2019年10月13日日曜日

年間第28主日

今日の福音(ルカ17・11-19)は「イエスこそ、メシア ”キリスト”である」という信仰を私たちに改めて教えてくれています。

主日ミサは、湯澤神父様が司式されました。


湯澤神父様の霊名「聖ミカエル」の記念日から2週間も経ってしまいましたが、この日のミサの「派遣の祝福」前に、教会からのお祝いをお贈りしました。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『この日の福音(ルカ17・11-19)は、「イエスはエルサレムへ上る途中」という設定で始ります。これは、十字架へ向かって歩んでいく途中ということを示しており、キリストの死と復活に向けて方向付けられている中での一つの出来事になります。

「重い皮膚病」とは、主にハンセン病を指すわけですが、これは今年、国が政策の誤りを謝罪したことにもなっています。
イスラエル人たちと、私たち日本人は、元々この病気に対する見方が全く異なっていたわけです。同じ人類なのでこの病気はどこにでもあったはずなのですが、日本人はこれを遺伝する病気と捉えたわけです。そのために以後、非常に大きな不幸を生んでいくことになっていきました。1950年代の初めには、アメリカから治療薬が届きこの病気は”治る病気”になり、伝染することもなくなりました。
今から2,30年前に、これらの施設の一つに子供たちを連れて訪問したことが何年か続いたことがありました。そこにいた人たちの言っていた言葉は、「私たちは自由になり、海外旅行でもどこでも行けるようになりましたが、唯一行けないところは自分の家族のところです」というものでした。相変わらず家に帰ると、あそこの家族はこの病気を出した、ということで差別や偏見の目で見られるということになったそうです。このような悲しい話を子供たちの前でもしてくれました。

一方、この病気について、イスラエル人たちは遺伝とは考えませんでした。カビと同じように空気感染する病気だと考えたようです。ですから今日の福音の箇所でも「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま」と書かれているように、家の中では2~3m 人と離れていなければならないし、屋外だと風があるので20~30m 離れるというのが約束になっていたようで、また鈴のような物を身に着けて周りに分かるようにしていたようです。ベンハーという映画でもそのようなシーンがありました。
このように聖書の時代には、このような人たちは隔離されずに日常生活をおくっていたわけです。しかし、ただ単なる病気ではなく、宗教的にも汚れたもの、救われないものとして扱われました。旧約聖書の律法を見るとわかりますが、汚れた者として、”交わり”から排除されたわけです。もし仮に病気が治ったとしたら、司祭の前で治ったことを宣言してもらわないといけないし、いけにえを捧げなければならないというのが、旧約時代の規則になっていました。
そういうわけで、重い皮膚病の人たちは、イエスから20~30m 離れたところから大声で「憐れんでください」と叫んだという状況だったということです。

マルコによる福音の奇跡物語に最初に登場するのが、重い皮膚病に対するキリストの癒しになります。この場面では、キリストは皮膚病の人の所まで”行って”、触れ清めています。もちろん触れることで自分も汚れるわけですが、あえてイエスは汚れた人たちの所に出向いて行って、触れて、そして癒したのでした。ここが、当時の他の宗教家と違うところになります。普通の宗教家、洗礼者ヨハネもそうですが、清さを保つために汚れから避けるように人々から離れているわけですが、キリストは逆に出向いていったわけです。

今日のお話では、そこまでしてはいないのですが、イエスは「(律法に従って)司祭たちのところへ行って、(治った)体を見せなさい」と言われました。そして、彼らは祭司のところへ行く途中で癒されたのですが、その中の一人だけしか、イエスのところへ戻って来ませんでした。このことに対して、イエスは「ほかの9人はどこにいるのか」と言われましたが、これは決して、他の9人の”恩知らず”を非難したわけではなかったのです。
癒された残りの9人も、重い病気が治ったことに対して、神に賛美を捧げることは人間として自然なことです。ですから、この9人も当然、宗教は違っても神を賛美しただろうと考えられます。
しかし、ただ一人戻って来たこのサマリア人が、彼らと違うところはどこかというと、”キリストのところに戻って来た”という点になります。これは、この民が”十字架に向かっている”ということと無関係ではありません。十字架に架かってキリストはメシアとして殺されていくわけです。そして、救いの業を完成させていきます。そのことを念頭に置くと、癒されたことに対して、神に感謝して、いけにえを捧げたりすることは、自然なことかもしれませんが、ただ一つだけ違う点は、その救いが”キリストを通して為される”ということに気付いたかどうかです。
この癒しが、”キリストを通して癒されていった”ということに気付いたのが、このサマリア人一人だけだった、ということです。
どのような人でもこのような癒しを受けると、神に感謝することはごく自然のことだろうと思いますが、本来の救いが”キリストを通して為される”ということに気付く人たちは、そうはいないということです。逆に言うと、キリストこそ私たちの救い主であって、救いを実現される方だと気づくことは、今日の現代社会にあってもキリスト教徒が少ないように、気付く人も少ないわけです。それはとても幸いなことだろうと思います。

そして、他の人に信仰がなかったわけでもないし、それでも救われるわけなのですが、しかし、この救いがキリストを通して実現するという「その信仰こそ、あなたを救う」と言ったこのキリストの言葉は重要なことです。
そして、それはルカが描いているように、彼らの描くメシア像ではなく十字架をとおして示される新しいメシア像です。この”キリストの十字架を通したメシア”=キリストという言葉は大きく意味が変わっていきます。そして、あたかもイエス・キリストといわれるように、”キリスト”はイエスにだけ使われるような言葉となっていくわけです。

この新しい意味での救いの実現は、キリストを通して行われ、そのキリストに対する信仰こそ私たちを救うものである。十字架の上では、もっとはっきり「今日あなたは、わたしとともに楽園にいる」と盗賊に言われたのと同じように。
私たちが、どこに信仰を持って立っているかということが問われます。それを今日の物語は私たちに教えてくれているのではないかと思います。
そのような意味で私たちは、この信仰を強めていかなければならないと思います。
先週の福音は、使徒たちが「信仰を増してください」という言葉で始まりました。
その信仰は、「イエスこそキリストである」という信仰です。
私たちの信仰がどういう信仰であるか再確認していきたいと思います。』

