2022年9月23日金曜日

9月25日 年間第26主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第26主日 C年 2022年9月25日 湯澤神父

兄弟姉妹の皆様

  この箇所はルカだけが残しているたとえ話です。お金持ちがお金持ちらしい生活をしています。その門前にラザロという皮膚病を病む貧しい人が物貰いをしています。お金持ちもラザロがいることを知り、家の出入りのたびに、なにがしかの施しをしていたのでしょう。また、ラザロもお金持ちの家の入り口にいて、お金持ちから何らかのものを、何らかの施しを受けていたのでしょう。おそらくこれが彼らの日常的な生活だったのでしょう。金持ちもラザロを虐めていたわけではなく、日常というのはそうしたものではなかったかと思います。私たちは、こうした日常生活を想像することができます。

  しかし、イエス様があえてこの話をしたのは、それで十分ではなかったからだと思います。イエス様は、最初に「モーセと預言者に耳を傾けなさい」とのべています。これは、日常、常識の世界です。旧約聖書では、弱い人、貧しい人に心を配るようにと教えています。特に、孤児、未亡人、難民に対して配慮することが求められています。彼らは、食べる手段を持たないからです。こういう在り方は、隣人愛の教えとして旧約聖書の中で繰り返し教えられています。ですから、たとえばホームレスの人たちにワンコインを施すことはある意味では普段の日常なのです。

  しかし、ここで、イエス様は二つのことを教えているのではないでしょうか。一つは、もう一度その人たちを見直してみることです。イエス様は、サマリア人のたとえ話をしています。ファリザイ派の人々も祭司も悪い人ではなかったでしょう。しかし、自分の日常を生きたのではないでしょうか。彼らは与えられた使命、与えられた仕事を果たすことそれを優先したに過ぎないでしょう。しかし、そこでもう一度怪我人に目を注いだのはサマリア人でした。イエス様は、日常の中で出会う人たちの中でもう一度見直す必要のある人のいることに気付いて欲しかったのではないかと思います。この金持ちにとっては、それが、毎日が見慣れたラザロではなかったかと思います。

  もう一つは、イエス様の十字架です。イエス様はこの話を十字架に向かうときに話をしています。そして、十字架を暗示することを金持ちに語らせています。「誰か死んだ者が生き返って兄弟のところに行ったら気が付くのではないでしょうか」。しかし、アブラハムの口を借りてイエス様は語っています。「旧約聖書で語られていることが理解できなければ、実際十字架にかかって死んでもそれが理解できないだろう」。十字架の在り方は、人のためにという在り方です。

  こうして見ると、実は、イエス様の言いたいことは一つの同じことだったのではないかと思います。このたとえ話を通して、もう一度普段の在り方を見直し、一番そばにいる人を見直し、人のために生きることが何か、考え直してはいかがでしょうか。


【聖書朗読箇所】

 いつくしみ深い神、

  苦しむ者の叫びを聞き、

  貧しい者の嘆きにこたえてくださる方。

  あなたのもとに集まったわたしたちに

  救いのことばを語りかけてください。

  みことばの光によって、

  わたしたちの住む世界が照らされますように。

集会祈願より


第1朗読 アモスの預言 6章1a,4-7節

 (主は言われる)災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは。

お前たちは象牙の寝台に横たわり長いすに寝そべり

羊の群れから小羊を取り牛舎から子牛を取って宴を開き

竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考え出す。

大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。

しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。

それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き

寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 6章11-16節

 神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。 正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。 命を得るために、あなたは神から召され、 多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 万物に命をお与えになる神の御前で、 そして、ポンティオ・ピラトの面前で 立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、 あなたに命じます。 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、 おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。 神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、 だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。 この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 16章19-31節

 「そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた)ある金持ちがいた。 いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。 犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、 天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。 金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、 宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、大声で言った。 『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。 ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。 わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。 『子よ、思い出してみるがよい。 お前は生きている間に良いものをもらっていたが、 ラザロは反対に悪いものをもらっていた。 今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、 ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、 そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。 『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。 あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、 よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。 『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。 彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。 『いいえ、父アブラハムよ、 もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、 悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。 『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、 たとえ死者の中から生き返る者があっても、 その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

2022年9月17日土曜日

9月18日 年間第25主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第25主日 C年 2022年9月18日 松村神父

今日の福音の個所は、司祭を含めて大きな壁の個所と言われています。だからこそ、どこに着目するかで、その解釈は大きく変わり、場合によればキリスト教に対する不信感を得るかもしれません。そのため、この福音を喜びの知らせに変換させる視点は、私たちの信仰、私たちのイエスに対する見方が問われているのかもしれないと思い、私はいつもドキドキしながらこの聖書の個所に挑んでいます。

