2017年11月19日日曜日

年間第33主日 「貧しい人のための世界祈願日」

教皇フランシスコの意向により、年間第33主日は「貧しい人のための世界祈願日」として、ミサの中で共同祈願が捧げられました。

『ご自分を小さい者や貧しい者と等しい者とみなされたキリストに倣い、わたしたちも、貧しい人、弱い立場にある人に寄り添い、奉仕するよう求められています。
 不平等や不正義のない世界の実現に向けて、具体的なわざを通して神のいつくしみのあかし人となれるよう、祈り求めていかなければなりません。』
(「貧しい人のための世界祈願日」とは? カトリック中央協議会HPより抜粋)

この日の後藤神父様のお説教では、教皇様のメッセージを中心にお話されました。



御ミサの後、
 この日(「貧しい人のための世界祈願日」)の理解を深めようと、ホームレスへの炊き出し支援団体「みなずき会」の活動に参加している、当教会のメンバーから活動の内容、ホームレスの現状などについてお話しをしていただきました。
 
 死者の月の勉強会第2弾「小田神父様DVD視聴会」をミサ後に開催し約40~50名ほどの方が約2時間、研鑚しました。テーマは①通夜と葬儀でカトリック教会が大切にしていること。②家族葬(密葬)、直葬とは。



2017年11月12日日曜日

年間第32主日 「秋の大掃除」

典礼は、今日から「終末主日」と呼ばれる期間に入ります。


今日は「秋の大掃除」の日でした。
主日ミサの後、聖堂とカテドラルホールの大掃除が行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今朝、駐車場の欅(ケヤキ)を眺めていました。かなりの枯葉が落ちています。再臨の時が分からないように、枯葉がいつすべてが落ちるのかなと、今日の聖書のお話しを少し思い出しながら考えていました。
  み言葉の世界に心を向けます。ちょっと大きな行事があると、私たち、教会では誰もが係りの人と相談しながら準備に入ります。準備を考えると行事に合わせ、ていろいろなことを考えます。こうしたらいいなあと思いがあるも、なかなか思うようにならないのが現実です。そう思うと、今日のたとえ話を考えても、いつも準備に一喜一憂する私たちにとって、とても身近なたとえ話になると考えます。
 相応しい準備はこの世のことばかりではなくて、いつの日か死を迎えて旅立ちをする日の 世の終わり、そして主の再臨の時まで考えされられる、今日のたとえ話しになります。その再臨の時に、「私はあなたがたを知らない。」と、天の国の門が閉ざされて入れなくなるという悲しみを、誰もが味わいたくありません。その準備を後回しにするのではなくて、常に良い準備をしておかなければならない。そのようなたとえ話が、今日私たちに語られます。

 天国についての3つの教えのひとつが、今日の花婿を迎える婚宴にたとえられて語られます。10人の乙女たちは、ユダヤの婚礼の習慣にしたがって、それぞれ準備をしていたことでしょう。でも、それぞれの結果が大違いになってしまいました。ほんの小さな考えの違いから、時には最終的に取り返しのつかない、悲劇的な結果があるということだと思います。愚かな乙女たちのような状況では、誰もがもうだめだと、そんなふうに考えて寝込んでしまうのではないでしょうか。取り返しのつかない結果を受け入れなければならないと考えるならば、悲しくもあり、また恐ろしくもあります。チャンとしないからと人ごとのように考えてはならないと自分にも言い聞かせます。
  イエスの再臨の時を考えるならば、私たちもイエスを迎える時に必ずやってくる。良い準備というのはイエスに信頼して、心を開いて日々を過ごす予備の油の準備。夜、灯りを灯すことが出来る油の準備を意味していると思います。そういう準備をしてイエスとの再会を待たなければならないのが私たちの現実。良い準備も出来ず、良い準備もしないで、そのとき委せではきっと誰もが後悔することになるのではないでしょうか。良く考え良い準備をし続けることを大切にしたいと思います。たとえその結果、が失敗に終わったとしても、自分なりに精一杯準備をした。その結果としたら、後悔は少ないのではないのでしょうか。良い準備もしないで、そのとき委せで悲惨な結果を受けたとすれば、誰もがああすれば良かった、こうすれば良かったと、後悔が先になるような気がします。
  良い準備。良いと言うことはまさに良いことである、そういう意味です。良い準備はたっぷり十分に時間をかけて、そのために準備をする、考えるということだと思います。良い準備をしてイエスに出会うことになる。良い準備が出来てこそ、またイエスに出会うことが出来る。でも私たちは、時に良い準備をしたとしても、したつもりでも思いがけないことに出会うことが良くあります。この世の中で、出来事はそういうことの連続かもしれません。でも、イエスに信頼して、良い準備をしているならば、神はけっして私たちを悲しませることはないでしょう。たとえ、良い準備の結果が自分の思い通りの結果でないにしても、私たち一人ひとりを愛してくださる。慈しんでくださる。私たちを導いてくださる神は、私たちを前を向いて歩けるように力を与えてくれるはずです。

 聖書ではユダヤの古い時代の状況を取り入れて、今日のたとえ話しが語られています。ユダヤの習慣ではいつも花婿を迎えるために、婚宴の準備をして迎えたようです。今日のお話しの中で、花婿の遅れたことへの非難はひとつも語られていません。花婿が遅れていなければ、こんなことにはならなかったと思っている人もいるのではないでしょうか。そのことについては触れられていません。
  聖書ではしばしばキリストが花婿として表現されます。そして、信徒の共同体である教会が、花嫁としてその関係を表します。花婿を迎える乙女たちとは、キリストを信じ、キリストを待つ私たち信者、共同体をも表しています。
 そして、聖書でいう賢い人、愚かな人というのはどういうことか少し考えます。賢い人…旧約聖書では神の教えや掟を認め、生涯忠実にそれに生きる人のことを賢い人というようです。律法学者やファリサイ派の人たちのことを思いおこすかもしれません。福音でも、神のみ言葉を聴きこれを実行する人。先週の律法学者にイエスが言われましたけれども、言うだけで実行しない人のように、口先だけで終わる人ではないことははっきりしていると。愛の掟の実践者を示してこそ、賢い人と福音では言われている。教えを良く理解して、それを生きる人が賢い人。教えは知っているけれど、それに反する行いをしたり、それを無視したり実行しない人は愚かな人になるようです。私たちはどうでしょうか。公教要理を学び、聖書の勉強をし、そして説教を聞きながら聖書の世界に触れていますが、私たちは理解したこと、学んだこと、それを実践出来ているでしょうか。私たちも愚かな五人の一人になっていることのほうが多いかもしれません。

