2019年9月15日日曜日

年間第24主日「敬老の祝福」

『見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り…… (ルカ15・5-6より)』

今日の聖書のテーマは「罪のゆるし」です。

ミサの中で、明日の「敬老の日」にあわせて、佐藤神父様より「敬老の祝福」をいただきました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書のテーマは「神は罪をゆるすお方」だということです。 それだけではなく、ご自分から離れていった者をも探して呼び戻してくださる方でもあります。

神が望まれることは何かというと、罪びとが生き方を変え、神に立ち帰り神に生きることです。 神は罪びとの滅びを望みません。 神は生きることを望みます。 見失った一匹というのは羊飼いが見失ったのではなく、羊飼いのもとから離れて行ったということです。 それを羊飼いは自ら捜しに行って正しい方向に導くのです。

ドラクメ銀貨を十枚持っている女のたとえが次に描かれています。 ドラクメ銀貨は1枚で一日の日当にあたる額だそうです。 十枚ということは10日分の日当にあたる額です。 決して多くありません。 そのうちの1枚を無くしたというのは、女が自ら無くしたのではなく、女から離れて行ったということです。 それを女は捜して見つけて自分のもとに置くのです。

今日の福音は短い部分が読まれました。 長い部分は省略されています。
省略された部分は3つ目のたとえで、おなじみの「放蕩息子」のたとえです。 羊やドラクメ銀貨と違って放蕩息子は人間ですから心の向きと言うものがよくわかります。 羊やドラクメ銀貨のたとえでは、神の側の目線だけが描かれています。 つまり、神はわたしたち罪びとを正しい生き方に導いてくださる。 そのようにいつも働きかけてくださるということです。

放蕩息子のたとえでは、父の視点だけではなく、息子の視点でも描かれています。 この父には兄と弟がいました。 本来遺産と言うものは亡くなってから相続されるものですが、その前に弟は自分の分をもらって父のもとを離れました。 この弟の考えでは父のもとで働くよりも自分の力で生きて行こうと考えています。 しかし、もらった財産も使い果たし、自分で働こうとある人のところで豚を飼う仕事にありつきました。 が、空腹は満たされませんでした。 ここで弟は「われに返って」言いました。 フランシスコ会訳だと「本心に立ちかえって言った」とあります。 自分の罪を認め、父のもとに帰って罪を告白して、雇人のひとりにしてくださいと言おう、と。 この弟は父のもとでの生活をすでに知っていました。 天の国の宴に相当することを知っていたということです。 だから記憶を呼び戻して立ちかえることができたわけです。

イエスが罪びとを招いて食事をともにしてくださるのは、罪びとがイエスの話を聞いて神に立ちかえったからです。 イエスの呼びかけを何度も聞いて、自分は罪深い人間ですからわたしの罪をゆるしてください、と心の向きを変えたからです。
わたしたちも最初から神の国を知っているわけではありません。
イエスのことばを聞いて少しずつ分かってくるものです。 神がわたしたちを正しい道に導いてくださると信頼するだけではなく、わたしたちが神の愛に気づいて神に立ちかえることも必要なのです。

ゆるしの秘跡というのは神との和解という側面と自分自身の生き方を深める秘跡という側面があります。 罪を告白し赦しをいただき痛悔の心をもってよりよく生きる決心をするのがゆるしの秘跡です。 ここで何が罪だったかとリストアップするよりも、何が自分の信仰生活の中で神から離れてしまうことだったか、あるいは神を忘れさせてしまうことだったかを思い起こすといいと思います。 主に立ちかえり、神に向かって生きる生き方の決意を新たにすることがゆるしの秘跡の大きな意味ですので、信仰を揺るがすものは何だったのかを見つめましょう。

パウロはイエス・キリストの呼びかけによって回心し、自らを罪深い者だと認め悔い改めて、キリストをあかしするものとなりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られました」という言葉が真実であり、そのまま受け入れるに値します、と言っているとおりです。 わたしたちもイエスの呼びかけに耳を傾け、神に立ちかえる恵みを願いましょう。』

2019年9月10日火曜日

9月8日(日)年間第23主日「札幌地区使徒職大会」

藤学園において、札幌地区使徒職大会が開催され、約800名の信徒が集いました。


上杉昌弘神父様が「あなたは誰に信仰をつたえますか」をテーマに講話をされ、教区の家庭の祈りキャンペーンと祈りの小冊子編集を切り口に、松前のキリシタン弾圧や来月の福音宣教特別月間にも触れ、この私にもできることを主イエス、聖霊に委ねようと力強く話されました。


