2015年8月28日金曜日

年間第21主日

昨日22日午後1時30分から今日23日午後1時まで、藤女子大学を会場に「日本カトリック障害者連絡協議会第12回全国大会 障がいと共に歩む札幌大会」が開催されました。
北一条教会からも大会サポーターや参加者が多数おられ、聖堂の前列側の空席が目立つ中、ミサが始まりました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

五つのパンと二匹の魚で5千人という大群衆を養った奇跡の話しから始まって、ずっと神のお話し、そして聖体に繋がるお話し、命のパンのお話しが今日まで続いて、福音は私たちに語りかけてくれます。
「わたしを食べる」というイエスこそ、命のパンであるとしたテーマは、先週から永遠の命というテーマに変わってかわって私たちに語られます。でも、そのパンをめぐり、イエスと群衆との対話が続き議論もおこったというのが、先週と今週の聖書のお話です

 イエスが会衆そして私たちに説明されます。パンは単なる飢えを満たす食べ物ではない。イエスは自分自身が命を養う食べ物であり、食物であり、信仰を支え養う霊的な食べ物であるとも話されました。それがご聖体にあるということです。ご聖体は神の恵みの、永遠の命に結びつけるイエス自身の体である、肉であるというお話でした。私たちはそのことをどういうふうに受け止めているのでしょうか。私たちはそのことを信じると明確に宣言できているのでしょうか。そのご聖体をいただくためにも、私たちはミサに足を運んでいるはずです。そのミサは「最後の晩餐」の型どりとして主の食卓である祭壇を中心に、主の死と復活を記念しながら、私たちは祈りを捧げるというのがこのミサでもあります。私たちはイエスの時代に生きた人たちと同じように、神の恵みに与るものとして、ミサを通してイエスの体であるパン、ご聖体に与っていこうとしています。これは、まさに「信仰の恵み」そのものではないでしょうか。信仰なくしてこのイエスの体をご聖体として受けとめることが出来ないはずです。

 でも、天から与えられたマンナから始まって、奇跡のパンについて神から与えられ支えられている、命に欠かすことの出来ないこのパンについて、人々は驚きながらもまた「つぶやき」始めました。激しい議論さえそこにおこってしまいました。今日のみ言葉でもまさに、そうした光景を表しています。でも、イエスは先週も話したように忍耐強く冷静に説明を続けています。イエスは神です。神の子です。全能の力を持っておられる方です。ですから、イエス自身最初から、信じない者は誰であるかを最初からご存知の方です。また、ご自分を裏切る者が誰であるかもう知っておられる方。そういうイエスを前にして「とんでもない話しだ。」とつぶやく人々が今日描かれています。「つぶやく」とは理解しない心や態度を持っている人々のことを言うようです。最近、インターネットの時代、パソコンを使って会話が出来るようになって、つぶやくということは短い言葉で意見を交換するという、つぶやき、ツィッターのお話ががでていますが、聖書に現れているつぶやきというのは、疑い、それを受け入れない人のことを指しているようです。ですから今、私たちが心の中でひとこと、ふたことつぶやくと言うとき、随分違った意味で解釈されたようです。つぶやく、大体そういうときはとんでもない話しになっているときではないでしょうか。とんでもない話しをしていた時、私たちはあれこれとつぶやき始めるような気がします。ですから、私たちの日常生活の中でも、とんでもない話しが時々、飛び込んで来ているような気がします。考えられない話しを聞いたり、体験したり、そうしながら私たちはそのつぶやきの内容から、一喜一憂することもたくさんあるのが、私たちの生き様だと思います。