 今日のお話しの背景には、弟子たちや群衆に話しているたとえ話しですが、先週のみ言葉で話されていたように、対立して襲いかかる律法学者やファリサイ派の人たちへの容赦ない痛烈な言葉として、また語られていると私は考えます。弟子たちに話していますが イエス自らが日々、今体験している律法学者たちの攻めに対して、何が大切かということを弟子たち、そして群衆に教え導いている、このたとえ話しです。良い準備をしなさい。目覚めていなさい。
 イエスを信じ  イエスとの出会いを待つ私たちです。でも、その時になって、知らないと言われることがないように、目を覚ましていなさいと諭しています。
  私たちの心、私たちの祈りは、ただみ言葉を大切にするということだけでなくて、そのみ言葉を生きる者となることが出来るように、今日も私たちは心に留めながら、このミサに与りたいと思います。』

2017年11月5日日曜日

年間第31主日

イエスは、名誉や権威を守ることに腐心する偽善的な行いや高慢な態度を厳しく戒め、仕える者になるように教えます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『「諸聖人」そして「死者の日」から11月が始まりました。皆さんはこのミサに入る前に回心の祈りを唱えましたが、この一週間を振り返りながら、皆さんはどんな回心の祈り、心を改める祈りをされたでしょうか?私は、そのようなことを今朝少し思い巡らしてみました。先週の日曜日の聖書のことばは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」まずそれが私たち信仰を生きるものにとって何よりも大切なことである。それに加えて、隣人を愛するというお話でした。私たちの信仰生活を振り返った時に、この一週間のうちにそれが活かされていたでしょうか?そんなことを考えると、私たちはたくさんの悔い改めの出来事を日々の生活の中で思い起こします。こうした思いを神様に清めていただいて今日のミサを捧げることはとても大切なことです。

今日の福音は、イエスと律法学者たちとの論争に続く場面が語られています。
律法学者やファリサイ派の人たちは、自分たちの名誉や権威を守ることを目的として「モーセの座」に立って教えています。そのような彼らの態度は、イエスの目には「偽善者」として映ります。今日読まれた聖書に続く箇所には「偽善者よ、あなたがたはわざわいである」というイエスのことばが続きます。
「モーセの座にすわっている」という言葉は、律法学者とファリサイ派の人々が教義を説き、律法を解釈し、執行する立場に置かれていたことを意味しています。律法学者とはモーセの律法を研究する法律家であり、ファリサイ派は宗教の教師でした。彼らは教義を教える時や聖なる時間を過ごす際には、特別な装束を身に着けていたようです。その一つには、聖句箱とよばれる聖書の中でも大切な言葉が書かれた経札が入れられた小箱を額に着けていました。それは、主と一つであるという姿勢や、心が常に神の律法に向けられていることを表すためのものでした。これらを身に着けて「モーセの座」に立って教えている時には批判を受けることはありませんでした。しかし、イエスは彼らに向って、本当に神に心を向けているのか?と厳しく咎めたのです。経札を偽善的に使用したり、注目されるために箱を大きくしたりと、そのような行いを決して見倣ってはならないと弟子たちや群衆に話しました。見かけは熱心に祈っていても、神様への畏敬や感謝の心がこもっていないなら何もしないのと同じことであると、彼らの行いの伴わない高慢な態度を批判しました。私たち司祭もイエスが批判した彼らと同じような仕事をしています。知らず知らずのうちに高慢な態度を行使しないとも限りませんので、皆さんのお祈りや支えもお願いしたいと思います。

人間の集まる世界には必ず、権威が現れ、指導者も必要になってくるようです。教会にとどまらず、学校にも、職場にも、また家庭にあっても父親や母親の権威と指導が子どもを育てる上では大切なことになります。
自分の思い通りに人を動かすことは精神的な快感ももたらします。権威を持つときには注意が必要です。
神に向う道であればなおのこと、傲慢な人ではなく謙虚な心を持って歩むことが求められるのです。
奉仕をするにしても指導をするにしても、個人的な自分の名誉のために行うことがないようにと、イエスは弟子たちをそして群衆を諭されています。そのうえで教師は一人、先生は一人、キリストの心を心として生きることこそ、私たちキリスト者の大切な心であると教えます。

私たち一人一人に与えられている神からの恵み、力、能力、そうしたものを人々への奉仕のために謙虚に用いることが出来るように、神への栄光に役立つものとなるように、今日改めて、私たち一人一人の思い・行動が、神のみ心に沿っているのかどうかを考えながら、今日のミサで祝福を祈りたいと思います。』

2017年10月29日日曜日

年間第30主日「神の愛、人への愛」

今日の福音では、イエスがファリサイ派の人々へ、神の愛、人への愛を教える場面が語られました。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『「ロザリオの月」と呼ばれる10月も最後の日曜日を迎えています。神のいつくしみの手の中でこの大自然の景色も秋の色に衣替えをしている真っ最中だと思います。厳しくなる寒さには身体がまだ慣れずに、外へ出るときは着るものにも気を遣っています。
毎朝、目覚めた時に眺めている教会の屋根の上には、この頃は毎日のように枯れ葉が固まって、風に飛ばされないようにしがみついているように見える場所もありますが、皆さんの住まいの周辺は、どんな秋に包まれているでしょうか?

さて、今週の福音は、先週に引き続く箇所が朗読されましたが、皆さんは覚えていますか?「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお話がありました。イエスの回答でサドカイ派の人々が納税問題の質問で失敗したかのようなお話になっています。今度はファリサイ派の人々も一緒に集まって、またイエスに質問するという、そのような内容の福音でした。
今日の福音の中では、聖書で最も大切な掟は何なのか?という質問がされています。「主を愛しなさい」という愛の掟。私たちはどのように聞いたでしょうか?まさに、そうでなければならないと心に留めたことと思いますが、先週からイエスに対立するグループの名前が次から次に出てきています。思い起こしてみますと、”納税問題””復活について””掟について”と聖書は日曜日ごとに語ってきますけれど、そのような質問をする人々は、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、律法学者たち、と様々なグループが登場してきます。そもそも同じユダヤの信仰を持つグループではありますけれど、相容れない主張を持ってるグループのようです。しかし、それぞれ主張を異にしていても、イエスを罠にかけ、陥れるためならば、自分たちの派閥を超えて協力をするというのは、つい先日行われた総選挙の政治の世界と同じようなことが、2000年前の宗教の世界でも行われていたように私は考えてしまいます。
「愛の掟」に関する質問に対してイエスは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えました。これはユダヤ教の熱心な信仰を生きている人々にとっては、誰もがしっかりと心に留めている聖書のことば、神の教えでもありました。ですから反論の余地のない答えをイエスは話されたということで、誰もがそれは何よりも大切なことと思っていることを聖書からしっかりと根拠を示して語られています。
その答えは、旧約聖書の申命記の中に書かれてあることでした。ユダヤ人なら誰でも知っていた、ましてやファリサイ派の人々ならばなおのこと、細かな掟の管理をしっかりと指導する人々ですから、当然彼らは十分その答えを心に留めていました。ですから、イエスの答えは完璧であり、反論の余地もなかった。当時言われていることは、ユダヤの人々はいつもこの神の言葉を心に留めて、祈りの中に繰り返していたそうです。朝夕2回、信仰告白とともに必ず唱えていた神の言葉でもあったそうです。この神の言葉は、ユダヤ人にとって先祖の民の救いの体験として、エジプトから解放され導かれたことを示す神の言葉でもありました。神はイスラエルの民と約束したことをいつも守り導く、そのような中で神の恵みが自分たちの元にあった。自分たちはその神を大切にしなければならない。神から言われるから守るのではなくて、先祖が神から救っていただいて今自分たちは神の恵みのうちに生きているのだ。今生きているのもその恵みが及んでいるからだ。だから神を愛することは当然です。神の教えは守らなければならない。このような信仰を生きていたのがイスラエルの民、ユダヤの民であったということです。生かされ、導かれているという神への感謝そのものは、愛することという形で彼らの生活があったということだと思います。
「神を愛しなさい。それが第一の掟である」付け加えるならば「隣人をも愛しなさい」それはイエスが、弟子たちをとおして示されるそういう愛でもあり、隣人愛でもあったと思います。神への愛と隣人への愛は別々の掟として捉えられていたと言われますが、イエス・キリストはそれを一つの掟として取り扱って、弟子たちとともに歩まれた方です。ですからイエスは最終的にはこのような言葉で弟子たちに愛について教えています。「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」自分を愛するように隣人を愛するのも大事なことだけれども、自分を中心として愛するよりも、私が愛したように、私が模範として示したように、あなた方も愛し合いなさい。これが最終的なイエスからのメッセージになっていました。イエス自らが示した愛を見つめること、それが私たちの愛の掟ではないでしょうか。

