2023年1月4日水曜日

1月8日 主の公現

レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


主の公現 - マタイによる福音書2章1-12節 2023年1月8日

「公現」とは「現れる」ということを意味します。「主の公現」とは、イエスが3人の占星術の学者の前に現れただけではなく、象徴的に全世界に救い主が本当に現れたということなのです。この学者たちはユダヤの国ではない外国から旅し、イエスが全ての人びとのために来て、イエスを礼拝するようにと呼ばれているのを現わしているのです。

これらの学者は星を学んだ「賢者」であり救い主がやって来るというユダヤ人の考えを知っており当時の知恵にたいへん精通してましたからそのメシア信仰に興味を持っていたことでしょう。

神はキリストへの礼拝に招くために学者たちがよく知っているもの、星を用いました。彼らは星をよく理解しており、この新しく珍しい星をベツレヘムの上に見た時、なにか特別なことが起こるのだと気づきました。ですからここで私たちが学ぶことは、神はご自身に私たちを呼ばれるとき、私たちが見慣れているものを用いられるということです。神さまがあなたを呼ぶ時に使われる「星」を見つけましょう。案外近くにあるものです。

次に注目するのは、賢者たちは救い主である幼子の前でひれ伏したということです。身を投げ完全に降伏した形で礼拝し、私たちに完璧な模範をしました。この外国からの占星学者たちがこのように深遠な方法でキリストを礼拝しに来ることができたのですから、私たちも同じようにすべきです。文字通りこの日、祈るときに占星学者たちをまねてひれ伏したり、少なくとも祈る間心の中でそのようにしてみませんか。あなた自身を完全にゆだね礼拝しましょう。

最後になりますが、賢人たちは黄金、乳香、没薬を携えてきました。私たちの主へのこの3つの贈り物は、この幼子が罪から私たちを救うために死んでいく聖なる王であると彼らが認めたことを表しています。黄金は王のため、乳香は神にささげる生贄のために、そして没薬は死者に使われます。このようにして彼らの礼拝はこの子が誰であるかという真実に基づいています。私たちが正しくキリストを礼拝しようとするには、この3つの方法で讃えるべきです。

今日はこの賢者たちのことを黙想し、あなた方の模範の象徴として見ましょう。あなた方はこの世界の知らないところから救世主を探すようにと呼ばれています。あなたをみもとに招くために神さまは何を使われているでしょう? 神さまを見つけた時には、ひれ伏して謙虚に従い、彼が誰かという真実を全てためらわずに認めましょう。



【聖書朗読】


すべての民の光である父よ、

   あなたはこの日、

   星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。

   信仰の光によって歩むわたしたちを、

   あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 60章1~6節


起きよ、光を放て。

あなたを照らす光は昇り

主の栄光はあなたの上に輝く。


見よ、闇は地を覆い

暗黒が国々を包んでいる。

しかし、あなたの上には主が輝き出で

主の栄光があなたの上に現れる。


国々はあなたを照らす光に向かい

王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。


目を上げて、見渡すがよい。

みな集い、あなたのもとに来る。

息子たちは遠くから

娘たちは抱かれて、進んで来る。


そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き

おののきつつも心は晴れやかになる。

海からの宝があなたに送られ

国々の富はあなたのもとに集まる。


らくだの大群

ミディアンとエファの若いらくだが

あなたのもとに押し寄せる。

シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。

こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節


あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、

あなたがたは聞いたにちがいありません。


秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。


この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、

今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。


すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、

約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、

同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。



福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節


イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。

そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」


これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。

エルサレムの人々も皆、同様であった。


王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、

メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。

「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。


『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」


そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、

星の現れた時期を確かめた。


そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。

わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。


彼らが王の言葉を聞いて出かけると、

東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。


家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。

彼らはひれ伏して幼子を拝み、

宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。


ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、

別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


2023年1月3日火曜日

1月1日 神の母聖マリア

 新年明けましておめでとうございます。

元旦ミサを司式されました勝谷司教様のミサ説教の内容を書き起こしましたのでご紹介します。



【勝谷司教様 元旦ミサお説教】

今日の福音書に出てくる羊飼いたち。また様々な出来事を体験し思い巡らすマリア。これらの言葉は非常に象徴的な意味を持っています。まず何よりもこの羊飼いの告げられたこと、救い主がお生まれになったというメッセージ。他の誰にも示されず、その羊飼いたちに示されたということは何を意味してるのか。私たちは現代的に考えれば、特にこの羊飼いという人たちが差別された人たちとは思わないかもしれません。しかし、当時の常識から言うと徴税人や娼婦と同様、羊飼いというのは忌み嫌われる人たち、決して救いの対象になると考えられていない人たちです。その彼らに救いの誕生が告げられ、真っ先にこの救い主を探し出したのは彼らであるということは、私たちにとっても非常に象徴的な意味を与えていると思います。

 そしてまた、マリア自身神の子を宿すということから始まり、その後のマリアの生活というものは苦難に満ちたもの、苦難の連続でした。神の子を宿すというので神から守られ順風満帆な生活を歩んでいくことができるのかと思うと、そうではなくこの世のいわゆる闇と言われるような力がいっしんに迫ってくる。その中で翻弄され、逃げ惑うような生活に追い込まれていくわけです。人口調査のために身重でありながら長い旅に出かけざるをえなかったこともそうですし、また出産の時に宿が全く見つからない、誰も助けてくれない。この家畜小屋を見つけたというのは、いよいよもうどうしようもなくなった。もう最後の最後の選択であったに違いないわけです。そのような困難の中で、この非衛生的で非常に臭い家畜小屋で子供を産まざるを得なかった、そしてその家畜が餌にする藁やその飼い葉桶で寝かせざるを得なかった。