上杉神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ルカによる福音 14章25-33節】

『「父・母、兄弟姉妹、さらに自分の命であろうも、これを憎まないなら私の弟子ではあり得ない。」この言葉を皆さん、どのようにお聴きになりましたか。まず、ミサの中で語られる主イエスの言葉は、喜んで聴ける時に、多分、今日のように素直には聴けないときも、私たちの生きる糧だと言われています。今の私に必要なことをご存じで、その私に投げかけられている言葉です。だから、「福音」、「グッドニュース」と、昔から良い知らせと言われています。
 ミサの派遣の祝福の度に、私たちは「元いた生活の場」へと遣わされています。ミサの名をご存じでしょう。ラテン語で一番最後に「行きましょう」と今、訳されていますが、「Ite, missa est.」(イッテ、ミッサ、エッサ) で終わっていました。だから「ミサ」だと言われていました。それは「行きなさい」、「私は遣わす」「行け」という意味でしょう。ミサの後、家であったり、職場であったり、ともかく自分の場所へ帰っていきますが、イエスに従って行こうと思うならば、帰るところは実は家ではなく、自分の安住の馴染んでいる場所でもない。先週の北見紋別教会に集まってくるベトナム人実習生のことを思い返します。日本人が7、8人の小さな教会。日本人たちはこの2、3年、急に元気が出てきました。それは20代前後の若いベトナム人たちが本当に喜び勇んで教会に来るからです。共同祈願も、主の祈りも、日本人たちが一生懸命、ベトナム語で唱和しようと覚えています。切れ目のないように。ちょっと今まねしようと思って。♬…メロディのついたきれいな祈りです。
 ある日曜日、ミサが始まってもベトナム人たちが来ません。だんだん仕事を習得して、職場が日曜日も働けと言っているんだろうと思っていたところ、途中から作業服のまま 6、7人が来ました。ミサが終わると「あぁー、ミサに来れて良かった!。うれしい!。」と言ってまた、仕事に帰って行ったんです。このことを思い出すと、私たちが帰るのは自分の住処ではない。むしろこのイエスの食卓、ミサに帰って来て、ここから出発するのかと思います。イエス様にこの一週間を報告し、聞いてもらって、労苦やすさんだ日々の思い、辛いあるいは明らかな逆境、苦しさの中にも、私たちのそうした十字架をともに担ってくれていたことに気づいて、感謝するために。そして新たな力をいただいて、また派遣されます。主の食卓で慰められ、新しい一週間へと遣わされて行きます。行きなさい。しかし、あなた一人ではないよ。私があなたの内に一緒にいるから。いや、あなたが苦しいと思うその前に、私が先にあなたの手を引いて歩いていくから付いてきなさい、と言われます。
 ミサによって受洗、あるいは堅信の時にいただいた使命、ミッション。ミッションも 「ミッサ」からくる言葉です。この私が主キリストのからだとなって、人々の良き隣人となるように遣わされていきます。使命、守りではなく新しく晴れやかな、ときには晴れがましいとさえ感じられるものへと、私たち自身が「キリストの御からだ、アーメン。」その祈りによって聖変化されていきます。主イエスと出会うことになれる、そうした新しい希望が、穏やかな優しい微笑みとなり、言葉でもなく話でもなく、その声は聞こえないけれども、必ず伝わっていくでしょう。
  私たちは日本の中で1000人に3人といない、カトリック信者です。他の人に先んじて呼ばれたのは自分の知恵と力に頼らず、この弱く貧弱な私たちが、神が心を惹かれて愛された。そのことを信じ、そして伝えるためです。神はこのような小さな者が祝福の源となるように召され、自分も神に捧げることが出来るようにしてくださいました。パンと葡萄酒にこの私たちは自分自身をお捧げします。私が全部行う、私が愛し私が信仰を伝えるのではない。主が働いてくださっていることを常に信頼して、平和の道具としてお使いください。奉納されるパンと葡萄酒に私たちを込めて捧げましょう。

 ここで終われば良い説教ですね……。
 でも、今日の福音に触れていないので、聞きづらい時も、それがまさに福音なのだということを、ちょっと考えてみたいと思います。福音を聴いた後、私たちは「キリストに賛美」と応えました。それが心から言えるために、もう少し塾講していきたいと思います。 身内や自分を憎め。そう言われてちょっと賛成は出来ません。保留赦したい。どういう意味でしょか。そう戸惑いを感じて聴いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。私は今日の福音の説教を準備していて、不平を言いました。福音の言葉には、時々今日のような「えっ」という言葉とか、どう考えたら良いのかという言葉があります。こういう時にこそ、信頼や信仰が試されているように思います。私もそうです。
 み言葉はイエスのほかのすべての言葉から、全体的に思い巡らさないと真意が分からないときがある。マリアも良く思い巡らしていました。「婦人よ。私となんの関わりがあるのか。」とか、母マリアがそこにいることを知っていながら、「私の母とはだれか。」などの言葉をマリア様も聴くわけです。私たちにとって、合点のいかない言葉に接した時も、イエス様に背を向けるのではなく、一歩前に出て「主よ、おっしゃってください。何を言われているのですか。」と、虚心坦懐にたずねてみたいと思います。

 今日のみ言葉を私はこういうふうに考えました。イエス様は大勢が集まる今日の使徒職大会のミサ。しかも受け継いだ信仰を喜んで伝えましょう。それをテーマにしているのに、今日の福音はちょっと受け入れづらい言葉ではないでしょうか。確か「十戒」では父、母を敬いなさいとありますし、自分のように人を愛せと言われてもいるので、父、母、家族、自分を憎まなくても良いのではないでしょうか。極端に聞こえます。もう少し聞きやすく柔らかな表現であっても良いと思います。
 たてつきました。そのとき、主をいさめている自分に気づいたのです。同時に、ペテロに対するイエス様の言葉。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことは思わず、人のことを考えている。」その言葉を思いだしました。それで謙虚にもう一度、注解書を紐解いて、イエスの言葉は「セム語族の特徴をもった言葉」です。神と富とに仕えることは出来ない。二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、云々。そういう言葉ではある意味で、普通だったら日本人は「お父さんとお母さんどっちが好き?」と子供に聞くことがありますね。子供は困った顔をしてすぐには言えない。普通そう聞くときにはヘブライ語では「お父さんとお母さんどっちを愛す?どっちを憎む?」と聞くのかもしれないと思いました。今日の「聖書と典礼」の脚注には、「より少なく愛すこと」と訳が書かれてありました。比較級が乏しく、そうした婉曲な言い回しなしに、白黒をはっきりとさせる表現なのかもしれません。神への愛と人への愛、どちらを先におこすべきかをキリストは今日尋ねたのでしょう。
 福音では、ガリラヤで多くの人がイエスについてきて、恵み深い言葉や奇跡のしるしを求めてついてきている場面です。神からのいわば御利益を求めて、それぞれが勝手な期待を描いてついてきていますが、イエスは彼らに対してその自分本位の思惑から神のみ心に求めるように転じること。神が与えたメシアである主キリストを信じ、その弟子となって従っていくように招く場面です。主イエスの弟子とは、十字架のうちに、友のために命を与えるほど大きな愛はない。それを行ってください、いや、神の愛を目撃し証しするものです。
  主は今日、皆さんに対し札幌地区9千人の中の選ばれた8百人。皆さんに最後まで従っていきなさい。私の死を見届けそこに愛を見いだし、復活の勝利を証しする弟子を必要とされています。イエスに興味をもって、ついてきた大勢の人へのチャレンジ、挑戦でもあります。誰を第一に愛すべきなのか、すなわち私たちにとって、最も大切で後回しにしてはいけないこととは何か。それを今日、問いかけられています。
  家族や身内を優先するのは自然の感情ですが、愛についてのキリストの言葉をもう一度思い起こして考えてみます。自分を愛してくれた人を愛したからといって何の良いことがあろうか。また、「私が愛を行う隣人とはだれのことですか」とイエスに問う学者に話された善きサマリア人のたとえ。誰がこの傷ついた方の隣人となったか。たとえ一番愛したい家族や自分であっても、私たちはその人の寿命を延ばすことは出来ない。真の幸せを望んでも、私が与えることが出来ない。それを謙虚に認めるならば、まず私の心が離れないでいる人を神に委ねることが大切であることを知ります。委ねて、その人の真の隣人となることを願っていきたい。あなたが愛するのに必要なものを与えられる神に立ちかえり、必要なことをご存じの主に求めなさいと言われていると思います。
 憎しみではなく、憎む。すなわち重要で優先すべきことは何であるかを知り、委ねること。ひょっとしたら私たちの愛に潜む執着や自分の幸いを優先しているならば、それに気づいて清め、そこから離れて第一に尊とむべきものを求めるようにと、今日もはっきり話してくださいました。愛する方を主と神様に任せよう。そして、あなたは私についてきなさい。私たちを今日、弟子として呼んでくれていることを受け入れ、感謝したいと思います。やはり、キリストに賛美、福音ではないでしょうか。