イエスを見つめ、イエスに触れて過ごした弟子たちにとって、自分の上に注がれている神の愛の自覚、イエスの愛の実感こそ自分たちの愛の実践を担う力となっていたはずです。ですから、私たちも神から愛されているという実感を大切にしなければならないと思います。神から愛されている実感がなければ、自分だけの愛、形だけの愛に留まってしまうことになると思います。自分が愛された、救われた、力をもらった、そのような実感があって、私たちは周りの人にも隣人にもその愛を活かすことが出来るような気がします。
愛は大切であると信じる私たちにとって、私が示す愛、自分が示す愛は、本当に友人や隣人のためになっているのかどうか、少し考えてみなけらばならない時があるようです。時々やり過ぎてしまう、いき過ぎてしまう、愛を押し付けてしまうことも有り得るような気がします。自分はこうした、こうしてあげた、こうすべきだと思ってやっていることが、もしかすると余計なお世話になってしまうこともないわけではない、と思います。ですから、愛は素晴らしいけれども、本当に隣人に受け留めていただき感謝されるためには、自分だけの思いで自分の愛を生きるということには、少し慎重になることも必要かもしれません。時々私たちの人間関係の中で、「親切にして下さるけれどもちょっと負担になる」という人の声も聞くことがあります。大事にされるのはうれしいこと、とても素晴らしいし有り難いことだけれど、ちょっと放っておいて欲しい、そっとしておいて欲しい、という心境のときも人それぞれにあります。よくよく考えながら愛を実践するということはとても大切なことのような気がします。

今私たちが持っている愛の原動力はどこから来ているのでしょうか?皆さんの愛はどこから来ているでしょうか?そのようなことも考えながら、今日私たちが聞いたみことばを黙想しながら、「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」というイエスのことばをよく心に留めて、また新しい出発にしたいと思います。』

2017年10月22日日曜日

年間第29主日 「ブラジル・マリンガ教区ご一行が来教」

今朝、ブラジル・マリンガ教区のアヌアル・バチスチ大司教をはじめ、二人の日系人神父様、十数名の信徒の皆様ご一行が教会を訪問され、一緒に主日ミサを捧げました。

マリンガ教区と札幌教区は、2001年に帰天された田中亮 師はじめ数名の教区司祭が宣教師として布教されるなど、深いつながりがあります。
今回の来札は、田中師のご親族との対面、当地で田中師らが尽力したザビエル学園建設に対する感謝の意を伝えるための表敬訪問とのことです。

勝谷司教様、後藤神父様、そして、バチスチ大司教、二人の日系人神父様との共同司式により主日ミサが捧げられました。




この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日の福音書を理解するためには、その前提となる背景を少し説明する必要があります。 何度も聴いて承知の方もあられると思いますが、簡単に解説します。 
 イエス様のところに行って、税金を納めるべきか、あるいは納めてはならないのかという 論争。どこからきているかというと、ユダヤ人にとって唯一の王は、「神のみ」という考え方をしていました。ですから、神がこの世を治めておられる。税金を納めるのも神のもの。ですから彼らは重い税であっても、神殿に対して税を納めることはいといませんでした。しかし、ローマ皇帝に税を納めるということは、当時のローマ皇帝は神格化されていました。そして、その銀貨に刻まれた肖像は神として(のもの。)ですから、皇帝に税金を納めるということは偶像崇拝にも等しいことである。律法で神学的な対策をしていたのは、ファリサイ派の人々です。一方、ヘロデ派の人々は、ローマによって打ち立てられた「かいらい政権」を指示する 人たちです。当然彼らはローマ帝国に税金を納めることを奨励していました。ですから、本来はヘロデ派の人たちとファリサイ派の人たちは、まったくあわない人たちなのです。ところが、イエス様を陥れようとする策略のために、このときは協力し合っていたのです。そして、慇懃(いんぎん)無礼なイエス様を讃えるようなことを言って、これは中途半端な答えは赦さないぞと、「税金を納めるべきか、納めるべきではないか」と問い詰めるのです。
  どちらの答えをしてもイエス様は窮地に追い込められるという巧妙な質問です。税金を納めよと言えば、これは神に反する、律法に触れることとしてファリサイ派の人たちから攻撃されます。納めなくても良いと言えば、ヘロデ派の人たちから、ローマに対する反逆者として、また糾弾されるわけです。どちらの答えをとったとしてもこれはまずい答えになるわけです。
 これに対してイエス様の答えは、デナリオン銀貨に刻まれている肖像を見せながら、「この肖像と銘は誰の者か。」と聞くわけです。「皇帝のものです」。実はファリサイ派の人たちは、神学的には納めてはならないと主張しながらも、実際は納めざるを得なかったわけです。皇帝の銀貨も流通し、本来は神殿の中では使われてはならないはずの銀貨も流通していたところは、これは彼らが建前を主張しても、現実にはそうではないということを物語っています。彼らの中に既に多くの矛盾を抱えていたんですが、イエス様は彼らの矛盾を良く承知した上で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」。
  これはどういう意味か、短い言葉でいろいろ解釈されています。一般的に多く解釈されているのは、いわゆる宗教と政治は分離して考えるべきだという「政教分離」の考え方。イエス様こういうふうに解釈していたという方が多かった。しかし、実際この時代は「政教分離」という概念さえもありません。この地上におけるすべてのことは、神と政治が結びついたものです。分けることは出来ないと言う考え方です。たしかにイエス様は、政治的に関わった発言はなさっていませんが、結果的に十字架にかけられた罪状は、政治犯としての罪状だったのです。この政教分離という考え方は、実は近世になってからの考え方で、特に教会というものが非常に世俗的な権力を強く持つようになって、その反省から宗教と政治は分離されるべきだと考えられるようになりました。しかし、ここで大きな誤解が起こりました。つまり、宗教的に生きる者、信仰を持って生きる者はいっさい政治にかかわってはならないということでした。しかし、本来の「政教分離」という意味は、特に第二バチカン公会議以降のいろいろな文書の中で、むしろ政治に関わることは信徒の義務だと、現代世界憲章に宣言されています。
 政教分離は何を意味するかというと、ある特定の宗教団体が権力と結びついて、国家的な権力を行使するものになってはならない。あるいは、特定の権力から利益を受けて、そういう権益を得、利益を得るようなものになってははなならいということです。そしてむしろ、信徒はその信仰の信念にしたがってこの世の政治に関与することは、宗教の義務であると唄われています。そして、教会に対しては政治に対して福音的な観点から、それに反するものに対しては、むしろそれに対してはっきりとした意見を述べる義務があると言われています。そう言った意味で、私たちが「政教分離」といった意味を考えたときに、そこをきちんと分けて考えなければなりません。

