2021年1月2日土曜日

1月1日(金)神の母聖マリア



明けましておめでとうございます。新しい年が神の恵みに満ちあふれた一年となりますように。元旦ミサを司式されました勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『今日の福音書を読みますと、キリストの誕生のお告げを受けた羊飼いたちは、すぐさまこの救い主をさがしに出かけていきました。この救い主の誕生のお告げを受けた人々の反応は、聖書によるとふたつに分かれています。3人の博士と羊飼いたち、そしてヘロデ王です。羊飼いたちはこのお告げに従って 救い主を飼い葉桶の中に見いだします。およそ救い主が生まれる場所としては考えられない家畜といっしょに、もっとも不衛生な、もっとも汚い、当時であったとして考えうるもっとも悲惨な場所にお生まれになり、救い主をそこに発見するわけです。3人の博士たちは救い主であるから当然、王宮で生まれたと思い、まずまっさきに王宮へ行くのです。しかし、そこでは会えない。そして星の導きに従い、馬小屋で生まれた救い主を発見します。しかし同様に、救い主の誕生を告げられたヘロデ王はそれを聞いて不安に思うのです。そして何とか救い主を抹殺しようとするのです。

 今、現在、救い主はどこにお生まれになっているのか。このことを考えるならば、このもっとも象徴的な場所にお生まれになった。現代社会の中でいえば、もっとも傷つき、 苦しみ阻害され、人々の中から排除されている人。そういう人のなかに救い主がお生まれになり、そこに聖家族、その中心としてマリア様が、そういう人たちへの配慮するものとして、その希望の印として存在しています。そういうふうに言えると思います。

 このコロナ感染症によって、世界の自由な人々の心の中があぶりださせるような感じがしています。自分の身を守るとする者。自分さえ良ければとそのような行動に走る人。あるいは多くの苦しむの人の存在を知りながら無関心を貫いている人。自分のことだけ考える。そういう人たちに対して教皇フランシスコは、コロナウイルスよりももっと恐いウイルス…それは「無関心」。自分さえ良ければ良いという考え。これが今、全世界に急速に広まっていることを懸念されています。。

 しかし、私たちは多くの人たちが連帯し、この問題に立ち向かっていくために、そして多くの困難に追い込まれている人たちに対して、何とか支え合って生きていこうとする、そういう人間の美しい力強い側面も何度か見せられています。

 今日、教皇様は平和の日メッセージとして新型コロナウイルスについて発信しています。

その中にあって教皇様が提案しているのは、「ケアの文化」。これは仮の中央協議会の訳したものですが、「ケア」を使います。注意とか関心とかそういう意味です。しかし、この文章全体をみると、これはわたしの異訳ですが、ケアを日本語で「いたわり」と訳すのが一番適切だと感じています。

 この美しい日本語の中に、教皇様が言われているのはすべて集約されているような気がします。互いにいたわり合うという文化は、キリスト教の最も本質的な部分にあたるもので、教皇様はこのメッセージの中で、旧約聖書に始まりずっと聖書を紐解き、現在社会における状況、特にコロナウイルスに関連する部分もそうですが、さらに今日は平和の日ですから、世界平和をいかに憐れみあうではなく、むしろ分裂し殺し合うような武器の製造、そのしくみのための膨大なお金が使われている。特に核兵器の開発に関して、教皇様は 強い懸念のメッセージを発しておられます。武器より地球上にあって 助けを必要としている人たちにお金を回すならば、どれだけ支えが実現していくか。

  今日の教皇様のメッセージの導入の部分があります。

『愛と連帯の数多くのあかしの傍らで、悲しいことに、さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していることを、残念ながら認めざるをえません。

 この一年の間に人類の歩みに刻まれたこうした出来事は、兄弟愛に満ちた関係に基づいた社会を築くには、互いをケアし、被造物を大切にすることが、いかに重要であるかを教えてくれます。ですから、このメッセージのテーマを「平和への道のりとしてのケアの文化」としました。今日、はびこっている無関心の文化、使い捨ての文化、対立の文化に打ち勝つための、ケアの文化です。』