2019年10月7日月曜日

年間第27主日

この日の福音(ルカ17・5-10)でイエスは、信仰を増したいという使徒たちに対し「からし種」一粒ほどの信仰があれば十分だと答えます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『先週は金持ちとラザロのたとえ話で、その後これが続くわけで、少し唐突な感じがしないわけでもないです。「聖書と典礼」の脚注に『「1日に七回ゆるしなさい」という言葉に続く箇所。ここでもイエスは弟子たちのあるべき姿を教える。』と書いてありますが、ちょっともうひとつ抜けていますが。
 つまづきにならないようにということ。キリストの弟子たちのグループの時代から、教会が始まって今日に至るまで、教会の中の信者がいかに、信者にとってつまづきということが、日常的ということが分かります。そういうつまずきを与えることによって、信徒は教会から消えていく。それについて語っているのです。罪とは何か悪いことをしたわけではなくて、神との関わりを断ち切って、兄弟の交わりを断ち切って、共同体から抜けて行く人たちです。その原因はこのルカ福音書では、同じ信仰の仲間だというわけです。そういうつまずきにならないように。そういう人たちが戻ってくるならば、何回でもいいから迎え入れるようにというのです。そして戻ってくるように働きかけるように言うのです。

 その後に続くのが今日のこの箇所です。使徒たちはその教会の現況にあって、信仰が欲しいと言うわけです。信仰を増してください。そうするとキリストは、ほんのちょっとの信仰があればそれで十分だと言うのです。ひとつのたとえです。からし種と木が海に移る。別に信仰によって木が移るかどうかマジックの問題ではない。からし種という小さな信仰と大きな業と比喩的に極端に比較しているだけ。信仰があれば木が移る、そんな問題ではない。ほんのちょっとの信仰があれば、そういう共同体の中の困難を乗り越えることが出来るということ。そんな中にあって、脚注にあるように弟子のあり方を説明する。これがその次の箇所になっています。

 ごく身近な例をキリストはあげます。ある使用人がいます。普通の豊かな人。ラザロの話に続くのですが。使用人は畑で働く、あるいは羊を飼う。その仕事が終わって帰って来た時に、そこの主人はよくやったねと、食事の給仕をして、ご馳走するかというとそうではない。まず、使用人ですから、私が食事をするから世話をしなさいと言われます。それが終わったら食事をしても良いですよ。普通の情景がここで描かれます。
 その使用人が主人の前で誇るだろうか。感謝してもらうことがあるだろうか。果たすべき仕事を果たしただけにすぎない。別に謙遜を教えているわけではない。道徳の問題ではない。信徒の信仰のあり方のことで、個人的な道徳を語っているわけではない。
 信徒はどうなのかということ。ここだけですと分かりません。分かりやすく話をすると、
30年前くらいヨハネ・パウロ二世が「信徒について」という使徒的書簡を出しました。
その中では、最初に信徒について、次にその2年後に司祭について。その2年後に奉献者についてと3つの使徒的書簡を出しました。信徒についてはキリストに忠実な人 「CHRISTIFIDELES LAICI」という言葉で始まりますが、日本語の訳のタイトルは「信徒の召命と使命」です。
  余談ですが、昨日、北26条教会の運営委員会がありました。六甲学院の吉村信夫教諭を講師に今年2回信徒養成講座がありましたが、その吉村さんを迎えて、この度12日(土)に北26条教会で研修会を行うことになりました。そのタイトルが「固有の召命」
となっています。そこで、何でこのタイトルになったのか質問がありました。そうですね、普通、召命というと司祭とか修道者の召命になるので良く祈ってます。自分に関係ないですね。しかし、それは特殊な例です。司祭とか修道者の召命は本当に一部の特殊な例であるのですね。でも、召命は本来は信徒の召命です。ヨハネ・パウロ二世が出した書簡も信徒の召命がタイトルなのです。そこで、モデルになっている聖書のお話は、マタイ福音書のぶどう畑で働く労働者のたとえなのです。賃金を払う方ではなくて前半のほうですね。
朝6時に主人は広場に行って労働者を集めるのですね。1日1デナリオンでと。労働者たちは主人に呼ばれてぶどう畑で働くために呼ばれたのです。9時にも12時にも、午後3時にも5時にも行って。5時にはなにぶらぶらしているのとその話が続いていきます。信徒はそのように神によって呼ばれて、ぶどう畑で働く使命を受けている。これが召命です。
 
 ですから洗礼を受けた時点で、神から召命を受けて使命をうけるのです。それが畑で働き羊を飼う、その主人によって畑か羊に送られていく。そして使命を果たし帰って来たときに、俺はやったぞと誇れるのか。ただ、言われたことをやっただけだ。それを誇って何が素晴らしいことをやったのだと主人に、そういうもんじゃない。畑で働くか、羊を飼うか、そういうふうにひとり一人の信徒が呼ばれる。洗礼の時に呼ばれる。どの信徒も呼ばれて、その使命を果たして帰ってくる。そのときに、私は使命を果たしただけ、これが信徒のあり方、キリストの教えなんです。謙遜や道徳の教えではない。信仰そのもののあり方が、ここでは問われている。昨日の運営委員会で、そのように信徒はまったく考えていない。講師がどのようにお話するか分かりませんが。しかし、良い機会だと思っているのです。

  この召命というのは本来は信徒なのです。洗礼で使命を受ける。そして派遣される。
北26条教会ではこの前、高校生が3人堅信を受けたのですが、受ける人が自覚しなければならないことです。子供のときに洗礼を受けているが、召命を受けていることも分からない、使命を受けていることも分からない。その勉強をしたわけです。リーダーの方々もいっしょに勉強したわけ。非難をしているわけでないのですが、感覚的に分かっていない。ほかの人、大人の信徒の人も分かっていない。皆さん一緒に堅信を受ける人と同じことを学んでいきましたが、ここではそういうことが言われているんです。共同体の中にあって、いろんな問題があります。その時、信仰さえあれば、そういった信徒たちに対して、信仰のあり方、ひとり一人が神から呼ばれている。そしてひとり一人がが使命を果たしている。果たしたときに、それは言われたことをしただけであって、それ自身、当然誇るべきことではない。キリストはそう言うわけです。

