2019年12月8日日曜日

待降節第2主日

待降節は、主の誕生の「喜び」を、私たち一人一人がイエス様の心を持って「待つ」期間です。先週に引き続きルカ神父様の司式でした。


ルカ神父様のお説教の一部をご紹介します。

『今日のみ言葉は本当に素晴らしいです。
神様が作り出しだした世界、全ての生き物、人間だけでなく、全ての動物、植物。
獅子と牛が一緒に干し草を食べ、子供がマムシの巣に手を入れる、、、。
第一朗読のイザヤ書(イザヤ 11-1-10)は、平和を現しています。

福音朗読では、「準備」ということについて語られています。
洗礼者ヨハネが言った「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」
それがイエス様です。
待降節は、四旬節とは違って「喜び」です。
一人一人が、イエス様の心を持って、待つということです。
そのような気持ち、心で今日のミサに与りましょう。』


ミサ後には、フランシスコ教皇の来日メッセージやミサ説教を分かち合う集い「ひとつになろう」を行いました。


45名位の方が参加し、桜谷運営委員長の挨拶、4つの場面の動画視聴、分かち合いの内容でした。多くの方から、教皇のお言葉への受け止め、気持ちを新たにして信仰生活をしたいなどのお話が聞けました。

2019年12月1日日曜日

待降節第1主日

待降節を迎えました。
クリスマスツリーと馬小屋の飾りつけをしました。
アドベントクランツのローソクに火が灯りました。
準備は万端です。後は心の準備ですね。

この日のミサは、ルカ神父様の司式でした。


お説教の大要をご紹介します。

『今日の福音はいつ来るか分からないがテーマ。主がいつ来るか分からない。死がいつくるか分からないではない。これは全然違う。信仰を持っていない人が死を迎える。信者が主を迎える。根本的に全然違う。聖フランシスコが「太陽の賛歌」の中で「ようこそ。姉妹なる死。」。なぜなら、あなたをとおして私は主のところ、イエス様のところへ行けるということ。信仰を持っていない人は、死はおしまいと言う。両者は全然違う。信仰からくる喜び、希望。私たちはいつか生まれ、いつか死ぬということではない。すべて神様のご計画の中にり、毎日生活している。主はいつも来られる。ひとり一人の心に訪ねてくださる。待降節は悲しい期間ではない。喜びの時でもある。四週間待つということ。クリスマスツリーも松ですね。エバグリーン、常緑。

 この前のパパ様の東京のミサには、飛行機ではなく新幹線で行った。ずっと楽。本を読んだり、祈りをしたり。隣に座っている人にはいつも声をかける。日本人は控えめ。(日本に来て)52年間、いつも声をかけられるのを待っている。今回は青年でした。
  ミサは素晴らしかった。5万人。残念なことはドーム以上に広い場所がなく、倍以上の人が入れなかったこと。(抽選もれ)教皇の来日は日本にとっては良かったこと。特に命と平和がテーマ。日本ばかりでなく、すべての国へのメッセージでもあった。
 今回はある意味で準備は、教皇様が来られるということで待降節。これからの準備は神のひとり子キリストが人間となられたことを記念するばかりでなく、2000年前の出来事を記念するのではなくて、私たちはいつも典礼を通して、今、今日、今年、キリストが私のために人間となって生まれてくることを記念。

 昨年のある新聞の投書欄。北海道の人。「クリスマス 病院で 教会で」
「クリスマスが近づき、街のイルミネーションがいっそう輝きを増してきました。そんな中、病院でクリスマスを過ごす人もいます。親しいご夫婦の奥様が癌を宣告され、これまで6回の抗がん剤治療を行い、もうすぐ手術を受けられます。ご主人は献身的に寄り添っておられます。看護師さんからは仲が良くて羨ましいと言われるそうです。そんな奥様が一番残念なのは、今年のクリスマスは教会ではなく、病院で過ごすことになりますと言われました。でも、その後に教会の皆さんがお祈りしています、とても心強いですと、笑顔で話されます。クリスマスはすべての人の平和を祈るときでもあるようです。私は、クリスマスイヴの夜は近くの教会に行き、「きよしこの夜」を歌いたいと思います。」

どうぞ皆さん、病んでいる人、貧しい人のため、1年の最後の1ヶ月ですが、みんながイエス様から元気、希望をいただけるよう、心の準備をしていきましょう。』

2019年11月24日日曜日

王であるキリスト

典礼暦では年間最後の主日を迎えています。
今日は「王であるキリスト」の祭日です。
「王であるキリスト」とは、この世の王とは違い、自分を犠牲にして人々を救い、憐れみをもって赦しを与えてくださる方です。



この日の午後、教皇フランシスコの長崎でのミサを、70名の方がカテドラルホールで視聴しました。



佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『 年間の最後の主日にあたる今日、わたしたちは「王であるキリスト」を祝います。
「王」と言われてもピンと来ないかもしれません。 覇権争いの中で「王」という者が現れては消えていきました。 権力をもってその地を統治する者が地上の王であるとすると、イエスはどういう意味で王なのかということが疑問となります。

ルカ福音書では一緒に十字架につけられた犯罪人たちのうちの一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っています。 マルコやマタイ福音書でも二人の強盗たちが一緒に十字架につけられますが、どちらもイエスをののしったとあります。 回心する犯罪人を登場させるところに、苦しむ救い主とすべての人々に対する神のあわれみを記しているルカの特徴が表れています。
この犯罪人は自分もイエスもこの十字架上で死ぬことはわかってます。 この世での命が終わることが分かっています。 そして、「あなたの御国においでになるときには」と言っていることからイエスの王国が死を越えて実現するということを信じていると考えられます。 そこで「わたしを思い出してください」と願っています。 これはわたしたちの信仰の中心ではないでしょうか。 この犯罪人の姿こそがわたしたちキリストを信じる者の姿なのだということです。

