2016年7月25日月曜日

年間第17主日

この日の福音では「主の祈り」のお話が語られました。祈りの言葉の一語一語をかみしめながら、自分の内面からの深い声になりますよう。



後藤神父様のお説教をご紹介します。
『この1週間は皆さんは忙しい日を過ごされたのではないでしょうか。 私にとっても四つの会議がありましたし、おやじの会、葬儀、金曜日にはカルチャーナイト、昨日は平和講演会がありました。この間、私たちはどんな祈りをしたでしょうか。会議や行事で振り回されたような気もします。

 今日、皆さんが聴いた福音は「主の祈り」のお話が語られました。私たちクリスチャンにとっては欠かすことの出来ない祈りが語られています。イエスはある所で祈っておられた。こういう言葉で今日のみ言葉は語られました。イエスの祈りの姿はしばしば聖書の中で見ることができます。今日の箇所で言えば、その祈る姿を見つめていた弟子たちが、自分たちにも祈りを教えて欲しいと願い出ました。弟子たちの一人ヨハネがその弟子たちに教えたように、私たちにも祈ることを教えてください。弟子たちはイエス様と一緒に過ごしていましたが、共に祈ることはなかったのだろうか、そんことをふと考えてしまいます。イエスの熱心な祈る姿に駆られて、弟子たちも、私たちもあなたのように祈りを捧げたい、そう思ってお願いしたのではないでしょうか。
 イエスが教えたその祈りが「主の祈り」になります。今日のルカの福音の中に語られる主の祈りは、この同じような内容はマタイの福音書の中にも同じような内容が出て来ます。(マタイ6:9-15) 今日、私たちが聴いたルカの祈りは短い内容になっています。マタイの福音の祈りは今、私たちが唱えているような祈りで語られています。父よと呼びかけて祈りなさい。イエスはそう言われました。父、神に代わる言葉が様々あると思います。神に対しては全能の神、創造主である神とか、実に様々です。今、私たちが良く使っているのは「いつくしみの神」という表現を使っています。憐れみの神、愛である神。数え切れないほどのものがでてくると思います。もし、全知全能の神、創造主である神という形で主の祈りが教えられたとしたら、堅い祈りになってしまう気がします。全能の神、創造主である神という言葉で主の祈りが始まったら、随分神との距離が出来てしまうと考えないでしょうか。それよりも、「天におられる私たちの父よ」、父よと呼ぶことによって、ひじょうに身近に感じられ私と神との関係。私たちと神との関係が出来るのではないでしょうか。イエスはそういうことを考えて教えたかどうかは分からないかもしれませんが、父よと呼びかけて祈ることを教えてくれたことはとても素晴らしいことです。親しみをこめて、まさに私たちと神様の関係が親子の関係であるかのような距離にあって、神様に祈りを捧げることができる。わたしたちにとって大きな慰めにもなってくるのではないでしょうか。

  マタイの福音の中では、「天にいます父よ」という表現をとっていて、私たちが現在唱えられている「 天におられる私たちの父」という表現に変わっています。でも、ルカの福音ではまず最初に「父よ」というみ言葉です。短い祈りの言葉の中に、教会が常に教える共同体としての教会の祈りも、主の祈りの中に入っているように思えます。そしてまた、私ではなく、「私たちの父」という表現が入ってくる、とても大切な教会の共同体的要素がそこにあるということではないでしょうか。私と父という関係だけで祈るのではなくて、私たちと父という関係でイエスは私たちに祈りを教えられた。何度も「私たちに」という言葉が繰り返されて祈りがあります。信仰は神と私の関係ということも言えますが、イエスが教えられた主の祈りは、私たちが大切にする個人ではなく共同体としての祈りであることがはっきりと示されたと考えられます。「私たちの父よ」という表現はまさにそういうことを示されているのではないでしょうか。ですから、改めて私たちが主の祈りを唱えるとき、私個人という気持ちではなく、私たちという意識も心に込めて祈ることが大切になるようです。

