2016年1月10日日曜日

主の洗礼

幼子イエスの誕生で喜びに包まれていた降誕節は、今日の「主の洗礼」の祝日を
もって終わることになります。明日からは新しい典礼の季節に入ります。

明日の「成人の日」を前に、新成人を迎えられる方に記念品が贈られました。
おめでとうございます!


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


幼子イエスの誕生で喜びに包まれていた降誕節は、今日の「主の洗礼」の祝日を
もって終わることになります。明日からは新しい典礼の季節に入っていくことになり
ます。洗礼によって新しい歩みが始まるように、明日からの教会歴は年間の「季節」
という月日を進みます。

 今日、私たちがいただいた御言葉は、イエスの洗礼のときの状況を告げ知らせてい
ます。イエスが洗礼を受けたように、ここに集う私たち一人ひとりもまた洗礼の恵み
を受け、神の子となっています。初代教会の指導者であったパウロは手紙の中で洗礼
について語ります。そこには「神の救いの恵みは聖霊によって私たちを新しく生まれ
させ、新たに造りかえる洗いとしての洗礼がある。それはキリストの恵みによってで
ある。この洗礼によって、永遠の命を受け継ぐ者とされる。」(使徒パウロのテトス
への手紙3:4-7)パウロはこのように洗礼について話しています。洗礼によって
永遠の命を受け継ぐ者とされる。洗礼についていろいろな言葉を加えることができま
す。古い時代は悔い改めの洗礼という言葉が良く使われていたようですが、時代が変
わってくるに従って、恵みの洗礼という表現も良く一般的に使われるようです。そし
て、私たち教会の中で、またわたしたち一人ひとり、いろんな表現で洗礼を表してい
ます。新しい出発の洗礼、清めの洗礼、いろんな表現が出来ると思います。皆さん一
人ひとりは、自分が受けたその恵みの洗礼を、自分はどのように受けとめ、どのよう
に表現しているでしょうか。

 洗礼は教会の七つの秘跡の中のひとつです。七つの秘跡を皆さん思い起こせます
ね。洗礼もまた信仰を前提としています。信仰なくしての洗礼は考えられないからで
す。洗礼によって父である神の子となり、三位一体の神の交わりに導き入れられるこ
とになります。そして、洗礼によって一人の新しいクリスチャンの誕生となります。
イエスがヨルダン川で洗礼を受けたように、教会の洗礼の秘跡の執行には必ず水が使
われます。水が印(しるし)となっています。水には大切な意味があります。水は私
たち人間の日常生活に欠かすことの出来ない命を保つ、また、水は身体の汚れを清め
るために必要なもの。そのように考えると、洗礼は命と清めに結びついているとも言
えるとも思います。そして、命と清め以上に豊かな神の恵みをもたらす秘跡でもあり
ます。言葉では表せない大きな恵みが洗礼によって私たちにもたらせます。また、洗
礼はキリストの死と復活という、過ぎ越しの神秘に与ることにより、死から命へと移
されるということも意味していると思います。

 幼児洗礼の人は記憶が全くないと思いますが、 成人洗礼の人は自分が額に水をか
けられたこと、そのことをきっと記憶していると思います。洗礼という言語の言葉か
ら考えると、「沈める」とか「浸す」とか、そう言う意味が元々あるといわれていま
す。洗礼は水に沈め、水に浸して、そこから立ち上がる、生まれ変わるという大きな
意味がそこにもたらされて、私たちの意識が作られています。それはまた古い人が水
の中に沈められて新しい人になることを意味しています。洗礼の時に受洗者の額に水
を3回、司祭は注ぎます。洗礼志願者を3度水に沈めて引き上げるという動作の慣習
の中に、現在の洗礼式は額に水を3度注ぐという簡易なかたちで進められます。です
から、イエス様はきっとヨルダン川で身体全体を川の中に沈められて、そこから3度
立ち上がったかたちで洗礼を受けられたかもしれません。洗礼を受けた人は。  その
水から上がって清められて新しい人となって、神の恵みに与るものとされます。キリ
ストのからだの一部となって、深くキリストに繋がれ結ばれることになります。


