2019年6月16日日曜日

三位一体の主日

この日のミサは、当教会出身の浅井太郎司祭(名古屋教区)が共同司式され、ミサの後「キリシタン時代」の講話をしていただきました。



この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ヨハネ16章12~15節】

『このキリストの言葉の中に三位一体の神秘の一つが隠されていると思うのです。父なる神がすべてを御子であるキリストに委ねて、御子であるキリストがそのすべてを聖霊に委ね、この父と子と聖霊は同じものだと言うこと。
  「愛の喜び」という使徒的書簡を教皇様が発表されて、その中で、夫婦の絆は三位一体の似姿であると書いています。夫婦だけでなくて、愛の絆のひとつの面が、三位一体の似姿であるとしたら、同じ絆をそれぞれの人が可能性として持つことが出来るということが言えると思う。その面についてちょっとだけ紹介したいと思いますが、その愛は洗礼を受けてキリスト者となってから初めて持つわけではなくて、創造のときの神の似姿としての一面ですから、キリスト者でなくても誰でも持つことが出来るし、実現することが出来るのです。
 古い思想家がこのようなことを言っています。「人間は愛なしに生きることは出来ない。孤立して生きることは出来ないからである。」と言っていますが、創世記の最初のところで、神様は人はひとりでは生きていけない。いっしょに生きるものをあげよう。その人の絆の中で、私たちは生きれる存在となるわけです。この絆の一面がこの三位一体の絆。この愛をなくして生きられないと言っている思想家が、同時にこういうことを言っています。指導者たちは町を治めるわけですが、一番何に苦心するか。それは正義の実現ではないと言います。愛の実現だと言います。どんなに正義がいきわたっていても、その町、国が分裂していたら国はたちゆかない。政治家が一番心を砕くのが和合一致なんだと言っています。古代のギリシャの国ですから大きな国ではないです。大きな国ではないにしても分裂していたら立ちゆかなくなっていく。キリストもそう言ってます。そういう和合一致をもたらす愛のひとつの側面について、彼はこのように要約しています。キリストの言葉みたいですが、「その愛する者のために、その相手にとって最善のことを願い実現するように。自分中心ではなくて愛する者が中心である、利他的な愛です。人を愛する、隣人を愛するといっても良いでしょう。」

 そして、一番最高なことは相手がいつまでも生きることを望むことですが、同時に同じようなものを選ぶ。相手にとって最善なものは自分にとっても最善ですから同じものを選ぶ、同じ時を過ごす、同じ感情を共有する、悲しめば一緒に悲しみ、喜べば一緒に喜ぶ、それが愛だと言うのですが、別の言葉で言えば「兄弟のような愛」といっても良いかもしれません。同じものを選びながら、相手のために、相手にとって良いことを願いながら、相手のために生きる。その面はある意味で三位一体の交わり、絆のひとつの面といえる。これまでも復活節のときヨハネ福音書をとおして話してきたが、それがある意味で私たちの絆の理想的な面ではないかと思うのです。実現するかどうかは難しいかもしれない。少なくても私たちが神の似姿として創られたならば、そういう能力を持っているはずです。三位一体の持っている能力の一部は完全でないにしても持っているはず。それを実現することは全く出来ないことではない。できる限りこの三位一体の愛の交わりすべてを相手に委ね、相手のために生きる。そういう姿を私たちの内に実現する努力は必要だと思うし、出来ないことではない。ただ、私たちはあまりそれを意識していないかもしれない。 
 この共同体の中でも、少しでも実現出来るように三位一体の神に委ねるように、日々努力していく必要があると思うのです。』