の方はそのことには触れていないですね。ふたつに分けて書く必要を感じていなかったかもしれないですね。使徒言行録を見てみると、昇天の出来事があるわけですが、エルサレムに留まるようにとしています。ルカはエルサレムから新しい教会の動きが始まる。おそらくほかの福音を書いた人もそうだろうと思いますし、少なくとも実際エルサレムから始まると推測されるわけです。ただ、一度ガリラヤより引っ込んだ弟子たちが、どのようにしてエルサレムに集まったかというのは、なかなか議論のあるところです。ただ、ルカはガリラヤから始まってエルサレムに、エルサレムから全世界に行くという図式があるので、エルサレムが前面にでているわけです。このエルサレムからすべてが始まり、すべてが終わる、そういう感じです。

  聖霊降臨前に、その後のことも触れているわけですが、非常に面白いことは天使の言葉ですね。キリストが天に上げられたことは、共観福音書では神の栄光を受ける、あるいは全権能を引き受けるという意味がある。ヨハネと違うのです。ヨハネは元いたところに戻るという意味。例えば、墓のところでマグダラのマリアに現れて、マグダラのマリアはすがりつくのですが、「すがりついてはいけない。まだ、天に上げられていないから。」どうしても来たところに戻らなければならない。 共観福音書はそのようなことはないわけ。神としての権能をすべて受け継いでいく。そういうかたちになるからです。

 その意味で天に昇るわけですが、その後どうなるのか。このキリストが地上でしていたことを、弟子たちが受け継いでいくことになる。そのことが天使の言葉の中で強調されてきます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」という言葉ですね。 何気ない言葉ですが、非常に意味のある言葉ですね。平たい言葉で言うと「なぜぼーっとしているのですか。」というこですね。確かに天に上げられたことは素晴らしいことで、それを見上げ礼拝することは良いことなのですが、何か忘れていませんか。その忘れていることは何かと言うと、前のキリストの言葉ですね。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤ、サマリアの全土で、また地の果てまで私の証人となる。」ということです。
 ルカが言ったように、エルサレムから始まって全世界へと広がっていく地理的な広がりを描いているわけで、実際に使徒言行録を見てみると、エルサレムの活動の後、ステファノは殉教する。これを機会に弟子たちはサマリアに移っていく。7人の助祭のフィリポですが、サマリア宣教をするわけですが、それで終わりかと言うとそうではなくて、本当に瞬間移動のように聖霊に導かれて「ガザ」というところに行くわけです。まったく方向が違います。エルサレムから見たサマリアは北ですが、ガザはもっと南の方ですね。そこに連れていかれ、エチオピアの高級官僚に洗礼を授けるわけですね。出来事が続くわけです。 このエチオピアはその当時の地の果てです。エジプトの南で、エチオピアに行ったら地の果て。世界の広さはそんなところですね。西はスペイン、イギリスまで。東はインドくらいまで。だいたいそんな世界が彼らの世界。それよりも東西南北が広がっていない。 ここから見るとエルサレムから始まって、ユダヤ、サマリア、そして地の果てまで。

 このキリストの証人になる宣教が、そういうかたちで広がって行くわけですが、ルカはその当時のイメージを描いていますが、これに時間の軸を加えると四次元になるわけですが、現代に繋がってくるわけです。そのように捉えてみると、「なぜ、ぼーっと立っていのですか。あなたがたは全世界の証人になるのではありませんか。」この天使の言葉は現在の私たちにも向けられている言葉です。四次元のグループ。世の終わりまで福音を伝える使命をキリストの弟子は持っているのです。現在の我々はそれを引き継いで、さらに引き継がせて行く。次の世代に引き継いでいくのです。
 