 私たちはクリスマスということを考えると、とてもロマンチックなイメージでその馬小屋のシーンを眺めますけれども、現実で考えるならばそのようなとてもとても悲惨な状態だったわけです。その後のことを考えても、このヘロデの迫害を逃れてエジプトに難民として逃避行をせざるを得なかった。この苦難の連続の中でもあれ、一体その苦しみに何の意味があるのか。神の御旨に対してこの不平を述べたということは、聖書は一言も書いておりません。むしろそれらに全て心に留め思い巡らせていた、いま自分にとっては意味が分からない、この厳しい現実が襲いかかってくる苦難、必ずそこにおいて神の助けがある。そして、それを通してそれを意味あるものとして、必ず導いてくださる。これがマリアの中にあった強い確信ではないかと思います。

 では、今は現実の世界の中で生きている私たちの事を考えてみるならば、同様に私たちの生活に襲いかかってくる様々な苦難、代表的なものを言えば特にこのパンデミック19と言われる新型コロナ感染症、そしてその中で翻弄されている最中に起こった世界の戦争の闇。これらは一体何がどういう意味があるのか。なぜ人類が克服したと思ったようなこのような形態の戦争が、今この現実に起こっているのか。私たちは全く理解できないまま、その中で翻弄されているわけです。

 教皇様は今日、「世界平和の日メッセージ」を全世界に向かって発表なさいました。その中で書かれていることは、特にこのパンデミックがもたらしたもの、というのは社会構造や経済構造の最も弱い部分、打撃を与え底辺にいる方は特にその影響を顕著に受けている。弱者や困窮者、いろんな意味でそのことは言えるんですけれども、私自身も個人的に感じたことです。十分注意したつもりでありながら、昨年コロナにかかってしまいました。でもその時、ちょうどお盆でした。ちょうど七波がピークを越えた時期で、保健所も対応に追われ、発熱センター含めそこに私たちを紹介してくれる安心サポートセンター、そこに電話をして、発熱外来に行って PCR 検査をしてくるように調整をされるんですけれども、その最初の入口であるこのサポートセンターに全く繋がらない。何度電話しても全然繋がらない中で、39度の高熱で3日間どこにも連絡が取れないまま、ただ一人寝てるしかないという状況だった。お盆で事務局もお休みでして、その中でネットを通してその登録をすることができますと言うんですけれども、その前に簡易検査キットであっても陽性反応を示すことが必要なのです。施設にある学園法人がたくさんの抗原検査キットを用意してましたけれども、陰性しか出なかったのです。陽性にならなければネットで登録することはできないので、ただ一人で3日間寝続けるしかない状態だったわけです。

 たまたま一家そろってコロナにかかった私の親戚が、札幌市から支給された抗原検査キットがあったので持ってきてもらって、それで検査したところ陽性が出たのです。陽性が出れば確実に感染しているということで、そのために登録をネットを通してしなければならなかったんです。

 その時、つくづく思ったんですけれども、私自身は弱者ではないにも関わらず、状況によってはそのようになり得る。もし自分の中にこのネットにアクセスするスキルがなければ全くのお手上げ状態。もし周りに助けてくれる人がいない独居老人であれば、ネットにアクセスできない人は死ぬしかないと私は本当にそう思いました。そういうセーフティネットという仕組みがあの時なければ、私が八方手を尽くし探しても全く入られなかったのですから、一般の人であるならば絶対不可能だということを感じます。そういった意味では人ごとではなく、社会的に弱い立場に置かれている人は、どういう状態になってしまうのか。私は三日間でしたけれども、それ事態非常に不安であり、心細い思いをしていました。でも、私以上に不安の中におかれる方が、特にこの札幌ではたくさんおられると私は感じました。

 そういった意味で、また別な形でもっと様々なそのシステムの狭間に置かれて苦しんでいる人たちがたくさんいますけれども、なかなか私たちの目には見えない、あるいはそういう人たちがいることはわかっていても、他人事のように感じてしまう。私自身がそういう体験しなければ、そういうこととして感じることはなかったと私も思います。けれども、そういった意味ではもっと心のめいや感度を高めて、私たちはまわりを眺めなければならないのではないかということをつくづく感じさせられました。

 その中で教皇様がおっしゃっているのは、私たちは一人で救われるのではないということ、このコロナ禍を克服して行く時にそこに書いてあることは、「ともにという言葉を改めて中心に据えるよう、このコビット19の経験から、全ての人、民族、国家に訴える強い意識が芽生えました。平和を築き正義を守り普通な出来事を乗り越えるにはまさしく共にあること。兄弟愛と連帯のあること、それが必要なのです。事実パンデミックに最大の効果を発揮した対応は難局に対応するために社会集団公的機関と企業国際機関がここの利害をわきにおいて一致団結したことでした。兄弟的で私欲のない愛から生まれる平和だけが個人の社会、世界の危機を克服できるのです。私たちがこの兄弟愛をもって連帯するようにという強い訴えかけです。しかし、このコロナのウイルス、まだ私たちは3年間の戦いを通して、それなら今言ったような様々な負の側面を経験しながらも、何かそこから希望を見出すような、新しい人類の方向性を見いだせるような、そういった指針というものを得ることができるような希望が持てます。

