2018年12月2日日曜日

待降節第1主日

教会の新しい1年が始まりました。
待降節は救い主イエスの誕生を迎えるための準備期間になります。
この日、祭壇上のアドベントクランツのローソクの1本に火が灯されました。

今日のミサ後、馬小屋とクリスマスツリーの飾りつけも終わり、
リースとツリーのイルミネーションは今夜から点灯します。
クリスマスを迎える準備が進んでいます。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日から「待降節」という新しい典礼の一年が始ります。皆さんは何回、待降節、クリスマスを経験しているでしょうか。待降節は4週にわたるご降誕を待つ期間ですが、今年のクリスマス・イヴは4週目の待降節第4主日の翌日月曜日が24日ですから、実質は3週間ほどとなります。あっという間に「主の降誕」の祝日を迎えることになりそうです。

 待降節第1主日にあたって、みことばは「目を覚まして祈りなさい」と呼びかけていますが、キリストの来臨の希望をもっていつも目ざめ、救い主を待ち望むための心の準備が大切な時と言えるでしょう。今日のミサ後に堅信を受けられる方の勉強会が行われます。受けられる方々は、違った意味での降誕祭を迎えられると思います。わたしたちは毎日の生活、日々の生活のさまざまな出来事の中に働く神を感じて、誰もが主のことばに従うことができるようにと願っています。でも、主の言葉に従うことがどんなに難しいことかはいうまでもありません。今日もまた、神父さんは厳しいことを指摘して、わたしたちはいつも反省ばかりと思う人がいるかも知れません。それは出来なかったことばかりに目がいって反省を迫られているように感じるのかも知れません。
 この一年は本当に天候の不順や自然災害の多い年であったように感じます。台風や地震の体験を北海道の人間や誰もがその体験で気づきを新たにしました。困難に目をそらすことも出来ず、助けを必要としている人々にさえ十分にこたえることのできなかった私たち。自分の無力さを感じてしまうのです。「出来たことよりも出来なかったほうが目に付くというのは普通なのかも知れませんが、出来たことの一つに目をとめて、もっと深めてみようとか、もっと心から愛をもって進めてみようとか、反省も前向きに生きることも大切だとおもうのです。
 「目を覚まして祈りなさい」という今日の呼びかけは、「出来たか・出来なかったか」ではなく、そこに何があり、何が大切なのかということに気がつくことでもあると思います。そして、何よりもキリスト者となって、キリストの福音を身をもって生きるかが問われることであるかも知れません。終末の時を語っているみことばを前にして、人間の不安や恐怖は絶望と隣りあわせで、「救い」を求める希望や期待は2千年前のイエスの時代を生きる人々と、今を生きるわたしたちも同じではないでしょうか。9月6日に起きた「北海道胆振東部地震」の犠牲者を考えると今日の幸せさえ、明日に保証されているものではないことを痛感するのです。幸せは 一瞬のうちに消し去られてしまう可能性が誰にも、どこにもあるということです……。
 今日のみことばの中にもうひとつ「身を起こして頭を上げなさい」ともイエスは言われています。救いを待ちのぞみながら、わたしたちの弱さを知り、救いのおとずれを待ち、何が大切なのか!気づきの恵みを祈りたいものです。そして、出来なかったことや、出来ないことばかりに目を向けるのではなく、出来ることの一つをいっそう大事にして前向きに歩む、新しい一年となりますように今日もまた心をひとつにして祈りたいと思います。』