 今回のテーマ。信仰を伝えること。これは教勢の拡大ではありません。何よりも私は父の「み旨」を果たすために来た。ひとり残らず神の子として生まれたものを神のもとにお連れすることだ。イエスが行っているその「み旨」を今日私たちが求めるならば、私に出来ることを差し出された時、「アーメン。そうでありますように。」と、喜んで祈り応えていきたいと思います。』


2019年9月1日日曜日

年間第22主日 チャリティバザー「かてどらる祭」

この日はチャリティバザー「かてどらる祭」が行われました。

主日ミサは英語ミサと合同で行われ、湯澤神父様とレイ神父様が司式されました。
福音朗読とお説教は、両神父様がそれぞれ日本語と英語で交互に行いました。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『いろいろなたとえが出てきます。
 まず食事に招かれたこの食事。婚宴の宴会、それから昼食、夕食の会。どれも食事ですが、いわゆる食事と言うのと、世の終わりの完成された交わり、キリストもその結婚式の宴会にたとえて言うように、それも食事、宴会。ふたつのこの世の普通の食事とこの世の終わりの完成された食事、宴会、天の国です。それがふたつ話題にされているわけですね。 それと同時にもう一つは、普通、昼食や夕食会を催すときに、友人とか兄弟とか親しい人を呼ぶわけで、まったく知らない恵まれない人、貧しい人を呼ぶことはまずない、常識的にない。そういう人ばっかり呼んだら、いわゆる食事にはならない。
 これも二つの意味があります。私たちが普通に常識的に宴会や食事をするとき、それは普通の常識的な食事で、それは礼儀の世界です。挨拶をしたら挨拶を返させる。何か贈ったら似たような物を贈り返す。それが礼儀の世界ですが、もう一つはそれが出来ない。食事の世界ですね。この施すときに、お返しが出来ない。これは別な関係、恵みの関係です。親しい人と食事をする、これは日常の礼儀の世界ですが。
 もう一つは恵みの世界。いろいろな時も、恵まれる時も、そこには何をお返ししても匹敵するような お返しが出来ないから。私たちはこの二つの世界に常に住んでいるということです。例えば、善きサマリア人のたとえに出てきますが、隣人を自分と同じように愛するという常識の世界に、しかしもう一つは、この怪我人を助ける生活。これは恩恵の世界です。私たちはこの両方の次元を持っていることを忘れてはならないと思います。また、その識別、どちらの世界に立つか、それも知っているはずです。
 そういう恩恵の世界に自分が立たされたとき、相応しくあるべきでしょうし、そうでないときには常識的に、相応しくあるべきでしょう。その識別と同時に、その相応しさを常に相応しくなることが出来るようにしていかなければならないと思います。』

ミサ後に行われたバザーは、お天気にも恵まれたくさんの人で賑わいました。
「聖園こどもの家」のお子様たちと先生、ご父兄の皆さまをはじめ、外国人信徒のご家族連れの方々も多数訪れ、楽しんでおられたようです。



2019年8月28日水曜日

8月25日(日)年間第21主日

「狭い戸口から入るように努めなさい」と、わたしたちは神の意志に適う在り方を求められています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『有名な「狭い戸口から入るように努めなさい」という今日のみことばです。一方で、「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と寛大なみことばがあるわけですが、ここでは救いがないような非常に厳しいみことばになっているわけです。ただ、このことばが、どういう状況のなかで発せられたかということは重要なことです。最初の箇所にあるように、「イエスはエルサレムに向かって進んでおられた」ということで、この旅の先には困難が待ち受けているわけですが、力強くそこに向かっていたのです。そのような状況のなかで、イエスは受難の予告をしています。同時にそれに伴って、弟子はどう在ったらよいのか、ということを教え始めるわけです。
キリストは、「自分の十字架を担って従うように」、また、「仕えられるためではなく仕えるために来た」と言い、キリスト自身の在り方と弟子たちの在り方が重なって来るわけです。つまり弟子たちに自分と同じような在り方を求めて、そういう状況のなかで、このことばが使われているということです。
そして、入れない者に向かって言うことばは、すごく重要なことばですが、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。この「不義を行う」というのは「正しくない」という意味になります。”正しい”在り方というのは、道徳的な在り方だとか、立派であるとか、そういうことではなくて、弟子の在り方、つまり神の意志に沿っているかということです。
別なところでキリストは、自分たちのグループの条件として、「神の意志を聞いてそれを行う」というように言っています。また全く話は違うところですが、この福音の持っている厳しさも同時に語っているわけです。
キリスト自身が福音であるわけですが、それを前にした時に誰でも、聖母マリアでさえも選択が迫られる、曖昧にしたままではいられない、「神を受け入れるか、受け入れないか」ということを求められています。
キリストに従う者たちは、神の意志を知ってそれを行う、そこに「正しさ」というものがあるわけです。そこには同時に「狭い」という意味があります。決して救いを制限するとかそういう意味ではありません。このように、キリストに従う者は、「狭い戸口」から入るわけですが、その条件は「神の意志に沿った生き方をしているか」ということです。
洗礼を受ける者は神からこのように言われます。「わたしの愛する者、心に適う者」と。
キリストが言われたように、私たちも一人一人、全能の父からそう言われていたのです。そう言われているとしたならば、この全能の父の意志に適う在り方をしていかなければならない。それがこの「正しさ」ということです。
私たちは、このキリストが求めていることを常に忘れてはならない、それが私たちのアイデンティティだからです。そういう意味で、私たちはキリストの言う「正しさ」そういう在り方を求めていかなければなりません。』

