2018年10月21日日曜日

年間第29主日 「世界宣教の日」

今日は「世界宣教の日」です。
「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」というイエスのことばを改めて心に留めましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日はインドネシアの兄弟姉妹の皆さんと感謝の祭儀にあずかります。
  今日はご存じのように「世界宣教の日」です。この世界宣教の日にあたって教皇様は、
メッセージを出しておられます。メッセージのタイトルは「若者とともに、すべての人に福音を届けましょう」。全世界の若者、信徒に出されています。
  今、ローマでは世界代表司教会議、シノドスが行われています。日本からは勝谷司教様が参加されています。10月いっぱいということですので、まとめの段階に入っているのかなと思います。今日は、教皇様が出されたメッセージを説教に代えて、要約して皆さんに教皇様の思いをお伝えしたいと考えています。メッセージそのものは若者へ向けてのメッセージなのですが、私たちは若者でないと言ってしまえば、教皇様のメッセージは教会に届きませんので、私たち一人一人が若者であると自覚しながら、教皇様の思いを受け止めたいと思います。私たちは日頃、若者がいないという言い方をしていますが、それを言い続けているならば、私たちの教会の中で大きな変化、新しい旅立ちは出来なくなってしまいます。私たち一人一人も若者であるという意識の中で教会共同体の活動、そして発展を新しく作っていくことが大事だと思います。

  さて、教皇様はどんなことを私たちに、教会に向けてメッセージを出されのでしょうか。
 教皇様は「わたしは、イエスからわたしたちに託された宣教について、皆さんと一緒に考えたいと思います。そして、皆さんに語りかけると同時に、神の子としての冒険を教会の中で生き抜いているすべてのキリスト者にも呼びかけます。……
 宣教の月であるこの10月にローマで開催される世界代表司教会議(シノドス)は、主イエスが若者の皆さんに、さらには皆さんを通してキリスト教共同体に伝えようとしていることに対する理解を、信仰の光のもとに深める機会となるでしょう。」と述べておられます。

  そして、教皇様のメッセージは4つの項目があげられます。
 最初は、「生きることは遣わされること」というタイトルになっています。
 「人は皆、遣わされており、そのために地上に生きています。「引き寄せられ」、「遣わされる」という二つの動きは、わたしたちがとくに若いころ、愛の内的な力として心に感じるものです。この力は未来を約束し、わたしたち自身を前へとつき動かします。いのちがいかに驚きをもたらし、人を引き寄せるかを、若者の皆さんはだれよりも切実に感じています。」

  二つ目のタイトルは「わたしたちは皆さんにイエス・キリストを告げ知らせる」になります。教皇様は
 「無償で受けたもの(マタイ10・8、使徒言行3・6参照)を告げ知らせる教会は、この地上で生きることの意味へと通じる道と真理を、若者の皆さんに伝えることができます。わたしたちのために死んで復活したイエス・キリストは、わたしたちを解放するためにご自身をささげ、そのことの真正で完全な意味を追求し、見いだし、伝えるよう教会を駆り立てています。若者の皆さん、キリストとキリストの教会を恐れてはなりません。」と、おっしゃっています。

  3つ目は「地の果てまで信仰を伝える」となっています。
 「若者の皆さんも、洗礼を受けることにより教会の生きた一員となり、福音をすべての人に伝えるという使命をともに担っています。」
 教皇様はこう言います。
 「教会の宣教の核心である信仰の伝達は、愛を「感染させる」ことを通して行われます。」
私はこのメッセージの表現、訳が「愛を感染させることをとおして信仰の伝達が行われる。」
に驚きを感じます。違和感も感じましたが、興味深い表現だなと思いました。信仰の伝達は愛を感染させる。皆さんは、どう感じるでしょうか。
「物事の意味が新たに見いだされ、人生が満たされたことを、喜びと情熱をもって示すのです。人々の心を引きつけながら信仰を伝えるためには、心が愛により開かれ、広げられなければなりません。」このようにも話しておられます。私たちはどうでしょうか。愛によって、私たち一人一人の心が開かれるよう努力しているでしょうか。

  (4つ目「愛をあかしする」)
 「教会の中に生きておられるキリストと皆さんが個人的に出会えるよう尽くしているすべての教会共同体に、わたしは感謝の意を表します。その中には小教区、教会の諸団体や運動、修道会、さまざまなかたちで行われる宣教活動が含まれます。人間の尊厳を尊重し、愛する喜びとキリスト者であることの喜びをあかししながら、「もっとも小さくされた人々」(マタイ25・40参照)に仕えることを、多くの若者が自発的に宣教する中で感じ取っています。」。教会も小さくされた人々とともにあって欲しいと、教皇様ははっきりと宣言します。今日も、仕えるものになりなさいと福音をとおして与えられましたが、もっとも小さくされた人々に仕える大切さは、私たち一人一人が常に心がけなければならないことでしょう。

  終わりに教皇様は、教皇庁宣教援助事業についても話されています。
 「教皇庁宣教援助事業は、福音をすべての国の人々に告げ知らせるよう促し、真理を求める大勢の人々の人間的、文化的な成長を支えるために、若々しい心から誕生しました。教皇庁宣教援助事業を通して惜しみなくささげられ、届けられる祈りと物的支援は、聖座の取り組み、すなわち自分の必要としているものを受け取った人々が、今度はそれぞれの場であかしできるようにする活動のために役立っています。」と、述べられています。
 (今日のミサ献金について説明。)

 教皇様は言われます。
「自分が持っているもの、そして何よりも自分のありのままの姿を差し出せないほど貧しい人などいません」。貧しい人、小さな人々というテーマが聖書に良く出てきますが、私たち一人一人が心を開き、愛をもって貧しさに向かっていくことが出来る勇気をいただきたいと思います。教皇様のメッセージの中で、持っているものを差し出しなさいというメッセージになっていますが、先週の説教の中で触れたように、あの金持ちの男の人は「永遠の命を持つために何をなすべきでしょうか。」思い出して欲しいと思います。先週の福音を思い出すと、その男の人は何か足りないところがあると思ってイエスに質問しました。
真面目に信仰に生きている人でした。永遠の命を求める人が財産を持って、それを分かつことの難しさ、隣人への愛を開くことがいかに難しいかを、私たちは福音をとおして黙想することが出来ました。

 今日、教皇様の最後のメッセージの中で、そのことにも触れられたと考えます。最後には若者に呼びかけて話します。
「自分には差し出すものがないとか、自分はだれも必要としないとか、考えないでください。大勢の人があなたを必要としています。このことについて考えてください。多くの人が自分を必要としていると、それぞれが心から考えてください」。結びのメッセージの内容です。
  そして、最後の結びは、
「わたしは使徒の元后聖マリアと聖フランシスコ・ザビエル、幼きイエスの聖テレジア、福者パオロ・マンナに、わたしたちすべてのためにとりなし、つねに寄り添ってくださるよう願い求めます。」10月の宣教のこの月。10月にはたくさんの聖人が記念されますが、そうした聖人に向けて取り次ぎを願い、寄り添っていただけるようにと教皇様は結んでいます。
 教皇様のメッセージ。若者に向けられたメッセージですが、私たち一人一人にも向けられているということを重く受け止めなければならないと思います。私自身、2年前、私たちの教会が献堂100周年を迎えた時に、ひとつの標語を皆さんで考えて作りあげました。「次の世代につなぐ」という言葉が、標語で今も玄関前に掲げられていますが、若者がいない、子供がいないというだけでは何の解決にもならないと思います。若者がいないというだけでなくて、私たち一人一人がしっかりとした考えを持って、私たちの教会をこれからどう作っていくか、考え続けなければならないと思います。

 そのためにも私たちは、イエスとともに歩み続けなければなりません。今日の福音の中で、弟子たちの心を動かしている俗っぽい野心とか競争心とか見え隠れするメッセージが私たちに語られています。2000年前の弟子たちのことですが、まだまだ弟子たちには学ぶべきことがたくさんあったようです。一生懸命イエスのみ言葉を聴き、その教えを守ろうとしたけれど、すぐに現実の生活に心を奪われてしまうことのほうが多かったかもしれません。イエスの心も神秘、十分理解出来ないままに今日のような質問が出たのかもしれません。もしかするとまだまだ、イエスの心に近づくことが出来ないで、自分の欲望を満たすことのだけに心を奪われた弟子もいたかのように思います。十字架の歩みはイエス一人だけの歩みなのでしょうか。そのことも考えなければならないことだと思います。
 イエスの心を理解し、支え、ともに歩むことを弟子たちに期待することと同じように、私たち一人一人もその期待を背負って信仰を歩むことが大事だと思います。私たちも洗礼によって神の子の恵みをいただきました。その時からイエスとともに歩み、信仰を生きています。でも、その信仰の中でどこまでイエスの心、その教えを歩んでいるか。そのことももう一度考えて新しい出発にしたいと思います。
 世界宣教の日にあたり、教皇様のメッセージの思いに触れながら、私たちに託された宣教を考え、祈り続けたいと思います。』