 しかし、教皇様は続けます。コビット19のワクチンは開発されましたが、戦争終結のための有効な解決策はまだ見つかっていません。戦争のウィルスは生体を犯すウイルスよりも克服が困難です。それは戦争が人間の外から来るのではなく、罪によって腐敗した人間の心の中から生じるものだからです。今このように述べながら、私たちは先ほど言ったように個人や国家の利益ではなくて、共通善に照らして共同体意識を持って、愛に知らされたものとなり、そしてこの世界に立ち向かっていかなければならないことを強く訴えています。このように現実の社会の中では克服困難と思えるような出来事が次々と起こって、私たちに襲いかかってきますけれども、しかし私たち信仰者はその中にあって常に一人で戦っているのではない、教皇様の言うように連帯して、共に兄弟愛を持って支え合いながら進んでいる時に、必ず希望を見出すことができる。そして、今までと違ったあの地平の上から新しい世界を眺めることができる。このコロナ禍を克服した後、教皇様が最初に言われていたことですけれども、昔に戻るということを意味するのではない、必ずそれを超えた時に新しいやり方、私たちは新しくなって新しい自分たちのあり方を見出していかなければならない、それを今、私たちはそれをするように求められているということを強く言われています。

 札幌教区の現状についても少し触れたいなとは思ってましたけれども、ちょっと長い話になるので、おさめておきますけれども、今年の「年頭司牧書簡」もシノドスをテーマとしたことを書いていて、札幌教区の宣教司牧のプランについては何も書かれていません。しかし、皆さんご存知のように司祭の高齢化が非常に進み、宣教司牧が非常に困難な状況になっています。どうしても司牧というものが頭に浮かぶのですが、どんなに司祭が少なくなっても、どんなに教会が高齢化の波が押し寄せて来ても、まず私たちが据えなければならないのは宣教の視点だと思います。

 昨年の年頭司牧書簡にも書きましたが、キリシタン時代はまさに教会に司祭がいなかった時期に逆に教勢が増していったのです。信者の数は迫害後にピークになるのです。誰が宣教をしたのか。信徒たちです。その時にあの困難な生活の中で強い共同体を作り、確かにそれは地下に潜った人もたくさんありましたけれども、しかし共に互いに支え合うという強い共同体の中から、どんどんその教勢を増していたという現実があります。困難な現実の中においてこそ、何か違う神の力が働き、それを実現していく信徒の力によるものでした。

 先ほど香部屋で冗談めいて話していたんですけれども、私は夏に黙想会に行った時に、ある鍾乳洞にちょっと訪問して、そこにたくさん小さな石があったのです。綺麗な石だったのですが、これを子供が侍者をやった時にいつもご褒美を何か渡していたんですけれども、何もなくなったのでそんな時たくさんその石を仕入れました。そして、それを今も持って歩いてます。ずいぶんたくさんの地方の教会を歩きましたけれども、ちっとも減っていません。つまりもう子供が侍者をやっている教会はないのです。頭の白い、ちょっと薄くなっちゃって…。それが現実で、帯広の地区では一人も司祭がいないという状況が続き、今も臨時の対応でなんとか保っています。

 そんな中で厳しい現実が押し寄せてくる中で、しかしこれは何かそれの中で工夫して、そういう状況であるからこそ、私たちはそれに対応していくために、新しいあり方や活性化の種となっているのではないかと私は期待しています。

 そういった意味ではこの困難な状況、望ましくない状況ではありますけれども、しかし必ずこの状況を通して神がどこかに私たちを導いてくださるに違いない。今日の福音の中のマリアのようにその意味は未だわからないけれども、しかしそれに神の御旨として受けとめ、心に留めておく、それが私たちにとって大切な今の姿勢ではないかと思います。

 心の中にとめ、思い巡らし、そしてその中で意味を見出して、将来への道すじを踏み出して、その恵みを求めながらこのミサを続けていきたいと思います。


【聖書朗読】


いのちの源である神よ、

   あなたはおとめマリアを御子の母として選び、

   救い主を人類に与えてくださいました。

   聖母を通して御子キリストを迎えるわたしたちに、

   救いの喜びを味わわせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 民数記 6章22~27節


主はモーセに仰せになった。


アロンとその子らに言いなさい。

あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、

次のように言いなさい。


主があなたを祝福し、あなたを守られるように。


主が御顔を向けてあなたを照らし

あなたに恵みを与えられるように。


主が御顔をあなたに向けて

あなたに平安を賜るように。


彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、

わたしは彼らを祝福するであろう。



第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4章4~7節


しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、

しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。


それは、律法の支配下にある者を贖い出して、

わたしたちを神の子となさるためでした。


あなたがたが子であることは、

神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、

わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。


ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。

子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。



福音朗読 ルカによる福音書 2章16~21節


そして急いで行って、

マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。


その光景を見て、

羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。


聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。


しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、

思い巡らしていた。


羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、

神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


八日たって割礼の日を迎えたとき、

幼子はイエスと名付けられた。

これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。



2022年12月24日土曜日

12月25日 主の降誕

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 主の降誕(日中) A年 2022年12月25日 ウルバン神父


“飼い葉桶に寝かせた”