聖書に向き合うたびに、毎回その視点は変わり新しさをくみ取っている個所となります。

さて、今日の個所を今の私から眺めてみると、次のように感じましたので、分かち合いたいと思います。

「不正な富」と言われていますが、そもそも「富」とはこの世で人間が作り出したもう一つの神に似たものではないかと思うわけです。私たちは「富」の誘惑といつも戦っています。人によっては「富」の虜になってしまい、奴隷になってしまう恐れまである強い力を宿すものです。だからこそすべてを捨てて「富」との関係性を断ち、神に向かって邁進するようにアシジのフランシスコは心を決めて歩みました。必要なもの、「日ごとの糧」を神から受ける托鉢修道会の誕生です。しかし世俗の中で生きる私たちは、その生活基盤を支える「富」なしに生きてはいけません。ついつい少し多めに、はたまたゆとりをもっていきたいと願うのが私たちです。昨今残りの人生2000万円騒動もあったぐらいです。だからこそ有り余るほど持ちたいと願う人も少なくなく、またお金で何でもできると考える人まで出てきます。もともと人間の心を揺るがす「富」は、「不正を起こさせる富」として人間社会に存在しています。これを「不正な富」と表現しているのであればあながち間違ってはいません。問題はこの「不正な富」を上手に制御し、神から離れないようにしなければなりません。神と富とどちらに使えるか。それは神を私たちが制御することはできませんが、「富」は私たちの心もち一つで制御できるのです。

いろいろな神父様を見てみると、定期的にご自身の給与を寄付される人もいれば、貧しい方を支援している人もいます。多額の寄付を貧しい団体に寄付している人もいれば、良い活動を陰ながら支援をしている人もいます。それはキリストの心でもありながら同時に、ため込まずご自身が「富」に左右されない生き方を示しているということでもあります。自分を律し、富に心を奪われないように、溜まれば放出するというダム的な考え方ですね。

ある学校で私は先生たちにこのように説明したことがあります。「頭のいい生徒を育ててください」「お金持ちになるように育ててください」と。なんという神父でしょうと言われるかもしれません。でもそのあとに付け加えます。「得た頭脳、得たお金を誰のために使うかも、必ず教えてください」と。それぞれ持てる人は持てない人のために働く使命がキリストから来ているからです。分かち合うことが何よりも大切。人をさげすんだり、比べたり、蹴落としたりするために教育しているのではありませんし、そのためにミッション校は存在していません。誰かのために「富」を得ているのであって、自分の為ではありません。もともと親からもらった命だし、そもそも神から与えられた命だからです。だから持てない人の分をしっかり稼いで、分かち合う必要があるのです。

だから今日の福音は、「不正な富」を制御する管理者になり、神の働き手になっていくことが求められているという意味で、不正な管理人が褒められていることを忘れてはいけないと感じるのです。「不正な富」が悪いのではなく、その「富」に制御されないように、イエス様は私たちの心に最大の恵みである「愛」を注いでいるのです。


【聖書朗読箇所】

 恵み豊かな神よ、

  ひとり子イエスは、その生涯をとおして、

  貧しさに徹して生きる道を示してくださいました。

  キリストに従うわたしたちが、

  まことの豊かさを知ることができますように。

集会祈願より



第1朗読 アモスの預言 8章4-7節


このことを聞け。

貧しい者を踏みつけ

苦しむ農民を押さえつける者たちよ。

お前たちは言う。 「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。

安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。 

エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。

弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。 また、くず麦を売ろう。」

主はヤコブの誇りにかけて誓われる。

「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」



第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 2章1-8節

(愛する者よ、)まず第一に勧めます。 願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。 わたしたちが常に信心と品位を保ち、 平穏で落ち着いた生活を送るためです。 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、 喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、 人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。 これは定められた時になされた証しです。 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、 すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。 わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、 清い手を上げてどこででも祈ることです。


福音朗読 ルカによる福音 16章1-13節

(そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。   「ある金持ちに一人の管理人がいた。 この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。 会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。 『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。 土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。 管理の仕事をやめさせられても、 自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、 まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。 『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。 そうしておけば、金がなくなったとき、 あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。 ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、 だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、 だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。 一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


2022年9月8日木曜日

9月11日 年間第24主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第24主日 C年 2022年9月11日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、「主の憐みに三つのたとえ話」などとタイトルが付けられている個所です。また、それぞれ「見失った羊のたとえ」、「なくした銀貨のたとえ」、「いなくなった息子のたとえ」と別々のタイトルをつけているものもあります。いずれにせよ、今日読まれる最初の状況設定が大切になります。そのために三つのたとえ話がここにまとめられているからです。その意味では、一つ一つのたとえ話に囚われてしまうと、大切な全体が見えてこなくなってしまいます。

  まず大切なことは、ルカが三つのたとえ話をここにまとめ上げるきっかけとなった出来事です。それは、徴税人や罪人たちがイエス様の話を聞きに来た時、ファリザイ派の人たちや律法学者たちがそれを、「あんな人たちまで仲間にして」と、好ましく思わなかったということです。それで、三つのたとえ話を並べています。これら全体のまとめになるのは、放蕩息子のたとえ話のお兄さんと父親との会話です。

  探し、見つけるものはそれぞれのたとえで異なっていますが、共通しているのは、喜びです。そしてその喜びは、変わっていきます。最初の見失った羊のたとえでは、見失ったもの(一頭の羊)を見つけることは、「喜びです」。次に、なくした銀貨を見つけることは、「近所の人と一緒に喜ぶような喜びです」。最後に行方知れずになった弟を見つけることは、「ともに喜ぶべきことではないか」、そうした喜びです。喜びは、周りの人たちを引き入れて深まっていきます(喜ぶ、喜ぼう、喜ぶべきだと)。