2019年8月18日日曜日

年間第20主日

ルカによる福音書 12章49~53節
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」と言うイエスの厳しいことばは、福音を選ぶのか選ばないのかを私たちに問いかけています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8月6日の広島原爆投下の日から先週15日の終戦記念日まで平和旬間として、平和を祈りました。平和を祈ったのに、キリストは「平和をもたらすために来た」と思わないでくれと言っています。分裂をもたらすためだ。何かどっちを選んだら良いのか分からない感じですが、そういう次元とは違う話です。先週、「目を覚ましていなさい。」という言葉でしたが、盗人はいつくるか分からないから、信仰を意識しているようにという福音でした。
  今日の福音はそれと少し関連しています。ですから、そういう文脈で読まないと、キリストは分裂のために来たのだということになってしまう。ほかのところでは「私は平和をあなたがたに与える。」と言っています。ここでは平和ではないと言っているのですから。それぞれ言っていることが少し違うわけです。いわば福音というものが持っている、ひとつの性格です。どうしても決断をせまられるという性格。優柔不断であることは許されない。ルカは誕生物語の中で、シメオンがマリアに向かって言うわけです。あなたの心を剣で刺し貫かれるというわけです。けっして十字架のそばにいるだろうと言っているわけではない。福音が持っている、あるいはイエス・キリストの存在が持っているひとつの性格。あるいはその前のザカリアの子供の洗礼者ヨハネもそうです。その福音を告げる者、告げられる者にとって、それはひとつの選択を迫られるので、そこで優柔不断な判断は出来ないということ。剣で刺し貫かれるということは、白か黒かはっきりさせられる。マリアでさえも決断を迫られるということ。時間の経過からするとマリアはすでに決断している。その言葉を聞くときには決断しているわけです。福音を受け入れるか、受け入れないか、キリストはイスラエルの○○○のところにしるしとなっている。どちらも福音にあったものに決断しなければならない。選ぶか選ばないか、応えるか応えないか、どちらかひとつです。そこには応える者と応えない者が出てくるわけで、それがひとつのたとえになって、一家に五人の人がいるならば、二人と三人が別れる、その後にミカの預言を引用しているわけです。

 けっして福音が不和をもたらしているわけではないのですが、もたらすためのものではなくて、必ずどれかを福音を選ぶか選ばないか 決断を迫られてどっちかを選択しなければならない。どちらでもいいというわけにはいかない。しかし現実はそこまでは厳しいものではなくて、けっこう現代の私たちは信仰生活、それといって生命に関わるわけではないので、状況がそういうことではないので、けっこう優柔不断に曖昧に、さしあたって適当にというわけでおくっている。
  そうだからといって、だから何も問題ないわけです。たしかに主人は帰ってくるだろう。さしあたって今ではないだろうという感覚。これはけっして信仰だけでなくて、たとえばシステムにたいしてもそのように扱っている。たしかに人間はいつかは死ぬ。でも今ではない、自分ではない。だからのんびりと生きていられるわけで、もしそういうことが迫られたら急いで帰って掃除をしなければならない。信仰もおそらく我々は、信じたからと言って厳しい状況に生きるわけでないので、まあ次の日曜日は休むかという感じです。はたしてそれで良いのかというのがこのキリストの問いかけです
 必ず福音はどちらかを選択させられている。いい加減ではいられない。主人が帰って来たら終わりということ。そういう意味でどれだけ本当の信仰に生きている人がいるとしたらというふうに、彼は願っていたわけです。おそらくキリストが登場したこの時代の2000年前の社会も似たような社会であったかもしれない。いつもそうなのかもしれない。
おそらくキリストはこういうような現実を見て、ため息みたいな言葉を言っているわけです。マタイとルカは同じ言葉を残していますが、マタイは……という反疑問。

  いずれにしても、私たちにこの言葉が向けられている言葉としてとらえなければならないないのですが、私たちはさしあたって先延ばしをしているか、注意したり注意されたりしてるかもしれない。この信仰に関しては、さしあたって先延ばしは出来ないことだが、現実はけっこう先延ばし出来るので、適当に済ましている。しかし、いざとなるとどちらかを選択しなければならないそのときがあるのです。それはけっこう日常の中であるかもしれない。しかし、けが人を横目で見て、脇を通ったレビ人、祭司と同じように、さしあたって私ではなくて別な人がいる。そんな感じで通っているかもしれない。信仰生活を少し反省していきたいと思います。』

御ミサの後、カテドラルホールで8月15日『聖母の被昇天』の祝賀会が行われました。
湯澤神父様(主任司祭)とレイ神父様(助任司祭)も参加されました。


レイ神父様は、まだ苦手な日本語でご挨拶されました。



2019年8月17日土曜日

8月15日(木)聖母の被昇天・平和祈願ミサ

8月15日(木)18時から、勝谷司教と司祭8名の共同司式により平和祈願ミサが行われました。ミサには約200名の信徒が参加し、平和を願いお祈りを捧げました。ミサの後、小雨の降る中、大通り公園まで平和行進が行われました。


勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
【聖書朗読箇所】マタイ福音書 第5章1~10節


『私は司祭になった時、自分の考えていることを、相手に正しく伝えることの難しさを感じさせられたことがすぐにありました。初ミサで、そこで説教をしました。ミサが終わった後の懇親会の終わり頃、「神父さん、今日の説教はとても素晴らしかったです。」と、褒めてくださる人がおられました。神父さんがそうおっしゃたことは私の救いになりましたと。でも、私はそのように言ったことは覚えがないのです。全然違うことを言ったのですが、そのように聖霊が働き受けとめたのだろうと、そのときは黙っていました。
  似たようなことがある教会でありました。(内容省略)
 そのときに司祭の説教であっても、人は自分の聞きたいようにしか聞かないし、受け取れないのだと痛感しました。これは最近、司教になってからもいろいろな雑誌やカトリック新聞からも取材があるのですが、載せる前に必ずチェックをします。さすがに記者ですから、こちらの伝えたいことをかなり正確にとらえているのですが、それでも微妙なニュアンスが違うことで、訂正を行うことが必ずあります。ここで言いたいのは、人々はいろんな情報があるとしても、自分が受け止りたいようにフィルターにかけて、その情報を受け取っているということです。

 そして、その問題は現代社会においてはより深刻になっています。私たちの出会う情報量が極めて多いわけですし、それが自分にとって正しい情報を選び出すことが非常に難しくなっています。今、ネットの世界では多くの専門家が指摘しているように、特に保守的な考え方をする人とリベラルな考え方をする人たちは、ホームページなり自分がアクセスする情報は、自分の思いを満足させる、そういう情報に偏っている。どんどんそれが偏っていく結果、あのテロリストのような過激な思想を持つにまで至る。自分でその情報を選んで受け取ろうとしているわけではなくて、自分の中にはそういう思想性がいつか選ぶ情報を自分の中でより分けて、そしてどんどん偏った世界にいく傾向にある。これは私たちが陥りやすい現代の大きな誘惑であり罠だと思います。
 しかし、同時に私たちがそのような傾向を持っているのとは別に、私たちに敢えて誤った考え方をするように操作させる情報もあります。偏った情報で一方の意見や情報しか流さない、あるいは今、世界中で問題になっているフェイクニュース。わざと誤った情報を流して印象を操作する。そのようなことが溢れている中で  私たちは正しい情報を受け散るということを意識的にチェックすることをしなければ、どんどんそのようなものに流され、悪い言い方をするならば、洗脳されている。そういう危険性をある社会に生きていると言わざるを得ないと思います。

  最近、日本の司教団はハンセン病患者の人たちに、あるいは亡くなられた元患者の家族に対して謝罪声明を出しました。これは久しぶりに全司教が一致して出す司教団声明です。
ちょうどそれが、あのハンセン病患者の家族に政府が控訴を断念した、判決確定と重なったのですが、それはたまたまだったのです。その半年以上前から謝罪声明を出さなければならないということで、社会司教委員会で原案を練り、何回も委員や司教の中でやりとりが行われていました。
 ここで非常に難しかったのは、どうして謝罪する必要があるのかという意見です。すなわち、日本のカトリック教会はハンセン病患者のために献身的に努力してきました。いろいろな施設を作り、患者の人たちがここは地上の天国だと思えるような世界を作りたいと、本当に生涯かけて献身的に奉仕した方々もおられました。そういう人たちの行為が間違っていたとか、それらを無にするような、そういう謝罪声明であってはならない、いろんな方面から出されていました。しかし、私たちが良かれと思ってやっていたことが、結果としてあの政府の隔離政策と極めて深刻な人権侵害といわれるものを見過ごしてきたことになるのです。それをどのように謝罪声明に入れるのか、非常に実は苦労しました。
  出された文言の中で一点だけお話します。謝罪声明は「わたしたちカトリック教会は」
ではなく、「私たちカトリック司教団は」ということで主語はすべて、謝罪する主語はすべて司教団としました。教会の指導者である司教団が間違っていた。しかし、その中で形式的に働いておられた人とたちは、その政府の国策に結果的に協力してしまった責任を負わせるものではない。また、負わせることは出来ない。その背景は当時の社会の常識です。   あのハンセン病患者の人たちは隔離されてしまう。当然だということがだれも疑問に感じず、その政府の政策にすべての国民が協力していたわけです。何もそこに疑問を感じていなかった。確かにぞ隔離政策は必要ないという専門家の意見やカトリック教会の中でもそのような人たちがいました。それはごくごく少数でした。あの時代の流れ、雰囲気の中にあって、それに異を唱えるなどということは発想すら起こってこないような状況でした。しかし、これはハンセン病に対する私たちが誤った取り組みをしていたことに限らず、同じことが戦前の雰囲気と言えますし、そして今日本の社会を包み込んでいる空気がいつのまにか、法律などでそういうことが駄目だと言うのではなく、国の空気全体がそうでなければならない。そこから外れた考えを知るものは攻撃され排斥されていく。そういうような得たいのしれない空気のようなものが出来上がってきているのではないかと危険性を感じています。そして、これこそがむしろ明白なおかしな法律だとか、おかしな政策だとかと糾弾するよりも、いつのまのか私たちの足下から私たちの心を食い尽くそうとする、恐ろしいウイルスの存在だと思います。
  そして、現代社会はそのようなものに満ちているのです。危機的状況、戦争とかあるいはそれに至るような私たちの自由が制限されるような、弾圧されるような社会は突然やってくるようなわけではありません。知らないうちに、いつのまにかそうなっていたというのが戦前や日本に限らずドイツもそうでした。民主的な社会だと思い込んでいた、そのしくみの中できちんと営まれていたと思った社会が、まったく違うものに変わってしまっていた。私たちは経験しているわけです。ですから私たちは今、それを見極めることの重要性。それが問われているのだと思います。

  2016年にバチカンで行われた非暴力と正義と平和の会議において、先日シスター弘田も来て南スーダンの司教の話をしていました。非常に印象的な話でした。南スーダンで二つの勢力が対立し内線状態だったとき、唯一、双方の意見を聞くことが出来るのは、信頼されていた司教でした。どうしたら双方の仲介が出来るのですかという質問に対して、非常に抽象的に「愛する。」と答えられたのです。愛するのは分かるが具体的にはといろいろ言ってましたが、特に印象的だったのは、敵対する者に対するリスペクト、相手に対する尊敬の念がなければ絶対に和解というものは成立しない。そして、相手を尊敬、尊重するという態度とともに、現れる態度は聞くことです。相手の意見は自分とは違う、異なる、まったく異なる正反対の価値観を持っていたとしても、まず聞いて受け止める。それは時間がかかるけれど徹底することによって、和解の糸口が見えてくるのだと。それが具体的に政治的レベルの愛することの意味だと、そうおっしゃっていたのが印象的でした。果たして今、日本が抱えている様々な多くの問題の中で、特に敵対する考え方や自分たちと相いれない人たちに対して  相手をリスペクトして主張に耳を傾けることから和解をしようとする努力をなされているのか、これが非常に疑問なところであります。

