2019年9月23日月曜日

年間第25主日「不正な管理人」

この日のみことば(ルカ16・1-13)は当時の時代背景を理解していないと非常に難解です。
神から任されている豊かな富の”無駄使い”を戒められているのでしょうか?


勝谷司教様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音書の箇所は一番解説のしづらい箇所です。何の予備知識もなくこの箇所を読むと何をいっているのか、分からないと思います。「不正な管理人のたとえ」と良く言いますが、まず読む前提として、「不正」という言葉の意味を理解しなければなりません。「聖書と典礼」の脚注にも書いてありますが、けっして犯罪のような不正行為を働くのとは違います。むしろ、不正というのは、まず最初の段階で出てきますが、この男が不正を働いたという言葉ではないのです。この管理人は主人の財産を無駄遣いしている。つまり任せられている主人の財産を浪費している、あるいは適切に扱っていない。無駄にしている。そういうようなことで、報告をしなさいと、問い詰められているわけです。これに対して、やめさせられると感じた管理人は、ここに書いてあるような良く分からないようなことをするのです。主人に対して借りのあるものに対して、それを減らしていく。これ自体がまた不正であると考えるならば、不正に不正を重ねていくような印象を与えているようなわけです。しかし、自分が適切に管理をしていないと厳しい目が向けられている中で、さらにまた同様の不正を働くことは考えづらいことです。

 どうもこのたとえばなしの背景には、当時の私たちには今、知られていない常識がある。背景があると考えられます。その一つとして、今日の解説の中で「書き直せ」という意味は、ひょっとしたら律法で禁じられていた利息分を差し引いた分と考えられる。あるいは、このようなことをするとき、当然得られる手数料として管理人が得ていたものを、あえてそれを取らずに 主人に対する利息分を減らしてあげる。そう考えるならば主人に対しては何の不利益を与えない。むしろこの行為は、正当なやり方で貧しい人たち、借りのある人たちを救うということになるわけです。そして、この管理人が意識しているかどうかは分かりませんが、それこそがまさにこの主人の意に適うことである。貧しい人たちからお金を巻き上げて、暴利をつけて貸し付けるやり方はけっして主人のやり方ではなく、また律法の禁じることでもあったわけです。しかし、当時の常識としてはそれが当たり前として行われていたなかで、それを止めるという行為は、むしろ主人の意に適っていたのではないかというひとつの解釈です。

 私たちはこのようなたとえ話を読むとき、細部にわたって辻褄があっているかどうか検証しがちですが、私たちにとって大切なことは、このたとえ話が何を意味しているのか、そのメッセージを受け取ることです。そう考えるならば、ここで言われている不正な富の一部で友達を作れとその一語に尽きるのですが。その不正な富の意味ですね。これもまた今日の解説の中に書いてありますが、不正にまみれた富、直訳は不正なマンモンであるが、さきほど言ったような犯罪や不正な手段で得た富という意味ではなく、この世の富、この世の汚れにまみれた富と言えるのである。これは共通した解釈したようです。

 そう考えていくならば、これは個人的な意味で神に仕えているのか、そうではないのか。というよりも、もっと広い意味で現代社会で生きている私たちは捉えなければならないと思います。神から任されている豊かな富。それを無駄遣いしている。という言葉ですぐ思い浮かぶのは教皇様が「ダウダート・シ」で言っているこの環境。私たちが神様から頂いているこの世界、美しい自然を浪費し、そしてそれを汚している。あるいは、神から与えられている知識を用いて世界を破壊するような兵器を生み出している。それを用いようとしている
  そういうことも今日の福音書のテーマから導き出すことが出来る、むしろ現代的なメッセージではないかと思います。私たちは今日の福音のメッセージを個人に向けられているものであると受け止めるばかりではなく、この世界に生きている私たちひとり一人に問われているあり方。それが今日のメッセージであるというふうに捉える必要もあるのではないでしょうか。』

午後からは、札幌地区の共同墓参が行われました。
白石墓地では、司教と司祭団の司式によりお祈りを捧げました。