 この広がりは単なる空間ではなくて、時間の広がりまで持って行くわけです。その意味で見るとこの天使の言葉「なぜ、ぼーっとしているのですか。」もしかしたら、私たちは「ぼーっ」としているかもしれない。何もしないのですね。「何か忘れていませんか。キリストの証人になることを。」
 そういう意味で何気ない天使の言葉ですが、天を見上げて立っているのですか。たしかに神を礼拝することは素晴らしいことですが、それだけではないでしょう。私たちはもしかしたらそれを重視していないかもしれない。もしかしたら忘れているかもしれない。
 私たちに受けられた言葉として受け止めていきたいと思います。』

2019年5月26日日曜日

復活節第6主日「世界広報の日」

精霊降臨が近づいているこの日の福音では、最後の晩餐での精霊を約束したイエスのことばが読まれました。


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日は復活節第6主日です。 復活の主日から36日目にあたります。 復活節は復活の主日から聖霊降臨の主日までの 50 日間ですから、少しずつ、聖霊降臨が近づいているので、 今日聖霊の約束に関連したところが読まれました。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したこ とをことごとく思い起こさせてくださる。」 これは力強い励ましのようにも思えます。
が、実際本当にイエスを証しすることが自分にはできるだろうかと不安になるところもあります。 弟子たちの間でも、最初、その不安は持っていたようです。 イエスがなくなった後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の戸に鍵をかけていました。 自分たちにも危害が及ばないようにと不安のうちにあったことが見て取れます。 彼らはイエスが生前に話していたことをすっかり忘れていたのです。
「心を騒がせるな。おびえるな。」 「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻ってくる』と言ったのをあなたがたは開いた。」 今日の福音に書かれています。 その通りにイエスは戻ってきて、おびえていた弟子たちの間に現れ、息を吹きかけて言われたのです。
「聖霊を受けなさい。」 そこから弟子たちは大胆にイエスを証しするようになるのです。
わたしたちは 2000年前の出来事を聖書で知ることができますが、この弟子たちの変化こそが聖霊の働きで あり、 復活したイエスとの出会いの中に始まったものであると理解し信じています。
でも、本当に自分がイエスを証しして生きて行けるのだろうかという不安は、だれもが持っているものだ と思います。 もし自分の力で何とかしようと考えたとして、誰にも相談せずに自分でいろいろ考えたとしても、不安は なくならないと思います。 弟子たちはどうしていたかというと、何か問題が起こったときにはみんなで集まって協議していました。 使徒たちの宣教で読まれましたが、これはエルサレム会議と言われるもので、使徒たちが集まった最初の 公会議と言われています。 これは教会の中で旧約の掟とイエスの教えの中で激しい意見の対立と論争が生じたため開かれたものです。 問題は、ユダヤ人が律法の掟として守ってきたことを、異邦人にも守らせなければならないのかという点 でした。 使徒たちは話し合いの上、次のように決めました。
「聖霊とわたしたちは、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」 異邦人はイエスを信じるにあたって、割礼を受ける必要はないということです。 ここで注目すべき点は、文書の中にある「聖霊とわたしたちは」という文言です。 聖霊の働きを強調している言葉です。
わたしたちだけで決めたことではない、聖霊の働きの上で決めたことであるという宣言です。 聖霊がキリストを信じる者の中で分裂しかかっていたものを、一つにしてくださったということが分かり ます。
わたしたちも使徒たちのように、様々な問題を自分で抱え込まないで、誰かに話すことで解決の糸口が見 つかるかもしれません。 あるいは大きな気づきが得られるかもしれません。 そのようなときに聖霊は働かれるのではないかと思います。

今日は世界広報の日でもあります。
教皇様は、「ソーシャル・メディアが出会いを促進するものであるが、一方で人々をさらに孤立させるもの でもある」ともおっしゃられております。 ソーシャル・メディアは便利なツールであり使い方によってはより多くの人との出会いの場となりますが、 一方で孤立や分裂が問題となることもあります。
「互いにかかわりあうという人間の本質を、ネット上においても、ネットを通じても確認しなければなり ません」と教皇様は呼びかけておられます。 特に若者の間では、全世界どこにいてもつながることができますので、ネットの世界だけにとどまってい る者もおります。 ワールドユースデーや高校生のエクスポージャーなどで出会った人たちが、それをきっかけにネットでつ ながるのはとてもいいことだと思います。 ですが仮想的なところだけにとどまることがないように、わたしたちは勧め励ましていかなければならな いと思います。 聖霊の働きにより平和と一致を願いながらこのミサを続けてまいりましょう。 』