わたしたちはみな各自それぞれ自分の十字架を背負って生きています。 その中でもがき苦しんで生きています。 人生の最後に至るまで「イエスよ、共にいてください」と願うことが大切なことだと今日の福音は教えているのです。
イエスの返事ははっきりしています。 「はっきり言っておく」という言葉をよく目にしますが、これは「この世の人々はこうであると言っているが、わたしは違うとはっきり言っておく」ということです。 みんなはそうは思わないだろうがわたしは次のようにはっきり言うということです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは断言されました。 楽園とは、神と人とが共に暮らすところであり、人と人とが調和に満ちた世界だと言ってもいいでしょう。 創世記2章に描かれるエデンの園がまさしく楽園です。 エデンの園に神がアダムを連れてきてそこに住まわせ、そこを耕し守るようにされました。 そして女であるエバを一緒に住まわせました。 神と人々が一緒に暮らすところが楽園というわけです。 しかもそこにいるのが「今日」なのです。
「今日あなたはこの世の生を終えるが、すぐにわたしとともに楽園にいる」ということをイエスは言っているのです。 素晴らしい励ましの言葉です。 わたしたちの祈りがどうあればいいのかがここに示されていると思います。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
イエスに願い求めると同時にわたしたちがしなければならないことがあります。 それはその前の言葉です。もう一人の犯罪人が議員たちや兵士たちと同じ言葉を放った後です。
「メシアなら自分自身と我々を救ってみろ。」 この言葉に対して、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」ともう一人の犯罪人は弁護しました。
わたしたちキリスト者が神にゆるしを願うと同時に、神への信仰を証しすることが求められるということを表しています。
王であるキリストとは、自分を犠牲にして人々を救い、あわれみをもってゆるしを与えてくださる方を表しています。 自分を守るために君臨している地上の王とは違うお方です。 この回心した犯罪人のようにイエスを証しし、イエスが共にいてくださるように願いながら、王であるキリストをたたえてこの祭儀を続けてまいりましょう。』

2019年11月17日日曜日

年間第33主日

典礼は先週から「終末主日」と呼ばれる期間に入っています。
終末という言葉には文字通り「終わり」という意味と、「目的地」つまり、神の創造の完成という意味があります。
昨年の待降節から始まった教会暦年がもうすぐ終わります。この一年の神様の恵みを振り返ってみましょう。

この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書と典礼の下の注釈に「イエスの宣教活動の結びにあたる終末についての説教」とあります。 終末というと、いま映画で上映している「ターミネーター:ニュー・フェイト」のような世界を思い浮かべるかもしれません。 また、世界の全面戦争ののちの絶望的な破壊というようなイメージがあります。 確かに今日の福音書に描かれる世界はそのようにも思えます。
「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」 戦争や民族紛争、大地震、飢饉、疫病などは今の時代でも同じく続いています。 だからといってまだ世の終わりが来たということではありません。 キリスト教で言う世の終わりはすべての者が滅びる時ではなく、イエスの再臨の時を言います。

天地の創造があって人間の旅路が始まりました。 神は人間を導いていきました。
ある程度その導きに応えていましたが、姿の見えない神に対して自分たちのやりたいことをするようになり神から離れていきました。 選ばれた民であるイスラエル民族は、そのたびにひどい仕打ちを周りの民族から受けてきました。 神は、イエスを人間の姿で人々の間に住まわせて人々を救おうとしました。 イエスは人々の間で神の国の教えを弟子たちに伝えていきました。 イエスはファリサイ派や律法学者の陰謀によって十字架につけられました。 死んで3日目に復活し弟子たちの間に現れ、死んでも新しい命に生まれ変わることを示されました。 40日目に聖霊の派遣を約束して天に昇っていきました。 50日目に祈っている弟子たちに聖霊が派遣されました。 聖霊の派遣ののち、弟子たちは聖霊に促され大胆にイエス・キリストを証しするようになりました。 わたしたちもこの弟子たちのようにイエス・キリストを証ししています。 聖霊を受けてイエスと共に歩むことになったわたしたちはこの世の中で神の国の実現のために働きます。 そしてイエス・キリストの再臨の時に世が終わり、神の創造が完成するのです。 この創造の完成に向かってわたしたちは生きているのです。

終末という言葉は「終わり」という意味ですが「目的地」という意味もあります。 この世がいつまでもだらだら続くということではなく、必ず目的地である神の創造の完成があるということ、キリストの再臨があるということをわたしたちは信じて生きていくのです。 その目的地に向かってどのように生きていくのかということが問題となるのです。 それは世の終わりだけでなく、個人個人の人生の終わりにも同じように言えるものです。
死が必ず訪れるものだということを意識していると生き方も根本的に変わるのです。
もし死ななかったとしたら、どうでしょう。 死なないなら働かなくてもいいし、朝起きなくてもいいし、食べなくてもいい。 何もしなくても死なないわけですから。 しかしそれは死んだのと同じです。 死が必ず訪れるからこそしっかりと生きるという意識が芽生えます。 今日のパウロの手紙に示されたようにしっかり生きなさいということです。