  話しが少し横道にそれましたが、奇しくも今日は総選挙の日です。わたしたちが政治的に関わるチャンスの時、特に大切な日です。天候がどうなるか分かりませんが、それぞれの信念で国民としての権利を行使する、放棄することのないように。選挙に行って欲しい。
 さてまた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」にもどりますが、皇帝のものとは世俗の象徴ですね。そして実際ファリサイ派の人は、建前上は納めないと言うけれど、権威の中で妥協しながら生きている、生きざるを得ないのがこの世の現実なのです。つまり、私たちもこの世俗の中にあって、たしかにお金なしでは生きて生けませんし、様々な世俗的なものに囲まれて、それに頼っていかなければならないのが現状です。それを排除して生きるとすれば観想修道会に行かなければならないと思うのです。それは世俗の者は、世俗の中で生きなければならない現実を認めながらも、「神のものは神に」。いったいこれは何を意味しているのか。世俗の中に生きながらも、譲ってはならない大切な場所。 
 神のために生きることは、それはとりもなおさず愛に生きるということですが、わたしたちが本当にお金や権力、地位など世俗のものに惑わされて、神のものをないがしろにすることにないように。むしろ場合によっては神のものを大切にするために、この世俗のものを捨てるような、あるいは優先させる世俗のものよりも神のものを優先させるという、それが求められている。
 今、私たち一人ひとりにとって、このここで問われている「神のものは神に返せ」。いったい、これは何を言われているのか、本当に神のものを大切にする生き方を選ぼうとしているのか。私たち一人ひとりに具体的な生き方。世俗の中で生きている私たちに問われている、大きな問いだということが言えると思います。』


御ミサのあとカテドラルホールで、先日、黙想会講師で来教された小田武彦神父様のDVD「キリスト教の死生観と病者の塗油の秘跡」を視聴し、死者の月を控えての勉強会が行われました。


2017年10月15日日曜日

年間第28主日 「婚宴のたとえ」

神は全ての人を招いておられますが、その招きに応えられるかどうかは私たち次第です。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週のミサ後に朗読の研修会を行いました。私が想像していたよりも大勢の方が参加して学びの時間を持ちました。そのせいではないと思いますが、今日の朗読を聞いていて、とても落ち着いて聞きやすい朗読でした。聞いている皆さんも心の中にまで届くようなみ言葉に耳を傾けられたのではないでしょうか。

先週は久し振りに、教区の神学生養成担当者として神学校の会議で東京に出かけました。神学校までは吉祥寺駅から歩いて40分ほどの距離で昔はよく歩いて行ったものですが、今は無理なので駅からバスで向かいました。そのバスの中でとてもよい”招き”の体験をしましたのでお話します。私はバスに乗って吊革に捕まって立っていたのですが、目の前に制服を着た小学生の女の子が読書をしながら座っていました。ふと目を上げたその女の子は立っている私に気付くとすっと立ち上がって「お座りになりませんか?」と声をかけてくれたのです。人の善意に出会え、私にとっては爽やかな気持ちのよい一日になりました。
今日の聖書のお話ではないですけれど、神様から贈り物をいただいたようなそんな気分の一日となりました。ふと、気付いたのですが、もしかしたら私にとって初めて席を譲られる体験だったのではないのかなと思いました(会衆笑い)。最近、私は高齢者のお話をよくしますが、私自身が高齢者になった証のような体験でもあり、このような親切に出会えそれを素直に受け取れたということは、年を重ねることもいいことなのかなとも思えるようなことでした。