2019年5月19日日曜日

復活節第5主日

今日の福音のキーワードは、「栄光」と「愛する」です。
キリストのみことばから、ヨハネが伝えたかったことを黙想してみましょう。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、キリストが弟子たちと最後の晩餐を祝っているその席上でのお話です。
この短い話の中でキーワードになるのは、「栄光」と「愛する」です。

「栄光」というと、何か輝かしいというイメージを持つかもしれないのですが、「現れる」という意味を持っています。
ですから、「人の子は栄光を受けた」というのは、キリストが神であることが明らかになる、キリストを通して父である神が、神であることを現すということです。

次に「互いに愛し合いなさい」というのは決して、好きとか恋しいとか、肉親への慈しみとか、そのような意味ではありません。ここで使われている「愛」というのは、どちらかというと「兄弟愛」というのが近いかもしれません。互いに同じもの同志が愛するということです。極端に言えば、「私はあなたであり、あなたは私である」という、言わば一心同体であるという意味合いです。

この意味の「愛する」という行為は、現代の教会では実現することは現実的には難しいことかと思いますが、この時代を考えるとあながち非現実的ではなかったようです。この時代は家庭集会のような小さな単位の教会だったからです。
しかし、現代の教会においては、このようなたくさんの人が集まり、隣の人も良く知らないような状況では難しいことかと思います。
しかし、ヨハネがキリストの言葉を切り取って、何を使えようとしているかを考えることはとても重要なことです。』

ミサの後、「教会総会」が行われ、今年度の取り組みが承認され、運営委員長と会計監査の改選が行われました。


2019年5月12日日曜日

復活節第4主日 ~世界召命祈願の日~

毎年この日は「よい牧者」がテーマになっています。
併せて「世界召命祈願の日」でもありました。

この日のミサは、佐藤神父様の司式により行われました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『ヨハネによる福音の10章は羊と羊飼いのたとえが述べられている個所です。このたとえはヨハネの福音にのみ描かれています。 この10章を3つに分けて毎年読まれています。 今年はC年なので10章の終わりの部分が読まれます。羊と羊飼いの間にある深いつながりを通して、イエスとわたしたちの間にある深いつながりを示しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」イエスの声をわたしたちはイエス様の声だとすぐ分かるのだということです。
 使徒言行録第9章で、イエスはパウロに呼びかけます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」 パウロはだれの声なのか、まだ、わかりませんでした。「主よ、あなたはどなたですか」と質問しました。パウロはそのときはまだイエスを信じていませんでしたので、誰の声か聞き分けられなかったのです。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と聞きました。イエスに呼びかけられたパウロは、回心し3日後に洗礼を受け、「イエスこそ神の子である」宣べ伝え始め ました。イエスを信じて洗礼を受けたわたしたちも、イエスの声を聞き分け、イエスの呼びかけに応えていく者となっているはずです。
 次にイエスは「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言います。わたしたちがイエスを知っているだけではなく、イエスもわたしたち全員を知っているのです。知っているというのは知識として知っているだけではなく、会って話したことがあるというくらいの意味で知っているということです。ですから、わたしたちはすでにイエスと出会って話をする間柄なのです。イエスがわたしたちを知っていてくださるのですから、これは大変大きな恵みではないでしょうか。
 イエスはわたしたちに永遠の命を与えてくださいました。わたしたちは滅びません。 滅びとは地獄に入ることです。「誰もわたしの手から奪うことはできない」「誰も父の手から奪うことはできない。」イエスに聞き従う人は、誰からも奪われることがないのです。ヨハネの黙示に示された通り、小羊であるキリストの血で洗礼を受けた者は、飢えることも渇くこともなく、神と共にいるようになるのです。

