2014年6月22日日曜日

キリストの聖体

58年ぶりの14日間連続の雨を記録した札幌でしたが、
今日は日中、本当に久しぶりの青空が広がりました。

御ミサの後、カテドラルホールで永遠の名作「汚れなき悪戯」の鑑賞会が行われました。修道院で育った孤児のマルセリーノ坊やの奇跡の物語。感涙したのではないでしょうか。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『ピエタと呼ばれている「師イエズス会」の函館出身のシスターから手紙や小冊子が時々寄せられます。その小冊子に、師イエズス会のシスターの詩が紹介されていました。
聖体がテーマになっているその詩を紹介します。

今日この手にご聖体を受けました
今日この手でご聖体を食べました
一日一緒に、天の父よと祈りました
命あれば、明日もどうぞこの手にご聖体をください

短い詩ですが、ご聖体を大切にして祈り続けるシスターの心が、この短い言葉の中に込められています。聖体の前で今日も欠かすことなく祈りが続けられていることと思います。
キリストの聖体の祝日を迎えています。
年配の信者さんは、この日を迎えるとかつての札幌での行事を思い起こしているのではないでしょうか?
札幌ではかつて、聖体の祝日の日に藤学園の講堂で聖体大会が行われていました。さらに、もっと以前には聖体行列も行われていたようです。

聖体は、イエス・キリストの最後の晩餐を起源とし、主の祭壇の前に一致して祈る私たちとミサは深く繋がっています。
聖書で語られる聖体の聖典については、皆さんも何度も読まれていることでしょうし、今日も聖書で聖体のことが語られています。
一コリント10章と11章は、非常に分かりやすく印象的に聖体のことが語られており、今日の第2朗読では、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかること」と書かれています。現代ではミサという言葉で儀式を表していますが、昔はこの聖書の言葉のとおり、「パンを裂く儀式」とも言われていたそうです。
コリントの手紙の11章では、「主の晩餐の制定」について書かれており、私たちは聖週間の聖木曜日には毎年耳にしている御言葉になっています。さらに後半では、”ふさわしく”主の晩餐にあずかることにも触れられています。
私たちは、”ふさわしく”ミサにあずかっているのでしょうか?
信徒の心構えとして、”ふさわしい”というのは、どういうことを指すのか考えてみたいと思います。
教会には、最後の晩餐を記念するパンがミサの中でいつも用意されます。神の恵み、神の救い、神の赦し、というパンが私たちにいつも用意されています。キリストを求めて、近づこうとしている人々に対して、私たちはふさわしい心で、キリストに近づきパンをいただくことになります。
ですから、ふさわしい心構えというのは、まずキリストに近づく、近づきたいという心のことを言うのかもしれません。私たちは共同体の中で自分にも人に対しても、それを妨げてはならないということが言えるのかもしれません。キリストに近づき一致し、パンをいただきたいというその心こそが、まず最初に”ふさわしい”心構えであるかもしれません。
ミサは本来、キリストに向い一致する食事を現しています。一致を拒む心があるとすれば、それは決してふさわしい心とは言えないと思います。だからでしょうか、ミサを始める最初の祈りの部分で、自分の罪を認め心を清める祈りが用意されています。
今日、キリストの聖体を祝いながら、ふさわしい心を持って、聖体に近づこうとしているか、私たち一人一人の心を黙想してみましょう。
そして、教会共同体の中ばかりでなく家庭の中でも、一致は大切にしていかなければなりません。
今日は、そういう意味でも、キリストの聖体に繋がる私たちの一致ということを振り返る一日でありたいと思います。』