さて、今日はぶどう園を舞台にした話の続きでした。3週間続いたぶどう園の話は今日が最後になります。最初は「二人の息子」の話でした。そして先週は「悪い農夫たち」です。そして今日は三部作の最後のような例え話で「婚宴」のお話でした。
これまで、律法学者や祭司長、長老たちにイエスが話しているように「ことばでは賞賛し、口先では立派なことを言っているが、彼らは神への信頼に欠け、その教えを受け入れようとしない人たちである」という、イエスを拒絶し排除しようとし、自分のことだけを考えているという彼らへの批判があり、厳しい対立が見られるなか、選ばれた神の民の特権が取り上げられ、「神の国は異邦人や罪人を含む新しい民に与えられる」というメッセージがあります。
このたとえ話をとおして、神の民であるユダヤ人の罪と罰が語られます。「天の国」は「婚宴の場」と例えられ、王様は神、王子はイエス・キリストを表す形で、このたとえ話をみることができます。披露宴は天の国であり、神の国です。その神の国に招待されているのが神の民であるユダヤ人でした。
神はそのユダヤ人たちを婚宴に招きます。「食事の用意が出来ました」と、自分の持っている最も善いものを準備して王は招きます。神がそういう食事を用意してくださったのは「主の食卓」、すなわちミサとも重ね合わせることができます。私たちの信仰と救いのうえでミサは大切なものであります。でも私たちはいつもこの救いの場となるミサを最も大切にできているでしょうか?そのような問い掛けも聞こえてくるような気がします。ほとんどの人は主日のミサを大切にして教会に足を運び、ご聖体をいただいて新しい一週間に向っていきます。でも時々そのミサに与れない与らない人たちもいるような気がします。それは自分を優先する場合にそうなってしまうことがあるでしょう。天のことよりも地上のこと、私たちが生きている世界のことを優先せざるを得ない、そのような事情がある人もたくさんいるというのは私たちの現実だと思います。しかし、時にそのことを承知のうえで怠けて、神の招きに応えないという心で足を運ばないこともあるかもしれません。もしそういうことであれば、聖書にあるように、やがて裁きとなって下るということが語られます。
聖書のこの婚宴の話のなかでは、神の民であるはずのユダヤ人が招かれたけれど拒絶したため、神の招きは新しい民へと変わっていきそうです。そして新しい民というのは、信仰を持つ者だけではない、信仰を持っていない人にも招きがある、それは異邦人であるかもしれません。さらに良い人・悪い人に関係なく招かれるというのも聖書で語られます。神の招きは全ての人へ普遍的に拡がっているということが語られています。資格のある・なし、私たちは時々、洗礼を受けていますか?ということを強調して話してしまいますが、洗礼を受けていても受けていなくても神の招きはいつも一人一人に注がれているということを大切にしなければならないと思います。
私たち一人一人は本当にその招きに応えようとしているでしょうか?この地上の生活が優先してしまう時に、自分の思い、自分を捨てることの難しさを誰もが感じていると思います。神様に応えたいけれども残念ながら今日はその時は応えられない、そのような事情も持ち合わせているということもよくあるのではないでしょうか。そうは言っても、時にどんな事情があるにせよ、家族の一人がもし怪我をしたり亡くなったりしたら、そっちに向うことが出来ているはずです。そのような選択は誰でもがするはずなのに残念ながら、教会のミサに対しては、そのような決断が出来ないというのが現実でしょう。神の教えや神からの呼びかけよりも、もしかすると、人から憎まれたり悪口を言われたりすることの方を恐れて、そのような選択をすることもあるかのような気がします。
しかし、自分の立場を優先ばかりしていては、神の招待さえも拒否し続けることになってしまいそうです。「いのちに至る道は狭い」と聖書言われていますが、捨てるべきものを捨てなければ、神の国に入ることは難しいのだということを心に留めておきたいと思います。

さて聖書の話では婚宴が始まって王が入ってきます。するとその王は一人の人に目を向けて「礼服を着けないでここに入ってきたのか?」と言いました。この一言を私たちはどう理解したでしょうか?きっと皆さんはこの言葉はどういう意味なんだろう?私たちはどんな礼服を着けて御ミサに来なければならないか、というところに繋がっていくのではないでしょうか。
私たちは、ふさわしい礼服を着けて、いま、主の食卓に与ろうとしているのでしょうか?聖書の中に「イエス・キリストを着なさい」ということばがあり、洗礼の時には「あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました」ということばが伝わっています。洗礼の時は「白衣を受ける」ということばが使われていますが、私たちにとって礼服とはどんなものでしょうか?少し思い巡らしてみてください。
少し安心してもらうために、聖書の旧約時代にあった話をします。旧約時代に遡るとこんな習慣があったそうです。祝宴があるときは、王宮で王から与えられる歓迎の着物があったそうです。ですから今日の福音に照らし合わせてそのことを考えてみますと、突然道端で招きを受けたのですから、婚宴にふさわしい服など持っている人はほとんどおらず、礼服を着ることなど当然難しかったはずです。でも昔の習慣では、招かれた人は王宮に入っていく時に衣服が与えられたので、その衣服を着て入ることができるとすれば、それほど心配せずに突然の招待も受けられたはずです。ところが一人だけ礼服を身に着けていない人がいたというのが今日の聖書のお話です。少し理解できたと思います。
それでは、今の私たちにとって考えなければならない礼服とは?
パウロの表現によりますと、「キリストを着ること」ということで礼服について話をされていることがあります。それは「新しい人を着る」ということでもあるというのです。
「礼服」とは、「キリストを信じることであり、神を信頼し信じる心を持つこと」それが神から与えられた礼服を着るということです。これは、信じることなく、救いに与ろうとするものではない、ということを言っていると思います。神を信じることから救いが始まるということです。
ですから、ふさわしい礼服とは、真実の信仰を求め、それを生きようとする心構えといえると思います。神の恵みの席に今連なっている私たちですが、それが形だけではなく、神との真実な交わり出会いとあるよう願い祈ることが求められています。
地上の現実にすべてを奪われている人の心には、神の呼びかけやイエスの呼びかけも響かないと思います。神が今、私たちを招いて下さる。その答えは、私たちの信仰の問題になってくるということ。今日の婚宴のたとえをとおして、私たちが着ける礼服はどうなっているのか、ということをメッセージとして受け止めたいと思います。
そして、私たちが本当に神の国に繋がって、私たちの道が歩めるように今日もまた主の祭壇の前で一致して祈りたいと思います。』

2017年10月9日月曜日

年間第27主日 「ぶどう園と農夫」のたとえ

香部屋の蔦も色付きはじめ、秋を感じるようになりました。


この日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、主人からゆだねられ管理をまかされたものを、感謝することなく当然のように感じ、自分の所有物だと思い込む。現代に生きる私たちにもつながる教えです。
やがては、神のみことばを聞いてもそれを行わない者からは、神の国は取り上げられてしまいます。

この日の後藤神父様のお説教は、ブログの最後に掲載しています。


主日ミサの後、聖堂で典礼部主催による「聖書朗読のための勉強会」が行われました。


参加者からは、朗読に際しての細かい所作などについて、たくさんの質問がありました。
奉仕に当たっての心配事が解消され、朗読に専念できる助けになったのではないでしょうか。
ただ読むのではなく「神のみことばを宣べ伝える」ために心がけなければならないことを学びました。それはそれでとても大切なことですが、身構える余り緊張しすぎないようにも気を付けましょう。