2018年10月14日日曜日

年間第28主日

神の”掟”を守ることと同じように、隣人も大切にしなさいとイエス様は教えられます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『本日、10月14日(日)ローマ時間の10:15(日本時間 17:15)から、バチカンでパウロ六世、ロメロ大司教の列聖式が行われます。

カトリック中央協議会のホームページで列聖式の生中継が視聴できるLIVE動画が公開されています。ご興味のある方はご覧になってください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2018/10/12/17747/

教皇パウロ6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

オスカル・ロメロ大司教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%AD

列聖について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%81%96

今日こうして、二人の聖人が誕生します。私たちも聖人の精神を習いながら信仰を歩むことができるように、またミサの中で祈りたいと思います。
特にロメロ大司教の生き方は、今日の福音にも繋がってくるのではないかと思います。

今日私たちはミサの最初の集会祈願の祈りで、
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」このような祈りを捧げてミサが始まっています。
小さなことであっても私たちの日常生活の中では、随分目先のことに囚われています。そしてそこに、時間を掛けてしまうし、心にも煩わしさをたくさん作ってしまう”目先の事”がたくさんあるような気がします。小さな事から離れられずに、大きなストレスを抱え込んでしまうということもたくさん私たちの現実にあるでしょう。
目先のものへの執着。それは私たち一人ひとりにとって、どのような事でしょうか?いろいろ考えることが出来ると思います。人によって様々だと思います。
一つ挙げると、人間の強欲・欲望に繋がっている執着もあるかもしれません。また、健康や財産や名誉など、目先のことで煩わしさを抱え込んでしまう人もいるかもしれません。私たちの日常はそういう小さなものへの執着との闘いと言えるのかもしれません。
執着心、欲望と対照的な心の貧しさ・清さを表す清貧は、よく教会ではテーマとして取り上げられます。私たちにとってそれは理想と現実でもあるような気がします。

第一朗読では、知恵と比較して富や財産に対して話されています。神の知恵は私たちに生きる道を示すことが語られます。しかし、神の知恵は人間からみれば厳しい要求を突きつける場合もあるようです。
今日の福音の中では、”掟”をとおして一人の人がイエスと問答を交わしています。その人は「掟を守っています」と言いながら、神の教えをよく考えてみたら、どうだったのか?ということも問われる今日の福音です。
「永遠のいのちを相続し、神の国に入るためには何を行う必要があるでしょうか?」今日登場した一人の人は、イエスをつかまえてそう質問します。
いかに永遠のいのちが大切であるかということは私は最近よく口にしています。私たちは信仰を持っていると言いながら、どこまで永遠のいのちを目指しているでしょうか?永遠のいのちよりも、私たちの生活の楽しい面とか豊かになることや快楽を考えてしまうのが私たちかもしれません。
”イエスが道に出ていくと、この尋ねてきた男の人は走り寄ってひざまずいて”と、このような表現でイエスに質問をしようとしています。この表現には、この男の人の生真面目さや熱心さを感じます。でもイエスとの会話が始まると、最後は気を落とし、悲しみながら立ち去ったという結末に向かっていきます。なぜなのでしょうか?
イエスとの対話の最後に触れられいた言葉は、たくさんの財産をこの人が持っていたという表現になっています。資産家であった。富や財産を持って豊かな生活をしている人であったということがわかります。でも富や財産が永遠のいのちを妨げてしまうということもあるでしょうか。いろいろなことを私たちに黙想させてくるような今日のお話です。

私は今日の福音を聞きながら、そして黙想しながら、「戒めを全て守っています」と答えたけれども、神の教えを守っているか、ということを考えたときに、この男の人は自分の財産にしがみついて、隣人に対する思いやりや愛には、何も生かされていなかった、ということを感じます。そのことをイエス様は指摘されたのだと思います。
熱心に立派な信仰を持っていて、それを全て「果たしています」と言いながら、隣人に向ける心は欠いていた。私たちもそんな思いにかられていまうような気がするのです。
昨日のミサの中で読まれたルカの福音では、イエスが話をしていた時に一人の人が大声でイエス様を賛美する話なのですが、その人は「あなたのお母さまであるマリア様は、素晴らしい方です。何故ならあなたを生んだお母さまは神の母であるし、神の幼子がマリア様のお乳を吸っていたから」だと言いました。確かに私たちもそう思います。しかしイエス様がその人に答えたのは、まったく違ったことでした。「大切なのは神のことばを聴き、それを守る人である」と言われたのです。

今日の金持ちの男の人のように、ただ熱心な祈りを捧げるだけでは駄目だ、本当に教えを守っているのか?本当に神様が大切にする愛を見せているのか?隣人に対して愛はどうなのか?ということを問われるようです。
昨日の福音も今日の福音も私たちが大切にしなければならないのは、もちろん祈りも大切です。神に感謝し賛美し信頼することは大切なことです。でも隣人も同じように大切にしなければ神の道に入っていくことは出来ない、ましてや永遠のいのちを得ることは難しいということを話されているようです。
今日の福音の時代背景には、ローマの支配下にあって迫害が迫っているという状況があります。イエスは弟子達にも厳しく諭されています。神に仕え、福音のために生きるには、自ら進んで全てを捨てる覚悟が必要であると。まさにそのくらいの覚悟が必要だという時代の中にあってイエスはこの福音を話されています。

永遠のいのちの道はイエスに忠実に従う道ということであるような気がします。私たちはどこまで忠実にイエスの教えを生きているでしょうか?
今日改めて集会祈願の祈りをもう一度思い起こします。
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」イエスの教えを守り、そして生きることができるように、このミサの中でともに祈っていきたいと思います。』


2018年10月7日日曜日

年間第27主日

今日の典礼のテーマは「結婚と夫婦」について。
決して楽ではない日々の生活の積み重ねの中で、大切なことを見失うことがあります。
そんな時こそ神のことばに心を傾けましょう。

この日のミサは、佐藤神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音、そして来週の福音、これは続いているテーマがあります。私たちの日々の生活における福音と言えると思えます。今日は、結婚と離婚について、そして、子供のように神の国を受け入れることについて述べられています。ちなみに来週は自分の努力によって永遠の命を得ようとする青年と富の危険性が語られ、神の国に入るのは何と難しいということが語られます。   
 今日、登場するファリサ派の人々は、いつものようにイエスを陥れようとして質問をします。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いです。モーセ五書と呼ばれる律法の書がありますが、その中には離縁することについての命令というものは一切ありません。何もないと言うことは離縁してはならないということが基本、根底にあるわけです。「神が結び合わせたものを離してはならない。」ということです。そして唯一、申命記第24章1~4節に、離縁状を渡して離縁することが出来るとあります。今日の「聖書と典礼」の下にも、離縁につい書かれています。ただ、離縁状を渡せば離縁出来るというのは、離縁するためのひとつの条件にすぎません。離縁状を渡すだけでは離縁は成立しないということです。しかし、離縁状を渡すことについて、このファリサイ派の人々もちゃんと頭の中に入っていて、イエスの問いかけに答えています。
 当時のユダヤ社会においてはほぼこの条件だけで離縁出来る、離縁状を渡せば離縁出来るというのが当たり前でした。しかし、実はもう一つの条件が必要だったのです。それが、「聖書と典礼」の下に書かれています。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という条件があります。妻に何か恥ずべきことを見いださない限りは、離縁してはならないということです。ここを素直に解釈すると、妻に恥ずべきこと、例えば夫以外の男性と関係を持つとか、あるいは夫婦の関係が続けられないでいること、そういことも条件と捉えることが出来るかもしれません。もちろんこの場合は、離縁の条件となるものと思います。ところがファリサイ派の人々はもっと凄いことを考えました。「何か恥ずべきこと」これを「何か」と「恥ずべきこと」と二つに分けたのです。つまり恥ずべきことだけでなく、「何か」があれば離縁出来ると考えました。何かといえば、例えば料理がまずいとか、自分が呼んだときすぐそばに来なかったとか、そういうことだけでも離縁出来るとファリサイ派の人々は考えたのです。当時のユダヤ社会は、妻は夫の所有物であると考えられていましたから 、離縁するのは男性からしか出来ないと考えられていました。そのような中で、何かすれば離縁出来るという無理矢理な解釈がまかりとおっていたのです。ですからほぼ離縁状を渡すだけで離縁出来たということなります。女性に対してあまりにもひどいことをしていたのです。イエスはあなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだと言います。ファリサイ派の人々は自分たちの都合の良いように解釈し、 人々に押しつけていたことが分かります。