 今日、復活節第4主日は世界召命祈願の日と定められています。教皇メッセージの中で、「召命とは、網をもって岸辺にとどまるのではなく、イエスがわたしたちのため、わたしたちの幸せのため、わたしたちのそばにいる人の善のために考えてくださった道を、イエスに従って歩むようにとの招きなのです」と言っています。
 人はそれぞれ神から与えられた召命を持っていると思います。イエスの声を聞き、それに従ったパウロが、危険を顧みずに勇気をもって宣教していく姿を、わたしたちは第一朗読で見ました。
 わたしたちも神からの招きに応えて歩むことができるよう願いながら、そして司祭・修道者への招きに一人でも多くの人が応えることができるよう願いながら、このミサを続けてまいりましょう。』

2019年5月6日月曜日

復活節第3主日「ミカエル湯澤民夫神父様の主日初ミサ」

5月1日付 司祭異動により、前任の後藤神父様は、小野幌・江別・大麻・岩見沢教会の主任司祭(兼務)へと転任されました(居住は小野幌教会)。

今月から新たに、ミカエル 湯澤民夫神父様が主任司祭(北十一条教会、北26条教会主任司祭兼務)として着任されました。
湯澤神父様は、フランシスコ会の修道司祭であり、2017年4月に三軒茶屋教会から北十一条教会の主任司祭として着任されていました。現在、フランシスコ会札幌修道院にお住まいです。

この日は、湯澤神父様の着任後の主日初ミサでした。(勝谷司教、レイ神父との共同司式)


写真左から2人目が湯澤神父様、右端がレイ神父様

また、同じく今月から当教会の助任司祭として、レイナルド・L・レガヤダ神父様(レイ神父様)が着任され、この日のミサを共同司式されました。レイ神父様は主に英語ミサを担当されるということです。

湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『先週の福音(ヨハネ20・19-31)では、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのに対し、「見ないで信じる人は幸い」というイエスの返答で終わりました。このトマスの信仰告白は、ヨハネ福音書の序文にある「み言葉は神であった」と枠をなすものです。
ヨハネは、見ないで信じる人たちに向かって「幸いである」と呼び掛けているわけで、それはいわば私たちに向けて語られていると思います。
その「幸い」とはどういうものなのかということが、今日の21章で語られているわけです。ヨハネの福音には書いていませんが、このペトロ、アンデレ、そしてゼベタイの子たちは全員、漁師です。イエスはこの4人を弟子にするときに、「人を漁る(すなとる)漁師にしよう」と彼らに使命を与えました。そういう意味で、この漁というのは「人を漁る(すなとる)」ということと関わりがあるということです。そして、その漁に出かけるわけですが、何も獲れなかったという状況でした。
そこにキリストが現れて「網を打ちなさい」というと魚がたくさん取れたわけです。
いわば、この弟子たちの使命である福音宣教は、キリストの業として行われていくわけで、弟子達自身の業ではないということです。そういう形で使命が果たされていくわけです。

今日の朗読箇所で面白いところがあります。イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と聞くのですが、弟子たちは「ありません」と答え、それで魚を獲りに行くわけです。しかし、魚を獲って陸に上がってみると、既に魚が焼かれていてパンも置いてあった。何でイエスは「食べる物があるか」と聞いたのでしょうか?
この少し後で、イエスはパンを取って弟子たちに与えられた、魚も同じように与えられた。ということで、この出来事から連想できることは、第6章でイエスが五千人にパンと魚を分け与えたという出来事です。この話はずっと続いて最後は、キリストのご聖体と御血の話に繋がっていくわけです。

