2016年11月20日日曜日

11月20日(日) 「王であるキリスト」

今日は年間最後の主日です。そして「王であるキリスト」の祭日でした。
メシアであり王であるイエスの愛といつくしみは、十字架の死の苦しみの中にあっても自分を犠牲にし、人々の平和を願い、一人一人を救うという姿に現されています。

今度の日曜日からは典礼の新しい一年が始まります。
待降節が始まる11月27日(日)のミサ後には、クリスマスの準備を行います。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『先週、ローマを除く地方教会は、聖年の扉を閉じる儀式を行いました。そして、この「王であるキリスト」の祭日、ローマでは聖年の閉幕のミサが行われようとしています。時差がありますので、日本の時間では今日の夜、教皇様によってミサが行われるのだと思います。
この一年、「神のいつくしみの特別聖年」として神から注がれるいつくしみに心を向けて歩む一年でもありました。歩みの中で教区100周年があり、また私たちの教会もまたこの祈りの教会が建てられた献堂100周年を迎える一年でもありました。典礼は三年周期のC年にあたり、朗読聖書はルカの福音を中心に歩んできましたが、今日が年間の季節最後の主日になり、今度の日曜日からは別な福音に変わろうとしています。今日は「王であるキリスト」の祭日です。皆さんにとっての王とは?、キリストとは?、そのような繋がりをもう一度深く黙想する一日でありたいと思います。
今日、わたしたちに告げられたみ言葉は、イエスが十字架に架けられて息を引き取る瞬間の出来事です。イエスが生涯をかけて伝えようとしたメッセージがここにあります。イエスが生涯をかけて実現しようとされた「神のいつくしみ」を表すこと、すなわちそれは、罪人との出会いであり、罪人を取り戻すことでもありました。今聞いたみ言葉の中に、私たち一人一人の身を置いてみたいと思います。皆さんは十字架の前に立つでしょうか?会衆の中に自分を置くでしょうか?イエス様の十字架に自分を置くかもしれません。このように自分を聖書のみ言葉の中に置いて、この状況を黙想したいと思います。
聖書のお話は、罪人の一人が死を前にして自分の罪を悔い、死の報いは当然であると受け止めます。そして「王としてあなたが来られる時、どうかわたしを思い出してください」と言います。思い出すに相応しい自分ではないかもしれません、でも今わたしは自分の罪を認め、神の憐み、神のいつくしみを願います、どうかわたしを思い出してください、救ってください、憐れんでください。そういう心境の中で一人の罪人がイエスに声をかけているようです。この状況の中では、裁判に関わった者も、兵士たちも、また群衆もイエスの十字架の前に進んできました。でも誰もが、イエスをののしり、あざ笑い、馬鹿にすることばを投げかけ続けるばかりです。ただ一人、自分の罪を認めた十字架に架けられた犯罪人だけが、憐れんでくださいとイエスに声をかけているのです。そのイエスの十字架の頭の上には「捨て札」がありました。捨て札には「ユダヤ人の王」と書かれています。それは様々な意味を持って、掛けられた捨て札でした。でもその捨て札の王は沈黙しています。
「ユダヤ人の王」。いつの時代にも「イエスは本当に王なのだろうか?」と疑問を抱く人は大勢いました。聖書に見る王とは、どういう人だったでしょうか?旧約時代、聖書の中にはたくさんの王が登場しますが、王とは本来どのような人を言うのでしょうか?また、2000年前のイエスの時代の王を、皆さんはどのように考えていたでしょうか?時代によって王という捉え方は少しづつ違っていたようです。
旧約時代、ヘブル語で「メレク」という言葉があるそうです。「メレク」とは、王を意味して、王である、王となる、支配するという意味を持っていたようです。そして旧約時代のイスラエルの人々は、「王」について三つ意味を考えていたようです。一つは「国民(民族)の指導者」、二つ目は「最高裁判官、軍事的指導者」、そして「祭司として祭儀の司式者」という王の職務には宗教的意義と役割もあったようです。そのようにして考えると、王は神のような存在、力も権力もあり、そして宗教的な指導者でもあったということだそうです。
イスラエルにおいては、神が本来、王であり、支配者であるという考えが根底にあります。イスラエルの信仰者には、地上の王権は神の権威に由来しているという考えがあります。ですから、王に就く人は、神の王権の代行者であるという考え方も当然あったようです。そのために、王になる人には、油を注がれる儀式あって王とされました。本来は神の僕に過ぎないけれども、この「油を注ぐ儀式」によって王の力を持つことになります。
新約時代に入ると、ギリシャ語の「キリスト」とは、ヘブル語で「メシア」、「油注がれた者」と同じ意味を持っています。このメシアは神が世を救うために遣わした救世主を意味し、イエス・キリストは唯一の救い主であるとの信仰をあらわすために、この名称をイエス・キリストに限って用いたのです。そして「イエスはキリストである」という信仰を表明する表現となりました。
このような時代背景を見ながら、私たちは今日のみ言葉をさらに黙想しなければなりません。
十字架の犯罪人が見たイエスは「罪人と共に生きるメシア」でした。十字架から降りられないのではなくて、むしろ降りないことによって、この罪人はイエスのことをメシアだと考えます。メシアは、罪がないのに我々のために、我々に代わって死んだメシアなのです。
「王であるキリスト」を祝う今日の典礼ですが、十字架上のイエスは王の服装ではなく、着ていたものまで剥ぎ取られて、裸同然の姿を晒しているのが私たちの言う王です。十字架に磔にされた体は痛々しく傷つき、輝く王冠を付けているはずの王のイメージからほど遠く、いばらの冠を付けられて額からは血が流れているそういう王です。人々が罵り、侮辱の声がイエスの耳にも届いていましたが、だんだんと遠くなっていきます。苦しみ、うずくような痛みの中においてもメシアであり神の子であるイエスは降りようとはされません。王である、救い主である、神の子であると呼ばれたイエスの姿はまさに十字架の中にありました。
本当にこの人は王なのか?神の子なのか?救い主なのか?と誰もが考え込んでしまう瞬間がありそうです。
メシアであり王であるイエスの愛といつくしみは、十字架の死の苦しみの中にあっても自分を無にし、犠牲にし、人々の平和を願い、一人一人を救うという王としての素晴らしさがそこに表されているのです。私たちが信じるイエスはそのようなお方でした。
神のいつくしみの特別聖年のメッセージの中で、そのことを私たちは、心の中で強く感じながら、自分たちの信仰を見つめる一年を歩んできました。教皇様はメッセージの中で、そのいつくしみを自分たちの心の中に留めておくだけでなく、そのいつくしみを私たちの周りの人々にも示すような、そういう生き方をして欲しいと伝えていました。
人生の闇の中に生き続けていた一人の犯罪人は、十字架の傍らでそのイエスから光と希望の恵みをいただき、回心し、自分自身を深く反省し新しい旅立ちへと向かって行こうとしています。イエスの言葉さえも薄れゆく意識の中で、心の中にははっきりとイエスの声が響いてきます。「きょう、わたしとともに楽園にいる」と。
イエスが過去の罪を許し、罪の責任を背負ってくださったのです。回心した罪人には、神の国への旅立ちがそこから始まっていきます。
私たちもまた、日々の生活の中で神の恵み、神のいつくしみやあわれみを感じながら、回心へと招かれている一人一人であることを心に留めましょう。

王であるキリストを祝いながら、主の再臨を待ち望み、ミサの中での祈りをとおして、キリストによってキリストと共にキリストのうちに賛美し、私たちの心をもう一度見つめましょう。そして新しい一年の典礼に向っていきたいと思います。』