後藤神父様のお説教

『今日、皆さんは福音のみ言葉をどのように聴いていたでしょうか。そして、どのように受けとめているでしょうか。もう一つの話しを聞きなさいと呼びかけて今日の福音は始まっています。すでに皆さんはもう一つの話しを聞いたということを前提に、今日の話しは語られています。もう一つの話しは先週聞いているお話になります。先週のお話しを思いおこさなければ、今日のお話しは少し難しいかもしれません。
 今日のみ言葉では、第一朗読のユダヤの預言を彷彿とさせるものがあります。ユダヤの預言もぶどう園のお話しです。もう三周間も日曜日の話しは、ぶどう園の話しが舞台になっています。一生懸命働いても地主、主人だけが良いおもいをしていることに腹をたてている小作人たち。主人の財産を自分たちのものにしようとした、ぶどう園で働く悪い小作人の話しが今日の舞台で語られてています。先週のたとえと違って、今日のお話しはどの福音にも語られているものです。マルコ福音書でも、ルカ福音書でも同じような話しが語られているのです。でも、まったく同じではありません。内容のほとんど同じですが、細かい点でちがった物語になっています。ですから、比較すると興味深い点にぶちあたります。いずれも先週と同じように、イエスが祭司長や民の長老たちに向けて呼びかけ、もう一つの話しを聞きなさいと始まるわけです。もう一つの話しを皆さんは思い出していると思います。二人の息子のお話がありました。仕事を頼まれたお兄さんは「いや。」と答えたのです。同じように仕事を頼まれた弟は「はい。」と答えました。ところが、それぞれ後の行動は返事とは違った行動になっています。どちらが正しいと思うのかが先週のお話しでした。仕事を頼まれたとき「はい。」と答えたが、それをあやふやにして果たさなかった人。「いや。」と答えたが、よくよく考えると申し訳ないと考え、その仕事に忠実に果たそうと努力した人。これが先週の話しでした。
 今日の話しでも、ぶどう園の主人は父である神様を指しています。そして最後に送った主人の息子は、もしかするとイエスを表していると思います。私たちが聖書を通して学んでいる、理解している、父が送ったイエスが十字架に架かって亡くなったという話しに繋がってくる、このぶどう園の話しになります。ぶどうの実りを小作人に要求する権利を持っているのは主人、地主です。その当然の権利を働く人にお願いしているけれども、時代も時代、今の時代もそういう思いを持つ人はたくさんいると思いますが、時代を良く考えながらこの物語を味わう必要があります。
  今日の第一朗読のイザヤの預言は、イスラエルの不信仰を恐れるために物語っているが、話しはぶどうの収穫を拒む農夫たち、その悪意がいっそう強調されて話されています。先ほどほかの福音書でも同じ内容があると話しました。主人から派遣される僕の人数やその回数もそれぞれの福音で少し違ってきます。そういう点では比較すると面白いと思います。マタイ福音書では農夫たちの反抗の凄まじさ、悪意がはっきりと描かれました。最後に主人は自分の息子をぶどう園に送っていますが、ここでもマルコ福音書では、まだ一人の息子を持っていた。彼の最愛の息子である。こういう表現をとっています。それがイエス自身であることを強調した表現がとられた。マタイ福音書の方では表現が違います。彼は自分の子を遣わしたと、こういう表現だけです。最愛の息子を送るということ、自分の息子を遣わすということ。こういうところも違った表現があります。
  いずれにせよ、イエスはこのたとえ話しの結論を人々に質問しています。先週も弟と兄の返事に対して正しいのはどちらかと言う形で最後イエスは質問して、それぞれ考えさせる、そういう教えを展開していた。今日の話しも同じようです。結果的にあなたがたはどう考えるのかということを問いかけます。ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするだろうか。人々がそれに答えて、その答えをイエスは認めます。答えは正しいのですが、先週と同じように口では立派な答えが出来て居るはずなのに、実行が伴わないことがある。それがきっと私たち一人ひとりが、はっきりとしっかりと考えていかなければならないテーマになっています。口では正しいことを話していても、それをしっかりと行動に移すことが出来ているかどうか、そのことも問われているのだということ。
 特に今日のお話しの背景には、当時の指導者である長老や祭司長たち。彼らは律法にも聖書にも通じていて信仰の指導者です。正しいことを人々に教え、神の教えを大切にしようと指導的な立場からいつも話されている人たちです。でも、話し方、教えは素晴らしいけれども、彼ら自身はどうであったのか。そんなことが私たちに語られます。イエスのこうしたたとえ話を当然、祭司長や長老たちは聞いています。そして、一言でも間違った言い方をしたならば、イエスを何とか窮地に立たせたいと願っているのが祭司長や長老たち。一言でさえもイエスの言葉を聞き逃すまいと構えています。イザヤの預言で言われたように、イスラエルの不信仰があったように、宗教の教えをある意味導いている祭司長や民の長老たちも、神の国は取り上げられてしまう、そういうおこない生き方をしている。
 私たちはどうですか?神の国を願い、私たちも祈りを一生懸命捧げます。私たちの信仰、祈りと行動は一つになっているでしょうか。パウロの第2朗読の言葉も、大切な言葉が私たちに告げられています。共同体の中にある私たちの目指す心が触れられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事に付け感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。それは慈しみ深い、憐れみ深い心があるなら、心をあわせて心を一つにして祈りなさい。自分のことだけではなくて、共同体の一人ひとりを思いやって、互いにこころがけて歩みなさい。そういうことだと思います。

  私たちは今日の聖書のみ言葉から、もう一度どんなことを心に留めるべきでしょうか。イエスは最後に言われます。私から学んだこと受けたこと、私について聞いたこと見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方とともにおられる。み言葉である神は、耳を傾ける私たちにも祈りが実を結び、その実りを大切にしなさいということを教えます。
 今日もう一度、聖書のみ言葉を味わい、わたしたちが理解したことを、わたしたちの生活、行動の中でそれが実りを結ぶことが出来るように。そのことを願いながら、今日のミサに入りたいと思います。』

2017年10月4日水曜日

10月2日(月)「守護の天使」の記念ミサ

この日は、カトリック北1条教会の聖堂名となっている「守護の天使」の記念日でした。
午後6時30分から記念ミサが行われました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は守護の天使の記念日。私たちの信仰の中心、私たち共同体の祈りの中心となるこの教会を守り導く保護者として、私たちの教会は「守護の天使」に奉献されました。この守護の天使に奉献されたこの教会は、もうすでに100年を超える教会になっていますが、今日このミサをとおして、私はこの教会の創立にあたった先人たち、そしてこの教会を守り築いてくださった先人たちのためにも祈りを捧げたいと思います。
  私たちは普段どのように守護の天使のことを考えているでしょうか、思い巡らしているでしょうか。それほど守護の天使に心を向けることはないかもしれませんが、今日は特に守護の天使に心を向けて祈りを捧げていきたいと思います。天使は私たちにとって身近な存在であると云えます。しかし、天使は霊的な存在であり、誰もが簡単に見ることができない存在として、私たちのもとに送られています。見えない霊的な存在であるけれども、天使が存在するという根拠は聖書にあります。聖書には創世記の最初から黙示録の最後まで、天使と悪魔に至様々な物語が述べられます。そして今日、私たちは先ほど聴いたマタイの福音のみ言葉の最後にも、小さき者を守り導く天使が天の父のみ顔をいつも仰いでいる。だから、小さき者を軽んじることのないようにと述べています。
 守護の天使を記念するのは私たちの教会ばかりではありません。10月2日は全世界の教会において、典礼の中でこの守護の天使を記念し祝っています。守護の天使を記念すること、それは人間には天から遣わされた守護の天使が、一人ひとり遣わされているのだ。また、いつくしみ深い神が天使を誓わして、私たちが神の国に入れるように守ってくださる。そのことを私たちは思いおこす記念日として、今日の守護の天使の祝日が定めらています。守護の天使の記念は16世紀にすでに教会で祝われていたことが分かっていますが、実際はそれよりずっと以前から様々な教会の中で天使を祝っています。教会の典礼には16世紀過ぎてから組み込まれていますが、現実的には初代教会から天使についての強い信心があったことを物語っています。聖書の中でも触れられます。聖書では使徒言行録の12章で、ヘロデ王がペトロを牢獄に閉じ込め、二本の鎖でつなガがれていだことが語られています。でも、牢獄につながれたペトロは天使によって奇跡的に助けられ、信者たちが集まっていた家に帰って来たと、そういうことが使徒言行録に語られています。