キリスト教における終末、目的地は「最後の審判」とも呼ばれます。 そのとき神の国が完成します。 最後の審判の前に個人個人の死においても同じように審判が下ります。 聖書にはいわゆる天国と地獄の記述があります。 煉獄の記述は聖書にはありませんが、カトリック教会はそこで神に向かう人は清めを受けると考えています。 天国にすぐ行けるほどの善い人生は送らなかった人、しかし善意はまだ持っている人が行く場所です。 そこで償いをしながら天国に入る準備をすることになります。 その償いはどういうものかというと、自分が地上で他人に与えた苦しみが痛切にわかるということです。 どんなに善良な人でも自分が他人にしてきた仕打ちのひどさが本当にはわかっていないでしょう。 わたしもまったくわかっていないと思います。 煉獄ではそれが身を切るようにわかるのです。 それがはっきりと自分の前に示されることによって心から悔い改めることができるのです。 それと同時にその人は神を求めているわけですから、天国の景色もはっきりと見えていることでしょう。 しかし、悔い改めが終わらないとどうしてもそこに行けないわけです。 どうしてもそこに行きたいというその痛切な思いも煉獄の痛みとなるわけです。 今この世で生きているわたしたちは、煉獄の霊魂のためにも祈っています。 少しでも早く天国に行けるようにと祈ります。 この煉獄の死者への思いはわたしたちの地上の生活を潤いのあるものにします。 わたしたちが祈り、犠牲を払い、よい振る舞いをすることは、わたしたちの愛する死者を早く天国に移す助けになるからです。 亡くなった方々もわたしたちのそのような祈りを聞いて感謝するでしょうし、自分の子や孫が善い人生を送ろうとしているのを見てうれしく思うのではないでしょうか。』

2019年11月10日日曜日

年間第32主日

ルカ 20・27-38

復活を否定しようとモーセ五書を引き合いに出し、言葉尻を捉えようと質問をしたサドカイ派に対して、イエスははっきりと復活を肯定しました。


森田神父様のお説教の一部をご紹介します。

『この日の福音朗読は復活についての問答です。
今回の質問者はサドカイ派の人たちでした。復活を否定するためにモーセ五書を引き合いに出し、イエス様の言葉尻を捉えようと質問をしたのです。
しかし、イエス様は「そんなことではない」と一蹴されます。
サドカイ派の人は、一生懸命知恵を巡らせて律法の知識を動員して、理論を詰めていくわけですが、イエス様の理論とは「格」が違うのでした。イエス様は、彼らと同じ次元で答えるのではなく、ご自分が知っている天の国では人は復活するのだと、復活をはっきりと肯定なさったわけです。
旧約聖書には、復活の箇所ははっきりとは書かれていません。イエス様になって初めて「復活」をはっきりと示されました。
旧約聖書のユダヤ人であれば誰もが知っている「柴」の箇所を挙げて、「神は生きている者の神である。だから、我々は死んでも生きる」と、イエス様はここではっきりと仰っているわけです。

この世で夫であり妻であった契というのは非常に大事なもので、永遠のいのちにあっては、特別な形できっと続くのだと思います。そして同時に、私たちは天の住人の他の全ての人と、大変親しい関わりがあり、お互いにお互いの幸せを望み、相手の幸せがそのまま自分の幸せになると、ある神学者は言っています。ですから、100人の住人がいれば、一人一人の喜びは100人分の喜びである。100万人の天の住人がいれば、一人一人の幸いは100万人幸いになるわけです。神様は、私たちのために考えられないような準備をなさっておられます。

天国から見たこの世については、いろいろな教会の歴史の中で様々な聖人が語っています。
ある人は、「煉獄の霊魂たちは、もし30分だけ地上に戻れるとしたら、多分煉獄は空っぽになるであろう」と言っています。それほど、煉獄から見たこの世というのは、もっと素晴らしい生き方をしていれば良かった、と思うようなところだと思います。

天国は、幸いに包まれ、何の悲しみも不幸もないところだけれど、主イエスが天から世に降りて来られた30年間の功徳ほど素晴らしいものはない。天国にいると、イエス様の地上での功徳や、十字架での業に与ることができない。この世にいる人だけが与ることができる。だから、苦しみに満ちたこの世での短い期間の功徳というものは、天国で得られるものとは比べものにならないほど大きいといわれます。』


ミサの後、秋の大掃除を行いました。
聖堂の床磨きをメインに作業しました。



2019年11月4日月曜日

年間第31主日「ザアカイ」

ザアカイ、急いで降りて来なさい (ルカ19・5より)

この日のみ言葉は、大変感動的なお話です。
周りから罪人と蔑まれ孤独な中にあったザアカイは、そんな自分に愛を示してくれたイエスに出会うことで、救われ、喜び、そして回心したのでした。


この日の森田神父様のお説教をご紹介します。

『背の低い有名なザアカイの話ですが、ご存じのとおり徴税人は嫌われていました。誇り高いユダヤの人々がローマ帝国という大国に支配され、それだけでも面白くない。神に選ばれた選民の意識を持っている人にとっては、それでも耐えがたいことです。仲間がローマに税を払うために税金を集める。ユダヤ人にやらせていました。みんなは国を裏切っていると憎むわけです。同時に徴税人は私腹を肥やす。ポケットにいくつか入れてしまう。ですから、罪人の代表。開き直って生きている人たち。社会からつんぼ桟敷にされ、彼らだけの仲間で生きていたのだと思います。

 ザアカイはその頭ですから、どう思われていたか良く分かります。しかし、イエス様は私は救われる、失われたものを探して救うためにきた。今日の話の中に具体的に現れているのです。木に登っているザアカイを見て、どおしてザアカイをご存じだったか分からないのですが、主はご存じであった。そして、よりによってその人の家に泊まるのです。ザアカイは本当に驚いた。主が自分を知っておられたということと、自分に宿を頼まれた。これはどんな思いか分かりません。そして、一晩イエス様と同じ家に住む。そういう特権を得るのです。ザアカイは半分財産を施します。だまし取っていたら4倍にして返します。素晴らしい心が湧き上がってきました。
  本当に神様はお造りになったもので嫌われるものはない。第一朗読(知恵の書)で言われていたとおりだと思います。神様はご自分がお造りになった人間が、世界で輝いて生きることを願っていらっしゃる。苦しみにうちひしがれた人生は、神様が望んでおられるわけでなく、ひとり一人の幸せに対して創造主として、父親として、彼らが幸せであることに 責任を持っていらっしゃる。感じていらっしゃる。そういうふうにフランシスコ教皇は言われておられます。

