2018年6月3日日曜日

キリストの聖体

私たちの教会が、”キリストのからだ”に救われて、お互いに一致して共に歩んでいく共同体でありますように。

今日のミサは、佐藤謙一神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「キリストの聖体」の祭日です。季節は年間に入っておりますが、復活節の余韻を残しながら、今日の祭日を祝います。
この”聖体の祭日”というのは、皆さんご存知のように今日の祭日の他にも、キリストの聖体を制定したことを記念するお祝いがあります。それは、聖なる過ぎ越しの3日間の最初の日に当たる聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中で祝われます。
「主の晩餐の夕べのミサ」の中では、聖体の制定を祝うばかりではなく、イエスの受難、死、復活という出来事を忠実に祝おうとしています。もちろん今日のミサの中でも、同じようにイエスの受難、死、復活、昇天を記念する、ということは行います。
感謝の祭儀の中で、「信仰の神秘、主の死を思い復活をたたえよう、主が来られるまで」というように私たちは唱えます。イエスは私たちの罪を背負い死に渡され、私たちが義とされるために復活されたのだという信仰宣言です。それを私たちはミサの度にとなえます。

今日のミサでは、聖なる過ぎ越しの3日間の聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中から、改めてキリストの聖体について私たちは祝おうとしています。聖なる過ぎ越しの3日間というのは、復活徹夜祭に至るまで、洗礼、堅信、聖体、ゆるしの秘跡というものが行われます。北一条教会でも多くの人が洗礼を受けたと思います。
この3つの秘跡というのは、キリスト者になるための秘跡ということです。洗礼を受けてキリスト者となり、そしてキリストのからだを受けてキリストに結ばれ、共にキリストのからだを受ける他のキリスト者、私たちの共同体と一致するという、そのような秘跡です。

聖体の秘跡というものは、新たにキリスト者となったことを完成させる秘跡であり、洗礼や堅信を受けるだけでは完成ではありません。聖体の秘跡を受けてそれでキリスト者として完成するのだということです。特に成人の入信式は、復活徹夜祭で洗礼と堅信を受けて、聖体をいただき、その時点でキリスト者としての完成になるのです。これら3つの秘跡の違いは、洗礼と堅信は一度きりですが、聖体の秘跡は何度も受けます。それはこの世で生きている中で、私たちがいつもキリストに強められて歩んでいくことが出来るようにという意味があります。私たちはこの秘跡をいつも受けることができます。日々キリスト者としての信仰を生き続ける私たちは、この秘跡に与る恵みというものをいつも与えられているというように考えることが出来ます。
この聖体の秘跡は、私たちの権利でもありますし、同時にキリスト者としての使命を果たす義務を与える秘跡でもあるということを心に留めておいていただきたいと思います。

イエスが亡くなった後の、最初の使徒たちの共同体というものは、イエスのことばに従って、信者の家に集まって、そしてパンを割いて共に食べ、葡萄酒を杯から飲み、イエスの死を多くの人に告げ知らせるということをしていました。この聖体の秘跡というものが、この二千年後の今でも続けられているということです。
今日の福音書の終わりに、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とのイエスの言葉があります。イエスご自身は、世の終わりに神の国が完成されるときに、亡くなられた全ての人たちと共に、そして私たちと共に、再び救い主イエス・キリストの食卓につくのだということです。その時まで私たちは、ミサの度ごとにイエスの死と復活、昇天を記念し、ご聖体をいただき、イエスの再臨を待ち望むということです。

最近、私はいろいろな教会に行っているのですが、先週は北見教会に行ってまいりました。北見教会でも同じように感謝の祭儀、ミサ聖祭というものが行われています。帯広の教会にも行きましたが、各地の教会によってやはり雰囲気が違います。教区の神父様がいる教会とフランシスコ会の神父様が司牧している教会では違いが感じられます。
この北一条教会でミサをする時いつも感じることは、やはり模範となる教会であるなあという感じがします。ミサ曲の歌い方にしても朗読の仕方にしても、皆さんは全道の教会の模範になるような教会であるように思います。今後も模範となる教会となっていけばいいなと思っています。

主の晩餐を行うということ、それは私たちがミサの中で、イエス・キリストがただ一度きり行われた受難、十字架上の死、そして復活というものを、何回も毎週毎週記念しているということです。私たちがキリストのからだに救われて、そして互いに一致して、歩んでいく、そういう共同体でありたいと思います。キリストのからだを柱とした教会の中で、私たちはそれぞれ様々な役割を持ちながら互いに協力しつつ、一つづつからだを構成している共同体です。そしてイエスが死者の中から復活して栄光のからだとなったように、私たちも死者の中から復活して、主の栄光の姿にあやかるということになります。これまでに教会共同体の中で亡くなられた方々とともに、私たちもいつかキリストが来られる時に、同じ栄光のからだをもって、最終的に神の国の完成を私たちも共にするのだということです。
私たちの希望は、死が全ての終わりではないということです。死をとおして、そしてキリストと共に、神の国の完成を待ち望むのだということです。
これからいただくご聖体は、私たちの命の糧となるものです。この聖体の秘跡をとおして、私たちはキリスト者としての生き方を、死に至るまで深めていくことができるのだということを今日のミサの中で再確認していきたいと思います。
イエス・キリストの残してくださった聖体の神秘に感謝して、今日のミサを続けてまいりたいと思います。』