 私たちひとり一人、そこまで到達していないかもしれない。今日そのことを分かって自覚して、それぞれ信徒として神から呼ばれたことの使命を果たして、その場は皆さんの日常生活、特別なこのような教会の場ではありません。日常生活の中で呼ばれている信徒として、その使命を果たしていく。このキリストのあり方、キリストが教えている信徒のあり方、信徒のあり方がわたしたちが出来るようにしていきたいと思います。』

2019年10月3日木曜日

守護の天使(記念日)10月2日(水)

カトリック北一条教会の聖堂名でもある「守護の天使」の記念日のこの日、18時半から森田神父様とレイ神父様の司式によりミサが行われました。


森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『ひとり一人に守護の天使が付けられているというカトリックの教えですが、同時に聖書にも第一朗読、福音書にもこのように書かれて、これも聖書の教えであることがいわれています。また、天使はもともと姿はないですね。羽のついたあの姿は、神々しさとか清らかさを表していますが、実態としては肉体のない霊、貞淑なる霊、人間より優れた霊ですが、日本でも守護霊という言い方がありますが、ちょっと似ているかもしれません。ひとり一人に思ってくれる天使。良い霊、神様からの霊がいらっしゃる。私たちはこのことを感謝したいと思います。
 神様は天使に命じて、ひとり一人を守らせますので、天使が守ってくださっている意味は、同時に神が守ってくださっているということ。そして、毎日の生活の中でいろんな不安や心配があるときに、その場その場で守護の天使に祈る。そういうことをやることも良いと思います。私たちも具体的に毎日いろんな場所で、心配とかあるわけですから。守護の天使そして保護の聖人に祈ることは、とても良いことだと思います。
 また、同時に彼らの天使は天で神様の御前にいらっしゃる。ですから、私たちのことも全部天使が報告してくださるみたいな感じでいます。隠れて私たちが知られずに苦しんでいることや何かがあっても、天使は知っていて神様に報告している。私がどういう苦しみを受けているか、悩みがあったり。報告するときならず、いろんな誘惑やいろんな罠にあたって、守護の天使がいつも戦っている。私たち人間も当然戦いますが、悪の誘惑や攻撃に対して、同じほどの動力をもつ天使がいつも戦って人間を守っている。
 ですから、私たちはその守護を与えられていることを今日、改めて思いながら神様に感謝し、守護の天使に祈り、あるいはより頼むようにしていきたいと思います。』

2019年9月30日月曜日

年間第26主日「金持ちとラザロ」

この日は聖ミカエルの霊名記念日を迎えられた森田神父様の司式によるミサでした。
ミサの中で、森田神父様へ霊名のお祝いをお贈りしました。


森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音(ルカ16・19-31)は「金持ちとラザロ」のお話です。
特に金持ちが悪いことをしたわけではなく、門前にいるラザロを顧みなかったというのがここで問題になったことだと思います。死後の世界では、金持ちと貧しい者の立場が逆転する、そういうことが今日の福音の中ではっきりと書かれているわけです。私たちはこのお話を読んでみながら考えていきたいと思います。

今の日本はだんたんと貧富の差が拡大し、日本にいながらも自分が豊かだと実感がない人がたくさんいるのではないかと思います。それでもまだ世界的にみると恵まれている国ではないかと思います。
私たちも可能な限り今日の話を心に留めて考えていきたいと思います。今大変な思いをしている人たち、自分のことで精いっぱいで人のことを思いやる余裕がない人もいると思いますが、余裕のある人、かなり余裕のある人は、今日の話を心に留めていきたいと思います。そして、貧富の差ばかりでなく、いろいろなことが、例えば、寂しさとか、あるいは自分を認めてもらっていない人、居場所がない人、いろいろな辛い思いをしている人も、たくさんいるのではないでしょうか。
私たちは、大きなことを出来るわけではありませんが、小さなこと、自分の境遇で今できることから始めていきたいし、それを実践している方はたくさんいらっしゃると思います。

教皇様は、移民に対することをお話されています。トランプ大統領の移民を排除するような発言に対して、その発言には、国の治安を守るという理由もあると思いますが、私たちはどうでしょうか?
たくさんの移民がやってくるとなるといろいろ心配はあると思いますが、移民にならざるをえない人たちと苦しみを共にするという気持ちがなければ受け入れることは簡単ではないでしょう。
すでに治安が乱れ崩壊している国の人々を苦しみを一緒に共にしようと迎え入れても、迎え入れた後に何もしないケースが非常に多いようです。迎え入れたはいいけれど、仕事がない、貧富の格差が大きくなり、不安も大きくなります。
しかし、仕事を分け合い、受け入れる側の生活レベルが多少低下しても、皆に仕事が行き渡るように、それでもよい、という気持ちがあれば、治安に関しても悪くならないのではないでしょうか。

私たちは、このような恵まれた時代に生活できているという神様から託された恵みを考えていきたいと思います。先週の福音にもあったように、自分に任されたものに対して忠実でなければ、本当に価値あるものを天国で神様は任せてくれない、とイエス様はおっしゃられました。
私たちは、今こうして平和で豊かな国に生まれました。しかし、今そうでない人たちもいる中で、私たちはその託された恵まれた環境をどう使っていくのか、ということは大事なことかと思います。

現代の国際社会の在り方は、友好関係以前に経済中心で廻っています。お互いに経済的なメリットが重視され、一方的に助けるということが成り立たないのではないかとさえ思います。
しかし、聖書のことばの中に未来があることもあると思います。無償の愛を与えるという選択肢が、知らず知らずのうちに将来素晴らしい希望を呼び寄せていることに繋がることもあるのかもしれません。
私たちは一人一人自分に与えられた立場に立って、社会の価値観だけではなくて、自分の価値観から行動していかなければなりません。
今日の福音にあるように、門前に困っている人がいるのに放置していた、このような状況が世界にあるわけです。それが今後どうなるかということをイエス様は示されています。