 み言葉の中では、そうしたつぶやき、論争の後、群衆だけでなく、イエスに従っていた多くの弟子達でさえ離れ去ったと記されています。でも、多くの人たちは離れ去ったけれど、選ばれた12人の弟子達はイエスのもとに留まっていたようです。それで、イエスはその12人の弟子達にも声をかけました。「あなた方も離れていきたいか。」自分のもとを去った弟子達や多くの群衆たちを見ながら、最後に残っている12人の弟子達にでさえ、イエスはこういった質問をかけざるを得なかったその心情を切ないものとして感じるのは私だけでしょうか。きっと、皆さんもこの光景を思い描くとき、イエスの心情にも触れることが出来るのではないでしょうか。イエスのもとに留まった12人の弟子達を代表してペトロが答えました。
   「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
    あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
    あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 ペトロの信仰告白は、12人の弟子達を代表する信仰告白、返事でもあったような気がします。ペトロは個人的に私ではなく、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。」と答えています。まさにペトロは今は大きく自分の信仰が変わって、イエスに信頼するリーダー的な弟子になっている、そういう答えを私たちは感じると思います。12人の弟子達はイエスに深く繋がっている共同体として、イエスに一致していたそういう信仰告白をペトロが代表しての答えであったような気がします。
 ペトロを代表とする弟子達の一致、共同体の深い繋がり、私たちはそこに大きな希望や慰めも感じることが出来るような気がします。このペトロの信仰告白、イエスに対する質問の答えが今、私たちのミサの中でも毎回繰り返される信仰告白となって儀式として大切にされているものです。私たちがミサの中で聖体拝領を直前にして信仰告白をしています。司祭が「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い」と宣言したときに、皆さんは答えています。「主よ、あなたは神の子キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいてだれのところにいきましょう。」これは、今日の聖書のペトロの言葉から、ミサの中の儀式、祈りの言葉として、今日まで大切にされてきているものです。私たちがご聖体を拝領する直前、イエスのからだを受ける直前に信仰告白をする、その言葉はペトロの信仰告白にも繋がっているということです。ですから、私たちなりに考えますけれど、2000年前、イエスの問いに答えたペトロ、そして12人の弟子達と同じように、今日、私たち自身がミサの中で命のパンであるご聖体をいただく前に、その信仰を告白し、宣言していることを考えると、まさに私たちカトリック教会の教義、信仰は使徒伝承の教会であり、信仰を受け継いでいると考えが及びます。自分の信仰でありながら、教会の信仰、そして使徒たちが伝えた信仰を、私たちも生きているんだとならないでしょうか。そう言う意味では信仰告白、使徒信条の一言一言が、日曜毎に繰り返されていますが、まさにそうした祈りの中で、現在の信仰も、イエスの時代の信仰も、ひとつとして今日まで繋がっているんだという意識もできるのだと思います。信仰はひとつというのがカトリック教会の大切なひとつですが、それを私たち 一人ひとりが生きているんだ、受け継いでいるんだということにもなってくるのだと思います。

 命のパンをいただくこのミサ聖祭の中で、この信仰告白の直後に司祭が祈っている言葉があります。皆さんはそのことをご存知でしょうか。実際に司祭は無言で沈黙のうちに祈るものとされています。それは「キリストのからだが永遠の命の糧になりますように。キリストの血が永遠の命の糧になりますように。」最後の晩餐を記念するこのミサ、キリストの死と復活を記念するミサの中で、キリストの御からだが霊魂の糧として私たちに与えられことを賛美し感謝するこのミサ、わたしたちにとっても大切なものになっていると思います。  

 少し苦言を言いますけれど、時々私は話し合ってきましたが、ミサはやはり祭壇を中心にして私たちが最後の晩餐を記念し主の復活を記念する、そういう祈りから始まっていると話してきました。でも、今日もまた、ミサの入堂のときに後ろから入って来て、祭壇の近くの席が一番多く空席になっているということを感じながら入ってきました。祭壇を中心にミサを捧げるのが大切なのにあるはずなのに、祭壇から離れてしまうのはどういうことかなと考えてしまいます。もしここにイエス様の姿があるのなら、わたしたちはどういう態度をとるのでしょうか。イエスに近づきたい、イエスに触れたい、イエスを間近に見たいと近づいて来るのではないでしょうか。でも、イエスが中心となる祭壇を遠くから眺める、ちょっとひどい言葉を使うと「見学をする」ようなかたちでミサに与っているのではと、私たちの信仰が問われるかもしれません。私たちの信仰、そしていのちの糧をいただくためにこのミサをともに祈っているはずの私たちが、いただくものはいただくけれども、どこまでいっしょに祈ろうとしているか、どこまで共同体として心をひとつにして主の祭壇の前で一致しようとしているのか。そんなこともわたしたちは自分の信仰に照らして考えてみる必要が時にはあるかもしれません。慣れてくるとだれにも起こりうることですけれど、それが当たり前になって過ぎていくようなきがします。