  ところで徴税人は、政務書の役人ではなく、徴税請負人のことです。その職業のゆえに差別されている人たちです。罪びとは、犯罪者ではなく、悪いことをする半端ものでもありません。様々な理由でファリザイ派の人たちのように律法に従って生きることが難しい人たち、神様から離れてしまった人たちです。神様を知らない人も含まれるでしょう。

  もしかしたら、ここに宣教の原型があるかもしれません。皆さんの周りに一人でもキリストに興味を持つ人がいたら、それは見失った羊のように喜びでしょう。少なくとも神様にとっては喜びだとイエス様は教えています。もしそんな人を見いだせたら、神様にとって喜びでしょうし、私たちも一緒に喜ぶよう招かれています。それは、兄が弟にしたように、それはファリザイ派の人がしていたようですが、評価したり、裁いたりすべきことではなく、喜ぶべくことなのです。

  イエス様のたとえ話は、実は非常に身近なことです。しかし、私たちは、宣教も含めて遠いところに置いてしまって、評価したり、栽いたりして、喜ぶことを忘れていないでしょうか。もし、身近なものとして味わえたら、イエス様の残念さが、この例え話をしなければならなかった気持ちがわかるのではないでしょうか。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


 いつくしみ深い神よ、

  あなたはひとり子を遣わし、

  すべての人を回心の道へと招いておられます。

  キリストのもとに集められたわたしたちが、

  たえずあなたの救いを喜び歌うことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 32章7-11,13-14節

 (その日、)主はモーセに仰せになった。 「直ちに下山せよ。 あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、 それにひれ伏し、いけにえをささげて、 『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と 叫んでいる。」 主は更に、モーセに言われた。 「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 今は、わたしを引き止めるな。 わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。 わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 モーセは主なる神をなだめて言った。 「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。 あなたが大いなる御力と強い御手をもって エジプトの国から導き出された民ではありませんか。 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを 思い起こしてください。 あなたは彼らに自ら誓って、 『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、 わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、 永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 1章12-17節

(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。 この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。 しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、 あふれるほど与えられました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。 わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、 キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、 わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、 誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 15章1-32節

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と 不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、 その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも 大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、 その一枚を無くしたとすれば、 ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、 『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、 神の天使たちの間に喜びがある。」

  (また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を ください』と言った。 それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、 そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、 彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、 その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、 食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。 『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、 わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。 「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、 憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。 『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。 『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、 足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、 音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。 無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。 言いつけに背いたことは一度もありません。 それなのに、わたしが友達と宴会をするために、 子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、 娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、 肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。 『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」)

2022年8月31日水曜日

9月4日 年間第23主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

イエスが言われることは全てにおいていつもそうですが、これは福音書全体の内容から読みとらなければなりません。思い出して下さい、最も大切な最初の命令は「心を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」とイエスは言われたのです。

 このことはもちろん家族も含みます。ですが、今日の福音でイエスは私たちに「神を愛するのに何であれ妨げとなるものがあれば、それは自分の生活から取りのぞかなければならない。それを憎まなければならない」と言われます。

 憎しみ、ここでいう意味は憎しみの罪のことではありません。私たちの心に沸きあがり抑えることができなくて、ひどいことを言ってしまうような怒りのことではありません。むしろここでの憎しみとは、神との関係で邪魔になるようなものからは喜んで距離をとってしまいなさいということです。

 それが富、名声、権力、肉欲、酒など何であれ、その邪魔ものを私たちの生活の中から追い払うべきなのです。時には驚くことですが、ある人たちは神との関係をいつも生きるため、自分たちは家族から離れるべきとすることです。しかし、このような場合でも、私たちは家族を愛し続けます。愛とは時には異なる形をとるものです。

 家族は平和、調和そして愛の場として計画されました。しかし多くの人が人生で経験する悲しい現実は、時として私たちの家族関係が神や他者との愛の妨げに直接なってしまう事です。このような場合には、神への愛のため別の方法をとるようにと言われるイエスに耳を傾けなければなりません。

 おそらくこの聖書の箇所は時に誤解され誤って使われるかもしれません。家族のものたち、また他人を軽蔑、残酷、恨み等で扱ったり、又、怒りの感情にまかせてしまう言い訳にしてはなりません。これは正義と真実に基づいて行動し、神の愛から私たちを遠ざけるものは拒否しなさいという神からの呼びかけなのです。

 今日は、神とあなたの関係で何がもっとも大きな妨げであるかを黙想しましょう。誰が、何が、あなたの心からの神への愛を引き裂いているのでしょうか。望むらくは、何も、誰もこの中にいないことですが、もしそうだとしたら、あなたが強められるように力づけ、何よりも生活の中で神を優先するように呼びかけるイエスの言葉を聞きましょう。


