2016年3月27日日曜日

復活の主日

主のご復活おめでとうございます!

昨夜の「復活徹夜祭」から一夜明け、主イエス・キリストの復活の朝を私たちは迎えました。


復活の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主イエス・キリストの復活の朝を私たちは迎えました。
主イエス・キリストの復活、おめでとうございます。
復活したキリストの恵みと光が皆さんの上に豊かに注がれますように、今日の日を皆さんとともに喜びお祝いしたいと思います。
そして、この喜びの中で、ミサの初めに司教様も話されていましたが、私たちの隣人に心を向けたいと思います。教会は大きな喜びを迎えていますが、その喜びを受け入れられない人々が私たちの隣人の中にいるということを。突然の悲しみに遭った人、被災された人、事故に遭った人、そうした人々は、またその家族も同様だと思いますが、喜びの日を迎えたとしても、心の悲しみや傷は癒されることなく深く重い心を抱えていると思います。そのような人々に少しでも早く、主のいつくしみや平和が訪れますように、祈りを捧げてきたいと思います。
春の雪が、聖なる三日間に舞い落ちる日がありました。でもこの季節の中での雪は、私たちは静かな心でこの雪を受け入れています。春の雪は天からの贈り物のようで厳しさを感じる雪ではありません。そして今朝は朝から、青空が広がっています。まさに復活の日曜日にふさわしい日を迎えているように感じます。この日を皆さんと共に迎えられたことを本当にうれしく思います。
教会はこの復活祭が一年の中で頂点を迎える典礼となっており、今日の日を迎えるにあたっては、教会のたくさんの方々が様々な奉仕に尽力してくださいました。連日の奉仕で疲れがみえる中、復活の喜びを心の中から消すことがないよう、そしてこの喜びを私たちのこの教会の献堂100年に向けて皆さんとともに、これからもまた歩み続けていけることができますように。
今日の聖書の言葉をもう一度振り返ってみましょう。
イエスに従う人々は12人の弟子たちの他にも、たくさんの人々がいたということを聖書は語っています。でもイエスが十字架に架かり亡くなったという現実を目の当たりにしながら、親しい人々の力ではどうすることもできない無力感を、愛する人々は感じていました。イエスに対する裁きは、残忍な姿を人目に晒す十字架の死という結果になってしまいました。イエスの死を現実にしたとき、不安に過ごしていた弟子たちやマリアを始めとする婦人たちは、遺体を引き取りに行きたくても、キリスト者に対する軋轢を考えると思い切った行動もできずにいました。自分たちも愛するイエスと同じように殺されてしまうのではないだろうかと、イエスと親しくしていた人々の心は不安で満たされていたと思います。
昨日の福音では、安息日が終わるのを待って、イエスの遺体に香料を塗るために準備をしていた婦人たちの姿も描かれていました。少しでも早くイエスの遺体を引き取りたいけれど、墓の石を自分たちの力で開けられるかどうかさえ心配し相談していたのが婦人たちでした。追い詰められて切羽詰まった時の婦人たちの強さが、聖書の中では示されています。昔もそうですが、今の時代も、また教会の中でも女性たちの力強さを私は感じます。
聖書では、あんなに愛され亡くなられる前には足を洗ってくれたイエスに対しても、男性である弟子たちの存在感は、婦人たちよりも希薄に描かれています。でも今日(こんにち)では、少し変化があるように感じます。男性と女性は昔よりも協力し合って行事をこなしているのが教会の姿かもしれません。福音では、婦人たちが弟子たちよりも早く墓に着いて、墓石を除けることが出来るかどうか不安であった婦人たちにとって、すでに墓石が取り除かれてあったことは驚きでした。一体どこに遺体はあるのか、どこに置かれたのか、遺体が無いことに婦人たちは戸惑います。弟子たちに知らせ、弟子たちは急いで墓に駆けつけました。弟子たちはイエスが死んで復活するという話を聞いてはいましたが、まだこの時は、深い理解を持つことができないまま、遺体が無いということだけは見て信じました。
イエスの遺体が無いことに戸惑う婦人たちの中で、マグダラのマリアは、弟子たちが帰った後も悲しみ暮れて泣きながらそこに留まっていました。そこに復活の主が現れてマリアに声をかけた、というのが聖書のお話になります。何故マリアだけがこんなにも悲しみ、こんなにも途方に暮れて、墓の前に留まっていたのでしょうか。だれでもイエスと深く出会った者がそうであるように、イエスの赦しにより新しい歩みを始めていたのがマリアだったのかもしれません。新しい命の道を歩み始めていたマリアは、イエスの愛によって救われた一人でした。イエスの愛によって救われていると実感できなければ、イエスの十字架の死の悲しみも薄れてしまう、そして復活の喜びもまた、深くは感じられない。
現在の私たちにとっては、復活の行事の準備で疲れ果ててしまい、復活の喜びも疲れの方が自分の心を支配してしまっているということになってしまう。私は、昨日の復活徹夜祭が終わり教会の戸締りをしている時に、そのようなことを自問自答していました。そして少し寂しい気分になっていました。でも、めげてもいられないと今朝気持ちを新たにしています。
「今日こそ神がつくられた日、この日をともに喜び祝おう」
教会は主の日を、これから50日にわたってお祝いします。復活祭から聖霊降臨まで、おおいなる50日が始まろうとしています。イエスと出会い聖霊によって主と結ばれ、新しい道を歩んでいる私たちです。一切の苦難と死の彼方には、復活の永遠の命が待っていることをもっと深く信じたいと思います。そして希望を絶やすことなく燃え立たせたい、そのように思っています。皆さんとも今日の日を心から祝いながら早く歩み出したいと思います。
十字架の死は、死の闇の中で私たちの罪を赦されました。赦しが無ければ復活もないと思います。私たち一人一人が神からの慈しみによって赦しをいただき新たにされ、日々生かされている、そのことをもっともっと心から感謝して、主の復活をともに喜びたいと思います。』


派遣の祝福の前に、司教により復活の卵が祝福されました。


御ミサが終わった後、子供たちの侍者から会衆の皆さんへ卵が手渡されました。




カテドラルホールでは、復活祭と改宗され共同体に加わられたお二人を祝して、パーティーが行われました。


参加者全員で、讃美歌を歌い祝賀会は盛り上がりました


午後から行われた英語ミサの様子です。