静かな暗い夜でした。冷たい風が吹いている。ほら、野原で何か動いているのではないか。旅する人の姿が見えてきた。ロバも、手綱を持って歩いている人もすごく疲れているようです。ロバの上に冷たい風に震えている若い女の人が座って、自分の服を固く体に巻いている。お腹の中の子を温めようとしているのではなか。男が振り向いて、“ミリジャム、あと少しだよ。見て、ベツレヘムの光が見えてきたよ。もう直ぐ暖かい所で休めるんだよ”と。長い、長い旅でした。ロバもチョコチョコ進み、男の人も疲れて、足を引きずりながら、一歩、また一歩進んでいた。だんだんベツレヘムの家の影が見えてきました。“ミリジャム、大丈夫ですか。着いたんだよ。今は安心だよ”。“はぁぁぁ”と深いため息が聞こえた。

“彼は自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった”との悲しい体験は、まだ二人を待っていた。安心して、期待する心を持って、ヨセフは最初のドアをノックした。“旅人です。泊めていただけないでしょうか”。断られました。次の門、また次の門をたたいたが、どこも受け入れてくれなかった。“もう夜中だ”と怒った人もいて、“迷惑をかけるな”と叫んだ人、“混んでいるよ、もう場所がない”と、優しく断った人、マリアの状態を見て、急いで門を閉じた人もいた。

二人の悲しみと失望を心の中で感じるでしょうか。私たちがよく元気な声で歌うのは、“門よ、開け、永遠の王が入る”だが、今夜はどこの門も開かれなかった。二人は自分の町の人に無視され、捨てられて、暗い夜に立っていた。ホームレスの孤独を体験した事があるでしょうか。二人は夜の深い沈黙に包まれ、互いを悲しそうに見つめあった。どうすれば良いかもう分からなかった。“ほら、ベツレヘムの近くに洞窟があるんだ”と、ヨゼフが気づいた。その暗い洞窟に入ったら、貧しい暮らしに慣れた二人は安心した。生まれた子を抱いた時、すべての不安と苦労を忘れていた。幸せな夜となった。この偉大な子の最初の王座、最初の寝どころはどこにあるのか。“マリアは子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた”、“私はあなたたちに大きな喜びを告げよう”と、知らされた羊飼いたちは走って来て、喜びの涙のうちに赤ちゃんを抱いて親しんだ。軽蔑されている僕たちも神様に愛されている事を喜んだ。羊たちも近付いて鼻をつけた。豚小屋ではなくてよかった。私達も覗き、子を腕に抱きたいでしょ。心から望めば、この夜には会える。

今夜、イエスはあらゆる道を歩いて宿屋をさがしている。誰か自分の家を開けてくれるでしょうか。あなたの門の前をも必ず通るでしょう。ホームレスになってはいかん。ただ遠くから祈って、クリスマスに参加するのは足りない。主はあなたの心の叫びを待っている。“イエスよ、私の所に来て。私の心はボロボロですが、それでも来てね。あなた無しにもう生きられない。共にいてください。あなたを待っている”。その時、この夜は聖なる夜になる。あなたの中、あなたの家にイエスが生まれてくる。



【聖書朗読箇所】


永遠の父よ、

あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、

さらに優れたものにしてくださいました。

神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。

主キリストは、聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、

生きて、治めておられます、世々とこしえに。アーメン

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ52章7-10節)


いかに美しいことか

山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

救いを告げ

あなたの神は王となられた、と

シオンに向かって呼ばわる。

その声に、あなたの見張りは声をあげ

皆共に、喜び歌う。

彼らは目の当たりに見る

主がシオンに帰られるのを。

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。

主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

主は聖なる御腕の力を

国々の民の目にあらわにされた。

地の果てまで、すべての人が

わたしたちの神の救いを仰ぐ。



第2朗読 ヘブライ人への手紙(ヘブライ1章1-6節)


神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

いったい神は、かつて天使のだれに、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。 (むしろ)、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。 



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ1章1-18節)


初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


2022年12月17日土曜日

12月18日 待降節第4主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

※ 湯澤神父様は、ご病気の療養のため聖アントニオ修道院(東京・瀬田)に異動されました。長い間、福音メッセージをいただき大変有難うございました。ご自愛ください。




【福音メッセージ】 待降節第4主日 A年 2022年12月18日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  昨日から降誕祭前の8日間に入りました。今日の福音は、待降節の第四の主日ですが、同時にこの8日間の第二日目に当たります。共観福音書では、二つのお告げのお話を伝えています。一つは有名な、ルカ福音書に出てくるマリア様へのお告げのお話しです。そしてもう一つが今日の福音書にあるマタイ福音書が残したヨゼフ様へのお告げのお話です。マタイは、イエス様の誕生の謂れ(次第)の二つ目として、これを書いています。

  どういうルートかわかりませんが、ヨゼフ様はマリア様と同居する前に、マリア様の身ごもりを知ります。彼は、律法に誠実な正しい人だったので、表ざたにしないように、密かに分かれることを決心しました。すると天使が現れて、お告げを授けます。ヨゼフ様はこれを受け入れました。この時、天使は、生まれる子を「インマヌエル」と呼んでします。この名の謂れは、第一朗読のイザヤの預言に出ています。

