2015年1月25日日曜日

年間第3主日

今日のマルコの福音(マルコ1・14-20)は、先週とおなじように召し出しがテーマになっています。

1月31日は、後藤神父様の霊名「聖ヨハネ・ボスコ司祭(ドン・ボスコ)」の記念日です。今日のミサ後、阿部運営委員長から後藤神父様へお祝いの記念品が手渡されました。
「霊名の祝日」おめでとうございます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『「イスラム国」による日本人の人質事件は、ご家族の心境を察すると心が痛みます。
私たちは平和を願いながらも、その実現はいかに難しいものかと思い知らされます。
誰もが平和を願っているはずなのに、争いごとが絶えない現実に、私たちに出来ることは祈ることしかないような気がします。
聖書の中でもイエスは「二人、三人と祈る中に、私はそこに来られる」と話されています。
 「明日のことに思い煩うな」という聖書の御言葉がありますが、思い煩わずにはいられない私たちの現実があります。本当に私たちが大事にすべきことは何であろうか、と考えていかなければならないと思います。
今日のマルコの福音は、先週と同じように召し出しについて描かれています。
私たち信者にとって御言葉は大切なものです。同時にミサ聖祭も非常に大切なものです。信仰の祈りがそこにあるからです。
 ミサの中では”わたし”という個人的な祈りばかりでなく、”私たち”そして”教会”の祈りが捧げられます。
 ミサの始まりでは告白があります。この告白は個人的な告白になります。「兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」ここには”わたしは”という個人的な祈りがあります。
でも、この告白の祈りが終わった後、司祭が唱える宣言のことばは、「全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、」につながっていき、一人一人の祈りが、共同体の祈りへと変わっていきます。そしてミサの集会祈願へと入っていきますが、今日の集会祈願の祈りの内容もまた、私たちは大切にしなければなりません。
 集会祈願は、私たち教会共同体の祈りとして神に捧げる祈りとなっています。
今日の集会祈願は「いのちの源である神よ、移り変わるものごとに心を奪われがちなわたしたちに、あなたは変わることのない救いの喜びを与えてくださいます。ここに集うわたしたちの心を新たにし、キリストに従って歩む者としてください。」という内容でした。神の国のことよりも、この世の平和だけを願ってしまうなら、それは決して永遠のものではない、ということになるような気がします。また、「ここに集う私たちの心を新たにしてください。キリストに従って歩む者としてください。」このように祈ってましたが、私たち一人一人が真剣にそのことを心に留めて祈っていたでしょうか?主の祭壇の前に、一致して、祈る私たちが本当に一つになっているでしょうか?
喜びや悲しみを繰り返しながら私たちは毎日を歩んでいます。
 1週間に一度の主日ミサの際、私たちはミサの前に聖堂に入ったとき、小さなホスチアを別の器に移しています。その時にどんな気持ちがそこにあったでしょうか?自分の心が本当に奉献されるように願っているでしょうか?ホスチアはまだ御聖体にはなっていませんが、一人一人が捧げるパンとして、それは神の御体、聖体に変わるものとして、捧げられようとしています。でも、その大切な捧げものに私たちの心はつながっているのでしょうか?私たちが捧げた大切なパンは、私たちにまた戻ってきます。私たちの捧げた小さなパンが、祭壇の上で聖体となり、そのパンが裂かれ、信仰の糧となって、私たちのもとに帰ってきます。共同体の一人一人の願いや祈りが、そのパンの中に入って、キリストに結ばれて、そこからまた一人一人に帰ってきます。もしかすると、ある一人の人が捧げた喜びの祈りが託されたそのパンが、私のもとに帰ってくるのかもしれないし、ある人が捧げた悲しみの祈りが、パンの中に込められて、もどってくるのかもしれません。私たちに裂かれたパンの中には喜びも悲しみも入ってキリストにつながっているという意味で、私たちはキリストによって一つになります。
 ミサについても考えることがあります。ミサが終わって聖堂を出た途端に、信仰の話よりも私たちの現実の話の方に心が向かってしまい、ミサに参加したという満足感だけで帰られる人も多いような気がします。私たちにとってミサとは何なのだろうか、何を大切にしているのだろうか?ということを考えさせられます。でも、答えはなかなか見つからない、言葉では言い表せられないというもどかしさを感じます。言葉に出来ない恵みを感じながらも、現実の方に心が向かってしまうというのが正しい言い方かもしれません。
でも、私たちはもう一度確認しておきたいと思います。
ミサでは、一人一人の捧げる祈りが、一つとなって、共同体の祈りとなって、キリストに向かう。一人の悲しみの祈りも、他の人が捧げる希望や喜びの祈りも、一つとなって、祭壇を囲むみんなの祈りとなるということを。
 神の国とは、聖パウロのことばを借りると、食べたり、飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる正しさ、平和、喜びである、と言っています。
 今日の集会祈願の祈りをもう一度心に留め、私たちの信仰がさらに成長するように祈っていきたいと思います。』