  まず、キリスト教では罪人をただただ赦すだけでない。やはり正義というものが満たされなければならない。犯した罪については償いが行わなければ社会の秩序が乱れてしまう。イエス様はそれを自分で全部背負うつもりだったのです。彼らが神の前で犯した大きな罪は、ご自分が十字架の上で苦しんで背負う。こういう気持ちがあったからこそいろんな人に福音のメッセージ、罪人の人にも救いのメッセージを告げることができたのだと思います。ただただ赦しとか、神を愛しているというメッセージだけでなくて、最後に自分が達していようとしていた、成し遂げられようとしていた十字架上の死。これをいつも見据えて、そこからその恵みがすべて流れ出る。罪人の罪を自分で背負うおつもりであった。ここを忘れてはいけないと思います。だからこそ失われたものを探して、救いのおとずれができたと言えると思います。

  また、次に人の心を開くものは何かということをこの箇所は教えてくれます。当時のファリサイ派の人や律法学者の人たちからきっと、このザアカイは罪をなじられたり、いろんなことを言われたりして生きてきたと思います。それで彼らが回心するわけでなく、むしろユダヤ社会から自分たちはつんぼ桟敷にされた。もう戻れない。そういう気持ちのなかで開き直りです。自分たちだけのグループの中で淡々として生きてきた。回心をとても望めなかった人たちか分かりません。イエス様がその家に訪れることによって、ザアカイの堅い心が開かれた。ザアカイの心の中に眠っていた信仰とか、さまざまな善意が目覚めたと、私たちは受け止めることができると思います。暖かいものに包まれたとき、私たちは素晴らしいものが開かれる。そういうことを学ぶことができると思います。人に変わって欲しいと思うとき、人に信仰を持って欲しいと思うときに、いろいろなやり方があると
思いますが、この現代、とりわけ宗教は真理を述べて論破するだけではいけないと思います。一昔論争の時代で、神の存在の証明、カトリックの正しさ、それぞれの宗派で論争していましたが、正しくてもついていけないということがあります。その神様が弱点だらけの私を包んでくださる。家に泊まろうとして声をかけてくださる。私と関わりをもとうとしてくださる。私が全部背負うから私の所に来なさいと言ってくださる。
 こういう神様を知ったら私たちはついていける。どうやったら人の心を開くことができるか。イエス様はきょうそれを見せてくださったような気がします。近づくこととか、敬意を称するとか、自分からその人のもとに行って願うこととか。本当に人の心を開かれる神様だと思います。

   また、三つ目に思いますのは、人が回心するときに、救われる可能性がなければ人は頑張ることができないのではと思います。いくら頑張っても無理だとか、この当時の社会の中で頑張っても認められないとか、ただただ欠点だけ見られて自分の弱さを指摘されたら、社会では信仰を持って頑張ろうと思っても、何か無理ではないかと感じがすると思います。しかし、成功するとか、神の子として神様に受け入れられて生きられる希望とか、罪と打ち勝って勝てるという希望を持つと頑張る気になれる。ザアカイもイエス様も、近づきを見てやっていけそうだ。この人ならついていける、信仰生活をまっとうできそうだと思ったにちがいありません。
 今までのキリスト教の歴史の中でたくさんの罪人、ときには人を殺したり、あるいは多くの人たちを堕落して生きてきた人たちが回心して、本当に聖人の道を歩んだ。そういう例はたくさんあります。日本でも本が出ていますが、元ヤクザだった人が牧師になった。
本当のボスを見つけた。親分を見つけた。私でもいいんだ。彼らが牧師になった後の写真となる前の写真の違いですね。ヤクザ時代の写真と牧師の生き生きとした写真。全然違います。人間ってこうも変われる。本当はこういう素晴らしい人だったんだ。あるいはこういう人もこんなに生き生きと生きることが可能なんだ。それが良く分かるのです。

  イエス様の赦しと近づきと私たちを暖かく包んでくださるその力は、人を一変させる
力があると思います。私たちも悪と戦うときに、最終的には悪い者が勝つのだと、何となく現代に流れている風潮ではないでしょうか。戦う気が起こらない。しかし、最終的には
善が勝つ。善と悪と様々なものが人間の心にあって、社会にも様々な善と悪があって、あるときは善が圧倒してる。しかし、神様にはいくらでも道がある。いろいろな方法がある。
私がこういう者であっても置かれた立場で最善を尽くしていれば、光が見える。そういうふうに信じられれば、私たちは頑張ろうとする。諦めるのではなくて頑張ろうとする。
戦おうとする。それが大事なような気がします。
  ナチスの時代。ドイツの国民は暴力と力に圧倒される。勝つ望みを失っていましたから。コルベ神父様はご自分が作っていた聖母の騎士という機関誌の中で、ポーランド語であったか分かりませんが、圧倒する悪夢の中で神が勝つと言われたのです。最終的にナチスは敗れましたがコルベ神父様自身はアウシュヴィッツの刑務所の中で人の身代わりとなって死んでいった。これも悪の結果かもしれませんが、それが刑務所の中の日常の光となったわけです。そういうまで生きる素晴らしい道がある。後生に語り継げられる素晴らしい道がある。これは後に世の中を照らす。私たちもこういう神様の道がどんなところにも、どんな闇がいっぱいのところにも、何かあることを信じていきたいと思います。

