2015年6月15日月曜日

年間第11主日 『からし種の喩え』

典礼は年間の季節に移り、祭服の色が緑色に変わりました。

今日はミサの後、恒例の「春の大掃除」が行われ、外国人の信徒も参加し、聖堂のステンドグラスや照明をきれいにし、敷地内の清掃等を行いました。
大掃除の後は、D地区の皆さんが用意していただいた豚汁とおにぎりをいただきながら、談笑しました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は、日差しが降り注ぐ日曜日になりました。
札幌の街中は、YOSAKOIソーラン祭りで大変賑やかになっています。

さて、今日の聖書の言葉を皆さんはどのように聞いたでしょうか?
からし種の話。共観福音書それぞれに、この「からし種の話」が取り上げられておりますので、人々に大変受け入れられた話だったのだと思います。
「神の国は一粒のからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
キリスト教の文化圏では、からし種というのは、信仰心や真理を表す宗教的な言葉としても使われるようになっているといわれます。
インターネットで調べてみたところ、西洋の国では小型の豆本タイプの聖書を「からし種」と呼ぶのだそうです。
「からし種」は、小さいものを表す最少の単位を表し、その小さいものから大きな成果が育つことの喩えとして使われるそうです。
季節が年間に移りました。
弟子たちの宣教の姿が、この年間の季節のみ言葉の中では特に描かれています。
今日のお話もその一つになっています。
イエスと共に歩み続ける弟子たち。イエスの教えを学び歩む弟子たち。そこに弟子たちの信仰の成長もみていくことができ、今日のからし種の話も私たちとって意義深い話となってくるだろうと思います。
年間の季節を迎え、少しゆっくりとした歩みの中で、私たちはイエスの教えに心を開いて、より一層深く心に留めるように歩んでいきたいと考えます。
分かっているつもり、知っているつもりの神の心やイエスの教えも、いつの間にか自分の思いが強くなって、イエスの思いがいつの間にか自分の主張になっていることが、よくあることではないでしょうか?イエスから学んだことを考え話しているつもりが、イエスから離れ自分の思いになってしまい、それを主張し、人とぎこちない話をしてしまったりすることもあるかもしれません。自分の思いが自分の期待以上に私たちを導いて下さるのが神様のはず、ですから神様の教えをいつも自分の中心に置いておかなければと思います。自分の中心に神様の心よりも自分を置いてしまうと、強く自信に満ちた自分になって、ぎこちない関係を人ともつくってしまうことがあるような気がします。
農業の生活から素材を得た今日のイエスの喩え話は、土を耕し種を土の中に蒔くと、やがて成長し実を結ぶという誰にでもわかりやすい内容です。
イエスは、種そのものの成長する力を強調しているように思います。成長には、育って大きくなること、成熟すること、熟成するという意味を持っていると思います。
私たちは日々成長しているでしょうか?私たちの心は日々熟成するように育っているでしょうか?
また、自然におおらかに育つという視点でみると、私たちは人生に違った味わいを持つことができるかもしれません。
当時の生活環境は今と比べると大変厳しいものでしたから、神の国に描かれる世界は、大変すばらしいと誰もが憧れる世界でした。永遠の憩いの場所としての神の国、イエスはそこに一人一人を招き導くために来たということを強調しました。
イエスが招き導く場所はどんなところかということを人々に知ってもらうために、イエスは神の国についていろいろな喩えで話をされたわけです。
そして、神の国のことを知り、それを理解すれば、誰もがそれを憧れるようになります。私たちもきっとそうなのだと思います。神の国がすばらしいものであるならば、生きている今も、そして死んだ後も、神の国に導かれることがどれほど素晴らしく待ち遠しいことになるのではないでしょうか。
しかし、神の国は、其処彼処にあるというものではないという話をイエスはされてきました。ではどこに?といった時に、神の国はあなた方の間にあるのだ、という言い方もされました。少し戸惑ってしまいますが、イエスは、神の国は、その種は、あなたたちの心の中にもあるのだということを話されたわけです。
私たちの心の中に蒔かれたその種とは、時にはイエスのみ言葉でもあります。、
私たちは、その神のみ言葉を聞いて受け入れることで、豊かな実を結ぶことができるということをもっと深く信じなければなりません。
私たちの心に蒔かれた神のみ言葉を、私たちは受け入れ、味わい、大切にして、そこから大きな成長があるということをもっと深く信じてもいいのではないでしょうか。
そのことが私たちの信仰を強め、福音宣教につながるのではないかと思っています。
み言葉を生きることは決して簡単ではないことですが、誰にでも出来ることだと思います。今日のからし種のみ言葉を心に置いて、そのみ言葉から私たち自身が成長できるように、今日もそのことを願いながらイエスの前に近付いていきたいと思います。』