  このお告げの箇所は、様々なことが含まれています。そのすべてではありませんが、いくつかのポイントを挙げますので、それぞれを黙想してはいかがかと思います。第一のポイントは、ヨゼフ様は人として律法に忠実に生きる人でしたから、表ざたにすることができましたが、しませんでした。律法によると不倫に当たりますので、マリア様は処罰されます。ヨゼフ様はそれを望みませんでした。これに対して、天使は、ヨゼフ様を「ダビデの子」と呼び、マリア様を受け入れることを命じます。これによって、イエス様は、ダビデの子孫になります。つまり、メシア、キリストです。他人の善意を超える神様の計らいの違いです。

  第二のポイントは、イエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことです。第一の朗読、また、福音によると「神は我々と共におられる」という意味だと説明されています。旧約聖書をよく読むと、アブラハムにも、モーセにも神様は「私はどこにいてもあなたと共にいる」と言っています。いわば、イスラエルに告げられた神様の在り方は、「共にいる神」なのです。イエス様は、生まれる時そうした存在だと告げられていました。そして、イエス様自身が「世の終わりまで、あなた方と共にいる」と弟子たちに告げています。

  まだまだ色々ポイントは探せるでしょう。皆さんの興味に従って、黙想できたらいいですね。この箇所は、クリスマスの出来事の中で、あまり取り上げられることがないので、それだけにこうしてポイントを見つけて、黙想できたら、クリスマスが豊かいなるのではないでしょうか。そして、毎年より豊かなクリスマスを迎えられると思います。

                                湯澤民夫


【聖書朗読箇所】


恵み豊かな父よ、

わたしたちの心にいつくしみを注いでください。

みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、

御子の苦しみと死をとおして復活の栄光にあずかることができますように。

聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、

治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ7章10-14節)


(その日、)主はアハズに向かって言われた。

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず

わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ1章1-7節)


キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、(兄弟の皆さんへ。)

――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、

恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ1章18-24節)


イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

2022年12月9日金曜日

12月11日 待降節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 待降節第3主日 A年 2022年12月11日 松村神父

待降節第3主日は「喜びの主日」と呼ばれ、本来はバラ色の祭服を身に着けます。しかし祭服がありませんので、せめて4本のローソクで色を示しているところが多いのではないでしょうか。今日は主の到来がいよいよ迫ってきていることを祝う日なのです。

わたしは何でもできる人間ではありません。それなのに「自分でやり遂げなければ」と意気込んでいた時もありました。しかし社会の中では、ある出来事を解決できる特別な力や資格を持った方に頼まなければ乗り越えていけないことがあります。だから信頼できる人を選び、解決に挑みます。今の私は多種多様な働きの中で、それらの人々の力によって助けられながら働いています。

いろいろな働きがある中で、その出来事を吟味し、それにふさわしい人を償還します。その出来事に精通していると思われ、尊敬でき、自信をもって委託できる人を選びます。時には友人にも寄りかかることもあります。そのような人に出会えたとき、知りえた時にはどんなに心の慰め、力強さに触れることでしょう。私にできることは、正しく見て聞いて、それにふさわしい者を選び委ねるということ。実はこのことに気が付かされたのは15年前に大学で働いていた時でした。司祭でありながら中間管理職として大学運営をしていた時に、自分の無能さに気づかされ、周りにいる有能な人たちと出会い、自分一人で頑張らなくてもいいのだと気づかされ、焦る心から安心へと変わっていきました。と同時にその中でも、自分でなければできない事を見出し、自分の役割と居場所が見え、自信と誇りを持った働きへと導かれました。

今日の福音ではヨハネの弟子の役割、洗礼者ヨハネの役割、そしてイエス・キリストの役割それぞれが見えます。洗礼者ヨハネにとってイエス・キリストは正しく見て、正しく聞いた中で信頼と尊敬と信仰を見出し、自ら「つまずかない者」となり、多いなる喜びと強いきずなが作り上げられた方でした。そして自分の役割と生きる場が明確になりました。イエスもその姿に信頼を寄せ、最大の賛辞を送ります。そんな洗礼者ヨハネの役割は天の国においても自ら身を低くするという役割を担うからこそ、「天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」と語られたのではないでしょうか。イエス・キリストは天にあげられ、「父の右の座」すなわち天の王国の力ある支配者となりますが、一方この言葉は、洗礼者ヨハネを低く見ているのではなく、その在り方、自分を低くする者の極み、キリスト者の姿勢を示しているではないでしょうか。

一方「身を低くして伏し拝む」(詩編95:6)相手は、天から引っ張り上げる絶対的な御父と共に、もっとも人類で弱い姿、赤ん坊で親の助けが無ければ生きていけない姿で誕生する方にも向けられます。神が送られたその弱さからの出発点だから、第一朗読のイザヤ書に描かれている通り、神を見えない「目が開き」、神の声を聞こえない「耳が開く」ことにより、絶望的な病を回復し、罪の束縛から解放し、死から新たないのちへ、闇から光へと「主と共に」「主の先導」によって成長の喜びへと導かれます。私たちはその方を待ち望みます。その仲介をしたのは洗礼者ヨハネ。導くのはイエス・キリスト。キリスト者として、感謝と喜び、謙虚な姿を通して、自分自身の信仰の成長へと歩んでいければ幸いです。

私たちのすぐそばにいる助け主であるイエス・キリスト、それを伝える洗礼者ヨハネに信頼の内に身をゆだね、共に私たちだからこそできる一人一人の役割と使命を忍耐の内に忠実に果たし、喜びの内に主の降誕の準備へと向かいたいと思います。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である父よ、

