2019年11月17日日曜日

年間第33主日

典礼は先週から「終末主日」と呼ばれる期間に入っています。
終末という言葉には文字通り「終わり」という意味と、「目的地」つまり、神の創造の完成という意味があります。
昨年の待降節から始まった教会暦年がもうすぐ終わります。この一年の神様の恵みを振り返ってみましょう。

この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書と典礼の下の注釈に「イエスの宣教活動の結びにあたる終末についての説教」とあります。 終末というと、いま映画で上映している「ターミネーター:ニュー・フェイト」のような世界を思い浮かべるかもしれません。 また、世界の全面戦争ののちの絶望的な破壊というようなイメージがあります。 確かに今日の福音書に描かれる世界はそのようにも思えます。
「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」 戦争や民族紛争、大地震、飢饉、疫病などは今の時代でも同じく続いています。 だからといってまだ世の終わりが来たということではありません。 キリスト教で言う世の終わりはすべての者が滅びる時ではなく、イエスの再臨の時を言います。

天地の創造があって人間の旅路が始まりました。 神は人間を導いていきました。
ある程度その導きに応えていましたが、姿の見えない神に対して自分たちのやりたいことをするようになり神から離れていきました。 選ばれた民であるイスラエル民族は、そのたびにひどい仕打ちを周りの民族から受けてきました。 神は、イエスを人間の姿で人々の間に住まわせて人々を救おうとしました。 イエスは人々の間で神の国の教えを弟子たちに伝えていきました。 イエスはファリサイ派や律法学者の陰謀によって十字架につけられました。 死んで3日目に復活し弟子たちの間に現れ、死んでも新しい命に生まれ変わることを示されました。 40日目に聖霊の派遣を約束して天に昇っていきました。 50日目に祈っている弟子たちに聖霊が派遣されました。 聖霊の派遣ののち、弟子たちは聖霊に促され大胆にイエス・キリストを証しするようになりました。 わたしたちもこの弟子たちのようにイエス・キリストを証ししています。 聖霊を受けてイエスと共に歩むことになったわたしたちはこの世の中で神の国の実現のために働きます。 そしてイエス・キリストの再臨の時に世が終わり、神の創造が完成するのです。 この創造の完成に向かってわたしたちは生きているのです。

終末という言葉は「終わり」という意味ですが「目的地」という意味もあります。 この世がいつまでもだらだら続くということではなく、必ず目的地である神の創造の完成があるということ、キリストの再臨があるということをわたしたちは信じて生きていくのです。 その目的地に向かってどのように生きていくのかということが問題となるのです。 それは世の終わりだけでなく、個人個人の人生の終わりにも同じように言えるものです。
死が必ず訪れるものだということを意識していると生き方も根本的に変わるのです。
もし死ななかったとしたら、どうでしょう。 死なないなら働かなくてもいいし、朝起きなくてもいいし、食べなくてもいい。 何もしなくても死なないわけですから。 しかしそれは死んだのと同じです。 死が必ず訪れるからこそしっかりと生きるという意識が芽生えます。 今日のパウロの手紙に示されたようにしっかり生きなさいということです。

キリスト教における終末、目的地は「最後の審判」とも呼ばれます。 そのとき神の国が完成します。 最後の審判の前に個人個人の死においても同じように審判が下ります。 聖書にはいわゆる天国と地獄の記述があります。 煉獄の記述は聖書にはありませんが、カトリック教会はそこで神に向かう人は清めを受けると考えています。 天国にすぐ行けるほどの善い人生は送らなかった人、しかし善意はまだ持っている人が行く場所です。 そこで償いをしながら天国に入る準備をすることになります。 その償いはどういうものかというと、自分が地上で他人に与えた苦しみが痛切にわかるということです。 どんなに善良な人でも自分が他人にしてきた仕打ちのひどさが本当にはわかっていないでしょう。 わたしもまったくわかっていないと思います。 煉獄ではそれが身を切るようにわかるのです。 それがはっきりと自分の前に示されることによって心から悔い改めることができるのです。 それと同時にその人は神を求めているわけですから、天国の景色もはっきりと見えていることでしょう。 しかし、悔い改めが終わらないとどうしてもそこに行けないわけです。 どうしてもそこに行きたいというその痛切な思いも煉獄の痛みとなるわけです。 今この世で生きているわたしたちは、煉獄の霊魂のためにも祈っています。 少しでも早く天国に行けるようにと祈ります。 この煉獄の死者への思いはわたしたちの地上の生活を潤いのあるものにします。 わたしたちが祈り、犠牲を払い、よい振る舞いをすることは、わたしたちの愛する死者を早く天国に移す助けになるからです。 亡くなった方々もわたしたちのそのような祈りを聞いて感謝するでしょうし、自分の子や孫が善い人生を送ろうとしているのを見てうれしく思うのではないでしょうか。』