2019年8月11日日曜日

年間第19主日

この日の主日ミサは、勝谷司教と韓国から訪問中の金山椿(キム・サンチュン)司祭の共同司式でした。


キム神父様はイエズス会所属で、現在、ソウルの西江大学(ソガン大学)哲学科で教鞭をとっておられるそうです。
キム神父様のお説教では、日韓関係が悪化している状況のなか「カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。」というお話がありました。

キム神父様のお説教の大要をご紹介します。

『このような素晴らしいカテドラルで司教様と一緒にミサを捧げられ、そしてお説教までやらせていただきとてもうれしい気持ちです。

今日の第2朗読「ヘブライ人への手紙」に書かれているように、アブラハムは行き先も知らずに出発しました。私も26歳の時、イエズス会がどんなところかわからずに入会して、もう35年が経ちました。また、この札幌教区がどんなところか分からないのに、お盆に実家に帰省する人のように毎年、20年間くらい夏休みに訪れています。昨年、司祭に叙階して25周年を迎え、年も60歳で還暦になっています。昨年本を出しました。タイトルは「私をこえてあなたのうちに」という本でした。このタイトルはアウグスティヌスの「告白録」に書かれている言葉です。告白録の最後には結論として「私をこえて、ここであなたを見つけるでしょう」と書かれています。

神様はいつも働いています。ヨハネ5・17に「わたしの父は、今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」とあります。
イエス様は何の仕事をなさっているのでしょうか? それは、コリント2・5-18に、「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」とあります。イエス様の仕事というのは、人類と神様を和解させること。その和解させるその任務を私たちにも下さったので、私たちもいつも働くということです。
最近、日韓関係が悪化していますが、カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。そういう面で司教様には深く感謝いたします。

人生の中で大切なのは、私たちが何をしたかではなく、それを愛を持ってしたかどうか、ということです。愛を持ってしなかったことは、全て徒労に過ぎません。しかし、愛を持ってしたことは、少なくともその愛は永遠に残ります。例えば何年か前に東京で、韓国の留学生が線路に落ちた酔客を助けようとして命を落としたことがあります。その学生の行為は永遠にその場所に残ると思います。

ある哲学者は「人間が人間に与える一番大きなプレゼントは、対価を求めない純粋な奉仕、その思いである」と言っています。
母親は、何の対価を求めずに自分の子供に奉仕します。
イエス様も同じです。私たちの罪のために、この世のすべての罪を愛を持って贖ってくださいました。そこに愛がなければ何の意味もないただの徒労に過ぎません。
芥川賞をもらった又吉さんの「火花」という小説には、このような言葉があります。「そういう君だけが作れる笑いがある」。私たち信者にも、「私たちだけが行うことができる愛がある」と思います。
日野原重明さんという皆さんもご存知のお医者さんがいます。100歳を超えても現役で頑張っておられました。彼は1970年に「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれました。彼はその事件があってから、自分に言います。「私の命は残っている時間の中にある」ということでした。その大切な時間を、「子供のころは自分のために使うのですが、大人にあっては他人のために使わなければなりません。」と彼は語っていました。他人のために使う時間が多ければ多いほど、天国は近づいてくるということです。

人生は何よりも愛を学ぶ学校でもあります。
この世は、「愛」の小学校だと思います。この世に私たちが送られてきたのは、この「愛」を学ぶためです。修道院のような所は「愛」の中学校か高校ではないかと思います。「愛」の大学とはどこでしょうか?それは、私たちに本当の愛は何かということを教えてくれるところだと思います。これは、マタイ25章に出ています。「牢にいるときに訪ねてくれた」。多分、「愛」の大学は刑務所じゃないかというような気がします。「病気のときに見舞いに来てくれました」、病院も「愛」の大学という気がします。
この世には愛の大学はあちこちにたくさんあるのではと思います。ここを卒業したら天国に直接行けるのではないでしょうか。

私たちのふるい命は、この地上でなくなります。しかし新しい命、それはキリストとともに神の中に託されます。』