環境の問題についても教皇様は発言されています。
とうとう世界中の子供たちが、立ち上がったわけです。
大人にとっては、あと20~30年我慢すればいいのですが、子供は崩壊しつつある世界の中で生きていかなければならない。特に子供は、大人は何を残してくれたんだろうと感じると思います。
スウェーデンの女の子が顔を紅潮させて、怒りを抑えながら演説していました。本来はとてもやさしい子ではないかと思います。地球に対する愛、仲間の子供たちに対する愛、白熊や動物たちへの愛、どんどん崩れていくのを見た時に怒らずにはいられない、やさしい女の子が変わってしまったのかなと、本来大人がやならなければならないことを誰もしなかった、子供たちも思い始めたと、そのように感じました。
本当に子どもを愛する人たちは、環境問題には無関心ではいられないと思います。
環境にやさしい生活をすることが結果的に私たちの体と心を守るようなことに繋がっていくと思います。
環境を大事にしている農家が作るものを優先的に取り入れたり、環境問題に取り組んでいる団体に加盟するとか、応援するとか、そのうように出来ることはいろいろあると思います。

この文明化された時代から後戻りは出来るのか、それは難しいことですが、文明を使って解決できることがあるのかもしれませんし、あるいは生活を簡素化することによってできることもあるのかもしれませんし、目標に到達できるのかどうか分かりませんが、一生懸命にやっていければうれしいと思います。

今は諦めたかのように流れが出来てしまっていますけれど、もう一度立ち止まって、苦しんでいる人を顧みるとか、あるいは環境に関わることの中に、私たち自身の答えがあるのかもしれません。

マタイ25章の「最後の審判」のイエス様のことばの中に、「あたなは貧しい人に食べ物を与えましたか、乾いている人に飲ませましたか、裸の人に着せましたか」という言葉があります。そして、「これらの最も小さい者にしたことは、わたしにしたことです」とおっしゃいました。恐らく私たちはこのことばを実践することによって、自分自身が抱えている問題に対する答えを得ると思います。このような人たちとの関わりの中でいろいろなものが見えてくる、それを振り返ってみるとき大きなヒントがたくさんあったりする。きっとそういう人との関わりの中に、神様の答えがたくさん隠れていると、そのように見てもよいと思います。
私たちは自分自身らしく生きる、自己実現という言葉がありますが、それは自分を中心に考えるのではなく、自分を捨てて、自分よりも人を愛する、最も小さい人を愛する、ということの中に、実は自己実現が隠れている、そこに今まで気付かなかった自分を発見して、本当に素晴らしい生き方へと召されていく、そのようなことが往々にしてあると思います。
今日は、金持ちと貧しいラザロの話を通して、今実際に世界で起こっている状況をこのままではいけないと神様はおっしゃっています。私たちにできる範囲でかまわないので、そういう人に心を配っていく、子供たちのために環境に心を配っていく、その中に実は衰退していく社会に対する大きな答えがあるのかもしれないし、それは将来に分かることなのかもしれません。そして、自分自身を発見し、自分自身の心を開放するいろいろなヒントがそこに隠れているのかもしれません。そのように考えて、今日の福音を大切にしていきたいと思います。』

2019年9月23日月曜日

年間第25主日「不正な管理人」

この日のみことば(ルカ16・1-13)は当時の時代背景を理解していないと非常に難解です。
神から任されている豊かな富の”無駄使い”を戒められているのでしょうか?


勝谷司教様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音書の箇所は一番解説のしづらい箇所です。何の予備知識もなくこの箇所を読むと何をいっているのか、分からないと思います。「不正な管理人のたとえ」と良く言いますが、まず読む前提として、「不正」という言葉の意味を理解しなければなりません。「聖書と典礼」の脚注にも書いてありますが、けっして犯罪のような不正行為を働くのとは違います。むしろ、不正というのは、まず最初の段階で出てきますが、この男が不正を働いたという言葉ではないのです。この管理人は主人の財産を無駄遣いしている。つまり任せられている主人の財産を浪費している、あるいは適切に扱っていない。無駄にしている。そういうようなことで、報告をしなさいと、問い詰められているわけです。これに対して、やめさせられると感じた管理人は、ここに書いてあるような良く分からないようなことをするのです。主人に対して借りのあるものに対して、それを減らしていく。これ自体がまた不正であると考えるならば、不正に不正を重ねていくような印象を与えているようなわけです。しかし、自分が適切に管理をしていないと厳しい目が向けられている中で、さらにまた同様の不正を働くことは考えづらいことです。

 どうもこのたとえばなしの背景には、当時の私たちには今、知られていない常識がある。背景があると考えられます。その一つとして、今日の解説の中で「書き直せ」という意味は、ひょっとしたら律法で禁じられていた利息分を差し引いた分と考えられる。あるいは、このようなことをするとき、当然得られる手数料として管理人が得ていたものを、あえてそれを取らずに 主人に対する利息分を減らしてあげる。そう考えるならば主人に対しては何の不利益を与えない。むしろこの行為は、正当なやり方で貧しい人たち、借りのある人たちを救うということになるわけです。そして、この管理人が意識しているかどうかは分かりませんが、それこそがまさにこの主人の意に適うことである。貧しい人たちからお金を巻き上げて、暴利をつけて貸し付けるやり方はけっして主人のやり方ではなく、また律法の禁じることでもあったわけです。しかし、当時の常識としてはそれが当たり前として行われていたなかで、それを止めるという行為は、むしろ主人の意に適っていたのではないかというひとつの解釈です。

 私たちはこのようなたとえ話を読むとき、細部にわたって辻褄があっているかどうか検証しがちですが、私たちにとって大切なことは、このたとえ話が何を意味しているのか、そのメッセージを受け取ることです。そう考えるならば、ここで言われている不正な富の一部で友達を作れとその一語に尽きるのですが。その不正な富の意味ですね。これもまた今日の解説の中に書いてありますが、不正にまみれた富、直訳は不正なマンモンであるが、さきほど言ったような犯罪や不正な手段で得た富という意味ではなく、この世の富、この世の汚れにまみれた富と言えるのである。これは共通した解釈したようです。