【聖書朗読箇所】

永遠の神である父よ、

  ひとり子イエスは、

  わたしたちの救いのために十字架を担ってくださいました。

  きょう、救いの神秘を祝うわたしたちに聖霊を注いでください。

  いつもあなたに心を開き、み旨に従うことができますように。

   集会祈願より



第1朗読 知恵の書 9章13~18節


 神の計画を知りうる者がいるでしょうか。

主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。

死すべき人間の考えは浅はかで、

わたしたちの思いは不確かです。

朽ちるべき体は魂の重荷となり、

地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。

地上のことでさえかろうじて推し量り、

手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、

まして天上のことをだれが探り出せましょう。

あなたが知恵をお与えにならなかったなら、

天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、

だれが御旨を知ることができたでしょうか。

こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、

人はあなたの望まれることを学ぶようになり、

知恵によって救われたのです。」



第2朗読 フィレモンへの手紙 9b~10、12~17節

(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、 このパウロ(は、) 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、 頼みがあるのです。 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 本当は、わたしのもとに引き止めて、 福音のゆえに監禁されている間、 あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 あなたの承諾なしには何もしたくありません。 それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、 自発的になされるようにと思うからです。 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、 あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、 つまり愛する兄弟としてです。 オネシモは特にわたしにとってそうですが、 あなたにとってはなおさらのこと、 一人の人間としても、 主を信じる者としても、 愛する兄弟であるはずです。

 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、 オネシモをわたしと思って迎え入れてください。


福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、 イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、 父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、 これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、 造り上げるのに十分な費用があるかどうか、 まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、 見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』 と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、 二万の兵を率いて進軍して来る敵を、 自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、 敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、 和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

2022年8月27日土曜日

8月28日 年間第22主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 “もしあなたは招待されたら。” ウルバン神父

イエスが食事のためにファリサイ派のある議員の家に呼ばれた時、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気が付いた。それでイエスが言われた。「もし招待されたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、招いた人が来て、さあ、友よ、もっと上に進んでください、と言うだろう」。

皆さんは、宴会の時の悩みを知っているでしょう。誰をどこに座らせようか、誰に挨拶をさせようか、誰かを”先生“と呼ぼうか、と心は悩みにいっぱいです。もし間違ったら、大変ですよ。私が末席に座って無視されたら、素直に喜んで皆と共に祝う事が出来るでしょうか。できる人もいますが、みんなはそうではない。自分はどうでしょうか。もし、忘れられて、「もうちょっと上のほうに進みなさい」と呼んでくる人がいなかったら、まあ、大変だ。心は傷つけられて、怒りと暗闇に満ちているだろう。この傷は癒しがたい。長い、長い間、忘れられなく、許せないでしょう。

イエスの弟子でさえも、素直に末席を喜ばなかった。自分達の中で誰が一番偉いのだろうかと、よく話し合って、争っていた。最後の晩さんまで、イエスのそばの席を狙っていた。二階の階段を上った時、大騒ぎだったと思う。やっと座った時、きつい顔で互いを見つめあったでしょう。暗い雰囲気でした。その時、イエスは一人ひとりの前で床の上に座って、足を洗って接吻した。足元に座って、小さくなったイエスの姿は一人ひとりの心に触れた。

何十年も前に留萌という町に住んでいた。ある時、家のゴミを車に乗せて、ゴミ捨て場へ持っていた。ボロ服を着て、長靴を履いて、雨でドロドロになった臭い所で自分のゴミを降ろした時、ちょうどそこにいた人達が走って来て叫んだ。「先生、それはいかん。こんな汚い所で、こんな事をするなんて」。自分の偉い園長先生のボロ姿を見た時、びっくりした。ところが、うちの親は貧しくて、私は土と泥に慣れていた。偉い者だと感じなく、汚くなるのは恐れなかった。

何週間か前に話したように、ガールスカウトと共に韓国のあるライ病村へ行った事があります。あるガレージみたいな物置に近づいたら、数人の患者さんが立っているのが見えた。何だろうと思って近くに行ったら、そこに病人が座って、いたずらの顔をしながら、自分のライで腐った足の残りを皆の前で伸ばしていた。足の様子はひどかった。血とうみが流れ出た。彼の前に一人の神父さんが土の上に座って、優しく丁寧に、すごく良い顔をして、その足を洗って世話をした。その患者さんは不思議な王様のように、嬉しそうにそこで座っていた。本当にかわいそうな姿であったのに、まったく悲しまなかった。どうしてでしょうか。自分の足元にいた方の顔を見て、その優しい手を感じた時、とても愛されているのを知った。忘れられない時でした。末席より低い所に座って、血とうみが流れる足を触れるのを見たら、私たちの心はすごく動かされて、イエスの姿を見ていた。この体験は、私たちの心のなかに長く響いていた。


【聖書朗読箇所】


信じる者の救いである神よ、

  あなたは高ぶる者を退け、へりくだる者に目を留めてくださいます。

  わたしたちが神の前に皆等しく貧しいことを悟り、

  キリストのことばに希望を見いだすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 シラ書 3章17-18 , 20 , 28-29節


子よ、何事をなすにも柔和であれ。

そうすれば、施しをする人にもまして愛される。

偉くなればなるほど、自らへりくだれ。

そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。

主の威光は壮大。

主はへりくだる人によってあがめられる。

高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。

彼の中には悪が深く根を下ろしている。

賢者の心は、格言を思い巡らし、

知者の耳は、格言を熱心に聴く。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章18-19 , 22-24a節


 (皆さん、)あなたがたは手で触れることができるものや、 燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、 更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、 近づいたのではありません。 しかし、あなたがたが近づいたのは、 シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、 無数の天使たちの祝いの集まり、 天に登録されている長子たちの集会、 すべての人の審判者である神、 完全なものとされた正しい人たちの霊、 新しい契約の仲介者イエス(なのです。)



福音朗読 ルカによる福音 14章1 , 7-14節


 安息日のことだった。 イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、 人々はイエスの様子をうかがっていた。

