2016年2月21日日曜日

四旬節第2主日

今日の福音では、イエスの変容の出来事が語られました。私たちも神の栄光に変えられることを願いながら、日々イエスとの出会いをもって、神の慈しみを深く味わい四旬節の歩みを大切にしていきたいと思います。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は四旬節の第2の主日を迎えて、聖書のお話は変容の物語が私たちに告げられています。先週は東京から幸田司教様が見えられてミサを捧げてくださいました。そして午後からは平和講演のお話をうかがうことができました。

この四旬節、私たちはどのように歩んでいるのでしょうか?
先週の聖書のテーマは、毎年四旬節第一主日に三つの福音書で共通して読まれるイエスの荒れ野での40日間の出来事でした。今日の第2主日も主の変容の場面が毎年読まれることになっています。
今私たちはみ言葉に耳を傾けて、イエスと一緒に山に登る弟子たちの姿をどのように思い浮かべていたでしょうか。ルカの福音書をたどってみると、山に登る前、弟子たちにはある大きな出来事がありました。それが今日の箇所に繋がっているのですが、その出来事とは、イエスが弟子たちに聞いた「あなた方は私を何者だと言うのか」、するとペトロが「神からのメシアです」と答え、ここにペトロの信仰告白がありました。イエスはペトロの信仰告白を聞いて、自分がこの後苦しみを受け殺されることになる、そして死んで三日目に復活するということを弟子たちに話されました。その話を聞いたとき、弟子たちはどのようにこの言葉を受け止めたのか、それは聖書の中では具体的に語られていません。十分に理解したとはとても思えない出来事がその後、聖書の中で語られています。しかしイエスは自分が死んで復活するということを弟子たちに告げたとき、このことは誰にも話さないようにと注意をしています。きっとそれは公にするにはまだ、時間が必要なことだったのかもしれません。そしてイエスはこの後、弟子たちの3人を連れて山に登ったというのが今日のお話に繋がっているのです。
イエスに魅了された弟子たち、イエスの話に驚いた弟子たち、しかしイエスの教えを聞き流し、イエスに従いイエスへの信仰をだんだんと築いていった弟子たち。一方では、この人と一緒にいれば、安心だということもあったのかもしれません。この人は今自分たちの住んでいる社会を変えてくださる方、革命を起こしてくださる方、そういう不思議な力を持っているリーダーでもある、そんな思いで付き従っていた弟子たちがいたかもしれません。しかし、そのような弟子たちでありましたが、彼らの期待を裏切るような、自分は死んでそして復活する。その死に方も普通ではないということも知らされます。イエスは改めて弟子たちに言いました。「それでも私に付いてきたいものは、自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。」
ご自分の死、そして復活、十字架の死、受難を告げた後、そのことを話されて、弟子たちは従おうとしていた。受難の苦しみに耐える姿、群衆に蔑まれ罵声をかけられ、唾さえ吐き掛けられた惨めなイエスの姿を、このとき弟子たちは想像できることではなかったと思います。でもイエスに付き従っていこうとしている弟子たちの姿は見えています。イエスがこのとき弟子たちに語られた言葉、「それでも私に付いてきたいものは、自分を捨て日々自分の十字架を背負って私に従いなさい。」この言葉をそうした背景で、そうした経緯で聞くならば、この上ない重みを持った言葉になっています。イエスは3人の弟子を選んで山に登りましたが、聖書では詳しく調べて福音を書いたというルカの言葉がここにはっきりと示されます。それは「祈るために山に登られた」と書き記されています。山に登る目的に一つは祈るためであった。イエスは十字架にかかり自分の命を捧げなければならない、そこに十字架の秘儀がありますが、その十字架の秘儀を理解するためには、祈ることが必要だったのかもしれません。また弟子として、自分の将来がかかったうえで、さらに従っていくのだとしたら、祈ることがまた必要であるということを、山に連れていきながらそれを実感させていったのかもしれません。きっとイエスは身をもって祈ることの大切さを弟子たちと共に、行動しながら教えられたのではないでしょうか。でも現実は山に登るということは簡単なことではないはずです。十分な水も持っていくことができない時代でした。そのような中で身も心もへとへとになり、疲れが絶頂に達し、眠気に襲われたと聖書は記しています。まさに祈るどころではないそんな状況の中で、不思議な出来事に遭遇する弟子たちでした。
