2016年2月13日土曜日

2月11日(木) 司祭叙階ダイヤモンド祝記念ミサ

2月11日(木・祝日)午前11時から、手稲・花川教会協力司祭 ヨゼフ 久野勉神父様と、札幌地区協力司祭 ジュール・ロー神父様の司祭叙階60周年記念ミサがカトリック北一条教会で行われました。


ミサは、勝谷司教様と司祭23名による共同司式により執り行われ、300名ほどの信徒が集まり、両神父様の叙階60周年を祝いました。





ミサでの勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

福音朗読 ヨハネ 15章9-17節

『「互いに愛し合いなさい」
今、読まれた福音は、イエスがいつも弟子たちに語られた言葉です。
同様に、まず私たちは優れた能力があるから選ばれたのではなく、キリストによって呼ばれ、そして選ばれ派遣されて私たちは司祭職を務めているわけです。
イエス様のこの地上における活動とは何であるのか?
病人の上に手を置いて癒やし、悪霊を追放しなさい。全ての人の罪を赦しなさい。そのような形で弟子たちを派遣しておられます。
今日はルルドのマリア様の記念日であり、そしてこの日は毎年「病者の日」と定められています。イエス様がなさった病気を治すという業は、ただ病気を治すということが目的ではなく、その奥にあるものを私たちに指し示すためのしるしとして、意義があるわけです。もし、病気の癒しそのものが目的であるとするならば、全ての人は何らかの病で、必ず死を迎えなければならないわけであり、私たちは死に対して無力であるという現実を突き付けられ、敗北のうちに失意のうちにこの世を去ることになります。
イエス様が示したのは、この病気においてその中で苦しんでいる人にこそ、主が共におられ、そしてその病気の先にある永遠の命、たとえ死を迎えることがあったとしても、神はあなたと共におられ、永遠の住まいに招いておられるということです。私たちはこのしるしの意味を忘れてはいけません。
同様に悪霊の追放ということも聖書には何度も出てきますが、多くの場合、この悪霊というものは、病気であったり、あるいはその人自身の弱さや罪深さから陥っていく、荒んだ生活状態であったり、あるいはその人本人に責任はなくても社会的に蔑まれ罪に追いやられ、この世において小さくされている人たち、その人たちは悪霊憑きと呼ばれ、軽蔑され人々の交わりから排除されていったわけです。ですから悪霊を追放せよという意味は、そのような状況から解放させるということです。
病気の癒しも悪霊の追放も別な言い方をするならば、神があなたと共におられる、あなたは決して一人ではなく、あなたを愛しておられる方がいるのだ、そのことを私たちのこの活動をとおして示すことができるならば、たとえイエス様のように一瞬にして病気を癒すことをできなくても、たとえ長い時間がかかってもその人の快復のために寄り添っていくなら、たとえ死に至ることがあったにせよ、しかしその人が人間の関わりの中でそこで神の愛を見出し、確信し永遠の命に希望をおいていくならば、それは本質的にイエス様の行った奇跡的な治癒だとかあるいは悪霊の追放の業と同じ業を私たちは行っていることになるのです。
私たちが召されているのは、私たちの活動をとおして、主があなたと共におられる、そしてその神は、決して裁きの神ではなく、常にいつくしみの眼差しを向けておられる神なのだ、そのことを私たちは伝える使命を持ってここに集まっているわけです。

今日、お祝いするお二人の神父様も、60年の長きにわたって、この使命を生きてこられました。
ロー神父様は1956年2月2日、そして久野神父様は1955年12月21日に叙階され、この年は私の生まれた年ですが、本当に途方もない長い期間、司祭として生きてきたということに心から敬意を表したいと思います。』


御ミサの後、隣の聖園こども家で祝賀会が行われ、お二人にお祝いの言葉が贈られました。