宣教というものは、ただ宣教したり福音化してそれでいいわけではなくて、このキリストの交わり・食卓に参加する、新しく加わった人たちと祭壇を囲むことで宣教は完成するということです。
そして、ヨハネの独特の考え方ですが、この集まった人たちは、一人一人個人的に密接にキリストと結ばれるということです。ですからここに、キリストとの交わりが出来上がっていく、宣教の最終的なゴールがあります。そしてこれは、ヨハネの第一の手紙の序文にあるように、この交わりは「父なる神とキリストとの交わり」ですから、その人たちの共同体は三位一体の交わりに加わる人たちとなるということです。
この出来事をとおしてヨハネは、キリスト者の一つの使命を語られています。皆さんももれなくこの使命を受けているということを忘れてはならないと思います。』

2019年4月29日月曜日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

活祭から早くも一週間が過ぎ、復活節第2主日を迎えました。
来月から札幌教区は新しい司牧体制がスタートします。


この日は後藤神父様の主日最後のミサとなりました。
5年間、大変お世話になりました。
有難うございました。


『今日の「聖書と典礼」の最後のページに公式祈願の味わいの解説が掲載されています。今日の公式祈願の意向には復活祭に洗礼を受けた人とともに、信者の上にも信仰の恵みを願う意向が入っています。今日はそのことを特に意識して、今日のミサで祈りを捧げましょう。また、わたしにとっても北一条教会の主任司祭としての最後のミサとなりますが、これまでの皆さんから寄せられた数え切れない恵みと支え、そしてたくさんのお祈りに感謝して捧げます。復活祭が終わり、重い腰を上げてようやく引っ越しの荷物整理に心を向け始めるのですが、とはいえ、心も手もなかなか動かない日が続いていました。お別れの挨拶を受けながら、少しずつ背中を押される気持ちでしたがあと数日となりました。復活祭を迎えたのに、いっこうに新しい歩みに向かわない自分がいるのです。それでも、蓑島神父さんと小野幌教会へと二度程、出かけて役員の方々と打合せをしたり、住まいとなる部屋を 見せていただいたりしながら思い巡らすことも多くなってきました。

 今日、いただいたみことばは弟子たちにとって復活の主を知った安息日と一週間後の復活した主に出会う場面です。考えようによっては、今のわたしにも似た状況に思えてきます。
 復活を祝ったわたしたちですが、いつも悲しみとどまらず、新しく出会うすべての人に信仰の恵みを願い、新しい地に行って、主の復活と福音を告げなさいと言われているような気もします。二度三度と小野幌教会を車で往復する道すがら、レンギョウの鮮やかな黄 色い花が目に飛び込んできます。桜の花も咲き始め日本人の心に穏やかな 気持ちを醸してくれますが、レンギョウの鮮やかな黄色・その色合いは復活の輝かしい色とでも言えるでしょうか、わたしの心の中までも明るく照らしてくれるようでした。

 心のふるさとの火災に悲しみフランスや多くの人たちがいます。復活祭に喜び祈っていた兄弟姉妹がテロで多くのいのちを失いました。「あなたがたに平和があるように」とイエスのことばが響き「罪を憎み、あなたが たにゆるす心がなければ平和は実現しない」と言われている気がします。この世界に生きるわたしたちには理解できない矛盾があまりにも多いので すが、神の恵みと力で愛することと赦すことを学び、「憎しみ」の連鎖が 消えてゆきますようにと祈りましょう。
 そして、信じない者ではなく「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白したトマス のように、「信じてイエスの名によりいのちをいただくことができるため」にも、毎日が復活の主と出会う私たちひとり一人の信仰の日々が続いてゆきますようにと祈りましょう。

