2017年12月24日日曜日

主の降誕(夜半のミサ)

メリークリスマス!
主の御降誕おめでとうございます!



午後7時から、主の降誕の夜半ミサが、勝谷司教様の主司式で行われました。
会衆が手に持ったローソクの火が灯る中、司祭が抱いた幼子イエス様が入堂し、救い主の到来を祝福するミサが行われました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日は初めて教会に来られた方、お見かけしない方がたくさんいらっしゃいます。本当にようこそいらっしゃいました。少し難しいお話しになりますが、ご容赦ください。

 先月、25年間続いていますが、毎年開催されている日韓司教交流会が、約25名が鹿児島でありました。毎回、その時々のテーマが掲げられますが、今年は両方の国で問題となっている「少子高齢化」でした。どんな取組をしているか話し会いました。その中でこんなエピソードがありました。韓国の司教はおよそ20名くらいお出でになっていました。韓国側のプレゼンテーションはある大学のシスターでした。現代の韓国の老人の貧困率の話しでした。何と5割を超えているのです。韓国の年金制度は充実していないので、韓国を支えた時代の人々の年金は僅かなものです。段ボールなどを集めてお金に換え、それで生活しているとの報告でした。そこで韓国側の何人かの司教は、その報告に異議をとなえたのでした。それはどこの話しか。教会をみているとそんなに貧困な老人は見あたらない。偽りのデータではないのか。これは国際的な機関の公表しているデータで、それをネットで調べたものだとコメント。そして、それに付け加えて言われたのは、司教様がたは教会の内側だけにしかおられない。実際に教会の外、社会に出て行かれていないから現実が分かっていないのではないですか、と。司教様は反論出来ず、ただ沈黙でした。

  これは韓国のことという捉え方でいられないのは、日本の現状だと思います。日本の社会はどうでしょうか。子供の7人に一人は貧困状態にあるといわれています。シングルマザーの世帯では50%以上が貧困状態にある。先日、バチカンの福音宣教省のフィローニ長官が日本に来ました。宣教国を統括する省の長官ですから、訪問する国の事情は事前に調べてお出でになります。日本の現状も良くご存知でした。そして、日本の国の信者の数が増えないことに関して、こう言いました。「皆さんはどこに向かって宣教しているのですか。皆さんが手を差し伸べるのを待っている人はいないのですか。」そのときに例にあげられたのは、『若者の引きこもり』でした。引きこもりは国際語になっています。あるいは自死の多さ。孤独に苦しむ独居老人や今述べた支援を必要としているシングルマザーのことにも触れられました。教会の周りにはそのような人はいないのですかと強く訴えられていました。

  しかし、私はもっと深刻な問題を感じています。フィローニ枢機卿が指摘されていたような人は教会の周りにではなく、教会の中にもいるのです。多くの場合、彼らが支援を求めるのは教会共同体ではなく、教会の外です。枢機卿の指摘はほんの一部です。そのほかにも将来に希望を持てない青年たち。メンタルの病をもち居場所を見つけられない人たち。障害を持つ子どもたちの将来を憂う親たち。日本の政策で制度の狭間に陥って慣れない外国生活を送る苦しい技能実習生たちがいます。実際に不当解雇を受けた技能実習生がおり、その支援が行われています。

 このように、様々なかたちで社会の片隅に追いやられて、小さくなっている人たちがたくさんいます。このような人たちは私たちのすぐ隣にいるのです。キリスト教の宣教とは聖書や教理を教えることだけではありません。第一には、このような人たちと関わりを持っていくことから始まります。必要なことは知識ではなく、共感する心と出向いていく意志。現在、カトリック教会では排除ゼロキャンペーンというものを行っています。教皇フランシスコはこう訴えています。「現在世界中では2億5千万人以上いる移住者と、そのうちの2千250万人の難民がいます。彼らの多くは平和を見出すために命を賭ける覚悟で旅に出ます。その旅は多くの場合、長く険しいものです。そして彼らは苦しみと疲れに見まわれ、目的地から彼らを遠ざけるために建てられた鉄条網や壁に直面します。戦争と饑餓から逃れて来たすべての人々。差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を離れざるを得ないすべての人々を慈しみの精神を持って抱きしめましょう。」
  先ほど読まれた福音書の中で、臨月を迎えたマリアとその夫ヨセフが宿を求めてさまよい、どこからも拒否されて家畜小屋で出産するエピソードが書かれていました。これが排除ゼロキャンぺーンに繋がるものです。排除ゼロキャンペーンは、現代におけるあらゆる排除されている人々、社会的弱者に目を向け、具体的支援をしようとするものです。特に先ほど述べた 難民を強く意識しています。旅の途中で臨月を迎えたマリアとヨセフ。頼る者もなく無情に断り続けられた彼らはまさに闇の中でさまよい苦しむ貧しい人々、難民の象徴です。
 では彼らを断った宿屋の主人は、意地悪で悪人だったのでしょうか。そうとは思いません。当たり前の普段通りの生活をしているからです。彼らにとってヨセフとマリアは特別なカップルではなく、宿泊先を求めても断られ、野宿を余儀なくされたその他多くの旅人の中に数えられる、顔も名前も知らない二人にすぎませんでした。まさに世界中に溢れている難民の中に「聖家族」がいるのです。何をしても二人の心を動かされないのは、彼らを調べ彼らは自分の世界とは関わりのない大勢の中の一人。つまり私たちがマスコミを通して世界を見るのと同じです。2千250万人という統計上の数字の中の一人に過ぎなくなっているのです。悲惨な現実に心が痛むと言っても、そのために何かをしようと自分を突き動かす力になりません。

  そうです。宿屋の主人たちは善良に生きて当たり前の生活をしている私たちです。こうして私たちは、知らぬまに私たちのドアをノックする救い主の家族を闇の外に追い出しているのです。社会の中で声を発することも出来ずにいる人々に寄り添い、その声を代弁することが教会の使命です。私たちは自分を決して傷つくことのない立場において、机上に集められる情報をもって世界を分析する単なる評論家になってはいけません。出向いて行って実際にその人たちと関わる必要があります。そうして初めて魂を揺さぶられる体験をするのです。テレビ等の情報は確かに共感を引き起こしてくれます。またすぐにチャンネルを切り換えることもできるのです。物知りな傍観者にはなり得ますが、なかなか自分自身を突き動かすものにはなりません。「貧しい人々のための世界祈願日のメッセージ」の中で、教皇様は次のように述べられています。「私たちは貧しい人々に手を差し伸べ、彼らに会って目を見つめ、抱きしめるよう招かれています。」つまり口先にではなく、具体的な行動が求められているのです。

 互いに愛し合いなさいと私たちは何度も聞かされています。しかし、知らない人を愛せません。出会わなければ知り合えません。自分から外に出向いて行かないと出会うことはありません。愛することは理屈ではなく、出向いて行って出会い知り合うことから始まるということを、私たちはしっかりと心に留めておきましょう。』