 ここで、ちょっと考えてみたいと思いますが、モーセがなぜ離縁状を妻に渡して離縁することを許したのかということです。彼女が再婚する際に、姦通の罪を犯さないようにするために、離縁状を妻に渡すようにと夫に命じているわけです。再婚するときにその離縁状があれば、正式に離縁したもので誰の妻ではないことを証明することになったということです。モーセ五書の中でそのような記述が元々そういう配慮があったということです。そういう配慮をまったく取り除いてしまって、ファリサイ派の人々はただ単に離縁状に署名すれば離縁出来ると解釈していたのです。当時のユダヤ社会では、女性、子供は男の所有物という考えがありましたが、 新約聖書の中にもそのような記述があります。イエスが弟子たちに五千人にパンを分け与えたエピソードがありますが、そこには男の数しか入っておらず、女性と子供は入っていない。
 ところが創世記の作者は、今日の創世記を読まれた箇所がありますが、女を単に男の所有物だとは考えていなかったことが分かります。彼にあう助けるものとして造られたということです。女性を造ったことによって男は本人として存在すると同時に、女という他者とともに一体として存在するものになりました。他者とともに存在するためには、お互いが人格的に自由で平等な人間であることを認めなければなりません。創世記の読まれた箇所はそういうことを根本的なこととして言おうとしているわけです。イエスもまったく同じです。「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」と言っています。神が最初から意図していたことを生きること、男と女が一体となって子供を産み育てていくことを目指していくことが大切なこととして、創世記でもイエスの言葉でも私たちは理解出来るわけです。

 福音の後半ですが、イエスは子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちは神が良いという相応しい成果を何も上げることが出来ない存在です。また、人々に尊敬されるに値する身分があるわけではありません。子供たちは神の国に入ることを可能にする唯一の特質と他者に依存するという関係のうちに持っているだけです。つまり子供たちは、神の国に入ることを自分たちには身に余るほどの恵みとして受け、素直に受け入れているということです。私たちにも、子供たちのような謙虚で素直な信頼をイエスに置くことが出来ますか、ということが問われているように思えます。
  最後にイエスは子供たちを私のところに来させなさい、妨げてはならないというイエスの命令があります。これは初代教会が、幼児洗礼を実践していた根拠になると教父たちは考えています。アウグスチヌス、ヨハネクリゾストモ、ヒエロニムスなどの教父たちは幼児洗礼を積極的に遅らせることに対して反対していました。それは両親の怠慢だと考えていました。救いのために洗礼が不可欠であると両親が信じていながら、自分の子供に洗礼を授けないというのは、両親の怠慢であると言うのです。自分の子供が大人になってから、自分で洗礼を受けるか受けないかを考えさせようというのは、洗礼による救いを信じて自らが洗礼を受けたことと矛盾しているというわけです。洗礼による救いを信じているなら自分の子供たちにも同じように洗礼による救いを与える機会を持つべきだと教父たちは言っています。
  私たちも是非、子供たちの洗礼の秘跡を遅らせることのないように、その機会を奪うことのないようにしていきたいものだと思います。今日の聖書の言葉の中から、私たちが日々の生活の中で、どういう態度をとって歩いていけば良いのかということが、分かるようになるのではないかと思います。』

2018年9月30日日曜日

年間第26主日

”祈り”とは「神の語りかけに耳を傾けること」
今日の福音でのイエスの厳しいことばは、
「何よりも大切なことは神の国に入ること」と私たちに語りかけます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんもニュースを聞いて驚いているかもしれません。まだ、北海道では余震が続いていますが、一昨日インドネシアでも大きな地震があって、多くの犠牲者が出たというニュースが流れていました。私たちもつい先日、大きな地震の体験をしたばかりですが、インドネシアの人々へ向けても祈りを捧げましょう。

さて、先週は司教様のミサになりましたので、先延ばしになってしまいましたが、トラピストでの黙想会のことを少しお話したいと思います。
私たち教区の司祭は毎年、教会法に定められているとおり、最低1週間は黙想会に参加します。今年も月曜日から土曜日までの1週間の黙想を終えました。
「キリストへの愛は祈りのうちにある」という修道生活の毎日の日課は、祈りを中心に展開しています。聖ベネディクトの精神に従う修道会の中心的な標語、皆さんもこの言葉を聞くと思い出すかもしれません。「祈り、かつ働け」(Ora et Labora)、こういう標語がトラピストの毎日の生活の中で大切にされています。
北海道にはトラピストとトラピスチヌがありますけれど、男子のトラピスト修道院の方が先に創設されており、1896年(明治29年)10月に修道士9名が日本に来て始まっています。それ以来、一日7回の祈りと労働を中心にしたシンプルな生活が今も続いているのが、トラピストとトラピスチヌの修道生活のようです。

この度の教区司祭の黙想会の中で、修道士のお話を聞く機会がありました。私はその修道士が話したひと言が心に残っています。修道士のひと言は「(祈りの基礎は)一人一人に語りかけられておられる神のことばを聴くことです」というものでした。
”祈り”については、いろいろな説明ができると思います。祈りとは、神への賛美や感謝であると同時に、私たちの願い事や希望をより頼むこと。皆さんもそのように考えておられるのではないかと思います。
しかし、修道士から聞いたひと言である「神の語りかけに耳を傾ける」ことも祈りであるということは、とても私にとって心に残る言葉でした。何故ならば、私自身そのことを少し忘れていたような気がします。神様にお願いすることの方がほとんどになっていたかなという思いがあります。神の語りかけに耳を傾けることに時間を割いていたかどうかを考えると、そのことを意識することを忘れていたような気がします。これからは少し神の語りかけにじっと沈黙し、黙想することも大切だということを心に留めておきたいと思っています。
今、自分が置かれている状況は一人一人様々だと思いますけれど、その一人一人に語りかける神の御旨に心を向け、「神は私に何を語りかけて下さっているだろうか?」そのことも大切にしたいと思います。もちろん神のことばに心を向け耳を傾けるということの中では、聖書をとおしての語りかけもあるということを忘れてはなりません。また自分の仕事や奉仕をとおして、出会いをとおして、神が私たちに語りかけておられるということも心に留めておくべきではないでしょうか。
そのためにも、信仰による従順や謙遜が大切であるということは、いうまでもありません。このことを忘れたならば、先週の聖書のお話のように、神が大切なことを話したとしても、無関心な状況の中で耳を傾けることもできなくなります。
イエスは、受難について弟子たちに話されましたが、弟子たちはそのことに無関心であった。弟子たちの関心ごとは、自分たちの中で「誰がいちばん番偉いか」ということに心を向けていたので、イエスが受難について話してもそのことを受け入れることが出来ませんでした。まさに信仰心の従順や謙遜を忘れた弟子たちには、イエスのことばが届かなかったのだと思います。私たちの信仰生活、私たちの祈りを振り返って考えてみることが必要だと思います。

さて、先週の聖書の語りかけに続いて、今日私たちに語りかけられたみ言葉を皆さんはどのように受け取ったでしょうか。
弟子のヨハネがイエスにした報告から今日の福音は始まっています。ヨハネはイエスにこのように言いました。
「わたしたちの仲間でもないのに、先生の名前を使って悪霊を追い出している者がいたのでやめさせました」
ヨハネのこの報告の内容、言い方は、ちょっと気になるような内容ではないでしょうか。それは、イエスの心の内を理解することなく、弟子たちの競争心で”どちらが偉いか”と話していたにも関わらず、自分たちの味方なのか?自分たちに反対する敵なのか?と狭い心で自分の周りの人たちを見ているヨハネではないかと私は感じました。

イエスはそのことに対して話をしています。そこにイエスが真に弟子たちに、きっと私たちにも理解して欲しいことが語られているような気がします。
イエスは「小さな者をつまづかせることのないように」と言って、地獄について語ります。「神の国に入れるのか、それを失うか」ということを話されます。
自分をつまづかせるものが私たちの”手”や”足”や”目”であるならば、「それを切り捨てなさい、えぐり出しなさい」と言います。とても厳しい言葉になります。どうしてこれほど厳しい話をされたのか?そのことを私たちは考えなければなりません。そこにイエスの伝えたい真の意味があるかのように私は感じます。きっと、”何より大切なことをする”ということからこんな言葉が出てくるのだと思います。
「人間の最大の価値が神の国に入ることであり、それを失うことは最大の損失になる」
そういう意味で、あのような厳しい言葉が出てきていると感じます。