 今日は、徴税人の頭であるザアカイの話を見ながら、本当にこういう罪人を探すために近づいてくださるイエス様を私たちは見つめました。そして、キリスト教はただ赦しだけの甘い宗教であるわけでなく、その赦される罪人の罪を自分で背負って償う。正義をちゃんと全うするものである。イエス様がそれをなさったということ。忘れないようにしたいと思います。  2番目としてお話したのは、人の心に信仰がともる。あるいは人の心を開くものは何か。それは厳しい叱責であるよりも、イエス様のようにその人に愛する、近づく、その人に願う。そういう暖かい神様の慈しみがその人を開く。現代の教会は真偽を主張するだけでなく、多くの人を暖かく包む。その神様の慈しみを述べることが大事だと思います。  3つ目に、私たちは希望がなければ頑張りませんが、希望が見えたときに頑張ろうという気力になる。そして、闇が圧倒するような社会の中にも必ず光があり、その時代、時代その国のいろいろな面白い新たなやり方、信仰の歩み方というものがあり、それは大きな光である。それは神様には何通りも、何十通りでも、ひとり一人に対してそういうものを持っておられることを信じて、私たちも戦うことを諦めずに頑張っていきたいと思います。』

2019年10月27日日曜日

年間第30主日

へりくだる者は高められる (ルカ18・14より)

今日の福音(ルカ18・9-14)は、ファリサイ派と徴税人の二人の祈りを対比させ、祈りの姿勢について教えられています。

この日のミサは、勝谷司教様と佐藤神父様の共同司式でした。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音ではファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りが描かれています。 ファリサイという言葉は分離するという意味の言葉に由来します。 では何から分離するのか。 イエスが現れる 200年くらい前にユダヤはセレウコス朝シリアに支配されました。 この国はユダヤを支配してヘレニズム化政策、つまりギリシャ化の政策を進めました。 ギリシャ化というのは、エルサレムの神殿からいろいろなものを略奪して、異教の神々の偶像にいけにえをささげさせたり、律法を忘れさせ、掟をすべて変えてしまうことをしました。 ヘレニズム化を歓迎したのは上級祭司や土地を持っている人など実権を握る者たちでした。 逆に警戒したのが、下級祭司や農民たちでした。 上級祭司や権力を持つ者はセレウコス側についた方が人々を支配しやすかったので歓迎したのです。 下級祭司や農民は、唯一の神こそが自分たちを守るものであり、ギリシャ化には反対し、律法を厳しく守っていました。 のちに上級祭司はサドカイ派となっていき、下級祭司はファリサイ派となっていきます。 ですからファリサイ派は、初めは弱い者とともに手をたずさえて、自分たちの宗教を守っていこうとする人たちだったのです。
「分離する」というのは、ヘレニズム化とは明確に分離するという意味です。 それは自分たちの律法をしっかり守り、セレウコス朝と対抗しなければならないということから、結 束を守るために必要だったと言えます。 その後マカバイ戦争が起こり、神殿を取り戻したということが聖書のマカバイ記に書かれています。 イエスの時代にもファリサイ派は続いていて、律法を厳格に守るということが続いていました。

さて、イエスの時代にはユダヤはセレウコス朝からローマ帝国に代わって支配されていましたが、宗教に関してはある程度ユダヤ人の自由に任されていました。 ローマ帝国は、税金徴収という仕事のためにユダヤ人の中から徴税人を任命していました。 その仕事でローマから給料をもらっていたと思いますが、それに加えてユダヤ人に手数料を上乗せして徴収することもできたようです。 ユダヤ人でありながらローマ帝国の手伝いをし、さらに上乗せしてユダヤ人から税金以上の金を取る裏切り者と思われていたのです。
この二人、ファリサイ派の人と徴税人の祈りが、神に受け入れられるものかどうかをイエスはたとえで示しているわけです。 ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはこのような者でありません」、「わたしはこのような者です」という2つの祈りが入っています。 わたしはこのような者ではありませんというのは、 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、また、この徴税人のような者でもないことに感謝します。 わたしはこのような者ですというのは、 週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています。 果たして、これは祈りといえるのでしょうか。 この祈りには神の恵みを求めることを感じさせるところが全くありません。 すべて自分の力で達成することができたと言っているだけです。 この祈りを神が聞いて「偉いねえ」とほめてもらえるとでも思っているのでしょうか。
神に心を向けて折っているのではなく、単に自分の行わなかったこと、行うことができたことを言っているだけです。 自分で自分はこんなに出来て偉いのだと思っているだけで、こんな報告は神にとってどうでもいいことです。 言ってみれば当然のことをしただけです。 むしろ、「わたしは当然のことをしただけです、わたしを憐れんでください」というなら神様もこの人を正しいとされたかもしれません。
ファリサイ派の人が本当にしなければならないことは、迫害されていた時代の精神に戻り、律法を守らない人には自ら近づいて行って律法を教え守るよう導くべきです。 そうでない人には近づかずむしろ排除しようとしているように感じます。 遠く離れて立って祈っている徴税人には、ユダヤ人に不正を働かず正しく徴収するよう近づいて行って働きかけるべきでしょう。 ここに出てくるファリサイ派の人は自分が律法を守ってさえいればそれでいいという考えです。 確かに週に二度断食するとか、全収入の十分の一をささげることはいいことには違いありません。 しかし隣人を愛するという心が欠けていましたし、神のあわれみを求める心に欠けていました。
さて、徴税人はどうかというと、ただ自分の罪を悔いて「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 と言うだけです。 遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言ったのです。 この徴税人は周りからさげすまれて孤独になったときに、ふと立ち止まって、過去を振り返って、われに返ったのかもしれません。 いろいろな不正によって富を得ていたことによって、苦しんでいる人がいることに気づいたのかもしれません。 これからこの徴税人は人々に取りすぎた分を返すかもしれませんし、不正をしないようになるかもしれません。 神に心を向けて憐れみを求めるという祈りは、そういう行動をとることができることにつながるのです。