  霊的な存在である天使は私たちの目には見えませんが、天使は常に私たちを見て守っています。私たちの行動、善悪についてさえ常に目撃している。そして、天使は神の前でも証人であると教会は説明します。だとすれば私たちは常に天使と共に守られ、自分の人生を歩んでいる、生きていることだと思います。天使に付き添われ守られていると考えるなら、厳粛な思いも湧き上がってきます。マリア様も天使の表れによってお告げを聞き、御子の懐胎を知り天使の導きによって、常に御子を支え続けた信仰を生き抜かれた。そして、マリア様はこの世の最後には天使と共に天に昇られたと教会は宣言します。私たちの教会において、私たちの信仰において天使は常に身近な存在であることを今日、改めて心に深く留めておきたいと思います。

 先週9月29日は神の栄光を歌うガブリエル、ミカエル、ラファエルという三大天使を祝っていますが、守護の天使はさらに別の役割を担って、私たち自身の心から常に囁いています。私たちの良心の声をとおして守ろうとしています。私たちは導き、天使の囁き、良心の声にいつも従うことができるように、改めて心に誓いたいと思います。
  今日、ミサの始めの集会祈願の祈りを心に留めます。「あなたは天使を遣わして、私たちを守ってくださいます。私たちがいつも天使に守られ、永遠の喜びに入ることができますように。…」ミサの始めに私たちはこの集会祈願の中で祈りました。「守護の天使に向かう祈り」を、以前、説教の中でも触れたことがあります。その祈りの中にある言葉は慰めや力を私たちに注いでいます。文語体の祈りですが、その一節を紹介します。
「わが守護の天使、…
  苦しみに会うとも落胆することなく、
  幸運においても思いあがることなく、
  世俗とその精神に流さるることなく、
  貧しき人をないがしろにすることなく、
  主の御慈しみにより、御身にゆだねられたるわが一生が、
  すべて御身の喜びとなるよう、われを導き、
 われを励まし、われを強め給え。
 われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、
  清き御手(おんて)もてわれを支え、われを守り給え。」
とても素晴らしい祈りの言葉が連なっている「守護の天使に向かう祈り」です。あまりこの祈りに接してないかもしれませんが、この祈りも大切にし黙想しながら私たちの信仰を大切にしたいと思います。』

2017年10月1日日曜日

年間第26主日

今日のみことばは、先週に引き続き「ぶどう園」のお話でした。
神のみ旨・神の慈しみを実行することの大切さが語られます。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日は10月1日、「ロザリオの月」に入りました。
昼の長さはすでに11時間54分と12時間を切っており、秋から冬へと一歩一歩近づいています。つい先日、利尻富士にも雪が降ったそうですが、今朝のニュースでは大雪連峰の黒岳、旭岳でも初冠雪を記録したということが流れていました。

さて、今日のみ言葉は、よく私たちの日常にも起こっていることではないかと思います。返事はさっと「はい」と応えているけれど、それがうまくできないことが私たちの日常ではよくあることです。そのような内容が今日のお話でした。
先週から引き続いて、「ぶどう園」の話が続いています。先週の話を思い起こしてみてください。一日中、朝早くから働いた人、半日働いた人、遅れてきて一時間働いた人も、皆同じ報酬であった。そのような話を聞いたら、私たちは誰もが不公平ではないかと感じながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。しかし、聖書のメッセージはどういう視点で語っているのかということに気付かされると、すなわち、神様はどんな人にも愛と恵みを不公平なく注がれる方なのだと、そのような視点でみ言葉を黙想し味わうと、神のメッセージは如何に、私たち人間の心の中には自分中心の欲や妬みというものが潜んでいるかということを思い知らされる、そんな内容が先週のお話でした。神の思いよりも自分中心、人間の思いが先になってしまう私たち。私たちの心の狭さや妬みと、それに対して、神の愛の深さ大きさを表しているお話でした。
今日も同じ「ぶどう園」の話ですが、その内容は、神の国に入るためには神に立ち返る事、それはつまり悔い改め・回心が大切だということを教えています。今日のこのお話の背景には、イエスを何とかしてやり込めてやろうと思っている律法学者やファリサイ派の人たちがいることを考えなければなりません。そしてその人たちは、信仰にも聖書にも通じており社会的にも認められ尊敬されている人たちでした。イエスのこのお話は、そうした律法学者やファリサイ派の人たちへ向けても話されている内容です。
ファリサイ派の人たちから非難の的となっていた伝統を守らない人々が、回心をし洗礼を受けて、キリストと共に生きるようになった人々を長男に似せて話しています。また、掟を忠実に守っていたけれども肝心な時にはキリストを拒絶したり、神のみ旨を実行しない口先だけの人を次男に例えています。

キリストがたとえ話で強調するのは、神のみ旨、神の慈しみを実行することの大切さです。私たちも律法学者やファリサイ派の人たちのように、神の教え、神のみ旨を知っているということだけでなく、それだけで済ますものではなくて、いつも神のみ旨に心を向けて、反省し、回心し、悔い改めながら、さらに成長していくということを大切にするように、というのが今日のみ言葉です。
思い悩むことの多い私たちの日常生活、時には神に応えることがすぐに出来ずに戸惑ってしまう私たち。しかし、落ち着いて考える時が訪れたときには、神が示された道が見えてくるものだと思います。ですから慌てずにゆっくりと神に心を向けて、平和な心を取り戻して、新たな道に向って歩むことが求められます。
正しい道から、そして愛の心から離れたときには、神様に心の目を向けて、回心の恵みが求められます。私たちの信仰生活の中で、そのようなことがどのくらい大切にされているでしょうか。そのことに気付いているでしょうか。そのことを私たちはもう一度思い起こして今日のみ言葉を黙想したいと思います。

今日10月1日は、「幼きイエスのテレジア」の聖人記念日です。皆さんの中にもテレジアの洗礼名をいただいている方々がおられると思います。
テレジアは自分の使命を「わたしは神様の愛となりましょう」と宣言されたと伝えられています。15歳くらいの若さにおいて信仰の小さな道を歩んだといわれます。私たちもテレジアのように、自分に示された信仰の道、それは小さな道であるかもしれませんが、謙虚な心を持って、熱心な愛を持って、歩み続けたいと思います。』

