2015年10月18日日曜日

年間第29主日 世界宣教の日

今日は「世界宣教の日」です。
今日の後藤神父様のお説教では、カトリック新聞に掲載された教皇様からのメッセージが紹介され、私たち自身の宣教について考えるよい機会となりました。


また御ミサの後、引き続き聖堂で、新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」日本語改定訳に基づく変更箇所について、後藤神父様の講師により勉強会が行われました。ミサは、司祭、信徒が共に主の食卓を囲み一致のうちに行われることが大切だということを改めて学びました。


午後からは、札幌地区の合同墓参が行われましたが、バスが出発するまでの間にカテドラルホールでDVD鑑賞が行われました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日はミサが終わると、典礼総則の改定の勉強会を行います。そして午後からは札幌地区の合同墓参になっています。また、今日は「世界宣教の日」にあたり、ミサ中の献金は全てローマの教皇庁に送られることになっています。応分の寄付を皆さんにお願いしたいと思います。
日本は今なお世界の教会からみると布教国という位置づけになっています。そのため、世界中から集められた今日の献金の一部は、日本の教会の宣教の資金にも使われているという現実があります。私たちもそのことを意識しながら、全世界の宣教のために役立てられるよう献金に心を込めて託したいと思います。

「世界宣教の日」にあたっては毎年、教皇様からのメッセージが出されています。
カトリック新聞には全文が掲載されていましたが、その一部をご紹介したいと思います。
今年、教皇様が強調されていたことは、「宣教はイエスへの情熱であると同時に、人々への情熱でもあります。」
私たちの熱い信仰がイエスに向けられているならば、イエスが大切にされる神の民、すべての人の救いに対しても、私たちの心は向かわなければならない、というメッセージが込められています。
洗礼の恵みをいただいた私たちです。皆さんはキリストに深く結ばれ、主の受難と復活の証人となって生きる人となる使命を受けて洗礼をいただき、堅信の恵みをいただいている人たちです。洗礼と堅信の際の祈りの中には、今述べたことが含まれています。私たちは忘れているかもしれませんが、洗礼の時にはこのようなメッセージを受けて、キリスト者として歩み始めたわけです。この時の使命は洗礼の時だけに終わるのではなく、生涯信仰を生きる日々の中に、この使命が託されているということだと思います。生涯の使命は宣教の使命でもあるということを私たちは心に留めたいと思います。
私たちに出来る宣教とは何であるのか、そのようなことも考えながら信仰を歩まなければと思います。
教皇様のメッセージには次のようなことも触れられています。
「み言葉に仕えるものである司教、司祭、修道者、そして信徒に託された使命は、一人残らず全ての人がキリストと人格的に結ばれるようにすることである。」
私たちが神を信じ、キリストを信じ、神の教えが私たち人間にとって大切なものであるとするならば、そのことを周りの人に伝えたいと願うのは、誰もが考えることだと思います。教皇様はそのような意味で、一人残らず全ての人がキリストに人格的に繋がるようにというメッセージを出されているわけです。
メッセージの一部分を心に留めながら、私は次のようなことも考えていました。
ミサに与り、私たちは御聖体をいただき、信仰の成長も体の成長もそこからいただこうと祈っています。そして、ミサが終わる派遣の祝福の祈りの言葉は、「行きましょう、主の平和のうちに。」と、そう祈ってミサは散開となります。
この祈りの言葉もキリストからの呼びかけとして考えなければならないと思っています。心から自分を探し求める全ての人に一層近づくために、イエスは私たちを用いたいと望んでおられるのではないでしょうか。私たち一人一人が神、キリストに仕えて、宣教の力を発揮することができるようにというメッセージも込められていると思います。
昨年は「信仰年」という一年の歩みの中で宣教の日を迎えました。今年は奉献生活の年を歩んでおり、その歩みの中でこの「世界宣教の日」を迎えています。教皇様が呼びかける意向をいつも心に留めながら、福音のために一人一人が奉仕するように、今日もまた私たちはミサの中で共に祈っていきたいと思います。