厳しい勧めであるかもしれません。私たちが大切だと思うもの、それがつまづきとなるなら思い切って切り捨てなければならない。自分に当てはめても「厳しいな」と考えてしまいますけれども、私たちの現実、そして自分の思いは、どこにあるのか?ということを指摘されているような気がします。
誰でもがこの世で生きてきて、大切なものへの執着というものを持っていると思います。それが現実だと思います。家族であったり、友達であったり、愛する人であったり、一人一人様々なことが大切だと思います。物に対する執着もたくさんあろうかと思います。お金に対しても切り捨てることができないのが現実でしょう。
でも私たち信仰を生きる者にとって、「神の国」や「永遠のいのち」がどこまで大切かということと比較しなければ、イエスの真意もまた、うわの空になってしまいそうな気がします。

今日、私たち一人一人に語りかける神のことばを受け入れ、理解し、「神の国」と「永遠のいのち」を心から願いながら、それ以外の大切なものに執着する私たちの心を解放してくださるように祈りたいと思います。』

2018年9月24日月曜日

年間第25主日

この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。


この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。
勝谷司教は10月にローマで開催されるシノドスに日本の代表司教として参加予定です。
この日のお説教では日本の公式回答書の内容についてお話されました。

この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。


『来週半ばから、世界代表司教会議(シノドス)が開かれます。今回のシノドスのテーマは、「青年、信仰と召命の識別」です。このシノドスは10月3日から28日までおよそ1ヶ月かけて、世界中から集められた青年の現状についてのレポートを基づいて制作された討議要項、これが215の項目に分かれています。それを1ヶ月かけて最初から討議していくのです。それぞれの項目について各国の司教団は4分間、意見を述べる時間が与えられています。たった4分です。4分というとだらだらと話すのが私たちの傾向なのですが、今まで参加した司教様の話を聞くと、30秒前からカウントダウンが始まって、4分になると完全にマイクが切られるとのこと。
  4分間話すとなると、ひとつのことについて中心的に話すことになります。10分の説教をまとめるのに難しいのに、4分で現状や一番言いたいことを話すことは困難です。私はこのシノドスに代表として派遣されることになっていたので、4分間の原稿を作るように司教団から仰せつかっていました。215項目はA4にして約60ページ以上のもので、まずは読めません。十分に読みこなしているわけではないのですが、すでに日本の青年の現状はナショナルレポートで報告してありますので、私が一番関心のあるキーポイントでまず原稿を準備したのです。

  それは、この討議命題に掲げられていた、今後の青少年の司牧はもはや小教区で行うことは難しくなっている。すでに小教区では青少年を指導する現場ではなくなっている。しかし、ミッションスクールにおいては多くの青少年が話を聞く場を持っている。そこが新たな宣教や青少年を司牧する現場となりうるのではないかと書いてありました。しかし、そこに抱えている前提は、欧米諸国のキリスト教圏のミッションスクール、あるいは発展途上、今発展している東アジア、東南アジア、南米、アフリカ。こうしたミッション校の生徒、先生はほとんどが信者です。その現実のもとで書かれている。
 日本では違うぞと言える点はこの辺だなと思い、日本のミッションスクールはその経営母体である修道会の高齢化によって、修道会が経営を維持すること自体が困難である。司祭、宗教家である先生はおろかチャプレンも派遣できない学校が非常に多くある。そんな中で生徒に信者はほとんどいない。教職員も信者がいない。最近は校長も含めた管理職にも信者でない人が出てきている。その中でどうしてミッション性を保つことが出来るのか。かたや、日本の小教区ではご存じのように深刻な少子高齢化の流れの中で、青少年は教会の中で見られなくなっています。しかし、豊かな人生経験、教職についていた人や知識をたくさん持った人がいる小教区。しかし青年がいない。かたやカトリックの関係者はまったくいないけれども、青年のたくさんいる高校。そういうところとコラボして何か出来るのではないか。その例として年頭書簡にも書きました函館の例。複数のミッションスクール、複数の学校。チャプレンはいませんが、函館の場合は白百合とラサール。そのふたつの学校のカトリック研究会の活動の場を湯の川教会に置き、2ヶ月に一回は彼らが企画したミサを行い、バザーやそのほかの教会の企画にも参加してもらう。フィリピンエキスポージャにも企画して参加してもらう。フィリピンエキスポージャの小教区からの応募はゼロです。ミッションスクールから信者でない生徒の参加で延々と行われています。  まとめながら、現状から新しい可能性として、小教区、教区そしてミッションスクールがコラボすることにより、小教区が活性化し、ミッションスクールもそのミッションの使命を果たすことになるのではないかと4分間にまとめ……。これだけの話で4分間が超えるのですが……。日本の現状は討議命題に書いてあることと違うだろうと説明するのが長くなり、否定的な現実をまず理解してもらわなくては……。最後の数行に今のようなことを書いていますから……。司教団からこれはだめだ。悲惨な日本の現実ばかり書かれていて、希望が見えない。もっと、違うことを書いてくれと言われて、別な命題で書くことにしました。

 それが今日から京都で行われている「ネットワークミーティング」……青年の集まりです。これが日本の教会の特徴です。これについて発表することでまとめました。司教団から2回の校正がありましたが、シノドス原稿としてほぼ決定しました。どういうことを言うのか、皆さんに先にお聞かせしようと思います。
 2001年からこのネットワークミーティングは始まりました。これは日本の青少年委員会が閉鎖されて、各教区に青少年の役割が任されることになったときに、小さな教区では独自に青少年活動を行うことができないので、複数の教区が連帯して青年連絡協議会というものが担当者によって結成されました。最初は6つの教区から始まったのですが、その担当者の会議の時に併せて青少年も呼んでミーティングを開こうではないか。そういうことから全国各地から青年が集まるようになりました。今は年2回、全国各地で行われていて、100名以上の青年が集まっています。年頭書簡にも書きましたが、昨年は支笏湖で150名の青年が全国から集まりました。札幌の青年はどこにいたのか分からなかったのですが、25名が実行委員として活躍し、その姿に私も驚いたのです。そのことからも言えるように、青年はたくさんいて活動もしています。自分たちがそれぞれ勝手なことしているかと言うと、実はそうではないのです。小教区にはいられないけれども彼らは、自分たちのミサを真剣に準備している。毎日、夜も準備して、赦しの秘跡の時間もつくる。非常に信仰や秘跡について真剣に求める姿を見ていると、彼らの中にあるカトリック信者であるという強いアイデンティティ。しかし彼らの中には、教会や教会の組織に帰属している意識は非常に薄いのです。年頭書簡にも書いたと思いますが、150人の中で小教区に所属して何らかの奉仕活動をしている人は一人もいませんでした。小教区に貴族しているという意識が非常に乏しい。でもそれが現実であってそれを認めなければ、小教区に戻れという指導をしたら、彼らは行き場を失ってしまう。私は書かなかったのですが、ほかの司教様からも手直しがあって、結論というのは、もはや小教区で青年を司牧するとは現実でない。もちろん小教区で青年が活動することは当然の願いですが。現実は日本、世界の先進諸国ではそうなっていない、この現実から出発しなければならない。しかし、強いカトリックの意識を持っていながら、真剣に自分の人生をどう歩むかと選択しようとしている彼らはいろいろな場をとおして、その導き手を求めているのです。しかし、残念ながら日本を含めた多くの国の教会は、青年たちのその選択をするにあたって、助けてもらいたいと相談を持ちかける対象となっていない。そういう現実が討議要項の命題に書かれています。そしてその原因は、青年が教会から離れていったのではなくて、今、青年が何を求め、どのような問題に直面しているのか、それに対して教会があまりにも無関心で、その中に関わろうとしない。つまり、これは教会の青年離れ。
 現実を言うならば、このネットワークミーティングの青年たちはSNSと言われる、今のネットの社会での関係の中で強く結びついています。私たちは地域に基づいた小教会として物事を見て、その中でいろいろなことを考えようとしていますが、青年は地域を越えている。小教区や教区も越えて、全国的に青年同士と結びあっている。そして、集まりがあればそのときに旧交を暖め、そして刺激を受ける。何人かはそこにおいてワールドユースディ(来年パナマであります。)などに出かけて行く。自分たちの人生の指針を得ようとしています。今、教会が非常に討議要項で繰り返し繰り返しオウム返しになって述べるのは、この青年に同伴することが大切だ。教会が青年が来るのを待っていて、来ない来ないと嘆くのではなくて、自分から出かけて行って、彼らは教会とは違う言語の中で生きている。ネットの世界で生きている。そこには多くの危険性があります。消費主義や世俗主義の中で看過されていく青年たちもいます。その中にあって、むしろそこに出向いて彼らに同伴し、彼らとともに悩み、話しに耳を傾ける。そして、いっしょに人生を歩もうとする同伴者となる、しきりに言われています。
 今日の福音書では仕える者になるということは、かつての教会が聖職者というものは教えに関しても絶対権威を持っており、いわば救いに関わる問題について、悪い意味では社会に対して命令し支配する関係にある。救いに関わる権限をすべて持っている。神の恵みは秘跡を通して、司祭を通して分配されると教えられていた時代、確かに権威は尊敬すべきものであり、絶対服従しなければならない権威があったわけです。第二バチカン公会議はそうではない。命令し支配するのではなくて仕える者として、先ほどの言い方をするならば同伴する者として……。司祭と信徒の召命の違いは質の違いではなくてその役務、役割の違いである。特別な役割の最たるものは共同体のために奉仕する者。そういったことで召されているのを忘れてはならない。それが強調されているのは青年との関わりであり、青年は権威主義は嫌いますから、彼らに同伴することが必要であるのと同じように、青年というものは今の教会を敏感に反映しているものである。炭鉱においてカナリアが死ぬと、有毒ガスが発生して真っ先に弱いカナリアが死んでいく。それを見てみんなが避難する。教会において青年はカナリアみたいものだと随分前から言われてきました。つまり、教会に青年がいないのはどこか病んでいる。そういったことを表している。私たちはそれに気づかずにずっといると、(一酸化炭素中毒で)気を失って命を失いかねない。
 青年たちが私たちに対して訴えていることが何であるのか。今、教会は真剣にこのシノドスの機会をとおして耳を傾けようとしています。私たちの教会もこの現実を受け止めながら、それをとおして神が何を私たちに教えようとしているのか。しっかりと識別する耳に願いを込めていきたいと思います。
 同時に、来月1ヶ月間のシノドス。私、たった一人で行きます。日本は信者が少ないので、信者の数で各国に割り振られますので。心ぼそい私のためにもお祈りをお願いしたいと思います。』

