2014年4月13日日曜日

受難の主日(枝の主日)

今日から聖週間に入ります。
イエス様のエルサレム入城を記念し、司教様により祝別された枝を手にした会衆が行列をし聖堂に入りました。


イエス様のエルサレム入城は、イエス様が自ら受難と十字架への道に入ったことを意味しており、今日の主日はイエス様の受難が復活の栄光に至る道であることを思い起こす日です。

今日の主日ミサを司式された勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。


今日から聖週間に入ります。木曜日から始まる「聖なる3日間」は典礼の頂点であり、その中でも土曜日の夜に行われる「復活徹夜祭」は最も荘厳なミサです。この夜のミサでは洗礼式も行われます。次の日の「復活の主日」のミサよりも優先させて「復活徹夜祭」のミサに与るようにしてください。
今日は受難の主日です。イエス様のエルサレム入城を記念する日になり、福音では主の受難が朗読されました。この受難の朗読には様々な重要な出来事が書かれているため、この日のお説教では、毎年内容を絞ってお話しするようにしています。
今日お話しするのは、第42節の「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」という箇所です。
イエス様は神の子ですから、エルサレムに入城することが自らの死を選ぶということを既に承知していました。そして、ご自分の力で十字架を降りることも当然出来るわけですが、このことがイエス様にとって最大の誘惑でした。しかし、ゲッセマネの園で既にこの誘惑に打ち勝っていたのでした。それは「この杯を遠ざけてください」というイエス様のみ言葉に表れています。自分の危機から自分を救うことは罪ではありません。しかし、イエス様は神の御心にかなうことをお選びになりました。この決心には何の苦しみもなかったわけではありません。エルサレムにある教会の聖堂のフレスコ画には、ゲッセマネの園で岩にもたれ掛かり苦しみに打ちひしがれ疲れ果てたイエス様の姿が描かれています。死への恐れ、様々な失意、裏切り、不安、孤独・・・。そのような人間的な感情の中で答えを導かれていったのです。「御心が行われますように」と。そして避ける事の出来ない死を選んだのです。
今日の福音では、イエス様が愛した使徒の二人、ユダとペトロの姿をとおして、私たち人間の典型的な姿が描かれています。ユダは、金貨30枚でイエス様を売り渡し逃げました。一方、ペトロはイエス様に盲目的に従っていたが自分の現実というものを分かっていませんでした。そして自分の死の危険を感じたときにさっさと逃げたのでした。この二人の姿は、私たち人間が取り得る行動、人間の弱さというものを如実に映し出しています。
しかし、イエス様はゲッセマネの園で私たち人間と同じように自らが苦しんだように、人間の弱さをも理解してくださいます。私たちは、そのようなイエス様を共感できる存在として信じているのです。
イエス様をとおして復活の栄光に与かるように、この聖週間の祈りを続けてまいりましょう。