2014年3月2日日曜日

年間第8主日 「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」

暦もいよいよ3月に入りました。
北国に暮らす私たちにとって、待ち遠しい春が一歩、一歩近づいて来ました。今日はとても穏やかな晴天に恵まれ、教会にも柔らかな日差しが降り注いでいました。


昨日、久しぶりに焼肉を食べに行きました。5日の灰の水曜日から始まる四旬節を前にしての一寸したカーニバルです。キリスト者の少ない日本では、キリスト教系のお祭りが少ないのですが、最近では勘違いも含め姿かたちを変えて、ハローウィン、メーデー、バレンタインデー、などが定着してきているようです。商業ベースであっても、またカトリックとの縁が薄くても、キリスト教文化と古来日本文化の交わりがすすむ事が楽しみです。
カーニバルを経て四旬節では「毎日の黙想」の巻頭言にもありました「赦し」について振返りたいと思います。


今日のミサは協力司祭の森田神父様です、お説教の一部をご紹介します。

空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、と主は仰っています。更に主は、信仰の薄い者たちよ、と嗜められる。私たちは信仰が薄いと言われることに意外性を感じるが、これはキリストが戒めていると同時に励ましてもいるのです。もっと神を信じて良い。心配しなくても神が配慮して下さることを信じなさい。
第1朗読にあった、母親と乳飲み子の究極の愛、子のために命をも捨てることが出来る女が子を忘れても、私はあなたを忘れない、という言葉を私に与えられた神のみこころとして考え、刻み込んでいきたい。
心配は物事を悪化させる、神が必ず何かをして下さると信頼する、自分の子ども、家族のことを心配するならばそれも心配して下さる。私たちはその様に信じていきたい。そして、信頼しつつ努力をすることが良くなっていく事の秘訣です。
同時に今日の信頼しなさいという言葉は挑戦でもあります。
神の国と神の義を求めなさい、と言う言葉は言いかえれば、神のみこころを求めなさい、ということです。神のみこころを求めるのは、私たち信者は日常で意識していなくてはならない、私たちは神のために生きます。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消える霧にすぎません。」とヤコブの手紙にあるように、私たちは営利のために働かなくてはならない時がありますが、神のみこころを探求する事をその上に置かなければなりません。
私たちが日常生活を変えなければならない時に、神のみことばはどちらかを考えて決断し、神の国と神の義を考えて行動したならば、神が面倒を見て下さる。
神の義を求めなさい、何を食べるか、何を着るか、全てを私は知っている、と言う神のみことばは、私達に大きな安心を与えると同時に、決定的な決断をする時に、一つの挑戦、一つの規範になる。
私たちには様々な挑戦がありますが、神にこたえることで、あなたのものを未来に派遣して行きたいと思います。


今週の水曜日(3月5日)は「灰の水曜日」、いよいよ四旬節が近づいてきました。
灰の水曜日に教会では、回心のしるしとして額に灰をかける「灰の式」という典礼があります。
昨日の土曜日、教会で灰の水曜日で使う灰の準備を行いました。
信徒の皆さんから回収した前年の枝の主日に聖別された棕櫚の枝を燃やして灰にしました。


完全に灰になるまで燃やします


けっこう、煙たいです・・・


できました!
お疲れ様でした