2018年9月17日月曜日

年間第24主日

「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」
この日朗読された「ヤコブの手紙」を深く心に留めておきましょう。


夏休みが終わり、簑島助祭がこの日神学校へと戻りました。
簑島助祭は、いよいよ半年後に司祭叙階式を迎えます。神の恵みが豊かに注がれ、司祭への道を歩まれますようお祈りいたします。

この日のミサの中で「敬老の日」を祈念して、教会を支えてくださっている先輩たちへ、後藤神父様から祝福がありました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先日は大きな地震に見舞われました。一週間が過ぎてもなお余震が続くなか、被災された方々の不安は如何ばかりかと案じます。一日も早く安心して暮らせる日が来ますようお祈りします。

今日の聖書の朗読は、第1朗読、第2朗読、そして福音、詩編では詩を唄いましたけれど、今日私たちに告げられたみ言葉を私たちはどのように受け止めているでしょうか?どんな言葉が心に響いているでしょうか?
福音書全体でもキリストのメシア性と神性を証明するために書かれたマルコの福音が、今日読まれています。福音書全体を通しても、しばしばキリストについて群衆に「この人はいったいどんな人なのか?」そのように問わせ、マルコの福音は書かれているようです。

神の教えが、その驚くべき奇跡について直接見聞きした人々は、今日のみ言葉でも「この人は誰なのか?」と考えさせます。そしてイエスは「わたしのことを何者だと言っているか?」と弟子たちにも問いかけています。そこには初代教会の信仰告白がペトロを代表するように「あなたはメシアです」と生き生きと描かれます。ペトロが告白したこの場所はフィリポ・カイサリアとみ言葉に書かれています。
このフィリポ・カイサリアという街は、ヘルモン山の麓、ヨルダン川の水源地の傍にある街であったといいます。そしてこの街は、ヘロデ王によって造られた街であるといわれます。このようにして考えると、この街はユダヤ人と異邦人のちょうど境目に当たる場所、そういう街のようです。今日の問いかけを黙想するときに、イエスを捨てるべきか、または危険を犯してまでもイエスを信じ、最後まで一緒にイエスについていくべきなのか、そういう問いかけを弟子たちにもしているような気がします。
イエスの求めているのは、一般民衆の答えとはずいぶん違った生き方、神の国がそこに描かれます。
「あなた方は、わたしのことを何者だというのか」
”あなた方”という強調した問いかけをイエスは弟子たちの前で問うています。それはきっと弟子達一人一人の心からの答えを確認しようとしているイエスではなかったのかと、そのように考えます。ペトロは弟子たちを代表して答え”メシア”という表現を使っているのですが、このメシアという言葉は、旧約聖書では度々、王や祭司や預言者に”油をそそがれる”という表現をもってメシア性をそこに表しています。ギリシャ語では”油そそがれた者”という意味を持つメシアという言葉です。ペトロは「あなたはキリストです。メシアです。」このように答えます。それは「油そそがれた者です」という意味でもあります。

イエスの時代、ユダヤの人々にはダビデの子孫から王が生まれる、メシアが生まれる、そのような期待がずっと継承されてきています。いつの日か、この苦しい困難な時代からダビデの子孫が王となって、私たちイスラエルの民を契約の民を救ってくださる、そのことを信じてイスラエルの民は自分たちの信仰を守り続けています。
しかし、そのようなイスラエルの民の期待は、イエスの期待とは少し違った形になっています。人々が期待するメシアは、ダビデの国を政治的に確立してくれるメシア、武力をもって地位を獲得し自分たちの世界を造ってくれる人、革命を起こして自分たちの世界を造ってくれる人、そういうイメージで当時の人々はメシアということを考えていたかのように描かれています。
しかし、イエスの使命は、彼らの期待とは少し違ったところにありました。イエスは神のことばを語る預言者です。そして罪を贖う祭司です。さらに新しい霊に満たされたイスラエルの神の国の王となる、そのことを使命として父なる神のもとから遣わされた方であるということ。ですから同じ”メシア”といっても、その思いや期待は随分と違っていたというように考えられます。
実際にイエスがもたらそうとする王国を本当に理解したのは、誰だったでしょうか?弟子たちはこの時、そのことを理解して”メシア”と答えたのでしょうか?
ペトロの答えを聞いたイエスは、すぐさま「誰にも言わないように」と弟子たちを戒めています。イエスのこうした戒めは、度々奇跡の後でも見られることです。この”メシア”の秘密の動機・理由は、いったい何でしょうか?
苦しみに耐え忍ぶ生活が続くイスラエルの民にとって、開放の期待はただならぬものでした。そういう中で、”メシア”の秘密について、聖書学者の一つの解釈がこのように説明しています。「ペトロのこの告白に対して、政治的な反対が起こることを避けるためではなかったか。」このような一つの解釈があります。
もちろん当時の社会、イスラエルの民の心情を考えたとき、「イエスがメシアである。自分たちの期待する王が今ようやく私たちの前に現れた」と感じる人々がイエスを前面に押し出して自分たちの国の革命を実現してくれる人だと期待するでしょう。そうするとローマに支配されているこの国は、混乱を起こしてしまうということは目に見えています。
イエスがイスラエルで捕らえられ裁判にかけられたとき、バラバという人が登場しますが、バラバはまさに革命のリーダーでもあったと言われています。ですからバラバにつながるような思いを持って、イエスを自分たちの全面に押し出して、”この国を変えてください”という騒動が起こったら大変なことになるという時代背景があった、ということを理解しておく必要があろうかと思います。

歪んだ人々の救いへの期待が、手に取るように分かるイエスでしたが、イエスもまた神の計画の時が満たされる前、弟子たちもまた誠の信仰へとひたすら歩んでいかなければならない厳しい日々が続いていきます。自分の救い、自分中心の信仰ではなく、神の愛に生かされた信仰に向かうため、私たちもまた今日のみ言葉、そしてペトロの信仰告白をよく噛みしめたいと思います。

今日の聖書の言葉をとおして、一つもう一度心に留めておきたい言葉を皆さんにお伝えしたいと思います。
今日は珍しく第2朗読は「パウロの手紙」ではなくて「ヤコブの手紙」が朗読されました。その中で、
「信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」このように語っています。行いによって信仰を見せるというこのみ言葉を心に深く留めておきたいと思います。私たちもこの言葉に、いろいろと考えさせられることではないでしょうか。私自身も言葉では沢山の祈りをするとしても、それが行いを伴っているだろうか、行動につながっているだろうかということを反省させられます。きっと、皆さんの中でそういう思いを抱いて味わうみ言葉ではないでしょうか。

