2017年3月1日水曜日

灰の水曜日

今日から四旬節が始まりました。神父様が聖水をかけて祝福した灰を額に受けました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の「灰の水曜日」から、四旬節が始まります。四旬節というのはラテン語でQuadragesima(クアドラゲシマ)と言い、40番目を意味します。カトリック教会においては、復活祭の46日前、日曜日を除くと40日前の水曜日から復活祭の前日、聖土曜日までの期間となります。四旬節は節制の精神で自らを振り返る期間であり、その間の日曜日はイエスの復活を記念する喜びの日なので、四旬節の40日にはカウントされません。

40という数字は、旧約聖書の中で特別な準備期間を表しています。例えば、モーセは民を率いて40年間、荒野を彷徨いました。ヨナは、ニネヴェの人々に40日以内に回心しなければ町が滅びると予言しました。イエスは公生活を前に、40日間荒野で過ごし断食しました。
四旬節の40日間はそのような伝統に従い、キリスト教徒にとってはイエスに倣うという意義のある準備期間となっているのです。元々は、初代教会で復活祭を前に行っていた40時間の断食のことで、受洗者たちも初聖体に備えて40時間の断食を行っていたようです。

四旬節は本来、復活祭に洗礼を受ける求道者のために設けられた期間でした。4世紀に入ってキリスト教が公認されると受洗者の数が激増して、一人一人に対しての十分な準備が行き届かなくなりました。このような状況に対処するため、従来、求道者のみに課していた復活祭の節制の期間を全信徒に求めるようになり、これが四旬節の起源といわれています。
四旬節では、伝統的に食事の節制と祝宴の自粛が行われ、償いの業が奨励されてきました。それは、祈り、断食、慈善の三つを通じた悔い改めの表明と解されます。つまり、神に対しての祈り、自分自身に対しての節制、さらに他人に対する慈善の三つが四旬節の精神であると教えられているのです。
しかし、四旬節中に食事の節制を行う慣習には実践的な意味もあるとされ、というのも、古代世界では、秋の収穫が初春になると少なくなってしまうことが多かったため、春に入る時期には食事を質素なものにして、乗り切らなくてはならなかったとも言われています。
四旬節中は、喜びを抑える時期という伝統から、カトリック教会のミサでは「栄光の賛歌」、「アレルヤ唱」が歌われず、第2バチカン公会議以降には、福音朗読の前のアレルヤ唱は「詠唱」に代わりました。また、四旬節中の金曜日には、イエス・キリストの受難を思い起こす儀式である「十字架の道行き」を子なう習慣も生まれました。

節制の意義について言いますと、四旬節中の厳格な断食の習慣は、古代末期から中世にかけて確立されました。肉はもちろん、卵、乳製品の摂取が禁じられ、一日一度しか十分な食事を摂ることができないとされました。
今日では、社会の変化により、四旬節中の節制の対象となるのは18歳から60歳までの健康な信徒となっています。今、ほっとされている方もおられたようですね(笑い)。
教会法1253条では、大斎について述べられていますが、基本的に大斎の日には一日一度十分な食事を摂り、あとの2回の食事は僅かに抑え、肉を摂らないという小斎も同時に行われる、とあります。
現行のカトリック教会法では、灰の水曜日と聖金曜日に大斎・小斎を守り、毎週金曜日には小斎を行うというのが基本的な在り方のようです。

元々、キリスト教徒にとって四旬節中の節制には、キリストの苦しみを分かち合うという意味がありました。イエス・キリストの受難と死は、人間の罪を贖うためであると考え、信者はその苦しみに少しでも与ろうとしてきたのです。しかし、そのような意義が忘れられ、義務的な節制という意識が強まってきたため、肉などの特定の食べ物ではなく、自分が好きな食べ物を節制する、あるいは自分の好きな娯楽を自粛する、節制の代わりに慈善活動を行う、といったことが行われるようになりました。
典礼の面では、四旬節は復活の祭儀を準備するために設けられているのであり、四旬節の典礼によって洗礼志願者は、キリスト教入信の諸段階を通して、また信者はすでに受けた洗礼の記念と償いの業を通して、過越しの神秘の祭儀に備えます。

四旬節の初めにあたる今日の水曜日は、断食の日とされ、その日に灰の式が行われます。今日私たちが使う灰は、旧約の時代に犠牲として捧げられた動物が灰になるまで焼き尽くされたことに由来しており、価値のないものを意味しています。
その灰を頭にかぶることは、無念さ、謙虚、悔い改めの情を表し、今日では額に灰のしるしを受ける形になっています。

四旬節は、キリストの受難を思い起こしそれに生きる期間であり、復活祭の準備の期間でもありますが、キリストの愛の教えが毎日の生活の中で実践されることこそ大切なことだと思います。皆さん、一人ひとりの上に祝福を願い、祈りを捧げてまいりましょう。』