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、 彼らにたとえを話された。 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。 あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、 『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。 そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。 そうすると、あなたを招いた人が来て、 『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。 そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。 「昼食や夕食の会を催すときには、 友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。 その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、 足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。 正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

2022年8月17日水曜日

8月21日 年間第21主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】

年間第21主日(8月21日)福音のメッセージ

 イエス様の言葉は時に優しく、時に非常に厳しく語られる。「私の平和を与える」と言いながらも「むしろ分裂だ」とも言う。「罪びとを招くために」来たのだが、同時に「地上に火を投ずるため」とも言われる。あえて相対するこれらの言葉群を投げつける目的は、聖書学者によれば「知恵ある言葉」として与えられるイエスの思いであろうとのことだ。決して分離させてその文字だけを取り上げないようにしなければならないという意味だろう。実際私たちは悩んでいたわけである。

 かつて「「一致」と「離散」はキリスト教の中で相対する言葉だが唯一それを成り立たせる言葉がある。」と神学生時代に授業で教えられた。矛盾しているようだが唯一それを完成する言葉は「愛」のみであるとのこと。確かに愛あれば「一致」を可能とし、また神の懐における「離散」も愛ゆえの出来事であろう。

 これを前提で福音を読み進め、「狭い戸口」を考えた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の物語を思い出す。人間は罪深いものだが、それでもどんな人にでもわずかながらお釈迦様に認められる善い行いはあるもの。そこで重罪であったカンダタにも蜘蛛を助けたことから一本の糸が地獄へと投げ込まれる。しかしカンダタはその糸で登り始めると、下から他の罪人が糸を辿って登り始めた。重く糸が切れるかもしれない。そこで下からくる罪人を蹴落とし、自分だけが助かろうとした。その結果カンダタの持っていた糸が切れてしまった。

 このお話はここで終わりだが、福音書から眺めてみよう。もしカンダタが他の罪人をこの場で救おうとしてらどうだろうか。私はきっと皆が助かったに違いないと思う。自分の手前で糸は切れるかもしれない。それでも最後に多くの人にも救いの道をともに歩みたいという思いがあれば、この物語はきっと皆を引き上げたのだろう。つまり、狭い戸口は、自ら狭くさせる必要があるのではないだろうか。どんなに大きな門であっても、多くの仲間を共にすればその門は全体からして狭くなってくる。一人で通るのはたやすいが、私たちの信仰の在り方は、一人で通る生き方を求めていない。常に神の民全体に目が向けられている。だからこそ一人でも多く手をつなぎ、神の救いの大きな門を狭くする行動が必要なのだ。手をつなぐ努力は一長一短ではできない。だからこそ今から一人、また一人と手をつなぐ作業を続けなければ、その時に「お前たちがどこの者か知らない」と門の前で言われるに違いない。カンダタの前で糸が切れたように。

 今日の福音は、愛によって人を繋いできたイエスを振り返り、私たちもイエスに倣い歩む姿が見る。後の者が先になり、先の者が後になる心、すなわち謙虚さと人への尊敬の念が無ければ、この課題を乗り越えていけない。救われる者が多いか少ないかをイエスに質問するが、それは自分が救われたいという裏返しの質問ではないだろうか。しかし、数の問題を投げかけるその人に対し、イエスは質の在り方すなわち「知恵」で返答された。改めて、私たちも見えるものに惑わされず、見えないものに心を向けていきたいと思う。9月は「すべてのいのちを守る月間」であるが、見える命にとらわれず、見えないいのちにも目を向けられるよう、周りの日常の環境を黙想してはどうだろうか。



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

  国籍や民族の異なるわたしたちを、

  あなたはきょうも神の国のうたげに招いてくださいます。

  呼び集められた喜びのうちに、

  わたしたちが一つの心であなたをたたえることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 イザヤ書 66章18~21節


 (主は言われる。)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、 すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。 彼らは来て、わたしの栄光を見る。 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、 彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。 すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、 更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。 彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、 馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、 あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。 それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、 主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章5~7、11~13節


 (皆さん、あなたがたは、)子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

 主から懲らしめられても、

   力を落としてはいけない。

 なぜなら、主は愛する者を鍛え、

 子として受け入れる者を皆、

   鞭打たれるからである。」

 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、 悲しいものと思われるのですが、 後になるとそれで鍛え上げられた人々に、 義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、 自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。



福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節


 (そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。 イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。 言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、 あなたがたが外に立って戸をたたき、 『御主人様、開けてください』と言っても、 『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、 『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、 また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』 と言いだすだろう。 しかし主人は、 『お前たちがどこの者か知らない。 不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや すべての預言者たちが神の国に入っているのに、 自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

2022年8月11日木曜日

8月14日 年間第20主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第20主日 C年 2022年8月14日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音で、イエス様は突然弟子たちを驚かせるようなことを言い出します。「地上に火を投ずるために来た。その火が既に燃えていたら……。」イエス様は、文字通りに、この世界が火に焼きつくされていること、或いは、この世界が炎で燃え盛っていることを望んだのでしょうか。

  キリスト教が広まったヘレニズムの世界では、世の終わりには火が全世界を焼き尽くし、世界が新しくなるという考え方がありました。これがきちんとした思想になるのは、ルカが福音書を書く少し後のことですが。こうした思想があったことを考える時、イエス様の言葉が世の終わりの裁きについてのこうした考え方に結び付いたとしても不思議ではありません。