 そう考えていくならば、これは個人的な意味で神に仕えているのか、そうではないのか。というよりも、もっと広い意味で現代社会で生きている私たちは捉えなければならないと思います。神から任されている豊かな富。それを無駄遣いしている。という言葉ですぐ思い浮かぶのは教皇様が「ダウダート・シ」で言っているこの環境。私たちが神様から頂いているこの世界、美しい自然を浪費し、そしてそれを汚している。あるいは、神から与えられている知識を用いて世界を破壊するような兵器を生み出している。それを用いようとしている
  そういうことも今日の福音書のテーマから導き出すことが出来る、むしろ現代的なメッセージではないかと思います。私たちは今日の福音のメッセージを個人に向けられているものであると受け止めるばかりではなく、この世界に生きている私たちひとり一人に問われているあり方。それが今日のメッセージであるというふうに捉える必要もあるのではないでしょうか。』

午後からは、札幌地区の共同墓参が行われました。
白石墓地では、司教と司祭団の司式によりお祈りを捧げました。




2019年9月15日日曜日

年間第24主日「敬老の祝福」

『見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り…… (ルカ15・5-6より)』

今日の聖書のテーマは「罪のゆるし」です。

ミサの中で、明日の「敬老の日」にあわせて、佐藤神父様より「敬老の祝福」をいただきました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書のテーマは「神は罪をゆるすお方」だということです。 それだけではなく、ご自分から離れていった者をも探して呼び戻してくださる方でもあります。

神が望まれることは何かというと、罪びとが生き方を変え、神に立ち帰り神に生きることです。 神は罪びとの滅びを望みません。 神は生きることを望みます。 見失った一匹というのは羊飼いが見失ったのではなく、羊飼いのもとから離れて行ったということです。 それを羊飼いは自ら捜しに行って正しい方向に導くのです。

ドラクメ銀貨を十枚持っている女のたとえが次に描かれています。 ドラクメ銀貨は1枚で一日の日当にあたる額だそうです。 十枚ということは10日分の日当にあたる額です。 決して多くありません。 そのうちの1枚を無くしたというのは、女が自ら無くしたのではなく、女から離れて行ったということです。 それを女は捜して見つけて自分のもとに置くのです。

今日の福音は短い部分が読まれました。 長い部分は省略されています。
省略された部分は3つ目のたとえで、おなじみの「放蕩息子」のたとえです。 羊やドラクメ銀貨と違って放蕩息子は人間ですから心の向きと言うものがよくわかります。 羊やドラクメ銀貨のたとえでは、神の側の目線だけが描かれています。 つまり、神はわたしたち罪びとを正しい生き方に導いてくださる。 そのようにいつも働きかけてくださるということです。

放蕩息子のたとえでは、父の視点だけではなく、息子の視点でも描かれています。 この父には兄と弟がいました。 本来遺産と言うものは亡くなってから相続されるものですが、その前に弟は自分の分をもらって父のもとを離れました。 この弟の考えでは父のもとで働くよりも自分の力で生きて行こうと考えています。 しかし、もらった財産も使い果たし、自分で働こうとある人のところで豚を飼う仕事にありつきました。 が、空腹は満たされませんでした。 ここで弟は「われに返って」言いました。 フランシスコ会訳だと「本心に立ちかえって言った」とあります。 自分の罪を認め、父のもとに帰って罪を告白して、雇人のひとりにしてくださいと言おう、と。 この弟は父のもとでの生活をすでに知っていました。 天の国の宴に相当することを知っていたということです。 だから記憶を呼び戻して立ちかえることができたわけです。

イエスが罪びとを招いて食事をともにしてくださるのは、罪びとがイエスの話を聞いて神に立ちかえったからです。 イエスの呼びかけを何度も聞いて、自分は罪深い人間ですからわたしの罪をゆるしてください、と心の向きを変えたからです。
わたしたちも最初から神の国を知っているわけではありません。
イエスのことばを聞いて少しずつ分かってくるものです。 神がわたしたちを正しい道に導いてくださると信頼するだけではなく、わたしたちが神の愛に気づいて神に立ちかえることも必要なのです。

ゆるしの秘跡というのは神との和解という側面と自分自身の生き方を深める秘跡という側面があります。 罪を告白し赦しをいただき痛悔の心をもってよりよく生きる決心をするのがゆるしの秘跡です。 ここで何が罪だったかとリストアップするよりも、何が自分の信仰生活の中で神から離れてしまうことだったか、あるいは神を忘れさせてしまうことだったかを思い起こすといいと思います。 主に立ちかえり、神に向かって生きる生き方の決意を新たにすることがゆるしの秘跡の大きな意味ですので、信仰を揺るがすものは何だったのかを見つめましょう。

パウロはイエス・キリストの呼びかけによって回心し、自らを罪深い者だと認め悔い改めて、キリストをあかしするものとなりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られました」という言葉が真実であり、そのまま受け入れるに値します、と言っているとおりです。 わたしたちもイエスの呼びかけに耳を傾け、神に立ちかえる恵みを願いましょう。』

2019年9月10日火曜日

9月8日(日)年間第23主日「札幌地区使徒職大会」

藤学園において、札幌地区使徒職大会が開催され、約800名の信徒が集いました。


上杉昌弘神父様が「あなたは誰に信仰をつたえますか」をテーマに講話をされ、教区の家庭の祈りキャンペーンと祈りの小冊子編集を切り口に、松前のキリシタン弾圧や来月の福音宣教特別月間にも触れ、この私にもできることを主イエス、聖霊に委ねようと力強く話されました。