わたしたちもどう祈ればいいか分からなかったときには、他人と比較して優越感をもってする祈りをしていたかもしれません。 少なからず、ここに登場するファリサイ派の人のような面があったかもしれません。 しかし、皆さんもこの徴税人のように神に心を向けて、自分の行いを振り返って、素直に神に憐れみを求める祈りもしているでしょう。 他人との比較をしているだけでは、神とのかかわりを妨げてしまうだけでなく、人との関係も断つこ とになります。 周りの人がすべて競争相手という世の中にあって、イエスが教える祈りは大切なものであると思います。
わたしたちも「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」という祈りから始めていきましょう。』

2019年10月20日日曜日

年間第29主日

今日の主日ミサは、フランシスコ会のルカ神父様による司式でした。
北一条教会では2回目の司式となり、自己紹介を交えたお説教でした。


ルカ神父様は、28歳の頃イタリアから来日され、主に道東方面の教会で司牧されていました。山登りが大好きで、最近では体力維持のため藻岩山に通っているそうです。

この日のルカ神父様のお説教の大要をご紹介します。


『札幌は2回目の勤務になります。1回目は1999年から2002年の3年間、片田舎の道東地区から都会である札幌です。札幌に行きなさいと言われたときは、崖から飛び降りるような気持ちだったのです。無事に3年間終わって、また釧路に戻りました。それから9年、また2011年に札幌に来たのです。自分が決めるとか、そこへ行きたいとか、そういう気持ちであれば悩むのはわたしだけですが、そうならないようにと、それは神様のみ旨だと言えば安心できるのです。どんなことが起きても神様のせいです。自分が決めていれば自分のせいです。心の平和を得たいなら、自分の意思ではなくて、神様のみ旨であればと、何回も経験したのです。
  札幌は好きです。山が近いから好きです。山が好きなのです。毎週月曜日に藻岩山に登ります。それが唯一の運動です。慈恵会病院の登山口が一番登りやすい。山頂まで1時間15分程です。森の中に入ると街の音が聞こえなくなり、本当に静かです。この夏は。1回だけでしたが、ウグイスの鳴き声を聞きました。初めて聞きました。降りるのは5分。ロープウェイです。膝に負担がかかるから。
 どうして登るのか。今日の第一朗読で、モーセも丘の頂に登りました。祈るためです。私も登りながらロザリオを唱えます。それと、たくさんの人に会えるのです。朝、早くに登っている人たちは、私が登る頃に降りてきて出会います。ですから立ち話を良くするのです。友達がたくさん出来ました。「お国はどちらですか?」と必ず聞かれます。私は「神の国」から来ていますと言うのです。とにかく福音宣教になるのです。教会の中にいれば誰も来ないです。そこは1時間ちょっとですが、たくさんの人と出会うのです。時々、登るのに2時間になる場合もあるのです。素晴らしい福音宣教の場になるのです。たいてい自然が好きな人は心がきれいです。暗い顔をしていないです。明るい顔です。自然に近づけば近づくほど、神様に近づくのです。神様の業です。
  札幌と石狩の境に大きな病院があります。そこの病院に2ヶ月前に亡くなった小樽教会のSさんがいました。45年ほど前に釧路にもご夫婦で2、3年いました。古い信者さんでご主人は先に天に召されました。熱心な信者で、良く病院にご聖体をもっていきました。前もって連絡するのではないのですが、病室に行くといつもロザリオを手にしていました。そして笑顔でした。4人部屋ですが、入口に立つと「おー神父様」と待ってましたと喜ぶのです。彼女は94歳でした。96歳で亡くなりました。最後まで笑顔を絶やさなかった。祈り、ロザリオで時間をいっぱい生きるために。時間を過ごすためでなく、時間を満たすため。いつも相手は神様です。(4人部屋で)ぼけてる人が多いのですが、相手がいないのです。祈らないのです。挨拶もしない。感情だけ。彼女はめがねをかけないで字の小さい本を読んでいました。今は天国です。
  いろいろ話しましたが、何か糧になれば良いと思います。』

2019年10月13日日曜日

年間第28主日

今日の福音(ルカ17・11-19)は「イエスこそ、メシア ”キリスト”である」という信仰を私たちに改めて教えてくれています。

主日ミサは、湯澤神父様が司式されました。


湯澤神父様の霊名「聖ミカエル」の記念日から2週間も経ってしまいましたが、この日のミサの「派遣の祝福」前に、教会からのお祝いをお贈りしました。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『この日の福音(ルカ17・11-19)は、「イエスはエルサレムへ上る途中」という設定で始ります。これは、十字架へ向かって歩んでいく途中ということを示しており、キリストの死と復活に向けて方向付けられている中での一つの出来事になります。

「重い皮膚病」とは、主にハンセン病を指すわけですが、これは今年、国が政策の誤りを謝罪したことにもなっています。
イスラエル人たちと、私たち日本人は、元々この病気に対する見方が全く異なっていたわけです。同じ人類なのでこの病気はどこにでもあったはずなのですが、日本人はこれを遺伝する病気と捉えたわけです。そのために以後、非常に大きな不幸を生んでいくことになっていきました。1950年代の初めには、アメリカから治療薬が届きこの病気は”治る病気”になり、伝染することもなくなりました。
今から2,30年前に、これらの施設の一つに子供たちを連れて訪問したことが何年か続いたことがありました。そこにいた人たちの言っていた言葉は、「私たちは自由になり、海外旅行でもどこでも行けるようになりましたが、唯一行けないところは自分の家族のところです」というものでした。相変わらず家に帰ると、あそこの家族はこの病気を出した、ということで差別や偏見の目で見られるということになったそうです。このような悲しい話を子供たちの前でもしてくれました。