山に登る一歩一歩は、その苦しみとの激しい戦いの道でもあったはず、その苦しみを背負うということは、自己放棄でもあったはず。でも自分の肉体的な弱さ精神的な弱さの中で、イエスの栄光の姿を見せつけられた時は、弱さの中にあって栄光を弟子たちは見つめる、そうした素晴らしい時を与えられたということです。イエスはこの出来事を立ち会わせることによって、彼らの心のうちに信仰の土台を築かれたのかなあと私は考えてしまいます。何度も何度も叱られながらもイエスに付き従ったペトロの姿は皆さんもご存知です。失敗を繰り返しながら、イエスへの信仰を深めていく弟子たち、ペトロを代表して聖書の中でいろいろな場面で私たちは見つめることができます。
私たちは今日、聖書の変容のみ言葉に触れたとき、私たちはどのように感じ受け止めたでしょう。イエスのように私たちも主の栄光に与り天の国で変容できるようにと、そんな祈りの言葉をもって聞いていたでしょうか。イエスの十字架が一人一人の罪を贖うことを私たちはすでに知っています。イエスは私たち一人一人を導き、それを可能にすることを心に留めてこのみ言葉を聞いたでしょうか。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」
変容の時、天から声がしたと語られました。そのみ言葉を聞きながら、私たちもまた聞かせてくださいと祈ったでしょうか?
救いに切り離すことができない十字架があります。そしてキリストの十字架は私たちの信仰そのものでもあると思います。
私たちにとっての十字架、それはどのように見えているでしょうか。どのような重さを私たちに感じさせているでしょうか。
四旬節に入りました。み言葉を黙想するとともに、四旬節の歩みの中で、教会の長い伝統で培われた十字架の道行も大切にされます。道行の祈りを祈る人々はこの四旬節たくさんおられると思います。信仰が揺らぐような私たちの毎日、試練の中にあっても主によって十字架の前にしっかりと立ち続けることができるよう、そうありたいと思います。
今日の第2朗読の中でパウロも私たちに呼びかけます。「このように主によってしっかりと立ちなさい。」。主に対する信頼は、私たちが試練や誘惑の中にあっても戦いの中にあっても私たちを強くしてくれる力をもたらしてくださる。
四旬節の歩みの中でもう一度私たちは、私たち一人一人に与えられた十字架を見つめながら、主にますます近づいていきたいと思います。

旧約時代にはモーセの変容の話もありました。モーセがシナイ山に登って、神から十戒を授けられたとき、イエスの変容の姿を彷彿とさせるようなそういう出来事があったと旧約聖書は告げています。でもモーセよりも遥かに偉大なる変容の姿が今日語られました。これこそ私の最愛の子であるという父からの宣言もありました。変容するイエスの姿は私たちに希望をもたらすものでもあると思います。パウロも述べています「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
この場面を体験し感動したペトロは、後に燃えるような信仰に成長していきます。そして最後は勇ましく十字架に逆さ釣りにされて亡くなったと伝えられています。
四旬節の初めに変容の物語が私たちに語られる理由は、一人一人が犯した罪を悔い改め、愛の秘儀に与ることによって、私たちも変容の秘儀に参与することができるのだということを、希望を持って語られているからだと思います。
私たちも神の栄光に変えられることを願いながら、日々イエスとの出会いをもって、神の慈しみを深く味わい四旬節の歩みを大切にしていきたいと思います。』