上杉神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ルカによる福音 14章25-33節】

『「父・母、兄弟姉妹、さらに自分の命であろうも、これを憎まないなら私の弟子ではあり得ない。」この言葉を皆さん、どのようにお聴きになりましたか。まず、ミサの中で語られる主イエスの言葉は、喜んで聴ける時に、多分、今日のように素直には聴けないときも、私たちの生きる糧だと言われています。今の私に必要なことをご存じで、その私に投げかけられている言葉です。だから、「福音」、「グッドニュース」と、昔から良い知らせと言われています。
 ミサの派遣の祝福の度に、私たちは「元いた生活の場」へと遣わされています。ミサの名をご存じでしょう。ラテン語で一番最後に「行きましょう」と今、訳されていますが、「Ite, missa est.」(イッテ、ミッサ、エッサ) で終わっていました。だから「ミサ」だと言われていました。それは「行きなさい」、「私は遣わす」「行け」という意味でしょう。ミサの後、家であったり、職場であったり、ともかく自分の場所へ帰っていきますが、イエスに従って行こうと思うならば、帰るところは実は家ではなく、自分の安住の馴染んでいる場所でもない。先週の北見紋別教会に集まってくるベトナム人実習生のことを思い返します。日本人が7、8人の小さな教会。日本人たちはこの2、3年、急に元気が出てきました。それは20代前後の若いベトナム人たちが本当に喜び勇んで教会に来るからです。共同祈願も、主の祈りも、日本人たちが一生懸命、ベトナム語で唱和しようと覚えています。切れ目のないように。ちょっと今まねしようと思って。♬…メロディのついたきれいな祈りです。
 ある日曜日、ミサが始まってもベトナム人たちが来ません。だんだん仕事を習得して、職場が日曜日も働けと言っているんだろうと思っていたところ、途中から作業服のまま 6、7人が来ました。ミサが終わると「あぁー、ミサに来れて良かった!。うれしい!。」と言ってまた、仕事に帰って行ったんです。このことを思い出すと、私たちが帰るのは自分の住処ではない。むしろこのイエスの食卓、ミサに帰って来て、ここから出発するのかと思います。イエス様にこの一週間を報告し、聞いてもらって、労苦やすさんだ日々の思い、辛いあるいは明らかな逆境、苦しさの中にも、私たちのそうした十字架をともに担ってくれていたことに気づいて、感謝するために。そして新たな力をいただいて、また派遣されます。主の食卓で慰められ、新しい一週間へと遣わされて行きます。行きなさい。しかし、あなた一人ではないよ。私があなたの内に一緒にいるから。いや、あなたが苦しいと思うその前に、私が先にあなたの手を引いて歩いていくから付いてきなさい、と言われます。
 ミサによって受洗、あるいは堅信の時にいただいた使命、ミッション。ミッションも 「ミッサ」からくる言葉です。この私が主キリストのからだとなって、人々の良き隣人となるように遣わされていきます。使命、守りではなく新しく晴れやかな、ときには晴れがましいとさえ感じられるものへと、私たち自身が「キリストの御からだ、アーメン。」その祈りによって聖変化されていきます。主イエスと出会うことになれる、そうした新しい希望が、穏やかな優しい微笑みとなり、言葉でもなく話でもなく、その声は聞こえないけれども、必ず伝わっていくでしょう。
  私たちは日本の中で1000人に3人といない、カトリック信者です。他の人に先んじて呼ばれたのは自分の知恵と力に頼らず、この弱く貧弱な私たちが、神が心を惹かれて愛された。そのことを信じ、そして伝えるためです。神はこのような小さな者が祝福の源となるように召され、自分も神に捧げることが出来るようにしてくださいました。パンと葡萄酒にこの私たちは自分自身をお捧げします。私が全部行う、私が愛し私が信仰を伝えるのではない。主が働いてくださっていることを常に信頼して、平和の道具としてお使いください。奉納されるパンと葡萄酒に私たちを込めて捧げましょう。

 ここで終われば良い説教ですね……。
 でも、今日の福音に触れていないので、聞きづらい時も、それがまさに福音なのだということを、ちょっと考えてみたいと思います。福音を聴いた後、私たちは「キリストに賛美」と応えました。それが心から言えるために、もう少し塾講していきたいと思います。 身内や自分を憎め。そう言われてちょっと賛成は出来ません。保留赦したい。どういう意味でしょか。そう戸惑いを感じて聴いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。私は今日の福音の説教を準備していて、不平を言いました。福音の言葉には、時々今日のような「えっ」という言葉とか、どう考えたら良いのかという言葉があります。こういう時にこそ、信頼や信仰が試されているように思います。私もそうです。
 み言葉はイエスのほかのすべての言葉から、全体的に思い巡らさないと真意が分からないときがある。マリアも良く思い巡らしていました。「婦人よ。私となんの関わりがあるのか。」とか、母マリアがそこにいることを知っていながら、「私の母とはだれか。」などの言葉をマリア様も聴くわけです。私たちにとって、合点のいかない言葉に接した時も、イエス様に背を向けるのではなく、一歩前に出て「主よ、おっしゃってください。何を言われているのですか。」と、虚心坦懐にたずねてみたいと思います。