一方、この病気について、イスラエル人たちは遺伝とは考えませんでした。カビと同じように空気感染する病気だと考えたようです。ですから今日の福音の箇所でも「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま」と書かれているように、家の中では2~3m 人と離れていなければならないし、屋外だと風があるので20~30m 離れるというのが約束になっていたようで、また鈴のような物を身に着けて周りに分かるようにしていたようです。ベンハーという映画でもそのようなシーンがありました。
このように聖書の時代には、このような人たちは隔離されずに日常生活をおくっていたわけです。しかし、ただ単なる病気ではなく、宗教的にも汚れたもの、救われないものとして扱われました。旧約聖書の律法を見るとわかりますが、汚れた者として、”交わり”から排除されたわけです。もし仮に病気が治ったとしたら、司祭の前で治ったことを宣言してもらわないといけないし、いけにえを捧げなければならないというのが、旧約時代の規則になっていました。
そういうわけで、重い皮膚病の人たちは、イエスから20~30m 離れたところから大声で「憐れんでください」と叫んだという状況だったということです。

マルコによる福音の奇跡物語に最初に登場するのが、重い皮膚病に対するキリストの癒しになります。この場面では、キリストは皮膚病の人の所まで”行って”、触れ清めています。もちろん触れることで自分も汚れるわけですが、あえてイエスは汚れた人たちの所に出向いて行って、触れて、そして癒したのでした。ここが、当時の他の宗教家と違うところになります。普通の宗教家、洗礼者ヨハネもそうですが、清さを保つために汚れから避けるように人々から離れているわけですが、キリストは逆に出向いていったわけです。

今日のお話では、そこまでしてはいないのですが、イエスは「(律法に従って)司祭たちのところへ行って、(治った)体を見せなさい」と言われました。そして、彼らは祭司のところへ行く途中で癒されたのですが、その中の一人だけしか、イエスのところへ戻って来ませんでした。このことに対して、イエスは「ほかの9人はどこにいるのか」と言われましたが、これは決して、他の9人の”恩知らず”を非難したわけではなかったのです。
癒された残りの9人も、重い病気が治ったことに対して、神に賛美を捧げることは人間として自然なことです。ですから、この9人も当然、宗教は違っても神を賛美しただろうと考えられます。
しかし、ただ一人戻って来たこのサマリア人が、彼らと違うところはどこかというと、”キリストのところに戻って来た”という点になります。これは、この民が”十字架に向かっている”ということと無関係ではありません。十字架に架かってキリストはメシアとして殺されていくわけです。そして、救いの業を完成させていきます。そのことを念頭に置くと、癒されたことに対して、神に感謝して、いけにえを捧げたりすることは、自然なことかもしれませんが、ただ一つだけ違う点は、その救いが”キリストを通して為される”ということに気付いたかどうかです。
この癒しが、”キリストを通して癒されていった”ということに気付いたのが、このサマリア人一人だけだった、ということです。
どのような人でもこのような癒しを受けると、神に感謝することはごく自然のことだろうと思いますが、本来の救いが”キリストを通して為される”ということに気付く人たちは、そうはいないということです。逆に言うと、キリストこそ私たちの救い主であって、救いを実現される方だと気づくことは、今日の現代社会にあってもキリスト教徒が少ないように、気付く人も少ないわけです。それはとても幸いなことだろうと思います。

そして、他の人に信仰がなかったわけでもないし、それでも救われるわけなのですが、しかし、この救いがキリストを通して実現するという「その信仰こそ、あなたを救う」と言ったこのキリストの言葉は重要なことです。
そして、それはルカが描いているように、彼らの描くメシア像ではなく十字架をとおして示される新しいメシア像です。この”キリストの十字架を通したメシア”=キリストという言葉は大きく意味が変わっていきます。そして、あたかもイエス・キリストといわれるように、”キリスト”はイエスにだけ使われるような言葉となっていくわけです。

この新しい意味での救いの実現は、キリストを通して行われ、そのキリストに対する信仰こそ私たちを救うものである。十字架の上では、もっとはっきり「今日あなたは、わたしとともに楽園にいる」と盗賊に言われたのと同じように。
私たちが、どこに信仰を持って立っているかということが問われます。それを今日の物語は私たちに教えてくれているのではないかと思います。
そのような意味で私たちは、この信仰を強めていかなければならないと思います。
先週の福音は、使徒たちが「信仰を増してください」という言葉で始まりました。
その信仰は、「イエスこそキリストである」という信仰です。
私たちの信仰がどういう信仰であるか再確認していきたいと思います。』

2019年10月7日月曜日

年間第27主日

この日の福音(ルカ17・5-10)でイエスは、信仰を増したいという使徒たちに対し「からし種」一粒ほどの信仰があれば十分だと答えます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『先週は金持ちとラザロのたとえ話で、その後これが続くわけで、少し唐突な感じがしないわけでもないです。「聖書と典礼」の脚注に『「1日に七回ゆるしなさい」という言葉に続く箇所。ここでもイエスは弟子たちのあるべき姿を教える。』と書いてありますが、ちょっともうひとつ抜けていますが。
 つまづきにならないようにということ。キリストの弟子たちのグループの時代から、教会が始まって今日に至るまで、教会の中の信者がいかに、信者にとってつまづきということが、日常的ということが分かります。そういうつまずきを与えることによって、信徒は教会から消えていく。それについて語っているのです。罪とは何か悪いことをしたわけではなくて、神との関わりを断ち切って、兄弟の交わりを断ち切って、共同体から抜けて行く人たちです。その原因はこのルカ福音書では、同じ信仰の仲間だというわけです。そういうつまずきにならないように。そういう人たちが戻ってくるならば、何回でもいいから迎え入れるようにというのです。そして戻ってくるように働きかけるように言うのです。

