2017年10月15日日曜日

年間第28主日 「婚宴のたとえ」

神は全ての人を招いておられますが、その招きに応えられるかどうかは私たち次第です。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週のミサ後に朗読の研修会を行いました。私が想像していたよりも大勢の方が参加して学びの時間を持ちました。そのせいではないと思いますが、今日の朗読を聞いていて、とても落ち着いて聞きやすい朗読でした。聞いている皆さんも心の中にまで届くようなみ言葉に耳を傾けられたのではないでしょうか。

先週は久し振りに、教区の神学生養成担当者として神学校の会議で東京に出かけました。神学校までは吉祥寺駅から歩いて40分ほどの距離で昔はよく歩いて行ったものですが、今は無理なので駅からバスで向かいました。そのバスの中でとてもよい”招き”の体験をしましたのでお話します。私はバスに乗って吊革に捕まって立っていたのですが、目の前に制服を着た小学生の女の子が読書をしながら座っていました。ふと目を上げたその女の子は立っている私に気付くとすっと立ち上がって「お座りになりませんか?」と声をかけてくれたのです。人の善意に出会え、私にとっては爽やかな気持ちのよい一日になりました。
今日の聖書のお話ではないですけれど、神様から贈り物をいただいたようなそんな気分の一日となりました。ふと、気付いたのですが、もしかしたら私にとって初めて席を譲られる体験だったのではないのかなと思いました(会衆笑い)。最近、私は高齢者のお話をよくしますが、私自身が高齢者になった証のような体験でもあり、このような親切に出会えそれを素直に受け取れたということは、年を重ねることもいいことなのかなとも思えるようなことでした。

さて、今日はぶどう園を舞台にした話の続きでした。3週間続いたぶどう園の話は今日が最後になります。最初は「二人の息子」の話でした。そして先週は「悪い農夫たち」です。そして今日は三部作の最後のような例え話で「婚宴」のお話でした。
これまで、律法学者や祭司長、長老たちにイエスが話しているように「ことばでは賞賛し、口先では立派なことを言っているが、彼らは神への信頼に欠け、その教えを受け入れようとしない人たちである」という、イエスを拒絶し排除しようとし、自分のことだけを考えているという彼らへの批判があり、厳しい対立が見られるなか、選ばれた神の民の特権が取り上げられ、「神の国は異邦人や罪人を含む新しい民に与えられる」というメッセージがあります。
このたとえ話をとおして、神の民であるユダヤ人の罪と罰が語られます。「天の国」は「婚宴の場」と例えられ、王様は神、王子はイエス・キリストを表す形で、このたとえ話をみることができます。披露宴は天の国であり、神の国です。その神の国に招待されているのが神の民であるユダヤ人でした。
神はそのユダヤ人たちを婚宴に招きます。「食事の用意が出来ました」と、自分の持っている最も善いものを準備して王は招きます。神がそういう食事を用意してくださったのは「主の食卓」、すなわちミサとも重ね合わせることができます。私たちの信仰と救いのうえでミサは大切なものであります。でも私たちはいつもこの救いの場となるミサを最も大切にできているでしょうか?そのような問い掛けも聞こえてくるような気がします。ほとんどの人は主日のミサを大切にして教会に足を運び、ご聖体をいただいて新しい一週間に向っていきます。でも時々そのミサに与れない与らない人たちもいるような気がします。それは自分を優先する場合にそうなってしまうことがあるでしょう。天のことよりも地上のこと、私たちが生きている世界のことを優先せざるを得ない、そのような事情がある人もたくさんいるというのは私たちの現実だと思います。しかし、時にそのことを承知のうえで怠けて、神の招きに応えないという心で足を運ばないこともあるかもしれません。もしそういうことであれば、聖書にあるように、やがて裁きとなって下るということが語られます。
聖書のこの婚宴の話のなかでは、神の民であるはずのユダヤ人が招かれたけれど拒絶したため、神の招きは新しい民へと変わっていきそうです。そして新しい民というのは、信仰を持つ者だけではない、信仰を持っていない人にも招きがある、それは異邦人であるかもしれません。さらに良い人・悪い人に関係なく招かれるというのも聖書で語られます。神の招きは全ての人へ普遍的に拡がっているということが語られています。資格のある・なし、私たちは時々、洗礼を受けていますか?ということを強調して話してしまいますが、洗礼を受けていても受けていなくても神の招きはいつも一人一人に注がれているということを大切にしなければならないと思います。
私たち一人一人は本当にその招きに応えようとしているでしょうか?この地上の生活が優先してしまう時に、自分の思い、自分を捨てることの難しさを誰もが感じていると思います。神様に応えたいけれども残念ながら今日はその時は応えられない、そのような事情も持ち合わせているということもよくあるのではないでしょうか。そうは言っても、時にどんな事情があるにせよ、家族の一人がもし怪我をしたり亡くなったりしたら、そっちに向うことが出来ているはずです。そのような選択は誰でもがするはずなのに残念ながら、教会のミサに対しては、そのような決断が出来ないというのが現実でしょう。神の教えや神からの呼びかけよりも、もしかすると、人から憎まれたり悪口を言われたりすることの方を恐れて、そのような選択をすることもあるかのような気がします。
しかし、自分の立場を優先ばかりしていては、神の招待さえも拒否し続けることになってしまいそうです。「いのちに至る道は狭い」と聖書言われていますが、捨てるべきものを捨てなければ、神の国に入ることは難しいのだということを心に留めておきたいと思います。