 新しい日本のミサも改正されて、それに伴う新しいミサの動作も変更されるようで、11月の待降節から実施するように奨められています。一部の変更の内容はすでにわたしたちの手許に入ってきています。まだ、皆さんはお読みになっていないと思いますが、最近発行された札幌教区のニュース、受付のテーブルにありましたが、その中にも今回改正された内容が多くのページをとって載せてあります。11月までには教会としても学習会、説明会をしようと思ってはいますが、今日は教区ニュースを持って帰って 少し見てほしいなと思います。
 今日、私は私自身も慣れていかなければ成らない要素はたくさんありますので、この福音を読むときに、今までであれば「主は皆さんとともに」と言って両手を広げ、福音書に十字架の印をしていましたが、気づいた方はおられないかもしれませんが、今日は「主は皆さんとともに」というときに手を広げずに、手を合わせたまま呼びかけたのです。これも新しく変えられたところになっています。これから機会をつくって説明しようと思いますが、小さなことですがいくつかの要素が変わっていこうとしています。時には慣れない動作、抵抗がでてくるかもと思っています。もうひとつ付け加えて言うならば、「ヨハネによる福音」と宣言した時、私は聖書に十字架の印をしますが、かつて皆さんには額に、口に、胸に十字架の印をしている人がおられる、習慣がある方もおられると思います。今回、11月からまた元にもどるという形に日本の司教団は、いやもともとはそういうふうにしていることになっていたのですが、日本の教会は、日本人の伝統・習慣にそってそぐわない面もあるので、省略されていることも認められていたこともあるので、だんだん教会によってはそれはしなくても良いよとなったりして、
今日に至っているのです。 
  教会でカズラを着けるのもそうなんですね。元々はカズラも使うことが原則としてあったのですが、それぞれの国の伝統、習慣や新しい典礼の改革の精神から始まって、簡易祭服といってスータンの上に白い長い服を着ていますが、それでもそのカズラを着てミサを捧げるのと同様に認めるということがずっと続いていたことで、こうしたカズラを使わなくてもミサは捧げられるということで、今日まで続いた。
 でも、今回また原則に戻って少なくても、平日もするようになっていますが、司祭は、特に司式司祭はカズラを着用するようにと変わってきています。ですから小さいことも含めながら、特に司式司祭は動作も変わってきています。教会のミサでは立ったり座ったりする二つの祈りの姿勢が、今回改めて説明するかたちになります。そして、出来るだけ教会の信者の皆さんは動作を共同体としてひとつに相応しいかたちとして行われるようにと話されています。自分の趣味とか信仰で自分なりの動作をしたいというよりも、動作も一致して捧げられるようにと奨められるようになっています。これは宣教するということも少しその意味が加えられています。初めて教会に来た方が信者の祈りの姿勢とか動作がバラバラであったら、一致がそこになかなか見えてこないかもしれません。皆さんが姿勢も動作もひとつになって祈っている姿が、教会は本当にひとつなんだと動作からも感じることが出来ると思います。

 そうした様々な理由があっていくつかの要素が変わっていこうとしています。それも私たちは、伝統、習慣が少しずつ今日的なかたち変わったり、基本的なものに変わっていくことで
受け止めていかなくてはならないと考えています。いずれにしても私たちは、ごミサがどんな要素をもって信仰の中に大切にいていくか考えながら、ひとつになって祈ることが出来ればと思います。

  今日もこうして共に集まって主の食卓を囲んでいます。感謝の祈りを捧げます。私たちに新しい出会いと希望に満ちた新しい歩みの恵みを与えてくださるように、心から祈りたいと思います。8月も残すところ1週間です。秋が近づきました。わたしたち一人ひとりの上に命のパンを通して養ってくださる神に、その心から感謝しながら信仰を見直し、新しい出発が出来るよう祈りあいたいと思います。
 今日は、カトリック障害者連絡協議会全国大会 障がいと共に歩む札幌大会が開催されています。全国から500名にのぼる参加者があります。からだの不自由な人を含めて札幌に集まりひとつになって祈っていいます。わたしたちはこうした方々にも心をあわせて、このミサの中で祈りを捧げていきましょう