 今日のみ言葉を私はこういうふうに考えました。イエス様は大勢が集まる今日の使徒職大会のミサ。しかも受け継いだ信仰を喜んで伝えましょう。それをテーマにしているのに、今日の福音はちょっと受け入れづらい言葉ではないでしょうか。確か「十戒」では父、母を敬いなさいとありますし、自分のように人を愛せと言われてもいるので、父、母、家族、自分を憎まなくても良いのではないでしょうか。極端に聞こえます。もう少し聞きやすく柔らかな表現であっても良いと思います。
 たてつきました。そのとき、主をいさめている自分に気づいたのです。同時に、ペテロに対するイエス様の言葉。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことは思わず、人のことを考えている。」その言葉を思いだしました。それで謙虚にもう一度、注解書を紐解いて、イエスの言葉は「セム語族の特徴をもった言葉」です。神と富とに仕えることは出来ない。二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、云々。そういう言葉ではある意味で、普通だったら日本人は「お父さんとお母さんどっちが好き?」と子供に聞くことがありますね。子供は困った顔をしてすぐには言えない。普通そう聞くときにはヘブライ語では「お父さんとお母さんどっちを愛す?どっちを憎む?」と聞くのかもしれないと思いました。今日の「聖書と典礼」の脚注には、「より少なく愛すこと」と訳が書かれてありました。比較級が乏しく、そうした婉曲な言い回しなしに、白黒をはっきりとさせる表現なのかもしれません。神への愛と人への愛、どちらを先におこすべきかをキリストは今日尋ねたのでしょう。
 福音では、ガリラヤで多くの人がイエスについてきて、恵み深い言葉や奇跡のしるしを求めてついてきている場面です。神からのいわば御利益を求めて、それぞれが勝手な期待を描いてついてきていますが、イエスは彼らに対してその自分本位の思惑から神のみ心に求めるように転じること。神が与えたメシアである主キリストを信じ、その弟子となって従っていくように招く場面です。主イエスの弟子とは、十字架のうちに、友のために命を与えるほど大きな愛はない。それを行ってください、いや、神の愛を目撃し証しするものです。
  主は今日、皆さんに対し札幌地区9千人の中の選ばれた8百人。皆さんに最後まで従っていきなさい。私の死を見届けそこに愛を見いだし、復活の勝利を証しする弟子を必要とされています。イエスに興味をもって、ついてきた大勢の人へのチャレンジ、挑戦でもあります。誰を第一に愛すべきなのか、すなわち私たちにとって、最も大切で後回しにしてはいけないこととは何か。それを今日、問いかけられています。
  家族や身内を優先するのは自然の感情ですが、愛についてのキリストの言葉をもう一度思い起こして考えてみます。自分を愛してくれた人を愛したからといって何の良いことがあろうか。また、「私が愛を行う隣人とはだれのことですか」とイエスに問う学者に話された善きサマリア人のたとえ。誰がこの傷ついた方の隣人となったか。たとえ一番愛したい家族や自分であっても、私たちはその人の寿命を延ばすことは出来ない。真の幸せを望んでも、私が与えることが出来ない。それを謙虚に認めるならば、まず私の心が離れないでいる人を神に委ねることが大切であることを知ります。委ねて、その人の真の隣人となることを願っていきたい。あなたが愛するのに必要なものを与えられる神に立ちかえり、必要なことをご存じの主に求めなさいと言われていると思います。
 憎しみではなく、憎む。すなわち重要で優先すべきことは何であるかを知り、委ねること。ひょっとしたら私たちの愛に潜む執着や自分の幸いを優先しているならば、それに気づいて清め、そこから離れて第一に尊とむべきものを求めるようにと、今日もはっきり話してくださいました。愛する方を主と神様に任せよう。そして、あなたは私についてきなさい。私たちを今日、弟子として呼んでくれていることを受け入れ、感謝したいと思います。やはり、キリストに賛美、福音ではないでしょうか。

 今回のテーマ。信仰を伝えること。これは教勢の拡大ではありません。何よりも私は父の「み旨」を果たすために来た。ひとり残らず神の子として生まれたものを神のもとにお連れすることだ。イエスが行っているその「み旨」を今日私たちが求めるならば、私に出来ることを差し出された時、「アーメン。そうでありますように。」と、喜んで祈り応えていきたいと思います。』


2019年9月1日日曜日

年間第22主日 チャリティバザー「かてどらる祭」

この日はチャリティバザー「かてどらる祭」が行われました。

主日ミサは英語ミサと合同で行われ、湯澤神父様とレイ神父様が司式されました。
福音朗読とお説教は、両神父様がそれぞれ日本語と英語で交互に行いました。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『いろいろなたとえが出てきます。
 まず食事に招かれたこの食事。婚宴の宴会、それから昼食、夕食の会。どれも食事ですが、いわゆる食事と言うのと、世の終わりの完成された交わり、キリストもその結婚式の宴会にたとえて言うように、それも食事、宴会。ふたつのこの世の普通の食事とこの世の終わりの完成された食事、宴会、天の国です。それがふたつ話題にされているわけですね。 それと同時にもう一つは、普通、昼食や夕食会を催すときに、友人とか兄弟とか親しい人を呼ぶわけで、まったく知らない恵まれない人、貧しい人を呼ぶことはまずない、常識的にない。そういう人ばっかり呼んだら、いわゆる食事にはならない。
 これも二つの意味があります。私たちが普通に常識的に宴会や食事をするとき、それは普通の常識的な食事で、それは礼儀の世界です。挨拶をしたら挨拶を返させる。何か贈ったら似たような物を贈り返す。それが礼儀の世界ですが、もう一つはそれが出来ない。食事の世界ですね。この施すときに、お返しが出来ない。これは別な関係、恵みの関係です。親しい人と食事をする、これは日常の礼儀の世界ですが。
 もう一つは恵みの世界。いろいろな時も、恵まれる時も、そこには何をお返ししても匹敵するような お返しが出来ないから。私たちはこの二つの世界に常に住んでいるということです。例えば、善きサマリア人のたとえに出てきますが、隣人を自分と同じように愛するという常識の世界に、しかしもう一つは、この怪我人を助ける生活。これは恩恵の世界です。私たちはこの両方の次元を持っていることを忘れてはならないと思います。また、その識別、どちらの世界に立つか、それも知っているはずです。
 そういう恩恵の世界に自分が立たされたとき、相応しくあるべきでしょうし、そうでないときには常識的に、相応しくあるべきでしょう。その識別と同時に、その相応しさを常に相応しくなることが出来るようにしていかなければならないと思います。』

ミサ後に行われたバザーは、お天気にも恵まれたくさんの人で賑わいました。
「聖園こどもの家」のお子様たちと先生、ご父兄の皆さまをはじめ、外国人信徒のご家族連れの方々も多数訪れ、楽しんでおられたようです。