  しかし、今日の福音は別の理解と結びついてもよいようです。今日のこの福音を選んだ教会は、その別の意味で捉えているようです。集会祈願を見てみましょう。「あなた(御父である神)はすべての人の救いのために、御ひとり子を遣わしてくださいました。ここに集う私たちを聖霊によって清めてください。」つまり、教会は、この火を世の終わりに降ってくる裁きの火の意味ではなく、聖霊の意味で理解している、と捉えていることができます。父である神は、世を救うために御子をお遣わしになり、救いを全うされました。御子は、十字架の死を通して弟子たちに聖霊を派遣しました。ルカは、このことを『使徒言行録』で詳しく説明しています。ペンテコステの日、弟子たちが集まっていると、激しい音がして、天から炎のような舌が現れ、弟子たちの上に留まります。聖霊降臨の出来事です。弟子たちは新しい命に生かされ、その使命に生きる者となりました。

  イエス様は、その前に苦しみの洗礼を受けると予告しています。ルカは、他の福音書を書いた人たち以上に具体的にイエス様の十字架の苦しみを描いています。それは、私たちが聖霊に生かされるためです。イエス様が来るまでに、既に弟子たちが聖霊に生かされていたらどれだけよかっただろうに。イエス様の気持ちがうかがい知れます。

  ただし、弟子たちがこの使命に生きることは、さほど容易なことではないようです。イエス様は、誕生物語で、シメオンが預言しているように、異邦人の光であり、イスラエルの栄光ですが、同時に逆らうを受けるしるしともなるからです。この救いのための決断の厳しさは、聖母マリアでさえ例外扱いされませんでした。その使命に生きることの厳しさは、ここでは家庭の不和をもってたとえられています。

  私たちも、集会祈願にあるように、聖霊に清められ、聖霊に生かされて、キリストに従って生きる喜びを味わえたらと思います。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】

いつくしみ深い神よ、

  あなたはすべての人の救いのために 御ひとり子を遣わしてくださいました。

  ここに集う私たちを聖霊によって清めてください。

  キリストに従っていきる喜びが 一人ひとりのうちに満ちあふれますように。

集会祈願より

第1朗読 エレミヤの預言 38章4-6 ,8-10節

 (その日、役人たちはエレミヤについて)王に言った。

「どうか、この男を死刑にしてください。 あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。 この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」

ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。 王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」

 そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。 水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。

 エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。

 「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。 彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。 もう都にはパンがなくなりましたから。」

 王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。


第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章1-4節

 (皆さん、わたしたちは、)このようにおびただしい証人の群れに 囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、 恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、 神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、 御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。


福音朗読 ルカによる福音 12章49-53節

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。 それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。 そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、 二人は三人と対立して分かれるからである。

 父は子と、子は父と、

 母は娘と、娘は母と、

 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、 対立して分かれる。」

2022年8月6日土曜日

8月7日 年間第19主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

8月7日 説教 レイ神父

イエスは弟子たちに言われた。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」ルカ12章32節。 このイエスからの短い言葉は3つの事を私たちに示します。

まずイエスは、恐れが私たちの生活を支配するのを許してはならないという、よく知られている事を思い出させます。人生には恐れ、悩み、心配などを生じさせる様々な事があります。恐怖を克服するというのは謙虚さの問題です。その謙虚さが自分自身や直面する問題から私たちの主へと目を向けさせるのです。主に目を向けるとき、恐怖は消え、そして信頼に取りかわります。

次に、これもまたイエスからのたいへん優しい言葉です。その中でイエスは彼の弟子たち、そして私たちをイエスの”小さな群れ”と呼ばれます。これは愛情ある言葉で、主の優しく思いやりのある心を表しています。この愛ある言葉は私たちが主に属すというだけでなく私たちへのイエスの愛が親密で心からのものであることを表します。もし私たちがこのイエスの愛を理解するなら、同じく深い思いをもってイエスに愛をお返しするしかありません。

最後にこの行(言葉)は天におられる父なる神の国を私たちに指し示しています。私たちが信頼し、親密な関係を持つべき父なる神は、私たちを最も栄光ある王国において、分かち合うようにと招いておられます。神の王国は私たちものとなり、その呼びかけがなんと素晴らしいものであるかとわかれば、それを追い求めるとき私たちは希望と興奮に包まれることでしょう。

今日は、思いやり深いイエスの心からの招きを、神の王国に目を向けるために黙想しましょう。そうするとき、この啓示によってあなたは人生から恐れを取り去り、その重荷に打ち勝つ強さを得て行く事でしょう。あなたの信頼を神に置き、神にあなたを変えていただきましょう。



【聖書朗読箇所】


希望の源である神よ、

  あなたは深いはからいによって、

  世界に救いをもたらしてくださいます。

  あなたの民の集いに聖霊を注いでください。

  神の国の実現を信じるわたしたちの心が、

  希望のうちに一つになりますように。、

   集会祈願より



第1朗読 知恵の書 18章6~9節


あの夜のことは、我々の先祖たちに

   前もって知らされており、

彼らはあなたの約束を知って

  それを信じていたので、   動揺することなく安心していられた。

神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、

あなたの民は待っていた。

あなたは、反対者への罰に用いたその出来事で、 わたしたちを招き、光栄を与えてくださった。 善き民の清い子らは、ひそかにいけにえを献げ、 神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。 それは、聖なる民が、順境も逆境も