 実は、昨日、今日の日付(8月15日)で「韓国と日本の和解に向けての会長談話」を正義と平和協議会会長のメッセージをとして日本語と韓国後で出しました。今回は背景となる解説が非常に多く7ページにもなりました。その締めくくりに引用した祈りが、今日の皆さんのしおりの中にある「第52回『世界広報の日』の教皇メッセージより」というものです。これは昨年5月の世界広報の日に、アッシジのフランシスコの平和の祈りを題材にしながら教皇様が祈りとして載せられていたものです。
 これを祈りとして、最後に皆さんと読んで、終わりたいと思います。

『主よ
 わたしたちをあなたの平和の道具にしてください。
 交わりをはぐくまないコミュニケーションに潜む悪に気づかせ、
 わたしたちの判断から毒を取り除き、兄弟姉妹として
 他の人のことを話せるよう助けてください。
 あなたは誠実で信頼できるかたです。
 わたしたちのことばを、この世の善の種にしてください。
 騒音のあるところで、耳を傾け、 混乱のあるところで、調和を促し、
 あいまいさには、明確さを、
 排斥には、分かち合いを、
 扇情主義には、冷静さをもたらすものとしてください。
 深みのないところに、真の問いかけをし、
 先入観のあるところに、信頼を呼び起こし、
 敵意のあるところに、敬意を、
 嘘のあるところに、真理をもたらすことができますように。
 アーメン。』
(日韓政府関係の和解に向けて 8.15「日本カトリック正義と平和協議会 会長」
 談話より)』

2019年8月11日日曜日

年間第19主日

この日の主日ミサは、勝谷司教と韓国から訪問中の金山椿(キム・サンチュン)司祭の共同司式でした。


キム神父様はイエズス会所属で、現在、ソウルの西江大学(ソガン大学)哲学科で教鞭をとっておられるそうです。
キム神父様のお説教では、日韓関係が悪化している状況のなか「カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。」というお話がありました。

キム神父様のお説教の大要をご紹介します。

『このような素晴らしいカテドラルで司教様と一緒にミサを捧げられ、そしてお説教までやらせていただきとてもうれしい気持ちです。

今日の第2朗読「ヘブライ人への手紙」に書かれているように、アブラハムは行き先も知らずに出発しました。私も26歳の時、イエズス会がどんなところかわからずに入会して、もう35年が経ちました。また、この札幌教区がどんなところか分からないのに、お盆に実家に帰省する人のように毎年、20年間くらい夏休みに訪れています。昨年、司祭に叙階して25周年を迎え、年も60歳で還暦になっています。昨年本を出しました。タイトルは「私をこえてあなたのうちに」という本でした。このタイトルはアウグスティヌスの「告白録」に書かれている言葉です。告白録の最後には結論として「私をこえて、ここであなたを見つけるでしょう」と書かれています。

神様はいつも働いています。ヨハネ5・17に「わたしの父は、今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」とあります。
イエス様は何の仕事をなさっているのでしょうか? それは、コリント2・5-18に、「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」とあります。イエス様の仕事というのは、人類と神様を和解させること。その和解させるその任務を私たちにも下さったので、私たちもいつも働くということです。
最近、日韓関係が悪化していますが、カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。そういう面で司教様には深く感謝いたします。

人生の中で大切なのは、私たちが何をしたかではなく、それを愛を持ってしたかどうか、ということです。愛を持ってしなかったことは、全て徒労に過ぎません。しかし、愛を持ってしたことは、少なくともその愛は永遠に残ります。例えば何年か前に東京で、韓国の留学生が線路に落ちた酔客を助けようとして命を落としたことがあります。その学生の行為は永遠にその場所に残ると思います。

ある哲学者は「人間が人間に与える一番大きなプレゼントは、対価を求めない純粋な奉仕、その思いである」と言っています。
母親は、何の対価を求めずに自分の子供に奉仕します。
イエス様も同じです。私たちの罪のために、この世のすべての罪を愛を持って贖ってくださいました。そこに愛がなければ何の意味もないただの徒労に過ぎません。
芥川賞をもらった又吉さんの「火花」という小説には、このような言葉があります。「そういう君だけが作れる笑いがある」。私たち信者にも、「私たちだけが行うことができる愛がある」と思います。
日野原重明さんという皆さんもご存知のお医者さんがいます。100歳を超えても現役で頑張っておられました。彼は1970年に「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれました。彼はその事件があってから、自分に言います。「私の命は残っている時間の中にある」ということでした。その大切な時間を、「子供のころは自分のために使うのですが、大人にあっては他人のために使わなければなりません。」と彼は語っていました。他人のために使う時間が多ければ多いほど、天国は近づいてくるということです。

人生は何よりも愛を学ぶ学校でもあります。
この世は、「愛」の小学校だと思います。この世に私たちが送られてきたのは、この「愛」を学ぶためです。修道院のような所は「愛」の中学校か高校ではないかと思います。「愛」の大学とはどこでしょうか?それは、私たちに本当の愛は何かということを教えてくれるところだと思います。これは、マタイ25章に出ています。「牢にいるときに訪ねてくれた」。多分、「愛」の大学は刑務所じゃないかというような気がします。「病気のときに見舞いに来てくれました」、病院も「愛」の大学という気がします。
この世には愛の大学はあちこちにたくさんあるのではと思います。ここを卒業したら天国に直接行けるのではないでしょうか。

私たちのふるい命は、この地上でなくなります。しかし新しい命、それはキリストとともに神の中に託されます。』



2019年8月4日日曜日

年間第18主日

この日の第一朗読「コヘレトの言葉(1・2,2・21-23)」では、現実世界の空しさが語られます。
たしかに、私たちの生きている現実は、理不尽なことがたくさんあります。
でもそう感じてしまうのは、神に心が向き合っていないということなのかもしれません。


