2015年9月21日月曜日

年間第25主日 敬老の日を迎えられる方々に感謝を込めて

日に日に陽が短くなり、秋の訪れを感じるようになってきました。
先週、旭岳では初雪が確認されたとのことです。
21日の「敬老の日」を明日に控えたこの日の主日ミサでは、神父様のお説教の後、敬老者のためのお祈りが行われました。




後藤神父様のお説教をご紹介します。


『明日は敬老の日です、敬老の日というと私は秋の季節の訪れを感じます。
今日はミサの中で敬老の日のお祈りを捧げることになっています。先日、福祉部の方からこの教会の75歳以上の方々の名簿を渡されましたが、対象の方の人数は昨年と変わらず143名ということでした。その中で90歳を超えられている方は15名おられました。私たちにとっては教会を築いていただいた方々といえます。この聖堂が建てられてから100年という歴史を私たちは歩んでいますが、この教会を作り上げてきた方々が、明日の敬老の日を迎える方々ではないかと思います。そのことを考えると大変感慨深く、心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。このミサの中で感謝と共に、今後なお一層、神の祝福を受けて、祈りをもって私たちを導いて下さる高齢の方々に祈りを捧げていきたいと思います。
先週からこの敬老日を迎えるにあたって新聞でも多くの記事が出されていましたが、北海道には100歳以上の方々が2,830名おられるという記事がありました。教会の名簿上では100歳以上の方は見つからなかったので、この教会の高齢者の方々は新聞報道からみると、まだまだ若い方々のように感じます。どうぞ神様の祝福のもとに、益々元気で私たちのために頑張っていただきたいなと思います。特に祈りにおいて、私たちの教会をいつも見守り支えていただきたいと願っています。
誰にとっても生きるということは年を重ねていくということです。ですから老いるということは若い人にも関係してくることです。老いるという言葉は、どうしてもマイナスのイメージとして捉えがちですが、神の恵みを日々いただいている、そして長寿を迎えているということであれば、心から感謝の気持ちが深くなってくるのではないでしょうか。そして一層元気で生きられるように、また家族や子供達のために、いつまでも祈りを捧げることができるようにと誰もが願うのではないでしょうか。
今日は特に、教会を支え、私たち一人一人のために労苦を惜しんで教会のために働かれた方々の上に、敬いの心を持って、皆さんと一緒に感謝のミサとしたいと思っています。

先週は教会のバザーがありました。フィリップ神父様がお説教をしてくださりましたが、先週のみ言葉がどんな内容だったか思い起こすことができるでしょうか?
先週のみ言葉の中で、イエスは受難の予告をして、弟子として生きる道を諭されていました。それは自分の十字架を背負うというものでした。
今日のみ言葉は二度目の受難の予告をされている場面から始まります。そして”従う”ということを具体的に示しているのが今日のみ言葉です。
”従う”それはとても大切なことですが、簡単に生きらることではありません。弟子達はイエスから受難の予告をされ大変戸惑いました。そして自分中心の考えが心の中を占めてしまいました。人間は誰でも、褒められたい、評価されたいという気持ちを持っています。さらに人間の本性として、様々な欲求が心の底でうごめいています。それは自尊心であったり、利己心、独立心であったりと様々な欲望があります。これらの欲望は時に、間違った考えを引き起こす危険性を持っています。弟子達もそのような欲望に駆られ、自分中心に考えてしまったようです。イエスが十字架の道を説き、弟子として仕えるためにどのように生きるかを教えていたにも係らず、「誰が一番偉いのか?」と、そんなことを議論したと聖書は記しています。私たちもそうだと思います。聖書をとおして教えられていること、信仰をとおして何を大切にしていかなければならないかは、誰でも口では語ることができます。しかし、口で簡単に言えることであっても、実際に実行しそれを生きるということが難しいということも私たちは知っています。ですから平和を願いながら、戦争も辞さない未来に向かうことも許されることになってしまいます。そのような法案が通過して、現実の厳しさが私たちには十字架ともなっていくように、私は考えてしまいます。
苦しみ、困難、危険さえ背負って、イエスもまた十字架の道を歩まれた方です。
一方で、私たちはどんな十字架を背負っているのだろうか?私たちは自分の十字架さえ肩から引き離して、投げ出そうとしていることはないだろうか?そんなことも考えてしまいます。
イエスが弟子達に願ったことは、仕えられる側ではなく、仕える側になること、人を救うため、平和を築くため、ということであったと思います。「平和があるように」と復活のイエスは弟子達の前に現れています。私たちが本当に心から願う平和のために行動できるように、生きることができるように、自分の十字架をしっかりと担うように、という覚悟を求められているような気がします。』