2016年5月29日日曜日

三位一体の主日

三位一体の祝日を記念する今日、洗礼によって神の民が教会共同体の一員となった私たち一人一人を祝福し、導いてくださることを感謝いたしましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の日曜日は三位一体の祭日を迎えています。
教会の典礼は先週もお話ししたように年間の季節に入り、典礼の色は緑に変わっていますが、5月の主日は祝祭日が続きますので、日曜日の祭服の色は白が続くことになります。ということで、最近、緑の祭服を新調したのですが、皆さんにお披露目するのは6月に入ってからということになってしまい少し残念です。
さて今日は三位一体の祭日です。説教をするのには難しい日曜日が続いているのです。私にとっても日曜日を迎えるのが心が苦しくなるような状況なのですけれど、三位一体については話しづらいのですが、少しお話をしていきたいと思います。
私の神学生時代、ネメシェギ神父様(イエズス会のペトロ・ネメシェギ神父様)という方が講義をしてくださっていました。皆さんもご存知の方が多いと思います。今は御高齢になって自分の国に帰られています。それでも2,3年おきには日本に戻ってきて講演をしてくださっています。そのネメシェギ神父様が三位一体の授業で話されたことを思い起こしています。三位一体とは何かという説明の中で私たち神学生に問題提起をして話されたことを思い出します。ネメシェギ神父様も神学者の一人ではありますが、神学者は「父と子と聖霊」それ自体に関する一切の研究を断念して、唯一の神の人間に対する働きだけを考察しなければならない、こういったご自分の見解を問題提起として私たちに話されたことがあります。とても驚くようなお話だと思うのですが、それは、神様が私たち人間に対する働きを聖書は語っているので、そのことに心を向けなければならない。聖書自体は神が人間のために何をなさり、人間とどのような関係を結んでいるのかということを聖書は語っているのであるから、「父と子と聖霊」がそれ自体、誰であり何であるかという質問を出してはいけない。神とは何かということを語るのは私たち人間の業ではないということを私たちに話されていたのだと思います。何よりも神様が私たちに何を望み、何をしようとし、何を教えているのか、何を大切にしなければならないのか、ということの方が私たちには大切なことではないか、ということを訴えられたわけです。
皆さんはどう考えるでしょうか?
人間に対する神様の働きをまず何よりも大事にしてみたらどうですか、ということを私たち若い神学生に話された三位一体論の神学者であるネメシェギ神父様のお話を思い出します。もしかしたら、「あなた方にいくら説明しても理解できないだろう」ということが前提にあったのではないかと今になっては思うこともあるのですが、そのくらい三位一体の授業は私にとっても難しいものでした。非常に日本語が堪能で、お話が上手であったネメシェギ神父様の傍にいてお話を聞いているだけで神様の平和を感じられ、三位一体の授業よりもそちらの思い出の方が印象に残っています。
人間は他者を知り他者を愛する能力を持っているから偉大である。知識欲がある故に、神自体についても私たちは語ろうとしてしまう、神様の定義を勝手に私たちが作ってしまう、というようなことも話されていたような気がします。
ネメシェギ神父様は今遠くにおられますが、私たち神学生一人一人に、何が大切なのか、ということを本当に一生懸命伝えようとしていたその時代を私も振り返り懐かしく考えています。
三位一体の教義を説明する神学書は数多くありますが、父と子の愛から派出されるのが聖霊であるという説明が多くて、神学者であっても人間の知性で理解することはとても難しいと言われます。ですから今、三位一体について分かりやすく何かを伝えようとは思うのですが、それは至難の業です。私自身は自分の信仰において、この三位一体の神をただ信じるということに集中して自分の信仰を生きているような気がします。「父と子と聖霊」は一つである。三位一体の説明の思い出の中で、去年も皆さんにお話ししたかもしれませんが、私に公教要理を指導された神父様は、三角形を示して、三角形全体が神様であり、その角に父と子と聖霊があり、その中のどこをとっても神様なのだと話されました。公教要理を習い始めたころは、私の信仰もおぼつかないものでしたので、それはそれで分かりやすい三位一体論の説明であったと思います。もっともっと深遠なる教義がそこにはあると思いますが、子供たちにとっても分かりやすい説明だと思います。
皆さんは、「父と子と聖霊」というその三位一体に向かう祈りの言葉を毎日のように使いながらどんな理解をされているのかと思います。聖書の中でイエスの話される言葉で三位一体を示す話があります。今日のヨハネの福音の短い朗読においても、三位一体論を表すみ言葉が語られました。
今日のみ言葉で少し触れてみますと、真理の霊が来るというところから入っていきました。真理の霊とは、聖霊、弁護者を表します。中ほどから語られたみ言葉は、「その方はわたしに栄光を与える。」という表現をとっています。聖霊を”その方”と人格を表す言葉で表現しています。「聖霊はわたしに栄光を与える。」と言い換えられます。続いて、「わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」ここの「わたしのもの」いうのはイエス自身を表していますが、「イエス自身を受けてあなた方に告げる」と、イエスと聖霊の深い一致をここで表現しています。さらに次の一節では、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」ここでは、御父とイエス自身との関係について語られ、父とイエスは一つであるということが表されています。そして、「父と子と聖霊」の一体がここで示されます。
「神を見たものはひとりもいないが、父のふところにおいでになるおんひとり子の神がこれをお示しになった。」「わたしを見るものは父を見る、わたしは父におる、父はわたしのうちにおられる。」父と子の関係は、聖書の中では度々語られています。
聖霊については、御父と御子がおくってくださるのが聖霊であることを、復活の主であるイエスが弟子たちの前から去る時に説明します。「わたしが去ることは、あなたたちにとってよいことである。わたしが去らないなら弁護者は来ない。弁護者すなわち父が私の名によって遣わすのが聖霊である。」このように、聖霊のはたらきについても弟子たちに説明しました。それ故、父と子と聖霊は一体であることを私たちが受け入れ、三位一体を神秘として私たちは信じるということになると思います。
何よりも一番に、身近にイエスを信じて私たちは祈っていると思います。そしてゆるぎない希望を持って、歩み続けています。イエスを愛することによって、父なる神もまたそのことを愛してくださるとイエスは約束されました。父と子が一体であるように、イエスは私たちともまた、一つになることを望んでいます。イエスと一つになるということは三位一体の神と私たちが一つになるということでもあります。
いつくしみの特別聖年を歩んでいるなかで、私たちは一人一人の信仰者として、自分の信仰をさらに見つめて成長し、前に進んで行かなければなりません。それを導いてくださるのも三位一体の神でもあり、聖霊の導きです。
教会の恵みの秘跡である洗礼の秘跡が、三位一体の神との交わりに招いてくださったことを私たちは忘れてはならないと思います。私たち一人一人が洗礼の恵みによって、三位一体の神に深く結ばれているということ、そしてその交わりを深めていくことが、私たちの新たな歩みであり、このいつくしみの特別聖年の招きでもあると思います。
三位一体の祝日を記念する今日、洗礼によって神の民が教会共同体の一員となった私たち一人一人を祝福し導いてくださることを感謝いたしましょう。
キリスト者として、三位一体の神との交わりから新しい力を汲み取っていくことができるよう皆さんとともにこのミサで祈り前に進んで行きたいと思います。』