2016年4月3日日曜日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)


先週の復活祭から一週間が経ち、私たちは今日「神のいつくしみの主日」を迎えています。

喜びも束の間、現実に引き戻された私たちの心の中には、主の御復活の喜びはちゃんと残っているでしょうか。
今日の福音にあったトマスのように、信仰がゆらぎそうなときに、主よどうか弱い私たちを強めてください。





この日のミサでは、佐藤謙一助祭が北一条教会で初めてのお説教をされました。

早速、ご紹介したいと思います。

『先週、イエス・キリストは復活されました。
十字架の死に打ち勝ち復活し神の永遠のいのちの中に生きておられます。
先週の復活徹夜祭や日中の復活の主日では空になった墓を婦人たちやペトロとヨハネが確認しました。

復活の八日間の週日のミサの朗読では復活したイエスのことばが語られていました。
イエスのことばは聖金曜日の「成し遂げられた」ということばが最後のことばでした。
さて、復活したイエスはまず、婦人たちに「おはよう」と言い、マグダラのマリアには「婦人よ、なぜ泣 いているのか。誰を探しているのか」と言いました。
エマオへと失意のうちに歩いて行く二人の弟子と一緒にイエスは歩き始められ「やり取りしているその話 は何のことですか」と尋ねました。
そしてエマオから戻った弟子たちと一緒に11人の弟子たちがこれまでのことの次第を話し合っていたときに、イエスは突然現れ「あなたがたに平和があるように」と言われました。
また、漁をしていた弟子たちに「子たちよ何か食べ物があるか」と言われ、魚の取れるところを指示し、わざわざ炭火まで起こして待っていてくれました。
そして土曜日には弟子たちに向かって「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」と言われました。


今日は、隠れ潜んでいた弟子たちの真ん中にイエスが突然現れ「あなたがたに平和があるように」と言われました。
このように復活したイエスは婦人たちや弟子たちに現れて、いつもともにいることを示し励ましてくれたのでした。
今日の福音でもイエスは「あなたがたに平和があるように」ということばで話されました。
木曜日の福音でもこれと同じことばが述べられましたが、そのときは弟子たちは恐れおののき亡霊を見ているのだと思ったとあります。
今日の福音ではどうでしょう。弟子たちは部屋に鍵をかけてユダヤ人が入ってこられないようにしていました。自分たちにもどんな迫害が及ぶかもわからない。町にはイエスを支持していた残党をとらえようとしている人々がいるかもしれない。弟子たちはそう思っていたのかもしれません。一つの家に閉じこもり中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
そこに突然イエスが真ん中に現れたのです。その主を見て弟子たちはとても喜んだとあります。恐れにふるえていた弟子たちにとってイエスの存在はとても力強かったのでしよう。「あなたがたに平和があるように」とイエスは言います。
このことばは意味深いことばです。弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちに危害が加えられないようにじっとしていました。
じっとしていてすべてが過ぎ去るまで何もないように、ということが平和ではありません。おそれのうちにいるうちは何もなくても心に平和はありません。平和というのは無関心のうちに過ぎ去ることではないのです。何もなければ平和だというのは間違っています。平和はたとえ迫害されたとしても間違っていることは間違っていると主張し、正しい方向へ導くことで得られるものです。
また、復活のイエスとの出会いは弟子たちにとってゆるしの場でもあります。自分たちがユダヤ人たちにおびえ閉じこもっていたときに復活のイエスが現れ、自分たちを喜びに満たしてくださいます。それによってイエスは復活されたのだとの確信が生まれました。このとき、イエスの死から今まで神を信頼していなかった自分を悔い改めたのではないでしょうか、あらためて神との和解を弟子たちは果たすことができたのだと思います。
そしてイエスは弟子たちに聖霊を授けます。聖霊を受けてそれに突き動かされてこれから弟子たちはイエス・キリストが復活されたことを宣べ伝えて、神の愛とゆるしを説いていきます。

しかし、トマスは、この時いませんでした。もしかしたら失望して弟子たちの中から離れていこうとしていたのかもしれません。ほかの弟子たちに復活のイエスに会ったと聞かされても見なければ信じないと言います。
見なければ信じないという言葉は一見正当性があるように感じます。しかし世の中のことは本当は見てもいないのに信じていることが多いのです。ほとんどの人はニュースや言い伝えで話されていることを信じています。実際にみてもいない、その場に行ってもいないのに信じています。
神からのよい知らせである福音を聞いて信じないで、世の中のことを聞いて信じるだけではもったいないことだと思います。
トマスはほかの弟子がイエスを見たといったのを聞いて、疑いと同時に、もしかしたら自分の人生のすべてが変わるかもしれないと思って八日ののち一緒にいたのかもしれません。
イエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
「わたしの主、わたしの神よ」と。
イエスはトマスの信仰をよみがえらせてくださったのです。
イエスはわたしたちが信仰に疑いを持つようなときに、必ずわたしたちに働きかけてくださるはずです。
使徒たちの時代は復活のイエスが主の昇天まで現れていました。
そののちのすべてのキリスト者は復活のイエスを実際には見ていません。
「見ないで信じる者は幸いである」というのはイエスの祝福のことばです。
わたしたちがトマスのように「イエスよ、あなたはわたしの主、わたしの神です」と言えるようにイエスは望んでいます。
このように復活したイエスを信じることはわたしたちの生き方に関わってくることなのです。
わたしたちもトマスのように復活のイエスを信じていくことができるよう祈ってまいりましょう。』