今日は敬老の日を明日に控えて、祝福式を行いますが、長寿の恵みをいただいた皆さんには、今日の詩編のことばにもまた、とても味わい深いことばがありました。
「わたしは神を愛する。神はわたしの声を聞き、日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。足をつまずかせないようにさせてくださる神が守ってくださっている。」
高齢になると健康に不安になってしまう私たちは、足元が及ばないことがよくありますが、今日の詩編のことば、そのこともまた私たちについて考えさせ、励ましてくださることばのようです。
神の祝福をいただき、年を重ねて、自分の足で歩ける範囲がどんどん狭くなってきたとしても、祈りの時間は多くある、そしてその祈りの世界をさらに広げることもできるようです。
私たち一人一人に手を伸べて祝福を送ってくださる神に感謝して、今日もまた心を一つにして祈りたいと思います。』


2018年9月9日日曜日

年間第23主日

9月6日(木)未明に北海道の胆振東部を震源として発生した地震は、胆振、日高地方、札幌の一部地域に大きな被害をもたらしました。
また、地震のつい2日前には、猛烈に発達した台風21号により近畿地方を中心に強風や高潮による大きな被害がありました。
今回の災害で亡くなれた方々のご冥福をお祈りしますとともに、被災された方々が一日も早く安心して暮らせる日に戻れますようお祈り申し上げます。

幸いなことに、教会の位置する札幌市中心部は、大きな揺れによる直接の被害はありませんでしたが、北海道全域に及んだ停電は、物流の停止や交通網のマヒなど日常生活に大きな支障を及ぼしました。
このため、今日は年に一度のチャリティバザー「かてどらる祭」が行われる予定でしたが中止を余儀なくされました。

それでも、今日までに停電はほぼ回復し、この日のミサは予定されていたとおり、英語ミサグループの外国人信徒との合同ミサとして司式され、地震の発生から日が浅いにもかかわらず多くの信徒が教会に集いました。
ミサの後は、バザーのためにあらかじめ準備していた食材などを利用して、ささやかなミニバザーが行われ、お互いの無事を確認し合ったりと、束の間の談笑の輪が広がっていました。



この日のミサは、森田神父の主司式で、後藤神父、佐藤神父、簑島助祭の共同司式により行われました。


森田神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音は私たちにとって、風変わりに思います。何故なら、イエス様は触れるだけで癒やすことができる。あるいは、遠くから一言声をかけるだけで癒やすことができる。そのような箇所がいくつかあります。そのような中で、その人を連れ出して、その両耳に手を入れたり、唾をその舌につけたり。少し時間をかけ過ぎのような気がします。
 少し観点を変えて見ると、その人は一瞬で癒やされるよりも、こんなに長い時間、イエス様と一緒にいれていいな。彼の受ける印象が少し違うかもしれません。イエス様は私たちの抱える病気とか問題を、様々な手法でされることが考えられます。百人隊長は僕を癒やしていただくときに、イエス様に、わざわざ来てもらう必要はありません。遠くから一言おっしゃってくださいと言われたのです。イエス様はそのようにされました。イエス様は百人隊長を皆の前で褒めました。(ルカ福音書7章2~10節)別な時には、会堂長のヤイロの娘の話があります。(ルカ福音書8章41~56節)自分の娘が死にそうなので、治してくださいと言われたイエス様は、行って治してあげようと、わざわざそうおっしゃいました。イエス様はヤイロを見ながら、もしかしたらこの家族は熱心な神様の弟子になると直感したのかもしれません。そして、12歳の娘を生き返らせたのです。そういう目的があったかもしれません。
 そして、イエス様はこのことを、誰にも話さないようにとおっしゃいました。別な箇所では、こう言っています。ゲラサ地方の悪霊にとりつかれた男の話です。この男から悪霊は出て行きました。しかし、ゲラサ地方の住民はイエス様に、ここから出て行って欲しいと言います。その時、イエス様はその男に、ことごとく話して聞かせなさいとおっしゃいます。(ルカ福音書8章26~39節)いろいろ違いますね。黙っていなさい。話しなさい。
 今日のイエス様は、私たちが不思議な業を他人に伝えるよりも、それを私たちの心に受け取って、深くこれを黙想したいのです。その意味を考える。神様はこんなに力強い方で、私たちを癒やしてくださる。こんなに近いお方でもある。それを考えて、私たちの今後の信仰やあり方をゆっくりと深めて欲しいと思われているのではないでしょうか。
 肉体上の癒しは一時的なものですが、精神上、霊的な癒しは長く続いて、永遠の命に至ります。もし、これを深めなければ、イエス様を喜んで迎えた後に、十字架につけろと叫ぶ民衆に私たちはなり得るわけです。私たちはこれを深めて、私たちの中に定着させる必要があると思います。
 このように今日の話は、ちょっと以外に見えますが、主はいろんな面からその人自身を良く知っておられ、何がその人にとってベストな方法であるか、何がその人にとって幸福に繋がる方法であるか、良くご存じである。そして主は、ご存じであるばかりでなく、それを望んでくださる。そういうことを思いながら、私たちも自分に対する主のなさり方を常に信頼して、祈りの中でそれを深めていきたいと思います。』

2018年9月2日日曜日

年間第22主日 「札幌地区使徒職大会」

藤女子大学講堂で札幌地区使徒職大会が開催されました。



開会式の後、この1年の間に受洗された76名の方々のお名前が読み上げられご紹介されました。勝谷司教様から「新しく洗礼を受けた方々は、私たちの”宝”です。受洗者の方々がなぜキリスト者の道を選ばれたのかを知ることは、私たちの信仰も新たにしてくれます」というお言葉がありました。

続く講演会では、高円寺教会主任司祭 吉池好高神父様が「家庭:信仰伝達の場」と題して、教皇フランシスコが示された使徒的勧告「愛のよろこび」について、ご講演されました。


吉池神父様は、主日ミサでもお説教をされましたのでご紹介します。


『主イエスのみ言葉は、それが私たちの耳にはどのように厳しく聞こえようとも、そのみ言葉の前に頭を垂れて、真実それを受け入れることが出来るとき、それは私たちに福音の喜びをもたらすみ言葉となります。

今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたみ言葉も、私たちにとっては、そのようなイエスの福音のみ言葉です。
これらのみ言葉を福音として受け止めるためには、ファリサイ派の人々に向けて語られたそれらのみ言葉を私たち自身の在り様を指摘し裁くみ言葉として、謙虚な心を持って受け止めなければなりません。

福音書の中のイエスのみ言葉は、どれも私たちの在り様を裁くみ言葉です。何故なら、み言葉を聞くとき、私たちはイエスが指摘しておられるとおりの自分自身の在り様を認めざるを得ないか、イエスが指し示す在り様には生きられていない自分を認めざるを得ないからです。
み言葉を聞くとは、イエスがそのみ言葉によって指摘している私たち自身の在り様を謙虚に認め、その先にイエスが示す新しい生き方に向かってイエスに導かれて歩み始めるということです。私たちがそのことを受け入れることが出来るとき、イエスのみ言葉は私たちを喜びで満ちた新たな生き方に向けて導く福音のみ言葉となるのです。

今日の福音に登場するファリサイ派の人々が、その生き方によって目指した世界は、私たちが知らず知らずのうちにその中にどっぷりと浸かって生きている、今も私たちを支配している価値基準に基づく世界です。そこでは昔の人の言い伝えに基づく社会的規範が、事の善悪、人の優劣を決定づける規範となります。
今の私たちを取り巻く状況はもっと深刻で、今の私たちの社会の問題はその様な価値基準が崩れ、それに基づく社会的規範は効力を持たなくなってしまっていることに原因があると私たちは心のどこかで思っています。
けれどもそのような私たちの内に、ファリサイ派の人々がその生き方を通して目指した昔の人の言い伝えに基づく社会規範の再構築として、掟厳守の社会の実現への郷愁が息づいていることに気付かざるを得ません。けれども、まさにそのことによって、私たちはファリサイ派の人々が理想としていた生き方に向かって再び歩み始めることになってしまいます。

昔の人の言い伝えによる価値基準と社会規範に基づく掟厳守の理想は、それが如何に妥当なものと思われようとも、イエスがもたらそうとしている福音に基づく生き方からは遠くかけ離れていることを今日の福音から私たちは学ばなければなりません。
昔の人の言い伝えを重んじて、社会規範としての掟厳守の理想を生きるファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちの中に汚れたままの手で、手を洗うことなく食事の席についているのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか。」と、イエスに質問します。このようなファリサイ派に対するイエスのみ言葉は、どこまでファリサイ派の人々の心に届いたのでしょうか?今日の福音を聞いている私たちの心にもどこまで届いているでしょうか?