 この北一条教会の皆さんと共に過ごした日々に心より、感謝いたします。(拍手) 』

2019年4月21日日曜日

復活の主日

昨夜の徹夜祭から一夜明け復活祭の朝を迎えました。
改めまして「キリストの復活」おめでとうございます。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『キリストの復活、おめでとうございます! 復活祭の朝を迎えました。待ちに待ったうれしい復活祭の日曜日です。
そして、洗礼を受けられた5名のみなさん、長い準備をしてお恵みにあずかりました。心よりお祝いを申し上げます。わたしたち教会共同体にとっても「復活祭」と共に新しい兄弟姉妹を迎えられる喜びです。おめでとうございます。
昨日は、「洗礼の約束の更新」をしたわたしたちでもありますが、復活したキリストの恵みと希望に満ちたいのちの輝きが、受洗者と共にみなさんの上に豊かに注がれますように。

典礼に関わり奉仕してくださり、この一週間、準備に明け暮れ少し疲れもたまってきた人もいることでしょう。毎日、事前の打ち合わせや準備がありました。神父のわたしでも一年に一度の儀式ですので、典礼儀式の細かな流れを忘れていることが多いのです。歌やオルガンにしても、十字架崇敬や聖体の安置異動、火の祝福、復活ローソクの祝別にしても聖堂から離れた場所で厳かにすすめるとすれば、典礼奉仕者のみなさんの準備と支えがなければ出来ないことなのです。ありがとうございました。 きょう一日、喜びに心弾ませて頑張りましょう。
侍者の奉仕をしてくださった子どもたちにも感謝します。毎日学校もありましたが、夜遅い時間まで笑顔で休むことなく奉仕してくださいました。 「昨日、声をかける」と、「学校では疲れるけれど、教会の奉仕は疲れない」と嬉しいことばが帰ってきたのです。みなさん、教会の子どもたちは何とも頼もしいではありませんか? 子どもたちを大事にしてください。

喜びの日を迎えましたが、聖書のみことばをもう一度、振り返ってみましょう。
親しい人びとの力ではどうすることもできなかった、愛する人イエスへの裁きは、残忍な姿を人目にさらす十字架の死という結果でした。
せめて遺体を引き取ろうとしたにもかかわらず、墓に着くとその石が取りのけてありました。「どこに置かれているのか・・・」と戸惑う婦人たちには、遺体がないことだけが、ただ心配でありイエスが復活したことは想像さえできないことで、茫然と亜麻布が置かれているのを見つめていました。

聖書を読み、聖書から物事を見つめて、この不思議な意味を知ることになるのですが、復活という出来事を当時の人はすぐには理解出来なかったのです。
泣いているマリアの後ろから、「マリアよ!」と呼びかける声で、その声の方がイエスだとわかったのです。
このことは、わたしたちが信仰生活をしていくことで、イエスとわたしとの関係を大切にしておくことがとても大事なことだと教えてくれているのです。神と出会うのは、みな個人です。一人の人間として神の前に立たされるのです。一人になる時に初めて、神とその人との交わりが生まれてくるのです。マリアはその関係を大切にしていたからこそ、「マリアよ」と呼ぶ声に気づいたのです。その呼びかける声は、生きている時のイエスの声 そのものでした。疑いもなくイエスは生きていると信じる事が出来るマリアとイエスとの関係でした。

わたしたちも復活の主に出会っているのです。困難や苦しみの中に立たされていても、たとえ自分の立っているところが墓場のような夢も希望もない所だとしても、墓が破られる時があるという信仰にならなければと思います。イエス・キリストの復活のゆえに信じなければならないのです。
苦しみに閉じ込められることなく、立ち上がり、新しい出発があるのです。
主の復活を新しい仲間と祝うと共に、信仰と信頼を再び取り戻して、心から一致して歩んでゆきましょう。』


ミサの後、奉納されたイースターエッグを後藤神父様に祝福していただき、皆さんにお配りされました。子供たちには特別に神父様からイースターカードのプレゼントがありました。