 七つの秘跡の内のもう一つは堅信の秘跡というものがあります。聖香油が額に塗ら
れます。油注がれたもの、キリスト者となって、洗礼の時には火のついたローソクを
渡されます。また、キリストの光をもたらすものとして表しているのです。私たちは
洗礼によって、それまでの自分とは違ったかたちで大きくつくりかえられるものと
なっています。でも現実には、 私たちは洗礼をいただいていますが 、その深い意味
を忘れてしまっているかもしれません。今日は洗礼のことをもう少し黙想しながら、
新しい典礼の季節に入る、私たち一人ひとりもまた、洗礼の恵みを新しい自分とし
て、明日から新しい歩みを始めようと私は今考えます。

 信徒の福音宣教がいつも叫ばれる時代です。それは、この洗礼によって結ばれ、そ
こから私たち一人ひとりの使命もまた生じています。キリストの肢体、からだに繋が
れ、キリストの光をもたらすものとして、新しい旅立ち、出発をした洗礼を受けた私
たち一人ひとりは、キリストの祭司職にも繋がっているということです。幼児洗礼の
人は、堅信の秘跡によって一人ひとりの信徒の自覚と責任を確認することにもなって
います。成人洗礼を受けた人たちは、すでに洗礼の恵みをいただいたときから、その
使命、責任をもって 歩む人となっているはずです。 宣教の使命を持っている私たち
一人ひとり、もう一度その使命を実際に生きているのかどうか、そのことも含めてク
リスチャンとは何なのか、洗礼を受けたとはどういうことなのか、そういう大きな意
味も考えながら、信仰の成長に繋げていきたいものと考えています。

 幼児洗礼を受けた人たちにとっては特に、堅信の秘跡の節目をもって、新しい責任
と使命を歩むものとなりますが 、今、私たち日本人としての自覚と使命というもの
は「成人式」という中で特に、その責任、人生を考えさせる機会となっていると思い
ます。明日の成人式を前にして、私たちの教会のメンバーの中に二人の方が成人式を
迎えることになっています。お一人は「フランシスコ・ザベリオ葛西史崇(ふみた
か)」さん、もうお一人は「パドアのアントニオ藤倉有留斗(あると)」さんです。
お二人にとってもクリスチャンとして、また日本人の成人を迎えるものとしての新し
い責任、自覚というものが、きっと意識されているものと思います。そして成人式を
迎えることによって、家族とともに大きな喜びから新しい 旅立ちが始まろうとして
います。教会の中でこの成人式を迎えるお二人のためにも、私たちは神の祝福を祈り
たいと思います。

   今日の私たちに告げられたみ言葉を黙想するとき、そこにイエスの祈りの姿が見
られます。イエスはいつも何か重大なことが始めるときに、祈りをまず最初にして行
動を始めたと聖書は記しています。洗礼の場面での祈りはその後のそれぞれの出発点
ともなる祈りのひとときでもあったようです。主の洗礼を祝う今日の私たちもまた、
祈りをもって新しい出発にかえたいと願います。すでに救いの恵みをいただいて洗礼
を受けた、信仰の道を歩んでいる私たち、信仰の中心にいつも祈りがある、祈りが忘
れられることのないように、そういう1年にしたいと思います。
  新しい1年はスタートしたばかりですが、この新しい1年の歩みは、北一条教会聖
堂100年を記念する歩みの1年にもなります。札幌教区においては、教区100年
を記念する1年でもあります。全世界でみれば「いつくしみの特別聖年」を歩み始め
た1年でもあります。洗礼から出発して、すべての人々を神に出会わせる道を私たち
一人ひとりが歩みだすことが出来るように。祈りをもって私たちの道の中にも、宣教
の実りがありますように祈りましょう。そして、わたしたちの出会いを通して多くの
人々に恵みが注がれるように、このミサの中でひとつとなって祈りたいと思います。