イエスは、イザヤ預言者のことばを引いて次のように言われます。
「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、 人間の言い伝えを固く守っている。」
ここにイエスの目に映っているファリサイ派の人々の姿があります。そして、そのファリサイ派の人々の姿は、私たちの在り様とも無縁なものではありません。

神の掟が私たちの心の深みにまで届かないとき、神の掟の深みが私たちの心を揺さぶることを止めるとき、昔の人の言い伝えは神の掟との繋がりを語る”人間”の戒めに過ぎないものになってしまいます。そしてそれは”人間”の戒めであることによって、私たちの心の深みにまで届くことなく、守るべき規律・規則となってしまいます。
守るべき規律・規則が必要ないということではありません。けれども”人間”の戒めに過ぎない規律・規則は、あまりにも表面的なものであることによって、心の深みに届くことなく、その前で心底私たちの頭を垂れさせる力を持ってはいません。それが力を持てば持つほど、表面的な規則や規律は、私たちの心に呼びかける神の声に対して、私たちの心の耳を閉ざさせてしまいます。

こうして、私たちの社会の規範となっている人間の戒めは、それを守るか守れないかの目安となって、神の掟に代わって人を裁く道具となってしまいます。
神の掟を完全に守っていこうとする人間の善意から出発したはずの言い伝えを拠り所とする”人間”の戒めは、私たちの中から神の掟がそこで働くはずの私たちの心の内面を閉ざしてしまうのです。

今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたイエスのみ言葉は、そのようなことを指摘しています。そしてそのみ言葉は、今のこのような時代を生きる私たちの心にも届くはずのみ言葉です。
神の掟は、それが神の掟であることによって、この世に生きる私たち全てのものに、それに従うことを求める普遍性があります。その前に、全ての私たちの頭を垂れさせる力があります。

誰も神の掟に完全に従うことはできません。自分の内面に立ち返って真実自分を見つめるならば、誰でもそのことに気付くはずです。
今日の福音のイエスのみ言葉は、私たちにそこに立ち返るように求めています。
人間の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、それを教える者と教えられる者との間に断絶を生みます。
何故なら、今日の福音に登場するファリサイ派の人々の姿勢が示しているように、それを教える者は教えた者達が、教えられたことを守っているかどうか、いつも神経を尖らせていなければならないからです。
そのようにして、人の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、教える者と、教えられる者との立場を固定化し、その双方に深みのない掟に頭を垂れて、自らを省みる道を閉ざしてしまいます。

今日も私たちは、神の御前にそれぞれの在り様を振り返り、神の御前で等しく罪を告白し、赦しを求めあって、このミサを始めました。
主の祈りをともに唱え、神の赦しの恵みの中で、互いに赦し合うことが出来ることを祈り求め、神の愛と赦しの秘跡である聖体に近づくために、立場の違いを超えて、平和の挨拶を交わし合います。
ここにイエスが私たちを招いておられる世界があります。私たち全ての者が神の掟に従いきれない現実を知っておられ、そのような私たちを愛を持って裁き、その裁きを信じ受け入れる者達を愛の赦しの中に招き入れてくださるイエスの心に少しでも近づくことが出来るよう、このミサをともにお捧げして祈りましょう。』

2018年8月26日日曜日

年間第21主日

イエスの話につまずき離れていった多くの弟子たち。
そんな中でペトロの力強い信仰告白がありました。

聖体拝領の前に、私たちはいつもペトロに倣い唱えています。
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日、聞いた聖書の言葉は、皆さんの中でどのように響いていたでしょうか。
先週のお説教でも少し触れましたが、今年は本来B年なのでヨハネの福音ではなかったはずですけれど、8月の日曜日はずっとヨハネの福音が読まれます。パンの奇跡の話からご聖体に至るまでの話がテーマになっており、今日の福音まではヨハネの福音が読まれ私たちはみ言葉に耳を傾けています。来週からはまたマルコの福音に戻ります。

今日の福音は先週に続いて、カファルナウムの神殿でイエスから話を聞いた人々の反応が具体的に表されます。
福音の最初では、イエスの話を聞いて人々は言います。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」今日は私たちに語られた言葉を深く心に留めていきたいと思います。
今月はずっとパンの話が続いていました。そして、先週からはパンの話はイエスのからだと深く繋がっているという内容に変わってきていました。イエスが「わたしのパンとはわたしの肉のことであり」、さらに「血を飲む、肉を食べることによって永遠のいのちを得る」と話したことによって、それを聞いたユダヤ人やイエスの多くの弟子たちがつまづくことになりました。イエスの話を聞いてつぶやき、離れていった弟子たちと、イエスのことばを理解するためにあくまでイエスに従う弟子たちとの対比が描かれています。

イエスの弟子たちには、イエスのごく近くにいて従う12人の弟子のほかに、”大勢群衆がイエスの後を追った”とあるように、12人以外にもたくさんの弟子たちがいたようです。大勢の弟子たちの中には「つぶやくな!」と言われているのに、つぶやいたり、つまずいたりする弟子もいたということが今日明らかにされています。
イエスは、わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も生きると言われ、ご自分が「天から降ってきたパンである」と応えました。しかし弟子たちの多くの人々は、そのイエスのことばがなかなか理解できないのです。イエスはさらに「人の子がもとにいた所に上るのを見るならば・・・」ということも言っていました。
天はイエスにとって”以前いたところ”と語られています。今の私たちは、イエスが御父と一体の方である、にも関わらず、御父から子としてこの世に遣わされて救い主となった方でもある、と理解しています。ですから天は、”以前いたところ”という表現も私たちは受け止めることが出来ると思います。私たちはキリスト教の歴史についても多少学んでおり、そして聖書も度々読み学び、イエスの受難と十字架の死や復活を知り理解し、それを信じる信仰を生きています。しかし今、聖書の中で語られている人々はどうでしょうか。当時の人々はまだそのこと理解できていません。なぜなら、イエスはまだ十字架に架かっていないときの話をしているからです。「これからわたしはエルサレムに行って裁かれて十字架に架かって死ぬ」と、そのような話はし始めているけれど、当時の人々はそのような話を聞いてもピンと来ないし、「死ぬなんて、そんなことは言わないでください」と、そのような形でしか受け止めることが出来ませんでした。いま私たちが聖書を聞いて、受け止めようとしていることと、当時の人々がイエスの話を聞いて理解できることには大きな隔たりがあったということです。

イエスのことばを理解するためには、今日のみ言葉では”肉は役に立たない”と述べられています。
聖書で言われる”肉”とは、神との関わりを欠き、人間に過ぎない自分の思いに固執する人を指しているようです。私たちも少し考えてみれば、自分の”肉”の欲望に支配され、左右されてしまうことは多いかもしれません。それはある意味で神との関わりを切り離す欲になってしまうような気がします。
一方、神の霊に導かれてイエスのことばを聞くならば、それを信じることができる。イエスのことばは私たちの心の中にすんなりと理解し収まってくれる。霊であり、いのちであるイエスのことばは、神からのいのちをこの地上にもたらし、肉である人間を生かすのだといわれます。
このようにして、イエスの説得にも関わらず、多くの弟子が霊に背を向けて離れていく者がいた。一方でイエスと共に歩もうとイエスにさらに向かう弟子たちがいたのです。
霊によって生かされる世界を示す、まさにその時、ある多くの弟子たちは離れ、イエスのもとより引き返してしまう弟子たちがたくさん出てしまう。キリスト者と呼ばれる人々が多くなるにつれて教会共同体にも迫害の嵐を前にする、そういう時期になっていました。困難とは外からの迫害ではなく、今日のみ言葉でいえば、イエスのことばが理解できないという内側からの迫害・困難であったようです。神に近づくための困難には、様々な困難があります。迫害もあります。霊の働きを受けることができなければ、自分の内側から神との距離をさらに持ってしまうこともあるということが語られます。
彼らは”肉”に留まり、自分の知識に閉じこもることでイエスのことばが聞き取れなくなってしまう。私たちは時々、そういうことを感じます。人と話をしている時にもそんなことを考えてしまうことがあります。いくら教会に来て、聖書や神様の話を聞かせてくださいと言われる方でも、心を閉じたままで、ただ頭にだけ話を聞かせてくださいと、心を開かない人が時々おられるような気がします。心を素直に開かなければ、知りたいこともなかなか受け入れることが出来ないのではないでしょうか。

イエスはそのような人々を見ながら言います。「あなた方も離れていきたいか」そして 12人の弟子たちに同じ質問をします。でも弟子たちは他の弟子たちと違っていました。ペトロが代表して答えます。それはイエスの信仰へと招く問いかけに対する答えです。私はこの問いに答えたペトロの言葉が感動的に感じています。
ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」このようにペトロは信仰を告白しました。
私は弟子たちを代表してペトロが答えたと言いましたが、ペトロの答えの中に「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と、このように”わたしたち”という表現を取ったことが、弟子たちを代表したのだろうと推察しました。
このペトロの告白・決意の表明は、イエスが神に由来する特別な存在であることを表明しています。信じることによって、霊に生かされた世界へとイエスと共に歩き続けるペトロの新しい出発がありました。
このペトロの信仰告白は、毎週日曜日に皆さんも同じように宣言・信仰告白しています。気付かれているでしょうか。聖体拝領の前に司祭がイエスの御からだとなったご聖体を高く上げて「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と司祭が唱えた後、皆さんが答えます「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」と。
まさに今日の福音でペトロが信仰告白したその言葉を、私たちもミサの中で毎回聖体拝領の前に信仰告白として使っています。

