2019年3月31日日曜日

四旬節第4主日

この日の福音朗読では「放蕩息子のたとえ」をとおして
罪人の回心と神の救いについて語られました。


この日のミサは、後藤神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『3月の最後の日は日曜日になりました。4月の1日は明日に控えていますが、新年度というイメージを私はしています。節目の時と思いますが、日本の中では学校においても新年度と言いますし、年号で言っても1月1日は大きな節目ですし、教会の典礼で言いますと待降節、新しい1年の始まり、節目となってきます。私たちはどこに重要なポイントを置いているでしょうか。
 四旬節もそういう意味では新しい年度、私たちの新しい出発というふうに考えても良いかもしれません。それは回心をもって復活祭を迎える新しい出発、教会の典礼の季節を私たちは今生きているのだと思います。今日は少し長い福音書でしたが、放蕩息子のその内容は、十分に皆さんの心の中に理解されている話ですが、何度聞いてもそれぞれに感動を受ける内容がそこにあります。私は、求道者の時に受け止めた思いとは変化してきていると思います。信者になったころは放蕩息子の姿をとおしてその回心に至る道。そして、お父さんと出会って赦されたその時の、お父さんの愛の深さにとても感銘を受けて、感動をしたりしていました。前半、中盤、そういう感動すするシーンを思いうかべていましたが、どこかで自分の思いは後半に出てくるお兄さんの心情に随分近いような気がして、感動している自分がどこかで冷めてしまう、そんな思いを良く感じていたことが思い出されます。
皆さんはどうでしょうか。放蕩息子の放蕩三昧の生活と悔い改めの道すがらお父さんに抱かれて赦されたときの姿は、本当に感動的なたとえ話です。後半のお兄さんの心情を見ているとき、何となくこの話が矛盾したり、つじつまがあわなかったり、納得出来なかったりで、そんな思い出をわった人もたくさんいるのではないでしょうか。

 灰の水曜日から始った「四旬節」から四回目の日曜日を迎えました。復活の主日までは、ちょうど真ん中にあたります。四旬節の残された日々は三週間。復活の神秘を喜びのうちに待ち望み、心を清めて歩むことを私たちは願い、祈りながら四旬節を歩んでいます。
 教皇フランシスコは今年の四旬節のメッセージの中で「備えの道を旅するように」わたしたちは招かれていると述べられています。多かれ少なかれ、人間の心に潜むおごりは、わたしたちの節度を失なわせ、欲望に従ってしまうという傾向を持って過ちを犯すことが良くあると思います。罪は悪の根源であるともいいますが、大きな過ちは神からも、人々の関係、他者からも交わりを疎外してしまう要素をもっています。そのため、教皇様は、神の恵みを取り戻すためにも、四旬節の日々は復活祭への歩みであり、悔い改め、回心、ゆるしをとおして、キリスト者としての心を取り戻す日々であるとも述べているのです。
 さて、今日のみことば第一朗読で "過越祭"を祝ったイスラエルの民が 過去の「断食」の荒野の生活の苦しみから解放され、神に導かれた新しい未来への旅立ちを表しています。新年度ではありませんが、新しい旅立ちというテーマが今日の福音のたとえ話につながります。ルカの福音書で悔い改め、回心、ゆるしをとおして神に立ち帰るという放蕩息子の姿が、過去の生活から解放され新しい出発へと浮き彫りにされています。

  教会の共同回心式でも、このルカの福音書の「放蕩息子」の聖書の話でよく使われますが、それは「ゆるしの秘跡」の重要なポイントがこのたとえ話の中にあるからです。四旬節でもありますので今日は、この聖書のことばを味わいながら、ゆるしの秘跡について話していきたいと思います。
 ゆるしの秘跡を受ける場合に大切な事を考えて見ましょう。まず、「ゆるし」をいただく前に大事なことの一つは良心の糾明です。自分の過去の行いを、自分の良心に照らして、神の前で立ち止まって考え、どんなことがあったのか、どんなことが良かったか、どんなことが反省すべき材料としてあったのか。それが良心の糾明になります。今日の福音の中で放蕩息子は「我に返って言いました。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』もう息子と呼ばれる資格はありません。」この部分が良心の糾明というテーマに繋がっています。自分の過去に犯した罪を反省し、お父さんの所へ行って(告白)言おうと家に帰ることになります。この経緯の中に、ゆるしの秘跡の中で最も大切な二番目の悔い改めと罪を避ける決心があるのです。もう同じ罪は犯したくない。お父さんははたして自分をゆるしてくれるだろうかと緊張しながら帰ってきます。三番目は、罪の告白です。緊張しつつも懐かしい家に帰ってくると、お父さんが待っていてくれ抱きしめてくれましたが、この時、告白がありました。息子は言いました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても 罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と罪を告白しています。告白があり、その上で罪のゆるしをいただくことになります。罪の告白をし赦しをいただきながら償いもいただきます(与えられます)。私たちの教会の中で行われているゆるしの秘跡の中での司祭は、ゆるしを求める人が自分の罪を悔い改め、再び神に立ち帰る決心をした者を抱擁し、ゆるす父なる神の似姿なのです。これが罪のゆるしということになります。
 司祭は償いを与えますが、償いはひとり一人違ったものですが、償いの行為はどんな意味をもっているでしょうか。信者が秘跡にまします神のみ前でたてた個人的な約束のしるしでもあり、新たな生活を始めるしるしでもあるようです。神のあわれみと恵みによって、主の平和と喜びを再び得た感謝の祈りともなるのが、この償いの祈りになります。わたしたちの四旬節の新しい歩みが、今日告げられているみ言葉から「放蕩息子のたとえ」話をとおして導かれていると思います。今日いただいたみ言葉を味わいながら、黙想しながら、私たちも新しい出発を出来るように準備が出来たらと思います。

 そういう中で改めて今日のたとえ話を思い起こします。息子の過ちを少しも問うことなく、お父さんである「父なる神」は喜びを表した、このたとえ話。子どもを温かく迎え祝ってくださる天の父は私たちのお父さんになります。神とわたしたちを見つめる事ができるのではないでしょうか。たとえ話の中でも感銘を受けます。神様の愛がいかに私たちに深い愛をもって手を差し伸べてくださっているか。どんなに私たちが過ちを犯したとしても、それを赦してまた私たちを引き上げてくださる。また、神様との新しい関係をもって歩ませてくださる。物語を読んで、触れて、感動したり、感銘したりするのですが、神はいつでも待っていてくださるということを、忘れてしまうことが多い私たちのようです。
 先週の黙想会でも場﨑神父さんは、私たちに話をしてくださっています。祈っていても、自分の都合で祈ってしまうことが多い私たち。どんなにしても私たちは一生懸命自分の信仰をもって神様に心を向けているつもりであっても、時に自己中心的に考えたり、祈ったりしていることに気づきます。祈っているようでも、神を見ていない私たちがいることもあるかもしれません。

 今日あらためて放蕩息子のたとえ話を黙想しながら、四旬節の歩みをもう一度新しい決心をもって再出発したいと思います。秘跡を大切にし清められ、喜びと希望を見失うこ とがないように、悔い改めをもって、神のもとに立ち帰る喜びを、再び私たちひとり一人が生きることが出来るようにように、ミサをとおして神の力、聖霊の力をいただきたいと思います。』