御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしたちを顧みて下さい。

喜びのうちに降誕祭を迎え、この救いの神秘を祝うことができますように。

聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、

治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ35章1-6a,10節)

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ野ばらの花を一面に咲かせよ。

花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられカルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。


弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。

見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」


そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。

そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。


主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。



第2朗読 使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5章7-10節)

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。

農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。

兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ11章2-11節)

(そのとき、)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。

そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」


イエスはお答えになった。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、

らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、

死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」


ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。

では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』

と書いてあるのは、この人のことだ。


はっきり言っておく。

およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。

しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

2022年12月3日土曜日

12月4日 待降節第2主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 待降節第2主日 C年 2022年12月4日 レイナルド神父

今日の待降節のテーマは平和です。ここで神がイエスになされたことを思うと勇気が出ます。神と人との間の平和、そしてお互いの間で築かれた平和です。信者として福音書にあるように、イエスに内在する父なる神によってもたらされた平和を祝います。私たちは平和のうちにイエスの再臨と、平和が地上に満ち、それが全ての人々の生き方となるイエスの新しい世界の訪れを待望します。私たちは平和をイエスのうちにのみ見いだす証人として、できるかぎり今、イエスの平和に与ります。

これは当然そういうことです。イエスの第一の来臨の平和を祝い、そして第二の来臨での究極の平和を待望するなら、今、この時、その平和を生きようとはしないでしょうか? 過去の出来事を祝い、将来も同じように願うのなら、現在の今、それをほんとうに望まないのなら、そのことにどんな意味があるのでしょうか。

しかし今、平和に暮らすというのは簡単なことではなく、キリストなくしては不可能なことです。ですから毎年待降節、一年を通しての主日に思い起こすことが必要なのです。そこではイエスの内に全ての平和の源が見いだされるのです。私たちは靴ひもをしめ、頑張って他の人たちと平和に暮らすようにと言われているのではありません。争いが多い世界で平和に生きる大切さや、他の人たちと平和に暮らしていく方法を聴くために集まるのでもありません。そんなことで平和になるのなら、ずっと以前に平和は訪れていたことでしょう。

私たちはもう一度イエスキリストの内にある神の平和を受けるために集まるのです。イエスが私たちのために用意してくださった平和を受け取ること、互いの交わりのなかで平和を生きること、はじめは教会で、そしてできるかぎり世の中にも拡げます。そうこうしていくうちに努力して世の平和を作ろうとしなくても済むです。むしろイエスこそが唯一の平和の源であるという証人としてそのように生きるのです。

これは教会が一つの共同体として生きることの大切さです。神の三位一体としての集まりの証です。私たちは、イエスキリストの内に平和な生活を共に致しましょうと招く証人なのです。力ではなく平和そのものである主なるイエスの聖霊の力によって私たちは世の平和の作り手となるのです。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、

キリストに結ばれることができますように。

主キリストは、聖霊による一致のうちに、

あなたとともに神であり生きて、治めておられます、

世よとこしえに。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ11章1-10節)


エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。

彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。

弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。

その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。


狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ15章4-9節)


(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。

それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。


だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、

あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

わたしは言う。

キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。

それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。

「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ3章1-12節)


そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。


「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」


ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。

そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。


ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

2022年11月26日土曜日

11月27日 待降節第1主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 待降節第1主日 A年 2022年11月27日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日のミサから典礼の日本語が変わるので、福音をゆっくり味わう気分ではないかもしれませんが、待降節に入りますのでこの季節の典礼の意味を考えてみましょう。先週、私たちは王であるキリスト、世の終わりを祈念し、世の終わりについての福音を味わいました。今週から、未来から過去へ、私たちは二千年前のキリストの到来に目を向けていきます。

  福音の中で、イエス様は「人の子が来る時」と言っています。「その時は、ノアの時と同じである。」ここで、重要な言葉は、「時」です。第一の朗読、イザヤの預言では、「終わりの日」という言葉が使われています。戦争が間近に迫ってきている時、イザヤは、世の終わりの時の到来について語ります。その「時」こそ、救いの時だからです。

  第二朗読も見てみましょう。パウロは、ローマの教会に宛てて、「時は近づいた」と語り掛けます。「今がどんな時か分かりますよね。私たちが洗礼を受けた時より、救いの時が近づいています。だから、洗礼を受けた時のように、新たになりましょう。」

  この「時」が重要なのは、それは、「到来の時」だからです。今週は、まだ王であるキリストの雰囲気が残っています。しかし、そこにあるのは「到来の時」です。私たちは、「アドベント」という言葉を聞いたことがあります。待降節を表す言葉です。もともとこの言葉は、「アド・ヴェントゥス」というラテン語から来る言葉です。その意味は、向こう側からこちらへ「やって(アド)」「くる(ヴェントゥス)」という意味です。その意味は、「もういくつ寝るとお正月」と待つことではありません。また、努力して引き寄せること、実現させることでもありません。私たちにはどうにもできない「時」なのです。ただ、神様がやってくる、実現してくださるその時を、待つことしかできません。

  ところが、私たちは、そのことをいつも意識できているわけではありません。イエス様は、ノアの時の例を挙げています。「人々は、食べたり飲んだりしていた。」つまり、普通に日常生活をしていたということです。この「到来」の時は、日常に起こることです。それが待つことしかできない時を待つということですが、たいていは、すっかり意識していない時でもあるのです。ですから、私たちは「第三の到来」ということを考え、意識する必要があるでしょう。第一の到来は二千年前の到来、もう一つの到来は世の終わりの到来。そして第三の到来です。これも、私たちの日常生活の中で起こります。