この日の湯澤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音はルカだけが書き残している部分です。ある意味でルカのセンスというか、財産的なものに厳しい見方をするルカ、福音を書いた人の性格がしないでもないです。ある人がやって来て、財産を分けてくれるように兄弟に言ってくださいと頼んだのです。この当時の宗教的指導者は、こういう問題を取り上げて調定をしたり裁いたりしていましたが、キリストはそれをきっかけに別な話を始めたのだと思います。一般的にすべての人に向かって、どんな貪欲にも注意を払いなさいと。ですから最初の人は貪欲な人かなと思うのですが、そうではないと思います。おそらく遺産相続の時に不平等を感じて、何とかして欲しいと言ったんでしょう。こういう理不尽なことは良くあることです。普通であれば正しいことをしていれば、良い報いがある。昔から良いことをしていれば天国にいけると。悪いことをしていれば地獄にいくと。普通はそう考えますね。実際はそうでないことの方が多いですね。

 今日の第一朗読は、旧約聖書のコヘレトの言葉、昔は伝道の書と言われていました。「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これは空しく大いに不幸なことだ。」せっかく努力したのにそれを自分のものに出来ない、努力が無駄になる。全然努力しない人が良い思いをする。それはおかしいことではないかということですね。普通だったら、がんばったら良いことがおこる。そうとは限らないのが人間の世界ですね。
  分かりやすい例ですが旧約聖書に、カインとアベルの話があります。カインとアベルの兄弟がいて、二人が神様に捧げ物をします。アベルは牧畜をする人だったので、一番良い羊を神様に捧げます。カインは農民だったので農作物を捧げました。両方とも素晴らしいものを捧げたのですが、神様はアベルの捧げ物を受けて、カインの物は受け入れなかった。カインは怒ったのです。
 こういうことは良くあります。同じ人間に生まれながら、非常に頭の良い人とか、イケメンの人とかいますね。そうじゃない人はあまり良いことがないですね。頭の悪い人はどれだけ努力しても勉強は出来ないし、イケメンでない人はどんなにもてようと思ってもモテないですね。なんで神様はこんな理不尽なことを…。私の中学の同級生にすごく頭の良い人がいました。高校も男子校でいっしょでした。いつも遊んでいるのですが、成績はトップでした。なぜ勉強をしないのにそんなに出来るのか聞いたことがありました。一回授業をきけば全部分かるよと言われました。そんな馬鹿なと思いました。でもその後、東大の医学部に入りました。こっちはきゅうきゅうとして試験勉強し、やっと大学に入れたのに。頭の良い人は勉強しないのに良い大学に入り、良い職業を得て良い生活をするのですが、そうでない人はどんなに努力しても駄目。カインとアベルみたいなものですね。
 
 どうやら人間の社会は、良いことをすれば良い報いがあるだけではないらしい。コヘレトは考えたのですね。反知恵文学と言います。頑張りましょう。神様は必ず報いをくださいますから。これを知恵文学といいます。知恵の書や格言のこと。コヘレトなどの反知恵文学は、どんなに努力しても良い報いがあるとは限らない。だったらどうしようかという問いかけですね。カインとアベルの物語に戻りますと、神様は答えを出すのです。もし悪いことしていなかったら神様の方をずっと見ていれば良い。もしそのときに嫉妬などして神様から離れると罪を犯すかもしれない。実際にカインは弟を殺してしまったわけですね。
カインとアベルの話は簡単にお話しがなされていますが、コヘレトもそうですね、神様の摂理、神様の意思は分からないものです。だから悪いことをしても栄える人はいますし、良いことをしても不幸になる人はいる。でも、神様の意思、思いは分からない、結果では分からない。最終的には神様の意思、心に従って生きようではないかとコヘレトは結論を出します。そのように考えると今日の第二朗読も似たようなことが書いてありますね。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイの教会への手紙3章1、2節)キリストの話もそういうふうにしてみると、なんとなく分かるような気がします。

  確かに私たちはこの世の中で生きなければならない。その中で何と理不尽なことがある。
努力しても報われないことがあるし、変だなということがたくさんあるかもしれない。
 でも大切なことは、そういう中で神様は私にどういうことを望んでおられるのか、探すこと。それに応えて生きること。私たちは日常生活でどうしても表面的な人間的なものに心が囚われてしまって、一番大事なことを忘れてしまっているかもしれない。キリストは言うわけですね。弟子たちに求めたものは何か。神様の意思を知ってそれに応えること。そのように考えると今日のこの話も何となく分かってくるのでは。私たちが最終的に大切にしなければならないことも分かってくるのではないかと思います。』

2019年7月28日日曜日

年間第17主日 「主の祈り」

ルカ 11・1-13
この日の福音でイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えました。
祈りというのは自分自身を見つめることでもあります。
自分の願いは何でしょうか?


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の場面ではイエスがエルサレムへ行く旅の途中が続いています。 先週はマリアがイエスの足元で話を聞いていて、マルタがイエスに食事を出すために忙しく働いている場 面でした。 マルタはマリアの態度を見て自分の正当性を訴えられました。 イエスはマルタをさとされました。 それによってマルタの祈りは受け入れられたのです。 マルタが望んでいたようにではなく、神の望んでおられたことはこういうことだったとマルタは理解したと思います。

さて、今日の福音はイエスがあるところで祈っておられたという言葉から始まります。 弟子の一人がイエスにわたしたちにも祈りを教えてくださいと言います。 わたしたちにとっても祈り方というものは切実なものかもしれません。 神父様、こういう時にはどのように祈ればいいですか、と聞かれることがあります。 例えば、墓をしまってこちらに移したいのですがどう祈ればいいですかとか、ロザリオが壊れてしまいましたどうすればいいですかと聞かれることがあります。 こういう時に話すのは、「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と、感謝の気持ちを伝えて処分すればいいと伝えます。 土に埋める、あるいは燃やすのがいいと思いますが、今の世の中はなかなかそうもできませんので、通常のごみと一緒に捨ててもいいと伝えています。 すでに感謝の祈りをささげたなら目的を達成した物として処分できると思います。 もし捨てきれないというのであれば、直接司祭に持ってきてください。 司祭の権限で処分しますので安心していただければと思います。