 主の祈りの構造はふたつの部分に分けてみることが出来ると良く解説されています。最初の部分は神に向かう祈り、神を賛美する祈り、感謝する祈りと言われます。内容は 神の御名が崇められるそのこと。また、神の支配する御国が来ることを願う。さらに神のみ旨が行われますように。前半は神に向かう祈り。でも、後半は私たちの祈りになっています。必要な糧を与えてください。毎日の食事に事欠くことなく与えらますようにと祈りが続き、罪を赦していただく祈り。そして、自分に負い目のある人を赦すように、私たちを赦してください。また、誘惑にあうことのないようにしてください。
  教会の歴史の中では有名なアウグスチヌスとかルターという人がいます。そうした聖人、神学者たちは、主の祈りの解釈をいろんな形で私たち教会に示しました。私たち自身、様々な注解書、解釈書に触れることができますが、決まり切ったオウム返しに祈る祈りではなくて、 主の祈りの一言一言、一語一語をかみしめながら、自分の内面からの深い声として祈ることが出来るように、そうありたいと思います。毎日のように何回も何回も唱えている祈りですから、ただ言葉を繰り返す祈りになってしまう。でもそうならないように私たちは心がけることが大切だと思います。

  さて、第一朗読に創世記がありました。罪を犯す町があると聞いた主が、その話しが真実であるかどうか確かめると聞いたアブラハムは、街が滅びてしまうと心配して、正しい人がいる街を悪い者といしょに滅ぼすのですかと、主に詰め寄る話しが繰り返し出て来ます。50人の正しい人がいるなら、それでも街を滅ぼすのですか。いやいや50人に5人欠けたならどうなるだろうか。45人正しければ、数が少しずつ減っていきますが、神は正しい人がいれば街は滅ぼさないと答えられました。一人正しい人がいれば神はそれを大切にし、その社会を滅ぼすことなく支えてくださる。もしそうだとすれば、今の私たち現代においてもそうだとすれば、10人の中の一人の正しい人になることが大切なようか気がします。10人のうちの一人が難しければ、50人のうちの、100人のうちの一人に私たちがなるならば、この世界は神様によって守られ支えられることになるのではないでしょうか。神様の愛はそれほど慈しみの深い心で私たちを導いてくださっていることを物語っているような気がします。

  イエスは弟子たちに教えたこの祈りに続いて「たとえ話」をされましたが、祈りは愛という行為の中から生まれるということも話されたと感じます。求めるものは受け、さがすものは見つけ、門を叩くものには開かれる。希望を与える天の父は、求めるものに聖霊を与えてくださると約束してくださいました。とかく私たちは諦めることも良くしてしまいますが、諦めるなということを言われているような気がします。諦めてしまっては、そこから何も生まれてこない、そこから前に進んでいかない。諦めない辛抱しながら、ゆっくりゆっくりと努力することによって道は開かれていく。その間、とても辛いことかもしれませんが、神様はそれに耐える力もまた与えてくださる方と信じています。時々、祈りがなかなか出来ないと悩んでしまうこともあります。そういう思いで弟子たちも祈りを教えてくださいとイエスに願ったのではないでしょうか。私たちも悩んでどう祈ったら良いのか分からなくなることがあると思います。 それでも神様に心を向けて、父よと呼びかけながら、どうぞ私に祈る言葉を与えてくださいと、祈りを教えてくださいと、祈り続けるときに私たちは道が開かれ、私たちに聖霊の光が与えられると信じています。
 試練の前に私たちはとかく信頼を見失います。どんな試練にも乗り越えられると思っていても、試練の前では打ち倒されてしまうことも良くあると思います。私たち人間には底なしの弱さがどこかで持っている。でも、小さな力ではどうしようもないときにも神様は私たちに目を注いでくださる。私たちをそこから立ち上がらせ、前へと進ませてくださる。神の愛に私たち一人ひとりを委ねることが出来るかどうか、そういう信仰も問われているような気がします。イエスが教えた主の祈りの一つ一つの言葉を深く味わいながら、私たちの信仰の中で、信仰生活の中で唱えられるように成長していきたいと思います。』