2016年4月17日日曜日

復活節第4主日

熊本地方が大きな地震の被害に見舞われました。被災された方々のもとへ物心ともに支援が行き届きますように、そして亡くなられた方々が主の御元に招かれますように、お祈りを捧げたいと思います。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『5年前の東日本大震災を思い起こすような大地震が熊本地方を襲いました。地震の発生から4日目を迎えますが、今なお大きな余震も頻発し多くの人々が大変な状況に置かれています。テレビでも建物の倒壊や火災の発生、土砂崩れ等の映像が流され、非難場所となるはずの市役所や病院、施設までもが崩れてしまい、対策本部の設営もテントになってしまったというニュースも聞いています。災害や事故の犠牲は突然に起こり、一瞬で人の命を奪うことになります。そうすると、家族との最後の言葉も交わせず亡くなっていくという現実を目の当たりにしなければなりません。何の準備もなく、何の別れの言葉を告げられず、亡くなっていかざるをえない、そのような現実を今回の地震をとおして考えさせられます。悲しみに寄り添うことは簡単なことではありません。ただ、亡くなられた方々のため、そしてその遺族のため、被災者のために、私たちは今誰もが祈りを捧げようとしています。私たちは今、悲しみと不安の中にいる人々の心が少しでも安らぎますようにと、ただ祈るしかないような気がしています。今日いち早く、役員の方々が献金箱を準備してくださっていますが、今後カリタスジャパンをとおしても私たちに呼びかけが来ることと思います。今私たちは自分たちに出来る祈りと共に、被災者のため、復興のために私たちに出来るせめてもの善意を、積み重ねていきたいと思っています。

さて、今日の聖書の言葉を皆さんは、どのように聞いたでしょうか。
今日は非常に短い聖書の言葉でした。そして今日は復活節第4主日であり、毎年、「よき牧者」の聖書の箇所が朗読されることになっており、そのみ言葉が私たちに語られました。今日のヨハネの福音朗読の箇所を前後から読んでいくと、その印象は冬のように感じられました。エルサレムの冬は寒く、イエスは神殿の境内でソロモンの廊を歩いていたと、今日の朗読の少し手前に書かれています。紀元前170年頃、エルサレムはシリアの攻撃によって陥落しています。そして神殿も決定的に汚されてしまいました。祭壇の上で豚を焼かれるという非常に屈辱的な状況をユダヤ人は体験しています。しかしその後、ユダヤ人たちは激しい戦いの末、再びエルサレムの神殿を奪い返します。そして神殿を改めて聖別し清めて奉献したとあります。それが聖書で書かれる「宮きよめ」という行事につながっていったそうです。「宮きよめ」は、八日間喜びを表すという行事としてイエスの時代には続いていたそうです。そのような喜びの祭りが行われている回廊をイエスが歩いていたというのが今日の朗読箇所の背景です。
八日間の喜びの祭りが行われ、自分たちの信仰の世界が戻ってきたことで、ユダヤ人たちは、再び狭い律法主義の虜になる人々がたくさん出てきたそうです。そのような時代になってイエスが現れ、イエスが新しい聖書の教えを説き、人々の注目を今集めていました。律法の虜になってしまいイエスを認めることができない人々、イスラエルの民、ユダヤの民を正しく牧することができないでいたそうした人々は、イエスの声に従うこともできずに再びイエスを取り囲んで論争を仕掛けました。こうした場面は新約聖書のあちこちに記されています。
「もしあなたがキリストならはっきり言ってください」今日の場面はそのような問答から始まっていました。
不躾な質問です。でもイエスは彼らの心を見抜いています。父である神が自分を派遣したことを信じようとしない人たち、自分が話をしてもそれを受け入れることができない、信じることができない人たちであるならば、どんな答えも馬の耳に念仏と、イエスは彼らの不信仰を指摘しているのです。聖書の中で、聞く耳のあるものは聞きなさいという言葉が繰り返し出てくるのも、こうした背景と重なってくるような気がします。いくら話しても最初から聞こうとしない人たちには、イエスは神の国を理解するのはまだまだ難しいということを悟ったと思います。
そうしたイエスとの論争が続く中で、二つの事が明らかにされようとしています。
一つはイエスが来たのは古いイスラエルの考えを徹底的に剥がすためでした。イエスはこれまで熱心なユダヤ人たちが守ってきた教えに、新しい考え方を付け加えて、罪ではなく、がんじがらみになった規則を守るためではなく、愛を大切にすることを説かれました。
二つ目は、新しいイスラエルである神の民はイエスをキリストと信じ、永遠の命を受ける新しい共同体として聖別させること。それは取りも直さず、私たち一人一人を神の御国へ導くということでした。
この二つの使命が神殿から始まってくるということを、私たちは聖書で理解できています。聖書のある箇所は、イエスの公的な宣教が神殿から始まっていたことを告げています。私たちもそのことを思い起こすことができます。イエスはある日神殿に入っていったら、神殿の中庭で商売をしている人たちがたくさんいたということが聖書に書かれています。イエスはそれを見ながら、父の家を商売の家としてはならないと、商売道具を引っくり返すというイエスの一面も聖書は語っています。そしてその時イエスはこう言いました。「「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2・19)こうしたイエスの公的な宣言も神殿から始まっていたということです。
三日で神殿を立て直す、後々それはイエスの体のことであると弟子たちは理解しましたが、その時はそのことがイエスが死んで三日目に復活するということだとは十分に理解できないまま心に留めていたわけです。イエス・キリストの体である教会は、よき牧者であるイエスの声に聞き従う羊の群れにも例えられます。よき牧者の元に集う共同体、それが教会の姿でもあるということ、そしてイエスに従うものには永遠の命が約束されることがそこで語られます。私たち一人一人が集うこの教会もまた、そのよき牧者のもとに集まる羊であり、教会共同体であり、永遠の命に招かれている一人一人であるのだと思います。

今私たちは、いつくみの特別聖年を歩んでいます。よき牧者であるイエスによって、一人一人が招かれ、呼び集められているということを私たちはもう一度意識したいを思います。私たち一人一人がいつくしみを持って、イエスのもとに集まることを神は願っている。その呼びかけに耳を傾けられないということなら、この羊の群れから、教会共同体から脱落してしまうということになってしまうのでしょうか。たとえ今は囲いの外にあっても、その群れを導き、永遠の命の祝福を与えてくださるということは、聖書がいつも告げている中心的なテーマでもあります。四つの福音書はみな、そのことを中心にして主張しています。
父である神から遣わされたイエスによって、十字架の贖いによって、私たちは一人一人罪が赦され、永遠の命に招かれるものであるということ。
私と父は一つであるとイエスは話されました。キリストに守られ、父なる神の御手に守られているのは、イエスの御業が父なる神の御業に他ならないことだと言えると思います。よき牧者であられるイエスは、一人一人を主の招きに応えられるように今日も自分に従う信者が一つになることをひたすら願っている、そう私は信じます。今、主の祭壇の前に一つになって祈りを捧げ、イエスに深くつながろうとしています。
私たちの信仰、その感謝の心をもって、今日も主の食卓を囲み、祈りを一つにしたいと思います。』