イエスを離れた弟子と、イエスを信じ従った弟子たちの違いを、どうように私たちは見つめることができるでしょうか。”肉”の目でイエスを見るとイエスは単にガリラヤで育ち、大工ヨセフの息子であり、十字架で死んだ一人の人物としか見えてきません。しかし、”霊”の目でイエスを見る者には、イエスが真に神の子であり、どこで生まれたのか、そして十字架の死に対しても「以前いたところに上る」とイエスを見ることができるのではないでしょうか。受難のイエス、私たちは磔刑のイエスをいつも主の祭壇で仰ぎ見る、そういう信仰生活をおくっています。

霊に生かされた世界へとイエスとともに歩き続けようと決心したペトロに私たちも倣い信仰告白をして、今日もご聖体をいただこうとしています。聖体をとおして、キリストに結ばれる私たちが、互いに支え合い、ともに信仰の道を歩み続けることができるよう祈りましょう。』

2018年8月19日日曜日

年間第20主日「いのちのパン」

今日もまた”キリストのからだ”をいただく私たち。
イエスの教えと死の意味を深く心に留めましょう。

この日のミサは、後藤神父様と簑島助祭の共同司式でした。
神学生の千葉さんも侍者として奉仕されました。


ミサの後、カテドラルホールで「聖母被昇天」の祝賀会が行われました。皆で聖歌を唄ってマリア様をお祝いしました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖母被昇天やお盆を迎えた一週間でした。
この一週間の間に悲惨な事件もありましたが、うれしいニュースもあり、喜びが心の中で続いています。誰もが心配していた山口県の行方不明になった2歳の男の子のことです。藤本理稀(よしき)ちゃんという男の子が無事に生きて帰って来られた。2歳になったばかりの子供が行方不明になって三日過ぎた。きっと誰もが最悪の状況を考えてしまった、そんな気がします。でもそれを口にするのははばかられました。奇跡の生存で発見されたとき、この子供のお母さんが私たちが想像していたその思いを言葉にしていました。「もしかすると亡くなっているのかもしれない」お母さんも追い詰められていたそんな状況の中で、奇跡の生還を果たしました。何よりも本当に2歳の子が三日間、山の中で真っ暗な世界で過ごしていたということを考えると、本当に私たちはどのようにして頑張って生きておられたのかなと、そんなことを考えてしまいました。
私はきっと2歳の子の心の中には私たちが気付けない心の傷があるのではないかなと考えてしまいます。一日も早く、そうした心が癒されるように祈りたいと思います。
県警や消防の人が約400名程動員され捜索していたにも関わらず、発見したのはボランティアで前日に県外の大分県から訪れた78歳の尾畠春夫さんという方でした。皆さんもテレビでその方の姿を見たことと思いますが、一刻も早く見つけてあげたいという思いで、一人で朝6時に山に向かったそうです。そして30分ほど経ってその子供発見した。400名近くの方々が、行方不明なった近くを丹念に捜索していたようですが、地元の人たちが発見できなかったにも関わらず、他の県からボランティアで来た”おじいちゃん”が山に入って30分ほどで発見したということに驚きを感じました。この方は、65歳で仕事を辞められてその後は世の中のために働きたいとボランティアに勤しむ生き方をされている人でした。昨日の道新の朝刊では、この人のことをもう一度取り上げて、こんな表現をしています。「おとこ気にあふれ、曲がったことは大嫌い、困った人を見れば助けないではいられない。映画やドラマに登場する一心太助のような人」とその心意気を称賛する記事が出ていました。皆同じ気持ちではないでしょうか。本当に感心するボランティア精神をテレビでも語られていました。
この一週間の中で、私はそのニュースを今も心に留めています。奇跡の生存と言えるのでしょうか。私たちは福音をとおしてパンの奇跡に驚いていますが、現代もきっと奇跡は起きているような気がします。

福音に入っていきます。パンを増やすイエスの奇跡から始まったみ言葉は、今日も続いています。「わたしは天から降って来た生きたパンである」という聖体についての話に変わっていきます。今日読まれた福音の初めは、先週読まれた6章51節の結論が再び繰り返されています。珍しいことかもしれません。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」というイエスのみ言葉。今日の福音ではそのイエスのお話がユダヤ人の人々を驚かせたとあります。「パンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」ということに疑問を投げかけたイエスのことばです。
もし、イエス・キリストが神から遣わされた方であること、そしてイエスのその生涯を知らない人が今日の聖書の箇所を読んだらどのように受け止めるでしょうか。やはりびっくりするような内容になっている気がします。信仰を持たない人にとって、イエス・キリストを知らない人にとって、人の子の肉を食べるとか、わたしの血を飲むものとか、こうゆう表現はきっと顔をしかめるのではないでしょうか。あまりにもグロテスクな内容に聞こえてきます。でも信仰を持つもの、イエス・キリストがどんな人であり、どんな生涯をおくったかということを知っている人にとっては、そこまでの大きな疑問を持たずにそのことを受け止められるのだと思います。初めてこういう言葉を聞くとどうしても驚かれる方が多いような気がします。数えきれないくらいの宗教が現代の私たちの世界でもありますけれど、自分の肉を食べさせるという宗教はキリスト教以外にあるのでしょうか。そんなことも考えさせられます。でも考えてみると、これこそ私たちの信仰するキリスト教の特徴ではないでしょうか。でも私たちもキリストの肉を食べるということを正しく正確に理解していかなければ、キリスト教の理解を十分にしているとは言えないような気がします。私たちももっと深くこの”キリストの肉を食べる””キリストのからだであるパンを食べる”ということを深めていかなければならないような気がします。

今日読まれた聖書のことば、福音の中には、”食べる”という言葉が何度も繰り返し出てきています。皆さんは気付かれたでしょうか。”食べる”という言葉が8回繰り返し出てきています。日本語では”食べる”ですけれど、聖書の原文では少し別な描写の言葉も使われているそうです。日本語では全て”食べる”という訳になって8回になっていますが、原文では違った言葉も”食べる”と訳されています。三度目に”食べる”という言葉が使われている箇所のニュアンスは、このような意味があるそうです。イエスが十字架上で殺されますけれど、私たちがそうしたイエスと一つになるのでなければ、命はない、という意味を持った”食べる”という言葉が使われているのだそうです。イエスはどんな人か、どんな使命を持ってどんな死に方をしたか、そういうことを含めた言葉になっているそうです。
このように見ていくと、この後に出てくる”血を飲む”という表現も深い意味を持って、私たちに語られているようです。”血を飲む”という表現はいけにえと関連します。血は命であり、命は神のもの、という考えから、血を流すこと、血を飲むことは厳しく禁じられてきました。しかし私たちは旧約聖書を読むと、血の話がたくさん出てくることに気付いています。「祭壇の上で、いけにえの血を流し神に捧げ・・・」このような表現は何度も旧約聖書の中に出てきます。特にレビ記の中では「人の命をつぐなうのは血である」という表現もとられているほどです。ですから罪のつぐないとして、動物を捧げ祭壇上で焼き尽くす”いけにえ”として血を流し、罪を清めていただく。そんな表現が旧約聖書の中で語られています。
「人の子の血を飲む」とは、私たちの罪の償いとして、十字架上で殺されるイエスの命と一つになるということを意味していると言えるようです。「血を飲む」そして「肉を食べる」という二つのこれらの言葉は、イエスの十字架上で私たちのために殺されるという神秘が前提として含まれるということでもあります。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの内にいつもおり、わたしもまたその人の内にいる」ここで使われる”食べる”という意味は、よく噛んで食べる、しっかりと受け止める、このような意味合いを持っているようです。それはイエスの十字架、贖いをよく理解し、受け止めなければならないということにもなってきます。

私たちは今日もまたイエスのパンをいただくわけですけれど、祭壇上で聖変化してパンとなられるイエス自身が私たちのミサと深く関係してきます。聖体の神秘と一つになっています。私たちがミサに与るという時に、この十字架で贖われたイエスと深くつながっていくということも、私たちはもっと理解していかなければならないような気がします。
今日も聖体によって、信じる人々の上にいやしを与えてくださる聖体が私たちのもとに届けられます。この今を感謝して聖体につながれ一つとなることができるように今日もまた心を一つにして祭壇の前に一致したいと思います。』