2020年1月22日水曜日

年間第2主日

この日は、先週フィリピン・エクスポージャーから帰国された勝谷司教司式の主日ミサでした。


お説教では、キリストを証するために、私たちに出来ることがあるはずです。というメッセージをいただきました。

お説教の大要をご紹介します。

『先週の木曜日、高校生を連れてフィリピン・エクスポージャーから帰ってまいりました。
今年も感動的な出来事があって、皆、涙を持って別れを惜しんで帰国しました。
帰路、私は高校生とは別な便を使ったのですが、大変な思いをしました。というのもご存知の方もおられるとおり、マニラのすぐ南にある火山が爆発して今大変な被害をもたらしています。
ちょうど私が出発する前の日に噴火があり、その当日はほぼマニラ空港が閉鎖されている状況でした。私が乗る便は、午後最初の12:45分 ダバオ発マニラ行きの便だったわけですが、午前中の便は全てキャンセル、他の航空会社の便は終日全便キャンセルでした。
私はその日、マニラを経由して日本に帰る予定だったのですが、それに乗れなければ乗継便がないという状況でした。恐らくキャンセルになるだろうということを見越して、ネットで八方手を尽くし、ようやく香港経由の帰りの便の”空き”が見つかり、あとはボタンを押せば購入完了というところまで漕ぎ着けました。
ところが、なかなかマニラ行きの便のキャンセルが点かず、定刻発の表示のままなのです。キャンセル扱いにならないと、購入済みの航空券は全て棄てることになってしまうので、直前まで待っていました。そして、いつまでもキャンセルにならなかったので、とうとうチェックインしましたが、その後、延々と何の情報もないまま4時間待たされました。よくフィリピンの航空会社がやるのは、散々待たせた挙句にキャンセルということがあるので、どきどきしながら待っていました。
最終的には4時間遅れで飛んだのですが、それ以降の便はキャンセルになっていました。その日、ダバオからマニラに飛べた便はわずか2便のみで、それに運よく乗ることができたわけです。到着したマニラ空港でも人々がごった返している状況でしたが、その日のうちに何とか成田空港まで帰ることができました。しかし、成田に着いたのは真夜中で着いてからホテルを探さなければならない、また、次の日の成田から千歳までの便も満席で乗れるかどうか分からないという状況であり、不安でいっぱいでした。
一番大変だったのは、先が見えない、この後どうなるか分からない、そして何の情報もない、ということでした。そのようなことが如何にストレスと不安をもたらすということをつくづく感じさせられました。
結果的には、一日遅れにはなりましたが、比較的順調に帰ってくることができたわけです。ただ、司教館に帰って来た翌日、一日遅く帰ってきたということに対して皆の反応が薄く、「何かあったのですか?」という言葉に二重のショックを受けました(笑)。
フィリピンでは噴火によって大変な騒ぎになっているのですが、日本ではほとんど報道されておらず、皆さんの中にも知らない人がいるのではないかと思います。
このように、マスコミがどのようなニュースを流すのかということによって、私たちは近くの国で起こっている大災害についても全く知らないでいることがあるのだということを感じました。
これ以前にも、1998年に私は一年間ヨーロッパにいたのですが、その3年前に起こっていた阪神淡路大震災の話をしても知らない人がほとんどでした。あのような大災害のことをヨーロッパの人が知らないということに大変驚きました。

このように私たちが受け取る情報というものは、マスコミがどのように扱うかによって、大きく左右されてしまうということです。ただ、今私たちはマスコミに頼らずともネットをとおして様々な情報にアクセスし知ることが出来るような環境にあります。しかし、まだ多くのマスコミが恣意的な情報を流すならば、私たちは操作されてしまうという危険性や、あるいは何も知らずに置かれるのだという危険性も今回の出来事をとおして感じています。

では、私たちはどんな情報を外に向かって流しているのか、そのことも考えてみなければならないということも感じています。
今日の福音書を見ると、ヨハネはこの当時マスメディアというものが無かったので、個人の証でしか伝達する術はなかったのですが、ヨハネが指し示したのは、言うまでもなくイエス様ご自身です。ヨハネはこの証を自分に与えられた啓示をとおして行ったわけです。しかし、ヨハネが期待していたメシア像はこの世の悪を駆逐する正義の神の登場、すなわち理不尽に国を支配しているローマ帝国を追い払い、そしてまた人々を苦しめている悪徳商人や為政者、彼らに裁きが下される、そのようなことを期待していたはずです。
しかし、どうも自分の予想していたメシアと違うと感じた時に、ヨハネは獄中から弟子を派遣し、こう問わせました。「来るべき方はあなたですか?他の方を待つべきですか?」ここにヨハネの戸惑いを見て取れるわけです。その時イエス様がおっしゃられたことは、「目が見えない人の目は開き、足の不自由な人は歩けるようになる。そして死者は生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされる」。
イエス様にとって自分がメシアであるという証は、このような奇跡的な行いを意味するのではなく、社会から疎外され追いやられている人たちに福音が告げ知らされている、その人たちに神の愛が告げ知らされ、その人たちがまた人間社会へと復帰し、その中で人間らしい生き方を取り戻していく、それこそがイエスがメシアであることを指し示す”しるし”であるということです。
そして今、ヨハネのように私たちは、このキリストを指し示すように、その試練を託されています。では私たちはどのようにこのキリストを指し示すのか? 聖書から読み取れることは「2人3人、わたしの名によって集まるところには、わたしはいる」、そして互いに愛し合う時そこに神の存在が証されていく。
私たちは一人の努力によってではなく、共同体の中に、共同体をとおして、存在するイエスを証しなければならない、そのように召されていると考えなければならないでしょう。そして、共同体がなすべき証は何かというと、自分たちが内向きになって、ただ自分たちの閉ざされた環境の中で自分たちの救いだけに関心を向けるような共同体でないことは確かです。
むしろ社会に向かって、何を証するのか、それは言うまでもなくイエス様が行った活動です。社会から疎外されいる人たちに寄り添って彼らの声を代弁していくものとなる、
それを通して私たちはイエスを証することになるわけです。
それでは、札幌教区はどうなのかということですが、ベトナムの技能実習生の支援など最近いろいろな形で慈善活動が行われマスコミでも取り上げられています。
カトリックの名前は出てきませんが、私たちはそうのような人たちを支援する活動をとおして、そのような人たちの存在を社会に指し示して、そして人々の良心に訴えかけていく、これも大切な役割だと思います。
私たちは、この共同体として何ができるのか、内向きに教会行事の話だけではなく、今、身の周りの日本の社会をよく見た時に、何か自分たちに出来ること、関わることが出来ることが必ずあるはずです。そういうところに目を向け、心のアンテナを拡げながら、そこにキリストを指し示す証の活動を、私たちはしていくように召されているということを、改めて考えていただきたいと思います。』