2017年9月25日月曜日

年間第25主日 「ぶどう園の労働者」のたとえ

この日の主日ミサでは、マタイ福音書 第20章「ぶどう園の労働者」のたとえが朗読されました。

御ミサの後、7月に行われた「小田神父講演会の第一講話」のDVD視聴会が行われました。午後1時からは、札幌地区合同墓参が行われました。
先日の発生したメキシコ地震の緊急募金の呼びかけがありました。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『(説教の冒頭に後藤神父様は、先週開催された教区司祭黙想会の様子についてお話しされました。)
 それでは、今日、私たちに与えられた聖書のみ言葉を深めて参りましょう。
 ぶどう園で働く人たちの姿が思い描かれるみ言葉をさきほど聴きました。熱い日照りの中であれば、熱さに耐え、汗にまみれての労働はあたり前の時代だったと思います。そして、労働には相応しい報酬が当然あってしかるべきと私たちは考えています。ましてや朝から晩まで、自分に課せられた仕事をやり遂げて、その責任を果たしたとしたら、その報いを期待するのはだれもが当然考えることでしょう。でも、今日の聖書の話しは、そういう私たちの思い考えから少し違った展開をしています。聖書では夜明けから始まって働く人、そして修道院の日課にもあったように9時、12時、15時とそれぞれ3時間ごと区切られて語られています。そう計算すると最初の人は朝の6時から夕方6時まで12時間働いたことになる。そうすると夕方5時に来て働いた人は1時間しか働かなかったことが明らかになってます。12時間働いた人と、1時間しか働かなかった人の報酬が同じである。そこに気がつくと、私たちでも何となく、納得出来ない、エーッそれは許されるんですか、と私たちは現代的考えで思ってしまいます。不公平です。そんなふうに考えてしまいます。
 私たちの現代の社会でも正規雇用の職員とパート職員の働きと賃金の問題が良く新聞にも出て来ます。同じような仕事をしたときに、どうして大きな賃金の違いがあるのですか、と良く問題になっています。仕事の内容が違ったりすれば、ある意味で受け入れざるを得ないのでしょうが。仕事をやると言うことは いかにやり遂げ、その実行と責任が問われることですが、時には能力も判断されるひとつにあるような気がします。どんなにしても私たちは聖書の神の恵みの世界と、私たち人間的考え方とは随分違うことがはっきりと見いだせる、今日の聖書のたとえ話です。
  どこかで何となく不公平感がどうしても自分の心から消えない人について話をしてみます。私たちは永遠の救いを願って信仰も大切に生きています。教会のために、苦労して犠牲を捧げてがんばっておられる方はたくさんいます。しかし、人生の最後の最後に回心して洗礼を受けて亡くなられる話しを聞くときに、良かったですねと喜ばれる方もおられます。が、そんなことも許されるのですかという思いで話される方も少なくありません。○○泥棒と良く言います。それは最後の最後、洗礼の恵みを受けて亡くなられる方のことをいう言葉ですが、私たちの思いを代表している言葉のように思います。そんなことを考えると、若いときから洗礼の恵みを受けて一生懸命教会のために働いて来た人と、最後の最後、洗礼を受けて亡くなった方の神の恵みを考えると、今日の聖書の話しに少し繋がってくるような気がします。

 人生の長きにわたり信仰生活を送り、喜びや苦しみも主とともにあった。幼児洗礼の人はその恵みの特権にずっと与ってきたことを忘れてしまって、不平不満を言ってしまうようなことがあるような気がするのです。小さいときから信仰の恵みをいただいて、主と共にたくさんの恵みをいただいてきた人生がある。信仰の道があった。でも1時間しか働かない人に同じような神さまの恵みが注がれているとすれば、自分と比較して何となく不公平だなという思いがよぎってしまう。神の恵みは誰にもあると、そういうふうに考えると素晴らしいと思いながら、素直に喜べない瞬間が心の中に生じてしまう。神様の恵みは私たちが思う恵みとは違うということを私たちはもう一度、認識しておく必要があるのです。神様の恵みは遅れて来た人にも同じように与えられるんだ。神様の恵みはどんな人にも救いの恵みとして、常に招かれているものなんだ。私たちはやはりそのことを、ずっと心の奥に留めておかなければならないと思います。そのことを忘れてしまうと、遅れて来た人はそれに相応しい恵みで良いのではないかとか、もう少し私よりも少なくて良いはずですとか、そんな思いが心の中に芽生えてくるということではないでしょうか。
  神の憐れみに触れ一致する喜びを見て不公平を感じたり、その人たちに対する妬みの心も 今日の聖書の最後で触れらています。たとえ話の深い意味がここにあったようです。神様の憐れみと恵みは、私たちが主張する権利や利益中心の思いとは違うところにあるということ。妬む心はもしかすると「放蕩息子」のたとえ(ルカ福音書15章11~30節)にあったあのお兄さんの心に近いものが考えられないでしょうか。放蕩息子の話しを思い浮かべてください。放蕩息子と比べるとお兄さんは正義感も強くて、真面目で終日はずっとお父さんに仕えて働いていた人です。自分はこんなに長く真面目に働いていたのに一頭の小羊さえ貰えなかった。だけれども、遊びぼうけて財産を使い果たして、惨めな姿で帰ってきた弟のために、お父さんは喜んで迎え入れて子牛を準備した。そして、盛大な宴会までした。お兄さんは自分がそういう報いを受けたことがないという思いになって弟を妬みました。その宴会にも出席することを拒みました。私たちの難しい状態をパウロも今日の第二朗読で話しています。「恵みの世界と肉に留まるこの世の世界で板挟みになってしまう。」パウロは告白しています。わたしたちも神の恵みの大きさに感謝しているのですが、この世に捕らわれたときには、どうも妬みの心が起こってしまう。それが不平、不満につながってしまう。第一朗読のイザヤ書の言葉です。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり」と、神の思いを伝えています。

 慈しみ深い神はすべての人を例外なく限りなく救いの喜びに招き続けてくださっている方だということ。考えてみてください。わたしたちも度々失敗を犯しています。わたしたち自身もつまずき遅れてしまうことが何度も何度もあります。でも神様は遅れてきた私たちであっても。最初の人と同じように愛してくださっている神であるということに、私たちはもっともっと気付かなければなりません。どんな人をも救いに招かれる神。不公平のない神。その神を私たちが信じている神であること。そのことが私たちの大きな喜びのはずです。そのことを今日、改めて福音をとおして、気づかさせてくださったと思います。
 国際ディ、そして世界難民移住移動者の日、さらに今日は市内の合同墓参の日です。たくさんの意向が今日のミサの中に入っていきます。神の愛に感謝しながら、私たちの心を主の祭壇に捧げる事にいたしましょう。』