今あえて「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と言いました。
この神への呼びかけとして「父よ」という言葉はもともとユダヤ人の祈りでは出て来ません。 旧約聖書では知恵の書、シラ書で神に願うときに、数回、出ているだけです。 この2つの書物は紀元前3世紀以降にギリシャ語を用いるユダヤ教徒が書いたものです。 ギリシャ語で書かれているけれども、カトリック教会ではユダヤ教徒が伝えた大切な聖書として扱っています。 ともかく、イエスは祈るときにはまず「父よ」という言葉から始めています。 これは当時とても新鮮だったと思います。 当時のユダヤ人の間では「父よ」というのは、子どもが「お父さん」と親しみをこめて呼びかける言葉でした。 逆に言えば、お父さんは子どもの呼びかけを聞いて「何だい?」と耳を傾けることになるでしょう。 そして、子どもの願いを聞き入れ、その願いをかなえてあげようとします。 それほどの親密な関係がわたしたちと神の間にはあるのだということです。
今日の福音の最後の部分、11節以降のたとえ話で父と子の関係に当てはめて、反語で強調しています。 反語というのは、言いたいことの反対の内容を疑問形で述べる表現のことを言います。
「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。 「卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。
最近のニュースを見ていると自分の子供を虐待しているのをよく目にしますので、本当だろうかと揺らいでいる面もあるかと思います。 ただ、多くの親は、「自分の子供にはよいものを与えることを知っている」のです。 同じように、いやむしろ自分のお父さん以上に、神である父は求める者の願いを聞き入れてくださいます。

父である神に祈ることはわたしたちの基本的な姿勢です。 このミサもそうですし、日々の生活の中でも祈りはあると思います。 神はわたしたちの願いをすべてご存知です。 ですが、わたしたちが何を願いたいのかに気づいて、父である神に願うことがなければかなえられません。 ですから、祈りというのは自分自身を見つめることでもあるのです。 しばらく沈黙のうちに自分の願いを振り返り、感謝の祭儀を通して神の恵みを祈り求めてまいりましょう。 』

2019年7月21日日曜日

年間第16主日 「マルタとマリア」

この日の主日ミサは、佐藤神父様とレイ神父様の共同司式で行われました。


今日の福音は、ルカ福音書(10・38-42)の「マルタとマリア」の箇所が朗読されました。

このマルタとマリアのようなことは、私たちの家庭や職場でも起こりうるような出来事です。マルタの面白くない気持ちはよく理解できます。ではなぜ、イエス様はしっかり者のマルタの方を叱ったのでしょうか?

佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音を読んでみると、わたしはどうすればいいのだろうかと悩むかもしれません。 マルタとマリア、対照的に見えるこの姉妹の行動のどちらが正しいのかと思うかもしれません。 結論を言えば、どちらも間違っていないと言えます。
マルタもイエスをもてなしていましたから、アブラハムが行ったもてなし(創世記18・1~)のようにとてもいいことをしていると言えます。 マリアもイエスの話を熱心に聞いていましたから、アブラハムが旅人の言葉を聞いたようにとてもいいことをしていると言えます。 自分がやっていることを他人も同じようにやるべきだと考えないことです。
比較すべき問題ではありません。 マルタの言葉の中に「わたしだけに」という言葉があります。
「わたしだけにもてなしをさせて」という訴えを聞くと確かにそうだ、みんなでもてなそうと同意してしまいがちです。 イエスはそうは考えませんでした。 マルタの選んだこともマリアの選んだこともどちらも正しいことであるのは確かです。 しかし、イエスはマルタが自ら選んだことをマリアも同じように選ばなければならないという考えを戒めます。 今日の場面はイエスがエルサレムへ行く旅の途中です。 イエスは十字架につけられて自分が死ぬことを知っていました。 この親しい弟子であるベタニアのマルタとマリアとの最後の出会いであることもイエスは知っていました。 だからこそ、自分の話すことをよくよく聞いてほしいと願っていました。 マリアが選んだことはイエスとの時を過ごし、イエスの話をよく聞いておくことでした。 マルタが選んだのはイエスのために最高のもてなしをすることでした。 どちらも正しいことです。

しかし、マルタは訴えます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 イエスはマルタの名前を2回呼んで答えます。 目の前にいる人に向かって答えているので名前を呼ぶ必要がありませんが、それも2回呼んでいるというのは本当によく聞いてほしいということだと思います。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」 どのようなもてなしをしたらいいのかというところに心が向いてしまっていて、マリアも同じようにしてほしいと思っているマルタに呼びかけています。 イエスの答えは「必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。 それを取り上げてはならない。」 イエスは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのです。 みんなから多くのもてなしを受けることではなく、みんなに一つの福音を伝えるためにイエスは来たのです。
 もちろん、マルタが悪い方を選んだということではありません。 イエスの福音を聞くことが第一であるということです。 今日の福音はイエスのことばで終わっていますから、マルタがどう思ったかまではわかりません。 しかし、自分の願いを訴えることは祈りにつながっていくことが分かります。 どうすればいいのかわからないときに主に祈ることで解決につながっていきます。

 マルタがイエスに訴えたことによって、マルタはイエスから最も重要なことを教えられました。 イエスのことばを聞くこと、神の国を求めることが大切なことだと教えられました。 もしかしたらイエスのことばで、マルタは自分自身の凝り固まった考えを打ち破ることができたのかもしれません。 福音書はこのあと、主の祈りに続いていきますのでマルタの考えがどうなったかはわかりません。
 イエスはわたしたちが主の福音をよく聞いて歩むことを求めています。 わたしたちも福音を聞いてイエスが伝えたいことを理解し、この世に神の国を宣べ伝えていくことができるよう祈ってまいりましょう。』

【夕べの会】
7月20日(土)15:00から、教会の中庭で親睦会「夕べの会」を行いました。EMCの皆さん、佐藤神父様、レイ神父様、佐久間神父様も参加され、バーベキューと生ビールで親交を深めました。