  第三の到来は、普通あまり意識されませんが、日常生活の中で、父である神が、御子であるキリストが、そして聖霊が、私たちに語り掛けます。いつ、何を語り掛けるかわかりません。待降節を迎えたこの季節、日常生活に起こるこの第三の到来を、考えてみませんか。私たちは、いつ語り掛けられてきてもよい用意ができているでしょうか。 



【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは救いを待ち望むすべての人とともにいてくださいます。

  待降節を迎えたわたしたちの心を照らしてください。

  争いや対立が絶えないこの世界にあって、

  キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ2章1-5節)


アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。


終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい


多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。

わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。


主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。


ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ13章11-14a節)


更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。

あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。

今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。


夜は更け、日は近づいた。

だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。


日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。

酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、


主イエス・キリストを身にまといなさい。

欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ24章37-44節)


(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

このことをわきまえていなさい。

家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

2022年11月18日金曜日

11月20日 王であるキリスト

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 王であるキリスト C年 2022年11月20日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日は、教会の暦の中でこの一年間の最後の主日です。そして、王であるキリスト、世の終わりの完成を記念します。しかし、朗読個所は、なぜ十字架の場面なのでしょうか。それは、第一朗読との関係でわかります。第一朗読は、ダビデが全イスラエルの王となる個所です。彼は、油注がれることによって王となりました。イエス様は、エルサレムに入城し、メシア、王として十字架にかかることによって、ご自分がキリスト、メシアであることを示されました。ここで、大きな誤解が生まれました。

  第一朗読によると、ユダ族とそれに属さない部族の間に和解が生じ、ユダ族の長であるダビデのもとに、他の部族が集結し、彼らはダビデに油を注ぐことで、イスラエル統一王国を成立させました。この出来事は、後々メシアのモデルになっていきます。当時の人たちは、こうして神様から油注がれる(メシアになる)と、彼は政治的経済的もちろん軍事的力を持ち、諸国を征服し、神の国の完成のためにイスラエルの人々を率いてエルサレムに王として君臨するはず、とイメージしました。それが伝統的なメシアのイメージだったからです。だから、本物のメシアなら十字架などから降りて、諸国に対して王として君臨するはずです。だからそれを、イエス様に求めました。「十字架から降りてこい」

  しかし、実際のイエス様は、そうではありませんでした。その逆で、むざむざと殺されていきました。伝統に生きるイスラエル人としては、イエス様のその姿を、とてもメシアとして見ることができませんでした。ただ一人、イエス様と一緒に十字架にかけられた盗賊の人だけが例外でした。後に、エマオに向かう弟子たちに、聖書を通して教えたように、伝統的なメシア理解とは別のことが聖書には書かれていました。人々は、それを知ることができませんでした。イエス様が教えても。

  このことは、そう簡単ではありません。同じ歴史を生き、伝統を重んじ、聖書を知り、神様を知ったとしても、まったく別の理解になってしまったこのイスラエルの人たちと同じことを起こしかねません。今日の福音は、こうした私たちの持つ危険性を教えています。世の終わりの完成の時、違っていましたでは済まされない事が起こり得るからです。キリストは、人間の姿で現れ、わたしたちのうちに暮らしました。そこにイエス様の求めたものを、私たちが求めるべきものを見逃さないようにしましょう。それには、わたしたちと暮らしたイエス様の言動から目を離さないことでしょう。イエス様は常に話しかけています。父である神様のように、そして、聖霊のように。耳を傾け、識別することを心がけていきましょう。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは十字架につけられたひとり子イエスを、

  すべての人の救い主として示してくださいました。

  キリストこそ、世界に平和をもたらし、

  人類を一つにする主であることを、

  きょう、深く心にとめることができますように。

集会祈願より



第1朗読 サムエル記 (サムエル下5章1-3節)


(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。

「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」


イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。

ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。

長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 (コロサイ1章12-20節)


(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)


御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。


御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。

こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。


神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ23章35-43節)


民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」


兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。


十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。


するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

2022年11月12日土曜日

11月13日 年間第33主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ】 年間第33主日 C年 2022年11月13日 松村神父

現代人にとって世の終わりとは何を示すのでしょうか?1999年を迎えた時、あちらこちらで“2000年になるとコンピューターが誤作動を起こす”とか、“ノストラダムスの大予言で地球が滅びる”とか、はたまたこの世の終わりをつげカルト教団が街のあちらこちらで説法を説いて、市民をあおっていました。私自身も声をかけられた事がありました。「あなたは不幸にみえますよ!手をかざしてあげますから安心してください。」と。よっぽど私の顔が暗く見えたのでしょう。でもニコニコして歩いている人などは逆に奇妙ですよね。

 この世の終わりや、人生の終わりに恐怖を覚えるということはどういった心の動きがあるのでしょう。それは“未練”と“執着”ということなのかもしれません。それは何かに対する“不完全さ”を表すと同時に、「もっと」「さらに」という“欲求”の表れかもしれません。逆にそれだけ“成し遂げていない”思いや、“満足できていない”ということなのかもしれません。