さて、今日の福音を皆さんはどのように受け取ったでしょうか?
今日の福音もまた、これまで主日で読まれてきた内容の流れを汲むものです。先週の福音のみ言葉の中では、財産を持つ真面目な人が「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいのですか」とイエスに質問するお話しでした。
イエスはその人に対して、財産に執着し過ぎているということを指摘されました。自分の救い、そのことに心が執着して、他の人に心が向けられない、そうした偏った考え方を改めて、自分に従いなさいと話されました。しかし「小さい時から、守るべきことは全て守って自分は頑張ってきました」そう答えた財産を持つ真面目な人は、イエスの指摘に対して淋しく去っていきました。そのやり取りを見ていた弟子たちは、自分たちも家族を捨て、財産を捨て、全てを捨ててイエスに従ったのだが、永遠の命を受け継ぐことができるのだろうかという思いがよぎりましたが、永遠の命に入るのは簡単なことではないと諭されて、弟子たちは驚いてしまいました。
私たちの考え方、生き方、私たちの心の底にある欲望はどんなにしても、自分中心ということがあまりにも多いような気がします。
誰が一番偉いのかと議論した弟子たち、栄光を受けるときにイエスの右と左に座りたいと願う弟子たち。それは誰もが心の奥底に持っている執着心であり、人から評価されたい、できれば自分が特別な地位をいただきたい、という心と同じような気がします。弟子たちの心も、私たちの心も、イエスの本当の心を理解できずに、ただイエスに従っている、そいうことでは同じような面があるような気がします。
そうありながらも、私たちの信仰においては、もっと深く神を信じたいと願います。そして、もっと神の愛の教えを生きるため、社会においても隣人にも奉仕できるようになりたいと、私たちは願います。しかし、自分の願いと現実とが一つになっているかを考えた時に、仕えることの難しさを改めて実感しているのではないでしょうか。
今日のみ言葉のこのようなやり取りの中で、イエスは弟子たちに次のように尋ねます。「あなた方は、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」一人の弟子はすぐさま「できます」と答えています。私たちはどう答えるでしょうか。
イエスが言った「わたしが受ける洗礼」というは深い意味があったようです。イエス・キリストにとっての洗礼は、十字架の受難の死であり、復活でもあります。それを弟子たちに問われたのです。
私たちがいただいた恵みの洗礼は、そのことに深くつながっているのでしょうか。ただ一度の私たちの洗礼は、十字架の死と復活につながる洗礼でしたでしょうか。新しく生まれ変わって生きるための洗礼であるはずなのに、もしかすると私たちの生活の中で直面する困難から逃げ出そうとばかり考えている自分がいるのではないでしょうか。神の子として生きる大切な戦いはどこにあるでしょうか。
イエスは弟子に言いました。「あなた方はわかっていない」、私たちももしかするとわかっていないのかもしれません。私も何を求めているのか、何をしようとしているのか、わかっていないような気がします。わかっているのは自分の身の行く末を案じていることだけかもしれません。信じなければ、仕えなければ、しきりにそう考えている自分であるならば、人のことを考える余裕は生まれてこないのかもしれません。自分の救いが、もう既にイエスによって完成されていると信じることができるならば、私は自分の命も自分の全ても神様に捧げます、と言い切ることができるならば、その時、周りの人、他人の身を案じることもできるような気がします。
神の子として、キリストの弟子として、自分の十字架を投げ出すことがないよう、勇気と希望を持つことができるように、私たちはもっと祈っていかなければならないようです。私たちの歩みはそこから宣教の歩みにつながっていくと思っています。
私たちの弱さをさらけ出し、そのままの自分で神様に仕えることができるよう恵みをお祈りし、宣教を心に留めたいと思います。』