 その後に続くのが今日のこの箇所です。使徒たちはその教会の現況にあって、信仰が欲しいと言うわけです。信仰を増してください。そうするとキリストは、ほんのちょっとの信仰があればそれで十分だと言うのです。ひとつのたとえです。からし種と木が海に移る。別に信仰によって木が移るかどうかマジックの問題ではない。からし種という小さな信仰と大きな業と比喩的に極端に比較しているだけ。信仰があれば木が移る、そんな問題ではない。ほんのちょっとの信仰があれば、そういう共同体の中の困難を乗り越えることが出来るということ。そんな中にあって、脚注にあるように弟子のあり方を説明する。これがその次の箇所になっています。

 ごく身近な例をキリストはあげます。ある使用人がいます。普通の豊かな人。ラザロの話に続くのですが。使用人は畑で働く、あるいは羊を飼う。その仕事が終わって帰って来た時に、そこの主人はよくやったねと、食事の給仕をして、ご馳走するかというとそうではない。まず、使用人ですから、私が食事をするから世話をしなさいと言われます。それが終わったら食事をしても良いですよ。普通の情景がここで描かれます。
 その使用人が主人の前で誇るだろうか。感謝してもらうことがあるだろうか。果たすべき仕事を果たしただけにすぎない。別に謙遜を教えているわけではない。道徳の問題ではない。信徒の信仰のあり方のことで、個人的な道徳を語っているわけではない。
 信徒はどうなのかということ。ここだけですと分かりません。分かりやすく話をすると、
30年前くらいヨハネ・パウロ二世が「信徒について」という使徒的書簡を出しました。
その中では、最初に信徒について、次にその2年後に司祭について。その2年後に奉献者についてと3つの使徒的書簡を出しました。信徒についてはキリストに忠実な人 「CHRISTIFIDELES LAICI」という言葉で始まりますが、日本語の訳のタイトルは「信徒の召命と使命」です。
  余談ですが、昨日、北26条教会の運営委員会がありました。六甲学院の吉村信夫教諭を講師に今年2回信徒養成講座がありましたが、その吉村さんを迎えて、この度12日(土)に北26条教会で研修会を行うことになりました。そのタイトルが「固有の召命」
となっています。そこで、何でこのタイトルになったのか質問がありました。そうですね、普通、召命というと司祭とか修道者の召命になるので良く祈ってます。自分に関係ないですね。しかし、それは特殊な例です。司祭とか修道者の召命は本当に一部の特殊な例であるのですね。でも、召命は本来は信徒の召命です。ヨハネ・パウロ二世が出した書簡も信徒の召命がタイトルなのです。そこで、モデルになっている聖書のお話は、マタイ福音書のぶどう畑で働く労働者のたとえなのです。賃金を払う方ではなくて前半のほうですね。
朝6時に主人は広場に行って労働者を集めるのですね。1日1デナリオンでと。労働者たちは主人に呼ばれてぶどう畑で働くために呼ばれたのです。9時にも12時にも、午後3時にも5時にも行って。5時にはなにぶらぶらしているのとその話が続いていきます。信徒はそのように神によって呼ばれて、ぶどう畑で働く使命を受けている。これが召命です。
 
 ですから洗礼を受けた時点で、神から召命を受けて使命をうけるのです。それが畑で働き羊を飼う、その主人によって畑か羊に送られていく。そして使命を果たし帰って来たときに、俺はやったぞと誇れるのか。ただ、言われたことをやっただけだ。それを誇って何が素晴らしいことをやったのだと主人に、そういうもんじゃない。畑で働くか、羊を飼うか、そういうふうにひとり一人の信徒が呼ばれる。洗礼の時に呼ばれる。どの信徒も呼ばれて、その使命を果たして帰ってくる。そのときに、私は使命を果たしただけ、これが信徒のあり方、キリストの教えなんです。謙遜や道徳の教えではない。信仰そのもののあり方が、ここでは問われている。昨日の運営委員会で、そのように信徒はまったく考えていない。講師がどのようにお話するか分かりませんが。しかし、良い機会だと思っているのです。

  この召命というのは本来は信徒なのです。洗礼で使命を受ける。そして派遣される。
北26条教会ではこの前、高校生が3人堅信を受けたのですが、受ける人が自覚しなければならないことです。子供のときに洗礼を受けているが、召命を受けていることも分からない、使命を受けていることも分からない。その勉強をしたわけです。リーダーの方々もいっしょに勉強したわけ。非難をしているわけでないのですが、感覚的に分かっていない。ほかの人、大人の信徒の人も分かっていない。皆さん一緒に堅信を受ける人と同じことを学んでいきましたが、ここではそういうことが言われているんです。共同体の中にあって、いろんな問題があります。その時、信仰さえあれば、そういった信徒たちに対して、信仰のあり方、ひとり一人が神から呼ばれている。そしてひとり一人がが使命を果たしている。果たしたときに、それは言われたことをしただけであって、それ自身、当然誇るべきことではない。キリストはそう言うわけです。

 私たちひとり一人、そこまで到達していないかもしれない。今日そのことを分かって自覚して、それぞれ信徒として神から呼ばれたことの使命を果たして、その場は皆さんの日常生活、特別なこのような教会の場ではありません。日常生活の中で呼ばれている信徒として、その使命を果たしていく。このキリストのあり方、キリストが教えている信徒のあり方、信徒のあり方がわたしたちが出来るようにしていきたいと思います。』