 当然、先ほども言ったように、地球環境もに強い関心を持っておられます。そしてこの新型コロナに関しては、

『このパンデミックに直面して、「わたしたちは自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。皆弱く、先が見えずにいても、だれもが大切で必要な存在なのだと。皆でともに舟を漕ぐよう求められてい」るのだと。なぜなら、「自分の力だけで自分を救うことはでき」ず、孤立している国は自国民の共通善を確保できないからです。』

 今回の世界のパンデミックは、すべての準備、すべてが同じ運命共同体であることが意識させられました。わたしも年頭書簡の中にに書きましたが、どんな立場の人に区別することなく襲いかかってくるこのウイルスは、私たちが個人で立ち向かうことは不可能。私たちが社会として、国としてあるいは人類として共通の目的と連帯で取り組んでいかなければ、絶対に克服出来ないものである。そういう現実を私たちに突きつけています。

 そんななかにあっても、この世が優先され、貧しい人たちが後回しにされる、それが現実です。これは私たちキリスト者たちにとっても看過できない現実として、声を上げなければならない、神様から与えられているのではないかと思います。

 しかし日本の国内でいうならば 、このクリスマスや年末年始の日本人が最も幸せと感じる季節。その季節だからこそ孤独を感じている人たちがたくさんいる現実も報告されています。民間調査機関によると、日本人の3人に1人はこの季節を特別に楽しみだとは思っていない。みんなが浮かれているような季節ですが、3人に1人は期待していない。

 これは例年行われている調査ですが、1万4千人を対象にした調査ですが、36.3%が関心がない。この背景の分析は説明されていませんが、この数字から見えてくるものとして私が感じるのは、男女とも年齢を重ねるごとに楽しみの割合が減っている。多分、このアンケートに答えてくれた人たちは、クリスマスや年末年始が自分を幸せにさせてくれるかどうかという観点で考えているのだと思います。しかし、自分の現状をみるならば、そういった楽しみや喜びを分かち合う人が回りにいない、と感じている人たちが多くいるのではとわたしは感じています。

 今回のコロナ感染症によって多くの人たちが人間的なふれあいから遠ざけられている。わたしも年末にコロナに汚染されているわけでないが、訪問しようと思ったが一切の面会はできません。親友でも家族であってもだめ。病院もそうですが、老人福祉施設もそうです。一部には時間的制限を設けたり、今この時期は何とか会ってもらおうと工夫している施設もあるようですが、ほとんどの人たちが家族と会えるのを許されず、ベットで一人孤独でいるのが現実です。

 イエスはそういう人たちと共に、馬小屋でお生まれになられました。世界中の人からみるならば、日本は経済的な豊かな国であると羨ましがられながら、私たちは生きているはずですが、しかし実は日本の家庭ではこの関わりやぬくもりが欠如して、いっしょにいてももがき苦しんでいる人もたくさんいます。なかには頼る人は誰もいない。コロナ禍で同じように苦しんでいる人もたくさんいます。

 聖家族の中心である母マリアの愛、こういう人たちも含めて全人類に受けいれられている慈しみのまなざしです。そしてそのまなざしを受けて、その愛を地上で体現していくように、招かれているのは私たちしかいません。教皇様は平和メッセージの最後にこのように述べられています。

「わたしたちキリスト者はつねに、海の星、希望の母であるおとめマリアを見つめなければなりません。愛と平和、兄弟愛と連帯、助け合いと相互受容の新たな地平にむけて進むために、皆で協力しましょう。他の人々、とりわけもっとも弱い立場にある人に対して無関心でいようとする誘惑に負けないようにしましょう。目を背けるのに慣れないようにしましょう。そうではなく、「互いを受け入れ、互いをケアする兄弟姉妹から成る共同体を築く」ために、具体的な努力を日々、重ねていきましょう。」

 先ほどのアンケート調査に加えていうならば、今私たちが問われているのは、この時季にわたしを幸福な気持ちにさせてくれるかどうか、この時季がわたしたちを幸福な気持ちにさせてくれるかどうかではなくて、わたしがだれを幸福な気持ちにさせることが出来るか、問われている。このことを深く心に留めていきたいと思います。』