  心を合わせて受け止めるということである。 そのとき彼らは先祖たちの賛歌をうたっていた。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~2、8~19節(または、11章1~2、8~12節


 (皆さん)信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に 出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、 同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を 待望していたからです。 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに 子をもうける力を得ました。 約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、 また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

 (この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、 自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを 明らかに表しているのです。 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、 戻るのに良い機会もあったかもしれません。 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。 だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。 神は、彼らのために都を準備されていたからです。 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。 つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、 「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。 それで彼は、イサクを返してもらいましたが、 それは死者の中から返してもらったも同然です。)




福音朗読 ルカによる福音書 12章32~48節(または 12章35~40節)


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

 (「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 自分の持ち物を売り払って施しなさい。 擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。 そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、 すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、 そばに来て給仕してくれる。 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、 目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 このことをわきまえていなさい。 家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、 自分の家に押し入らせはしないだろう。 あなたがたも用意していなさい。 人の子は思いがけない時に来るからである。」

 (そこでペトロが、 「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。 それとも、みんなのためですか」と言うと、 主は言われた。 「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした 忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、 下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、 彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 主人の思いを知りながら何も準備せず、 あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。 すべて多く与えられた者は、多く求められ、 多く任された者は、更に多く要求される。」)


2022年7月31日日曜日

7月31日 年間第18主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第18主日 C年 2022年7月31日

“神の前に豊かにならない者は”  ウルバン神父

“有り余るほど物を持っても、人の命は財産によってどうする事もできない”と主の言葉は本当です。自分の人生を振り向いてみると、小さい時から豊かな生活を知りませんでした。それでも私たち子供達は、毎日明るく生きていました。自分の貧しさをあまり感じませんでした。親を囲んで愛されて生きることで十分でした。

10才の時のある夜でした。戦争の時でした。母親は、激しいサイレンで目が覚めて飛び上がった。飛行機が来るんだ、「起きて、早く起きて」と叫びながら、私達を起こそうとしたが、私たちは動かなかった。叩きながら、蹴とばしながら、やっと私達3人を4階から地下へ動かした。そこに着いた途端に空爆が始まった。突然、ものすごい爆発があって、家の土台まで響いて、私たちの上に色々と崩れ落ちたが、誰がどこにいるか、知らなかった。暗闇の中で叫び声があった。朝になって、ガレキの中から出ると、私たちは互いを見つめあった。ボロボロの姿でしたが、生きていた。隣の家では、そうではなかった。みな死んでいた。私達はすべてを失って、もう何もなかったが、それでも嬉しかった。傷なしで生きていた。ガレキの中に立った時、泥どろの中、私の小さい金魚を見つけた。必死にごみの中で生きようとしたが、助ける事ができなかった。その日、一番悲しんだのは、この金魚の事でした。その日、私たちは家のない貧しい旅人となった。何百km離れた田舎にある本家の人に受け入れてもらった。私はまだ子供でしたが、「物はどうでもいい、生きるだけでもありがたい」と体験した。 

二年後の復活祭ごろ、戦争が終わりました。夏になると、刈入れが終わった後、私たち子供は毎日畑へ行って、聖書に書いてあるモアブ人のルツのように、落ちた麦の穂を拾って、種を集めていた。秋ごろ、町へ帰る事が出来た。父はもう戦争から無事に帰って来て、小さいちょっとボロ住まいを準備した。その時のクリスマスの夜を忘れる事が出来ません。プレセントはありませんでしたが、ローソク一本を囲んで、歌ったり、祈ったり、沈黙のうちに見つめあったりして、手を繋いで共にいるのは幸せでした。私達が畑で集めた種で母親が作ったクッキーをかじりながら。

家族の中の親しみは、神様からの最高の恵みです。どうしてこの宝を、遺産と色々な貪欲によって壊せるでしょうか。それは残念ながら、よくあるのです。けれども、私達はまず神の国と家の平和を探しましょう、後の物は与えられる。どうにかなる。

ある日、車で達布村の山から留萌へ帰った時、共にいた方は私に、雑草の中の古いわら小屋を見せた。「見なさい。子供の時あのわら小屋に住んだ時に、私はすごく幸せでした」。神様の言葉です。「いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、すべての事について感謝しなさい」。富があっても、貧しさがあっても、感謝しよう。あなたの心に喜びが湧き出る。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、

  わたしたちが日々の労苦に疲れ果てるときも、

  さわやかな憩いを与えてくださるのはあなたです。

  真実の生き方を求めてここに集うわたしたちが、

  キリストのうちに生きる喜びを見いだすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 コヘレトの言葉 1章2節,2章21-23節


 コヘレトは言う。

 なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。

 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、 まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。 これまた空しく大いに不幸なことだ。 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、 労苦してみても何になろう。 一生、人の務めは痛みと悩み。 夜も心は休まらない。 これまた、実に空しいことだ。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3章1-5,9-11節


(皆さん、)あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、 キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、 あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、 および貪欲を捨て去りなさい。 貪欲は偶像礼拝にほかならない。 互いにうそをついてはなりません。 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、 日々新たにされて、真の知識に達するのです。 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、 未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。