 今日の福音の前提には、エルサレム神殿を見たイエスのこの世的人間の儚さが目に映っていたことがあげられます。この世で成し遂げることに翻弄される人々。しかし神殿が後に崩壊の道をたどることを予見し、今の“人”の努力には限界がある事を示します。ここでイエスが語りたいのは“神”の働きを中心に置かなければならないこと。神殿は人の体そのものである事が忘れ去られ、形と見えるものにその重要度が移されてしまっていることです。イエスの到来は「神を愛し、隣人を愛すること」を宣べ伝えることで、形・体裁に力点が置かれる事ではありません。ヘロデ大王によって改築されたエルサレムの神殿は人間のエゴそのもので形作られてしまったことへの嘆きなのかもしれません。つまり本来的ではないということです。

 揺るがない神の示す道がありますが、私たちの世界には横から人の想いで意見を指し示す人が現れたり、「私の信仰こそ正しい」と、自分の信仰を揺るがす人がいます。これを偽預言者やイエスの名を語るものと表現されています。そこにいさかいや戦いが生じます。迫害もあり苦しみも生じます。しかし神の想い、キリストの想いを中心に置いたときには、それらの事は「神のみ旨に」と聖母マリアのようにお捧げして、忍耐の中で“しるし”が現れるまで耐え忍ぶこと、そして自身の中におごり高ぶる心に回心を促すことこそ大切ではないでしょうか。なかなか一人で乗り越えることは難しいかもしれません。ですから教会共同体の謙虚な分かち合い、現在進められているシノドスの動きは、私たちを成長に導いていくのです。愚痴のはけ口の場ではなく、自身の至らなさを分かち合い、全ての人の回心への神の導きを通して、主の来臨まで耐え忍んでいきたいと思います。耐え忍ぶと言われると苦しいように感じますが、私たち一人一人は先に救いの道を示された弟子のひとりであることに、安心と勇気をもって、互いの信頼のうちに過ごしていきたいと思います。


【聖書朗読箇所】

すべてのものの主である神よ、

  あなたはご自分をおそれ敬う者を助け、導いてくださいます。

  み前に集うわたしたちを聖霊によって強めてください。

  どのような試練にあっても、キリストに従うことができますように。

集会祈願より



第1朗読 マラキの預言 (マラキ3章19-20a節)

見よ、その日が来る炉のように燃える日が。

高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。

到来するその日は、と万軍の主は言われる。

彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。

その翼にはいやす力がある。



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ3章7-12節)


(皆さん、あなたがたは、)わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。

わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。


また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。

むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。


援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、

あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。


実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、

「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。


ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、

少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。


そのような者たちに、わたしたちは

主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。

自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ21章5-19節)


(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。


「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」


そこで、彼らはイエスに尋ねた。

「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」


イエスは言われた。

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」


そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

2022年11月5日土曜日

11月6日 年間第32主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第32主日 C年 2022年11月6日 レイ神父

イエスを試すのにサドカイ派の人々は難しい質問をしました。跡継ぎを残さずに亡くなっていった7人の兄弟のことを尋ねます。長男が亡くなるとその妻を次々とその兄弟がめとっていくのです。

彼らの質問はこうでした。復活の時この女はだれの妻となるのか?イエスを試すために彼らはこのように尋ねたのです。前のところではサドカイ派の人々は復活があることを否定しています。

イエスは、結婚は生きている時のことであり復活の時の事ではないと彼らに説明し、答えます。それは罠にかけようとしたサドカイ派の人たちを負かし、死者の復活を信じていた律法学者たちはイエスを讃えます。

この話は、私たちに真実は完全でそれは打ち負かすことはできないことを明らかにします。真実は常に勝利します。イエスは何が真実かを述べ、サドカイ派の人々の愚かさを暴露します。どんな人間の策略も真実を打ち負かすことはできないと教えます。

これは私たちがここで学べる大切な教訓であり、生活全てにあてはまります。サドカイ派の人々のような質問を受けることはなくても、人生の中で難しい質問に出会うでしょう。イエスにしかけられたようなものでなくても、そのような問は必ずあるでしょう。

私たちがどんなに困ってもその答えはある、とこの福音は確信させてくれます。たとえ理解しえなくても、もし真実を探し求めるのなら、私たちはその真実を見つけ出すのです。


今日は、あなたの信仰の旅で最も挑戦的なことについて黙想しましょう。 それは死後の世界、苦しみ、あるいは創造についての質問かもしれませんし、大変個人的なこともかもしれません。あるいは現在はまだ、私たちは主への質問に充分な時間を取ってないかもしれません。それが何であれ、全てのことに真実を求め、主に知恵を尋ね、そうすることで日毎にさらに深い信仰に入って行くことでしょう。


【聖書朗読箇所】

すべての人の救いを望まれる神よ、

   ひとり子イエスは、死からの復活によって、

   永遠のいのちの扉を開いてくださいました。

   ここに集められたわたしたちに希望の光を注ぎ、

   尽きることのない喜びで満たしてください。

集会祈願より



第1朗読 マカバイ記 (Ⅱマカバイ7章1-2,9-14節)

また次のようなこともあった。

七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。


彼らの一人が皆に代わって言った。

「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」


(二番目の者も)息を引き取る間際に言った。

「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」


彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。

彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。

「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。

わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」

そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。


やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。

死ぬ間際に彼は言った。

「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ2章16-3章5節)

(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。


終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。

すべての人に、信仰があるわけではないのです。

しかし、主は真実な方です。

必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。

そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。


どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ20章27-38節)

(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。


「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。

すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」


イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」