その後、会場をカテドラルホールに移し、復活祭と5名の受洗者方々の祝賀会、そして5年間お世話になった後藤神父様の送別会が行われました。

2019年4月20日土曜日

聖土曜日 復活徹夜祭

4月20日(土)午後6:30から、後藤神父様、地主司教様の共同司式により「復活徹夜祭」が行われました。


復活徹夜祭は、「光の祭儀」、「ことばの祭儀」、「洗礼の典礼」、「感謝の典礼」の4部からなり2時間以上にも及ぶ、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。

「光の祭儀」
会衆は聖堂に隣接されたカテドラルホールに集まりました。
最初に、復活されたキリストのシンボルである「ローソクの祝福」が行われました。
司祭により祝福された火は「復活のローソク」にともされ、そこから信徒の持つローソクへと移されました。


一同は聖堂へと移動し、高らかに「復活の賛歌」が唄われました。







「洗礼の儀」では、新たに5名の方々が洗礼の恵みを受けました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『長い四旬節の旅が終わり、喜びあふれる復活祭へと辿り着きました。 終点に辿り着いたようでもありますが、信仰の世界では終わりは始まりと よく言われています。復活は新しいスタートでもあり主イエスの復活の喜びと希望を胸に歩み出したいものです。この一週間は、復活祭の今日を迎える忙しい日々でした。
聖週間を迎え、札幌教区で働く司祭たちが集まり「洗礼志願者の油」「病者の油」聖なる香油」が造られる祝福祝別の聖香油ミサがあり、木曜日から始まった聖なる三日間は、弟子たちの足を洗ったイエスの姿を思い起こす「主の晩さんのミサ」に始まりました。昨日の聖金曜日は、ミサとは違う雰囲気の中、どの御像も紫の布で覆われたまま祭壇の飾りも取り除かれたまま、イエスの受難と十字架の死を忍びながら、沈黙のうちに厳かな夜を過ごしました。
主の受難、十字架の奉献・キリストの犠牲にあわせて「わたしたちも 犠牲を捧げます」という神の子として謙虚な心で信仰に立ち帰る日々が求められた長い四旬節が終わりました。
「光の祭儀」で始まり、復活賛歌が歌われる今日の徹夜祭は「すべての聖なる徹夜祭の母」と聖アウグスチヌスが言うように、古来の教会の伝統やその重要性においても、また典礼の美しさにおいても最高峰にあるのが今日の徹夜祭といえるでしょう。
神のことばの朗読は、九つの朗読があり本来、復活徹夜祭の本質的な部 分でありますが、司牧的理由で数を少なくしています。神が人類の歴史と啓示をとおして、どのように神の民を救ったかは旧約聖書の朗読で語られ、時が満ちて新約の時代にはいると、神の子を救い主としてどのようにお遣わしになったかを黙想するようにみことばは告げられていました。
ルカの福音では、イエスの遺体を墓に納めたものの、律法の規定で安息日を迎えて何もできないままでいたこと。マリアの他、イエスと親しい人たちはイエスのことを気にしながら、自分たちも殺されるかも知れないという不安の中で三日間を過ごしていたのです。時にやさしく、弱々しく見える女性ですが男性よりも強くたくましく力を発揮する姿は、聖書の中でも語られています。
誰より先に墓に駆けつけたのは、弟子たちにも負けずイエスを慕い、イエスを愛する人びとでした。深い悲しみの中にあっても、暗闇に放り出されたようなときであっても、愛すること、愛の力が新しい力、大きな力を発揮するのです。
愛こそ、キリストによって与えられた光であり、揺るぎない希望であり信仰そのものでもあります。現代の不安の中でわたしたちが最も必要としている大切なものでもあります。
わたしたちも主の復活を祝いながら、聖なる婦人たちや弟子たちのように希望を持って新しい信仰生活にむかって歩みましょう。 この後、洗礼式がありますが、新しい仲間を教会の共同体に迎えて、一人ひとりが隣人と共に歌うアレルヤの喜びの声がいつまでも心の中に響きますように。また、春の司祭の異動で宣教司牧体制も少なからず変化することと思います。新しい心で互いに祈りましょう。』