さて聖書の話では婚宴が始まって王が入ってきます。するとその王は一人の人に目を向けて「礼服を着けないでここに入ってきたのか?」と言いました。この一言を私たちはどう理解したでしょうか?きっと皆さんはこの言葉はどういう意味なんだろう?私たちはどんな礼服を着けて御ミサに来なければならないか、というところに繋がっていくのではないでしょうか。
私たちは、ふさわしい礼服を着けて、いま、主の食卓に与ろうとしているのでしょうか?聖書の中に「イエス・キリストを着なさい」ということばがあり、洗礼の時には「あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました」ということばが伝わっています。洗礼の時は「白衣を受ける」ということばが使われていますが、私たちにとって礼服とはどんなものでしょうか?少し思い巡らしてみてください。
少し安心してもらうために、聖書の旧約時代にあった話をします。旧約時代に遡るとこんな習慣があったそうです。祝宴があるときは、王宮で王から与えられる歓迎の着物があったそうです。ですから今日の福音に照らし合わせてそのことを考えてみますと、突然道端で招きを受けたのですから、婚宴にふさわしい服など持っている人はほとんどおらず、礼服を着ることなど当然難しかったはずです。でも昔の習慣では、招かれた人は王宮に入っていく時に衣服が与えられたので、その衣服を着て入ることができるとすれば、それほど心配せずに突然の招待も受けられたはずです。ところが一人だけ礼服を身に着けていない人がいたというのが今日の聖書のお話です。少し理解できたと思います。
それでは、今の私たちにとって考えなければならない礼服とは?
パウロの表現によりますと、「キリストを着ること」ということで礼服について話をされていることがあります。それは「新しい人を着る」ということでもあるというのです。
「礼服」とは、「キリストを信じることであり、神を信頼し信じる心を持つこと」それが神から与えられた礼服を着るということです。これは、信じることなく、救いに与ろうとするものではない、ということを言っていると思います。神を信じることから救いが始まるということです。
ですから、ふさわしい礼服とは、真実の信仰を求め、それを生きようとする心構えといえると思います。神の恵みの席に今連なっている私たちですが、それが形だけではなく、神との真実な交わり出会いとあるよう願い祈ることが求められています。
地上の現実にすべてを奪われている人の心には、神の呼びかけやイエスの呼びかけも響かないと思います。神が今、私たちを招いて下さる。その答えは、私たちの信仰の問題になってくるということ。今日の婚宴のたとえをとおして、私たちが着ける礼服はどうなっているのか、ということをメッセージとして受け止めたいと思います。
そして、私たちが本当に神の国に繋がって、私たちの道が歩めるように今日もまた主の祭壇の前で一致して祈りたいと思います。』