福音朗読 ルカによる福音 12章13-21節


(そのとき、)群衆の一人が言った。 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。 「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、一同に言われた。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも できないからである。」 それから、イエスはたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、 『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』 と思い巡らしたが、やがて言った。 『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、 そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。 ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、 『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

2022年7月23日土曜日

7月24日 年間第17主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第17主日 C年 2022年7月24日  松村神父

今回は「祖父母と高齢者のための世界祈願日」である本日の教皇のメッセージから考えてみたいと思います。

 教皇は詩編を用いて「白髪になってもなお実を結び」(詩編92:15)と、語りだし、これこそ福音、これこそ喜びの知らせであると私たちにメッセージを与えてくださいました。そこで個人的に思い出したことを分かち合いたいと思います。

 2016年4月に熊本県を襲った熊本地震。多くの被害を出して東日本大震災に引き続いて日本に不安を与えました。当時東日本大震災の復興支援担当をしていた私は、急遽熊本に対しても復興支援を始め、教区内で集めた募金をどこに振り分けるかを吟味し、決定したところに視察を兼ねて直接手渡しに行くことにしました。11月に現地視察に仲間の司祭を派遣し、その土産話を聞いたところ、阿蘇の麓の過疎地域“西原村”というところで面白い活動を行っていると、情報をいただきました。そこでは高齢者が率先して復興に立ち上がっていました。というよりも、もともと若い人がいないので、若い人がいなくてもできることをしなければと、みずから”爺(じじぃ)“”婆(ばばぁ)“の農業復興、頭文字を取って”じ・ば“産業(地場産業)を始めました。西原村の町長が、町長を辞職し復興に全精力をかけ呼びかけたところ、多くのじじ・ばばが立ち上がったのです。その勢いと努力、ネーミングのセンスから、復興支援担当として飛びついたわけです。翌年に早速募金をもって訪れ、現地の復興状況などを拝見したところ、さすが年の功。米と栗を中心に、素晴らしいものを作り上げ、また多くのネットワークまでつながりを持たれていました。九州全域から収穫時には若い人たちが手伝いに訪れ、じじ・ばばさん達はよりパワーアップし、若返り、逆に訪れた私たちのほうが元気をいただいたのでした。

 門をたたくものには、神様は開いてくださることを示されたことを実感した出来事でした。彼らは信者ではない人たちのほうが多いのですが、カトリックのネットワークも上手に生かし、西原村の人が一人も零れ落ちないよう元町長が配慮し、また自分たちの家の立て直しを最後に回し、村の復興に皆を巻き込んで再構築に臨んだ姿は、言葉にならない願いと祈りと力を感じました。その行動からまさに「白髪になっても実を結び」続けようとする高齢者の底力を目の当たりにしたときに、まだまだ高齢者であっても前線で生きる人々であることを意識づけられたのでした。私はこの一連の中にすべてが凝縮されていると感じます。

 力は衰えるものと決め、その身を引いていく人たちは多くいます。確かにできることは限られてきているのは事実ですが、逆により研ぎ澄まされ神の知恵が輝き出る姿があります。それは人の力ではなく、神様がこの身を通して示しています。隠し持つのではなく、証していくことが求められます。教皇は「高齢者は孫をひざの上で抱きしめるとき」でもあると訴えています。「ひざの上に座らせること」「だきしめること」「語ること」を成り立たせるのは高齢者でなければできません。そこに多くの実が結ばれ、その実を食する多くの子供たちがいることを忘れないようにしましょう。皆さんは神様に選ばれていること、若い人にはできないことを担っています。年齢を超えて尊敬しあい、神の弟子として選ばれた喜びの知らせを味わい、もうひと踏ん張りいたしましょう。


【聖書朗読箇所】

いのちの源である神よ、

 主イエスはわたしたちに、

 あなたを父と呼ぶことを教えてくださいました。


 主のことばに従い、

 ともに祈るために集まったわたしたちを祝福し、

 聖霊の光りで満たしてください。

集会祈願より


第1朗読 創世記 18章20-32節

 (その日、)主は言われた。

 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、 と訴える叫びが実に大きい。 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 アブラハムは進み出て言った。

 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、 あなたがなさるはずはございません。 全くありえないことです。 全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

 主は言われた。

 「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

 アブラハムは答えた。

 「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。 それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」

 主は言われた。

 「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」

 アブラハムは重ねて言った。

 「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「その四十人のためにわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。

 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。 もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。

 「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」

 アブラハムは言った。

 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。 もしかすると、十人しかいないかもしれません。」

主は言われた。

「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」


第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 2章12-14節

 (皆さん、あなた方は、)洗礼によって、キリストと共に葬られ、 また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、 キリストと共に復活させられたのです。 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、 神はキリストと共に生かしてくださったのです。 神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、 これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。


福音朗読 ルカによる福音 11章1-13節

 イエスはある所で祈っておられた。 祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、 わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。 「祈るときには、こう言いなさい。

 『父よ、

 御名が崇められますように。

 御国が来ますように。

 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

 わたしたちの罪を赦してください、

 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 また、弟子たちに言われた。 「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、 真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。 『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、 何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。 『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、 子供たちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。 その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、 しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。 求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる 。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、 門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、 魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、 自分の子供には良い物を与えることを知っている。 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」