2019年8月28日水曜日

8月25日(日)年間第21主日

「狭い戸口から入るように努めなさい」と、わたしたちは神の意志に適う在り方を求められています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『有名な「狭い戸口から入るように努めなさい」という今日のみことばです。一方で、「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と寛大なみことばがあるわけですが、ここでは救いがないような非常に厳しいみことばになっているわけです。ただ、このことばが、どういう状況のなかで発せられたかということは重要なことです。最初の箇所にあるように、「イエスはエルサレムに向かって進んでおられた」ということで、この旅の先には困難が待ち受けているわけですが、力強くそこに向かっていたのです。そのような状況のなかで、イエスは受難の予告をしています。同時にそれに伴って、弟子はどう在ったらよいのか、ということを教え始めるわけです。
キリストは、「自分の十字架を担って従うように」、また、「仕えられるためではなく仕えるために来た」と言い、キリスト自身の在り方と弟子たちの在り方が重なって来るわけです。つまり弟子たちに自分と同じような在り方を求めて、そういう状況のなかで、このことばが使われているということです。
そして、入れない者に向かって言うことばは、すごく重要なことばですが、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。この「不義を行う」というのは「正しくない」という意味になります。”正しい”在り方というのは、道徳的な在り方だとか、立派であるとか、そういうことではなくて、弟子の在り方、つまり神の意志に沿っているかということです。
別なところでキリストは、自分たちのグループの条件として、「神の意志を聞いてそれを行う」というように言っています。また全く話は違うところですが、この福音の持っている厳しさも同時に語っているわけです。
キリスト自身が福音であるわけですが、それを前にした時に誰でも、聖母マリアでさえも選択が迫られる、曖昧にしたままではいられない、「神を受け入れるか、受け入れないか」ということを求められています。
キリストに従う者たちは、神の意志を知ってそれを行う、そこに「正しさ」というものがあるわけです。そこには同時に「狭い」という意味があります。決して救いを制限するとかそういう意味ではありません。このように、キリストに従う者は、「狭い戸口」から入るわけですが、その条件は「神の意志に沿った生き方をしているか」ということです。
洗礼を受ける者は神からこのように言われます。「わたしの愛する者、心に適う者」と。
キリストが言われたように、私たちも一人一人、全能の父からそう言われていたのです。そう言われているとしたならば、この全能の父の意志に適う在り方をしていかなければならない。それがこの「正しさ」ということです。
私たちは、このキリストが求めていることを常に忘れてはならない、それが私たちのアイデンティティだからです。そういう意味で、私たちはキリストの言う「正しさ」そういう在り方を求めていかなければなりません。』

2019年8月18日日曜日

年間第20主日

ルカによる福音書 12章49~53節
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」と言うイエスの厳しいことばは、福音を選ぶのか選ばないのかを私たちに問いかけています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8月6日の広島原爆投下の日から先週15日の終戦記念日まで平和旬間として、平和を祈りました。平和を祈ったのに、キリストは「平和をもたらすために来た」と思わないでくれと言っています。分裂をもたらすためだ。何かどっちを選んだら良いのか分からない感じですが、そういう次元とは違う話です。先週、「目を覚ましていなさい。」という言葉でしたが、盗人はいつくるか分からないから、信仰を意識しているようにという福音でした。
  今日の福音はそれと少し関連しています。ですから、そういう文脈で読まないと、キリストは分裂のために来たのだということになってしまう。ほかのところでは「私は平和をあなたがたに与える。」と言っています。ここでは平和ではないと言っているのですから。それぞれ言っていることが少し違うわけです。いわば福音というものが持っている、ひとつの性格です。どうしても決断をせまられるという性格。優柔不断であることは許されない。ルカは誕生物語の中で、シメオンがマリアに向かって言うわけです。あなたの心を剣で刺し貫かれるというわけです。けっして十字架のそばにいるだろうと言っているわけではない。福音が持っている、あるいはイエス・キリストの存在が持っているひとつの性格。あるいはその前のザカリアの子供の洗礼者ヨハネもそうです。その福音を告げる者、告げられる者にとって、それはひとつの選択を迫られるので、そこで優柔不断な判断は出来ないということ。剣で刺し貫かれるということは、白か黒かはっきりさせられる。マリアでさえも決断を迫られるということ。時間の経過からするとマリアはすでに決断している。その言葉を聞くときには決断しているわけです。福音を受け入れるか、受け入れないか、キリストはイスラエルの○○○のところにしるしとなっている。どちらも福音にあったものに決断しなければならない。選ぶか選ばないか、応えるか応えないか、どちらかひとつです。そこには応える者と応えない者が出てくるわけで、それがひとつのたとえになって、一家に五人の人がいるならば、二人と三人が別れる、その後にミカの預言を引用しているわけです。

 けっして福音が不和をもたらしているわけではないのですが、もたらすためのものではなくて、必ずどれかを福音を選ぶか選ばないか 決断を迫られてどっちかを選択しなければならない。どちらでもいいというわけにはいかない。しかし現実はそこまでは厳しいものではなくて、けっこう現代の私たちは信仰生活、それといって生命に関わるわけではないので、状況がそういうことではないので、けっこう優柔不断に曖昧に、さしあたって適当にというわけでおくっている。
  そうだからといって、だから何も問題ないわけです。たしかに主人は帰ってくるだろう。さしあたって今ではないだろうという感覚。これはけっして信仰だけでなくて、たとえばシステムにたいしてもそのように扱っている。たしかに人間はいつかは死ぬ。でも今ではない、自分ではない。だからのんびりと生きていられるわけで、もしそういうことが迫られたら急いで帰って掃除をしなければならない。信仰もおそらく我々は、信じたからと言って厳しい状況に生きるわけでないので、まあ次の日曜日は休むかという感じです。はたしてそれで良いのかというのがこのキリストの問いかけです
 必ず福音はどちらかを選択させられている。いい加減ではいられない。主人が帰って来たら終わりということ。そういう意味でどれだけ本当の信仰に生きている人がいるとしたらというふうに、彼は願っていたわけです。おそらくキリストが登場したこの時代の2000年前の社会も似たような社会であったかもしれない。いつもそうなのかもしれない。
おそらくキリストはこういうような現実を見て、ため息みたいな言葉を言っているわけです。マタイとルカは同じ言葉を残していますが、マタイは……という反疑問。

  いずれにしても、私たちにこの言葉が向けられている言葉としてとらえなければならないないのですが、私たちはさしあたって先延ばしをしているか、注意したり注意されたりしてるかもしれない。この信仰に関しては、さしあたって先延ばしは出来ないことだが、現実はけっこう先延ばし出来るので、適当に済ましている。しかし、いざとなるとどちらかを選択しなければならないそのときがあるのです。それはけっこう日常の中であるかもしれない。しかし、けが人を横目で見て、脇を通ったレビ人、祭司と同じように、さしあたって私ではなくて別な人がいる。そんな感じで通っているかもしれない。信仰生活を少し反省していきたいと思います。』

御ミサの後、カテドラルホールで8月15日『聖母の被昇天』の祝賀会が行われました。
湯澤神父様(主任司祭)とレイ神父様(助任司祭)も参加されました。


レイ神父様は、まだ苦手な日本語でご挨拶されました。