2017年2月26日日曜日

年間第8主日

今週の3月1日(水曜日)には灰の記念日、四旬節を迎えることになります。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『年間の季節の前半は今週で終わりです。3月1日には灰の記念日、四旬節を迎えることになります。あと僅かで四旬節という季節に入ります。2月も終わり、そういうふうに考えますと、寒い冬、長い冬はまもなく終わって春が来るなと。春が来るなと思うと復活節なんだなと、そんなことを日々の生活で感じられるようになりました。

  今日の福音の内容は皆さんもきっと、自分に言われているかのように聞いた人も多いのではないでしょうか。マタイの福音の6章は、施しのこと、祈りのこと、断食や節制、そして富についての具体的な問題が取り上げられます。まさに、四旬節の精神がたくさん、そこにちりばめられているような内容が、6章に出て来ます。
 私たちの最大の関心はどんなことでしょうか。私自身は、必ずしも命のことが最大の関心であるといいきれません。でも、自分の歳を時々考えます。それはこういう年代に入ってくると時折、身体の調子が異常をきたすような思いで、身体の変化を時々感じることがあるからです。命のことは深く考えませんが 、健康のことはよく日々考える、このごろような気がします。 皆さんもきっと命のことは深く考えないにしても、自分の健康や自分の幸せは常に考えてしまうのではないでしょうか。私たちの最大の関心事、聖書の中では命が何より大切だといわれますけれど、命よりも少し違ったほうに心が向かってしまうような気がいたします。この世に生きる者として、そして信仰者として富とか物とか物質主義的な考え方が優先したり、また完全でもないにしても、神の国とか神の義とか、見えない価値観に心を向けたりしています。
  キリストを信じる者として、聖書で述べられる世の終わりがあることを信じるところにキリスト者の信仰があるはずですが、実感が伴わなかったり希薄なために、喧噪な日々がはじめにあるような気がいたします。私自身がそういうな生活を送っていることを、今日み言葉をいろいろ考えながら、自分でそう思っています。
  この世はずっと続くと思い、現実的なことに終始してしまう自分の日常。永遠の命とか天の国にはたいして心が向かない日々を過ごしている自分。時折、様々な機会をとおしてそうしたテーマをさがすことがあります。でも、ときにそうした話しをし出しても「将来のことは言っても先のことは分かりません。」というような感じであまり関心を持たず終始してしまうこともよくあることです。とかく私たちは、自己中心的な発想からなかなか抜け出すことが出来ないようです。
  私たちの思い、私たちの現実が大切にされなければならないとはいっても、信仰者としてもっと大切なところに目を向けていくことも大事なような気がいたします。聖書にははっきりと世の終わりについて書かれています。この世の死があって、神の国を信じ、救いを信じ、永遠の命を私たちは求めます。私たちは神を信じ、信仰者としてそこ希望をもって、復活を信じているはずです。将来のこと、遠い先のことをいっても、分からないと一蹴されたとすれば、私たちの信仰は今どれほど大切にして生きているか、問われるような気がいたします。私たちは神の前に立つときがいつか必ず来ます。今、若くて健康で、将来の日が不安に感じる日がないにしても、必ずそこに向かって私たちは今生きています。神の前に立つときがいつか来る、その神の前にいつの日か立つとき、私たちは何を携えて立つことが出来るでしょうか。今日のみ言葉は、そのようなことを話されています。
 「誰も二人の主人に仕えることはできない。…神の国と神の義を求めなさい。」イエスはそう私たちに話しておられます。先週までのみ言葉では、隣人を愛し敵を憎め、そのようなみ言葉が弟子たちをとおしてまた、私たちにも語られています。「敵を愛し祈りなさい。」先週のみ言葉でした。今日は神の国と神の義を求めなさい、といわれます。
 かつて、天国に入るためにはあなたがたの義が、ファリサイ派の人や律法学者の人に勝っていなければならないということが話されていました。四旬節を前にして、私たちが自分のおごりから解放されて、私たちの弱さ、いたらなさを赦してくださる神に信頼して謙虚な心で神の前に立つことを忘れないように、したいと思います。そして、自分の健康のことが気になる日々ではありますけれど、自分の幸せだけを考えることから解放されて、神の義を求める大切さを忘れることなく、大切だと思うことを生きることが出来るように、今日もまたイエスのみ言葉に感謝し、その教えを心にとめて歩む決心をしたいと思います。

  近づく四旬節の精神を教会の伝統にあわせて、お互い思いおこしながら、私はこの四旬節の間どのような犠牲をささげ神の愛に応えていこうか思い巡らしながら、今日のミサに与りたいと思います。』